第98話 青の姫君、芽が出ない鉢へ答えを埋めない
森へ帰ってから、八度目の朝。
夜のあいだに雨は降らなかったらしく、屋根も窓枠も乾いていた。薄い朝靄が森の低いところへ溜まり、家の周囲へ張られた結界の向こうでは、まだ光を受けきらない木々が青灰色の影を重ねている。
フローラは寝台の中で目を開き、毛布の端へ指をかけたまま、しばらく耳を澄ませていた。
小川の音。
葉の擦れる音。
家の屋根へ落ちた、小さな木の実の音。
遠くから聞こえる鳥の声。
鳥笛はない。
結界にも、異常を知らせる揺れはない。
「今朝も、森の家にいます」
天井へ向かって言うと、胸の内側へ静かな温かさが広がった。
王都から戻った直後は、朝起きるたびに森へ帰ったことを確かめなければならなかった。目を開けた場所が王宮の客室ではないことや、厚い石壁の向こうに大勢の気配がないことを一つずつ確認し、それからようやく身体の力を抜くことができた。
八度目の朝になった今も、その確認は残っている。
けれど、最初の頃ほど切実ではない。
戻ってきた。
今日もいる。
そして、明日もいるつもりでいる。
それだけで、十分だった。
「おはようございます、青豆一号。アオジロウ。ムラマル。モリタン」
まだ窓の向こうにいる株へ、名前を呼ぶ。
「おはようございます、オカエリ」
その名前を口にした時だけ、胸が少し強く鳴った。
左右の下葉を切ったあと、オカエリは上葉と新芽だけを残した姿になった。見慣れていた形とは違う。茎の下側が空き、二つの切り口が並んでいるため、遠くから見ると以前より細く、頼りなく見える。
昨日。
その新芽は、完全には開かなかった。
けれど、先端の緑を保っていた。
上葉にも新しい変色はなく、左右の切り口は乾いていた。
切った翌日の右側。
切った当日の左側。
二つの傷は、同じ日数を進んでいない。
だから昨日も、一つずつ別に記録した。
「今日も、同じではありません」
左の切り口は、今日で二日目。
右は三日目。
上葉と新芽は、また一日進んでいる。
昨日の記録を持って見る。
でも、昨日の答えを先に当てはめない。
「おはようございます、キズナ」
花のあった場所。
小さな膨らみ。
昨日はさらに細長くなり、下側へ僅かな筋が見えた。種を包むものかもしれないとエマが言い、サムは「袋っぽい」と記録した。
まだ、種とは決めていない。
花が散ったあと。
花びらが土から見えなくなったあと。
それでも形を変え続けている。
「今日は、どのようになっていますか」
見たい。
すぐに。
けれど。
その前に、家の中にも見るものがある。
窓辺の机。
小さな重しの下。
紙へ挟んだキズナの花びら。
三日後に開けると決めた。
今日が、その三日目だった。
フローラは毛布から手を出し、指を一本ずつ握った。
紙を開けたい。
色が残っているか。
壊れていないか。
きれいに乾いているか。
それを見たい。
でも。
先に開けるか。
畑のキズナを見てから開けるか。
二つは同じキズナの記録であっても、急いで同じ時間へ並べる必要はない。
「朝食のあとに、開けます」
声へ出して決める。
「畑へ行く前です」
外のキズナを見る前に、家へ残した花びらを見る。
花だった時の一枚。
花の次へ進んでいる株。
その順番で、今日は受け取る。
◇
フローラは寝台を降り、窓へ近づいた。
掛け金を外すと、乾いた冷気が部屋へ流れ込んだ。雨上がりの湿りではなく、夜露と朝の土が混じった匂いだった。
風は北東から弱く吹いている。
空には薄い雲があるが、雲の切れ間から朝の光が差し始めていた。昼には晴れるかもしれない。
新しい柵は、今日も僅かに曲がったまま立っている。
赤い実を埋めた小石の円も崩れていない。
窓から見える範囲では、芽はまだない。
「まだです」
埋めてから、何日目だったか。
記録を見れば分かる。
けれど。
日数が増えたからといって、芽が出るとは限らない。
赤い実が、そもそも種を持っていたのか。
森の土に合うのか。
冬を越す種類なのか。
何も分からない。
昨日。
子どもたちは、小石の円の中央を長く見つめていた。
「出ないね」
トトが言った。
「まだ出ていないだけです」
フローラが答えると。
「出ないのと、まだ出てないのは違う?」
そう聞かれた。
違う。
今、見えていない。
だからといって、これからも出ないと決めることはできない。
けれど。
いつまでも「まだ」と言い続ければ、芽の出ない種へ、自分の望む未来を押しつけることにもなる。
どこまで待つか。
いつ掘って確かめるか。
あるいは、最後まで掘らずに次の種を植えるか。
まだ決めていない。
「今日も、まずは表面を見ます」
掘らない。
水を足さない。
土が乾いているなら考える。
でも、芽が出ない不安を、水で埋めない。
◇
顔を洗い、髪を梳く。
花守り布を机へ広げ、内側の袋を確認する。
昨日持ち歩いた六つの言葉。
『左右の下葉を失っても、オカエリは残っている。』
『切り口が乾いたことへ安心してよい。』
『上葉と新芽の緑を、切った判断の正しさへすぐ結びつけない。』
『病変の可能性がある葉を残さないことも、守り方だった。』
『昨日と同じことをしても、理由は同じとは限らない。』
『明日は、今日の基準だけで決めない。』
今日。
そのまま持っていくか。
フローラは少し考えた。
切った日の言葉。
必要。
でも。
今日は。
葉を切る予定ではない。
予定がないだけで、状態によっては何かを選ぶかもしれない。
それでも、昨日の六つをすべて身体へ載せる必要はない。
一枚目。
『左右の下葉を失っても、オカエリは残っている。』
これは持っていく。
今朝も、オカエリを見る時に必要。
二枚目。
『切り口が乾いたことへ安心してよい。』
これも。
安心を否定しないために。
三枚目以降。
今日は木箱へ置く。
「大切ではないからではありません」
毎朝、同じことを言っている気がする。
けれど。
言うたびに、少しずつ身体が理解する。
「今日は、二つだけ持ちます」
花守り布が軽くなる。
空いた袋の中には。
あとで、キズナの花びらについて新しい言葉が入るかもしれない。
入らないかもしれない。
最初から場所を埋める必要はない。
◇
朝食の部屋へ入ると、リオが食卓の前で何かを見つめていた。
丸い石ではない。
小さな皿。
その中央へ。
三粒の豆が並んでいる。
「食べないのですか」
「違う」
「何がですか」
「一番大きいの」
三粒。
似ている。
でも。
一つは僅かに長い。
一つは丸い。
もう一つは、表面へ浅い皺がある。
「どれを選ぶのですか」
「分からない」
「何に使う豆ですか」
「粥」
「食べる豆ですね」
「うん」
「一番大きいものを食べたいのですか」
「最初に食べる」
フローラは三粒を見る。
「大きさを比べているのですか」
「うん」
「手で持ちますか」
「持った」
「同じくらい?」
「これ」
リオが長い豆を指す。
「一番」
「長いですね」
「大きい」
「長いことと、大きいことは同じでしょうか」
リオの眉が寄る。
丸い豆。
長い豆。
皺のある豆。
「丸い方が、横は大きいかもしれません」
「じゃあ、どれ」
「何を大きさと呼ぶかで変わります」
「面倒」
「はい」
フローラは少し笑った。
「重さを量れば、一番重いものは分かります」
「秤?」
「小さすぎて、家の秤では難しいかもしれません」
「じゃあ分からない」
「完全には」
リオは三粒を見た。
それから。
「全部食べる」
「粥へ入っていますから、全部食べます」
「じゃあ選ばない」
「最初に食べる豆は?」
「匙に乗ったやつ」
比べた。
でも。
決める必要がなかった。
何のために選ぶか。
それがなくなれば。
一番を決めなくていい。
「赤い実も」
フローラは呟いた。
「何が?」
「芽が出るかを、今決める必要はありません」
「うん」
「出たら見る」
「うん」
「出なかったら?」
リオは少し考えた。
「また豆食べる」
「赤い実は豆ではありません」
「でも朝食」
話が変わった。
フローラは笑い、席へ着いた。
◇
朝食は、豆と刻んだ葉野菜を入れた粥だった。
三粒だけではない。
たくさんの豆。
どれが先ほどの三粒か、鍋の中へ入れば分からない。
リオは最初の一匙を見つめた。
「どれ?」
「分かりませんね」
「全部同じ」
「同じではありません」
「でも分からない」
「はい」
違いがある。
でも。
今は分けなくていい。
一緒に煮る。
一緒に食べる。
畑では分ける必要があることも。
食卓では分けないこともある。
◇
粥を食べ終えたあと、フローラは机の小さな重しへ手を置いた。
ミナとリオも、近くにいる。
「開けます」
紙へ挟んだキズナの花びら。
三日。
途中で開けなかった。
毎日。
気になった。
でも。
待った。
重しを外す。
上の木板を持ち上げる。
二枚の紙。
端。
少しだけ浮いている。
フローラは指先で上の紙をつまんだ。
「ゆっくり」
リオが言う。
「はい」
少しずつ。
紙を開く。
中央。
薄青い花びら。
拾った時より、さらに色が淡くなっていた。
鮮やかな青ではない。
白に近い。
それでも、縁の一部へ薄い青が残っている。
形は。
完全ではない。
上側の端が、小さく欠けていた。
紙へくっついたのか。
挟む前から傷んでいたのか。
分からない。
「壊れていますか」
ミナが尋ねる。
「少し欠けています」
「はい」
「でも、残っています」
「はい」
フローラは、息を吐いた。
きれいに残したいと思っていた。
花びらの形を。
色を。
キズナが咲いた証を。
けれど。
三日待って開いた花びらは、拾った時のままではなかった。
「白くなりました」
「はい」
「青は、少しだけです」
「はい」
「失敗でしょうか」
言ったあと。
すぐには答えを探さない。
乾かす。
紙へ挟む。
三日待つ。
初めて。
花びらの水分。
紙の質。
重し。
何も完全には分からなかった。
「何を残したかった?」
リオが尋ねる。
フローラは花びらを見る。
「キズナの花です」
「ある」
「形が欠けています」
「でもある」
「色も薄いです」
「でも少し青」
「はい」
「失敗?」
「分かりません」
また。
分からない。
でも。
今度の分からないは。
苦しくなかった。
「完璧には残りませんでした」
「うん」
「でも、一枚は残りました」
「うん」
それで。
今は。
受け取る。
◇
フローラは柔らかな紙を新しく用意した。
古い紙から、花びらを移す。
指でつままない。
細い木片を使い、下からそっと持ち上げる。
軽い。
息を強く吐けば、飛びそうなほど。
新しい紙の中央へ置く。
「花守り箱へ入れますか」
ミナが尋ねる。
花守り箱。
落ちた花。
刺繍。
言葉。
残したもの。
「はい」
今なら。
入れられる。
完全に乾いている。
病気の可能性がある葉ではない。
「でも、直接は入れません」
紙で包む。
表へ書く。
『キズナの花びら。一枚。花が散った日に拾い、翌日に紙へ挟んだ。三日後、色は白に近くなり、縁が一部欠けていた。薄い青は残っている。』
事実。
拾った日。
挟んだ日。
開いた日。
別。
そして。
『完璧には残らなかった。けれど、一枚は残った。』
最後に書き加える。
花守り箱。
開く。
春待ちの根元で拾った花弁。
以前の小さな花。
布。
紙。
それぞれ。
同じ形ではない。
キズナの花びらを、一番上へ置く。
箱を閉じる。
「戻しませんか」
リオが聞く。
「畑へ?」
「うん」
「紙へ挟んだ花びらは、家へ残します」
「土へは?」
「ほかの花びらが戻りました」
「うん」
「一枚だけ、ここです」
全部を同じ場所へ戻さない。
全部を手元へ残さない。
「これでよいです」
◇
花守り布へ、新しい紙を入れる。
『完璧には残らなかった。けれど、一枚は残った。』
今朝持った二つの言葉。
オカエリ。
切り口。
その横へ。
キズナ。
花びら。
三つ。
布は。
まだ軽い。
◇
結界へ。
ガルド。
エマ。
サム。
ほかに。
マルタの気配もある。
フローラは戸を開ける。
「おはようございます」
「おはようございます」
マルタは今日も細い木箱を持っていた。
「オカエリを見に?」
「はい。それから、昨日の虫も」
「ありがとうございます」
エマは、少し興奮した顔で花守り箱の方を見る。
「花びら、開けました?」
「はい」
「きれい?」
フローラは少し考えた。
「拾った時とは違います」
「壊れた?」
「少し欠けました」
エマの顔が曇る。
「失敗?」
「完璧には残りませんでした」
「でも?」
「一枚は残りました」
エマは。
少し考え。
「見たい」
「帰ってから、触らずに見るなら」
「はい」
「今日は畑が先です」
「はい」
子どもたち。
花びら。
見たい。
でも。
今は。
畑。
◇
森の道。
光が少し強くなっている。
薄い雲の切れ間。
青。
風。
昨日より弱い。
一歩。
二歩。
三歩。
右の切り口。
四歩。
左の切り口。
五歩。
上葉。
六歩。
新芽。
七歩。
土。
八歩。
虫。
九歩。
キズナ。
十歩。
赤い実。
今日は十。
「多い」
リオが言う。
「はい」
「全部今日?」
「全部、まず見ます」
「決める?」
「見ることと、決めることは別です」
マルタが横で。
「よい言い方ですね」
と、小さく笑った。
◇
畑へ着く。
今日は、村人が多くない。
ガルド。
子どもたち。
薬草畑から来たマルタ。
レナードの隊からは、一人の見張りが外側にいるだけ。
昨日。
左右の下葉を切った。
村では、その話が広がっているはず。
でも。
全員が毎朝集まるわけではない。
畑の心配が。
村の暮らし全部を止めるわけではない。
「おはようございます」
フローラは柵を開ける。
◇
オカエリ。
遠くから。
まず見る。
下葉。
ない。
左右の切り口。
小さな跡。
上葉。
昨日の夕方と同じ位置。
新芽。
少し。
開いている。
茎。
倒れていない。
「立っています」
エマが小さく言う。
「はい」
それだけで。
胸が緩む。
でも。
すぐに正しい判断だったとは決めない。
「近くで見ます」
◇
右の切り口。
三日目。
乾燥。
白っぽかった表面が、薄い緑褐色へ変わっている。
黒くない。
周囲の茎。
緑。
汁。
なし。
匂い。
なし。
左の切り口。
二日目。
右より色が薄い。
乾燥。
始まっている。
中央。
僅かに白い。
黒変。
なし。
汁。
なし。
「二つとも、閉じてきていますか」
エマが尋ねる。
マルタが硝子を使って見る。
「表面が乾き、傷口を塞ぐような変化は見えます」
「治った?」
トト。
「治ったとは、まだ言いません」
フローラが答える。
「でも、悪い色ではないと思います」
マルタが付け加える。
子どもたちが、小さく息を吐く。
◇
上葉。
表。
緑。
昨日見つけた白い跡。
大きさ。
変わらないように見える。
新しい跡。
なし。
裏。
虫。
なし。
葉脈。
緑。
縁。
萎れ。
なし。
「昨日の虫を取ったあと、新しい跡は見えません」
フローラが言う。
サムが板へ書く。
「虫が原因?」
「可能性はあります」
「取ったから止まった?」
「可能性はあります」
「じゃあ虫」
「まだ、完全には分かりません」
同じ言葉。
でも。
昨日。
一匹。
白い跡。
今日。
増えない。
少し。
関係。
近づく。
◇
新芽。
昨日より。
開いている。
先端。
二つの小さな葉へ分かれ始めている。
色。
緑。
片方。
少し小さい。
左右。
完全には同じでない。
「新しい葉?」
ルル。
「はい。新芽の中の葉が、少しずつ見えてきました」
「下の葉、ないのに?」
「はい」
「育つ?」
「今は、開く方向へ進んでいます」
「切ったから?」
また。
問い。
フローラは。
以前より。
ゆっくり。
答える。
「切ったあとに開きました」
「はい」
「でも、切ったから開いたとは決めません」
「切らなくても?」
「開いたかもしれません」
「病気だったら?」
「開かなかった可能性もあります」
「どっち」
「分かりません」
トトが頭を抱える。
「ずっと分からない」
周囲から、少し笑いが起きる。
フローラも。
「はい」
と笑った。
「でも、今開いていることは分かります」
それを。
受け取る。
◇
茎。
フローラ。
触れる。
一度。
昨日と。
大きな差。
感じない。
エマ。
「私も」
マルタ。
「昨日より、少し張りがあるようにも感じます」
「昨日は、少し柔らかいと言いました」
「はい」
「戻った?」
「そう感じますが、触れる場所や私の指の状態も違います」
マルタ。
自分の感覚を。
絶対にしない。
『茎下部。フローラ、エマは前日との差を大きく感じない。マルタは前日より僅かに張りを感じるが、触診条件が同一ではない。』
サム。
書く。
◇
土。
表面。
乾いている。
第一関節。
乾き。
第二関節。
僅かな湿り。
昨日。
水なし。
一昨日夕方。
少量。
今日は。
朝。
「少量の水を与えます」
フローラが言う。
エマ。
「切ったから?」
「いいえ。土の湿りが減ったからです」
「切り口にかけない?」
「はい。株元から少し離します」
水。
少量。
ゆっくり。
土へ。
染みる。
溜まらない。
「これ以上は、昼に見てからです」
◇
記録。
『オカエリ。左右下葉切除後。右切除部三日目、左切除部二日目。両方とも乾燥し、黒変・汁・臭いなし。右切除部は薄い緑褐色。左は白緑色。』
『上葉は緑。白色跡は前日から拡大なし。新規跡なし。葉裏に虫なし。新芽は前日より開き、内部の小葉二枚が見え始める。片方は僅かに小さい。』
『切除後に新芽が開いたが、切除との因果は未確定。』
『土壌は第二関節付近に僅かな湿り。少量給水。切除への不安ではなく、土壌状態を理由とする。』
最後。
フローラは少し考え。
『下葉を失った姿に慣れたわけではない。それでも、昨日より、残っているものを見られた。』
書く。
記録。
事実。
最後の一行は。
観察者。
自分。
◇
「正しかった?」
昨日と同じ子どもが尋ねる。
フローラはオカエリを見る。
切り口。
乾く。
上葉。
緑。
新芽。
開く。
心は。
正しかったと言いたい。
言えば。
切った痛みが少し軽くなる。
自分を責めなくて済む。
でも。
「まだ、決めません」
答える。
子どもは。
少し不満そう。
「いつ決める?」
「決められないかもしれません」
「でも、元気」
「今朝は、昨日より新芽が開いています」
「じゃあ」
「今朝の変化には安心しています」
正しい。
ではなく。
安心。
「違う?」
「はい」
「難しい」
「はい」
それでも。
子どもは。
「安心なら、いい」
小さく言った。
◇
昨日捕まえた薄緑色の虫。
瓶。
葉の表面。
白い跡。
昨日より。
一つ。
増えているように見える。
もともと。
見落とした跡かもしれない。
でも。
虫の口元らしい部分が、葉へ触れている。
「食べていますか」
エマ。
マルタ。
硝子。
見る。
「吸っているように見えます」
「では、オカエリの白い跡も」
「この虫が作った可能性は高いと思います」
「高い」
「はい」
初めて。
少し強い言葉。
「殺しますか」
トト。
昨日から。
同じ問い。
マルタが。
フローラを見る。
決める。
畑。
守る。
虫。
戻す。
戻せば。
植物。
吸う。
でも。
この虫が森の中に普通にいるものなら。
一匹を殺しても。
畑へまた来る。
「畑から離れた草地へ戻します」
フローラが答える。
「食べるのに?」
「はい」
「戻ってくるかも」
「可能性はあります」
「じゃあ、なんで」
「この一匹を殺せば、畑が守られるとは分からないからです」
「でも害虫」
「オカエリにとっては、害になる虫かもしれません」
「じゃあ」
「畑では見つけたら取ります」
「外では?」
「今は、殺しません」
その虫が。
森の中で。
別の役目を持つかもしれない。
何も知らない。
ただ。
畑の葉を吸う。
それだけ。
「一匹を観察のために捕まえました」
フローラは続ける。
「違いを見せてもらいました」
ムラマルの虫とは違う。
葉に白い跡を作る。
「だから、畑へ戻さず、少し離れた草へ返します」
子どもたち。
完全には。
納得していない顔。
でも。
サムは記録する。
『オカエリ上葉の薄緑虫。瓶内の葉へ白色跡を増やした可能性が高い。畑では除去対象。個体は畑から離れた草地へ戻す。』
「次に見つけたら?」
エマ。
「取ります」
「毎回戻す?」
フローラは少し考える。
「数が多ければ、別の方法を考えます」
「今は一匹」
「はい」
数。
状況。
同じ虫でも。
判断。
変わる。
◇
マルタとガルド。
子どもたち。
畑から少し離れた草地へ移動する。
オカエリから。
十分。
距離。
間に低い藪。
風向き。
畑とは逆。
瓶。
蓋。
開ける。
虫。
すぐには出ない。
細い草の葉を、瓶の中へ差し入れる。
虫。
移る。
草。
外へ。
少し。
止まる。
それから。
葉の裏へ。
回る。
「戻った」
ルル。
「はい」
「畑に?」
「森の草地へです」
「また会う?」
「分かりません」
小さい虫。
葉の裏。
見えなくなる。
追わない。
「ありがとうございました」
フローラは言う。
虫へ。
子どもたち。
少し不思議そう。
でも。
誰も笑わなかった。
◇
ムラマルから捕まえた三匹。
最初から一匹の瓶。
二匹から一匹になった瓶。
分離した弱い個体。
分離した弱い虫は。
昨日より。
動かない。
葉の端。
脚。
僅かに。
動く。
でも。
位置。
朝から。
同じ。
「弱い」
ルル。
「はい」
「外へ戻す?」
フローラは考える。
瓶の中。
狭い。
弱る。
外。
風。
捕食。
雨。
どちらが。
よい。
分からない。
観察のために捕まえた。
分けた。
それでも。
弱った。
「三匹とも、今日、戻します」
「全部?」
「はい」
「比べるのは?」
「ここまでの記録があります」
「もっと見ない?」
「これ以上、瓶の中へ置くことで弱らせる可能性があります」
「一匹は元気」
「はい」
「でも戻す?」
「はい」
弱い一匹だけ戻す。
元気な二匹は残す。
それでは。
元気な個体を。
さらに観察へ使い続けることになる。
必要か。
今。
ムラマルに新しい虫害はない。
虫の違い。
少し分かった。
「観察を終えます」
フローラは決めた。
◇
三つの瓶。
畑から離れた別の草地。
薄緑虫を戻した場所とは、少し違う。
ムラマルで見つけた虫が好みそうな、葉の形が似た草。
一匹目。
すぐに移る。
二匹目。
少し時間。
葉へ。
三匹目。
弱い虫。
草を差し入れても。
すぐには動かない。
「乗れない?」
エマ。
フローラは。
瓶を傾けない。
落とさない。
草の先を。
虫の脚へ。
近づける。
一度。
二度。
脚。
触れる。
ゆっくり。
草へ。
つかまる。
「乗りました」
小さな声。
周囲。
息。
止める。
草を。
瓶から。
ゆっくり出す。
弱い虫。
葉の上。
動かない。
でも。
脚。
つかまっている。
「生きる?」
ルル。
フローラは。
胸へ手を置く。
「分かりません」
いつもの答え。
でも。
今は。
少し痛い。
「戻したから、助かるとは決められません」
「瓶にいたら?」
「それも分かりません」
「どっちが正しい?」
「分かりません」
子どもたち。
静か。
「ただ」
フローラは弱い虫を見る。
「私たちが観察するために、これ以上瓶へ置かないことを選びました」
虫。
草。
風。
小さく揺れる。
「ここからは、この虫の時間です」
追わない。
見張らない。
生きたか。
死んだか。
確かめない。
「ありがとうございました」
三匹へ。
言う。
◇
畑へ戻る途中。
トトが。
「死んだら?」
尋ねる。
フローラは。
歩みを止めないまま答える。
「死ぬかもしれません」
「助けなかった?」
「瓶へ入れたことが、弱る原因だった可能性があります」
「じゃあ、ごめん?」
「はい」
「戻したから、もういい?」
「戻したことだけで、なかったことにはなりません」
「じゃあ」
「次に虫を捕まえる時、何日見るか。何を知りたいか。先に決めます」
「もう捕まえない?」
「必要なら捕まえます」
「また弱ったら?」
「前の記録を使います」
失敗したかもしれない。
だから。
二度としない。
ではない。
同じように繰り返さない。
「昨日と同じを押しつけない」
サムが言う。
「似ています」
フローラは頷く。
「虫の観察にも?」
「はい」
基準。
日数。
目的。
決める。
◇
キズナ。
花後五日目。
膨らみ。
昨日より。
はっきり。
縦長。
表面へ。
細い筋。
三本。
緑。
先端。
僅かに尖る。
「種の袋?」
リオ。
「可能性が高くなりました」
サムの筆が止まる。
「高い?」
「はい」
「種?」
「まだ、中を見ていません」
「開ける?」
トト。
「開けません」
「見たい」
「今開けば、育つ途中を止めるかもしれません」
「いつ?」
「自然に乾くか、開くまで待ちます」
「長い?」
「分かりません」
「また」
笑い。
フローラも笑う。
でも。
胸の奥。
温かい。
花。
散る。
花びら。
一枚。
家。
残る。
株。
小さな袋。
育つ。
「花びらを、今日開けました」
フローラは子どもたちへ伝える。
「どうだった?」
「白に近くなっていました」
「青は?」
「少し残っています」
「きれい?」
「拾った時とは違う形です」
「壊れた?」
「縁が少し欠けました」
エマ。
残念そう。
「でも」
フローラは。
花守り布の紙へ。
触れる。
「一枚は残りました」
ルルが。
キズナの膨らみを見る。
「こっちも残った」
「はい」
「花と違う」
「はい」
「両方」
「はい」
家へ残した花びら。
畑へ残った次の形。
同じ花から。
別の残り方。
◇
記録。
『キズナ。花後五日目。花のあった位置の膨らみは前日より縦長となり、表面に細い筋三本を確認。先端は僅かに尖る。種を包む部分である可能性が高まるが、未確認。開かず継続観察。』
『紙へ挟んだ花びらを三日後に確認。色は白に近く、縁一部欠損。薄青色は残る。花守り箱へ紙包みで保管。』
『同じ花から、花びらと、花後の膨らみが別の形で残った。』
◇
赤い実。
小石の円。
表土。
昨日と。
変わらない。
ひび割れ。
なし。
盛り上がり。
なし。
獣の足跡。
なし。
土。
表面。
乾き始めている。
指。
第一関節。
僅かな湿り。
第二関節。
湿り。
「水は?」
エマ。
「今日は与えません」
「乾いてる」
「表面は」
「芽、出ない」
「はい」
「水をあげたら?」
「早く出るとは限りません」
「乾いたら出ない」
「土の中には湿りがあります」
「でも」
エマ。
土。
見る。
「何かしたい?」
フローラが尋ねる。
「うん」
「私もです」
「じゃあ水」
「何かしたいことと、水が必要なことは別です」
エマの顔。
少し不満。
「待つだけ?」
「表面を記録します」
「それだけ?」
「小石の円が崩れていないか見ます」
「それだけ?」
「今日は、それだけです」
芽が出ない。
変化が見えない。
その時ほど。
何かを足したくなる。
水。
肥料。
掘る。
触る。
でも。
見えないからといって。
土の中へ。
答えを作ることはできない。
◇
サムが尋ねる。
「いつまで待つ?」
「決めていません」
「ずっと?」
「ずっとではありません」
「じゃあ、いつ」
フローラは。
記録板。
播種日。
見る。
赤い実。
埋めてから。
日数。
王都へ出発する前。
戻るまで。
村。
見た。
帰ってから。
さらに。
日。
多い。
「種の種類が分からないので、発芽までの日数も分かりません」
「じゃあ待つ日、決められない?」
「完全には」
「でも、ずっと待たない」
「はい」
「どうする」
フローラは。
小石の円。
見る。
赤い実。
子どもたちが拾った。
帰る目印。
芽が出たら。
帰ってくる。
そう言った。
でも。
フローラは。
芽が出る前に。
帰った。
赤い実は。
目印としての役目を。
すでに少し果たした。
「あと七日、表面を見ます」
フローラは答えた。
「七日?」
「はい」
「芽が出なかったら?」
「その時に、掘るか、掘らずに別の種を植えるか、皆で考えます」
「今決めない?」
「はい」
「七日後、また決める?」
「はい」
待つ期間。
決める。
永遠の。
まだ。
にしない。
「七日間、水は?」
「土を見て決めます」
「芽が出ないからじゃなく?」
「はい。土の湿りで」
サム。
記録。
『赤い実。あと七日、表土を観察する。芽が出ない不安を理由に水を増やさない。七日後、掘るか、掘らずに次の種を植えるか、再検討。』
その文字。
フローラは長く見た。
待つ。
でも。
終わりのない待ち方にしない。
◇
「七日後、忘れたら?」
トト。
「記録します」
「誰が?」
「皆で」
「先生、忘れる?」
「忘れる可能性はあります」
「じゃあ俺が覚える」
「私も」
「サムが書く」
「もう書いた」
子どもたち。
声。
重なる。
「七日後!」
「掘るか決める!」
「掘るって決めてない!」
「考える!」
「水いっぱいじゃない!」
「土を見る!」
周囲の大人。
笑う。
フローラも。
笑った。
自分一人の記憶へ。
全部。
置かない。
◇
観察を終えたあと。
マルタが。
オカエリの記録板を見ながら言う。
「上の葉が開き始めているのは、よい変化に見えます」
「はい」
「ただ、下葉を二枚失った影響は、数日後に出ることもあります」
「はい」
「今日、元気に見えるからといって、肥料を増やさないでください」
「はい」
「逆に、少し萎れたからといって、すぐ病気が残ったとも決めないでください」
「はい」
明日。
今日の答えを。
押しつけない。
「何日くらい見ますか」
「まず三日」
「三日後、決めますか」
「三日後に、次に見る期間を考えましょう」
一度で。
終わりの日を。
決めない。
短い区切り。
「分かりました」
◇
家へ戻る道。
朝より。
光。
強い。
木々の隙間。
細い金色。
足元。
乾き始める。
一歩。
二歩。
三歩。
オカエリ。
切り口。
乾く。
四歩。
新芽。
開く。
五歩。
正しいか。
まだ。
六歩。
虫。
戻す。
七歩。
キズナ。
次。
八歩。
赤い実。
あと七日。
◇
家へ着く。
「ただいま」
花守り箱。
キズナの花びら。
中。
見えない。
でも。
ある。
王都の箱。
今日も閉じている。
白鈴草の種。
待っている。
机。
赤い実の観察期限。
新しい紙へ書く。
『あと七日、表面を見る。』
日付。
その横。
『七日後に、掘ることを決めたわけではない。次の扱いを考える。』
言葉。
狭く。
正確に。
◇
昼食。
豆の粥の残り。
パン。
葉野菜。
朝。
オカエリ。
大きな悪化なし。
新芽。
開く。
嬉しい。
でも。
芋を増やすか。
フローラは。
少し考え。
「今日は、いつもの量にします」
リオ。
「芋なし?」
「芋はあります」
「増やさない?」
「はい」
「嬉しくない?」
「嬉しいです」
「じゃあ」
「嬉しい時に、毎回食べ物を増やす必要はありません」
「水と同じ?」
「少し似ています」
「でも食べたい」
「リオが食べたいなら、一つ増やしてもよいです」
「嬉しいからじゃなく?」
「食べたいからです」
リオ。
考える。
「食べたい」
「では、一つ」
理由。
分ける。
嬉しい。
食べたい。
同じにならない。
◇
食後。
子どもたちが。
キズナの花びらを見に来る。
エマ。
サム。
ルル。
トト。
ニコ。
リーナ。
玄関。
靴。
土。
落とす。
手。
洗う。
「触らない?」
フローラが確認する。
「触らない!」
「息を強く吹きかけませんか」
「しない!」
「箱の中へ手を入れませんか」
「入れない!」
「一人ずつ?」
「みんな!」
「一度に覗くと、押し合います」
子どもたち。
黙る。
「二人ずつ」
サム。
「はい」
◇
花守り箱。
机。
フローラが開く。
紙包み。
取り出す。
開くのは。
フローラ。
花びら。
中央。
白。
薄青。
欠け。
「白い」
エマ。
「青、少し」
ルル。
「小さい」
トト。
「壊れた」
ニコ。
「残った」
リーナ。
それぞれ。
違う言葉。
サム。
書く。
『白い。』
『青が少し。』
『小さい。』
『端が欠けた。』
『一枚残った。』
フローラは。
全部を見る。
「どれが正しい?」
トトが聞く。
「全部、見えたことです」
「きれい?」
エマ。
フローラは。
花びら。
見る。
咲いていた時の。
薄青い花。
風。
畑。
キズナ。
思い出す。
「私は、きれいだと思います」
「壊れてるのに?」
「はい」
「咲いてる方がきれい」
「そう思う人もいると思います」
「先生は?」
「咲いていた花もきれいでした」
「こっちも?」
「はい」
同じきれい。
ではない。
生きている花。
乾いた花びら。
別。
「残った形のきれいさです」
子どもたち。
少し。
難しい顔。
リーナだけ。
花守り布。
見て。
「縫う?」
と聞く。
「今日は、まだ縫いません」
「花びら、ある」
「はい」
「布に」
「箱にも、残せます」
何でも。
刺繍へ。
しなくていい。
「見るだけの日です」
リーナ。
頷く。
◇
子どもたちが帰ったあと。
フローラは花びらを再び紙へ包み、箱へ戻した。
何度も開ければ。
欠けるかもしれない。
今日。
一度。
皆で見た。
「次に開ける日は?」
ミナが尋ねる。
「決めません」
「はい」
「見たい時に、開けます」
「はい」
三日。
乾かすため。
期限。
必要だった。
今。
乾いた。
次。
期限。
いらない。
同じ花びらでも。
待ち方。
変わる。
◇
午後。
フローラは観察帳の六日目を読もうとした。
森へ帰ってから。
まだ読んでいない記録。
王都へ行っていた間の。
六日目。
でも。
紙束へ手を置いた時。
胸の中に。
オカエリ。
虫。
赤い実。
花びら。
言葉。
多い。
「今日は、読みません」
観察帳を戻す。
読める。
時間もある。
でも。
読まない。
読む日数を。
毎日一つずつ進める必要はない。
◇
代わりに。
白鈴草の種。
小さな袋。
机。
見る。
昨日。
小鉢。
三粒。
そう考えた。
今日。
蒔くか。
赤い実。
芽。
出ない。
新しい種。
同時。
畑へ。
増やす。
管理。
増える。
「今日は、蒔きません」
白鈴草へ。
言う。
「赤い実の芽が出ないから、代わりにあなたを植えるわけではありません」
赤い実。
出ない。
空いた期待。
白鈴草。
入れる。
それは。
違う。
「あなたを植える日は、あなたのために決めます」
種。
返事。
ない。
でも。
袋。
閉じる。
◇
夕方前。
ガルドから。
大きな変化なし。
連絡。
オカエリ。
上葉。
緑。
新芽。
朝と。
大きな差。
なし。
切り口。
乾燥。
水。
追加なし。
フローラは。
すぐ畑へ行く。
今日は。
夕方。
自分で見る。
◇
森の道。
昼の光が。
橙へ。
変わる。
空。
雲。
少ない。
明日。
晴れるかもしれない。
一歩。
二歩。
三歩。
朝の安心。
四歩。
夕方の変化。
五歩。
同じでなくていい。
◇
オカエリ。
夕方。
上葉。
朝より。
少し。
下へ。
見える。
胸。
固くなる。
「萎れましたか」
エマ。
「角度が下がって見えます」
触る前。
光。
朝。
東。
夕方。
西。
葉。
光の向きへ。
変わるかもしれない。
風。
朝より。
弱い。
水。
朝。
少量。
「板を」
影。
見る。
葉色。
緑。
張り。
一度。
触れる。
柔らかくはない。
朝と。
大きな差。
感じない。
「萎れたとは、まだ言いません」
角度。
下。
でも。
張り。
ある。
新芽。
朝より。
ほんの少し。
開く。
「光の向き?」
サム。
「可能性があります」
「朝の絵と比べる?」
「同じ方向から見ていません」
「じゃあ分からない」
「はい」
写真。
ない。
絵。
角度。
違う。
それでも。
今の状態。
記録。
◇
切り口。
右。
乾燥。
濃く。
左。
朝より。
表面。
薄く。
褐色。
黒変。
なし。
汁。
なし。
匂い。
なし。
周囲の茎。
緑。
「夕方まで、大きな悪化なし」
フローラ。
声。
少し。
緩む。
「今日は無事?」
ルル。
「今のところ」
「安心?」
「はい」
「正しかった?」
「まだです」
ルル。
少し笑う。
「いつも」
「はい」
◇
土。
朝。
水。
少量。
今。
第一関節。
僅かな湿り。
第二。
湿り。
追加。
なし。
「明朝まで待ちます」
◇
キズナ。
膨らみ。
夕方。
光。
横。
筋。
三本。
朝より。
影。
はっきり。
大きさ。
大きく変わらない。
「種、いる?」
トト。
「中は見えません」
「触る?」
「触りません」
「振る?」
「振りません」
「音」
「まだ柔らかいです」
「じゃあ待つ」
「はい」
赤い実。
表面。
変化なし。
水。
なし。
小石。
円。
そのまま。
「一日目」
サム。
「何が?」
「あと七日の、一日目」
「はい」
待つ期間。
始まった。
◇
夕方の記録。
『オカエリ。夕方、上葉の角度が朝より下がって見えるが、観察方向と光条件が異なる。触診では張りを保つ。葉色は緑。新芽は朝より僅かに開く。切除部二箇所は乾燥継続、黒変・滲出なし。』
『朝の少量給水後、土壌は第一関節下に湿りあり。追加給水なし。』
『朝から夕方まで、大きな悪化は確認しない。観察者、安心あり。切除判断の正否とは統合しない。』
『キズナ。花後五日目夕方。膨らみの筋三本が横光で明瞭。大きさの大幅変化なし。触れず。』
『赤い実。追加観察期間七日の一日目。発芽・表土変化なし。土中に湿りあり、給水なし。』
◇
記録を終えたあと。
村人の一人が。
赤い実の小石円を見ながら尋ねる。
「七日待って出なかったら、掘るのかい」
「まだ決めていません」
「腐ってるかもしれない」
「はい」
「なら、見た方が」
別の人。
「掘ったら、出ようとしてる芽を傷つけるかもしれん」
「でも、出ないまま待っても」
意見。
二つ。
フローラは。
どちらも。
聞く。
「七日後に、もう一度話してください」
「今決めない?」
「はい」
「なぜ」
「七日のあいだに、表土が変わるかもしれません」
「変わらなかったら?」
「その時の土。天気。ほかの種の予定。それを見て考えます」
「今日の決まりを、七日後へ押しつけない?」
パン屋の女性。
少し笑いながら言う。
「はい」
フローラも笑う。
「でも、今日の意見は記録します」
掘る。
掘らない。
両方。
サム。
書く。
◇
家へ戻る道。
夕焼け。
森。
葉の縁。
金色。
フローラは。
胸へ。
今日の言葉。
置く。
完璧に残らなかった花びら。
一枚。
残った。
オカエリ。
下葉。
ない。
新芽。
開く。
赤い実。
芽。
ない。
あと七日。
見えないこと。
ないこと。
それだけで。
答えを埋めない。
◇
家。
「ただいま」
花守り箱。
閉じている。
白鈴草。
待つ。
観察帳。
六日目。
読まない。
王都の箱。
開けない。
今日は。
開けないものが多い。
でも。
キズナの花びらは。
開けた。
全部。
閉じたままではない。
◇
夕食。
豆。
葉野菜。
パン。
芋。
一つ。
今日は。
増やさない。
三人で。
普通に。
食べる。
「普通?」
リオが尋ねる。
「何がですか」
「今日、何の日」
オカエリ。
新芽。
虫。
花びら。
赤い実。
いくつも。
「森へ帰ってから八度目の日です」
「それだけ?」
「それだけではありません」
「じゃあ」
「いろいろあった日です」
「名前」
「つけません」
「なんで」
「毎日へ題をつけなくても、日記に残せます」
リオ。
少し考える。
「豆の日」
「豆を食べた日は多いです」
「毎日」
「ほとんど」
ミナ。
笑う。
◇
食後。
日記。
開く。
今日
日記。
開く。
今日。
見たものは多い。
けれど、すべてを同じ重さで書こうとすれば、また一日の出来事を一度に抱えることになる。
フローラは筆を持ったまま、白い紙の上へ視線を落とした。
まず、キズナの花びら。
次に、オカエリ。
虫。
赤い実。
白鈴草。
読まなかった観察帳。
開けなかった王都の箱。
順番に並べようとすると、どれが最初だったのか分からなくなる。けれど、今日という一日は、正しい順序で残さなければならない報告書ではない。
胸に残っていることから、書いてよい。
『森へ帰ってから八度目の朝。三日前に紙へ挟んだキズナの花びらを開いた。花びらは拾った時より白くなり、縁が一部欠けていた。薄い青は少しだけ残っていた。』
筆を止める。
失敗。
その言葉を使うか、迷った。
最初に見た時。
完全な形ではなかった。
色も薄くなった。
だから、失敗したのではないかと思った。
けれど。
何を成功とするのか。
拾った時と同じ形を保つことなのか。
咲いていた色を、そのまま閉じ込めることなのか。
花があったことを、あとで思い出せるようにすることなのか。
それによって、答えは変わる。
『完璧な形と色を残すことが目的なら、うまくできなかった。けれど、キズナの花びらを一枚残し、咲いていた日のことを思い出せるようにすることが目的なら、残せたものもある。』
書いたあと、フローラは少しだけ眉を寄せた。
長い。
でも。
短くしてしまえば、どちらか一つになる。
失敗した。
残せた。
本当は、両方ある。
「このままでよいです」
誰に確認するでもなく言い、次の行へ移る。
『子どもたちと花びらを見た。白い。青が少し。小さい。端が欠けた。一枚残った。それぞれ、違うことを見ていた。どれか一つだけが正しいのではなかった。』
子どもたちの顔を思い出す。
残念そうに見たエマ。
薄い青を見つけたルル。
小さくなったことを言ったトト。
欠けた場所を見つけたニコ。
一枚残ったと言ったリーナ。
同じ花びら。
同じ机。
同じ時間。
それでも、見えたものは違う。
『私は、残った形もきれいだと思った。咲いていた時と同じきれいではない。』
そこまで書き、筆を置く。
きれい。
簡単な言葉。
でも。
咲いている花の鮮やかさ。
乾いた一枚の静かさ。
同じ言葉で呼んでも、意味は違う。
違っていてよい。
◇
次に。
オカエリ。
『オカエリの左右の切り口は、今朝も黒くならず、汁や強い匂いもなかった。右は三日目、左は二日目。同じ株にある傷でも、進んだ日数は同じではない。』
『上の葉は緑を保ち、新芽は昨日より開いた。切ったから開いたとは決めない。切らなければ開かなかったとも決めない。今、開いていることだけは分かる。』
胸の奥に。
また。
正しかったのかという問いが浮かぶ。
二枚の葉を切った。
昨日も。
今日も。
新芽は開いた。
上葉は残った。
病変らしい茶色い点も、今は見えない。
なら、切って正しかった。
そう言えば。
自分を安心させられる。
けれど。
葉を切らなかった時間は存在しない。
比較できない。
結果がよい方向へ進んでいるように見えるからといって、判断のすべてが正しかったと証明されるわけではない。
逆に。
もし明日、上葉が萎れたとしても。
切ったことがすべて間違いだったと、すぐに決まるわけではない。
『今日の安心を、昨日の判断の答えにしない。』
短い一文。
フローラは、その下へ続ける。
『ただし、安心してはいけないわけではない。左右の切り口が乾き、新芽が開いたことを、今日は嬉しいと思った。』
判断を保留することと。
感情まで保留することは違う。
分からない。
でも。
嬉しい。
安心した。
そのまま書く。
◇
虫。
『オカエリの上葉で見つけた薄緑色の虫は、瓶の中の葉へ白い跡を作った可能性が高いと分かった。畑では取り除く。今日は、畑から離れた草地へ戻した。』
『ムラマルから取った虫も、三匹すべて草地へ戻した。弱い一匹が生き続けるかは分からない。瓶へ残した方がよかったかも分からない。』
あの小さな脚。
草へつかまった。
そのあとの時間。
もう。
見ていない。
追わないと決めた。
「今頃」
言いかけて、やめる。
生きているか。
死んでいるか。
風に飛ばされたか。
葉の裏へ隠れているか。
考えても。
見に戻れば。
また、その虫の時間を自分の観察へ取り込むことになる。
『観察するために捕まえた。知りたいことが増えるほど、瓶へ置く時間も増えた。次に虫を捕まえる時は、何を知りたいのか、何日見るのかを先に決める。』
失敗だったと決めない。
何も悪くなかったとも決めない。
次。
変える。
『戻したことで、捕まえたことがなくなるわけではない。』
書いた文字を見つめる。
謝る。
戻す。
それで。
すべてが元へ戻るわけではない。
父様も。
母様も。
謝った。
それで。
過去は戻らない。
けれど。
だから謝る意味がないわけでもない。
虫と人は同じではない。
同じにしてはいけない。
それでも。
したことが消えなくても、そのあとに選べることがある。
そういうところだけ。
少し似ている。
『似ているところがあっても、同じではない。』
書き足す。
◇
赤い実。
筆先が紙の上で止まった。
今日の題に最も近いもの。
芽が出ない。
目に見える変化がない。
だから。
答えを置きたくなる。
腐っている。
芽が出ない種だった。
植え方が悪かった。
水が足りない。
深すぎた。
浅すぎた。
何か。
一つ。
決めたい。
決めれば。
次に何をするか分かるから。
掘る。
水を足す。
捨てる。
別の種を植える。
でも。
今。
分かるのは。
表土に芽がないこと。
土の中に湿りがあること。
小石の円が崩れていないこと。
それだけ。
『赤い実は、今日も芽を出していない。』
一度。
そこで区切る。
『芽が出ない種だとは、まだ決めない。土の中で育っているとも決めない。見えない場所へ、よい答えも悪い答えも埋めない。』
胸の奥が、静かに震えた。
よい答え。
悪い答え。
どちらも。
見えない土の中へ入れない。
芽が出る。
きっと大丈夫。
そう思いたい。
でも。
期待も。
見えていない答え。
腐っている。
失敗した。
それも。
見えていない答え。
『あと七日、表面と土の湿りを見る。七日後に掘るとは決めていない。その時に、掘るか、掘らずに別の種を植えるか、もう一度考える。』
期限を決めた。
でも。
答えは決めなかった。
待つ。
永遠ではない。
七日。
そのあと。
また。
考える。
◇
白鈴草。
『白鈴草の種は、今日も蒔かなかった。赤い実の芽が出ない場所を埋めるために、新しい種を植えない。白鈴草を植える日は、白鈴草のために決めたい。』
王都から持って帰ったもの。
早く。
森で。
育てたい。
芽を見たい。
王宮と森がつながる形を見たい。
でも。
赤い実が芽を出さない寂しさを。
白鈴草で隠したくない。
別。
種。
別。
時間。
「待っていてください」
机の小袋へ向けて言う。
白鈴草は。
返事をしない。
それでも。
待たせることは。
捨てることではない。
◇
観察帳。
『王都へ行っていた間の六日目の記録は、今日は読まなかった。読める時間はあった。でも、今日受け取った言葉が多かったので、読まなかった。』
読まない。
遅れる。
溜まる。
以前のフローラなら。
毎日一つずつ読み進めると決めたら。
どれほど疲れていても。
守っただろう。
一日遅れれば。
翌日に二つ。
追いつく。
決めた順番から外れないように。
でも。
観察帳は。
逃げない。
記録された日も。
変わらない。
『読む日を一日ずらしても、六日目の記録はなくならない。』
母様の手紙も。
王都の箱も。
今日。
開けなかった。
『開けなかったものが多い日だった。けれど、何も受け取らなかった日ではない。』
キズナの花びらを開いた。
オカエリを見た。
虫を戻した。
赤い実の待つ日数を決めた。
開けないこと。
見ること。
どちらも。
今日の選択。
◇
フローラは、書いた日記を最初から読み返した。
長い。
出来事が多い。
でも。
同じ言葉の繰り返しだけではない。
今日。
分かったこと。
分からなかったこと。
決めたこと。
決めなかったこと。
それぞれ。
紙の上へ置かれている。
最後。
一行。
何を書くか。
題。
毎日へ題をつけなくてもよいと、夕食の時には言った。
けれど。
日記の最後へ。
今日を残す一文は欲しい。
フローラは筆を持ち直した。
『芽が見えない鉢へ、私はまだ答えを埋めない。』
書く。
少し考え。
鉢。
赤い実は。
畑の端。
鉢ではない。
土。
小石の円。
題の言葉としては。
鉢。
でも。
記録としては違う。
フローラは線を一本引いた。
消さない。
書き間違えた跡を残す。
『芽が見えない土へ、私はまだ答えを埋めない。』
その下へ書き直す。
鉢と書いた。
土と直した。
どちらも。
今日。
◇
日記を閉じたあと、花守り布へ入れる紙を選ぶ。
今日の日記すべては。
持たない。
短い言葉。
一つ。
『見えない場所へ、よい答えも悪い答えも埋めない。』
それだけ。
今朝の三つ。
オカエリの言葉。
キズナの花びら。
そこへ。
赤い実。
四つ。
花守り布へ入れる。
「重くありません」
布を持ち上げる。
紙は軽い。
でも。
言葉の重さは。
少しある。
かぶらない。
夜。
寝る前。
机へ置く。
◇
リオは、窓辺の丸い石を持ってきた。
「今日」
「はい」
「書く」
紙。
石。
朝。
冷たい。
昼。
少し温かい。
夕方。
また冷える。
リオの紙には。
波線。
一つ。
三つ。
二つ。
「三つが一番温かいのですか」
「うん」
「夕方は二つ」
「うん」
「朝は一つ」
「うん」
「触った回数は?」
別の欄。
朝。
三回。
昼。
一回。
夕。
二回。
「回数と温かさを分けましたね」
「うん」
リオは少し得意そうに頷く。
「人は?」
朝。
リオ。
フローラ。
昼。
リオ。
夕。
リオ。
「ミナは触っていません」
「うん」
「今日は、私も朝だけ」
「うん」
全部。
揃っていない。
でも。
今日の石。
残る。
「昨日と比べる?」
リオが尋ねる。
昨日は。
印の使い方が違った。
完全には比べられない。
「温かさの印を決めた今日からなら、明日以降と比べやすくなります」
「昨日は?」
「昨日の記録は、昨日のものです」
「使えない?」
「使えるところもあります」
「どこ」
「冷たいと感じたこと。何回触ったか。私も触れたこと」
「でも波、ない」
「はい」
「失敗?」
フローラは、少し考えた。
「今日と同じようには比べられません」
「うん」
「でも、昨日、記録を分けたから、今日の形を考えられました」
「うん」
「だから、全部が失敗ではありません」
「少し失敗?」
「分かりにくいところはあります」
「じゃあ、少し」
「はい」
リオは紙の端へ。
小さな斜め線を一本引いた。
「これは?」
「少し分からない」
「印にしたのですか」
「うん」
フローラは笑った。
「明日、それが何の印か忘れないでください」
「書く」
リオは、横へ。
『すこしわからない』
と書いた。
文字は。
少し曲がっている。
でも。
読める。
◇
夜。
窓の外は。
完全に暗くなった。
森の木々は見えない。
小石の円も。
赤い実を埋めた土も。
オカエリも。
キズナも。
今は見えない。
見えない。
だからといって。
なくなったわけではない。
でも。
夜のあいだに。
必ず育つとも決めない。
「今夜は、見えません」
窓辺へ立ち。
フローラは言った。
「明日の朝、見ます」
それだけ。
◇
寝る支度。
顔を洗う。
髪を解く。
暖炉の火。
確認。
戸締まり。
結界。
異常なし。
鳥笛。
なし。
寝台。
毛布。
身体を入れる。
リオとミナの気配。
隣の部屋。
家。
森。
フローラは目を閉じる前に、胸へ手を置いた。
赤い実。
芽が出ない。
七日。
待つ。
もし。
七日後。
出なかったら。
掘るか。
掘らないか。
考える。
掘って。
腐っていたら。
悲しい。
何も残っていなかったら。
自分の植え方が悪かったと思うかもしれない。
芽が出かけていたのに傷つけたら。
後悔する。
掘らずに。
次の種を植えたら。
赤い実を見捨てたように思うかもしれない。
どれを選んでも。
怖さがある。
「七日後の私が、考えます」
今。
全部。
決めない。
「今日の私は、今日の土を見ました」
湿り。
十分。
芽。
なし。
小石。
そのまま。
それだけ。
「おやすみなさい、赤い実」
土の下。
届かない。
「芽が出ても」
一度。
言葉を止める。
「芽が出なくても」
どちらも。
先に。
決めない。
「七日間、見ます」
約束。
芽が出るまで待つ、ではない。
七日間。
表面を見る。
そして。
もう一度考える。
「おやすみなさい、オカエリ」
左右の切り口。
乾く。
新芽。
開く。
「今日の安心は、今日のものです」
明日。
違うかもしれない。
それでも。
今夜は。
安心して眠ってよい。
「おやすみなさい、キズナ」
花びら。
一枚。
箱。
膨らみ。
畑。
別の形。
「花は、全部同じ場所には残りませんでした」
でも。
一枚。
家。
次の形。
畑。
「おやすみなさい」
最後に。
自分へ。
「今日、分からないものへ、答えを埋めませんでした」
胸の奥。
静かになる。
答えを出さなかった。
でも。
何もしなかったのではない。
見た。
記録した。
待つ日数を決めた。
人へ頼んだ。
次に考える日を残した。
それで。
今日を終えてよい。
フローラは毛布を顎の下まで引き上げた。
森の夜。
小川。
風。
葉。
遠くの獣。
家の木板が、温度の変化で小さく鳴る。
土の下は。
見えない。
だから。
今夜のフローラは。
そこへ希望も絶望も埋めなかった。
ただ。
赤い実がある場所を忘れないように。
小石の円と。
あと七日という言葉だけを。
明日の自分へ残した。




