第99話 青の姫君、育たないものの代わりを急いで植えない
森へ帰ってから、九度目の朝。
夜明け前の森には、薄い風が吹いていた。
強く枝を揺らすほどではない。高い場所で重なった葉の端だけを細かく震わせ、その隙間に溜まっていた夜露を、ときどき土へ落としている。
窓の外は、まだ青みを帯びた灰色だった。
遠くの木々は影の塊に見え、畑の柵も、曲がった輪郭だけが薄暗がりの中へ浮かんでいる。小石で囲んだ赤い実の場所までは見えなかったが、風に押された草の先が揺れるたび、その向こうに何かが動いたように錯覚した。
フローラは寝台の中で目を開き、毛布の端を胸元まで引き上げた。
昨日。
赤い実を埋めた場所へ、あと七日という観察期間を置いた。
芽が出なかったら掘る。
そう決めたわけではない。
掘らずに次の種を植える。
それも決めていない。
ただ、いつまでも「まだ出ない」と言い続けないために、もう一度考える日を決めた。
七日のうち、一日目が終わった。
今朝は、二日目。
「芽が出ているかもしれません」
期待が先に出た。
フローラは、それをすぐに打ち消さなかった。
出ていてほしい。
子どもたちが拾った実。
王都へ向かう前に埋めたもの。
帰ってくる目印だと言われたもの。
自分が森へ戻ったあとも、ずっと土の中へ残っているもの。
芽が出れば、嬉しい。
その気持ちは、悪くない。
「でも、出ていないかもしれません」
今度は、反対側の言葉を置く。
昨日と同じ。
土だけ。
小石の円。
表面に変化なし。
そうであっても、失敗とは決めない。
「今朝、見てからです」
いつもの言葉。
けれど、昨日までと少し違った。
見る前に、不安だけを抑えるための言葉ではない。
期待もある。
期待が外れるかもしれないことも含めて、それでも見るための言葉。
◇
フローラは寝台を降り、窓辺へ近づいた。
掛け金へ手をかける前に、耳を澄ませる。
小川。
葉。
遠い鳥の声。
結界。
異常なし。
鳥笛。
なし。
「おはようございます」
窓を開ける。
冷たい風が部屋へ流れ込み、机の上へ置かれていた小さな紙の端を揺らした。
昨日、花守り布へ入れず、机へ残した言葉。
『あと七日、表面を見る。』
『七日後に掘ることを決めたわけではない。次の扱いを考える。』
風で一枚目が少しめくれ、二枚目の文字が見えた。
フローラは紙へ手を置く。
「今日は、二日目です」
赤い実へ。
まだ見えない土へ。
そして、自分へ伝える。
◇
窓辺の花守り箱は、昨日閉じたままだった。
中には、紙へ包んだキズナの花びらが一枚入っている。
白に近くなり、縁が少し欠けた花びら。
拾った時の形を完全には残さなかった。
それでも。
一枚は残った。
フローラは箱の蓋へ手を伸ばしかけ、止めた。
昨日、皆で見た。
今朝、もう一度開く必要はない。
「今日は、開けません」
隣。
白鈴草の種袋。
王都から持ち帰ったもの。
昨日も、蒔かなかった。
赤い実が芽を出さないから、その代わりとして植えることはしない。
白鈴草を植える日は、白鈴草のために決める。
そう言った。
けれど。
今朝。
種袋を見た瞬間。
胸の中へ別の考えが浮かんだ。
赤い実が芽を出さない間に、何か新しいものを育てたい。
空いた場所。
動かない土。
変化のない小石の円。
その隣へ。
白い花の種を蒔けば。
毎日。
芽を待てる。
赤い実だけを見なくて済む。
「それは」
フローラは、種袋から手を離した。
「白鈴草のためではありません」
赤い実を待つ不安を。
別の種で埋めたい。
それだけ。
「今日は、まだ蒔きません」
昨日と同じ結論。
でも。
理由が少し増えた。
待たせているのではない。
自分の不安の代わりに使わないため。
◇
顔を洗い、髪を梳く。
花守り布を広げる。
昨日持ち歩いた言葉は四つ。
『左右の下葉を失っても、オカエリは残っている。』
『切り口が乾いたことへ安心してよい。』
『完璧には残らなかった。けれど、一枚は残った。』
『芽が見えない土へ、出るとも出ないとも先に決めない。』
フローラは一枚ずつ読み返した。
オカエリ。
今日も見る。
切り口。
上葉。
新芽。
土。
昨日。
夕方まで大きな悪化はなかった。
上葉の角度が朝より下がって見えたが、光と観察方向が違った。
触れた時の張りは残っていた。
今日。
朝の同じ方向。
同じ時間に近い状態で。
見られる。
「今日は、昨日の朝と比べます」
完全に同じ光ではない。
風も違う。
自分の目の位置も、少し違う。
でも。
夕方よりは。
比較しやすい。
キズナの花びらの紙は、今日は家へ残す。
花守り箱に入っているものを、外へ持ち出す必要はない。
代わりに。
赤い実の言葉。
持っていく。
そして。
空いた袋へ。
白鈴草のための言葉を書くか。
フローラは筆を取る。
『白鈴草を、赤い実の代わりには植えない。』
書いたあと。
少し強い気がした。
代わりにしない。
それは必要。
でも。
白鈴草が何かの代わりになることを拒むだけでは。
白鈴草自身のことがない。
フローラは、その下へ書き足した。
『白鈴草を植える日は、白鈴草の育つ場所と、私が見られる時間を考えて決める。』
種。
場所。
時間。
それを見て。
決める。
花守り布へ入れる。
今朝の言葉は、四つ。
重すぎない。
◇
朝食の部屋へ行くと、リオが窓辺に立っていた。
今日は、丸い石へ触れていない。
代わりに。
机へ置かれた二つの木片を見ている。
一つは短く、太い。
もう一つは長く、細い。
「何をしていますか」
「どっちが重い」
「持ってみましたか」
「まだ」
「見て決めようとしているのですか」
「うん」
フローラは、二つの木片を見る。
長い方が大きく見える。
でも。
短い方は太い。
木の種類も違うかもしれない。
「どちらだと思いますか」
「長い方」
「なぜですか」
「大きい」
「昨日の豆と同じですね」
リオは少し嫌そうな顔をした。
「また面倒」
「持てば分かるかもしれません」
リオは両手へ一つずつ持つ。
腕を少し上下させる。
眉を寄せる。
「こっち」
短く太い方を上げた。
「重いですか」
「うん」
「長い方ではありませんでした」
「うん」
「見た時は?」
「長い方」
「持ってみたら?」
「短い方」
「では」
フローラは、自分も一つずつ持ってみた。
短い木片。
確かに重い。
長い方は乾いて軽い。
「私も、短い方が重く感じます」
リオは木片を机へ戻す。
「見た目、違う」
「はい」
「赤い実も?」
突然。
リオが言う。
フローラは少し驚いた。
「何がですか」
「土。何もない」
「はい」
「でも、中」
「見えません」
「見た目だけじゃ分からない」
「はい」
「じゃあ掘る?」
すぐには。
そこへ行かない。
「今は掘りません」
「持てないから?」
「土の中の実を、持って比べることはできません」
「掘れば」
「掘ることで、変化を壊すかもしれません」
「じゃあ見えない」
「はい」
「面倒」
「はい」
見えないものを。
見えないまま待つ。
木片より。
難しい。
◇
朝食は、薄いパンと豆の煮込み、それに昨夜から残していた小さな芋だった。
リオは芋を半分へ割り、中を見た。
「白い」
「芋ですから」
「外、茶色」
「はい」
「中、白」
「はい」
「赤い実も中、違う?」
「違う可能性はあります」
「腐ってるかも」
「はい」
「芽あるかも」
「はい」
「どっち」
「分かりません」
リオは芋を一口食べた。
「芋は分かった」
「切ったからです」
「赤い実も切る?」
「切りません」
「なんで」
「芋は、食べるために切りました。赤い実は、芽を出すか見るために埋めました」
目的。
違う。
切れば。
中は見えるかもしれない。
でも。
芽を出す可能性は失う。
「見るために、全部開けなくてよいです」
フローラが言うと、リオは芋を見た。
「これは開けた」
「食べるためです」
「うん」
◇
食事を終え、器を片づける。
フローラは昨日読まなかった観察帳の六日目へ目を向けた。
紙束。
王都へ行っていた間。
村の皆が書いた記録。
昨日は、言葉が多かったから読まなかった。
今日。
朝。
畑へ行く前に読むか。
少しだけ迷う。
六日目。
自分が王都で。
何をしていた日だろう。
国王陛下へ。
母様へ。
父様へ。
どのあたりか。
正確には、すぐ浮かばない。
森の記録と。
王都の記憶が。
重なるかもしれない。
「今、読みたいですか」
ミナが尋ねる。
フローラは紙束へ手を置いた。
少し。
読みたい。
でも。
オカエリと赤い実を。
先に見たい。
「畑から戻って、食事のあとにします」
「はい」
期限を決める。
でも。
昼に疲れていたら。
また読まないかもしれない。
「読む予定にします」
決定ではない。
予定。
◇
結界へ。
ガルド。
エマ。
サム。
そして。
もう一つ。
子ども。
複数。
今日は、皆で来ているらしい。
フローラは戸を開けた。
「おはようございます」
「おはようございます!」
エマ。
サム。
ルル。
トト。
ニコ。
リーナ。
全員。
朝から揃っている。
「今日は、早いですね」
「赤い実!」
トトが言う。
「芽?」
「出たか見たい!」
「皆さんも、まだ見ていないのですか」
ガルドが答える。
「遠くからは確認しましたが、小石の円へは近づいておりません」
「変化は?」
「離れた位置では、分かりませんでした」
「ありがとうございます」
子どもたち。
見たかった。
でも。
待った。
フローラと一緒に。
「では、行きましょう」
◇
森の道。
朝の光。
昨日より。
少し強い。
雲。
薄い。
風。
弱い。
一歩。
二歩。
三歩。
右切り口。
四歩。
左切り口。
五歩。
上葉。
六歩。
新芽。
七歩。
土。
八歩。
キズナ。
九歩。
赤い実。
十歩。
白鈴草。
今日は。
白鈴草も。
畑で場所を見る。
蒔かない。
でも。
場所を。
考える。
「十」
リオが言う。
「はい」
「昨日も十」
「昨日は、違う十です」
「同じ数」
「見るものが違います」
「同じ十、違う中」
「はい」
◇
畑へ着く。
朝露。
葉。
土。
新しい柵。
オカエリ。
キズナ。
赤い実。
皆。
いつもの場所にある。
まず。
フローラは、赤い実へ行かなかった。
子どもたちの視線が、小石の円へ向いている。
自分も。
早く見たい。
でも。
見る順番。
昨日まで。
オカエリを最初にしている。
傷。
切り口。
上葉。
新芽。
今。
変化の可能性が高い。
「オカエリから見ます」
トトが、少し残念そうにした。
「赤い実、逃げない」
エマが言う。
「はい」
フローラは頷く。
「待っていてください」
◇
オカエリ。
遠くから。
見る。
上葉。
昨日夕方より。
少し上。
昨日の朝と。
似た角度。
でも。
完全には。
同じではない。
新芽。
さらに開いている。
二枚の小さな葉。
片方。
まだ小さい。
でも。
昨日より。
輪郭。
分かる。
「開いてる」
ルル。
「はい」
「下がってない」
エマ。
「今朝は、昨日の夕方より上です」
光。
東。
昨日の朝。
同じ方向。
比較。
「昨日の朝とは?」
サム。
絵。
出す。
昨日朝。
上葉。
今日朝。
少し。
同じくらい。
新芽。
今日。
大きい。
「上葉の角度は、大きな差がないように見えます」
「新芽は?」
「開いています」
◇
右切り口。
四日目。
薄い緑褐色。
乾燥。
黒変なし。
汁なし。
左切り口。
三日目。
昨日より。
色。
少し濃い。
乾燥。
周囲。
緑。
黒変なし。
匂い。
なし。
「二つとも、悪い変化は見えません」
フローラ。
声。
少し。
緩む。
エマ。
近く。
見る。
「はい」
ガルド。
「夜間も、変化はありませんでした」
「ありがとうございます」
◇
上葉。
昨日の白い跡。
増えていない。
新しい虫。
なし。
裏。
卵らしいもの。
なし。
葉脈。
緑。
張り。
ある。
新芽。
先端。
緑。
片方。
少し内側へ巻いている。
「これは」
フローラ。
近づく。
巻き。
虫。
隠れていない。
変色。
ない。
「開く途中の形かもしれません」
エマ。
「触りますか」
フローラは少し考える。
触れば。
柔らかい葉。
傷。
「今日は、触りません」
巻いている。
でも。
色。
問題なし。
虫。
なし。
見える範囲。
記録。
「明日、形を比べます」
◇
茎。
触れる。
一度。
張り。
昨日と。
大きな差。
ない。
土。
表面。
少し乾く。
第一関節。
湿り。
第二。
湿り。
昨日朝。
少量給水。
今日。
不要。
「水なしです」
エマ。
「昨日と同じ?」
「昨日は、水を与えました」
「今日は与えない」
「はい」
「同じ朝でも」
「土が違います」
◇
記録。
『オカエリ。右下葉切除部四日目、左下葉切除部三日目。両切除部乾燥継続。黒変・滲出・異臭なし。』
『上葉は前日朝と大きく変わらない角度。葉色・張り良好。白色跡は拡大・増加なし。葉裏に虫・卵様物なし。』
『新芽は前日より開き、小葉二枚の輪郭が明瞭。片方は小さく、先端が僅かに内巻き。変色・虫害なし。触れず、翌朝比較。』
『土壌は第一関節下に湿りあり。給水なし。』
最後。
『下葉がない姿に、昨日より目が慣れた。慣れたことと、失ったことを忘れることは別。』
フローラは。
その一文を。
少し長く見た。
見慣れる。
痛み。
薄れる。
それは。
大切でなかったことになるのか。
違う。
暮らしが。
続く。
目が。
新しい形を受け取る。
◇
キズナ。
花のあとの膨らみ。
昨日より。
少し。
下へ。
垂れている。
重くなったのか。
茎が柔らかくなったのか。
色。
緑。
筋。
三本。
さらに。
もう一本。
薄い線。
見える。
「四本?」
サム。
「薄いものを含めれば」
「昨日三本」
「はい」
「増えた?」
「昨日は、見えなかっただけかもしれません」
「今日できたかも」
「はい」
「どっち」
「分かりません」
いつもの。
笑い。
「重い?」
リオ。
「昨日より、下を向いています」
「種あるから?」
「可能性があります」
「開ける?」
「開けません」
「いつも」
「はい」
◇
膨らみの根元。
少し。
細い。
色。
緑。
乾いていない。
周囲の葉。
良好。
土。
湿り。
十分。
「今日は、見るだけです」
記録。
『キズナ。花後六日目朝。花後部は前日より僅かに下向き。膨らみの筋は明瞭三本、薄い線一つを追加確認。色は緑。根元の乾燥なし。内部未確認。』
◇
そして。
赤い実。
子どもたちの身体が。
一斉に。
小石の円へ向く。
フローラは。
少し離れた場所で。
まず。
立ち止まる。
小石。
白。
灰。
茶。
青。
崩れていない。
土。
表面。
昨日と。
ほとんど。
同じ。
でも。
「待って」
エマが。
小さな声。
指を差す。
円の中央より。
少し外。
小さな。
細い。
何か。
土の表面へ。
出ている。
フローラの胸が。
強く鳴る。
「芽?」
トト。
前へ出そうになる。
「止まってください」
フローラ。
声。
少し強い。
子どもたち。
止まる。
細いもの。
白。
緑ではない。
長さ。
爪の先ほど。
土から。
斜めに。
出ている。
芽。
かもしれない。
根。
かもしれない。
小さな草の枯れた茎。
虫の抜け殻。
分からない。
「近くで見ます」
フローラは。
ゆっくり。
しゃがむ。
小石。
またぐ。
踏まない。
顔を。
近づける。
白いもの。
先端。
少し。
茶色。
表面。
固い。
芽のような。
柔らかな形ではない。
土へ。
つながっているようにも見える。
「板をお願いします」
影。
光。
角度。
変える。
白いもの。
細い。
曲がっていない。
先端。
尖っている。
「触らない?」
エマ。
「今は、触りません」
「芽?」
「まだ分かりません」
周囲。
息。
止まる。
「芽だったら?」
「触れれば、傷つけるかもしれません」
「枯れ草だったら?」
「あとで分かります」
待つ。
◇
サム。
絵。
描く。
小石。
円。
中央から。
少し外。
白い線。
「赤い実の真上?」
「真上かは分かりません」
「埋めた場所」
子どもたち。
思い出す。
穴。
中央。
赤い実。
置いた。
土。
戻す。
白いもの。
少し外。
「芽なら、真上から出ないこともあります」
ガルド。
言う。
「土の中で曲がることがあります」
「では芽?」
「可能性です」
フローラ。
胸。
期待。
大きく。
上がる。
芽。
出た。
そう。
言いたい。
子どもたち。
喜ぶ。
自分。
嬉しい。
でも。
「芽とは、まだ記録しません」
言う。
声。
少し震える。
「白い突起が一つ、土の表面に見えたと書きます」
「芽じゃない?」
トト。
「芽かもしれません」
「じゃあ芽」
「まだです」
「なんで」
「芽だと決めたあと、違った時」
胸。
少し。
痛む。
「何もなかったことを、失ったように感じるからです」
芽。
出た。
喜ぶ。
明日。
枯れ草。
虫。
そう分かる。
その時。
芽が死んだ。
そう。
思ってしまうかもしれない。
最初から。
芽ではなかったのに。
「今あるものを、今ある形で見ます」
白い突起。
それだけ。
◇
「水は?」
エマ。
「与えません」
「芽かもしれないのに?」
「土を見ます」
第一関節。
小石の外側。
そっと。
入れる。
湿り。
ある。
第二。
十分。
「水は足りています」
「芽だったら」
「今の湿りで待ちます」
「出てくる?」
「分かりません」
◇
リーナ。
小さな声。
「縫う?」
花守り布へ。
白い芽。
まだ。
縫わない。
キズナの時。
蕾。
花。
道。
刺繍。
でも。
「今日は、記録だけにします」
「芽じゃないから?」
「芽かもしれません」
「じゃあ」
「分かってからではなく」
フローラ。
少し考える。
「分からないままでも、縫うことはできます」
「なら」
「でも、今日は糸にする前に、一日見たいです」
リーナ。
頷く。
「明日?」
「明日、また考えます」
◇
記録。
『赤い実。追加観察期間二日目朝。小石円中央より僅かに外側で、白色の細い突起一つを確認。長さは爪先未満。先端は淡褐色。芽・根・枯れた植物片・虫由来物など、現時点で判別不能。触れず。』
『表土下に湿りあり。給水なし。』
『芽であってほしい気持ちはある。記録上は芽と決めない。白い突起として翌朝まで観察する。』
最後。
サム。
別の板へ。
『出たかもしれない。』
書く。
フローラは見る。
「よいと思います」
「芽って書かない?」
「はい」
「でも、出たかも」
「はい」
期待。
消さない。
断定。
しない。
◇
子どもたち。
赤い実の周り。
遠く。
座る。
見る。
「動いた?」
「動かない」
「虫じゃない?」
「風でも動かない」
「草?」
「白い」
「根?」
「根は下」
「上に出ることもある?」
「分からない」
声。
重なる。
フローラは。
止めない。
考える。
言う。
でも。
触らない。
それが。
守られている。
◇
白鈴草。
今日は。
畑の中で。
植える場所を考える。
フローラは。
現在の畝。
見る。
青豆一号。
アオジロウ。
ムラマル。
モリタン。
オカエリ。
赤い実。
キズナは。
共同畑。
白鈴草。
王都。
白い花。
湿り。
日当たり。
庭師。
少量の種。
森。
どこ。
「日向?」
エマ。
「王宮では、午前中に光が当たり、午後は少し影になる場所でした」
「ここ?」
畑の東側。
朝。
光。
昼。
木陰。
でも。
雨。
溜まりやすい。
「水が多いかもしれません」
「鉢?」
サム。
「最初は、小さな鉢がよいと思います」
「畑じゃない?」
「土を変えられます」
「王都の土?」
「王都の土はありません」
持ってきていない。
森の土。
でも。
畑の土。
腐葉土。
砂。
少しずつ。
混ぜる。
「三つの鉢?」
エマ。
「三粒?」
「一つの鉢に三粒ではなく」
フローラ。
考える。
三粒。
全部。
同じ鉢。
芽。
一つ。
二つ。
出た。
根。
競う。
分ける。
難しい。
「小さな鉢を三つ」
「全部同じ土?」
サム。
「最初は、同じ土にします」
「なんで」
「芽が出るかを見るためです」
「違う土も?」
「最初から条件を増やすと、見るものが多くなります」
「三粒だけ?」
「はい」
「残りは?」
「種袋で待ちます」
全部。
蒔かない。
最初。
三粒。
三鉢。
同じ土。
同じ場所。
でも。
鉢。
少しずつ。
光。
違うかもしれない。
完全に。
同じ。
できない。
「今日、作る?」
エマ。
フローラ。
胸。
白い突起。
赤い実。
期待。
白鈴草。
植える。
今日。
同時。
「今日は、鉢と土だけ用意します」
「種は?」
「明日の朝、今の状態を見てから考えます」
「赤い実が芽だったら?」
トト。
「それと白鈴草は別です」
「じゃあ今日蒔いても」
「今日は、赤い実の白いものを見つけて、気持ちが大きく動いています」
嬉しい。
期待。
だから。
そのまま。
新しい種を蒔く判断へ。
つなげない。
「嬉しいから蒔く?」
「それを避けます」
「明日なら?」
「明日の私へ聞きます」
◇
ガルド。
小屋の裏。
空いている鉢。
三つ。
持ってくる。
村から。
以前。
薬草用。
もらったもの。
欠け。
一つ。
でも。
穴。
ある。
使える。
「同じ大きさ?」
サム。
「ほぼ」
「一つ欠けてる」
「はい」
「違う」
「完全には同じではありません」
「じゃあ比べられない?」
「記録します」
一番左。
縁。
欠け。
中央。
良好。
右。
底穴。
少し大きい。
「水の抜け方が違うかもしれません」
「同じ鉢じゃない」
「はい」
「どうする」
フローラ。
考える。
村の木工職人へ。
同じ鉢を。
三つ。
作ってもらう。
時間。
かかる。
今あるもの。
使う。
でも。
条件。
違う。
「最初の試しは、一鉢に一粒だけにします」
子どもたち。
「一粒?」
「はい」
「三粒じゃない?」
「同じ条件の鉢を三つ用意できないためです」
「一個だけ出なかったら?」
「それだけでは、白鈴草が森で育たないとは決めません」
「じゃあ二個」
「まだ、鉢が違います」
「大変」
「はい」
フローラは、欠けの少ない中央の鉢を選ぶ。
「最初は、一粒」
残り。
種袋。
待つ。
芽。
出る。
出ない。
次。
また。
条件。
考える。
◇
土。
森の畑。
同じ。
でも。
鉢へ。
入れる。
底。
小石。
土。
少し。
腐葉土。
混ぜる。
量。
記録。
フローラ。
サム。
書く。
『白鈴草試験鉢一。村の素焼き鉢。縁・底穴に大きな欠損なし。底へ小石三つ。畑土三、腐葉土一。まだ播種しない。』
トト。
「三と一?」
「おおよその量です」
「秤」
「使っていません」
「正確じゃない」
「はい」
「大丈夫?」
「次に同じものを作る時、完全には同じにできません」
「じゃあ」
「今回は、最初の一鉢として記録します」
試す。
でも。
完璧な実験ではない。
畑。
暮らし。
できる範囲。
「水は?」
「今日は、土を馴染ませるために少量」
種。
まだ。
ない。
水。
ゆっくり。
土。
沈む。
「明日、湿りを見ます」
◇
赤い実の隣へは。
置かない。
小屋の東側。
朝光。
午後。
影。
風。
少し。
当たる。
屋根の雨水。
直接。
落ちない。
そこへ。
試験鉢。
置く。
「赤い実、こっち」
エマ。
「はい」
「白鈴草、家」
「はい」
「代わりじゃない」
「はい」
場所。
分ける。
見る時間。
分ける。
◇
観察を終える。
赤い実の白い突起。
まだ。
変わらない。
子どもたち。
何度も。
振り返る。
「昼、動いたら?」
「ガルドさんへ、触れずに見てもらいます」
「芽なら?」
「それでも触れません」
「土、割れたら?」
「記録してください」
「水?」
「土を見てからです」
基準。
確認。
◇
家へ戻る道。
一歩。
二歩。
三歩。
オカエリ。
切り口。
乾く。
四歩。
新芽。
開く。
五歩。
キズナ。
下向く。
六歩。
赤い実。
白い突起。
七歩。
芽。
まだ。
八歩。
白鈴草。
鉢。
土。
九歩。
種。
明日。
◇
家へ着く。
「ただいま」
白鈴草の種袋。
机。
今朝と。
同じ。
でも。
外。
鉢。
準備。
ある。
「今日は、種を蒔かなかっただけではありません」
フローラ。
袋へ。
言う。
「あなたのための場所を、一つ作りました」
まだ。
空。
土。
水。
でも。
白鈴草。
植えるかもしれない場所。
赤い実の代わりではない。
自分の。
場所。
◇
昼食。
パン。
豆。
葉野菜。
朝。
白い突起。
気になる。
胸。
何度も。
結界。
見る。
知らせ。
なし。
「芽でしょうか」
フローラ。
言う。
ミナ。
すぐには。
答えない。
「芽であってほしいですか」
「はい」
「はい」
「子どもたちも、喜びます」
「はい」
「私も」
胸。
温かい。
「帰ってきたあとに、芽が出たとしたら」
目印。
自分。
戻った。
芽。
あと。
出る。
「待ってくれていたように思うかもしれません」
でも。
実は。
フローラを待たない。
植物。
自分の時間。
「思ってもよいでしょうか」
ミナ。
少し。
考える。
「それが事実だと決めず、フローラ様がそう感じることはよいと思います」
「はい」
意味。
自分。
つける。
でも。
観察記録へ。
書かない。
「日記には、書いてもよいですか」
「はい」
「記録板には、白い突起」
「はい」
分ける。
◇
昼食後。
観察帳。
六日目。
今。
読めるか。
胸。
赤い実。
気になる。
でも。
言葉。
入る余地。
少し。
ある。
「読みます」
フローラは紙束を開く。
ミナ。
隣。
リオ。
丸い石。
今日は。
机の端。
◇
『フローラさまが王都へ行って六日目』
文字。
サム。
前より。
整う。
『朝、風が強い。』
『柵の西側の縄がゆるんだ。』
『ガルドさんと直した。』
『真っすぐにしようとした。』
『前より曲がった。』
フローラ。
思わず。
笑う。
「曲がったのですか」
リオ。
「今も曲がってる」
「帰ってきた時、気づきませんでした」
「前から曲がってた」
「どこが増えたか、分かりませんね」
記録。
変化。
でも。
元が。
曲がる。
比較。
難しい。
◇
『直す前の絵がない。』
『どれくらい変わったか分からない。』
『でも縄は強くなった。』
『見た目と、丈夫さは同じじゃない。』
フローラ。
紙。
長く。
見る。
曲がった。
でも。
丈夫。
オカエリ。
葉。
なくなる。
でも。
新芽。
開く。
同じではない。
でも。
少し。
似る。
◇
『青豆一号。朝露あり。』
『アオジロウ。支柱よし。』
『ムラマル。白い跡変わらない。』
『モリタン。葉厚い。』
『オカエリ。変わらない。』
『キズナ。蕾が下を向いたまま。』
六日目。
キズナ。
まだ。
花。
咲いていない。
蕾。
下。
待つ。
◇
『昼、村の外から旅人が来た。』
誰。
フローラ。
指。
止まる。
『王都で青の姫君が国王に会ったと聞いた。』
噂。
森へ。
届いた。
『青の姫君が王都へ戻ったと、旅人が言った。』
胸。
固くなる。
戻った。
王都へ。
公爵家へ。
そう。
噂。
『エマさんが、違うと言った。』
『王都へ行った。帰る場所は森。』
文字。
少し。
強い。
『旅人は、王都へ行くなら戻ることだと言った。』
『村のみんなが、違うと言った。』
フローラの目。
熱い。
自分。
いない。
王都。
まだ。
話。
途中。
でも。
森。
皆。
自分が。
帰る。
前提。
守る。
◇
『旅人は、王都で住む方が楽だと言った。』
『畑より王宮の方がよいと言った。』
『ニコが、王宮に大鍋あるか聞いた。』
フローラ。
涙。
出る前に。
笑う。
「大鍋です」
リオ。
「大事」
「はい」
『旅人は、あると思うと言った。』
『でも、フローラさまの大鍋じゃない。』
大きな文字。
『だから同じじゃない。』
胸。
深く。
落ちる。
王宮。
大鍋。
豪華。
でも。
森の。
皆と使う。
約束。
同じではない。
◇
『旅人は笑った。』
『村のみんなも笑った。』
『でも、帰る場所は本人が決めると、村長さんが言った。』
『旅人は、そうかもしれないと言った。』
争う。
追い返す。
ではない。
話す。
違う。
伝える。
最後。
少し。
変わる。
◇
『午後、キズナの蕾が少しふくらんだ。』
『下を向いたまま。』
『弱っているように見える人もいる。』
『でも昨日から色は変わらない。』
『触らない。』
フローラ。
今。
知る。
そのあと。
花。
咲く。
当時。
皆。
知らない。
でも。
昨日と同じ基準を。
今日。
押しつけない。
下。
弱い。
決めない。
◇
『夕方、風が止んだ。』
『曲がった柵は倒れなかった。』
『大鍋で芋を煮た。』
『フローラさまが帰ったら、同じ鍋で何か作る。』
『何を作るかは決めない。』
『帰ってから決める。』
大鍋。
今。
まだ。
帰還後の食事。
していない。
皆。
忙しい。
オカエリ。
キズナ。
王都。
帰る。
少しずつ。
「まだ、作っていません」
フローラ。
言う。
「うん」
リオ。
「忘れましたか」
「忘れてない」
「皆さんも?」
「たぶん」
たぶん。
帰ってから。
決める。
まだ。
決めていない。
「急がなくていいです」
◇
最後。
『六日目。』
『王都へ行くことと、王都へ戻ることは同じじゃない。』
『森へ帰ることと、全部を捨てることも同じじゃない。』
『柵は前より曲がった。でも強い。』
『キズナの蕾は下を向く。でも色は同じ。』
『フローラさまは王都にいる。でも、森へ帰ると言った。』
『今日は、言った言葉を信じる。』
フローラ。
紙。
見つめる。
自分。
王都。
その日。
何をしていた。
国王陛下へ。
六つの言葉。
伝えた頃かもしれない。
森。
皆。
自分の言葉。
信じる。
「帰りました」
フローラ。
声。
震える。
「私は、帰りました」
紙の中。
六日目の皆へ。
言う。
「言った通りに」
でも。
一人で。
守ったわけではない。
ミナ。
リオ。
王家。
村。
皆。
手伝う。
「帰れました」
涙。
落ちる。
今日は。
紙へ。
一滴。
落ちた。
文字。
滲む。
『信じる。』
その下。
小さな染み。
「すみません」
フローラ。
手巾。
出す。
でも。
ミナ。
「そのままでもよいのではありませんか」
「記録が」
「読めます」
染み。
小さい。
言葉。
残る。
「では」
拭かない。
涙。
六日目。
今。
つながる。
◇
観察帳を閉じる。
今日。
読む。
できた。
言葉。
多い。
でも。
胸。
苦しいだけではない。
「六日目の皆さんは、私が帰ると信じました」
「はい」
ミナ。
「赤い実も」
フローラ。
言いかけ。
止める。
赤い実。
フローラが帰る。
目印。
でも。
芽。
信じる。
同じ。
ではない。
「似ていますが、同じではありません」
自分で。
言う。
「皆さんは、私が言ったことを信じました」
「はい」
「赤い実は、芽を出すと言っていません」
「はい」
「だから、出ると信じることを約束にはしません」
期待。
ある。
でも。
種。
約束。
しない。
◇
午後。
結界へ。
ガルド。
知らせ。
なし。
赤い実の白い突起。
大きな変化。
なし。
オカエリ。
変化。
なし。
フローラは。
家。
白鈴草。
試験鉢。
見に。
外へ。
行く。
◇
小屋の東側。
鉢。
土。
朝。
水。
少量。
今。
表面。
色。
少し。
明るい。
第一関節。
湿り。
十分。
「明日、種を蒔くなら」
フローラ。
土。
見る。
深さ。
白鈴草の種。
小さい。
深く。
埋めない。
王宮の庭師。
育て方。
詳しくは。
聞かなかった。
種。
届いた。
侍女。
少量。
でも。
蒔き方の紙。
ない。
「分からないまま、蒔きますか」
ミナ。
「少し調べたいです」
「村の薬師へ?」
「マルタさんへ聞きます」
「白鈴草をご存じでしょうか」
「分かりません」
王都の花。
でも。
似た種。
小さい花。
経験。
あるかもしれない。
「分からなくても、種の大きさから考えられることがあるかもしれません」
人へ。
聞く。
そのあと。
決める。
◇
夕方。
畑。
朝。
赤い実。
白い突起。
どうなったか。
子どもたち。
すでに。
遠く。
待つ。
「動いてない」
トト。
「大きくなってない」
エマ。
「白いまま」
ルル。
フローラ。
近づく。
朝。
細い。
白。
夕方。
少し。
先端。
土。
つく。
長さ。
同じように見える。
でも。
根元。
土の表面。
僅かに。
ひび。
ある。
「朝、ありましたか」
サム。
絵。
見る。
ひび。
描かれていない。
「見落とした可能性があります」
「夕方できたかも」
「はい」
「芽?」
トト。
「まだです」
「土、割れた」
「はい」
「出る?」
「分かりません」
子どもたち。
不満。
でも。
少し。
笑う。
「明日」
ルル。
「はい」
「また見る」
「はい」
◇
白い突起。
触らない。
土。
第一関節。
円の外。
湿り。
ある。
水。
なし。
風。
夜。
乾く。
可能性。
でも。
今。
十分。
「夜、雨は?」
ガルド。
空。
見る。
「雲は少ないです」
「水なし?」
「はい」
明朝。
見る。
◇
オカエリ。
夕方。
上葉。
朝より。
少し。
下。
昨日と。
似る。
光。
西。
葉の張り。
ある。
新芽。
朝より。
僅かに。
開く。
内巻き。
片方。
まだ。
残る。
変色。
なし。
「夕方は、下がる?」
エマ。
「二日続けて、夕方に角度が下がって見えます」
「光?」
「可能性が高くなりました」
「高い?」
「はい」
朝。
上。
夕。
下。
二日。
同じ。
でも。
まだ。
光。
原因。
断定。
しない。
「明日も見ます」
◇
切り口。
右。
乾燥。
左。
乾燥。
色。
大きな変化。
なし。
土。
湿り。
ある。
追加水。
なし。
オカエリ。
今日。
無事。
「安心しています」
フローラ。
言う。
子ども。
「正しい?」
「まだです」
皆。
同時に。
「まだ!」
笑い。
起きる。
フローラも。
笑った。
◇
キズナ。
膨らみ。
朝より。
下。
向く。
でも。
根元。
緑。
萎れ。
なし。
筋。
四本。
薄い線。
さらに。
一本。
見えるようにも。
見えないようにも。
「数えない」
サム。
「なぜですか」
「光で変わる」
「はい」
「三本ははっきり。四本目薄い。五本目分からない」
「そのように書いてください」
数。
無理に。
決めない。
◇
夕方記録。
『赤い実。追加観察期間二日目夕方。白色突起は朝から大幅な長さ変化なし。先端に土付着。根元周囲の表土に細いひび一つを確認。朝の見落としか、日中に生じたかは不明。触れず、給水なし。』
『オカエリ。上葉は前日同様、夕方に朝より角度が下がって見える。二日連続で同様の傾向。触診では張り維持。光方向との関係を継続観察。新芽は朝より僅かに開く。』
『キズナ。花後六日目夕方。膨らみは朝より下向き。筋三本明瞭、一つ薄く確認。さらに一本は判別不能。根元・色に悪化なし。』
◇
記録を終える。
マルタ。
白鈴草。
尋ねる。
「この種です」
小さな袋。
一粒。
手へ。
出さない。
袋の外から。
見る。
「白鈴草という名は知っています」
「育てたことは?」
「ありません」
「王都の花です」
「種が小さいなら、深く埋めすぎない方がよいでしょう」
「どのくらい?」
「表面へ置き、薄く土をかける程度」
「光が必要?」
「分かりません」
「乾燥は?」
「小さい種は、表面が乾きすぎると芽を出しにくいものもあります」
「では、水を多く?」
「流れます」
「種が?」
「はい」
小さい。
水。
動く。
「霧のように?」
「細い布を通して、そっと与える方法があります」
村。
道具。
細かな霧吹き。
ない。
布。
水。
少量。
「明日、蒔くなら」
マルタ。
「朝の土を見て、種を置き、薄く土をかける。その後、表面が乾くようなら、布越しに少量」
「一粒」
「一粒ですか」
「はい」
マルタ。
少し驚く。
「少ないですね」
「試しです」
「一粒だけでは、芽が出なくても何も分からないかもしれません」
「はい」
「種自体が弱かった可能性もあります」
「はい」
「二粒か三粒の方が」
フローラ。
考える。
三鉢。
違い。
一鉢。
三粒。
混む。
二粒。
同じ鉢。
少し離す。
「一鉢に二粒では?」
「離して置けばよいでしょう」
「芽が出たら?」
「根が絡む前に、片方を別へ移すことも考えられます」
移す。
傷。
可能性。
「最初から二鉢」
「鉢が違います」
「比較ではなく、育てるためなら」
マルタ。
言う。
フローラ。
止まる。
比較。
観察。
条件。
同じ。
そう。
考えていた。
でも。
白鈴草。
最初の目的。
森で。
育てる。
見たい。
「観察だけではありません」
「はい」
「育てたいです」
なら。
同じ鉢。
三つ。
完璧な比較。
必要。
ではない。
「二鉢へ、一粒ずつ」
フローラ。
決める。
「鉢の違いは記録します」
「よいと思います」
「三つ目の鉢は?」
「予備?」
「土だけ用意して、待たせます」
種が。
出たあと。
移す。
使うかもしれない。
◇
家へ戻る。
夕空。
赤。
薄い紫。
森。
影。
一歩。
二歩。
三歩。
白い突起。
芽。
まだ。
四歩。
土。
ひび。
五歩。
白鈴草。
二鉢。
六歩。
育てる。
比較。
同じではない。
◇
夕食。
豆。
芋。
葉。
パン。
リオ。
「白いの、芽?」
「まだ分かりません」
「明日」
「はい」
「白鈴草も明日?」
「朝、私が蒔きたいと思ったら」
「赤い実、芽だったら?」
「別です」
「芽じゃなかったら?」
「別です」
「同じ明日なのに」
「はい」
◇
食後。
日記。
開く。
今日。
言葉。
多い。
でも。
中心。
二つ。
白い突起。
白鈴草。
出るかもしれないもの。
植えるかもしれないもの。
◇
『森へ帰ってから九度目の朝。赤い実を埋めた場所に、白い細いものが一つ見えた。芽かもしれない。根かもしれない。枯れた草や虫の残したものかもしれない。芽であってほしいと思ったが、記録には白い突起と書いた。』
『芽だと決めて、明日違った時に、芽を失ったと思いたくなかった。今あるものを、今見える形で受け取る。期待は消さない。答えにはしない。』
◇
『夕方、白い突起の根元近くへ細い土のひびが見えた。朝からあったものを見落としたのか、昼の間にできたのかは分からない。触れなかった。水も足さなかった。明日、また見る。』
◇
『白鈴草のための鉢を用意した。最初は同じ鉢を三つ揃え、三粒を同じ条件で比べようとした。でも、私は白鈴草を比べるためだけに植えたいのではなかった。育てたい。』
『明日、蒔きたいと思えたら、二つの鉢へ一粒ずつ蒔く。鉢の違いは記録する。『同じ条件にできないから植えない、にはしない。違いがあることを書き残しながら育てる。』
◇
筆を止める。
日記の最後の一行を見つめながら、フローラは小さく息を吐いた。
完全に同じ。
完全に正しい。
完全に分かる。
そういう形ばかりを待っていたら、植えられない種もある。
赤い実もそうだった。
白鈴草もそうかもしれない。
森の暮らしは、分からないことと一緒に進む。
それでも。
進まない理由を、分からなさだけにしてはいけない。
◇
日記を閉じたあと。
フローラは机の端へ置かれた花守り布を手に取った。
中の紙を一枚ずつ確認する。
『左右の下葉を失っても、オカエリは残っている。』
『切り口が乾いたことへ安心してよい。』
『完璧には残らなかった。けれど、一枚は残った。』
『芽が見えない土へ、出るとも出ないとも先に決めない。』
『白鈴草を植える日は、白鈴草の育つ場所と、私が見られる時間を考えて決める。』
どれも。
まだ必要だった。
捨てる言葉はない。
けれど。
今夜、新しく一枚加えたい。
フローラは紙を取り出し、ゆっくりと書いた。
『育たないものの代わりを、急いで植えない。』
赤い実。
芽が出ない。
だから白鈴草。
そうではない。
オカエリ。
葉を失った。
だから別の株。
そうでもない。
失われたかもしれないもの。
育たないかもしれないもの。
それらの空白を埋めるために、新しいものを置かない。
新しいものには、新しいものの理由がある。
その一文を花守り布へ入れる。
布は少し重くなった。
でも。
苦しい重さではなかった。
◇
夜。
窓を開ける。
昼の暖かさは消え、森の空気は再び冷えていた。
遠くで梟が鳴く。
葉が擦れる。
小川が流れる。
いつもの音。
変わらない音。
でも。
今日は、少しだけ違って聞こえた。
赤い実の場所。
白い突起。
今も暗闇の中にある。
見えない。
近づいてもいない。
それでも。
そこにある。
「芽でしょうか」
呟く。
返事はない。
昨日までなら。
そのあとに。
分かりません。
と続けたかもしれない。
けれど今日は。
違った。
「明日、見ます」
それでよかった。
今夜の自分が決める必要はない。
明日の朝。
明日の光。
明日の土。
明日の白い突起。
それを見てから。
考える。
◇
寝る前。
フローラは観察帳でも日記でもない、小さな紙を取り出した。
王都から帰ってきてから使っている帰還記録。
一行だけ。
短く書く。
『白い突起を見つけた。芽であってほしいと思った。』
そこで筆を止める。
少し考える。
それから。
続けた。
『でも、芽と決める前に、今日を見ることができた。』
乾かす。
重ねる。
箱へ戻す。
◇
寝台へ入る。
毛布を胸元まで引き上げる。
窓の外では風が少し強くなっていた。
白い突起。
オカエリ。
キズナ。
白鈴草。
今日は、どれも答えにならなかった。
オカエリは回復したとも、していないとも決めていない。
キズナの膨らみは種だと断定していない。
白い突起も芽ではない。
白鈴草も、まだ植えていない。
答えが少ない日だった。
けれど。
空っぽな日ではなかった。
見た。
記録した。
待つ日を決めた。
鉢を用意した。
人に聞いた。
考えた。
それだけで。
十分進んでいる。
「おやすみなさい」
小さく言う。
森は静かだった。
そして。
九度目の夜もまた、ゆっくりと更けていった。




