群れの夜
三度目の遠征は、四十人だった。
荷車には、瓶のほかに、丸太と板と釘と、屋根を葺くための木の皮が積み上げられた。荷車が入れるのは引き返しの岩まで。そこから先は、兵が丸太を二人で担ぎ、馬に板を積んで運んだ。
今度は、私も封蝋の棒をひと箱持った。救援の帰りに二本しか残らなかったのが、自分でも怖かったのだ。ティムが、その箱を自分が運ぶと言って聞かなかった。脚の傷はもう、包帯がいらないほど治っていた。
「蝋の番は、俺がやります。一本も無駄にさせません」
「無駄にはしないわよ」
「リゼル様は、いざとなったら全部使っちゃうじゃないですか」
言い返せなかった。
四日目の昼に、第四哨所跡に着いた。前に倒した黒顎の骨が、門の前に白く散らばっていた。ほかの魔物が片付けたのだろう。
◇
その日から、兵たちは休まずに働いた。
崩れた塀の石を積み直し、隙間に土を詰める。兵舎に丸太の梁を渡し、木の皮で屋根を葺く。井戸に新しい釣瓶をつける。朽ちて落ちていた門は、丸太を組んで、新しい門扉を二枚作った。左右から閉めると、真ん中でぴたりと合わさる。内側に、太い閂を一本渡す。
門の脇には、人が一人、身をかがめて通れるだけの潜り戸も作った。
「大きな門は、荷を入れるときだけ開ける。ふだんの出入りは、潜り戸だ」
閣下が、兵たちに言い渡した。
私は、地下の貯蔵庫に、運んできた瓶を並べた。二百年前の開かない瓶の棚の、空いているところに。
緑がかった古い瓶の列の隣に、私の瓶が並んでいく。古い琥珀色の封と、新しい琥珀色の封。蜂と葉の輪と、蜂一匹。
並べ終えて、ランプを掲げて棚を見渡したとき、胸の奥が、少しだけ熱くなった。
二百年前の誰かと、同じ棚に瓶を並べている。
石段を下りてくる足音がした。閣下だった。ランプの明かりの中で、二つの封の列をしばらく見比べていた。
「雪で森が閉じるまで、ここに二十人を置く。瓶は足りるか」
「十日ごとに、砦から運べば足ります。荷車は岩まで、そこから先は背負って二日半。運ぶ瓶は、もう腐りませんから」
言ってから、自分で少し驚いた。運び手の継ぎ足しは、二日の深さより先では一度も届かなかったと、副団長は言っていた。それはもう、昔の話になったのだ。
「二百年前の人たちも、そうやって運んでいたんですね。蜂の瓶を」
「たぶんな」
閣下は、開かない瓶の一つに、手袋の指でそっと触れた。
「その人たちが運べなくなった理由も、いつか分かるだろう」
◇
二日目の夕方、兵舎の壁の落書きを、ランプで一つずつ見て回った。
前に来たときは、「蜂の瓶」の文句に気を取られて、ほかの字をよく読んでいなかった。名前。故郷。女の人の名前と、下手な花。
兵舎の一番奥、梁の陰になっていたところに、もう一つ、字があった。ほかの字より深く、何度もなぞったように刻まれていた。
――群れの夜は、門が持たない。
私は、ランプを持ったまま、しばらくその字を見ていた。
「群れの夜って、何でしょう」
隣で、ティムが言った。
「分からない。でも……」
二百年前、この哨所は捨てられた。大崩れの年に。魔物が森から溢れた年に。
私は、閣下にその字を見せに行った。閣下は長いこと字を見つめて、それから、黙って門のほうを振り返った。新しい丸太の門扉と、太い閂。
「今夜から、見張りを倍にする」
◇
その夜だった。
最初は、音だった。
森の奥から、地の底を揺するような、低い音が近づいてきた。足音だと気づいたのは、それが一つではないと分かってからだった。何十、何百という足が、森の地面を叩いている。
見張り塔の兵が、笛を吹き鳴らした。
塀の上に駆け上がった兵たちが、北の暗がりを見て、言葉を失った。
光る目が、森を埋めていた。
灰牙だった。前に見た群れとは比べものにならない数の灰牙が、木々の間から湧き出すように現れて、塀の周りを取り巻いていく。その後ろに、ひときわ大きな黒い影が、いくつも。黒顎だった。三頭、四頭、もっと。
「全員、塀へ! 槍を落とすな!」
閣下の声が、夜を裂いた。
灰牙の群れが、塀に飛びかかった。積み直したばかりの石に爪を立て、仲間の背を踏み台にして、塀の上へ這い上がってくる。兵たちが槍で突き落とす。落とされた灰牙の上に、次の灰牙が跳ぶ。
そして、門に、黒顎がぶつかった。
どん、と、地面が揺れた。
丸太の門扉が、内側へたわんだ。閂が、きしんだ悲鳴を上げた。門の内側を押さえていた兵たちが、足を踏ん張って押し返す。
どん。
二頭目の黒顎だった。門扉の真ん中の合わせ目が、指一本ぶん開いた。その隙間から、灰色の鼻先が突き込まれる。兵が槍で突き返す。
どん。
閂に、ひびが入る音がした。
閣下が塀から飛び降りて、門の前に立った。隙間から入ろうとする灰牙を、一太刀で斬り落とす。
「閂を押さえろ! 丸太を持ってこい、もう一本渡す!」
兵たちが丸太を運んでくる間にも、黒顎は門にぶつかり続けた。どん。どん。閂のひびが、広がっていく。
群れの夜は、門が持たない。
二百年前の誰かは、この門の前で、同じ音を聞いたのだ。
私は、兵舎の入り口に立って、門を見ていた。足が震えていた。何かしなければと思うのに、私には剣も槍もない。
二枚の門扉。真ん中で合わさる、合わせ目。
黒顎がぶつかるたびに、その合わせ目が、口を開けるように開いて、また閉じる。
口。
――閉じた形になっている物なら、その合わせ目にだけ効く。
瓶の口。包帯の合わせ目。誓約書の、畳んだ紙の合わせ目。
門の、合わせ目。
あの門扉は、口だ。
固封をすれば、あの門扉は、刃も牙も通さなくなる。誓約書の紙が、短剣を通さなかったように。二百年前の瓶が、槌を通さなかったように。
けれど、あんなに大きなものに、封をしたことはない。瓶とも、包帯とも、比べものにならない。どれだけの蝋がいるのか。どれだけの力がいるのか。
考えている間にも、閂のひびが広がっていく。
「ティム! 蝋の箱を!」
ティムが、兵舎の奥から、封蝋の棒の箱を抱えて飛んできた。
「全部使うんですか!」
「全部よ!」
私は竈の上の鉄鍋をつかみ、箱の中の棒を、一本残らず鍋に放り込んだ。竈の火にかける。蜜蝋の甘い匂いが、血と獣の匂いの中に立ちのぼる。棒の形が崩れて、琥珀色の液に変わっていく。
どん。
閂の割れる音がした。
私は、溶けた蝋の鍋を両手で抱えた。鍋の取っ手が熱い。構わなかった。
門へ、走った。




