割ってお食べください
岩の向こうの木々の間に、灰色の影がいくつも動いていた。
灰牙だった。倒れた王都隊を遠巻きにして、輪を縮める機をうかがっている。
「槍、前へ」
閣下の声で、辺境の兵たちが背負い袋を下ろし、槍をそろえて岩の脇へ出た。灰牙の群れが、新しく現れた二十本の槍に気づいて、唸り声を上げる。閣下が一歩前に出ると、先頭の一頭が、牙をむいたまま後ずさった。朝の光の中では、灰牙は夜ほど強気にならない。やがて群れは、一頭、また一頭と、森の奥へ消えていった。
私は、岩の下へ走った。
◇
ひどい有様だった。
白い制服の兵たちが、焚き火の跡の周りに、横たわったり、座り込んだりしていた。百人のうち、まともに立っているのは半分ほどだった。立っている兵も、槍にすがるようにして、ようやく立っていた。座り込んだ兵の多くは、飢えと疲れで、立ち上がる力が残っていなかった。
まぶたの下がった兵がいた。口の端からよだれを垂らして、うまく閉じられない兵がいた。噛まれた腕を抱えて呻いている兵がいた。その腕の傷は、縁が墨を落としたように黒かった。
辺境の道案内の古参兵が、私たちを見つけて、膝から崩れるように座り込んだ。
「……来てくださったか」
「狼煙が見えました。よく上げてくださいました」
私は、古参兵の手を一度だけ握って、すぐに立ち上がった。
まず、瓶だ。
「王都の瓶を、全部ここへ集めてください。開けたものも、開けていないものも、全部」
辺境の兵たちが、王都隊の背負い袋から瓶を集めて、私の前に並べた。赤い封蝋の瓶。半分以上が、中が黒かった。黒くない瓶の中にも、栓がわずかに持ち上がって、赤い封蝋にひびの入ったものがあった。
私は、一つずつ瓶を手に取って、振り分けた。
黒い瓶。捨てる。栓の浮いた瓶。開けずに、捨てる。肉と豆の瓶。黒くなくても、栓が浮いていなくても、捨てる。
「穴を。深く」
辺境の兵が二人、岩から少し離れた場所に穴を掘り始めた。
捨てる瓶の中から、一つだけ、私は手元に残した。栓がいちばん大きく持ち上がって、封蝋が三つに割れかけている瓶だ。
背負い袋から、小さな木箱を出した。瓶蔵で、包帯を入れてきた箱だった。包帯を出して、代わりにその瓶を藁で包んで入れる。手帳の頁を一枚破って、日付と、場所と、何の瓶かを書き、瓶の脇に挟んだ。
蓋を閉じて、合わせ目に蝋を落とす。印章を押して、三つ数える。固封。
「お嬢さん、それは」
ヨストさんが、包帯を洗いながら私の手元を見た。
「祖母の帳面に、毒の出た瓶は記録に残せとあったので」
ヨストさんは、それ以上は聞かなかった。
◇
次は、人だった。
私はヨストさんと二人で、倒れた兵の間を回った。物が二重に見えると言う兵。まぶたが上がらない兵。水を飲もうとしてむせる兵。熱のある兵は、いなかった。
「この人も、瓶の毒です。横向きに寝かせて。顔を少し下に。吐いたものが喉に詰まらないように」
副官のハースさんが、もう同じことを兵たちにさせていた。けれど、手が足りていなかった。辺境の兵を一人ずつ、倒れた兵の横に付けた。息を見ていてください。胸が動いているか。動きが弱くなったら、名前を呼んで、私かヨストさんを呼んで。
十五人いた。そのうちの三人は、もう言葉が出なかった。胸の動きが、浅く、遅かった。
ヨストさんが、その三人の横に、自分で座った。
噛まれた兵は、十一人だった。ヨストさんが傷を酒で洗い、縫えるものは縫い、新しい包帯を巻く。私がその端に蝋を落とし、印章を押し、三つ数える。割封。一人、また一人。黒くなりかけた傷の上に、琥珀色の蜂が増えていく。
封をされた兵が、包帯の上の蜂の紋を、ぽかんとした顔で見ていた。
◇
最後に、食べ物だった。
辺境の兵たちが、背負ってきた瓶を地面に並べた。琥珀色の封蝋の瓶。三百ほど。
私は、座り込んでいる王都の兵の前に、一つずつ瓶を置いていった。
「封を割って、お食べください。指で押せば、割れます」
若い兵が、震える指で、封蝋の縁を押した。ぱきり、と小さな音がした。コルクを抜く。酢の匂いが立った。
兵は、瓶の中を覗き込んだまま、動かなくなった。
茶色い肉と、橙色の根菜。黒いところは、どこにもない。
兵は、指で肉をつまんで、口に入れた。噛んで、飲み込んで、それから、顔をくしゃくしゃにした。
「すっぱい……」
泣いていた。黒くない瓶を百人で分け合って、この二日、ほとんど何も食べていなかったのだ。
あちこちで、封蝋の割れる小さな音がした。ぱきり。ぱきり。手を伸ばして瓶を受け取る兵。両手で瓶を抱えて、すすり泣きながら食べる兵。隣の、まだ飲み込める力の弱い兵の口元へ、自分の瓶の汁を匙で運んでやる兵。
誰かが、ぽつりと言った。
「台所の女って、言ったよな。俺たち」
誰も答えなかった。答える代わりに、みんな、黙って瓶の中身を食べていた。
◇
岩のいちばん近くに、エーリク様が座り込んでいた。
白い制服の肩が裂けて、血の跡がこびりついていた。まぶたが、少しだけ重そうに下がっている。肉の瓶を、少しだけ食べたのだろう。立とうとして、立てずにいるようだった。
私は、ほかの兵と同じ順番で、エーリク様の前に来た。
肩の傷を見る。かすり傷だけれど、縁が黒い。
「ヨストさん。こちらも、洗ってください」
ヨストさんが、エーリク様の肩の傷を酒で洗った。エーリク様は呻いたけれど、何も言わなかった。包帯が巻かれる。私は、その端に蝋を落として、印章を押した。三つ数える。
ほかの十一人と、同じように。
それから、瓶を一つ、エーリク様の前に置いた。
エーリク様は、目の前の瓶を見下ろしていた。琥珀色の封蝋。蜂の紋。
婚約していたころ、誕生日に贈ったのと同じ紋だった。
「……お前の瓶か」
かすれた声だった。
「辺境騎士団の糧食です。中隊長」
私はそう言って、立ち上がった。次の兵が、待っていた。
背中で、封蝋の割れる音がした。ぱきり、と。
私は振り返らなかった。
◇
ハースさんが、私の前に来た。
制服の胸の内から、一枚の紙を取り出した。何度も読み返したらしく、折り目が擦り切れていた。私の書いた、警告の紙だった。
ハースさんは、その紙を両手で持って、王都の兵たちの前で、私に深く頭を下げた。
「メーレン嬢。この紙のおかげで、助かった兵がおります。……書いてくださったのに、守らせることができなかった。申し訳ない」
王都の兵たちが、ハースさんの後ろで、一人、また一人と頭を下げた。
閣下は、何も言わなかった。
岩の脇に立って、座り込んだエーリク様を、しばらく見下ろしていた。その目に何が浮かんでいたのか、私の位置からは見えなかった。
やがて閣下は、エーリク様に背を向けた。
「撤収する。歩ける者は自分で歩け。歩けない者は、岩に置いてある荷車に乗せろ。足りない分は担架を作れ」
辺境の兵たちが、木の枝を切り始めた。
ヨストさんが、言葉の出なくなった三人の横から立ち上がって、私のところへ来た。白い眉の下の目が、暗かった。
「重いのが、三人。砦まで持つかどうかは、今夜次第ですな」




