狼煙
知らせが来たのは、瓶蔵で朝いちばんの封をしているときだった。
扉が乱暴に開いて、見張りの兵が転がり込んできた。息が切れて、しばらく言葉にならなかった。
「の、狼煙です! 北の、森の中! 第二哨所のあたりから、一本!」
私の手から、封蝋の棒が落ちた。
拾い上げるより先に、副団長が瓶蔵に入ってきた。見張り塔から、まっすぐ駆けてきたらしい。
「荷を出せ」
副団長は、棚の下段を指さした。王都隊が森へ入った日に兵に詰めさせた木箱が、そこに並んでいた。瓶と、洗った包帯の束と、ヨストさんの革の鞄。
「どうせ戻ってくると言ったろう。戻ってこられなかったわけだ」
副団長の声は、怒っているようにも、ほっとしているようにも聞こえた。
王都隊が森に入ってから、この砦の台所は、休まずに瓶を詰め続けていた。次の遠征のためだと、副団長は言っていた。けれど、私は知っていた。副団長は、王都隊の荷車の瓶を見た日から、ずっとこの朝のことを考えていたのだ。
棚には、封をした瓶が三百ほどあった。
◇
中庭に、閣下が出てきた。
もう外套を着て、剣を腰に下げていた。兵たちが集まってくる。閣下は一人ずつ顔を見て、名前を呼んでいった。
「二十人。足の速い者だけだ。荷車は使わない。全員、背負って走る」
名前を呼ばれた兵が、黙って木箱の前に並び、瓶を背負い袋に詰め始めた。一人十五。藁で一本ずつ包む暇はない。布の端切れで、瓶と瓶の間を詰めていく。
「私も、行きます」
閣下が、こちらを見た。
中庭が、少し静かになった。
「瓶の毒は、見分けがつくのが私だけです。包帯に封をできるのも、私だけです。王都隊の瓶も、どれが捨てるべき瓶か、私が見ないと分かりません」
閣下は、私の顔を長いこと見ていた。
一度だけ、首を振りかけた。
それから、その動きを途中で止めた。
「……俺の隣だ」
「はい」
「走れるか」
「走ります」
閣下はうなずいて、兵たちに向き直った。
「ヨスト。お前も来い。遅れたら、俺が担ぐ」
「若に担がれるのは、四十年早いですな」
ヨストさんが、革の鞄を肩にかけながら言った。
◇
部屋に戻って、私は乗馬用の短い外套に着替え、封蝋の棒をありったけ腰の袋に詰めた。祖母の帳面と、印章。小さな蝋燭と、火打ち。
ヤーナが、背負い袋に私の着替えと乾いた布を詰め込みながら、ずっと怒っていた。
「あの方のために、お嬢様が森を走るんですか。あの夜会の、あの方のために」
「あの方のためじゃないわ」
「じゃあ、誰のためです」
「お腹を空かせて、傷の腐りかけた人が、森の中に百人いるの」
ヤーナは、手を止めて私を見た。
「誰の隊かは、関係ないの。あの方とのことは、もう封をしたから」
ヤーナの手が止まった。少しして、背負い袋の口を、ぎゅっと縛った。
「お嬢様。もし向こうで、あの方がまた何か失礼なことを言ったら」
「言ったら?」
「瓶で殴っていいですか」
「瓶がもったいないわ」
ヤーナは、泣きそうな顔で、少しだけ笑った。
◇
中庭に戻ると、ティムが閣下の前で、片脚を引きずりながら食い下がっていた。
「団長、俺も行きます! 瓶、運べます!」
「その脚で走れるか」
「……走れません」
「なら、砦にいろ。お前が森で倒れたら、リゼルの蝋が一本減る」
ティムは唇を噛んで、それから私のほうを見た。
「リゼル様。蝋、減らさないでくださいね。帰りの分も」
「ええ。ちゃんと残して帰るわ」
ウルスラさんが、台所から布包みを抱えて走ってきた。
「行きの分の丸パンだよ。森に入って一日目なら、まだ食えるだろ。瓶は、向こうの奴らの分に取っときな」
兵たちが、一人ずつ丸パンを受け取って、懐に入れた。
門が開いた。
門の脇で、副団長が腕を組んで立っていた。閣下が門を出るとき、副団長は低い声で言った。
「団長。全員、連れて帰ってください。うちの二十人と、リゼル殿と、ヨストの爺さんと」
それから、少し間を置いて、苦い顔でつけ足した。
「……王都の連中も、な」
◇
森の縁までは、走った。
森に入ってからは、走れなかった。根が這い、石が転がる古い道を、閣下を先頭に、二十人と私とヨストさんが、早足で進んだ。荷を背負った兵たちの息が、白く曇る。
閣下は、約束どおり、一歩も私の隣から離れなかった。私が石につまずくと、振り返りもせずに腕を伸ばして、私の肘を支えた。
日が暮れても、閣下は隊を止めなかった。
「狼煙を上げたということは、自分たちでは戻れないということだ」
閣下は、暗くなった森の中で、ランプを掲げながら言った。
「夜を越せない、ということだ」
十年前の、閣下の父君の隊のことを思った。怪我人を抱えて、岩まで戻れなかった隊。
私は、背負い袋の重さを確かめて、黙って歩いた。
遠くで、灰牙の遠吠えが聞こえた。一度、二度。兵たちが槍を握り直したけれど、群れは近づいてこなかった。どこか別の場所に、もっと弱った獲物がいるのだ。そう思った途端、足が勝手に速くなった。
夜半に一度だけ、短い休みをとった。
水筒の水を飲んでいると、隣に座った若い兵が、遠慮がちに口を開いた。
「リゼル様。王都の中隊長って、リゼル様の……その、夜会の」
「ええ」
「あんなこと言われたのに、助けに行くんですか」
兵は、責めているのではなかった。本当に分からないという顔をしていた。
「あの方に言われたことと、森で倒れている人たちのお腹が空いていることは、別のことだから」
兵はしばらく考えて、それから、ふうん、と息を吐いた。
「俺なら、瓶で殴ってますね」
近くにいた兵たちが、声を殺して笑った。ヤーナと同じことを言う、と私は思った。ウルスラさんの丸パンを、歩きながらかじった。それから、また歩いた。
足の裏が痛かった。腰の袋の封蝋の棒が、一歩ごとにかちかちと鳴った。誰も、何もしゃべらなかった。
◇
空が白み、森の中に灰色の光が差し込んできた。
二日目の朝。いつもなら、引き返しの岩まで、まだ半日はかかる。けれど夜通し歩いた隊は、もう岩のすぐ手前まで来ていた。
先頭の兵が、手を挙げた。
閣下が、ランプを消した。
木々の向こうに、苔むした大岩が見えた。引き返しの岩。
その岩の下に、白いものが、いくつも転がっていた。
白い制服だった。泥と血にまみれて、地面に倒れている。動いているものもいる。動かないものもいる。
焚き火の跡から、細い煙が、まだ立ちのぼっていた。




