四日目の黒(エーリクside)
引き返しの岩は、思っていたより小さかった。
苔だらけの大岩と、腰の高さの石の柱。柱には「第二哨所まで半日」と古い字が刻んである。百年以上、辺境の兵がここで引き返してきたのだという。
私は、石の柱を軽く蹴った。
「これが、田舎者たちの百年か」
後ろで、部下たちが笑った。辺境の道案内の古参兵が二人、黙ってこちらを見ていた。
「中隊長。荷車はここまでです。この先は、道が細くなる。荷は背負っていただくしかない」
道案内の一人が言った。私はうなずき、荷車の瓶を兵たちに分けさせた。一人四日分。帰りの分は、第四哨所跡で手柄を立ててから考えればいい。辺境の連中も、行きの荷で帰ってきたのだ。
二日目の夕方には、第二哨所跡に着いた。門柱の根元に、辺境の兵が刻んだ落書きがあった。「ここまで来た」。その下に、八つの名前。最後の一つは「リゼル」だった。
私は、その名前の上に、剣の先で線を引いた。
ハースが何か言いたそうな顔をしたが、何も言わなかった。
◇
三日目の朝、兵たちが堅パンの袋を開けて、騒ぎ始めた。
「中隊長! パンが……」
黒かった。袋の中のパンも、塩漬けの肉も、炭のように黒く崩れていた。焦げたような、乾いた匂いが鼻を突いた。
兵たちの顔が青ざめた。私は、笑ってみせた。
「だから、瓶がある。これが王都の備えだ」
瓶を開けさせると、赤い封蝋がぱちりと割れて、中から脂の匂いがした。茶色い煮込みは、王都で詰めたときのままに見えた。兵たちは安堵の声を上げ、私は部下たちの顔を一人ずつ見た。不安が消えていくのを、数えるように確かめた。
その日は、第三哨所跡まで進んだ。塀はほとんど崩れていたが、門柱に「第三哨所」の字があった。三日目に、三日の深さ。辺境の連中が二度目の遠征で通った場所に、王都騎士団は一度目で着いた。
夜、瓶の煮込みを温めて食べた。牛の肉と豆を、脂でやわらかく煮込んだもの。王都の料理長の味だった。酢の匂いのしない、まともな飯だ。
「あの女の瓶は、酢で酸っぱいと辺境の兵が言っていた」
私が言うと、兵たちは笑いながら、二杯目をよそった。
◇
四日目の朝、天幕の外で、兵の叫び声がした。
出てみると、兵たちが、背負い袋から出した瓶を地面に並べて、立ち尽くしていた。
瓶の中身が、黒かった。
全部ではない。並んだ瓶の、半分ほど。ガラスの向こうで、茶色だったはずの煮込みが、パンと同じ炭の色に変わっている。赤い封蝋は、割れていなかった。封をしたまま、中だけが黒くなっていた。
「どういうことだ」
私は、雇った書記の二人を呼んだ。二人とも、顔が真っ白だった。
「わ、分かりません。封は、確かに――」
「封は割れていない。なのに、中が黒い。どういうことだと聞いている」
書記の一人が、震える声で言った。
「書記局の封は……開けたことが分かる封で……森の気を止めるものかどうかは、試したことが……」
台所の女の声が、耳の奥で聞こえた気がした。赤い封は、開けたことが分かるだけの封です。森の気を止めません。
私は、その声を振り払った。
「黒くない瓶を数えろ。それで足りる」
足りなかった。黒くない瓶は、百人の二日分に届かなかった。第四哨所跡まで、あと一日。帰りに四日。
道案内の古参兵が、黙って私を見ていた。部下たちも、私を見ていた。私は、何十もの目が自分に集まっているのを、生まれて初めて、数えたくないと思った。
「……第二哨所跡まで、戻る」
自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。
◇
昼を過ぎたころ、最初の兵が、私のところへ来た。
「中隊長……目が、おかしいんです。物が、二つに見えて」
その兵のまぶたが、重そうに半分下がっていた。熱はないかと額に手を当てさせると、冷たかった。
「森酔いでしょう」
書記の一人が、すがるように言った。
「森の気にあたったのです。休めば治ります」
第二哨所跡の塀が見えるころには、同じことを言う兵が十人を超えていた。物が二重に見える。まぶたが上がらない。水を飲もうとして、むせる。舌がもつれて、言葉が聞き取れない。
どの兵も、熱はなかった。
ハースが、私の天幕に入ってきた。手に、一枚の紙を持っていた。あの女の手紙だった。
「中隊長。読んでください」
「後にしろ」
「今、読んでください」
ハースは、私の目の前に紙を突き出した。三十五の、兵から叩き上げた男が、二十四の私に向かって、声を荒らげていた。
「物が二重に見える。まぶたが下がる。飲み込めない。言葉がもつれる。熱は出ない。森酔いとは違う。――全部、書いてあります。倒れた兵は、全員、ゆうべ肉の瓶を食べた者です」
私は、紙を払いのけた。紙は天幕の床に落ちた。
「台所の女の手紙を、騎士が真に受けるな」
ハースは、床の紙を拾い上げた。何も言わずに、胸にしまった。そして天幕を出ていった。
外で、また兵の倒れる音がした。
ハースが、兵たちに何か指示をする声が聞こえた。横向きに寝かせろ。吐いたものが喉に詰まらないように。息を見ていろ。
あの女の手紙の、五番目に書いてあったことだった。
◇
夜、灰牙が来た。
焚き火の外の暗がりに、光る目がいくつも並んだ。槍を握れる兵は、六十人ほどだった。倒れた兵のほかも、この二日ろくに食べておらず、足が震えていた。倒れた兵を囲むように槍を構えさせたが、列はすぐに崩れた。灰牙が飛び込んできて、兵の一人の腕に食らいつく。悲鳴。槍。また悲鳴。
私は剣を抜いて、群れの中へ斬り込んだ。御前試合で何度も勝った剣だった。一頭斬った。二頭目が、横から私の肩をかすめていった。白い制服が裂けて、血がにじんだ。
王都の訓練場には、横から来る相手はいなかった。
夜半を過ぎて、群れはいったん引いた。怪我人が増えていた。倒れて動けない兵の横で、噛まれた兵が呻いている。傷口は、もう縁が黒ずみ始めていた。
辺境の道案内の古参兵が、私の前に来た。手に、乾いた草と油の壺を抱えていた。
「中隊長。狼煙を上げさせてください。夜が明けたら、砦の見張り塔から見えます」
「狼煙だと」
「救援を呼びます。このままでは、明日の夜は越せません」
辺境に助けを求める。あの田舎の辺境伯に。あの女に。
「ならん」
私は言った。
「王都騎士団が、辺境に助けを乞うなど――」
「中隊長」
ハースだった。肩に、噛まれた兵を担いでいた。
「兵が死にます」
それだけだった。怒鳴りもしなかった。ハースは私の目を見て、もう一度だけ、同じことを言った。
「兵が、死にます」
私は、何か言おうとした。
何も、出てこなかった。
焚き火の向こうで、倒れた兵が、もつれた舌で誰かの名前を呼んでいた。母親の名前のようだった。
私は、黙って目をそらした。
道案内の古参兵は、それを答えと受け取ったらしかった。何も言わずに、乾いた草を抱えて、塀の上へ上っていった。
夜明け前の、いちばん暗い空に、火がともった。
やがて東の空が白み始めたころ、灰色の狼煙が一本、まっすぐに、森の上へ立ちのぼっていった。




