書いて残すこと
砦に戻ったのは、岩を発って三日目の夕方だった。
岩を発つ前に、副団長が出した二陣が、空の荷車と瓶を運んできてくれた。救援の瓶だけでは帰りの分が足りないことを、副団長は数えていたのだ。
荷車と担架の列は、ふだんの倍の時間がかかった。瓶を食べた王都の兵の多くは、昼までに自分の足で立てるようになっていた。歩けない仲間を荷車に乗せ、荷車に乗りきらない者は担架で担ぎ、辺境の兵が前と後ろを固めた。休むたびに、私とヨストさんは荷車と担架の間を回って、胸の動きを確かめた。包帯の封を割って、傷を見て、新しい包帯にまた封をした。
重い三人のうち、二人は、森を出るころに、少しずつ息が深くなった。
一人は、深くならなかった。
王都の兵で、ルッツという名だった。十九歳だと、同じ荷車に乗っていた兵が教えてくれた。私と同じ年だった。荷車の上で、目を閉じたまま、浅い息を繰り返していた。ヨストさんが、ずっとその横を歩いていた。
砦に着いた次の朝、ルッツは、息をするのをやめた。
ヨストさんが、私を呼びに来た。私が行ったときには、もう、胸は動いていなかった。
ヨストさんは、ルッツの手を胸の上で組ませながら、静かに言った。
「瓶の毒は、待ってくれんかったですな。森の傷と、同じで」
私は、何も言えなかった。
ルッツは、その日のうちに、砦の裏の墓地に葬られた。森で死んだ辺境の兵たちが眠る場所だった。閣下が、王都の兵も辺境の兵と同じ場所に、と言ったのだ。
葬りが終わって、みんなが墓地を離れたあとも、一人だけ、白い制服が残っていた。
エーリク様だった。
肩に包帯を巻いたまま、新しい土の盛り上がりの前に、ずっと立っていた。何をしているのかは分からなかった。祈っているようにも、ただ立っているだけのようにも見えた。
私は、墓地の入り口で、それを少しだけ見ていた。
それから、瓶蔵へ戻った。
◇
その日の午後、瓶蔵の机で、私は祖母の帳面を開いた。
最初の頁の、祖母の字。決まりを守らない瓶は、毒になる。その余白に、私は自分の字で書き足した。
――王都騎士団の瓶。牛の肉と豆を脂で煮込み、酢なし、湯で煮て、書記局の封。森に入って三日目の夜に食べ、四日目の昼から倒れた者が出た。十五人。物が二重に見え、まぶたが下がり、むせ、舌がもつれ、熱はなかった。横向きに寝かせ、息を見守った。三人が重く、そのうち一人が、森に入って九日目の朝、砦で亡くなった。
日付と、場所と、名前を書いた。ルッツ。十九歳。
祖母も、若いころ、こうして誰かの名前を書いたのだろうか。だから、最初の頁に、あの一行を書いたのだろうか。
帳面を閉じると、指先が冷たかった。火鉢に手をかざしても、なかなか温まらなかった。
森から持ち帰った小さな木箱は、瓶蔵の棚の一番上に置いた。毒の出た瓶が、日付と場所の札と一緒に、私の固封の中に入っている。誰も手を触れないように、箱の前に紙を一枚貼った。開けるな。
◇
夕方、ハースさんが瓶蔵を訪ねてきた。
「王都への報告を、書かせていただきます」
ハースさんは、机の前に立ったまま言った。
「中隊長が、メーレン嬢の警告を受け取り、それを退けたこと。警告を退けて用いた王都の瓶で、兵が倒れたこと。辺境の瓶と封で、兵が救われたこと。一人が亡くなったこと。全部、そのまま書きます」
「ハースさん、それでは、中隊長が」
「自分は、中隊の副官です。中隊長の副官ではありません」
ハースさんは、少しだけ口の端を上げた。初めて見る顔だった。
「辺境伯閣下に、メーレン嬢の警告の写しをお願いしました。報告に添えます」
その夜、閣下はハースさんに、私の固封をした二通目の警告書を渡した。琥珀色の封の上に、閣下の手で、辺境伯の封がもう一つ並べて押してあった。誰も開けず、誰も書き換えられないまま、王都へ運ばれる記録として。
◇
次の朝、王都隊は砦を発つことになった。
出発の前、王都の兵たちが、瓶蔵の前に並んだ。
何をするのかと思って出ていくと、先頭の兵が、私に向かって頭を下げた。その後ろの兵も、その後ろの兵も。白い制服が、一列に、波のように下がっていった。
「台所の女と言って、申し訳ありませんでした」
先頭の兵が言った。森で、最初に瓶の封を割った、あの若い兵だった。
私は、なんと答えればいいのか分からなくて、ただ頭を下げ返した。
兵たちは、それから瓶蔵の入り口の壁の前に集まった。私の貼った、祖母の決まりの紙。一人が手帳を出して、それを書き写し始めた。もう一人も。字の書けない兵は、書ける兵に読んでもらって、口の中で繰り返していた。
瓶に入れてよいのは、酸いもの、塩の強いもの、乾いたものだけ。
エーリク様は、その列にいなかった。
白馬の横で、肩に包帯を巻いたまま、誰とも目を合わせずに立っていた。私の封をした包帯の端が、制服の裂け目からのぞいていた。
出発の合図がかかると、エーリク様は黙って馬にまたがった。一度も、こちらを見なかった。何も、言わなかった。
私も、見送らなかった。
瓶蔵に戻って、次の瓶の封をした。
◇
その夜、瓶蔵の扉が、遠慮がちに叩かれた。
開けると、ウルスラさんが湯気の立つ鍋を抱えて立っていた。後ろに、ヤーナと、ティムと、ヨストさん。
「嬢ちゃん、晩飯をろくに食べてないだろう。酢のスープだよ。あんたの酢で作った」
ウルスラさんは、私の机の上の帳面をどかして、勝手に鍋を置いた。ヤーナが椀を並べ、ティムが匙を配った。
「リゼル様、蝋、何本残りました?」
ティムが、私の腰の袋を覗き込んだ。
「二本」
「帰りの分、ちゃんと残ってた!」
ティムが、なぜか自分のことのように胸を張った。
スープは、酸っぱくて、温かかった。根菜が柔らかく煮えていて、少しだけ蜂蜜の甘さがあった。ウルスラさんの工夫だろう。
ヨストさんが、椀を両手で包みながら、ぽつりと言った。
「嬢ちゃん」
初めて、そう呼ばれた。
「あの若いのは、嬢ちゃんのせいやない。嬢ちゃんが書いた紙がなかったら、十五人のうち、何人が残ったか分かりません」
私は、椀の中のスープを見つめた。
「……はい」
うまく声が出なかった。ヤーナが、黙って私の椀にスープを足した。
扉が、もう一度開いた。
閣下だった。
閣下は、狭い瓶蔵の中を見回して、空いている場所がないのを見ると、入り口の壁にもたれて立った。ウルスラさんが、何も言わずに椀を一つ渡した。閣下は立ったまま、それを飲んだ。
一番後ろで、黙って、最後の一滴まで。
椀を空にしてから、閣下は私を見た。
「第四哨所跡に、人を置く」
瓶蔵の中が、静かになった。
「三度目の遠征だ。木材と瓶を運んで、塀と門を直す。雪で森が閉じるまで、二十人を置く」
閣下は、空の椀を、ウルスラさんに返した。
「君の瓶なら、置ける」




