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『青の姫君の森暮らし 〜化け物と恐れられた公爵令嬢は、今日も畑を耕します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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98/101

第98話 青の姫君、芽が出ない鉢へ答えを埋めない



 森へ帰ってから、八度目の朝。


 夜のあいだに雨は降らなかったらしく、屋根も窓枠も乾いていた。薄い朝靄が森の低いところへ溜まり、家の周囲へ張られた結界の向こうでは、まだ光を受けきらない木々が青灰色の影を重ねている。


 フローラは寝台の中で目を開き、毛布の端へ指をかけたまま、しばらく耳を澄ませていた。


 小川の音。


 葉の擦れる音。


 家の屋根へ落ちた、小さな木の実の音。


 遠くから聞こえる鳥の声。


 鳥笛はない。


 結界にも、異常を知らせる揺れはない。


「今朝も、森の家にいます」


 天井へ向かって言うと、胸の内側へ静かな温かさが広がった。


 王都から戻った直後は、朝起きるたびに森へ帰ったことを確かめなければならなかった。目を開けた場所が王宮の客室ではないことや、厚い石壁の向こうに大勢の気配がないことを一つずつ確認し、それからようやく身体の力を抜くことができた。


 八度目の朝になった今も、その確認は残っている。


 けれど、最初の頃ほど切実ではない。


 戻ってきた。


 今日もいる。


 そして、明日もいるつもりでいる。


 それだけで、十分だった。


「おはようございます、青豆一号。アオジロウ。ムラマル。モリタン」


 まだ窓の向こうにいる株へ、名前を呼ぶ。


「おはようございます、オカエリ」


 その名前を口にした時だけ、胸が少し強く鳴った。


 左右の下葉を切ったあと、オカエリは上葉と新芽だけを残した姿になった。見慣れていた形とは違う。茎の下側が空き、二つの切り口が並んでいるため、遠くから見ると以前より細く、頼りなく見える。


 昨日。


 その新芽は、完全には開かなかった。


 けれど、先端の緑を保っていた。


 上葉にも新しい変色はなく、左右の切り口は乾いていた。


 切った翌日の右側。


 切った当日の左側。


 二つの傷は、同じ日数を進んでいない。


 だから昨日も、一つずつ別に記録した。


「今日も、同じではありません」


 左の切り口は、今日で二日目。


 右は三日目。


 上葉と新芽は、また一日進んでいる。


 昨日の記録を持って見る。


 でも、昨日の答えを先に当てはめない。


「おはようございます、キズナ」


 花のあった場所。


 小さな膨らみ。


 昨日はさらに細長くなり、下側へ僅かな筋が見えた。種を包むものかもしれないとエマが言い、サムは「袋っぽい」と記録した。


 まだ、種とは決めていない。


 花が散ったあと。


 花びらが土から見えなくなったあと。


 それでも形を変え続けている。


「今日は、どのようになっていますか」


 見たい。


 すぐに。


 けれど。


 その前に、家の中にも見るものがある。


 窓辺の机。


 小さな重しの下。


 紙へ挟んだキズナの花びら。


 三日後に開けると決めた。


 今日が、その三日目だった。


 フローラは毛布から手を出し、指を一本ずつ握った。


 紙を開けたい。


 色が残っているか。


 壊れていないか。


 きれいに乾いているか。


 それを見たい。


 でも。


 先に開けるか。


 畑のキズナを見てから開けるか。


 二つは同じキズナの記録であっても、急いで同じ時間へ並べる必要はない。


「朝食のあとに、開けます」


 声へ出して決める。


「畑へ行く前です」


 外のキズナを見る前に、家へ残した花びらを見る。


 花だった時の一枚。


 花の次へ進んでいる株。


 その順番で、今日は受け取る。


     ◇


 フローラは寝台を降り、窓へ近づいた。


 掛け金を外すと、乾いた冷気が部屋へ流れ込んだ。雨上がりの湿りではなく、夜露と朝の土が混じった匂いだった。


 風は北東から弱く吹いている。


 空には薄い雲があるが、雲の切れ間から朝の光が差し始めていた。昼には晴れるかもしれない。


 新しい柵は、今日も僅かに曲がったまま立っている。


 赤い実を埋めた小石の円も崩れていない。


 窓から見える範囲では、芽はまだない。


「まだです」


 埋めてから、何日目だったか。


 記録を見れば分かる。


 けれど。


 日数が増えたからといって、芽が出るとは限らない。


 赤い実が、そもそも種を持っていたのか。


 森の土に合うのか。


 冬を越す種類なのか。


 何も分からない。


 昨日。


 子どもたちは、小石の円の中央を長く見つめていた。


「出ないね」


 トトが言った。


「まだ出ていないだけです」


 フローラが答えると。


「出ないのと、まだ出てないのは違う?」


 そう聞かれた。


 違う。


 今、見えていない。


 だからといって、これからも出ないと決めることはできない。


 けれど。


 いつまでも「まだ」と言い続ければ、芽の出ない種へ、自分の望む未来を押しつけることにもなる。


 どこまで待つか。


 いつ掘って確かめるか。


 あるいは、最後まで掘らずに次の種を植えるか。


 まだ決めていない。


「今日も、まずは表面を見ます」


 掘らない。


 水を足さない。


 土が乾いているなら考える。


 でも、芽が出ない不安を、水で埋めない。


     ◇


 顔を洗い、髪を梳く。


 花守り布を机へ広げ、内側の袋を確認する。


 昨日持ち歩いた六つの言葉。


『左右の下葉を失っても、オカエリは残っている。』


『切り口が乾いたことへ安心してよい。』


『上葉と新芽の緑を、切った判断の正しさへすぐ結びつけない。』


『病変の可能性がある葉を残さないことも、守り方だった。』


『昨日と同じことをしても、理由は同じとは限らない。』


『明日は、今日の基準だけで決めない。』


 今日。


 そのまま持っていくか。


 フローラは少し考えた。


 切った日の言葉。


 必要。


 でも。


 今日は。


 葉を切る予定ではない。


 予定がないだけで、状態によっては何かを選ぶかもしれない。


 それでも、昨日の六つをすべて身体へ載せる必要はない。


 一枚目。


『左右の下葉を失っても、オカエリは残っている。』


 これは持っていく。


 今朝も、オカエリを見る時に必要。


 二枚目。


『切り口が乾いたことへ安心してよい。』


 これも。


 安心を否定しないために。


 三枚目以降。


 今日は木箱へ置く。


「大切ではないからではありません」


 毎朝、同じことを言っている気がする。


 けれど。


 言うたびに、少しずつ身体が理解する。


「今日は、二つだけ持ちます」


 花守り布が軽くなる。


 空いた袋の中には。


 あとで、キズナの花びらについて新しい言葉が入るかもしれない。


 入らないかもしれない。


 最初から場所を埋める必要はない。


     ◇


 朝食の部屋へ入ると、リオが食卓の前で何かを見つめていた。


 丸い石ではない。


 小さな皿。


 その中央へ。


 三粒の豆が並んでいる。


「食べないのですか」


「違う」


「何がですか」


「一番大きいの」


 三粒。


 似ている。


 でも。


 一つは僅かに長い。


 一つは丸い。


 もう一つは、表面へ浅い皺がある。


「どれを選ぶのですか」


「分からない」


「何に使う豆ですか」


「粥」


「食べる豆ですね」


「うん」


「一番大きいものを食べたいのですか」


「最初に食べる」


 フローラは三粒を見る。


「大きさを比べているのですか」


「うん」


「手で持ちますか」


「持った」


「同じくらい?」


「これ」


 リオが長い豆を指す。


「一番」


「長いですね」


「大きい」


「長いことと、大きいことは同じでしょうか」


 リオの眉が寄る。


 丸い豆。


 長い豆。


 皺のある豆。


「丸い方が、横は大きいかもしれません」


「じゃあ、どれ」


「何を大きさと呼ぶかで変わります」


「面倒」


「はい」


 フローラは少し笑った。


「重さを量れば、一番重いものは分かります」


「秤?」


「小さすぎて、家の秤では難しいかもしれません」


「じゃあ分からない」


「完全には」


 リオは三粒を見た。


 それから。


「全部食べる」


「粥へ入っていますから、全部食べます」


「じゃあ選ばない」


「最初に食べる豆は?」


「匙に乗ったやつ」


 比べた。


 でも。


 決める必要がなかった。


 何のために選ぶか。


 それがなくなれば。


 一番を決めなくていい。


「赤い実も」


 フローラは呟いた。


「何が?」


「芽が出るかを、今決める必要はありません」


「うん」


「出たら見る」


「うん」


「出なかったら?」


 リオは少し考えた。


「また豆食べる」


「赤い実は豆ではありません」


「でも朝食」


 話が変わった。


 フローラは笑い、席へ着いた。


     ◇


 朝食は、豆と刻んだ葉野菜を入れた粥だった。


 三粒だけではない。


 たくさんの豆。


 どれが先ほどの三粒か、鍋の中へ入れば分からない。


 リオは最初の一匙を見つめた。


「どれ?」


「分かりませんね」


「全部同じ」


「同じではありません」


「でも分からない」


「はい」


 違いがある。


 でも。


 今は分けなくていい。


 一緒に煮る。


 一緒に食べる。


 畑では分ける必要があることも。


 食卓では分けないこともある。


     ◇


 粥を食べ終えたあと、フローラは机の小さな重しへ手を置いた。


 ミナとリオも、近くにいる。


「開けます」


 紙へ挟んだキズナの花びら。


 三日。


 途中で開けなかった。


 毎日。


 気になった。


 でも。


 待った。


 重しを外す。


 上の木板を持ち上げる。


 二枚の紙。


 端。


 少しだけ浮いている。


 フローラは指先で上の紙をつまんだ。


「ゆっくり」


 リオが言う。


「はい」


 少しずつ。


 紙を開く。


 中央。


 薄青い花びら。


 拾った時より、さらに色が淡くなっていた。


 鮮やかな青ではない。


 白に近い。


 それでも、縁の一部へ薄い青が残っている。


 形は。


 完全ではない。


 上側の端が、小さく欠けていた。


 紙へくっついたのか。


 挟む前から傷んでいたのか。


 分からない。


「壊れていますか」


 ミナが尋ねる。


「少し欠けています」


「はい」


「でも、残っています」


「はい」


 フローラは、息を吐いた。


 きれいに残したいと思っていた。


 花びらの形を。


 色を。


 キズナが咲いた証を。


 けれど。


 三日待って開いた花びらは、拾った時のままではなかった。


「白くなりました」


「はい」


「青は、少しだけです」


「はい」


「失敗でしょうか」


 言ったあと。


 すぐには答えを探さない。


 乾かす。


 紙へ挟む。


 三日待つ。


 初めて。


 花びらの水分。


 紙の質。


 重し。


 何も完全には分からなかった。


「何を残したかった?」


 リオが尋ねる。


 フローラは花びらを見る。


「キズナの花です」


「ある」


「形が欠けています」


「でもある」


「色も薄いです」


「でも少し青」


「はい」


「失敗?」


「分かりません」


 また。


 分からない。


 でも。


 今度の分からないは。


 苦しくなかった。


「完璧には残りませんでした」


「うん」


「でも、一枚は残りました」


「うん」


 それで。


 今は。


 受け取る。


     ◇


 フローラは柔らかな紙を新しく用意した。


 古い紙から、花びらを移す。


 指でつままない。


 細い木片を使い、下からそっと持ち上げる。


 軽い。


 息を強く吐けば、飛びそうなほど。


 新しい紙の中央へ置く。


「花守り箱へ入れますか」


 ミナが尋ねる。


 花守り箱。


 落ちた花。


 刺繍。


 言葉。


 残したもの。


「はい」


 今なら。


 入れられる。


 完全に乾いている。


 病気の可能性がある葉ではない。


「でも、直接は入れません」


 紙で包む。


 表へ書く。


『キズナの花びら。一枚。花が散った日に拾い、翌日に紙へ挟んだ。三日後、色は白に近くなり、縁が一部欠けていた。薄い青は残っている。』


 事実。


 拾った日。


 挟んだ日。


 開いた日。


 別。


 そして。


『完璧には残らなかった。けれど、一枚は残った。』


 最後に書き加える。


 花守り箱。


 開く。


 春待ちの根元で拾った花弁。


 以前の小さな花。


 布。


 紙。


 それぞれ。


 同じ形ではない。


 キズナの花びらを、一番上へ置く。


 箱を閉じる。


「戻しませんか」


 リオが聞く。


「畑へ?」


「うん」


「紙へ挟んだ花びらは、家へ残します」


「土へは?」


「ほかの花びらが戻りました」


「うん」


「一枚だけ、ここです」


 全部を同じ場所へ戻さない。


 全部を手元へ残さない。


「これでよいです」


     ◇


 花守り布へ、新しい紙を入れる。


『完璧には残らなかった。けれど、一枚は残った。』


 今朝持った二つの言葉。


 オカエリ。


 切り口。


 その横へ。


 キズナ。


 花びら。


 三つ。


 布は。


 まだ軽い。


     ◇


 結界へ。


 ガルド。


 エマ。


 サム。


 ほかに。


 マルタの気配もある。


 フローラは戸を開ける。


「おはようございます」


「おはようございます」


 マルタは今日も細い木箱を持っていた。


「オカエリを見に?」


「はい。それから、昨日の虫も」


「ありがとうございます」


 エマは、少し興奮した顔で花守り箱の方を見る。


「花びら、開けました?」


「はい」


「きれい?」


 フローラは少し考えた。


「拾った時とは違います」


「壊れた?」


「少し欠けました」


 エマの顔が曇る。


「失敗?」


「完璧には残りませんでした」


「でも?」


「一枚は残りました」


 エマは。


 少し考え。


「見たい」


「帰ってから、触らずに見るなら」


「はい」


「今日は畑が先です」


「はい」


 子どもたち。


 花びら。


 見たい。


 でも。


 今は。


 畑。


     ◇


 森の道。


 光が少し強くなっている。


 薄い雲の切れ間。


 青。


 風。


 昨日より弱い。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 右の切り口。


 四歩。


 左の切り口。


 五歩。


 上葉。


 六歩。


 新芽。


 七歩。


 土。


 八歩。


 虫。


 九歩。


 キズナ。


 十歩。


 赤い実。


 今日は十。


「多い」


 リオが言う。


「はい」


「全部今日?」


「全部、まず見ます」


「決める?」


「見ることと、決めることは別です」


 マルタが横で。


「よい言い方ですね」


 と、小さく笑った。


     ◇


 畑へ着く。


 今日は、村人が多くない。


 ガルド。


 子どもたち。


 薬草畑から来たマルタ。


 レナードの隊からは、一人の見張りが外側にいるだけ。


 昨日。


 左右の下葉を切った。


 村では、その話が広がっているはず。


 でも。


 全員が毎朝集まるわけではない。


 畑の心配が。


 村の暮らし全部を止めるわけではない。


「おはようございます」


 フローラは柵を開ける。


     ◇


 オカエリ。


 遠くから。


 まず見る。


 下葉。


 ない。


 左右の切り口。


 小さな跡。


 上葉。


 昨日の夕方と同じ位置。


 新芽。


 少し。


 開いている。


 茎。


 倒れていない。


「立っています」


 エマが小さく言う。


「はい」


 それだけで。


 胸が緩む。


 でも。


 すぐに正しい判断だったとは決めない。


「近くで見ます」


     ◇


 右の切り口。


 三日目。


 乾燥。


 白っぽかった表面が、薄い緑褐色へ変わっている。


 黒くない。


 周囲の茎。


 緑。


 汁。


 なし。


 匂い。


 なし。


 左の切り口。


 二日目。


 右より色が薄い。


 乾燥。


 始まっている。


 中央。


 僅かに白い。


 黒変。


 なし。


 汁。


 なし。


「二つとも、閉じてきていますか」


 エマが尋ねる。


 マルタが硝子を使って見る。


「表面が乾き、傷口を塞ぐような変化は見えます」


「治った?」


 トト。


「治ったとは、まだ言いません」


 フローラが答える。


「でも、悪い色ではないと思います」


 マルタが付け加える。


 子どもたちが、小さく息を吐く。


     ◇


 上葉。


 表。


 緑。


 昨日見つけた白い跡。


 大きさ。


 変わらないように見える。


 新しい跡。


 なし。


 裏。


 虫。


 なし。


 葉脈。


 緑。


 縁。


 萎れ。


 なし。


「昨日の虫を取ったあと、新しい跡は見えません」


 フローラが言う。


 サムが板へ書く。


「虫が原因?」


「可能性はあります」


「取ったから止まった?」


「可能性はあります」


「じゃあ虫」


「まだ、完全には分かりません」


 同じ言葉。


 でも。


 昨日。


 一匹。


 白い跡。


 今日。


 増えない。


 少し。


 関係。


 近づく。


     ◇


 新芽。


 昨日より。


 開いている。


 先端。


 二つの小さな葉へ分かれ始めている。


 色。


 緑。


 片方。


 少し小さい。


 左右。


 完全には同じでない。


「新しい葉?」


 ルル。


「はい。新芽の中の葉が、少しずつ見えてきました」


「下の葉、ないのに?」


「はい」


「育つ?」


「今は、開く方向へ進んでいます」


「切ったから?」


 また。


 問い。


 フローラは。


 以前より。


 ゆっくり。


 答える。


「切ったあとに開きました」


「はい」


「でも、切ったから開いたとは決めません」


「切らなくても?」


「開いたかもしれません」


「病気だったら?」


「開かなかった可能性もあります」


「どっち」


「分かりません」


 トトが頭を抱える。


「ずっと分からない」


 周囲から、少し笑いが起きる。


 フローラも。


「はい」


 と笑った。


「でも、今開いていることは分かります」


 それを。


 受け取る。


     ◇


 茎。


 フローラ。


 触れる。


 一度。


 昨日と。


 大きな差。


 感じない。


 エマ。


「私も」


 マルタ。


「昨日より、少し張りがあるようにも感じます」


「昨日は、少し柔らかいと言いました」


「はい」


「戻った?」


「そう感じますが、触れる場所や私の指の状態も違います」


 マルタ。


 自分の感覚を。


 絶対にしない。


『茎下部。フローラ、エマは前日との差を大きく感じない。マルタは前日より僅かに張りを感じるが、触診条件が同一ではない。』


 サム。


 書く。


     ◇


 土。


 表面。


 乾いている。


 第一関節。


 乾き。


 第二関節。


 僅かな湿り。


 昨日。


 水なし。


 一昨日夕方。


 少量。


 今日は。


 朝。


「少量の水を与えます」


 フローラが言う。


 エマ。


「切ったから?」


「いいえ。土の湿りが減ったからです」


「切り口にかけない?」


「はい。株元から少し離します」


 水。


 少量。


 ゆっくり。


 土へ。


 染みる。


 溜まらない。


「これ以上は、昼に見てからです」


     ◇


 記録。


『オカエリ。左右下葉切除後。右切除部三日目、左切除部二日目。両方とも乾燥し、黒変・汁・臭いなし。右切除部は薄い緑褐色。左は白緑色。』


『上葉は緑。白色跡は前日から拡大なし。新規跡なし。葉裏に虫なし。新芽は前日より開き、内部の小葉二枚が見え始める。片方は僅かに小さい。』


『切除後に新芽が開いたが、切除との因果は未確定。』


『土壌は第二関節付近に僅かな湿り。少量給水。切除への不安ではなく、土壌状態を理由とする。』


 最後。


 フローラは少し考え。


『下葉を失った姿に慣れたわけではない。それでも、昨日より、残っているものを見られた。』


 書く。


 記録。


 事実。


 最後の一行は。


 観察者。


 自分。


     ◇


「正しかった?」


 昨日と同じ子どもが尋ねる。


 フローラはオカエリを見る。


 切り口。


 乾く。


 上葉。


 緑。


 新芽。


 開く。


 心は。


 正しかったと言いたい。


 言えば。


 切った痛みが少し軽くなる。


 自分を責めなくて済む。


 でも。


「まだ、決めません」


 答える。


 子どもは。


 少し不満そう。


「いつ決める?」


「決められないかもしれません」


「でも、元気」


「今朝は、昨日より新芽が開いています」


「じゃあ」


「今朝の変化には安心しています」


 正しい。


 ではなく。


 安心。


「違う?」


「はい」


「難しい」


「はい」


 それでも。


 子どもは。


「安心なら、いい」


 小さく言った。


     ◇


 昨日捕まえた薄緑色の虫。


 瓶。


 葉の表面。


 白い跡。


 昨日より。


 一つ。


 増えているように見える。


 もともと。


 見落とした跡かもしれない。


 でも。


 虫の口元らしい部分が、葉へ触れている。


「食べていますか」


 エマ。


 マルタ。


 硝子。


 見る。


「吸っているように見えます」


「では、オカエリの白い跡も」


「この虫が作った可能性は高いと思います」


「高い」


「はい」


 初めて。


 少し強い言葉。


「殺しますか」


 トト。


 昨日から。


 同じ問い。


 マルタが。


 フローラを見る。


 決める。


 畑。


 守る。


 虫。


 戻す。


 戻せば。


 植物。


 吸う。


 でも。


 この虫が森の中に普通にいるものなら。


 一匹を殺しても。


 畑へまた来る。


「畑から離れた草地へ戻します」


 フローラが答える。


「食べるのに?」


「はい」


「戻ってくるかも」


「可能性はあります」


「じゃあ、なんで」


「この一匹を殺せば、畑が守られるとは分からないからです」


「でも害虫」


「オカエリにとっては、害になる虫かもしれません」


「じゃあ」


「畑では見つけたら取ります」


「外では?」


「今は、殺しません」


 その虫が。


 森の中で。


 別の役目を持つかもしれない。


 何も知らない。


 ただ。


 畑の葉を吸う。


 それだけ。


「一匹を観察のために捕まえました」


 フローラは続ける。


「違いを見せてもらいました」


 ムラマルの虫とは違う。


 葉に白い跡を作る。


「だから、畑へ戻さず、少し離れた草へ返します」


 子どもたち。


 完全には。


 納得していない顔。


 でも。


 サムは記録する。


『オカエリ上葉の薄緑虫。瓶内の葉へ白色跡を増やした可能性が高い。畑では除去対象。個体は畑から離れた草地へ戻す。』


「次に見つけたら?」


 エマ。


「取ります」


「毎回戻す?」


 フローラは少し考える。


「数が多ければ、別の方法を考えます」


「今は一匹」


「はい」


 数。


 状況。


 同じ虫でも。


 判断。


 変わる。


     ◇


 マルタとガルド。


 子どもたち。


 畑から少し離れた草地へ移動する。


 オカエリから。


 十分。


 距離。


 間に低い藪。


 風向き。


 畑とは逆。


 瓶。


 蓋。


 開ける。


 虫。


 すぐには出ない。


 細い草の葉を、瓶の中へ差し入れる。


 虫。


 移る。


 草。


 外へ。


 少し。


 止まる。


 それから。


 葉の裏へ。


 回る。


「戻った」


 ルル。


「はい」


「畑に?」


「森の草地へです」


「また会う?」


「分かりません」


 小さい虫。


 葉の裏。


 見えなくなる。


 追わない。


「ありがとうございました」


 フローラは言う。


 虫へ。


 子どもたち。


 少し不思議そう。


 でも。


 誰も笑わなかった。


     ◇


 ムラマルから捕まえた三匹。


 最初から一匹の瓶。


 二匹から一匹になった瓶。


 分離した弱い個体。


 分離した弱い虫は。


 昨日より。


 動かない。


 葉の端。


 脚。


 僅かに。


 動く。


 でも。


 位置。


 朝から。


 同じ。


「弱い」


 ルル。


「はい」


「外へ戻す?」


 フローラは考える。


 瓶の中。


 狭い。


 弱る。


 外。


 風。


 捕食。


 雨。


 どちらが。


 よい。


 分からない。


 観察のために捕まえた。


 分けた。


 それでも。


 弱った。


「三匹とも、今日、戻します」


「全部?」


「はい」


「比べるのは?」


「ここまでの記録があります」


「もっと見ない?」


「これ以上、瓶の中へ置くことで弱らせる可能性があります」


「一匹は元気」


「はい」


「でも戻す?」


「はい」


 弱い一匹だけ戻す。


 元気な二匹は残す。


 それでは。


 元気な個体を。


 さらに観察へ使い続けることになる。


 必要か。


 今。


 ムラマルに新しい虫害はない。


 虫の違い。


 少し分かった。


「観察を終えます」


 フローラは決めた。


     ◇


 三つの瓶。


 畑から離れた別の草地。


 薄緑虫を戻した場所とは、少し違う。


 ムラマルで見つけた虫が好みそうな、葉の形が似た草。


 一匹目。


 すぐに移る。


 二匹目。


 少し時間。


 葉へ。


 三匹目。


 弱い虫。


 草を差し入れても。


 すぐには動かない。


「乗れない?」


 エマ。


 フローラは。


 瓶を傾けない。


 落とさない。


 草の先を。


 虫の脚へ。


 近づける。


 一度。


 二度。


 脚。


 触れる。


 ゆっくり。


 草へ。


 つかまる。


「乗りました」


 小さな声。


 周囲。


 息。


 止める。


 草を。


 瓶から。


 ゆっくり出す。


 弱い虫。


 葉の上。


 動かない。


 でも。


 脚。


 つかまっている。


「生きる?」


 ルル。


 フローラは。


 胸へ手を置く。


「分かりません」


 いつもの答え。


 でも。


 今は。


 少し痛い。


「戻したから、助かるとは決められません」


「瓶にいたら?」


「それも分かりません」


「どっちが正しい?」


「分かりません」


 子どもたち。


 静か。


「ただ」


 フローラは弱い虫を見る。


「私たちが観察するために、これ以上瓶へ置かないことを選びました」


 虫。


 草。


 風。


 小さく揺れる。


「ここからは、この虫の時間です」


 追わない。


 見張らない。


 生きたか。


 死んだか。


 確かめない。


「ありがとうございました」


 三匹へ。


 言う。


     ◇


 畑へ戻る途中。


 トトが。


「死んだら?」


 尋ねる。


 フローラは。


 歩みを止めないまま答える。


「死ぬかもしれません」


「助けなかった?」


「瓶へ入れたことが、弱る原因だった可能性があります」


「じゃあ、ごめん?」


「はい」


「戻したから、もういい?」


「戻したことだけで、なかったことにはなりません」


「じゃあ」


「次に虫を捕まえる時、何日見るか。何を知りたいか。先に決めます」


「もう捕まえない?」


「必要なら捕まえます」


「また弱ったら?」


「前の記録を使います」


 失敗したかもしれない。


 だから。


 二度としない。


 ではない。


 同じように繰り返さない。


「昨日と同じを押しつけない」


 サムが言う。


「似ています」


 フローラは頷く。


「虫の観察にも?」


「はい」


 基準。


 日数。


 目的。


 決める。


     ◇


 キズナ。


 花後五日目。


 膨らみ。


 昨日より。


 はっきり。


 縦長。


 表面へ。


 細い筋。


 三本。


 緑。


 先端。


 僅かに尖る。


「種の袋?」


 リオ。


「可能性が高くなりました」


 サムの筆が止まる。


「高い?」


「はい」


「種?」


「まだ、中を見ていません」


「開ける?」


 トト。


「開けません」


「見たい」


「今開けば、育つ途中を止めるかもしれません」


「いつ?」


「自然に乾くか、開くまで待ちます」


「長い?」


「分かりません」


「また」


 笑い。


 フローラも笑う。


 でも。


 胸の奥。


 温かい。


 花。


 散る。


 花びら。


 一枚。


 家。


 残る。


 株。


 小さな袋。


 育つ。


「花びらを、今日開けました」


 フローラは子どもたちへ伝える。


「どうだった?」


「白に近くなっていました」


「青は?」


「少し残っています」


「きれい?」


「拾った時とは違う形です」


「壊れた?」


「縁が少し欠けました」


 エマ。


 残念そう。


「でも」


 フローラは。


 花守り布の紙へ。


 触れる。


「一枚は残りました」


 ルルが。


 キズナの膨らみを見る。


「こっちも残った」


「はい」


「花と違う」


「はい」


「両方」


「はい」


 家へ残した花びら。


 畑へ残った次の形。


 同じ花から。


 別の残り方。


     ◇


 記録。


『キズナ。花後五日目。花のあった位置の膨らみは前日より縦長となり、表面に細い筋三本を確認。先端は僅かに尖る。種を包む部分である可能性が高まるが、未確認。開かず継続観察。』


『紙へ挟んだ花びらを三日後に確認。色は白に近く、縁一部欠損。薄青色は残る。花守り箱へ紙包みで保管。』


『同じ花から、花びらと、花後の膨らみが別の形で残った。』


     ◇


 赤い実。


 小石の円。


 表土。


 昨日と。


 変わらない。


 ひび割れ。


 なし。


 盛り上がり。


 なし。


 獣の足跡。


 なし。


 土。


 表面。


 乾き始めている。


 指。


 第一関節。


 僅かな湿り。


 第二関節。


 湿り。


「水は?」


 エマ。


「今日は与えません」


「乾いてる」


「表面は」


「芽、出ない」


「はい」


「水をあげたら?」


「早く出るとは限りません」


「乾いたら出ない」


「土の中には湿りがあります」


「でも」


 エマ。


 土。


 見る。


「何かしたい?」


 フローラが尋ねる。


「うん」


「私もです」


「じゃあ水」


「何かしたいことと、水が必要なことは別です」


 エマの顔。


 少し不満。


「待つだけ?」


「表面を記録します」


「それだけ?」


「小石の円が崩れていないか見ます」


「それだけ?」


「今日は、それだけです」


 芽が出ない。


 変化が見えない。


 その時ほど。


 何かを足したくなる。


 水。


 肥料。


 掘る。


 触る。


 でも。


 見えないからといって。


 土の中へ。


 答えを作ることはできない。


     ◇


 サムが尋ねる。


「いつまで待つ?」


「決めていません」


「ずっと?」


「ずっとではありません」


「じゃあ、いつ」


 フローラは。


 記録板。


 播種日。


 見る。


 赤い実。


 埋めてから。


 日数。


 王都へ出発する前。


 戻るまで。


 村。


 見た。


 帰ってから。


 さらに。


 日。


 多い。


「種の種類が分からないので、発芽までの日数も分かりません」


「じゃあ待つ日、決められない?」


「完全には」


「でも、ずっと待たない」


「はい」


「どうする」


 フローラは。


 小石の円。


 見る。


 赤い実。


 子どもたちが拾った。


 帰る目印。


 芽が出たら。


 帰ってくる。


 そう言った。


 でも。


 フローラは。


 芽が出る前に。


 帰った。


 赤い実は。


 目印としての役目を。


 すでに少し果たした。


「あと七日、表面を見ます」


 フローラは答えた。


「七日?」


「はい」


「芽が出なかったら?」


「その時に、掘るか、掘らずに別の種を植えるか、皆で考えます」


「今決めない?」


「はい」


「七日後、また決める?」


「はい」


 待つ期間。


 決める。


 永遠の。


 まだ。


 にしない。


「七日間、水は?」


「土を見て決めます」


「芽が出ないからじゃなく?」


「はい。土の湿りで」


 サム。


 記録。


『赤い実。あと七日、表土を観察する。芽が出ない不安を理由に水を増やさない。七日後、掘るか、掘らずに次の種を植えるか、再検討。』


 その文字。


 フローラは長く見た。


 待つ。


 でも。


 終わりのない待ち方にしない。


     ◇


「七日後、忘れたら?」


 トト。


「記録します」


「誰が?」


「皆で」


「先生、忘れる?」


「忘れる可能性はあります」


「じゃあ俺が覚える」


「私も」


「サムが書く」


「もう書いた」


 子どもたち。


 声。


 重なる。


「七日後!」


「掘るか決める!」


「掘るって決めてない!」


「考える!」


「水いっぱいじゃない!」


「土を見る!」


 周囲の大人。


 笑う。


 フローラも。


 笑った。


 自分一人の記憶へ。


 全部。


 置かない。


     ◇


 観察を終えたあと。


 マルタが。


 オカエリの記録板を見ながら言う。


「上の葉が開き始めているのは、よい変化に見えます」


「はい」


「ただ、下葉を二枚失った影響は、数日後に出ることもあります」


「はい」


「今日、元気に見えるからといって、肥料を増やさないでください」


「はい」


「逆に、少し萎れたからといって、すぐ病気が残ったとも決めないでください」


「はい」


 明日。


 今日の答えを。


 押しつけない。


「何日くらい見ますか」


「まず三日」


「三日後、決めますか」


「三日後に、次に見る期間を考えましょう」


 一度で。


 終わりの日を。


 決めない。


 短い区切り。


「分かりました」


     ◇


 家へ戻る道。


 朝より。


 光。


 強い。


 木々の隙間。


 細い金色。


 足元。


 乾き始める。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 オカエリ。


 切り口。


 乾く。


 四歩。


 新芽。


 開く。


 五歩。


 正しいか。


 まだ。


 六歩。


 虫。


 戻す。


 七歩。


 キズナ。


 次。


 八歩。


 赤い実。


 あと七日。


     ◇


 家へ着く。


「ただいま」


 花守り箱。


 キズナの花びら。


 中。


 見えない。


 でも。


 ある。


 王都の箱。


 今日も閉じている。


 白鈴草の種。


 待っている。


 机。


 赤い実の観察期限。


 新しい紙へ書く。


『あと七日、表面を見る。』


 日付。


 その横。


『七日後に、掘ることを決めたわけではない。次の扱いを考える。』


 言葉。


 狭く。


 正確に。


     ◇


 昼食。


 豆の粥の残り。


 パン。


 葉野菜。


 朝。


 オカエリ。


 大きな悪化なし。


 新芽。


 開く。


 嬉しい。


 でも。


 芋を増やすか。


 フローラは。


 少し考え。


「今日は、いつもの量にします」


 リオ。


「芋なし?」


「芋はあります」


「増やさない?」


「はい」


「嬉しくない?」


「嬉しいです」


「じゃあ」


「嬉しい時に、毎回食べ物を増やす必要はありません」


「水と同じ?」


「少し似ています」


「でも食べたい」


「リオが食べたいなら、一つ増やしてもよいです」


「嬉しいからじゃなく?」


「食べたいからです」


 リオ。


 考える。


「食べたい」


「では、一つ」


 理由。


 分ける。


 嬉しい。


 食べたい。


 同じにならない。


     ◇


 食後。


 子どもたちが。


 キズナの花びらを見に来る。


 エマ。


 サム。


 ルル。


 トト。


 ニコ。


 リーナ。


 玄関。


 靴。


 土。


 落とす。


 手。


 洗う。


「触らない?」


 フローラが確認する。


「触らない!」


「息を強く吹きかけませんか」


「しない!」


「箱の中へ手を入れませんか」


「入れない!」


「一人ずつ?」


「みんな!」


「一度に覗くと、押し合います」


 子どもたち。


 黙る。


「二人ずつ」


 サム。


「はい」


     ◇


 花守り箱。


 机。


 フローラが開く。


 紙包み。


 取り出す。


 開くのは。


 フローラ。


 花びら。


 中央。


 白。


 薄青。


 欠け。


「白い」


 エマ。


「青、少し」


 ルル。


「小さい」


 トト。


「壊れた」


 ニコ。


「残った」


 リーナ。


 それぞれ。


 違う言葉。


 サム。


 書く。


『白い。』


『青が少し。』


『小さい。』


『端が欠けた。』


『一枚残った。』


 フローラは。


 全部を見る。


「どれが正しい?」


 トトが聞く。


「全部、見えたことです」


「きれい?」


 エマ。


 フローラは。


 花びら。


 見る。


 咲いていた時の。


 薄青い花。


 風。


 畑。


 キズナ。


 思い出す。


「私は、きれいだと思います」


「壊れてるのに?」


「はい」


「咲いてる方がきれい」


「そう思う人もいると思います」


「先生は?」


「咲いていた花もきれいでした」


「こっちも?」


「はい」


 同じきれい。


 ではない。


 生きている花。


 乾いた花びら。


 別。


「残った形のきれいさです」


 子どもたち。


 少し。


 難しい顔。


 リーナだけ。


 花守り布。


 見て。


「縫う?」


 と聞く。


「今日は、まだ縫いません」


「花びら、ある」


「はい」


「布に」


「箱にも、残せます」


 何でも。


 刺繍へ。


 しなくていい。


「見るだけの日です」


 リーナ。


 頷く。


     ◇


 子どもたちが帰ったあと。


 フローラは花びらを再び紙へ包み、箱へ戻した。


 何度も開ければ。


 欠けるかもしれない。


 今日。


 一度。


 皆で見た。


「次に開ける日は?」


 ミナが尋ねる。


「決めません」


「はい」


「見たい時に、開けます」


「はい」


 三日。


 乾かすため。


 期限。


 必要だった。


 今。


 乾いた。


 次。


 期限。


 いらない。


 同じ花びらでも。


 待ち方。


 変わる。


     ◇


 午後。


 フローラは観察帳の六日目を読もうとした。


 森へ帰ってから。


 まだ読んでいない記録。


 王都へ行っていた間の。


 六日目。


 でも。


 紙束へ手を置いた時。


 胸の中に。


 オカエリ。


 虫。


 赤い実。


 花びら。


 言葉。


 多い。


「今日は、読みません」


 観察帳を戻す。


 読める。


 時間もある。


 でも。


 読まない。


 読む日数を。


 毎日一つずつ進める必要はない。


     ◇


 代わりに。


 白鈴草の種。


 小さな袋。


 机。


 見る。


 昨日。


 小鉢。


 三粒。


 そう考えた。


 今日。


 蒔くか。


 赤い実。


 芽。


 出ない。


 新しい種。


 同時。


 畑へ。


 増やす。


 管理。


 増える。


「今日は、蒔きません」


 白鈴草へ。


 言う。


「赤い実の芽が出ないから、代わりにあなたを植えるわけではありません」


 赤い実。


 出ない。


 空いた期待。


 白鈴草。


 入れる。


 それは。


 違う。


「あなたを植える日は、あなたのために決めます」


 種。


 返事。


 ない。


 でも。


 袋。


 閉じる。


     ◇


 夕方前。


 ガルドから。


 大きな変化なし。


 連絡。


 オカエリ。


 上葉。


 緑。


 新芽。


 朝と。


 大きな差。


 なし。


 切り口。


 乾燥。


 水。


 追加なし。


 フローラは。


 すぐ畑へ行く。


 今日は。


 夕方。


 自分で見る。


     ◇


 森の道。


 昼の光が。


 橙へ。


 変わる。


 空。


 雲。


 少ない。


 明日。


 晴れるかもしれない。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 朝の安心。


 四歩。


 夕方の変化。


 五歩。


 同じでなくていい。


     ◇


 オカエリ。


 夕方。


 上葉。


 朝より。


 少し。


 下へ。


 見える。


 胸。


 固くなる。


「萎れましたか」


 エマ。


「角度が下がって見えます」


 触る前。


 光。


 朝。


 東。


 夕方。


 西。


 葉。


 光の向きへ。


 変わるかもしれない。


 風。


 朝より。


 弱い。


 水。


 朝。


 少量。


「板を」


 影。


 見る。


 葉色。


 緑。


 張り。


 一度。


 触れる。


 柔らかくはない。


 朝と。


 大きな差。


 感じない。


「萎れたとは、まだ言いません」


 角度。


 下。


 でも。


 張り。


 ある。


 新芽。


 朝より。


 ほんの少し。


 開く。


「光の向き?」


 サム。


「可能性があります」


「朝の絵と比べる?」


「同じ方向から見ていません」


「じゃあ分からない」


「はい」


 写真。


 ない。


 絵。


 角度。


 違う。


 それでも。


 今の状態。


 記録。


     ◇


 切り口。


 右。


 乾燥。


 濃く。


 左。


 朝より。


 表面。


 薄く。


 褐色。


 黒変。


 なし。


 汁。


 なし。


 匂い。


 なし。


 周囲の茎。


 緑。


「夕方まで、大きな悪化なし」


 フローラ。


 声。


 少し。


 緩む。


「今日は無事?」


 ルル。


「今のところ」


「安心?」


「はい」


「正しかった?」


「まだです」


 ルル。


 少し笑う。


「いつも」


「はい」


     ◇


 土。


 朝。


 水。


 少量。


 今。


 第一関節。


 僅かな湿り。


 第二。


 湿り。


 追加。


 なし。


「明朝まで待ちます」


     ◇


 キズナ。


 膨らみ。


 夕方。


 光。


 横。


 筋。


 三本。


 朝より。


 影。


 はっきり。


 大きさ。


 大きく変わらない。


「種、いる?」


 トト。


「中は見えません」


「触る?」


「触りません」


「振る?」


「振りません」


「音」


「まだ柔らかいです」


「じゃあ待つ」


「はい」


 赤い実。


 表面。


 変化なし。


 水。


 なし。


 小石。


 円。


 そのまま。


「一日目」


 サム。


「何が?」


「あと七日の、一日目」


「はい」


 待つ期間。


 始まった。


     ◇


 夕方の記録。


『オカエリ。夕方、上葉の角度が朝より下がって見えるが、観察方向と光条件が異なる。触診では張りを保つ。葉色は緑。新芽は朝より僅かに開く。切除部二箇所は乾燥継続、黒変・滲出なし。』


『朝の少量給水後、土壌は第一関節下に湿りあり。追加給水なし。』


『朝から夕方まで、大きな悪化は確認しない。観察者、安心あり。切除判断の正否とは統合しない。』


『キズナ。花後五日目夕方。膨らみの筋三本が横光で明瞭。大きさの大幅変化なし。触れず。』


『赤い実。追加観察期間七日の一日目。発芽・表土変化なし。土中に湿りあり、給水なし。』


     ◇


 記録を終えたあと。


 村人の一人が。


 赤い実の小石円を見ながら尋ねる。


「七日待って出なかったら、掘るのかい」


「まだ決めていません」


「腐ってるかもしれない」


「はい」


「なら、見た方が」


 別の人。


「掘ったら、出ようとしてる芽を傷つけるかもしれん」


「でも、出ないまま待っても」


 意見。


 二つ。


 フローラは。


 どちらも。


 聞く。


「七日後に、もう一度話してください」


「今決めない?」


「はい」


「なぜ」


「七日のあいだに、表土が変わるかもしれません」


「変わらなかったら?」


「その時の土。天気。ほかの種の予定。それを見て考えます」


「今日の決まりを、七日後へ押しつけない?」


 パン屋の女性。


 少し笑いながら言う。


「はい」


 フローラも笑う。


「でも、今日の意見は記録します」


 掘る。


 掘らない。


 両方。


 サム。


 書く。


     ◇


 家へ戻る道。


 夕焼け。


 森。


 葉の縁。


 金色。


 フローラは。


 胸へ。


 今日の言葉。


 置く。


 完璧に残らなかった花びら。


 一枚。


 残った。


 オカエリ。


 下葉。


 ない。


 新芽。


 開く。


 赤い実。


 芽。


 ない。


 あと七日。


 見えないこと。


 ないこと。


 それだけで。


 答えを埋めない。


     ◇


 家。


「ただいま」


 花守り箱。


 閉じている。


 白鈴草。


 待つ。


 観察帳。


 六日目。


 読まない。


 王都の箱。


 開けない。


 今日は。


 開けないものが多い。


 でも。


 キズナの花びらは。


 開けた。


 全部。


 閉じたままではない。


     ◇


 夕食。


 豆。


 葉野菜。


 パン。


 芋。


 一つ。


 今日は。


 増やさない。


 三人で。


 普通に。


 食べる。


「普通?」


 リオが尋ねる。


「何がですか」


「今日、何の日」


 オカエリ。


 新芽。


 虫。


 花びら。


 赤い実。


 いくつも。


「森へ帰ってから八度目の日です」


「それだけ?」


「それだけではありません」


「じゃあ」


「いろいろあった日です」


「名前」


「つけません」


「なんで」


「毎日へ題をつけなくても、日記に残せます」


 リオ。


 少し考える。


「豆の日」


「豆を食べた日は多いです」


「毎日」


「ほとんど」


 ミナ。


 笑う。


     ◇


 食後。


 日記。


 開く。


 今日


日記。


 開く。


 今日。


 見たものは多い。


 けれど、すべてを同じ重さで書こうとすれば、また一日の出来事を一度に抱えることになる。


 フローラは筆を持ったまま、白い紙の上へ視線を落とした。


 まず、キズナの花びら。


 次に、オカエリ。


 虫。


 赤い実。


 白鈴草。


 読まなかった観察帳。


 開けなかった王都の箱。


 順番に並べようとすると、どれが最初だったのか分からなくなる。けれど、今日という一日は、正しい順序で残さなければならない報告書ではない。


 胸に残っていることから、書いてよい。


『森へ帰ってから八度目の朝。三日前に紙へ挟んだキズナの花びらを開いた。花びらは拾った時より白くなり、縁が一部欠けていた。薄い青は少しだけ残っていた。』


 筆を止める。


 失敗。


 その言葉を使うか、迷った。


 最初に見た時。


 完全な形ではなかった。


 色も薄くなった。


 だから、失敗したのではないかと思った。


 けれど。


 何を成功とするのか。


 拾った時と同じ形を保つことなのか。


 咲いていた色を、そのまま閉じ込めることなのか。


 花があったことを、あとで思い出せるようにすることなのか。


 それによって、答えは変わる。


『完璧な形と色を残すことが目的なら、うまくできなかった。けれど、キズナの花びらを一枚残し、咲いていた日のことを思い出せるようにすることが目的なら、残せたものもある。』


 書いたあと、フローラは少しだけ眉を寄せた。


 長い。


 でも。


 短くしてしまえば、どちらか一つになる。


 失敗した。


 残せた。


 本当は、両方ある。


「このままでよいです」


 誰に確認するでもなく言い、次の行へ移る。


『子どもたちと花びらを見た。白い。青が少し。小さい。端が欠けた。一枚残った。それぞれ、違うことを見ていた。どれか一つだけが正しいのではなかった。』


 子どもたちの顔を思い出す。


 残念そうに見たエマ。


 薄い青を見つけたルル。


 小さくなったことを言ったトト。


 欠けた場所を見つけたニコ。


 一枚残ったと言ったリーナ。


 同じ花びら。


 同じ机。


 同じ時間。


 それでも、見えたものは違う。


『私は、残った形もきれいだと思った。咲いていた時と同じきれいではない。』


 そこまで書き、筆を置く。


 きれい。


 簡単な言葉。


 でも。


 咲いている花の鮮やかさ。


 乾いた一枚の静かさ。


 同じ言葉で呼んでも、意味は違う。


 違っていてよい。


     ◇


 次に。


 オカエリ。


『オカエリの左右の切り口は、今朝も黒くならず、汁や強い匂いもなかった。右は三日目、左は二日目。同じ株にある傷でも、進んだ日数は同じではない。』


『上の葉は緑を保ち、新芽は昨日より開いた。切ったから開いたとは決めない。切らなければ開かなかったとも決めない。今、開いていることだけは分かる。』


 胸の奥に。


 また。


 正しかったのかという問いが浮かぶ。


 二枚の葉を切った。


 昨日も。


 今日も。


 新芽は開いた。


 上葉は残った。


 病変らしい茶色い点も、今は見えない。


 なら、切って正しかった。


 そう言えば。


 自分を安心させられる。


 けれど。


 葉を切らなかった時間は存在しない。


 比較できない。


 結果がよい方向へ進んでいるように見えるからといって、判断のすべてが正しかったと証明されるわけではない。


 逆に。


 もし明日、上葉が萎れたとしても。


 切ったことがすべて間違いだったと、すぐに決まるわけではない。


『今日の安心を、昨日の判断の答えにしない。』


 短い一文。


 フローラは、その下へ続ける。


『ただし、安心してはいけないわけではない。左右の切り口が乾き、新芽が開いたことを、今日は嬉しいと思った。』


 判断を保留することと。


 感情まで保留することは違う。


 分からない。


 でも。


 嬉しい。


 安心した。


 そのまま書く。


     ◇


 虫。


『オカエリの上葉で見つけた薄緑色の虫は、瓶の中の葉へ白い跡を作った可能性が高いと分かった。畑では取り除く。今日は、畑から離れた草地へ戻した。』


『ムラマルから取った虫も、三匹すべて草地へ戻した。弱い一匹が生き続けるかは分からない。瓶へ残した方がよかったかも分からない。』


 あの小さな脚。


 草へつかまった。


 そのあとの時間。


 もう。


 見ていない。


 追わないと決めた。


「今頃」


 言いかけて、やめる。


 生きているか。


 死んでいるか。


 風に飛ばされたか。


 葉の裏へ隠れているか。


 考えても。


 見に戻れば。


 また、その虫の時間を自分の観察へ取り込むことになる。


『観察するために捕まえた。知りたいことが増えるほど、瓶へ置く時間も増えた。次に虫を捕まえる時は、何を知りたいのか、何日見るのかを先に決める。』


 失敗だったと決めない。


 何も悪くなかったとも決めない。


 次。


 変える。


『戻したことで、捕まえたことがなくなるわけではない。』


 書いた文字を見つめる。


 謝る。


 戻す。


 それで。


 すべてが元へ戻るわけではない。


 父様も。


 母様も。


 謝った。


 それで。


 過去は戻らない。


 けれど。


 だから謝る意味がないわけでもない。


 虫と人は同じではない。


 同じにしてはいけない。


 それでも。


 したことが消えなくても、そのあとに選べることがある。


 そういうところだけ。


 少し似ている。


『似ているところがあっても、同じではない。』


 書き足す。


     ◇


 赤い実。


 筆先が紙の上で止まった。


 今日の題に最も近いもの。


 芽が出ない。


 目に見える変化がない。


 だから。


 答えを置きたくなる。


 腐っている。


 芽が出ない種だった。


 植え方が悪かった。


 水が足りない。


 深すぎた。


 浅すぎた。


 何か。


 一つ。


 決めたい。


 決めれば。


 次に何をするか分かるから。


 掘る。


 水を足す。


 捨てる。


 別の種を植える。


 でも。


 今。


 分かるのは。


 表土に芽がないこと。


 土の中に湿りがあること。


 小石の円が崩れていないこと。


 それだけ。


『赤い実は、今日も芽を出していない。』


 一度。


 そこで区切る。


『芽が出ない種だとは、まだ決めない。土の中で育っているとも決めない。見えない場所へ、よい答えも悪い答えも埋めない。』


 胸の奥が、静かに震えた。


 よい答え。


 悪い答え。


 どちらも。


 見えない土の中へ入れない。


 芽が出る。


 きっと大丈夫。


 そう思いたい。


 でも。


 期待も。


 見えていない答え。


 腐っている。


 失敗した。


 それも。


 見えていない答え。


『あと七日、表面と土の湿りを見る。七日後に掘るとは決めていない。その時に、掘るか、掘らずに別の種を植えるか、もう一度考える。』


 期限を決めた。


 でも。


 答えは決めなかった。


 待つ。


 永遠ではない。


 七日。


 そのあと。


 また。


 考える。


     ◇


 白鈴草。


『白鈴草の種は、今日も蒔かなかった。赤い実の芽が出ない場所を埋めるために、新しい種を植えない。白鈴草を植える日は、白鈴草のために決めたい。』


 王都から持って帰ったもの。


 早く。


 森で。


 育てたい。


 芽を見たい。


 王宮と森がつながる形を見たい。


 でも。


 赤い実が芽を出さない寂しさを。


 白鈴草で隠したくない。


 別。


 種。


 別。


 時間。


「待っていてください」


 机の小袋へ向けて言う。


 白鈴草は。


 返事をしない。


 それでも。


 待たせることは。


 捨てることではない。


     ◇


 観察帳。


『王都へ行っていた間の六日目の記録は、今日は読まなかった。読める時間はあった。でも、今日受け取った言葉が多かったので、読まなかった。』


 読まない。


 遅れる。


 溜まる。


 以前のフローラなら。


 毎日一つずつ読み進めると決めたら。


 どれほど疲れていても。


 守っただろう。


 一日遅れれば。


 翌日に二つ。


 追いつく。


 決めた順番から外れないように。


 でも。


 観察帳は。


 逃げない。


 記録された日も。


 変わらない。


『読む日を一日ずらしても、六日目の記録はなくならない。』


 母様の手紙も。


 王都の箱も。


 今日。


 開けなかった。


『開けなかったものが多い日だった。けれど、何も受け取らなかった日ではない。』


 キズナの花びらを開いた。


 オカエリを見た。


 虫を戻した。


 赤い実の待つ日数を決めた。


 開けないこと。


 見ること。


 どちらも。


 今日の選択。


     ◇


 フローラは、書いた日記を最初から読み返した。


 長い。


 出来事が多い。


 でも。


 同じ言葉の繰り返しだけではない。


 今日。


 分かったこと。


 分からなかったこと。


 決めたこと。


 決めなかったこと。


 それぞれ。


 紙の上へ置かれている。


 最後。


 一行。


 何を書くか。


 題。


 毎日へ題をつけなくてもよいと、夕食の時には言った。


 けれど。


 日記の最後へ。


 今日を残す一文は欲しい。


 フローラは筆を持ち直した。


『芽が見えない鉢へ、私はまだ答えを埋めない。』


 書く。


 少し考え。


 鉢。


 赤い実は。


 畑の端。


 鉢ではない。


 土。


 小石の円。


 題の言葉としては。


 鉢。


 でも。


 記録としては違う。


 フローラは線を一本引いた。


 消さない。


 書き間違えた跡を残す。


『芽が見えない土へ、私はまだ答えを埋めない。』


 その下へ書き直す。


 鉢と書いた。


 土と直した。


 どちらも。


 今日。


     ◇


 日記を閉じたあと、花守り布へ入れる紙を選ぶ。


 今日の日記すべては。


 持たない。


 短い言葉。


 一つ。


『見えない場所へ、よい答えも悪い答えも埋めない。』


 それだけ。


 今朝の三つ。


 オカエリの言葉。


 キズナの花びら。


 そこへ。


 赤い実。


 四つ。


 花守り布へ入れる。


「重くありません」


 布を持ち上げる。


 紙は軽い。


 でも。


 言葉の重さは。


 少しある。


 かぶらない。


 夜。


 寝る前。


 机へ置く。


     ◇


 リオは、窓辺の丸い石を持ってきた。


「今日」


「はい」


「書く」


 紙。


 石。


 朝。


 冷たい。


 昼。


 少し温かい。


 夕方。


 また冷える。


 リオの紙には。


 波線。


 一つ。


 三つ。


 二つ。


「三つが一番温かいのですか」


「うん」


「夕方は二つ」


「うん」


「朝は一つ」


「うん」


「触った回数は?」


 別の欄。


 朝。


 三回。


 昼。


 一回。


 夕。


 二回。


「回数と温かさを分けましたね」


「うん」


 リオは少し得意そうに頷く。


「人は?」


 朝。


 リオ。


 フローラ。


 昼。


 リオ。


 夕。


 リオ。


「ミナは触っていません」


「うん」


「今日は、私も朝だけ」


「うん」


 全部。


 揃っていない。


 でも。


 今日の石。


 残る。


「昨日と比べる?」


 リオが尋ねる。


 昨日は。


 印の使い方が違った。


 完全には比べられない。


「温かさの印を決めた今日からなら、明日以降と比べやすくなります」


「昨日は?」


「昨日の記録は、昨日のものです」


「使えない?」


「使えるところもあります」


「どこ」


「冷たいと感じたこと。何回触ったか。私も触れたこと」


「でも波、ない」


「はい」


「失敗?」


 フローラは、少し考えた。


「今日と同じようには比べられません」


「うん」


「でも、昨日、記録を分けたから、今日の形を考えられました」


「うん」


「だから、全部が失敗ではありません」


「少し失敗?」


「分かりにくいところはあります」


「じゃあ、少し」


「はい」


 リオは紙の端へ。


 小さな斜め線を一本引いた。


「これは?」


「少し分からない」


「印にしたのですか」


「うん」


 フローラは笑った。


「明日、それが何の印か忘れないでください」


「書く」


 リオは、横へ。


『すこしわからない』


 と書いた。


 文字は。


 少し曲がっている。


 でも。


 読める。


     ◇


 夜。


 窓の外は。


 完全に暗くなった。


 森の木々は見えない。


 小石の円も。


 赤い実を埋めた土も。


 オカエリも。


 キズナも。


 今は見えない。


 見えない。


 だからといって。


 なくなったわけではない。


 でも。


 夜のあいだに。


 必ず育つとも決めない。


「今夜は、見えません」


 窓辺へ立ち。


 フローラは言った。


「明日の朝、見ます」


 それだけ。


     ◇


 寝る支度。


 顔を洗う。


 髪を解く。


 暖炉の火。


 確認。


 戸締まり。


 結界。


 異常なし。


 鳥笛。


 なし。


 寝台。


 毛布。


 身体を入れる。


 リオとミナの気配。


 隣の部屋。


 家。


 森。


 フローラは目を閉じる前に、胸へ手を置いた。


 赤い実。


 芽が出ない。


 七日。


 待つ。


 もし。


 七日後。


 出なかったら。


 掘るか。


 掘らないか。


 考える。


 掘って。


 腐っていたら。


 悲しい。


 何も残っていなかったら。


 自分の植え方が悪かったと思うかもしれない。


 芽が出かけていたのに傷つけたら。


 後悔する。


 掘らずに。


 次の種を植えたら。


 赤い実を見捨てたように思うかもしれない。


 どれを選んでも。


 怖さがある。


「七日後の私が、考えます」


 今。


 全部。


 決めない。


「今日の私は、今日の土を見ました」


 湿り。


 十分。


 芽。


 なし。


 小石。


 そのまま。


 それだけ。


「おやすみなさい、赤い実」


 土の下。


 届かない。


「芽が出ても」


 一度。


 言葉を止める。


「芽が出なくても」


 どちらも。


 先に。


 決めない。


「七日間、見ます」


 約束。


 芽が出るまで待つ、ではない。


 七日間。


 表面を見る。


 そして。


 もう一度考える。


「おやすみなさい、オカエリ」


 左右の切り口。


 乾く。


 新芽。


 開く。


「今日の安心は、今日のものです」


 明日。


 違うかもしれない。


 それでも。


 今夜は。


 安心して眠ってよい。


「おやすみなさい、キズナ」


 花びら。


 一枚。


 箱。


 膨らみ。


 畑。


 別の形。


「花は、全部同じ場所には残りませんでした」


 でも。


 一枚。


 家。


 次の形。


 畑。


「おやすみなさい」


 最後に。


 自分へ。


「今日、分からないものへ、答えを埋めませんでした」


 胸の奥。


 静かになる。


 答えを出さなかった。


 でも。


 何もしなかったのではない。


 見た。


 記録した。


 待つ日数を決めた。


 人へ頼んだ。


 次に考える日を残した。


 それで。


 今日を終えてよい。


 フローラは毛布を顎の下まで引き上げた。


 森の夜。


 小川。


 風。


 葉。


 遠くの獣。


 家の木板が、温度の変化で小さく鳴る。


 土の下は。


 見えない。


 だから。


 今夜のフローラは。


 そこへ希望も絶望も埋めなかった。


 ただ。


 赤い実がある場所を忘れないように。


 小石の円と。


 あと七日という言葉だけを。


 明日の自分へ残した。

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