第100話 青の姫君、帰る場所でこれからを始める
森へ帰ってから、十度目の朝。
夜の名残を残した空は、東の端からゆっくりと明るくなり始めていた。高い木々の枝には薄い霧が絡み、葉の隙間から落ちる朝露が、まだ眠っている土へ小さな音を立てている。
フローラは、鳥が最初の声を上げる少し前に目を覚ました。
すぐには起き上がらず、毛布の中で目を開いたまま、窓の外から届く音を一つずつ聞いた。小川の流れ、枝を渡る小さな獣の足音、遠くの村で誰かが戸を開ける音、それから、森の家を囲む結界の静かな揺らぎ。
異常はない。
鳥笛も鳴っていない。
王都からの使者も来ていない。
誰かが急いで扉を叩く気配もなかった。
「朝です」
フローラは天井へ向かって小さく言った。
今日という朝が、昨日の続きを持ってきた。
赤い実を埋めた場所には、白い細いものが出ていた。芽かもしれないが、まだ芽とは決めていない。
白鈴草のためには、二つの鉢が用意されている。種はまだ袋の中にあり、蒔くかどうかは今朝の自分へ尋ねると決めていた。
オカエリは左右の下葉を失ったまま、上葉と新芽を残している。
キズナの花は終わり、その場所には小さな膨らみが育っている。紙へ挟んだ一枚の花びらは、花守り箱の中で待っていた。
そして。
村の大鍋。
王都へ発つ前、帰ってきたら皆で何かを作ろうと約束した。
まだ、その約束を果たしていない。
「今日は」
フローラは胸の上へ手を置いた。
何をしなければならないのかではなく。
何をしたいのか。
自分へ問いかける。
赤い実を見たい。
白鈴草の種を蒔きたいか確かめたい。
オカエリとキズナを見たい。
村へ行きたい。
大鍋を使いたい。
母様の手紙を読むかどうかは、今はまだ分からない。
父様へ便りを書くかどうかも、決めていない。
公爵家を継ぐか。
継がないか。
王都へもう一度行くか。
父様や母様へ、次にいつ会うか。
どれも答えは出ていない。
それでも。
「今日は、大鍋を使いたいです」
その一つだけは、はっきり言えた。
◇
フローラは寝台から降り、窓辺へ近づいた。
カーテンを開くと、朝の光がまだ薄い部屋へ静かに入り込んだ。机の上には、白鈴草の種袋と、昨日書いた二枚の紙が置かれている。
『期待してもよい。期待を答えにしない。』
『答えの出ていないものを忘れるために、次の種を急いで植えない。』
フローラは、その二枚を読み返した。
「忘れるためではありません」
白鈴草の種袋へ言う。
「あなたを育てたいかどうかです」
袋へ指を置く。
王宮の庭に咲いていた、白く小さな花。
青い髪の自分を珍しそうに見る人々の中で、何も言わず風に揺れていた花。
王都で育つもの。
森で育つかは分からないもの。
芽が出ないかもしれない。
花が咲かないかもしれない。
森の土へ合わないかもしれない。
それでも。
「見たいです」
言葉が、自然に出た。
「森で、あなたが育つかを見たいです」
赤い実が芽を出したかどうかとは関係ない。
オカエリが弱っているからでもない。
キズナの花が終わった代わりでもない。
王都の思い出を無理に残すためでもない。
ただ。
白鈴草を森で育ててみたい。
「今日は、二粒だけ蒔きます」
種袋へ伝える。
「残りは、まだ待ってください」
全部ではない。
二つの鉢へ、一粒ずつ。
違う鉢。
違う水の抜け方。
完全に同じ条件ではない。
それでも。
育てる。
◇
花守り布を広げる。
昨日まで持っていた言葉のうち、今日は三枚だけを選んだ。
『期待してもよい。期待を答えにしない。』
『育てたいものは、そのもののために植える。』
二枚目は、今朝の言葉として新しく書いた。
そして、三枚目。
『今日は、大鍋を使いたい。』
書いたあと。
フローラは少し笑った。
花守り布の中へ入れる言葉としては、あまりにも日常的だった。
王都へ持っていった六つの言葉。
父様や母様と会うために決めた約束。
帰る場所を守るための記録。
それらと並べるには。
大鍋を使いたい。
という言葉は。
少し軽い。
けれど。
「これも、私の望みです」
公爵家をどうするかと同じくらい大きな問いではない。
国王陛下の前で伝える必要もない。
誰かに認めてもらうものでもない。
それでも。
今日の自分が選んだこと。
フローラは三枚目の紙も、花守り布へ入れた。
◇
朝食の部屋へ入ると、リオは窓辺で丸い石を持ち上げていた。
「おはようございます」
「おはよう」
「今朝は、何を見ていますか」
「重さ」
「昨日の木片と同じですか」
「違う」
リオは丸い石を片手で持ち、もう一方の手へ小さな芋を載せていた。
「どっちが重い」
「持てば分かるのではありませんか」
「分からない」
「持っているのに?」
「近い」
フローラも受け取る。
右手に石。
左手に芋。
石の方が重いようにも感じる。
けれど、片方ずつ持つと、芋の方が重い気もする。
「分かりません」
「うん」
「秤があれば」
「ある?」
「村にあります」
「持ってくる?」
フローラは少し考え、首を横へ振った。
「今は、どちらが重いか分からないままでも困りません」
リオは芋と石を見る。
「比べない?」
「食べるものと、窓辺へ置くものです」
「同じ重さでも?」
「役目が違います」
「じゃあ重さ、どうでもいい?」
「知りたいなら、あとで秤を使いましょう」
「今じゃなくていい?」
「はい」
リオは石を窓辺へ戻し、芋を食卓へ置いた。
「今日食べる」
「大鍋で?」
フローラが尋ねると、リオの顔が上がった。
「使う?」
「使いたいです」
「今日?」
「はい」
「何作る?」
「まだ決めていません」
「豆」
「豆は入れます」
「芋」
「芋も」
「肉」
「皆さんへ聞きます」
「全部」
「鍋へ入る量だけです」
リオの顔が、少しずつ明るくなる。
「帰ってきたごはん」
フローラの胸が温かくなった。
「はい」
出発前。
井戸番の老人が大鍋を持ってきた。
旅へ持っていくと言い張り。
王家が用意すると断られ。
最後に。
帰ってきたら皆で何かを作る。
そう決めた。
「遅くなりました」
フローラは言った。
「帰ってきて、十日目です」
「まだ十日」
「はい」
「遅くない」
リオは簡単に答えた。
その言葉が。
思っていたより深く胸へ入った。
◇
朝食は、薄いパンと昨夜の煮込み、それに小さな卵だった。
フローラは最後まで食べた。
食べ終えたあと、器を運び、食卓を拭き、椅子を戻す。
リオが数える。
「四つ」
「今日は何が四つですか」
「器。布。椅子。鍋の蓋」
「はい」
「前も四つ」
「同じですね」
「でも違う朝」
「はい」
同じ数。
同じ家。
同じ片づけ。
それでも。
昨日ではない。
◇
結界へ、いつもの気配が触れた。
ガルド。
エマ。
サム。
そして、子どもたち。
今日は全員ではない。
ルルとリーナの気配が少し遅れている。
戸を開ける。
「おはようございます」
「おはようございます!」
エマの声が、朝の森へ広がった。
「赤い実!」
トトがすぐに言う。
「まだ見ていないのですか」
「見てない!」
「ガルドさんも?」
「離れた場所から確認しました」
「変化は?」
ガルドは少しだけ口元を緩めた。
「近くで見ていただいた方がよいかと」
その言い方に。
胸が大きく鳴った。
「何か、あったのですか」
「見てからです」
フローラが何度も使ってきた言葉を、ガルドが返した。
子どもたちが笑う。
「ガルドさんも言った!」
「フローラ様みたい!」
フローラは少し驚いたあと。
笑った。
「では、見に行きます」
◇
森の道には、朝の光が斜めに差していた。
葉の一枚一枚へ露が残り、風が通るたび、細かな光が足元へ落ちる。
一歩。
二歩。
三歩。
オカエリ。
四歩。
キズナ。
五歩。
赤い実。
六歩。
白鈴草。
七歩。
大鍋。
最後の一つは、畑で見るものではない。
でも。
今日。
見たいもの。
やりたいこと。
同じ道へ並べる。
◇
畑へ着くと。
子どもたちは、いつものように赤い実の場所へ駆け出しそうになり。
途中で止まった。
フローラが何も言わなくても。
先にオカエリを見ると分かっている。
「待つ」
エマが小さく言う。
「はい」
フローラも頷いた。
◇
オカエリ。
遠くから見る。
上葉。
昨日夕方より上。
昨日の朝と似た角度。
新芽。
二枚。
昨日より。
少し。
大きい。
内巻きだった片方の先端が。
まだ完全ではないものの。
僅かに外へ開いている。
「開いています」
ルルが、遅れて来た道の方から声を上げた。
リーナも一緒。
走っていない。
急いで歩いてくる。
「触らない?」
「はい。まず見ます」
◇
右切り口。
乾燥。
周囲。
薄い緑褐色。
黒変なし。
左切り口。
同じく乾燥。
右より少し薄い色。
汁。
なし。
匂い。
なし。
上葉の白い跡。
変化なし。
裏。
虫。
なし。
卵のようなもの。
なし。
「二つとも、今朝も落ち着いて見えます」
フローラの声。
自然に。
柔らかくなる。
「正しかった?」
トト。
いつもの問い。
フローラは、オカエリを見る。
下葉を二枚切った。
病変の可能性。
広がらなかった。
新芽。
開く。
なら。
正しかった。
そう。
言いたくなる。
でも。
「まだ、完全には分かりません」
周囲から。
「やっぱり!」
笑いが起きた。
フローラも笑う。
「ですが」
少し。
続ける。
「切ったあと、今まで大きな悪化がなかったことは分かります」
「うん」
「新芽が育っていることも」
「うん」
「だから」
胸へ手を置く。
「今のところ、切った判断を後悔していません」
正しかった。
ではない。
後悔していない。
今の自分の気持ち。
「違う?」
エマが尋ねる。
「はい。正しかったかは、起こらなかった方を見られないので分かりません」
「切らなかった方?」
「はい」
「でも今は?」
「今のオカエリを見て、切ったことを間違いだったとは思っていません」
サムが板へ書く。
『正しかったかは分からない。今は後悔していない。』
フローラは、文字を見つめた。
「それでお願いします」
◇
土。
表面。
乾き。
第一関節。
少し湿り。
第二。
十分。
水。
なし。
昨日と同じ。
でも。
今日の土を見て決めた。
「水は、与えません」
エマ。
記録する。
◇
キズナ。
花のあとの膨らみは。
昨日より。
さらに下を向いていた。
けれど。
色。
緑。
根元。
乾いていない。
筋。
三本。
はっきり。
四本目。
薄い。
その間。
膨らみの先。
小さな線。
まるで。
閉じた蓋のような形。
「長くなった」
ニコ。
「はい」
「花より小さい」
「はい」
「でも、昨日より大きい」
「はい」
「種?」
リオ。
「種を包むものだと思います」
フローラは、少し間を置いた。
これまで。
種かもしれない。
決めない。
そう言ってきた。
けれど。
花が落ちたあと。
膨らみ。
長くなる。
筋。
増える。
形。
変わる。
今。
「種を包む部分である可能性が高いと思います」
少し。
前へ。
言葉を進める。
「まだ、種ができているとまでは決めません」
「少し分かった?」
ルル。
「はい」
「分からないから?」
「可能性が高いへ変わりました」
サムが板へ。
『分からない。』
その隣へ。
『種を包む部分の可能性が高い。』
矢印。
描く。
「変わった」
「はい」
分からない。
同じ場所へ。
ずっと。
止まる必要はない。
見たものが増えれば。
言葉も。
変えてよい。
◇
そして。
赤い実。
子どもたちが。
今度こそ。
息を止めた。
小石の円。
白。
灰。
茶。
青。
その中央より少し外。
昨日の白い突起は。
白ではなくなっていた。
土の表面から。
細い茎のようなものが。
曲がりながら。
出ている。
根元。
白。
その上。
薄い緑。
先端。
二つに折り畳まれたような。
小さな形。
「……芽」
誰かが言った。
フローラなのか。
子どもなのか。
分からなかった。
胸が。
強く。
大きく。
鳴る。
指先。
震える。
前へ。
近づく。
でも。
急がない。
小石。
踏まない。
土。
崩さない。
しゃがむ。
板。
影。
角度。
見る。
昨日の白い突起。
今。
薄い緑。
先端。
まだ土がついている。
二枚の小さなもの。
葉。
かもしれない。
種皮。
かもしれない。
それでも。
根元から。
土へ。
つながる。
昨日より。
明らかに。
長い。
生きて。
伸びている。
「芽ですか」
エマの声。
震える。
フローラは。
すぐに答えなかった。
胸。
期待。
喜び。
怖さ。
全部。
上がる。
昨日。
芽と決めなかった。
今日。
何が。
分かった。
色。
変わった。
長さ。
増えた。
根元。
土。
つながる。
先端。
葉のような形。
風。
僅かに。
揺れる。
「芽だと思います」
初めて。
言った。
子どもたちの間から。
息が。
一斉に漏れる。
「芽?」
「本当に?」
「出た?」
「帰ってきた!」
「赤い実!」
「毒の木!?」
「毒って決まってない!」
声が重なる。
朝の畑が。
急に。
明るくなる。
誰かが飛び跳ね。
誰かが隣の肩を掴み。
リーナは花守り布を抱え。
サムは板へ何を書けばよいか分からず。
筆を止めたまま。
芽を見ている。
「触らないでください!」
フローラが慌てて言う。
子どもたち。
全員。
同じ場所で止まる。
「触らない!」
「踏まない!」
「水は?」
「まだ!」
エマが答える。
皆。
学んでいる。
◇
フローラは。
芽の前へ。
しゃがんだまま。
動けなかった。
帰ってくる目印。
王都へ発つ前。
子どもたちが。
そう呼んだ。
芽が出たら。
おねえちゃんが帰ってくる。
そう。
言われた。
でも。
フローラは。
芽が出るより前に。
帰ってきた。
帰ってきて。
十日。
土だけを。
見た。
出ないかもしれないと。
考えた。
次の扱いを決める日まで。
あと六日。
その二日目。
芽。
出た。
「待っていたのでしょうか」
声が。
震える。
誰へ聞いたのか。
分からない。
ミナが。
少し離れた場所から。
静かに答える。
「分かりません」
「はい」
フローラは。
涙を拭わず。
頷く。
「でも」
続ける。
「そう思いたいです」
「はい」
芽は。
フローラを。
待たない。
植物。
自分の時間。
でも。
フローラが。
そう感じることは。
フローラのもの。
「帰ってきてから、出てくれました」
声。
崩れる。
「私は」
胸へ。
手。
「帰ってきました」
何度も。
言ってきた。
でも。
芽の前で。
もう一度。
「ここへ、帰ってきました」
子どもたち。
静かになる。
大人たちも。
誰も。
笑わない。
ただ。
フローラが。
言葉を置くのを待つ。
◇
「おかえり」
小さな声。
昨日。
落ちた花を拾ってくれた女の子。
今日。
少し後ろにいた。
フローラを。
見ている。
「おねえちゃん」
もう一度。
「おかえり」
胸の奥。
固かった場所。
ゆっくり。
ほどける。
フローラは。
芽の前へ。
しゃがんだまま。
女の子を見る。
「ただいま」
言った。
今まで。
森の家へ。
何度も。
言った。
畑から帰って。
村から帰って。
王都から帰って。
でも。
人へ。
自分を待っていた人へ。
「ただいま」
もう一度。
言う。
女の子が笑った。
子どもたちも。
少しずつ。
「おかえり!」
「フローラ先生、おかえり!」
「おねえちゃん、おかえり!」
「遅い!」
「十日前に帰ってる!」
「でも今日!」
「何が今日!?」
声。
笑い。
涙。
全部。
畑へ。
広がる。
フローラも。
泣きながら。
笑った。
◇
芽。
名前。
子どもたち。
すぐに。
考え始める。
「カエッタ!」
「メデタ!」
「アカジロウ!」
「赤くない!」
「毒豆!」
「豆じゃない!」
「まだ木かも分からない!」
フローラは。
笑いながら。
芽を見る。
赤い実。
落ちていた。
食べられないかもしれない。
毒かもしれない。
芽が出ないかもしれない。
埋めた。
待った。
出た。
「名前は」
皆。
静かになる。
フローラ。
考える。
オカエリ。
すでに。
いる。
王都から。
帰ってきた日に。
名づけた株。
赤い実の芽。
帰る目印。
でも。
同じ名前。
ではない。
「マッテタ」
リオが言った。
周囲。
一度。
黙る。
「待ってた?」
「うん」
「芽が?」
「分からない」
リオ。
フローラを見る。
「でも、待った」
フローラが。
芽を。
待った。
村の皆が。
フローラを。
待った。
手紙が。
村長の家で。
待った。
畑が。
続きの記録を。
待った。
大鍋が。
帰還後の食事を。
待った。
「マッテタ」
フローラは。
口の中で。
名前を繰り返す。
少し。
変。
子どもの言葉。
でも。
この森の芽に。
よく似合う。
「マッテタにします」
子どもたち。
歓声。
「決まった!」
「マッテタ!」
「毒の木になる?」
「まだ言うのですか」
「実が食べられたら?」
「その時に考えます」
「木?」
「それも、まだ分かりません」
「いつ分かる?」
「育ってからです」
「いっぱい待つ?」
「はい」
「じゃあマッテタ!」
名。
決まる。
◇
記録板。
サム。
大きな文字。
『赤い実。芽が出た。』
フローラ。
「芽だと思います、と」
「まだ?」
「はい」
サム。
少し不満。
でも。
書き直す。
『赤い実。芽と判断する。』
フローラ。
その文字を。
見る。
判断。
今。
できる。
『追加観察期間三日目朝。前日確認した白色突起が伸長し、根元は白色、上部は淡緑色へ変化。先端に葉または種皮様の折り畳まれた構造を確認。土中へ連続しており、生長が見られるため、発芽と判断する。』
『給水は土壌湿度を確認後に決定する。』
『名称、マッテタ。』
最後。
サムが。
勝手に。
一行。
『フローラ先生が帰ってから出た。』
フローラは。
消さなかった。
「観察記録ではありません」
「じゃあ下」
サム。
線。
引く。
その下。
『みんなの記録。』
書く。
そこへ。
残す。
◇
土。
第一関節。
少し湿り。
第二。
湿り。
芽。
小さい。
根。
浅いかもしれない。
朝。
風。
少し。
乾く。
「水は?」
エマ。
「今は与えません」
「芽なのに?」
「今の土に湿りがあります」
「昼?」
「見てください」
「少し乾いたら?」
「小さな柄杓ではなく、布を通して少量」
白鈴草へ使う方法。
マッテタにも。
使えるかもしれない。
「直接当てない」
「はい」
◇
リーナ。
花守り布。
糸。
取り出す。
「縫う」
昨日。
待った。
今日。
芽。
判断。
「お願いします」
小石の円。
その中央。
細い。
白から。
緑。
一本。
糸。
選ぶ。
「何色?」
リーナ。
白。
緑。
茶。
三つ。
「根元は白。上は緑。土は茶色です」
三色。
短い。
曲がった。
芽。
花守り布の端へ。
縫う。
王都へ向かう道。
途中。
帰ってから。
続けると決めた糸。
その終わり近く。
小さな芽。
リーナ。
ゆっくり。
縫う。
「道も」
フローラ。
見る。
森から。
外へ。
途中。
止まっていた。
王都。
全部。
縫っていない。
帰り道も。
ない。
「続きを、今日縫いますか」
リーナ。
首を横へ。
「全部は無理」
「はい」
「少し」
「お願いします」
帰った。
でも。
道。
終わりではない。
王都と森。
つながる。
次。
行くかもしれない。
行かないかもしれない。
糸。
途中。
そのまま。
でも。
帰ってきた分。
少し。
戻す。
◇
白鈴草。
種。
今日は。
蒔く。
フローラは。
小屋の東側へ。
皆と。
移動する。
二つの鉢。
一つ目。
中央。
欠け。
少ない。
二つ目。
縁。
小さな欠け。
底穴。
少し大きい。
昨日。
土。
入れた。
水。
馴染ませた。
今朝。
表面。
一つ目。
少し湿り。
二つ目。
やや乾く。
「違います」
サム。
「はい」
「同じ土なのに」
「底穴の大きさや鉢の形が違います」
「場所も?」
二つ。
並べた。
でも。
左。
朝光。
少し早い。
右。
小屋の影。
少し。
「違います」
「どうする」
フローラ。
考える。
完全に。
同じ。
しない。
でも。
並び。
毎日。
入れ替える。
それも。
動かす。
条件。
変える。
「今の場所を記録して、そのままにします」
「左が一番?」
「第一鉢。右が第二鉢です」
「名前は?」
「まだ、白鈴草一号と二号です」
リオ。
「シロイチ。シロジロウ」
「まだです」
「出たら?」
「芽を見てから考えます」
◇
種袋。
開ける。
細かな種。
掌へ。
全部。
出さない。
白い布。
一枚。
その上へ。
少しだけ。
落とす。
小さい。
薄茶。
風。
飛びそう。
皆。
息を止める。
「近づきすぎない」
ミナ。
「風、止まって」
トト。
「風へ言っても」
エマ。
笑う。
フローラ。
細い木片。
先。
湿らせる。
一粒。
つく。
「一粒目です」
第一鉢。
中央より。
少し。
手前。
土。
表面。
置く。
薄い土。
ほんの。
僅か。
上。
「見えなくなった」
ルル。
「はい」
「どこ」
「印をつけます」
鉢の縁。
小さな白い糸。
種の位置。
近く。
結ぶ。
二粒目。
第二鉢。
同じように。
置く。
土。
薄く。
かける。
縁。
灰色の糸。
「白と灰」
「はい」
◇
水。
布。
薄い布を。
鉢の上へ。
直接。
種へ。
当たらない。
柄杓。
少量。
布へ。
落とす。
水。
細かく。
分かれる。
土。
表面。
濡れる。
種。
流れたか。
見えない。
「動いた?」
トト。
「分かりません」
「掘る?」
皆。
「掘らない!」
一斉。
笑い。
フローラも。
笑う。
◇
記録。
『白鈴草試験播種一日目。第一鉢、第二鉢へ一粒ずつ播種。種子は土表面へ置き、薄く覆土。布越しに少量給水。』
『第一鉢は縁・底穴の大きな欠損なし。位置は東側寄り。第二鉢は縁に小欠け、底穴が第一鉢より大きい。位置は小屋側寄り。鉢・日照・排水条件に差あり。』
『同条件比較ではなく、森で育つ可能性を見る最初の二粒として記録する。』
サム。
最後。
『赤い実の代わりじゃない。』
フローラ。
頷く。
「それも、皆の記録へお願いします」
◇
大鍋。
今日。
使う。
畑の観察を終えたあと。
フローラは。
皆へ。
言った。
「今日、村の大鍋で食事を作りたいです」
一瞬。
静か。
次。
子どもたち。
大声。
「やる!」
「豆!」
「肉!」
「芋!」
「卵!」
「全部!」
畑の外にいた村人たちも。
顔を上げる。
ガルド。
少し笑う。
「今日ですか」
「はい」
「昼?」
フローラ。
太陽。
見る。
まだ。
朝。
準備。
間に合う。
「昼には少し遅いかもしれません」
「夕方?」
エマ。
「はい」
夕方。
皆。
仕事。
終える。
大鍋。
村の広場。
帰ってきた食事。
「いってらっしゃいの食事ではなく」
フローラ。
言う。
「ただいまの食事を、皆さんとしたいです」
村人たちの顔。
一人ずつ。
変わる。
鍋を持ってきた井戸番の老人が。
少し離れたところで。
杖を。
地面へ。
強く。
つく。
「ようやくだ」
「遅くなりました」
「待った」
「はい」
「鍋も待った」
「はい」
「なら、今日は使え」
「お願いします」
老人。
頷く。
「何を入れる」
「皆さんと決めます」
「全部」
「鍋へ入る分だけです」
以前と同じ会話。
周囲。
笑う。
◇
村へ。
話。
広がる。
早い。
畑から。
家へ戻る前。
もう。
広場へ。
人。
集まり始める。
パン屋。
パン。
薬師。
香草。
狩人。
少量の肉。
井戸番。
水。
子どもたち。
芋。
豆。
卵。
干したきのこ。
葉野菜。
それぞれ。
持つ。
王都へ出発する前。
旅支度。
皆。
一つずつ。
持ってきた。
今日。
また。
同じ。
でも。
持っていくものではない。
一つの鍋へ。
入れるもの。
「全部を入れたら、味が分からなくなります」
フローラ。
言う。
鍋の周り。
静か。
皆。
持ってきたものを見る。
否定。
したくない。
全部。
使いたい。
でも。
鍋。
一つ。
量。
限り。
「今日入れるもの」
村長。
言う。
「明日使うもの」
ミナ。
「家へ持ち帰るもの」
エマ。
「別の料理にするもの」
子ども。
「四つ!」
以前。
旅支度。
四つへ。
分けた。
道中。
王都。
森。
出発前。
今日。
また。
分ける。
鍋へ。
明日。
家。
別。
「それでお願いします」
◇
大鍋。
広場。
火。
石。
三つ。
支える。
井戸番の老人。
鍋の底。
見る。
「穴なし」
「穴があったら困ります」
「長く待ったから」
「錆びは?」
「毎日見た」
「毎日?」
「鍋も観察」
フローラ。
少し笑う。
「記録は?」
「ない」
「残していないのですか」
「見るだけ」
「サム」
サム。
板。
「今日から?」
「今日だけでよいです」
皆。
笑う。
◇
水。
入れる。
火。
つける。
最初。
肉。
少量。
香草。
豆。
芋。
きのこ。
葉野菜。
卵は。
最後。
パン。
別。
鍋。
大きい。
でも。
人。
多い。
足りるか。
「薄くなります」
鍋を持ってきた女性。
以前。
塩を入れ忘れた人。
言う。
「塩は?」
フローラ。
「今日は忘れていない」
「本当に?」
「入れた」
「どのくらい」
「分からない」
「味見を」
女性。
匙。
すくう。
熱い。
吹く。
一口。
顔。
止まる。
「薄い」
広場。
笑い。
「また!」
「今日は入れた!」
「入れたけど少ない!」
「人数増えたから!」
「鍋の大きさと塩を覚えろ!」
フローラも。
声を出して。
笑う。
以前。
同じ場所。
畑の柵を作る途中。
薄いスープ。
皆。
食べた。
あの日。
王都から。
手紙。
届いた。
景色。
変わった。
今日。
同じように。
薄い味。
笑う。
でも。
王都からの使者。
来ない。
誰も。
フローラを。
連れていかない。
自分。
ここにいる。
◇
塩。
少し。
足す。
また。
味見。
今度。
「濃い」
女性。
言う。
周囲。
さらに。
笑う。
「水!」
「豆を増やす!」
「もう豆多い!」
「芋!」
「塩を出せ!」
「出せない!」
「パンと食べる!」
フローラ。
笑いながら。
鍋。
見る。
「直せます」
「はい?」
女性。
見る。
「水を足します」
「そうしよう」
「味を見ます」
「うん」
「一度濃くなっても、終わりではありません」
自分。
王都。
父様。
母様。
オカエリ。
全部。
重ねそうになる。
でも。
「似ていますが、同じではありません」
フローラ。
小さく。
言う。
隣。
リオ。
「何が?」
「鍋の話です」
「うん」
◇
夕方。
鍋。
できる。
完全に。
同じ味。
ではない。
場所。
薄い。
底。
濃い。
肉。
少ない。
豆。
多い。
芋。
崩れる。
卵。
いくつか。
見えない。
でも。
香草。
匂い。
広場。
満たす。
人々。
木の器。
持つ。
子ども。
前。
並ぶ。
「押さない!」
「俺が先!」
「フローラ先生が先!」
「作った人!」
「みんな作った!」
「じゃあ村長!」
「年寄りから!」
「子どもから!」
「鍋が冷める!」
声。
声。
重なる。
村長。
杖。
地面。
一度。
叩く。
「並べ」
皆。
少し。
静か。
でも。
列。
曲がる。
「真っ直ぐ」
誰か。
言う。
「柵と同じでいい」
別の誰か。
「曲がってても進む」
笑い。
◇
最初の器。
誰。
フローラ。
受け取る。
「私が?」
井戸番の老人。
「帰ってきた人」
「皆さんも」
「待ってた方は後」
「でも」
「受け取れ」
フローラ。
器。
両手。
温かい。
湯気。
豆。
芋。
肉。
葉。
鍋。
森。
人。
胸。
いっぱい。
「いただきます」
声。
少し。
震える。
周囲。
一斉。
「いただきます!」
言葉。
森へ。
広がる。
◇
一口。
熱い。
少し。
薄い。
次。
芋。
塩。
濃い。
場所。
違う。
でも。
おいしい。
「どう?」
鍋の女性。
心配。
見る。
「薄いところと、濃いところがあります」
「正直!」
「ですが」
フローラ。
笑う。
「とても、おいしいです」
「本当に?」
「はい」
「どこが?」
問われる。
味。
だけ。
ではない。
でも。
味を。
ごまかす。
必要。
ない。
「豆が柔らかいです」
「うん」
「芋も」
「うん」
「肉は少し固いです」
狩人。
「煮込み足りない」
「卵は、まだ見つかりません」
子ども。
「俺の器に二個ある!」
「取りすぎ!」
「勝手に入った!」
笑い。
「それから」
フローラ。
器。
両手。
持つ。
「皆さんと食べているので、おいしいです」
広場。
少し。
静か。
鍋の女性。
目元。
赤くなる。
「そうかい」
「はい」
◇
子どもたち。
マッテタ。
話。
食事。
間。
「芽出た!」
「名前マッテタ!」
「毒かも!」
「まだ言う!」
「白鈴草も植えた!」
「二粒!」
「一粒ずつ!」
「花咲く?」
「分からない!」
最後。
全員。
フローラを見る。
フローラ。
匙。
止める。
「分かりません」
皆。
笑う。
「でも、育つか見ます」
続ける。
◇
村長。
器。
持つ。
フローラ。
隣へ。
座る。
「百日目のような顔をしている」
「何がですか」
「いや」
村長。
笑う。
「いろいろ考えた顔だ」
「毎日、考えています」
「うん」
「今日は」
広場。
見る。
子ども。
大人。
老人。
鍋。
火。
畑。
森。
「考えているだけではありません」
「うん」
「食べています」
「うん」
「笑っています」
「うん」
「帰ってきました」
「うん」
村長。
何度も。
頷く。
「おかえり」
今。
改めて。
言う。
フローラ。
胸。
熱い。
「ただいま」
答える。
◇
食事。
続く。
誰か。
歌う。
ニコ。
最初。
小さな声。
畑。
芽。
森。
帰る人。
待つ人。
歌。
即興。
音。
少し外れる。
でも。
皆。
手を叩く。
途中。
歌詞。
なくなる。
「何か言って!」
ニコ。
叫ぶ。
「豆!」
リオ。
「鍋!」
井戸番。
「芽!」
子ども。
「帰った!」
エマ。
「分からない!」
トト。
広場。
笑い。
ニコ。
全部。
歌へ。
入れる。
意味。
少し。
変。
でも。
続く。
◇
日が。
森の向こうへ。
沈む。
空。
橙。
紫。
青。
フローラの髪。
夕光。
受ける。
以前。
青い髪。
恐れられた。
化け物。
呪い。
雨。
森。
枯れる。
話。
作られた。
今。
子ども。
青い髪へ。
花。
挿そうとする。
「今日は、落ちた花がありません」
女の子。
手。
空。
「なくてもいい?」
フローラ。
少し。
考える。
「はい」
「髪、触っていい?」
「少しだけ」
女の子。
指。
編まれた青い髪へ。
そっと。
触れる。
他の子。
並ぶ。
「順番!」
「私も!」
「一回だけ!」
「引っ張らない!」
フローラ。
笑う。
髪。
触れられる。
身体。
少し。
固くなる。
でも。
逃げない。
嫌なら。
止める。
「一人、一度です」
自分で。
決める。
◇
鍋。
底。
少し。
残る。
皆。
食べた。
でも。
全部。
なくならない。
「明日」
鍋の女性。
「水を足して、粥にする」
「また薄くなる」
「塩足す」
「足しすぎるな!」
笑い。
「明日も?」
フローラ。
尋ねる。
「残ったからね」
「はい」
ただいまの食事。
一日。
だけ。
ではない。
残り。
明日。
形。
変わる。
続く。
◇
夜。
人々。
帰る。
器。
洗う。
鍋。
井戸。
皆。
運ぶ。
フローラも。
持とうとする。
「重い」
止められる。
「私も作りました」
「作った人は片づけもする?」
「はい」
「じゃあ布」
鍋。
運ぶ。
ではない。
拭く。
役目。
渡される。
フローラ。
布。
持つ。
鍋の縁。
拭く。
一度。
二度。
焦げ。
少し。
底。
残る。
「落ちません」
「今夜、水につける」
「すぐ落とさない?」
「待つ」
井戸番。
言う。
「鍋も待つ」
フローラ。
笑う。
「はい」
◇
広場。
人。
少なくなる。
火。
小さい。
空。
星。
森の夜。
フローラ。
村長の家。
見る。
母様の手紙。
そこ。
預けていた。
王都から。
持ち帰った分。
今。
森の家。
でも。
村長の家に残る。
未読。
まだ。
ある。
今日。
読むか。
胸。
聞く。
マッテタ。
芽。
白鈴草。
種。
大鍋。
ただいま。
言葉。
多い。
「今日は、読みません」
村長。
隣。
聞く。
「うん」
「忘れたわけではありません」
「うん」
「母様を、待たせます」
「うん」
「手紙も」
「うん」
「私も」
今。
読む自分。
まだ。
来ていない。
「いつか、読みたいと思った日に」
「うん」
「お願いします」
「預かる」
◇
父様へ。
便り。
王都へ。
森へ着いた。
知らせたいと思ったら。
国王陛下。
言った。
知らせる。
命令。
ではない。
今日。
芽。
出た。
白鈴草。
植えた。
大鍋。
食べた。
父様。
豆の名前。
聞きたい。
次。
会ったら。
教えて。
言った。
マッテタ。
名前。
伝えたい。
でも。
今夜。
すぐ。
書くか。
「まだです」
フローラ。
自分へ。
「明日、書きたいか聞きます」
今日の喜び。
すぐ。
王都へ。
運ばなくてもよい。
森。
今夜。
置く。
◇
森の家へ。
帰る。
道。
リオ。
ミナ。
横。
ガルド。
途中まで。
見送る。
「今日は」
フローラ。
言う。
「見送られています」
「家まで?」
リオ。
「はい」
「近い」
「近くても」
王都。
見送られた。
森へ。
帰った。
今日。
村。
家へ。
帰る。
見送られる。
戻る。
毎日。
ある。
◇
家。
扉。
開ける。
「ただいま」
部屋。
静か。
暖炉。
火。
小さい。
机。
白鈴草の種袋。
花守り箱。
王都の木箱。
花守り布。
寝台。
毛布。
全部。
朝。
同じ。
でも。
自分。
少し。
違う。
◇
花守り布。
外す。
内側。
三枚。
『期待してもよい。期待を答えにしない。』
『育てたいものは、そのもののために植える。』
『今日は、大鍋を使いたい。』
全部。
今日。
使った。
期待。
芽。
答え。
今日。
芽と判断。
白鈴草。
植えた。
大鍋。
使った。
「終わりましたか」
フローラ。
紙。
見る。
今日の役目。
終わった。
でも。
言葉。
捨てない。
明日。
別。
使うかもしれない。
大鍋。
今日。
使った。
明日。
残り。
粥。
でも。
『今日は、大鍋を使いたい。』
今日。
終わり。
フローラ。
紙。
花守り箱。
入れる。
「叶った望みです」
残す。
◇
日記帳。
開く。
最初の頁。
森へ来た頃。
短い。
固い。
言葉。
雨。
土。
一人。
誰もいない。
畑。
作る。
生きる。
その頃の自分。
今。
同じ日記。
百話目。
フローラは。
数字を。
知らない。
でも。
多くの日。
重なる。
筆。
持つ。
◇
『森へ帰ってから十度目の朝。赤い実を埋めた場所に出ていた白い突起は、薄い緑へ変わり、先端に葉のような形が見えた。昨日より伸びていたため、今日、芽と判断した。』
『名前は、マッテタになった。芽が私を待っていたかは分からない。でも、私たちは芽を待った。村の皆は、私が帰るのを待った。手紙も、畑も、大鍋も、それぞれの場所で待っていた。』
◇
『私は、待たせることを、なくすことだと思っていた。すぐに答えなければ、手紙は失われる。すぐに戻らなければ、居場所はなくなる。すぐに受け取らなければ、好意は取り上げられる。そう思っていた。』
『けれど、待たせても残るものがあった。待ってくれる人がいた。待つ間にも、変わりながら続くものがあった。』
◇
『白鈴草を二つの鉢へ一粒ずつ蒔いた。赤い実の代わりではない。キズナの花の代わりでもない。王都を森へ置き換えるためでもない。白鈴草を森で育てたいと思ったから植えた。』
『芽が出るかは分からない。二粒とも出ないかもしれない。一粒だけかもしれない。出ても育たないかもしれない。それでも、今日の私は、植えたいと決めた。』
◇
『オカエリの下葉を二枚切ったことが正しかったかは、今も完全には分からない。けれど、新芽は育っている。切り口は乾いている。私は、切った判断を今は後悔していない。』
『正しいか分からないままでも、次を見ることはできる。後悔していないと答えることもできる。』
◇
『キズナの花は戻らない。拾った花びらも、元の形のままではない。それでも、花のあった場所に次の形が育っている。』
『同じ花は戻らない。だからこそ、戻らないものを戻そうとせず、今あるものを見る。』
◇
『今日は、村の大鍋を使った。帰ってきたら皆で何かを作ると約束していた。十日かかった。遅いと思った。でも、リオは、まだ十日だと言った。』
『鍋の味は、薄いところと濃いところがあった。肉は少し固く、卵は器によって数が違った。完璧ではなかった。でも、とてもおいしかった。』
◇
『皆から、おかえりと言われた。私は、ただいまと答えた。』
筆。
止まる。
涙。
頬。
落ちる。
紙。
少し。
濡れる。
拭かない。
◇
『私は、公爵家へ帰ったのではない。王都へ戻ったのでもない。森へ逃げてきたままでもない。』
『私は、自分でここへ帰ってきた。』
◇
フローラは。
長く。
その一文を。
見つめた。
森へ来た時。
逃げた。
王都。
公爵家。
青い髪。
視線。
婚姻。
責務。
父様。
母様。
全部から。
逃げた。
それは。
悪い。
ではない。
必要。
だった。
でも。
今。
同じ森。
同じ家。
意味。
違う。
誰にも。
追われず。
自分で。
帰った。
◇
『父様と母様を、まだ許していない。嫌いかも分からない。次に会うかも決めていない。公爵家を継ぐかも、婚姻をするかも、王都へ行くかも分からない。』
『分からないことは残っている。』
『でも、分からないままでも、朝は来る。畑を見る。食べる。笑う。泣く。誰かへ頼る。断る。受け取る。待たせる。』
『それを、暮らしと呼んでよいのだと思う。』
◇
最後。
何を書く。
終わり。
物語。
ではない。
明日。
マッテタ。
見る。
白鈴草。
見る。
オカエリ。
見る。
キズナ。
見る。
大鍋の粥。
食べる。
母様の手紙。
読まないかもしれない。
父様へ。
便り。
書くかもしれない。
暮らし。
続く。
だから。
終わりの言葉。
ではなく。
明日へ。
続く。
言葉。
フローラは。
筆先へ残った墨を見つめた。
何を書けば、今日を閉じられるのか。
何を書けば、終わりにせず、明日へ渡せるのか。
考える。
森へ来た日の自分なら。
生きる。
そう書いたかもしれない。
畑を作る。
一人で暮らす。
誰にも迷惑をかけない。
誰にも見つからない。
それが、これからだった。
王都へ向かう前の自分なら。
必ず帰る。
そう書いただろう。
森へ。
家へ。
皆のところへ。
戻ることだけを、何度も確かめた。
けれど、今は。
もう、帰った。
帰った場所で。
明日を迎える。
そのための言葉が必要だった。
フローラは、窓の外へ目を向けた。
夜の森は暗い。
畑は見えない。
マッテタの小さな芽も。
白鈴草の二つの鉢も。
オカエリの新芽も。
キズナの細長い膨らみも。
今は、闇の向こうにある。
見えない。
けれど。
なくなったわけではない。
朝になれば。
また見ることができる。
昨日と同じではない姿を。
昨日と同じではない自分で。
フローラは、日記の最後へ筆を置いた。
『明日も、ここで始めます。』
短い一文。
でも。
それでよかった。
今日までのすべてを終わらせる言葉ではない。
明日を約束しすぎる言葉でもない。
何が起こるか。
分からない。
雨が降るかもしれない。
マッテタの芽が倒れるかもしれない。
白鈴草が土の中で動かないかもしれない。
オカエリの葉に、また変化が出るかもしれない。
王都から手紙が届くかもしれない。
届かないかもしれない。
それでも。
朝が来たら。
フローラは起きる。
窓を開ける。
土を見る。
食事をする。
必要なら人へ頼る。
怖ければ待ってもらう。
受け取りたいものを受け取り。
持てないものは置く。
分からないことを、分からないまま記録する。
そして。
自分で。
次を選ぶ。
◇
日記を閉じる。
表紙へ両手を重ねたまま、フローラはしばらく動かなかった。
部屋の中には、暖炉の火が薪を小さく弾く音だけがある。
リオは窓辺で丸い石を布へ包んでいた。
ミナは明日の朝に使う水差しを満たし、戸締まりを一つずつ確認している。
特別なことをしているわけではない。
王宮の広間も。
公爵家の晩餐も。
国王陛下の召喚状も。
ここにはない。
あるのは。
少し古い机。
曲がった椅子。
村から持ってきた毛布。
土のついた靴。
花守り箱。
まだ読んでいない手紙。
種の袋。
明日洗う食器。
そして。
自分の帰りを待っていた人たちと過ごした、今日の匂い。
大鍋の香草。
豆。
煙。
少し焦げた芋。
フローラは鼻からゆっくり息を吸った。
「まだ、鍋の匂いがします」
リオが顔を上げる。
「服」
「服ですか」
「ついてる」
フローラは袖へ顔を近づけた。
確かに。
煙と香草の匂いが残っている。
「洗いますか」
ミナが尋ねる。
フローラは少し考えた。
「明日にします」
「はい」
「今日は、このままで寝てもよいですか」
「もちろんです」
王都の礼法教師なら。
食事の匂いを残したまま寝台へ入ることを、よく思わなかったかもしれない。
公爵家の侍女なら。
すぐに着替えを用意しただろう。
でも。
今夜のフローラは。
ただいまの食事の匂いを、もう少し身体へ残しておきたかった。
◇
寝台へ向かう前。
フローラは花守り箱を開いた。
今日、叶った望み。
『今日は、大鍋を使いたい。』
その紙を、一番上へ置いている。
隣には。
キズナの花びらを包んだ紙。
王都へ持っていった言葉。
森へ帰る途中で書いた記録。
落ちた花。
曲がった糸。
全部。
違う日。
違う気持ち。
違う形。
でも。
一つの箱にある。
フローラは、今日の紙をもう一度開いた。
『今日は、大鍋を使いたい。』
朝。
書いた。
夕方。
叶った。
誰かに許可を得なくても。
大きな理由がなくても。
自分の望みを口にした。
皆が手伝った。
フローラ一人では。
あの鍋を運べなかった。
材料も。
火も。
水も。
足りなかった。
でも。
一人で叶えられない望みも。
望んでよい。
「皆さんと使いました」
紙へ言う。
それから。
もう一枚。
新しい紙を取り出す。
『帰る場所は、戻って終わる場所ではない。』
書く。
少し考える。
続きを。
『そこから、また始める場所。』
二つの文。
フローラは長く見つめた。
帰る。
以前は。
終わりだと思っていた。
王都へ帰る。
公爵家へ戻る。
森へ帰れば。
全部が元通りになる。
そういう言葉に聞こえた。
けれど。
元通りにはならなかった。
王都へ行く前の森と。
今の森は違う。
フローラも違う。
父様の言葉を持っている。
母様の手紙を持っている。
王宮の白鈴草を植えた。
王都で出会った人の名前を知っている。
公爵家のことを。
まだ決めていない。
帰ってきても。
すべてが閉じたわけではない。
だから。
戻ることは。
終わることではなかった。
「始めます」
フローラは小さく言った。
「ここから」
誰かへ宣言するためではない。
明日の自分へ。
今日の自分から。
渡す。
◇
花守り箱を閉じる。
王都から持ち帰った木箱は、今夜も開けない。
母様の手紙も。
父様へ送るかもしれない便りも。
明日へ。
置く。
待たせる。
でも。
忘れない。
フローラは、机の端へ白鈴草の種袋を置いた。
今日、二粒を蒔いた。
袋の中には、まだ種が残っている。
「おやすみなさい」
種へ言う。
「今日、二粒を森へ置きました」
返事はない。
「残りは、まだ待っていてください」
隣。
花守り箱。
「おやすみなさい、キズナ」
窓の外。
見えない畑。
「おやすみなさい、青豆一号。アオジロウ。ムラマル。モリタン」
一つずつ。
「おやすみなさい、オカエリ」
下葉を失っても。
残る株。
「おやすみなさい、マッテタ」
今日。
初めて呼ぶ名前。
言った瞬間。
胸の奥へ、小さな喜びが広がった。
「明日、また見ます」
◇
寝台へ入る。
村の毛布を胸元まで引き上げる。
大鍋の煙の匂い。
まだ。
少し。
残っている。
リオは窓辺の石を置き終え、自分の寝台へ向かう。
ミナが暖炉の火を整え、部屋の灯りを一つずつ落としていく。
「フローラ」
暗くなる前。
リオが呼ぶ。
「はい」
「明日、鍋の粥」
「はい」
「豆、増やす?」
「残っている量を見てからです」
「分からない?」
「まだ、見ていません」
「うん」
リオは満足したように頷いた。
「明日」
「はい」
短い言葉。
それで。
十分。
◇
最後の灯りが消える。
窓の外。
星。
枝。
夜。
フローラは目を閉じる前に、胸へ手を置いた。
心臓。
穏やか。
完全に静かではない。
明日のマッテタ。
白鈴草。
オカエリ。
母様の手紙。
父様への便り。
公爵家。
考えれば。
胸は少し鳴る。
でも。
その音を。
止めなくていい。
不安がある。
期待がある。
分からないことがある。
明日がある。
「おやすみなさい」
フローラは、もう一度言った。
森へ。
家へ。
今日へ。
「また、明日」
夜は。
何も答えない。
ただ。
森の家を包み。
畑を包み。
小さな芽と。
二つの種と。
残った葉と。
待っている手紙を。
同じ静かな闇の中へ置いていた。
そして。
フローラもまた。
帰る場所の中で。
明日から始まる新しい暮らしへ向かい。
ゆっくりと目を閉じた。




