第96話 青の姫君、昨日と同じ基準を今日へ押しつけない
森へ帰ってから、六度目の朝。
フローラが目を覚ました時、屋根の上を小さな足音が通り過ぎていった。
鳥だろうか。
爪が木板を軽く引っ掻き、二度ほど止まったあと、羽ばたきの音とともに遠ざかっていく。窓の外からは、まだ低い朝の光と、夜露を含んだ森の匂いが入り込んでいた。
フローラは毛布の中で目を開き、すぐには起き上がらなかった。
昨日。
オカエリの切った右下葉と、残した左下葉を見比べた。
切り口は乾いていた。
黒くなっていなかった。
上の葉と新芽は緑だった。
残した左下葉は、夕方には黄色い範囲が僅かに広がった可能性がある。
けれど、茶色い点はなかった。
だから、昨日は切らなかった。
今朝。
どうなっているだろう。
黄色が止まっているかもしれない。
さらに広がっているかもしれない。
茶色い点が出ているかもしれない。
上の葉にも変化があるかもしれない。
考えるたびに、胸の奥が少しずつ固くなっていく。
「今は、まだ見ていません」
フローラは天井へ向かって言った。
見ていない。
だから、悪くなったとは言えない。
よくなったとも言えない。
「昨日は、茶色い点がなかったので残しました」
その判断を、朝の自分へ置く。
「でも、昨日残したから、今日も残すとは決めません」
逆も同じ。
右下葉に茶色い点が出た時、切った。
だからといって。
今日、左下葉に茶色い点が一つ現れたら、すぐに同じように切るべきなのか。
昨日と今日。
右と左。
同じ株。
同じ種類の葉。
けれど。
右下葉を切ったあと、株全体の状態は変わっている。
左下葉は、残った一枚の下葉になった。
光の受け方も。
株の中での役割も。
昨日とは同じではないかもしれない。
「同じように見えても、昨日と同じ条件ではありません」
言葉にすると、胸へ浮かんでいた焦りが少し形を持った。
昨日決めた基準。
黄色が広がる。
茶色い点が現れる。
上葉や新芽の状態を見る。
切り口や茎を見る。
それらは今日も使える。
けれど。
昨日の判断を、そのまま今日へ押しつけることとは違う。
「見て、聞いて、それから決めます」
今日は。
自分だけで見ない。
エマ。
ガルド。
子どもたち。
必要なら。
薬草を育ててきた村の人にも聞く。
オカエリのことを、皆より長く見てきたのはフローラかもしれない。
でも。
植物の葉が黄色くなった時。
病気。
老化。
根の問題。
水。
虫。
それぞれの経験を持つ人がいる。
「聞いても、最後に決めるのは私です」
それも確認する。
人へ聞く。
任せる。
でも。
責任を渡すわけではない。
◇
フローラは毛布をめくり、寝台から降りた。
床板の冷たさは、昨日より少し弱い。暖炉の灰の下にはまだ火が残り、部屋の隅へ僅かな温もりが溜まっていた。
窓辺の机。
切った右下葉。
昨日よりさらに乾いている。
葉の縁は内側へ巻き込み、平らだった形はもう残っていない。黄色かった部分の多くは、薄い茶色へ変わっていた。
最初に現れた濃い茶色の点。
それは、今も周囲より濃い。
けれど。
腐って広がったような湿りはない。
表面は乾いている。
「朝の光で見ます」
フローラはカーテンを開けた。
淡い光が机へ落ちる。
切った葉の影は、昨日より小さい。
記録板へ描いた元の形と並べると、縮んだことがよく分かる。
匂い。
近づける。
乾いた草に似た匂い。
強い腐敗臭はない。
『切除後二日目朝。葉全体の乾燥・収縮が進む。黄色部分の多くが薄茶色へ変化。初発の濃褐色点は確認できるが、湿潤・腐敗臭なし。株から離れた葉であるため、病変の進行と乾燥変化の分離は困難。』
書いたあと、フローラは葉を元の位置へ戻した。
今日。
この葉を土へ返すか。
もう一日残すか。
それも。
畑を見てから決める。
◇
隣には、キズナの花びらを挟んだ紙がある。
三日後に確認すると決めた。
今日で、まだ一日。
フローラは紙の上へ置かれた小さな重しを見る。
開けたい。
中で折れていないか。
色が残っているか。
確かめたい。
けれど。
「今日は開けません」
触れずに言う。
見ないことを選んだもの。
開けないことで守るもの。
畑へ行けば、花のあとの膨らみを見られる。
家では、花びらを待たせる。
同じキズナの記録でも、毎日すべてを確認しなくてよい。
◇
顔を洗い、髪を梳く。
花守り布へ手を伸ばす前に、フローラは少し迷った。
昨日。
新しい六つの言葉を入れた。
花守り布は、少し重い。
全部を持ち歩かなくてもよいと、夜に決めた。
「今日は、整理します」
布を机へ広げる。
内側の袋。
王都へ持っていった言葉。
森へ戻る途中で書いた紙。
父様と母様から受け取った言葉。
畑の記録。
切った葉。
残した葉。
花のあと。
一枚ずつ。
全部を読むのではなく。
表へ書かれた最初の行だけを確認する。
今日、畑へ持っていきたいもの。
昨日の六つ。
『切った葉と残した葉は、もう同じ条件ではない。』
『切ったことが正しかったかは、今日もまだ決めない。』
『正しいと分からなくても、今朝の無事に安心してよい。』
『キズナの花びらは、土から見えなくなった。』
『花のあった場所では、小さな膨らみが育っている。』
『花が終わったあとにも、次があるかもしれない。』
これは持っていく。
王都で使った約束の一部は。
今日は家へ残す。
母様と父様の言葉を捨てるわけではない。
今朝の畑へ全部を連れていかないだけ。
フローラは王都の紙を小さな木箱へ収めた。
「ここで待っていてください」
木箱の蓋を閉じる。
花守り布は、少し軽くなった。
軽くしたことへ、ほんの少し罪悪感が浮かぶ。
母様や父様の言葉を外した。
大切ではないと言ったような気がする。
でも。
「大切なものを、いつも身体へ載せ続けなくてよいです」
自分へ言う。
家へ置く。
帰ってくる。
必要になった時、また開ける。
◇
朝食の部屋では、リオが石の記録を見比べていた。
昨日の朝。
昨日の夜。
今朝。
三枚の紙。
丸。
線。
新しい印。
「これは何ですか」
フローラが尋ねる。
「温かい」
「丸ではなくなったのですね」
「うん」
今朝の紙には、石の横へ小さな波線が描かれている。
「波が温かさですか」
「うん」
「何本ありますか」
「一つ」
「昨日の夜は?」
「二つ」
「では、今朝の方が冷たい?」
「うん」
「昨日の朝と比べては?」
リオは昨日の朝の紙を見る。
そこには丸しかない。
「分からない」
「印の決め方が違うので?」
「うん」
「では、比べられませんね」
「でも冷たい」
「今朝、冷たいことは分かります」
「うん」
昨日と比べられない。
でも。
今の感覚は記録できる。
フローラは石へ触れた。
冷たい。
自分の指先も、朝は少し冷えている。
「私にも冷たく感じます」
「同じ?」
「同じ程度かは分かりません」
人が違う。
感じ方も違う。
リオは紙へ書き足す代わりに、フローラへ鉛筆を差し出した。
「書く?」
「私の記録を?」
「うん」
フローラは波線の横へ、小さな点を一つ書いた。
「私にも冷たく感じた印です」
「点?」
「はい」
「小さい」
「リオの記録へ、私の感覚を大きく書きすぎないようにしました」
リオは少し考えたあと、頷いた。
「分かった」
同じ石。
同じ朝。
違う人。
違う印。
並べて残す。
◇
朝食は、薄く焼いたパンと、豆と葉野菜の煮込みだった。
昨日の夜より、豆は少ない。
リオは器を見たあと、何も言わず匙を取った。
「少ないと思いましたか」
フローラが尋ねる。
「少し」
「なぜ言わなかったのですか」
「毎日同じじゃない」
フローラは少し驚いた。
「そうですね」
「昨日、芋食べた」
「はい」
「今日はパン」
「はい」
「同じじゃなくていい」
リオの言葉が、胸へ残る。
昨日。
茶色い点が出た右下葉を切った。
今日。
左下葉へ茶色い点が出ても。
同じではなくていい。
ただし。
同じでなくていいことと。
何もしなくていいことも。
同じではない。
「今日も、見ます」
「うん」
◇
食事を終え、器を片づける。
椅子。
鍋。
匙。
布。
フローラは途中で手を止めた。
結界へ。
三つの気配。
リオとミナはすでに中にいる。
外から。
ガルド。
そして。
もう一人。
年配の女性。
「誰でしょう」
ミナが窓を見る。
「薬草畑のマルタさんかもしれません」
「なぜ」
「昨日、ガルドさんがオカエリの葉について相談すると話していました」
フローラは少し驚いた。
聞こうと思っていた。
その前に。
ガルドが人を連れてきた。
嬉しい。
でも。
自分の知らないところで話が進んだような不安も、少しある。
フローラは胸へ手を置いた。
「まず、聞きます」
勝手に処置を決められたわけではない。
見てもらう。
意見を聞く。
そのため。
戸を開ける。
「おはようございます」
「おはようございます、フローラ様」
ガルドの隣。
灰色の髪を後ろでまとめた、小柄な女性。
村の外れで薬草畑を管理しているマルタだった。
手には。
細い木箱。
小さな布袋。
拡大鏡のような丸い硝子。
「朝早くから、申し訳ありません」
「いいえ。私がお願いする前に来てくださったのですね」
フローラが言うと、ガルドが少し頭を下げる。
「昨日の夕方、左の下葉へ黄色の拡大が見られましたので」
「はい」
「マルタさんへ、今朝見てもらえるか尋ねました」
「処置を決めましたか」
「いいえ」
ガルドはすぐに答える。
「見るだけです」
胸の力が少し抜ける。
「ありがとうございます」
マルタはフローラの顔を見て、少し困ったように笑った。
「私は薬草を長く育てておりますが、豆について何でも分かるわけではありません」
「はい」
「黄色い葉も、病気も、虫も見てきました。でも、見間違えたこともあります」
「はい」
「それでもよろしければ」
「お願いします」
何でも分かる人ではない。
間違えることもある。
最初に言ってくれる。
それが。
安心だった。
◇
家を出る。
今日の畑へは、五人。
フローラ。
リオ。
ミナ。
ガルド。
マルタ。
子どもたちは、先に村の共同畑へ集まっているという。
森の道。
朝露。
風。
昨日より少し強い。
雲は薄い。
一歩。
二歩。
三歩。
左下葉。
四歩。
茶色い点。
五歩。
上葉。
六歩。
新芽。
七歩。
根。
八歩。
昨日と同じにしない。
フローラは八歩目で、一度息を吐いた。
マルタが横から尋ねる。
「何を数えておられるのですか」
「見るものです」
「八つ?」
「はい」
「多いですね」
「多いです」
「全部、同じように大事ですか」
フローラは少し考えた。
「同じではありません」
「では」
「今朝、最初に見るのは左下葉です。でも、左下葉だけで決めないために、ほかも見ます」
マルタが頷く。
「それがよいと思います」
すぐに正しいとは言わない。
思います。
その言い方も。
ありがたい。
◇
畑へ着く。
共同畑の端。
子どもたちが待っていた。
エマ。
サム。
ルル。
トト。
ニコ。
リーナ。
いつもの顔。
けれど。
皆。
フローラより先にオカエリを見ている。
「触っていません」
エマが最初に言う。
「はい」
「近くから見ました」
「はい」
「左の葉に」
言葉が止まる。
胸が強く鳴る。
「茶色いところがあります」
予想していた。
それでも。
実際に聞くと、身体が固くなる。
「一つですか」
「小さいのが二つ」
昨日。
右下葉。
最初に見つけたのは、一つ。
今朝。
左下葉。
二つ。
同じ。
ではない。
フローラはすぐに近づかず、胸へ手を置いた。
「まず、離れて見ます」
柵を開ける。
◇
オカエリ。
右下葉はない。
切り口。
乾いている。
昨日より。
少し濃い緑。
黒変なし。
左下葉。
黄色い範囲。
昨日の夕方より、僅かに内側へ広がっている。
そして。
葉の端近く。
小さな茶色い点。
一つ。
その少し上。
さらに小さな点。
一つ。
二つ。
離れている。
右下葉の時。
最初の点は、黄色と緑の境界近くにあった。
左下葉の二つは。
黄色い部分の中。
葉の縁に近い。
「位置が違います」
フローラが言う。
サムが記録板を開く。
「右は境目」
「はい」
「左は黄色の中」
「はい」
「同じ茶色?」
フローラは板で影を作ってもらい、角度を変える。
「右の葉は、もう家で乾いています。今の色とは直接比べられません」
「昨日の絵は?」
サムが右下葉の記録を出す。
茶色い点。
少し濃い。
形。
丸い。
左下葉。
一つは丸い。
もう一つは細い。
「似ていますが、同じ形ではありません」
トトが焦れたように尋ねる。
「切る?」
「まだです」
「点、二つ」
「はい」
「昨日は一つで切った」
「昨日は、点だけで切ったのではありません」
黄色の広がり。
茎の柔らかさ。
上葉。
新芽。
右下葉の状態。
皆で見た。
「今日も、全部を見ます」
◇
マルタが少し離れた場所からオカエリを見る。
「私も、まだ触れません」
「はい」
切り口。
上葉。
新芽。
茎。
順番。
フローラが先に見る。
右の切り口。
乾燥。
黒くない。
周囲の茎。
緑。
汁なし。
匂いなし。
上葉。
表。
緑。
裏。
小さな虫。
一匹。
葉の中央近く。
フローラの胸が固くなる。
「虫がいます」
子どもたちが動きそうになる。
「近づきすぎないでください」
虫。
薄い緑。
ムラマルから取った虫とは、形が違う。
脚。
細い。
葉の裏へ張りついている。
「食べ跡は?」
エマ。
葉。
小さな白い点。
一つ。
穴ではない。
表面が薄く抜けたような跡。
「食べた可能性があります」
新しい変化。
左下葉の黄色と茶色。
上葉の虫。
同じ原因か。
分からない。
「虫を取りますか」
ルル。
「はい。観察します」
細い筆。
瓶。
マルタの木箱から出す。
「用意してきたのですか」
「見つかるかもしれないと思いました」
「ありがとうございます」
虫を筆先へ乗せる。
瓶へ。
小さな葉片。
水滴。
蓋。
「ムラマルの虫と混ぜません」
サム。
「別」
「はい。形が違います」
◇
上葉。
虫を除いたあと。
食べ跡らしき白い点。
一つ。
ほかに変色なし。
葉脈。
緑。
張り。
ある。
新芽。
昨日夕方より、僅かに開いている。
色。
緑。
先端。
変色なし。
「新芽は、今朝も開いています」
周囲から、少し息が漏れる。
でも。
それだけで安心しきらない。
茎。
フローラが触れる。
昨日と比べて。
大きな違いはない。
エマも触れる。
「私も、昨日と大きく変わらないと思います」
マルタは最後に触れた。
「私には、下の方が少し柔らかく感じます」
フローラの胸が緊張する。
「昨日をご存じではありません」
「はい」
「今の感覚です」
「そうです」
記録。
『茎下部。フローラ、エマは前日から大きな差を感じない。マルタは現時点で僅かに柔らかく感じる。前日比較は不可。』
違う感覚。
並べる。
◇
左下葉。
マルタが丸い硝子を出す。
「これは」
「細かな傷を見る時に使います」
「葉へ触れますか」
「直接は当てません」
少し離し。
光。
拡大。
フローラも覗く。
茶色い点。
表面。
一つ目。
乾いているように見える。
二つ目。
少し光る。
「濡れていますか」
「朝露かもしれません」
マルタが布の端で、葉の近くの別の場所へついた露を示す。
「周囲の葉にも露があります」
「では、点が湿っているとは言えません」
「はい」
「乾かしてから、もう一度見る?」
「葉を拭けば、刺激になります」
どうする。
朝の風。
少しある。
「少し時間を置けば、露が乾くかもしれません」
「待ちます」
◇
葉の匂い。
近づける。
強い匂いなし。
縁。
一度だけ。
フローラが触れる。
柔らかい。
昨日より。
さらに薄いように感じる。
でも。
昨日の夕方。
触れていない。
比較できない。
「今朝の左下葉は柔らかい」
記録。
それだけ。
◇
根元。
土。
表面。
乾き。
第一関節。
僅かに湿り。
第二関節。
湿り。
昨日夕方。
少量の水。
今朝。
すぐの水やり不要。
匂い。
腐った匂いなし。
根元の色。
変化なし。
◇
「マルタさんは、どう見ますか」
すべてを確認したあと、フローラは尋ねた。
マルタはすぐに答えなかった。
左下葉。
切り口。
上葉。
新芽。
土。
一つずつ、もう一度見る。
「古い下葉が黄色くなること自体は、珍しくありません」
「はい」
「上の葉へ力を渡し、下の葉が役目を終える時にも黄色くなります」
子どもたちが聞いている。
「役目終わり?」
ルル。
「そういうこともあります」
「病気じゃない?」
「病気でないこともあります」
トトが左下葉を指す。
「茶色い点は?」
「老いた葉にも、乾いた傷は出ます」
「じゃあ切らなくていい?」
「それだけでは決められません」
マルタの答え。
フローラと似ている。
「病気の場合は?」
「点が増える。広がる。湿る。縁が崩れる。匂いが出る。葉脈を越えて色が変わる。上の葉へ同じ変化が出る」
「全部?」
「全部出るとは限りません」
「難しい」
「ええ」
マルタは頷く。
「だから、今朝だけでは、私は病気だとも老化だとも決められません」
「切るかは?」
「私なら」
言葉を止める。
「私なら、昼まで待ちます」
フローラは胸へ手を置く。
「なぜですか」
「上葉と新芽が保たれているからです」
「はい」
「茶色い点が、まだ小さいからです」
「はい」
「露が乾いたあとの表面を見たいからです」
「はい」
「ただし」
マルタは左下葉を見た。
「点が急に増える。縁が湿って崩れる。上の葉へ変化が出る。その場合は、早めに切ることを考えます」
「黄色が広がるだけなら?」
「広がり方を見ます」
「速さ?」
「はい」
今朝。
昨日夕方より僅かに広がる。
数時間後。
どれほど。
「待つ間に悪くなりませんか」
フローラの問い。
自分の恐れ。
マルタは。
静かに答える。
「悪くなるかもしれません」
胸が固くなる。
「はい」
「切っても、悪くなるかもしれません」
「はい」
「今切ることにも、待つことにも、危険はあります」
安全な選択。
ない。
「では、どう決めますか」
「今見えているものと、自分が何を守りたいかで決めます」
何を守りたい。
オカエリ。
株全体。
左下葉。
新芽。
病気が広がることを防ぐ。
でも。
必要な葉を早く失わせない。
「私は」
フローラは言葉を探す。
「株全体を守りたいです」
「はい」
「でも、左下葉がまだ役目を持っているなら、早く切りたくありません」
「はい」
「昼まで待っても、上葉や新芽へ急な変化が出る可能性は」
「あります」
「高いですか」
「分かりません」
分からない。
それでも。
決める。
「昼まで待ちます」
フローラは答えた。
子どもたち。
周囲。
静か。
「昨日は、茶色い点が出た朝に切りました」
自分から説明する。
「今日は、茶色い点が出ても、昼まで待ちます」
トトが尋ねる。
「同じじゃないから?」
「はい」
「点、二つなのに?」
「はい」
「昨日より多い」
「数だけでは決めません」
「上は元気」
「はい」
「新芽も」
「はい」
「露もある」
「はい」
「だから待つ?」
「それもあります」
フローラは左下葉を見る。
「昨日の右下葉を切ったあと、株がどう変わったかも見たいです。左をすぐに切れば、二枚を続けて失うことになります」
「一枚ずつ」
「はい」
「昨日と今日、違う」
「はい」
◇
サムが板へ大きく書く。
『昨日と同じ点があっても、昨日と同じ決め方にしない。』
フローラは見て。
「同じ点ではありません」
「似た点」
「はい」
サムが書き直す。
『昨日と似た点があっても、昨日と同じ決め方にしない。』
「今のオカエリについてです」
『今のオカエリ。』
付け加える。
言葉。
狭くする。
ほかの植物。
ほかの日。
すべての決まりにしない。
◇
昼まで。
誰が見るか。
ガルド。
エマ。
マルタは、一度自分の薬草畑へ戻る。
昼前に再び来る。
フローラ。
家へ戻るか。
畑へ残るか。
胸。
残りたい。
点。
見たい。
少しずつ。
変わるかもしれない。
でも。
見続ければ。
小さな色の違いを、すべて悪化に見てしまうかもしれない。
「私は、家へ戻ります」
フローラが言うと、ガルドが頷いた。
「はい」
「昼前に来ます」
「はい」
「変化があれば」
「知らせます」
「小さな変化も?」
ガルドが少し考える。
「何を小さいとするか、決めましょう」
以前なら。
何かあれば知らせてください。
それだけ。
でも。
何か。
広すぎる。
「茶色い点が増えたら」
「はい」
「今ある点が、目で分かるほど広がったら」
「はい」
「上葉か新芽へ変色が出たら」
「はい」
「葉の縁が湿って崩れたら」
「はい」
「茎が大きく倒れたら」
「はい」
「それ以外は、昼前にまとめて教えてください」
「承知しました」
知らせる基準。
決める。
フローラも。
家で待てる。
◇
キズナ。
花のあとの膨らみ。
昨日夕方より。
僅かに長く見える。
丸いだけだったものが。
少し縦へ。
形を変えている。
「種?」
リオ。
「種を包む部分かもしれません」
「大きくなる?」
「分かりません」
周囲から。
いつもの小さな笑い。
「昨日より長い?」
エマ。
「可能性があります」
サム。
昨日の絵。
今朝の絵。
並べる。
昨日夕方。
丸。
今朝。
細長い丸。
「同じ場所から?」
「たぶん」
「また、たぶんですか」
「うん」
フローラは笑う。
「たぶんでも、残してください」
キズナの記録。
『花後三日目朝。花のあった位置の膨らみが、前日夕方より僅かに縦長に見える可能性。種を包む部分かは未確定。花びらは土上に確認できず、捜索しない。』
◇
虫の瓶。
最初から一匹の虫。
よく動いている。
二匹から一匹になった瓶。
残った虫も動く。
分離した弱い虫。
昨日夕方より、葉の中央へ位置を変えている。
脚。
動く。
ただし。
動きは少ない。
「少し元気?」
ルル。
「位置が変わりました」
「元気?」
「昨日より多く動いたかは、見ていない時間があるので分かりません」
「でも生きてる」
「はい」
新しい上葉の虫。
別瓶。
四つ目。
記録が増える。
「瓶、多い」
トト。
「はい」
「全部見る?」
「はい」
「大変」
「はい」
捕まえる。
観察する。
増えれば。
見る責任も増える。
それを。
簡単に増やさない。
「新しい虫は、一日だけ見ます」
フローラが決める。
「明日、ムラマルの虫と違うことが分かったら、外へ戻すことも考えます」
「オカエリの近く?」
「同じ葉へは戻しません」
「どこ?」
「畑から少し離れた草地です」
害虫かもしれない。
でも。
殺すために取ったわけではない。
◇
一通りの観察を終え、フローラは家へ戻った。
道。
胸。
オカエリ。
茶色い点。
二つ。
残した。
昼まで。
待つ。
怖い。
でも。
決めた。
「昨日なら」
フローラは歩きながら言う。
「すぐに切ったかもしれません」
ミナが横で答える。
「はい」
「今日待つのは、成長ですか」
自分の判断を。
よいものと呼びたい気持ち。
でも。
ミナはすぐに褒めなかった。
「今日の状態を見て、待つことを選ばれました」
「はい」
「それがよい結果になるかは、まだ分かりません」
「はい」
「ただ、昨日の判断をそのまま繰り返さなかったことは、今のフローラ様が考えた結果です」
「はい」
結果。
まだ。
でも。
考え方。
変わった。
◇
家へ戻る。
「ただいま」
机の切った葉。
乾いたまま。
フローラは近づく。
今朝から。
大きな変化はないように見える。
もう。
この葉から、今のオカエリの病気を判断するのは難しい。
乾燥。
時間。
株から離れた変化。
「今日、土へ返します」
フローラは決めた。
記録。
絵。
残っている。
葉そのものを、ずっと家へ置かなくてもよい。
花守り箱へ入れれば。
残せる。
でも。
病気の可能性がある葉を、ほかの花びらや布と一緒へ入れたくない。
燃やす。
それも。
畑へ広がるものなら、安全かもしれない。
けれど。
病気だと分かっていない。
土へ戻す場所。
オカエリの近くではない。
畑から離れた、観察用の小さな穴。
「マルタさんへ聞いてからにします」
決めたあと。
また。
保留。
自分だけで土へ戻してよいか。
病気の葉なら。
畑へ近い場所へ埋めない方がよいかもしれない。
「決め直してもいいです」
切った葉へ言う。
土へ返すと、今決めた。
でも。
方法は。
聞いてから。
◇
昼まで。
時間。
長い。
フローラは観察帳の五日目を読むことを考えた。
でも。
オカエリの知らせを待ちながら読めば。
記録の言葉が胸へ入らないかもしれない。
「今は、別のことをします」
木箱。
王都から持ち帰った白鈴草の種。
袋。
取り出す。
今日は蒔かない。
袋の外から。
粒の数。
形。
見る。
細かい。
薄茶色。
全部を数えるのは難しい。
「少しだけ、試す場所を決めます」
紙。
森の家の畑の図。
青豆一号。
アオジロウ。
ムラマル。
モリタン。
赤い実。
オカエリ。
空いている場所。
白鈴草。
王都の土では育った。
森で。
どうか。
日当たり。
湿り。
風。
「オカエリの近くには植えません」
今。
オカエリを見ている。
新しい種。
近くへ増やさない。
別の畝。
小さな鉢。
まず。
三粒。
それくらい。
「帰ってきて、すぐ全部蒔かなくてよかったです」
王都から持ってきたもの。
早く森へ馴染ませたい。
そんな気持ちがあった。
でも。
森の畑。
今。
オカエリ。
キズナ。
虫。
見るもの。
多い。
「白鈴草は、もう少し待ってください」
種へ。
言う。
待たせても。
なくならない。
◇
リオは、丸い石の絵を描き直している。
冷たさ。
触った回数。
人。
三つ。
別の欄。
「増えましたね」
「分けた」
「はい」
「面倒」
「はい」
「でも分かる」
「はい」
フローラは少し笑う。
「畑も、同じです」
「全部別」
「全部ではありません」
「でも増える」
「はい」
オカエリ。
左下葉。
茶色い点。
上葉の虫。
新芽。
土。
切り口。
全部。
分ける。
◇
昼前。
結界。
ガルド。
一人。
走ってはいない。
でも。
いつもより歩みが速い。
フローラは立ち上がる。
胸が強く鳴る。
戸を開ける。
「変化がありましたか」
「はい」
ガルドは息を整える。
「茶色い点が増えました」
「いくつ」
「目で確認できるものが、五つです」
朝。
二つ。
昼前。
五つ。
増えた。
「広がりは?」
「最初の一つが、朝より僅かに大きく見えます」
「上葉」
「新しい変色はありません」
「新芽」
「緑です」
「縁」
「一部が、少し湿って見えます」
胸。
固くなる。
マルタの基準。
点が増える。
広がる。
縁が湿る。
三つ。
「行きます」
フローラは花守り布をかぶる。
刃物。
ミナを見る。
「持ちますか」
ミナは答えを急がない。
「必要になる可能性はあります」
「はい」
「持っていきます」
今日は。
朝。
刃物を持たなかった。
今。
持つ。
でも。
切ると決めたわけではない。
◇
森の道。
朝より。
日差し。
強い。
一歩。
二歩。
三歩。
点、五つ。
四歩。
最初の点、拡大。
五歩。
縁、湿り。
六歩。
上葉、緑。
七歩。
新芽、緑。
八歩。
見る。
九歩。
聞く。
十歩。
決める。
今日は十。
◇
畑。
人。
朝より多い。
マルタ。
ガルド。
子どもたち。
村人。
大きな騒ぎではない。
でも。
皆。
オカエリから少し離れて待っている。
フローラが柵を開ける。
左下葉。
朝より。
黄色。
明らかに内側へ広がっている。
茶色い点。
一。
二。
三。
四。
五。
小さい。
でも。
増えた。
最初の丸い点。
少し大きい。
葉の縁。
一箇所。
色が濃く。
僅かに透けるような湿り。
「板を」
影。
見る。
マルタ。
隣。
「朝より変わっています」
「はい」
「どう見ますか」
「病変の可能性が、朝より高くなったと思います」
「老化では」
「老化だけでも、点は出ることがあります」
「はい」
「ただ、数時間で点が増え、縁へ湿った変化が出たことは、私は警戒します」
断定しない。
でも。
警戒。
「切りますか」
フローラが尋ねる。
「私なら、切ります」
朝と同じ。
私なら。
「フローラ様は?」
返される。
左下葉。
残した。
昨日。
今日。
朝。
待った。
数時間。
変化。
見た。
上葉と新芽は緑。
今。
下葉を切れば。
オカエリは、下葉を二枚とも失う。
上葉。
新芽。
残る。
切らなければ。
病変が広がる可能性。
切っても。
株が弱る可能性。
「新芽は、今も開いています」
「はい」
「上葉も、緑です」
「はい」
「切り口も、落ち着いています」
「はい」
「左下葉の変化だけが進んでいます」
「今のところは」
「はい」
フローラは胸へ手を置いた。
「切ります」
声。
震える。
でも。
昨日とは違う。
昨日の基準を繰り返したからではない。
朝。
待った。
見た。
変化。
聞いた。
決めた。
「左下葉を、一枚切ります」
子どもたち。
静か。
エマが尋ねる。
「昨日と同じ場所?」
「葉の付け根です」
「昨日と同じ刃物?」
「消毒してから使います」
マルタが持ってきた小瓶。
強い酒精。
布。
刃。
拭く。
乾かす。
「昨日は、火へ通しました」
「どちらでもよいです」
「今日は、こちらで」
同じ切る。
でも。
道具の整え方も違う。
◇
フローラは刃物を持つ。
右手。
昨日の抵抗。
思い出す。
左下葉。
支える。
葉柄。
細い。
まだ緑の部分。
病変のある葉から。
少し離れた位置。
「ここでよいですか」
マルタ。
見る。
「株を傷つけすぎない位置です」
「エマ」
「はい」
「見てください」
昨日。
手を添えた。
今日。
近く。
でも。
触れない。
サム。
記録。
リオ。
少し後ろ。
ミナ。
横。
「切ります」
刃。
当てる。
昨日より。
手の震えは小さい。
でも。
痛くないわけではない。
力。
少し。
葉柄。
切れる。
小さな抵抗。
ぷつり。
左下葉。
離れる。
フローラの手へ。
オカエリ。
下葉。
二枚とも。
なくなった。
上葉と新芽。
残る。
胸が。
大きく痛む。
「切りました」
声。
震える。
「はい」
ミナ。
「戻りません」
「はい」
昨日と同じ言葉。
でも。
今日の切った葉。
「オカエリは、残っています」
「はい」
フローラは切った左下葉を、白い布へ置く。
◇
切り口。
今日の左。
薄い緑。
汁。
僅か。
清潔な布。
触れない。
見る。
「止まりますか」
ルル。
「少し待ちます」
昨日の右切り口。
乾いている。
今日の左。
新しい。
同じ株。
二つの跡。
左右。
「痛そう」
子ども。
声。
小さい。
フローラは、すぐに大丈夫とは言わない。
「葉を二枚失いました」
「弱る?」
「可能性があります」
「でも切った」
「はい」
「病気かもしれないから?」
「はい」
「正しかった?」
昨日と同じ問い。
フローラは。
切った葉。
オカエリ。
両方を見る。
「まだ、分かりません」
答える。
「でも、昨日と同じだから切ったのではありません」
サム。
筆。
止める。
「今日見た変化で決めました」
「点増えた」
「はい」
「広がった」
「はい」
「湿った」
「はい」
「上は緑」
「はい」
「だから、上を守るため?」
少し考える。
「株全体を守るためです」
「葉は?」
「左下葉を失いました」
「守れなかった?」
フローラの胸が痛む。
「葉を残すことより、株へ広がる可能性を減らすことを選びました」
守る。
すべてを残す。
同じではない。
◇
マルタが切った葉を、硝子で見る。
茶色い点。
五つ。
最初の点。
朝より大きい。
縁。
湿った部分。
拡大。
「表面が崩れ始めています」
「病気ですか」
「可能性は高いと思います」
「断定は?」
「できません」
「持ち帰りますか」
「家の中へは、入れない方がよいでしょう」
昨日の右葉。
すでに家。
乾いている。
左葉。
湿った変化。
持ち帰らない。
「どうしますか」
「畑から離れた場所で焼くか、深く埋めます」
「右葉は?」
「湿りも臭いもないなら、同じように処理してよいと思います」
処理。
言葉。
少し冷たい。
でも。
病変の可能性。
畑へ戻さない。
「焼きます」
フローラが決めた。
葉。
火。
形。
なくなる。
胸。
痛い。
それでも。
病気を残さないため。
「右下葉も、一緒に焼きます」
昨日。
今日。
二枚。
残さない。
記録。
絵。
言葉。
ある。
「花守り箱へは、入れません」
葉へ。
言う。
大切ではないからではない。
守る方法が違う。
◇
切り口。
汁。
少しずつ止まる。
白い布。
当てない。
風。
乾かす。
マルタが見る。
「このままでよいと思います」
「薬は?」
「塗らない方がよいでしょう」
「何もしない?」
「清潔に切りました。乾かします」
切ったあと。
何かをしたい。
薬。
布。
覆う。
でも。
何もしない。
乾かす。
◇
水。
土。
朝から変わらない。
切ったからといって。
水を増やさない。
肥料も。
足さない。
「今日は、処置を増やしません」
フローラが言う。
エマ。
頷く。
「水、なし」
「はい」
「薬、なし」
「はい」
「切っただけ」
「はい」
「見る」
「はい」
◇
昼の記録。
『オカエリ。朝、左下葉に褐色点二つ。黄色域拡大あり。上葉・新芽は緑。昼前、褐色点は目視で五つへ増加。初発点は拡大。葉縁一部に湿潤・表面崩れを確認。上葉・新芽の変色なし。右切除部は乾燥、黒変なし。』
『マルタの意見では、老化のみではなく病変の可能性が朝より高まった。フローラ判断で左下葉を切除。昨日と似た点があったためではなく、数時間の変化、湿潤、点の増加を見て決めた。』
『切除後、左右の下葉はなくなった。上葉と新芽は残る。水・薬・肥料の追加処置なし。切り口の乾燥を待つ。』
サム。
最後に。
『昨日と同じことをした。でも、昨日と同じ理由ではない。』
書く。
フローラは長く見る。
「そうですね」
同じ。
葉を切る。
でも。
理由。
経過。
違う。
「それを残してください」
◇
キズナ。
花のあとの膨らみ。
昼の光。
朝より。
少しはっきり。
でも。
大きく変わってはいない。
オカエリのあと。
忘れず。
見る。
虫の瓶。
新しい虫。
瓶の葉へ。
小さな白い跡。
やはり。
表面を吸ったか。
食べた可能性。
記録。
でも。
今日は。
オカエリ。
気持ち。
多い。
「虫は、夕方にもう一度見ます」
◇
切った葉を焼く場所。
村の外れ。
畑から離れた。
乾いた土の上。
小さな金属皿。
昨日の右下葉は、リオとガルドが家から持ってきてくれた。
フローラは二枚を並べる。
右。
乾いて縮んだ葉。
左。
まだ柔らかく、黄色と茶色を残す葉。
同じオカエリの下葉。
昨日。
今日。
違う形。
「燃やします」
子どもたちは少し離れている。
火。
小さい。
乾いた右葉から。
先に。
端。
黒くなる。
火が広がる。
左葉。
湿り。
すぐには燃えない。
煙。
少し多い。
マルタが乾いた枝を足す。
炎。
包む。
形。
縮む。
茶色。
黒。
灰。
フローラは目を逸らさなかった。
でも。
最後まで見なければならないと、自分へ命じない。
一度。
目を閉じる。
息。
吐く。
また見る。
二枚の葉。
形。
なくなる。
「記録は残っています」
ミナが静かに言う。
「はい」
「オカエリも」
「はい」
畑に。
残る。
上葉。
新芽。
茎。
根。
「ありがとう」
フローラは小さく言った。
葉へ。
役目。
昨日まで。
光。
受けた。
株。
育てた。
「残せなくて、ごめんなさい」
言葉。
自然に出る。
マルタは否定しない。
「焼くことも、守り方です」
その言葉へ。
フローラは頷いた。
灰。
完全に冷えたあと。
畑へ戻さない。
村の灰捨て場へ。
マルタが管理する。
◇
家へ戻る頃には、昼を過ぎていた。
フローラの身体は、昨日より疲れていた。
切る。
待つ。
人へ聞く。
また切る。
焼く。
決めることが多かった。
「お腹は?」
ミナが尋ねる。
フローラは胸ではなく、腹へ意識を向けた。
「空いています」
「はい」
「食べられます」
昨日。
切ったあと。
食事へ戻るのが難しかった。
今日。
空腹がある。
切ったことが軽いわけではない。
身体が。
暮らしへ戻ろうとしている。
◇
昼食。
パン。
豆。
薄いスープ。
リオは何も言わず、フローラの器へ小さな芋を一つ入れた。
「これは」
「今日」
「何のためですか」
「切った」
「昨日も、切りました」
「今日は二枚目」
祝いではない。
悲しいからでもない。
食べる。
「分けます」
芋を半分。
リオへ。
半分。
フローラ。
ミナには。
別の小さな芋。
「ミナも」
「ありがとうございます」
三人。
食べる。
オカエリの葉を切った日。
でも。
食事。
する。
◇
食後。
フローラは椅子へ座り、花守り布の紙を取り出した。
昨日の言葉。
『切ったことが正しかったかは、今日もまだ決めない。』
今日。
また。
切った。
正しかったか。
やはり。
まだ決められない。
「同じ言葉を、今日も使えます」
でも。
同じ意味ではない。
昨日。
右下葉。
今日。
左下葉。
「書き足します」
『昨日と同じように葉を切った。けれど、昨日と同じ理由ではない。』
『朝は切らず、昼まで待った。』
『点が増え、広がり、縁が湿ったため、株全体を守ることを優先した。』
『昨日の基準を、そのまま今日へ押しつけなかった。』
『それでも、切ったことが正しかったかは、まだ決めない。』
五つ。
最後。
何を書く。
切った二枚。
焼いた。
残さなかった。
『残せないものにも、役目があった。』
六つ。
フローラは紙を折る。
花守り布へ。
入れる。
◇
午後。
休む。
畑へ。
すぐ行かない。
ガルド。
夕方まで見る。
切り口。
上葉。
新芽。
変化。
基準。
決めた。
黒変。
萎れ。
新芽の変色。
茎の倒れ。
その時。
知らせる。
それ以外は。
夕方。
◇
フローラは寝台へ横になった。
毛布。
薄く。
胸。
痛い。
右。
左。
下葉。
二枚。
ない。
オカエリ。
見た目。
変わる。
上だけ。
少し頼りないかもしれない。
「弱ったら」
考える。
葉を切ったから。
そう思うだろう。
切らなければ。
病気が広がったかもしれない。
どちらも。
確かめられない。
「選ばなかった時間は、見られません」
切らなかった場合。
存在しない。
昨日。
今日。
切った時間だけ。
続く。
だから。
正しかったか。
完全には。
分からない。
「それでも、次を見ます」
オカエリ。
残る。
◇
少し眠った。
目を覚ますと、光が傾いていた。
結界へ。
異常なし。
知らせ。
なし。
フローラは、寝台の上で深く息を吐く。
大きな変化はない。
それに。
安心してよい。
◇
夕方。
畑。
オカエリ。
左右の切り口。
右。
乾燥。
左。
朝切った場所。
薄く乾き始めている。
黒変なし。
汁なし。
上葉。
緑。
新芽。
昼より。
変化。
大きくない。
萎れ。
なし。
茎。
立っている。
フローラは、畝の前へしゃがんだ。
「こんばんは、オカエリ」
葉を二枚失った株。
「今日は、二枚目を切りました」
切り口。
二つ。
「昨日と同じことをしました」
でも。
「昨日と同じようには、決めませんでした」
胸。
痛い。
「朝、待ちました」
見た。
聞いた。
変化。
決めた。
「これでよかったかは、まだ分かりません」
でも。
「夕方まで、上の葉と新芽は緑です」
安心。
「ありがとうございます」
誰へ。
オカエリへ。
見てくれた人へ。
待てた自分へ。
◇
ガルドが昼からの記録を見せる。
切除後一刻。
大きな変化なし。
二刻。
切り口乾燥開始。
上葉。
緑。
新芽。
緑。
茎。
大きな倒れなし。
「昼、水を与えていません」
「はい」
「土は」
「表面は乾いております。第一関節の少し下に湿りがあります」
「夕方も、まだ与えません」
「承知しました」
葉を二枚切った。
だから。
弱るかもしれない。
水を増やしたくなる。
肥料を足したくなる。
何かを。
してあげたくなる。
けれど。
今の土には。
まだ湿りがある。
「切ったことへの不安を、水で埋めません」
フローラが言うと、エマが小さく頷いた。
「はい」
「何かしたくても」
「見る」
「はい」
処置。
切る。
もうした。
その直後へ。
さらに何かを重ねない。
◇
上葉の裏。
朝に見つけた虫を取った場所。
白い点。
一つ。
朝から。
大きく広がっていない。
新しい白い跡もない。
虫を取ったから増えなかったのか。
もともと一つだけだったのか。
それは分からない。
「明日まで見ます」
フローラは記録へ書き加えた。
『上葉の白色跡は朝から夕方まで拡大なし。新規跡なし。虫除去との関係は未確定。』
◇
別瓶へ入れた虫。
朝。
葉の裏。
昼。
葉の中央。
夕方。
瓶の壁へ移っている。
ムラマルから取った虫とは。
やはり形が違う。
身体。
細い。
色。
薄い緑。
移動。
比較的速い。
「一日だけ見るって言った」
サムが言う。
「はい」
「明日、戻す?」
「今のところ、その予定です」
「白い跡が増えたら?」
「葉を食べる虫である可能性が高くなります」
「殺す?」
トトが尋ねる。
周囲が少し静かになる。
フローラはすぐに答えなかった。
畑を守る。
虫を戻す。
戻せば。
また別の植物を食べるかもしれない。
畑へ戻ってくるかもしれない。
だから。
畑から離れた場所。
それで十分なのか。
「明日、マルタさんへ相談します」
「今は決めない?」
「はい」
虫。
一匹。
小さい。
でも。
捕まえた。
観察した。
その後を。
何となく決めない。
◇
キズナ。
花後三日目夕方。
膨らみ。
朝より。
少し。
先端が細くなったように見える。
丸いだけではなく。
小さな袋のような形。
「種?」
リオ。
「まだです」
「また」
「はい」
「でも朝より、種っぽい」
「その言い方なら、分かります」
フローラは少し笑った。
「種を包むもののように見える形が、朝よりはっきりした可能性があります」
サム。
筆。
『種っぽい。』
そのまま書く。
フローラは板を見る。
「その下へ、詳しく書いてください」
『朝より先端が細く見え、小袋状の形がはっきりした可能性。』
「これでよいです」
「種っぽい、消す?」
「消さなくてよいです」
子どもが見た言葉。
大人が整理した言葉。
両方。
残る。
◇
夕方の記録を終える頃。
畑へ来ていた村人たちが、少しずつ帰り始めた。
大きな歓声はない。
葉を切った。
切り口は乾き始めた。
上葉と新芽は緑。
それだけ。
誰も。
治ったとは言わない。
助かったとも。
まだ言わない。
けれど。
朝から続いていた緊張は。
少しだけ。
薄くなっている。
パン屋の女性が。
フローラのそばへ来る。
「今日は、朝から大変だったね」
「はい」
「食べたかい」
「昼食を食べました」
「ちゃんと?」
「はい」
「どのくらい」
「パンと豆とスープ。それから、芋を半分」
「半分?」
「リオと分けました」
「なら、帰ってもう半分食べな」
籠。
また。
芋。
「今日は、もういただきました」
「明日の分」
「では、一つだけ」
「二つ」
「一つです」
「小さいのを二つ」
「同じでは」
「大きいの一つ分だよ」
周囲。
小さな笑い。
フローラは。
籠の中。
小さな芋。
二つ。
見る。
「では、二つ」
「よし」
パン屋の女性は満足そうに頷いた。
「切った日も、食べるんだよ」
「はい」
「正しかったか分からなくても」
フローラの胸が動く。
「はい」
「腹は減る」
「はい」
「だから食べる」
単純。
でも。
必要。
「ありがとうございます」
◇
家へ戻る道。
夕暮れ。
森の低い場所へ。
薄い霧。
出始める。
籠。
芋。
二つ。
一歩。
二歩。
三歩。
朝。
待った。
四歩。
昼。
切った。
五歩。
夕方。
緑。
六歩。
正しかったか。
まだ分からない。
七歩。
食べる。
◇
家。
「ただいま」
机。
切った右下葉。
ない。
リオたちが畑へ持っていき。
左下葉と一緒に。
焼いた。
白い布だけ。
残る。
布。
小さな。
茶色い粉。
葉の欠片か。
土か。
分からない。
フローラは布を持ち上げる。
「洗います」
記録のために。
布を残す必要はない。
水。
桶。
布。
ゆっくり。
洗う。
茶色い粉。
水へ。
溶ける。
流す。
絞る。
干す。
切った葉を置いた布。
明日には。
別のことへ使えるかもしれない。
でも。
同じ役目をさせるためではない。
布は。
また布として使う。
◇
夕食。
パン屋の女性からもらった小さな芋。
二つ。
煮込み。
パン。
豆。
今日は。
豆がある。
リオが器を見る。
「多い」
「昼より少し」
「嬉しい?」
「豆がですか」
「オカエリ」
フローラは匙を止める。
「夕方まで、上の葉と新芽が緑だったことには、安心しています」
「嬉しい?」
少し考える。
「はい」
安心。
嬉しい。
どちらも。
ある。
「では、芋」
リオが小さい芋を持ち上げる。
「一個ずつ?」
「二つしかありません」
「ミナは?」
フローラは芋を見る。
二つ。
三人。
「切ります」
半分。
半分。
一つ目。
リオ。
フローラ。
二つ目。
ミナ。
残り半分。
もう一度。
三つへ。
小さく。
切る。
「細かい」
「三人で食べます」
「俺の少ない」
「最初に半分あります」
「そうだった」
ミナが笑う。
三人。
食べる。
切った葉。
二枚。
戻らない。
でも。
芋は。
分けられる。
同じ切るでも。
意味。
違う。
◇
食後。
日記帳。
開く。
今日は。
朝から。
言葉。
多い。
書く前に。
フローラは一度。
手を止めた。
「今日のことを、全部書く必要はありません」
でも。
葉を切った理由。
待った時間。
マルタの意見。
上葉の虫。
焼いたこと。
残したい。
「自然な文章へ、まとめます」
筆。
◇
『森へ帰ってから六度目の朝。オカエリの左下葉には、昨日の夕方より黄色い範囲が広がり、小さな茶色い点が二つ現れていた。昨日の右下葉にも茶色い点が出たあと切ったが、今日は同じようにすぐ切らなかった。右下葉をすでに失ったこと、左下葉が残る最後の下葉だったこと、上の葉と新芽が緑だったこと、朝露が残っていたことを見て、昼まで待つと決めた。』
『薬草畑のマルタさんへも見てもらった。下葉が黄色くなることは、病気だけでなく、古い葉が役目を終える時にも起こると教えてもらった。茶色い点も、病気とは限らない。ただ、点が増える、広がる、湿る、縁が崩れる、上の葉にも変化が出る時は警戒すると聞いた。』
◇
『昼前、茶色い点は二つから五つへ増えていた。最初の点は少し広がり、葉の縁に湿った部分が現れていた。上の葉と新芽は緑のままだった。私は、左下葉を切った。』
筆。
止まる。
胸。
痛い。
でも。
続ける。
『昨日と同じように葉を切った。でも、昨日切ったから今日も切ったのではない。朝には切らず、数時間待った。変化を見た。人へ聞いた。そのうえで、病気が株全体へ広がる可能性を減らすことを優先した。』
『正しかったかは、まだ分からない。切らずに残した時間は、もう見ることができない。切った今の時間だけが続いている。だから、これからのオカエリを見る。』
◇
『切った二枚の下葉は、畑から離れた場所で焼いた。右の葉は乾いていた。左の葉はまだ柔らかく、湿った部分があった。同じオカエリの葉でも、違う形で燃えた。』
『花守り箱へは入れなかった。大切でなかったからではない。病変の可能性を畑や家へ残さないためだった。残さないことも、守り方になると教えてもらった。』
その一文。
長く。
見る。
残さない。
守る。
葉。
手紙。
言葉。
人。
全部。
同じではない。
「似ていますが、同じではありません」
声。
いつもの。
確認。
◇
『夕方まで、左右の切り口は黒くならず、左の新しい切り口も乾き始めた。上の葉と新芽は緑だった。オカエリは下葉を二枚失った。以前と同じ姿ではない。明日、どのように見えるかは分からない。』
『それでも、今日の夕方まで大きく倒れずにいたことには安心した。』
◇
キズナ。
『キズナの花のあとの膨らみは、昨日より少し縦に長く見えた。種になるものかもしれない。花は見えなくなったが、花のあった場所で別の形が育っている。』
◇
虫。
『オカエリの上葉の裏へ、ムラマルで見た虫とは違う、薄緑色の細い虫が一匹いた。葉には白く抜けたような跡が一つあったため、別の瓶へ入れた。一日観察し、その後どうするかを決める。捕まえたものを、理由なく手元へ置き続けない。』
◇
日記。
最後。
フローラは。
朝。
言った言葉を。
思い出す。
昨日。
同じ。
今日。
同じではない。
『昨日の基準は、今日を見るために使える。でも、昨日の答えを今日へ押しつけない。』
『同じように見えることが起きても、同じ株の中でも、昨日と今日では条件が違う。だから、もう一度見る。もう一度聞く。もう一度決める。』
書く。
筆。
置く。
◇
花守り布。
朝。
持っていった六つの言葉。
今日。
新しい六つ。
増えた。
全部。
入れるか。
少し。
考える。
「今日は、昨日の六つを家へ置きます」
昨日。
切った葉と残した葉。
今日。
もう。
残した左下葉も。
切った。
昨日の言葉。
役目。
終わったわけではない。
でも。
今。
身体へ持つのは。
今日の言葉。
昨日の紙を。
小箱へ。
置く。
今日の六つ。
花守り布へ。
入れる。
重さ。
少し。
同じ。
増えたのに。
減らした。
「全部を積み重ねなくても、続けられます」
◇
王都の箱。
今日も。
開けない。
白鈴草。
蒔かない。
花びら。
明日まで。
開けない。
待つもの。
いくつも。
でも。
今日は。
オカエリだけで。
すべてを埋めない。
◇
寝る前。
窓。
外。
森。
暗い。
鳥。
声。
少ない。
「おやすみなさい、オカエリ」
下葉。
二枚。
ない。
「今日は、昨日と同じように葉を切りました」
でも。
「昨日と同じだからではありません」
切り口。
乾く。
上葉。
緑。
新芽。
少し開く。
「明日は、今日と同じように決めません」
今日の基準。
使う。
でも。
明日。
また。
見る。
「明日のあなたを、見ます」
◇
「おやすみなさい、キズナ」
花。
ない。
膨らみ。
縦。
「明日は、また違う形かもしれません」
◇
フローラは寝台へ入り、村の毛布を胸まで引き上げた。
胸には。
痛み。
安心。
疲れ。
全部。
ある。
正しい。
間違い。
まだ。
決めない。
でも。
朝。
待った。
昼。
切った。
夕方。
見た。
食べた。
日記へ書いた。
今日を。
終える。
「昨日の答えは、昨日のものです」
小さく言う。
「今日の答えは、今日、決めます」
そして。
明日は。
明日。
青の姫君は、葉を切った痛みを消さないまま、同じ出来事へ同じ答えを急いで重ねなかった自分の一日を静かに受け取り、明日のオカエリへ今日の基準だけを押しつけないと決めながら、ゆっくりと目を閉じた。




