門に封を
門の前は、血と獣の匂いでむせ返っていた。
閂は、真ん中から割れかけていた。兵が三人、背中で門扉を押さえている。新しい丸太を運んできた兵たちが、それを渡す隙を探していた。けれど、黒顎がぶつかるたびに門扉がたわんで、丸太を金具にはめることができない。
閣下が、門扉の合わせ目の前に立っていた。
黒顎の体当たりで合わせ目が開くたびに、灰色の鼻先が突き込まれる。閣下の剣がそれを斬り払う。合わせ目が閉じる。また開く。また斬る。閣下の外套は、もう血で黒く濡れていた。
「閣下!」
私が叫ぶと、閣下が振り返らずに怒鳴った。
「下がれ、リゼル!」
「門に、封をします!」
閣下の剣が、一瞬だけ止まった。
「合わせ目は、口です。固封をすれば、門扉は破れません。誓約書の紙が、短剣を通さなかったみたいに」
どん、と、黒顎がぶつかった。合わせ目が開き、灰牙の牙が、私の目の前で空を噛んだ。閣下の剣が、それを斬り落とした。
閣下は、私を見た。
ほんの一瞬だった。
「どこに押す」
「合わせ目の、閂の高さに。三つ数える間、門が閉じていないと」
「閉じさせる」
閣下は、門扉を押さえる兵たちに怒鳴った。
「次にぶつかってきたら、全員で押し返せ! 合わせ目を閉じて、三つ数える間、離すな!」
兵たちが、門扉に肩を当て直した。三人、五人、八人。ティムも、その中に飛び込んでいった。
私は、合わせ目の前に立った。閣下が、私と門の間に半身を入れて、剣を構える。
どん。
門扉がたわむ。合わせ目が、口を開ける。
「押せ!」
兵たちが、うめき声を上げて押し返した。門扉が、外へ戻る。合わせ目が、閉じる。
私は、鉄鍋を傾けた。
溶けた蝋が、合わせ目に流れ落ちた。琥珀色の、熱い蝋。閂の高さから、二枚の門扉の継ぎ目を埋めるように、下へ、下へと流れていく。鍋の取っ手が手のひらを焼いた。構わずに、鍋の底が見えるまで流した。
鍋を足元に落として、印章を、まだ柔らかい蝋の真ん中に押しつけた。
ひとつ。
門の向こうで、黒顎が後ずさる音がした。次の体当たりのために、距離を取っている。
ふたつ。
指先から、何かが流れ出した。瓶のときとは、比べものにならなかった。包帯のときとも。指先から、手首から、腕から、胸の奥から、身体じゅうのものが、印章を通って、門へ吸い出されていく。膝が、がくりと落ちかけた。
どん。
黒顎が、ぶつかった。
門扉が、たわもうとした。合わせ目の蝋が、引き伸ばされる感触が、印章越しに伝わってきた。
「離すなあっ!」
閣下の声。兵たちの、獣のような叫び声。
門扉が、止まった。
みっつ。
何かが、ぴたりと、入った。
◇
印章を、離した。
合わせ目の真ん中に、琥珀色の大きな封が残っていた。蝋の中に、蜂が一匹。
門扉を押さえていた兵たちが、一人、また一人と、恐る恐る肩を離していった。
どん。
黒顎がぶつかった。
門扉は、動かなかった。
たわみもしなかった。きしみもしなかった。丸太の門扉は、石の塀と同じように、そこに立っていた。
どん。どん。
黒顎が、狂ったように体当たりを繰り返した。門扉の向こうで、牙が丸太に突き立てられる音がした。がりがりと、爪で引っかく音。
塀の上から、兵が身を乗り出して叫んだ。
「傷ひとつ、ついてねえ! 牙が、丸太に入らねえ!」
兵たちが、門扉から一歩、二歩と後ずさった。誰かが、震える手で、門扉に触れた。押してみた。びくともしない。叩いてみた。石を叩いたような、鈍い音がした。
「……動かねえ」
古参の兵が、かすれた声で言った。
「黒顎が、ぶつかってるのに。門が、動かねえ」
ティムが、門扉の前にへたり込んで、琥珀色の封を見上げていた。口が開いたままだった。
兵の一人が、思わず剣の柄で、門扉の合わせ目を叩いた。こつん、と、乾いた音がした。合わせ目は、髪一本ぶんも開かなかった。
塀の上の兵たちが、門の前を見下ろして、口々に叫んでいた。何を叫んでいたのかは、聞き取れなかった。
私の耳が、遠くなっていたからだ。
◇
膝から、力が抜けた。
地面が、ゆっくりと近づいてくる。冷たい土に頬がつく、と思った瞬間、誰かの腕が、私の身体を受け止めた。
鉄と、煙と、血の匂い。深い苔色の外套。
「リゼル」
閣下の声が、すぐ耳元で聞こえた。
視界が、ぼやけていた。手のひらが、ずきずきと痛んだ。鍋の取っ手で焼いたのだ。けれど、それよりも、身体の中が空っぽになったような寒さのほうが、ずっとつらかった。
「瓶は……」
自分の声が、ひどく遠かった。
「瓶は、無事ですか。地下の……」
閣下の腕に、力がこもった。
「瓶も、君もだ」
閣下は、私を抱き上げた。軽々と、というより、壊れ物を運ぶように、そっと。
「門は持つ。塀は俺たちが守る。君は寝ていろ」
兵舎へ運ばれていく間、閣下の肩越しに、門が見えた。
どん、と体当たりの音がするたびに、門扉の向こうで獣が吠えた。
門扉は、動かなかった。
琥珀色の蜂が、松明の明かりの中で、静かに光っていた。
◇
目を覚ましたのは、夜明け前だった。
兵舎の寝台の上だった。手のひらには、包帯が巻いてあった。誰かが巻いてくれたのだろう。端に、封はなかった。
包帯の縁から、焼けた手のひらの端が少しのぞいていた。赤い火傷の縁が、ほんのわずか、黒ずみ始めていた。
ここは、森の四日の深さだ。
私は、慌てて腰の袋を探った。空だった。封蝋の棒は、一本残らず鍋に放り込んだのだ。
寝台の脇で、何かが動いた。床に座り込んで、寝台の縁に頭をもたせかけて眠っていたティムが、目をこすりながら顔を上げた。
「リゼル様……起きた……」
ティムは、ぼんやりした顔のまま、懐から何かを取り出した。
封蝋の棒だった。一本だけ。
「箱から、一本だけ抜いておきました。リゼル様、いざとなったら全部使っちゃうから」
私は、何も言えなかった。
ティムが竈の残り火で蝋を溶かしてくれて、私は左手で、右の手のひらの包帯の端に蝋を落とした。印章を押す。三つ数える。いつもの、割封。門のときのように身体が空っぽになることはなかったけれど、それでも指先が冷えた。
包帯の端に、小さな琥珀色の蜂が残った。
「一本も、無駄にさせないって言ったでしょう」
ティムは、得意そうに鼻をこすった。それから、何か思いついたような顔をして、先に兵舎を出ていった。
外が、静かだった。
寝台から下りると、足がふらついた。壁に手をついて、兵舎の外へ出る。
塀の上では、兵たちが槍にもたれて、座り込んでいた。眠っている者もいる。塀の外には、灰牙の死骸がいくつも転がっていた。けれど、生きているものの気配は、なかった。
「夜明け前に、引いていきました」
塀の上から、古参の兵が教えてくれた。
「門の前で、最後まで暴れてましたがね。門が開かねえと分かったら、森の奥へ。塀も、なんとか持ちました。死んだ者は、いません」
死んだ者は、いない。
私は、門のほうを見た。
東の空が、白み始めていた。最初の光が、塀の上から差し込んで、門扉の合わせ目に届いた。
琥珀色の封が、朝の光を受けて、光っていた。
その前に、ティムがしゃがみこんでいた。剣の先で、門の脇の石に、何かを刻んでいる。
近づくと、ティムは振り返って、照れたように笑った。目の下に、真っ黒な隈ができていた。
石には、こう刻まれていた。兵舎の奥の、二百年前の落書きの文句の、その続きのように。
――群れの夜も、門は持った。




