第95話 青の姫君、切った葉と残した葉を比べる
森へ帰ってから、五度目の朝。
フローラは、鳥の声より先に目を覚ました。
窓の外はまだ薄暗く、森の木々は夜の名残を抱えたまま静かに立っている。空の低いところだけが淡く白み始めていたが、家の中へ朝の光が届くには、もう少し時間が必要だった。
暖炉には、昨夜の火が灰の下へ残っている。完全には消えていないらしく、部屋の空気にはごく僅かな温かさがあった。
フローラは毛布の中で目を開いたまま、すぐには動かなかった。
昨日、切った。
オカエリの右の下葉を、一枚だけ。
黄色い範囲が広がり、前の日にはなかった茶色い点が現れた。左の下葉は残し、比べることにした。
切り口。
残した葉。
上の葉。
新芽。
茎。
土。
そして、家へ持ち帰った葉。
今日、見るものは多い。
キズナの花も散った。
薄青い花びらを一枚だけ拾い、残りは土へ置いた。夕方には、置いたはずの三枚のうち一枚が見えなくなっていた。
花のあった場所には、小さな膨らみが残っている。
種になるかもしれない。
ならないかもしれない。
昨日の時点では、それ以上のことは分からなかった。
「今朝、分かることを見ます」
フローラは天井へ向けて、静かに言った。
切ったことが正しかったのか。
昨日の自分は、その答えを欲しがっていた。
葉を切ったあと、何度も畑へ戻ろうとした。すぐに元気になれば正解で、弱れば間違いだったと、早く決めたくなっていた。
けれど、レナードに言われた。
畑を見るのではなく、自分の選択が間違っていないかを見張ろうとしている。
その言葉を受け、昼の観察をガルドたちへ任せた。
夕方まで、オカエリに大きな悪化はなかった。
しかし、それだけで切ってよかったとは決めなかった。
「今日も、まだ決めません」
一日。
たった一日。
葉を一枚切ったことで、すぐに株全体が変わるとは限らない。
残した左の下葉に茶色い点が出るかもしれない。黄色がさらに進むかもしれない。逆に、進まないかもしれない。
切り口も、朝には変わっているだろう。
乾いているか。
黒くなっているか。
汁が出ているか。
傷んでいるか。
「見てからです」
何度目か分からない言葉。
それでも。
今日の朝に必要な言葉だった。
◇
フローラは毛布をめくり、寝台から降りた。
床板は冷たい。
身体は昨日より軽い。
胸の奥には重さがあるものの、脚や肩の疲れは少し薄れている。畑へ何度も行かなかったことと、昼に休んだことが、身体へ残っているのだろう。
両腕をゆっくり動かす。
痛みはない。
指を握り、開く。
昨日、刃物を持っていた右手。
切った時の小さな抵抗が、まだ指の内側へ残っているように感じた。
「もう一度切るわけではありません」
今日は。
まず。
比べる。
◇
窓辺へ近づく。
外を見る前に、机へ目が向いた。
白い布の上。
昨日切ったオカエリの右下葉が置かれている。
昨夜より、さらに乾いていた。
葉の縁は内側へ丸まり、全体が少し薄く縮んでいる。黄色かった部分はくすみ、茶色い点は昨日より濃く見えた。
ただし。
朝の光は弱い。
昨夜は暖炉の明かり。
今朝は薄暗い自然光。
同じ条件ではない。
「窓を開けてから見ます」
隣の小皿。
キズナの花びら。
薄青い色は残っているが、昨日より小さくなっていた。水分が抜け、端が少し波打っている。
触れれば壊れそうで。
フローラは指を伸ばしかけ、止めた。
「あとでです」
まず。
朝。
起きる。
顔を洗う。
食べる。
畑へ行く。
見る順番を、恐れだけで変えない。
◇
カーテンを開ける。
空は、少しずつ朝の色へ変わっていた。
薄い雲が森の上へ広がっている。雨を降らせるほど濃くはないが、昨日より光が柔らかい。
風は弱い。
夜露が多い。
新しい柵の上には、小さな水滴が並んでいる。
赤い実を埋めた場所。
小石の円。
窓から見える範囲では、崩れていない。
「おはようございます」
森の家へ。
畑へ。
見えない村へ。
そして。
「おはようございます、オカエリ」
切った株へ。
「今日は、残した葉と切った跡を見ます」
声にすると、胸が少し痛む。
「おはようございます、キズナ」
花のない茎へ。
「花の次を見ます」
◇
顔を洗う。
冷たい水が、眠りの残りを流す。
髪を梳き、いつものようにまとめる。
花守り布。
内側の紙。
昨日書いた言葉。
『オカエリの右下葉一枚を切った。』
『切った葉は戻らない。オカエリは残っている。』
『切ったことが正しかったかは、まだ分からない。』
『キズナの花が散った。』
『一枚だけ拾い、残りは土へ置いた。』
『残すために、一枚だけ手放した。』
六つ。
フローラは紙を読み終え、元へ戻した。
今日は。
新しい言葉を書くかもしれない。
でも。
昨日の言葉を消すわけではない。
昨日は、分からなかった。
今日、何か分かっても。
昨日の自分が間違いだったことにはならない。
◇
朝食の部屋へ行くと、リオは食卓の上へ石を置いていた。
窓辺から持ってきた丸い石。
その横に、紙。
昨日の大きな丸。
小さな丸。
床を示す四角。
今朝は、丸の中へ細い線が三本入っている。
「これは何ですか」
「冷たい」
「線が?」
「うん」
「昨日より冷たいのですか」
「分からない」
フローラは紙と石を見る。
「では、どうして線を三本にしたのですか」
「三回触った」
「触った回数ですか」
「うん」
「冷たさではないのですね」
「冷たいのも」
リオは石へ指を当てる。
「でも、三回」
「二つのことを、一つの印へ入れましたか」
「だめ?」
「駄目ではありません。ただ、あとで分からなくなるかもしれません」
リオは眉を寄せた。
紙。
丸。
線。
四角。
「別にする」
「はい」
新しい紙。
三本線。
触った回数。
丸。
冷たさ。
「冷たさは、昨日と比べてどうですか」
「同じくらい」
「では、丸は同じ大きさ?」
「たぶん」
リオは昨日と似た大きさの丸を描く。
少し歪んでいる。
でも。
違いを分けた。
触った回数。
感じた冷たさ。
同じ石。
同じ朝。
それでも、記録するものは一つではない。
「オカエリも」
フローラは呟いた。
「何が?」
「切った葉と残した葉。切り口と上の葉。全部、分けて見ます」
「同じオカエリ」
「はい」
「でも別」
「はい」
◇
朝食は、豆と芋を入れた粥だった。
リオは満足そうに匙を動かしている。
「昨日、豆がなかったので」
ミナが言う。
「今日、多くしたのですか」
「少しだけです」
「リオのために?」
「皆のためです」
リオが顔を上げる。
「俺も皆」
「はい」
フローラは粥を一口食べた。
温かい。
豆。
柔らかい。
芋。
少し甘い。
食べられる。
昨日の朝。
葉を切る前。
胸が固く。
味は分かっても、食事の半分は畑へ向いていた。
今日も気になる。
でも。
粥を飲み込み。
次の一口まで。
待てる。
「昨日より食べられます」
ミナが頷く。
「はい」
「切ったことを、忘れたわけではありません」
「はい」
「でも、朝食もあります」
「はい」
畑の心配。
食事。
どちらも。
今の暮らし。
◇
食べ終える。
器を運ぶ。
食卓を拭く。
今日は椅子だけでなく、鍋の蓋も戻した。
「四つ」
リオが言う。
「数えていましたか」
「うん」
「私は数えていませんでした」
「四つ」
「では、四つです」
昨日。
三つ。
今日。
四つ。
増やすことが目的ではない。
でも。
できた。
◇
家を出る前に、机の切った葉を見る。
窓から差し込む光が、先ほどより明るくなっていた。
昨日の記録板。
葉の形。
斑点の位置。
黄色の範囲。
フローラは葉の横へ置く。
大きさ。
縮んだ。
縁。
丸まった。
斑点。
濃い。
広がったようにも見える。
でも、葉全体が乾いて縮んだため、相対的に大きく見える可能性もある。
「今は、広がったと書けません」
ミナが近くで見る。
「はい」
「濃く見えます」
「はい」
「昨日と同じ窓辺ですが、葉自体が乾いております」
「はい」
匂い。
近づける。
強い腐敗臭はない。
乾いた葉の匂い。
少し青い。
少し土。
『切除翌朝。葉全体が縮み、縁が内側へ丸まる。斑点は濃く見えるが、葉の乾燥・収縮があるため、拡大は断定しない。強い腐敗臭なし。』
書く。
「畑から戻ったら、また見ます」
家の中。
同じ窓辺。
でも。
時間が変わる。
◇
畑へ向かう道。
夜露で草が濡れている。
靴の先へ水滴がつく。
ミナの布袋には、今日は刃物が入っていない。
「持っていないのですか」
フローラが尋ねる。
「必要があれば、畑の道具箱にもございます」
「はい」
「今朝から切るつもりで向かう必要はないと思いました」
胸が少し緩む。
「はい」
昨日の刃物。
持っているだけ。
使うことと同じではなかった。
今日。
持っていない。
切らないと決めたわけでもない。
必要なら、戻って取る。
急いで。
準備を全部。
自分の手元へ置かなくていい。
◇
森の中。
高い枝から、夜露が落ちる。
小さな音。
土へ。
葉へ。
一歩。
二歩。
三歩。
切り口。
四歩。
左の葉。
五歩。
上葉。
六歩。
新芽。
七歩。
土。
八歩。
キズナの花の次。
今日は八つ。
多い。
でも。
数えられる。
◇
畑が見える。
昨日より人は少なかった。
ガルド。
エマ。
サム。
ルル。
トト。
ニコ。
リーナ。
レナードは、外縁の見張り側にいる。
朝の観察へ、村人全員が集まってはいない。
昨日。
葉を切る。
大きな判断。
今日は。
その後を見る日。
日常へ。
少し戻っている。
それが。
フローラにはありがたかった。
「おはようございます」
「おはようございます」
声が重なる。
子どもたちの顔。
昨日ほど固くない。
でも。
オカエリの方を何度も見ている。
◇
ガルドが、いつもの記録板を持って近づく。
「朝、離れた場所から確認しました」
「触れましたか」
「いいえ」
「大きな変化は?」
ガルドは少し考える。
「切り口が昨日より乾いて見えます」
「はい」
「残した葉の黄色は、夕方から大きく広がっていないように見えます」
「はい」
「上葉と新芽は、緑です」
胸。
少し。
緩む。
でも。
「自分で見ます」
「はい」
◇
柵を開ける。
足元。
土。
昨日より表面が乾いている。
朝露はある。
空。
薄曇り。
風弱い。
オカエリ。
まず。
少し離れて見る。
右下葉。
ない。
昨日切った。
今朝も、その空いた形へ胸が痛む。
けれど。
株全体。
昨日の夕方より倒れていない。
上の葉。
緑。
新芽。
先。
僅かに開いているように見える。
左の下葉。
黄色。
昨日の朝より広い。
でも。
昨日の夕方からは。
大きく変わっていないように見える。
茶色い点。
ない。
切り口。
薄い緑から、少し白っぽく乾いている。
黒くない。
汁もない。
「板をお願いします」
ガルドが影を作る。
同じように。
見る。
切り口。
乾燥。
周囲。
黒変なし。
残した葉。
黄色の境界。
昨日の線。
朝。
昼。
夕。
今朝。
「大きな広がりは、ありません」
フローラが言う。
子どもたちが、小さく息を吐いた。
「止まった?」
トトが聞く。
「昨日の夕方から今朝まで、大きく広がっていないように見えます」
「止まった?」
「まだ、止まったとは決めません」
「一晩、同じ」
「はい」
「じゃあ少し止まった」
サムが板へ書きながら言う。
「大きな拡大なし」
「はい。それでお願いします」
◇
切り口へ近づく。
触れずに。
見る。
エマも横から確認する。
「乾いております」
「病気の色は?」
「今のところ、黒や茶色への変化は見えません」
「汁」
「ありません」
「周りの茎は?」
「緑です」
フローラは息を吐く。
昨日。
刃を入れた場所。
今。
傷が閉じ始めている。
人の傷と同じではない。
でも。
切ったまま、開いているわけではない。
「痛そうですか」
昨日泣きそうだった子どもが尋ねる。
フローラは少し考えた。
「昨日より、乾いています」
「痛くない?」
「痛みは分かりません」
「でも?」
「傷口は、昨日より落ち着いて見えます」
子どもは小さく頷いた。
◇
左の下葉。
黄色。
葉脈。
緑。
縁。
少し。
柔らかい。
「触れますか」
エマが尋ねる。
昨日は。
見るだけ。
今日。
比較。
触るなら。
左右はない。
右は切った。
左だけ。
触ったことで変化を作る可能性。
「一度だけ」
フローラは答える。
「葉の縁を、強く押さずに」
「はい」
指先。
触れる。
葉。
柔らかい。
昨日より。
少し薄いように感じる。
でも。
触ったのは昨日の夕方ではない。
昨日の朝。
条件。
時間。
違う。
「柔らかく感じます」
「はい」
「昨日よりかは、断定できません」
「はい」
記録。
『左下葉。黄色の範囲は前日夕方から大きな拡大なし。斑点なし。葉脈は緑。葉縁は柔らかく感じるが、前日同時刻の触診記録なし。』
◇
上葉。
裏。
虫。
なし。
変色。
なし。
新芽。
昨日より。
ほんの少し。
開いている。
サムが板を見せる。
「昨日夕方の絵」
小さな線。
新芽。
閉じた形。
今朝。
先が。
少し分かれる。
「開いてる?」
ルルが尋ねる。
「少し」
「黄色あるのに?」
「はい」
「切ったから?」
子どもたちの視線が集まる。
切った。
新芽。
開いた。
なら。
切って正解。
そう。
結びたくなる。
フローラ自身も。
「まだ、分かりません」
ゆっくり言う。
「切らなくても開いたかもしれません」
「でも切った後」
「はい」
「関係あるかも」
「あるかもしれません」
「ないかも」
「はい」
「分からない」
「はい」
トトが顔をしかめる。
「いつ分かるの」
「何日か見ても、完全には分からないかもしれません」
「ずっと?」
「似た状態の株が、また出た時に比べられるかもしれません」
「オカエリ一個だけ」
「はい」
「難しい」
「はい」
畑。
答えが。
必ず出るわけではない。
それでも。
記録する。
◇
茎。
昨日より柔らかいように感じた場所。
指で。
一度。
支える。
今朝。
張り。
ある。
昨日の朝の感覚。
記録。
主観。
比べる。
「昨日より、少し戻ったように感じます」
エマが触れる。
「私には、昨日と大きく変わらないように感じます」
違う。
フローラ。
エマ。
感覚。
「両方、書いてください」
ガルドが頷く。
『茎。フローラ様は前日朝より張りが戻ったように感じる。エマは前日と大きな差を感じない。』
正解。
一つ。
ではない。
◇
土。
表面。
乾く。
第一関節。
少し湿り。
第二関節。
湿り。
水。
すぐには不要。
「昨日の朝、水を与えました」
「はい」
「今日は、今のところ不要です」
フローラは土から指を抜き、布で拭う。
「昼に、もう一度見てください」
ガルド。
「はい」
「私は?」
自分へ。
問い。
切った翌朝。
見た。
昼。
行きたい。
でも。
必要か。
昨日。
昼を任せた。
今日。
朝の状態。
大きな悪化なし。
「昼も、お願いします」
フローラが言う。
ガルドの表情が少し柔らぐ。
「承知しました」
「夕方は、来ます」
「はい」
昨日と同じ。
でも。
今日。
自分から。
決められた。
◇
切った葉の記録を、ガルドたちへ伝える。
「家へ持ち帰った葉は、全体が乾いて縮みました」
「斑点は?」
エマ。
「濃く見えます。ただ、葉全体が縮んでいるため、広がったとは断定できません」
「匂いは?」
「強い腐敗臭はありません」
「午後も?」
「見ます」
「株の左葉と、切った右葉」
サムが言う。
「別」
「はい」
「右は株から離れて乾く」
「はい」
「左は株についたまま」
「はい」
「同じように比べられない?」
「はい。条件が違います」
「でも見る?」
「見ます」
「なぜ」
フローラは考える。
「右の葉の斑点が、急に大きくなるか。強い腐りが出るか。それを見ることで、切った時の状態を少し知れるかもしれません」
「左は?」
「株についている状態で、黄色がどう進むかを見ます」
「違うものを比べる?」
「同じ葉ではありませんし、同じ条件でもありません」
「じゃあ比べられない?」
「完全には」
「でも、見ないより分かる?」
「はい」
サムは、少し長く考えたあと。
『完全には比べられないが、別々に見る。』
そう書いた。
「よいと思います」
◇
オカエリの記録を終えたあと、キズナへ移る。
薄青い花。
ない。
土の上へ残した花びら。
昨日の夕方には二枚。
今朝。
一枚。
残っている。
もう一枚は見えない。
夜露に濡れ、土へ張りついた一枚だけが、花の根元近くへ残されていた。
「また、なくなった」
ニコが言う。
「はい」
「探さない?」
「はい」
「今日も?」
「はい」
昨日と同じ答え。
でも。
今朝。
少し寂しさは薄い。
見えなくなった花びら。
風。
土。
虫。
どこへ。
分からない。
「一枚は、まだあります」
ルルが言う。
「はい」
「これは?」
「今日は、そのままにします」
「明日なくなるかも」
「はい」
「それでも?」
「はい」
全部。
最後まで。
見届けたい気持ち。
ある。
でも。
残したものを、毎日守って固定する必要はない。
◇
花のあった場所。
膨らみ。
昨日より。
少し。
丸くなっているように見える。
フローラは近づく。
茎の先。
薄い緑。
小さな膨らみ。
昨日は。
花の付け根が残っている。
それだけにも見えた。
今日。
先端が。
僅かに厚い。
「板を」
影を作る。
角度。
変える。
昨日の絵。
サム。
持っている。
「昨日」
細い線。
花の付け根。
「今日」
少し丸い。
「種?」
リオ。
「まだ分かりません」
「昨日より種」
「種になり始めている可能性はあります」
「次」
「はい」
花。
終わった。
でも。
終わった場所。
膨らむ。
次。
◇
フローラは記録板へ書く。
『キズナ。花後二日目。土上へ残した花びらは朝一枚確認。ほかは見つからず、捜索しない。花の付いていた位置に小さな膨らみあり。前日より丸く見える可能性。種になるか継続観察。』
その下へ。
『花がなくなった場所で、新しい変化が見えた。』
筆を止める。
新しい。
変化。
花が終わった。
それで。
何もなくなったわけではない。
◇
「花、戻らない?」
昨日と同じ子ども。
「同じ花は戻りません」
「でも種?」
「種になるかもしれません」
「花より小さい」
「はい」
「花の方がきれい」
真っ直ぐ。
フローラは膨らみを見る。
「今は、花の方が見えやすく、きれいに思えるかもしれません」
「種、きれいじゃない?」
「まだ分かりません」
「また」
「はい」
子どもは少し笑った。
「でも、次」
「はい」
◇
ムラマルの虫。
一匹の瓶。
動いている。
二匹の瓶。
一匹は葉の裏。
もう一匹は瓶の底。
昨日より。
底の一匹。
動きが少ない。
「死んだ?」
トト。
「まだ分かりません」
「触る?」
「瓶を軽く動かします」
大きく振らない。
少し傾ける。
底の一匹。
脚。
動く。
「生きてる」
「はい」
「弱い?」
「動きは少ないです」
「一匹の方は?」
瓶の壁。
上へ。
動く。
「こちらの方が、今は動いています」
「二匹いると弱る?」
「その可能性はあります」
「狭いから?」
「はい。食べ物。空気。接触。いくつか考えられます」
「分ける?」
昨日。
一匹と二匹。
比較。
今日。
二匹の一匹。
動きが少ない。
「二匹の瓶を、今日分けますか」
フローラが周囲へ尋ねる。
エマが考える。
「分ければ、二匹でいた影響をこれ以上見られなくなります」
「はい」
「残せば、弱い方がさらに動かなくなる可能性もあります」
「はい」
子どもたち。
静か。
「虫だから」
トト。
「そのままでいい?」
問い。
命。
小さい。
虫。
畑の葉を食べる。
でも。
観察するために瓶へ入れた。
その責任。
「弱い方だけ、別の瓶へ移します」
フローラは答えた。
「比較は?」
サム。
「一匹でいた虫。二匹でいたあと分けた虫。もう一匹。三つになります」
「分かりにくい」
「はい」
「でも助ける?」
「助かるかは分かりません」
「それでも分ける?」
「はい」
観察を続けるために。
弱るのを見続ける。
それは。
今。
選ばない。
◇
新しい瓶。
葉。
水滴。
弱い虫。
細い草の先へ乗せ、移す。
すぐには動かない。
少し。
脚。
葉へ。
つかまる。
「動いた」
ルル。
「はい」
「元気になる?」
「分かりません」
「見る」
「はい」
記録。
『二匹瓶の一匹、前日より動きが少ない。観察継続より状態悪化回避を優先し、別瓶へ移す。以後、最初から一匹の瓶、二匹から一匹になった瓶、分離した弱い個体の瓶として記録する。』
条件。
変わる。
記録。
増える。
でも。
変えた理由。
残す。
◇
青豆一号。
新葉。
昨日より僅かに上。
アオジロウ。
支柱。
安定。
ムラマル。
擦れ跡。
変化なし。
モリタン。
本葉。
さらに厚み。
赤い実。
播種からの日数。
表土。
変化なし。
全部。
見る。
オカエリとキズナのあとでも。
ほかの株。
忘れない。
◇
観察を終えると、ガルドが新しい紙束を差し出した。
「四日目の記録です」
「ありがとうございます」
「今日は、子どもの絵が多いです」
「なぜですか」
「字で書けないことが多かったそうです」
フローラは紙束を受け取る。
四日目。
自分が王都へ向かっていた間。
森では。
キズナの蕾が。
少しずつ。
変わっていた頃。
「今日、読みます」
「はい」
◇
家へ戻る道。
朝より陽が高い。
薄い雲の向こうから光が差し、濡れていた草が少しずつ乾いている。
フローラは観察帳を胸へ抱える。
切った葉。
残した葉。
どちらも。
今日の朝を越えた。
右の葉。
株から離れ、乾いている。
左の葉。
株についたまま、黄色を残している。
どちらが正しい。
そういうことではない。
一枚を切った。
一枚を残した。
その後。
違う時間。
「切った葉も、残した葉も」
フローラが呟く。
「同じようには見られません」
「うん」
リオ。
「でも、両方見る」
「はい」
「切った方、死んだ?」
フローラは少し考える。
「株から離れたので、葉としては少しずつ乾いていきます」
「死んだ?」
「植物のどこを命と呼ぶかは、難しいです」
「難しい」
「はい」
「オカエリは生きてる?」
「はい」
「葉は戻らない」
「はい」
「でもオカエリ」
「はい」
それで。
今は。
十分だった。
◇
家へ戻る。
「ただいま」
机。
切った葉。
花びら。
王都の箱。
朝のまま。
でも。
切った葉は。
さらに。
少し乾いたように見える。
窓からの光。
強い。
朝との条件。
違う。
「同じ場所でも、光が違います」
ミナが頷く。
「はい」
「午後に、同じような光で見られるかもしれません」
「はい」
すぐ。
記録しない。
昼。
待つ。
◇
茶を飲む。
椅子へ座る。
身体。
少し疲れ。
でも。
昨日のような強い震えはない。
オカエリ。
切り口。
乾いていた。
残した葉。
斑点なし。
上葉。
新芽。
緑。
「安心しています」
フローラが言う。
「はい」
「でも、安心したから、切って正しかったとは決めません」
「はい」
「安心してもいいですか」
ミナは、少し驚いたようにフローラを見る。
「もちろんです」
「決めないままでも?」
「はい」
「正しかったと分からなくても?」
「今朝、大きな悪化がなかったことに安心してよいと思います」
胸へ。
落ちる。
「はい」
判断。
保留。
感情。
保留しなくていい。
安心。
していい。
◇
王都の箱へ目を向ける。
今日も。
まだ。
開けない。
観察帳。
四日目。
先に。
フローラは机へ紙束を広げた。
『フローラさまが王都へ行って四日目』
文字。
前の日より。
少し大きい。
最初の絵。
雨上がりの畑。
支柱。
雲。
子ども。
ガルド。
キズナの蕾。
◇
『朝、土はまだやわらかい。』
『アオジロウの支柱は、昨日直したところが動いていない。』
『全部真っすぐではない。』
『でも倒れていない。』
フローラは少し笑う。
森へ帰る前。
みんなで作った柵。
曲がっていた。
でも。
立っていた。
アオジロウの支柱も。
全部真っ直ぐでなくても。
倒れない。
◇
『青豆一号。水なし。』
『アオジロウ。支柱を触らない。』
『ムラマル。見える葉。』
『モリタン。土がぬれている。』
『オカエリ。変わらない。』
『キズナ。蕾が昨日より少し大きい。』
オカエリ。
四日目も。
変わらない。
黄色。
まだ。
ない。
キズナ。
蕾。
大きくなる。
◇
別の紙。
子どもの絵。
蕾。
昨日。
今日。
二つ。
今日の方が。
少し。
丸い。
『同じ場所から見た。』
その下。
『たぶん。』
フローラは思わず笑った。
「たぶん、と書いてあります」
リオが覗く。
「同じじゃないかも」
「はい」
「でも絵」
「はい」
確信。
ない。
でも。
記録する。
◇
『昼、子どもが蕾を触りたがった。』
『触らない。』
『大きさを知りたいと言った。』
『紐で測る案が出た。』
『紐が蕾へ当たるから、やめた。』
フローラは紙を見つめる。
大きさ。
知りたい。
でも。
測ることで。
触れる。
傷。
可能性。
『見て分かることだけ。』
今。
オカエリ。
触る。
一度。
キズナ。
触らない。
同じ観察でも。
違う。
◇
『午後、王都から人が来た。』
フローラの指が止まる。
王都から。
誰。
『フローラ様が王宮へ着いたと伝えた。』
使者。
知らせ。
森へ。
届いた。
『みんなで聞いた。』
『無事。』
大きな文字。
その下へ。
何度も。
『無事。』
『無事。』
『無事。』
書かれている。
フローラの目が熱くなる。
自分が王宮へ着いた日。
森。
みんな。
知らせを。
受けた。
「この日でした」
王宮。
広い客室。
毛布。
怖い。
母様の手紙。
国王陛下。
その頃。
森。
無事。
という言葉。
◇
『いつ帰るかは、まだ分からない。』
『でも、王都へ着いた。』
『食べたかは分からない。』
子どもの字。
『たぶん食べた。』
別の字。
『王宮だから食べ物ある。』
さらに。
『でもフローラさまは、こわいと食べない。』
フローラ。
胸。
痛い。
知っている。
子ども。
自分のこと。
『ミナがいる。』
『リオもいる。』
『だから、たぶん食べる。』
涙が落ちる。
紙へ。
落とさないよう。
顔を上げる。
「食べました」
声。
震える。
「この日も、少し」
ミナが静かに頷く。
「はい」
「一人ではなかったので」
「はい」
◇
『無事と聞いたあと、エマさんが水をやりすぎそうになった。』
フローラは涙のまま、少し笑う。
『うれしかったから。』
『ガルドさんが止めた。』
『うれしくても、水の量は変えない。』
気持ち。
嬉しい。
畑。
処置。
分ける。
『でも、みんなで芋を食べた。』
『うれしいから。』
水は増やさない。
食事。
増やす。
気持ちを。
全部。
畑へ。
向けない。
◇
『フローラ様が無事だと聞いた日。』
別の字。
ガルドか。
『村の警戒は変えなかった。』
『王都へ着いたことと、森の安全は別だから。』
フローラは長く紙を見る。
無事。
安心。
でも。
警戒。
変えない。
嬉しい。
でも。
水。
増やさない。
気持ち。
処置。
分ける。
◇
『夕方、キズナの蕾が少し下を向いた。』
『弱ったと思った人がいた。』
『花が咲く前に下を向くこともあると、エマさんが言った。』
『次の朝まで待つ。』
フローラの胸が強く鳴る。
蕾。
下を向く。
弱った。
そう見える。
でも。
次。
花。
咲く。
今。
フローラは知っている。
その蕾が。
薄青い花を咲かせた。
自分を待つように。
でも。
この時のみんなは。
知らない。
『下を向いたから、悪いとは決めない。』
紙。
指。
震える。
◇
「咲きました」
フローラが言う。
「はい」
ミナ。
「この次の日か、その後に」
「はい」
「みんなは、まだ知らないのですね」
「はい」
記録。
過去。
読む自分だけが。
先を知っている。
でも。
その時の人たちは。
知らないまま。
待った。
◇
最後。
『四日目。』
『フローラ様は王都へ着いた。』
『キズナの蕾は下を向いた。』
『どちらも、次がどうなるか分からない。』
『でも、今日は無事。』
フローラは。
何度も読む。
『でも、今日は無事。』
王都へ着いた自分。
蕾。
下を向く。
次。
分からない。
でも。
その日。
無事。
◇
「今日のオカエリも」
フローラ。
切り口。
残した葉。
新芽。
「次は分かりません」
「はい」
「でも、今朝は」
言葉。
少し。
詰まる。
「大きな悪化はありませんでした」
「はい」
「切り口は乾いていました」
「はい」
「新芽も緑でした」
「はい」
「今日は、今のところ無事です」
「はい」
それで。
安心していい。
◇
昼食。
観察帳を閉じる。
今日は。
豆と芋の残り。
パン。
葉野菜。
食べる。
四日目。
王都へ着いた日。
みんな。
芋。
食べた。
嬉しいから。
「今日は、何を食べますか」
リオ。
「今、食べています」
「嬉しいから」
「何が嬉しいのですか」
「オカエリ」
切り口。
乾く。
新芽。
緑。
「嬉しいです」
フローラは頷く。
「でも、食べる量はいつも通りです」
「芋一個増やす」
「一個なら」
小さな芋。
三人で。
分ける。
嬉しいから。
水ではなく。
食事へ。
◇
昼過ぎ。
ガルドからの知らせはない。
大きな変化なし。
フローラは家で、切った葉を見る。
朝より。
さらに。
乾燥。
縁。
強く丸まる。
斑点。
濃い。
周囲の黄色。
茶色へ。
少し変わる。
匂い。
乾いた葉。
腐敗臭。
なし。
『昼過ぎ。乾燥進行。斑点周囲の黄色が茶色く見える。強い臭いなし。株から離れたための乾燥変化と、斑点由来の変化を分けて判断できない。』
分からない。
でも。
書く。
◇
キズナの花びら。
乾く。
今なら。
紙へ挟めるか。
触れる。
軽い。
端。
壊れない。
「紙を」
ミナが、柔らかな紙を二枚持ってくる。
フローラは花びらを一枚。
中央へ。
置く。
上から。
もう一枚。
強く押さない。
薄い木板。
小さな重し。
「何日」
「完全に乾くまで、しばらく」
「開けませんか」
「毎日開けると、動かして壊すかもしれません」
「では」
待つ。
「三日後に見ます」
「はい」
紙の端へ。
『キズナの花びら。一枚。花後二日目に拾い、翌日に紙へ挟む。三日後に確認。』
書く。
見たい。
でも。
開けない。
◇
午後。
フローラは王都の箱へ手を置いた。
母様の手紙。
若い侍女の手紙。
まだ。
待つ。
観察帳の四日目。
読んだ。
言葉。
多い。
今日。
箱は。
「開けません」
決める。
手を離す。
◇
夕方。
畑へ向かう。
朝より風がある。
薄い雲が流れ、光が葉の上を動いている。
道。
一歩。
二歩。
三歩。
今朝は無事。
四歩。
夕方を見る。
五歩。
決めつけない。
六歩。
安心していい。
七歩。
花の次。
◇
畑。
子どもたち。
村人。
朝より。
少し多い。
昼。
オカエリに大きな変化なし。
その話が。
広がったのかもしれない。
でも。
昨日のような緊張ではない。
パン屋の女性。
籠。
芋。
「食べるかい」
「昼に食べました」
「夕方の分」
「まだ早いです」
「持って帰りな」
いつも。
フローラは受け取る。
「ありがとうございます」
食べるか。
あとで。
決める。
◇
オカエリ。
朝と。
大きく。
変わらない。
切り口。
乾く。
周囲。
黒変なし。
左の下葉。
黄色。
朝から。
僅かに。
広がったようにも見える。
昨日の線。
今朝の線。
夕方。
ほんの少し。
内側。
「少し広がっています」
フローラが言う。
周囲。
空気。
少し。
固くなる。
「茶色い点は?」
エマ。
「ありません」
「葉脈は?」
「まだ緑です」
「上葉」
「緑」
「新芽」
「朝より僅かに開いて見えます」
黄色。
進む。
でも。
上。
育つ。
同時。
◇
「左も切る?」
トト。
早い。
でも。
自然な問い。
昨日。
右。
切った。
今日。
左。
黄色。
少し広がる。
「今日は切りません」
フローラは答える。
「なぜ?」
「茶色い点がありません」
「黄色は広がった」
「はい」
「昨日、黄色が広がったから切った」
「昨日は、黄色の広がりに加えて、茶色い点が出ました」
「今日は点ない」
「はい」
「だから残す?」
「今日は」
断定。
しない。
「今日は、残します」
サム。
『黄色だけでは切らない。』
「今のオカエリについてです」
「ほかは違う?」
「違うかもしれません」
同じ症状。
同じ判断。
とは限らない。
◇
年配の男性が尋ねる。
「昨日、右を切ったから、左へ負担が行った可能性は?」
フローラは考える。
「分かりません」
「右がなくなったことで、左の役目が増えたとか」
「植物の中で、どのように力が動くかを、私は知りません」
エマも。
「私も、そこまでは」
「では、切らない?」
「分からないから、今日は残します」
年配の男性は頷く。
「それでよいと思います」
意見。
聞く。
でも。
誰も。
決めつけない。
◇
水。
土。
第一関節。
乾く。
第二関節。
湿り。
朝より。
表面。
乾燥。
「夕方、水を少量」
フローラ。
昨日より。
少なく。
株元から少し離す。
土へ。
染みる。
窪み。
溜まらない。
見る。
待つ。
「これ以上は、今日は与えません」
◇
切った葉。
家。
残した葉。
畑。
記録。
『オカエリ。切除翌日夕方。切り口は乾燥継続、黒変・汁なし。左下葉の黄色は朝より僅かに拡大した可能性。茶色い点なし。葉脈は緑。上葉、新芽は緑。新芽は朝より僅かに開いて見える。』
『左下葉は本日切らない。理由は、黄色の進行はあるが、右葉を切った時に見られた茶色い点がなく、上葉・新芽の状態も維持されているため。明朝まで観察する。』
『切った右葉は家で乾燥が進行。斑点周囲は茶色く見えるが、乾燥による変化と分けられない。』
◇
書いたあと。
フローラは。
右のない場所。
左のある場所。
見る。
「両方、今日を越えます」
誰に。
言ったのか。
分からない。
◇
キズナ。
土の上。
最後の花びら。
ない。
朝。
一枚。
夕方。
見えない。
「全部なくなった」
ニコ。
「はい」
「探さない?」
「はい」
「一枚もない」
「一枚は、家にあります」
「土には?」
「見えません」
「さみしい?」
フローラは胸へ手を置く。
「はい。少し」
「でも、次」
リオ。
花のあった場所へ。
石。
「はい」
膨らみ。
朝より。
少し。
はっきり。
影。
丸い。
フローラは角度を変える。
「朝より大きい?」
エマ。
「可能性があります」
「絵」
サム。
朝。
夕。
並べる。
夕方。
僅かに。
丸い。
「種?」
「種になるための部分かもしれません」
「花ないのに育つ」
ルル。
「はい」
その言葉。
胸へ。
深く。
落ちる。
花がないのに。
育つ。
目立つもの。
きれいなもの。
終わったあと。
見えにくい。
小さい。
次。
育つ。
◇
『キズナ。花後二日目夕方。土上に残した花びらは確認できず。捜索しない。花の付いていた位置の膨らみは朝より僅かに大きく見える可能性。』
『花が見えなくなったあとも、変化が続いている。』
書く。
花。
終わり。
でも。
株。
終わりではない。
◇
虫。
分けた弱い一匹。
朝より。
少し。
葉の上。
位置。
変わっている。
「動いた」
トト。
「はい」
「元気?」
「朝より移動したことは分かります」
「元気?」
「それだけでは分かりません」
「でも生きてる」
「はい」
最初から一匹の瓶。
よく動く。
二匹から一匹になった瓶。
もう一匹。
壁。
動く。
分離した弱い個体。
葉。
動き少ない。
でも。
位置。
変わる。
記録。
◇
夕方の畑。
大きな決定。
なし。
葉を切らない。
花びらを探さない。
虫を新しく動かさない。
水。
少量。
それだけ。
「今日は、何もしなかった?」
子ども。
「見ました」
フローラ。
「水」
「少し与えました」
「切らなかった」
「はい」
「探さなかった」
「はい」
「それも決めた?」
「はい」
しない。
こと。
選択。
◇
村人たち。
帰る。
ガルド。
夜。
見る。
でも。
触らない。
大きな変化。
知らせる。
いつもの。
約束。
フローラは頭を下げる。
「お願いします」
◇
家へ戻る道。
夕空。
薄い雲。
橙色。
木々の影。
フローラは、パン屋の女性にもらった芋を籠へ入れている。
リオ。
見る。
「食べる?」
「夕食にします」
「全部?」
「分けます」
「うん」
◇
家。
「ただいま」
切った葉。
机。
乾く。
花びら。
紙の中。
開けない。
観察帳。
四日目。
無事。
言葉。
残る。
◇
夕食。
芋。
三人。
分ける。
豆と葉野菜の煮込み。
パン。
今日。
今のところ。
無事。
嬉しいから。
芋。
食べる。
「昨日の人も」
フローラ。
「何ですか」
ミナ。
「王都へ着いたと聞いて、芋を食べました」
「はい」
「今日、私たちも食べています」
「はい」
「同じ芋ではありません」
「はい」
「でも、少しつながっています」
「はい」
◇
食後。
日記帳。
開く。
今日は。
言葉。
多い。
でも。
自然な文章へ。
まとめる。
『森へ帰ってから五度目の朝。昨日切ったオカエリの右下葉の跡は乾いており、黒くなっていなかった。残した左下葉の黄色は、昨日の夕方から今朝までは大きく広がっていないように見えた。夕方には僅かに広がった可能性があるが、茶色い点はなく、葉脈は緑だった。』
『上の葉と新芽は緑。新芽は少し開いたように見える。切ったから開いたとは決めない。切らなくても開いたかもしれない。切ったことが正しかったかは、今日もまだ決めない。』
筆を止める。
でも。
『今朝、大きな悪化がなかったことには安心した。正しかったと決めなくても、安心してよい。』
書く。
◇
『切った葉は、家で乾いている。斑点は濃く見えるが、葉全体が縮んだため、広がったとは言えない。残した葉と切った葉は、もう同じ条件ではない。それでも、それぞれを見る。』
『同じオカエリの葉だった。でも、切ったあとと残したあとでは、違う時間を進んでいる。』
◇
キズナ。
『土へ残した花びらは、今朝一枚だけ見え、夕方には全部見えなくなった。探さなかった。拾った一枚は紙へ挟み、三日後に見る。』
『花のあった場所の膨らみは、昨日より少し大きく見える。花が見えなくなったあとも、育つものがあるかもしれない。』
筆。
止まる。
母様。
父様。
王都。
森。
花。
終わった。
関係。
次。
すぐ。
重ねない。
「似ていますが、同じではありません」
声にする。
人。
植物。
同じではない。
でも。
花が終わっても。
何もなくなるわけではない。
それだけ。
今の自分へ。
残る。
◇
観察帳四日目。
『今日は無事。』
フローラは、その言葉も日記へ写す。
『王都へ着いた日、森では、私が無事だと聞いて芋を食べた。キズナの蕾は下を向いていた。次がどうなるか分からなくても、今日は無事と記録されていた。』
『今日のオカエリも、次は分からない。でも、今日は今のところ無事。』
無事。
完全に良い。
ではない。
黄色。
ある。
葉。
一枚。
切った。
でも。
今。
生きている。
◇
日記を閉じる。
王都の箱。
触れない。
今日は。
森の言葉。
十分。
◇
花守り布。
新しい紙。
『切った葉と残した葉は、もう同じ条件ではない。』
『切ったことが正しかったかは、今日もまだ決めない。』
『正しいと分からなくても、今朝の無事に安心してよい。』
『キズナの花びらは、土から見えなくなった。』
『花のあった場所では、小さな膨らみが育っている。』
『花が終わったあとにも、次があるかもしれない。』
六つ。
昨日と同じ数。
けれど、そこへ残したものは、昨日とは違う言葉だった。
フローラは紙を折り、花守り布の内側へ収めた。紙の角がほかの記録へ引っかからないよう、指先で位置を整える。
花守り布は、王都へ向かう前よりも重くなっている。
持ち帰った言葉。
王都で受け取ったもの。
森へ帰ってから書き足した記録。
すべてを同じ意味にはしないまま、それでも同じ布の内側へ置いている。
「重いですか」
ミナが尋ねた。
フローラは花守り布を両手で持ち上げ、少し考える。
「重くなりました」
「外しますか」
「今夜は、まだ大丈夫です」
「はい」
「でも、ずっと全部を持つ必要はありません」
今日の紙を入れたからといって、明日もすべてを持ち歩かなければならないわけではない。必要な時に取り出し、家へ置いておくものを選んでもよい。
切った葉と残した葉を、同じ条件では比べられなかったように。
持っている言葉も、それぞれ違う。
いつも近くに置くもの。
戻ってから読むもの。
今日だけ必要だったもの。
今はまだ手放せないもの。
「明日、少し整理します」
「分かりました」
ミナは、それ以上何を残すのか聞かなかった。
明日のフローラが決めること。
今夜は、今日の言葉を入れたまま眠る。
◇
寝台へ入る前、フローラは机の上の切った葉をもう一度見た。
朝よりも、さらに小さくなったように見える。
葉の縁は強く内側へ巻き込み、茶色い斑点の周囲も、乾いた色へ変わり始めていた。腐った匂いはない。触れなくても、もう柔らかさが残っていないことが分かるほど薄く乾いている。
明日も置いておくのか。
記録を取ったあと、土へ戻すのか。
燃やすのか。
花守り箱へ残すのか。
まだ決めていない。
切った葉を、いつまでも机へ置いておくことが正しいとも思わない。けれど、切った翌日の変化を見たばかりで、今夜すぐに片づける必要もない。
「明日、決めます」
葉へ言う。
決めることを、先へ送る。
捨てることでも。
忘れることでもない。
「おやすみなさい、切った葉」
株へ戻ることはない。
それでも、昨日までオカエリの一部だった。
「明日も、もう一度見ます」
◇
窓の外。
夜の森。
畑は見えない。
けれど、どこにあるかは分かっている。
新しい柵。
少し曲がった柱。
青豆一号。
アオジロウ。
ムラマル。
モリタン。
赤い木の実。
オカエリ。
キズナ。
瓶の中の三匹の虫。
ガルドが夜の確認をしているかもしれない。子どもたちは、それぞれの家で今日の記録を思い出しているかもしれない。
「おやすみなさい、オカエリ」
右下葉のない株。
乾き始めた切り口。
黄色を残した左下葉。
緑の上葉。
僅かに開いた新芽。
「明日も、残した葉を見ます」
今日、切らないと決めた。
明日も残すかは、まだ分からない。
「今日残したから、明日も必ず残すわけではありません」
昨日切ったから、今日も切るわけでもない。
その日の状態を見る。
「でも、切るために見るのではありません」
決断を探すためだけではなく。
オカエリが、今どのようにいるのかを見る。
◇
「おやすみなさい、キズナ」
薄青い花は、もう茎についていない。
土へ置いた花びらも、すべて見えなくなった。
けれど、花のあった場所には小さな膨らみがある。
種になるか。
ならないか。
まだ分からない。
「花がなくなっても、見ます」
花を待っていた時とは違う見方で。
花が咲くかではなく。
花のあとに、何が残るのか。
何が育つのか。
あるいは、何も育たないのか。
「次があると、決めません」
期待しすぎない。
「でも、次がないとも決めません」
小さな膨らみ。
今日、見えた事実だけを持つ。
◇
フローラは寝台へ入り、村から王都へ持っていき、再び森へ持ち帰った毛布を胸まで引き上げた。
布には、何度も干された草の匂いが僅かに残っている。
王宮の客室。
街道の宿。
森の家。
同じ毛布が、それぞれの場所で身体を包んだ。
同じ毛布。
でも。
その中で眠った自分は、毎日少しずつ違っていた。
王都へ向かう前の自分。
国王陛下へ会う前。
母様へ会う前。
父様へ会う前。
森へ帰る途中。
そして、切った葉と残した葉を比べた今日。
どれか一つだけが本当の自分ではない。
全部。
続いている。
◇
暖炉の火が、小さく音を立てた。
リオは窓辺の石を一度持ち上げ、今夜も同じ場所へ置き直している。
「何回触りましたか」
フローラが尋ねる。
「二回」
「今夜は、二本ですか」
「うん」
「冷たさは?」
リオは石へ指を置き、少し考えた。
「朝より温かい」
「部屋が暖かいからでしょうか」
「たぶん」
「触った回数と、温かさは分けて書いてください」
「分かってる」
リオは少し不満そうに答えながら、紙へ二本の線と、朝より大きな丸を描いた。
「大きな丸が温かいのですか」
「うん」
「朝は、同じくらいの丸だったのでは」
「冷たい丸」
「同じ大きさで、意味が逆になりませんか」
リオの手が止まる。
「……違う印にする」
「はい」
ミナが小さく笑った。
「石の記録も、少しずつ増えていきますね」
「難しい」
リオは言う。
「はい」
フローラも頷いた。
「見たことや感じたことを、あとから分かるように残すのは難しいです」
「畑も?」
「はい」
「人も?」
フローラは少し考える。
「人は、もっと難しいです」
母様。
父様。
国王陛下。
王宮の人々。
村の人々。
その日の言葉だけでは、その人の全部は分からない。
でも。
何も記録しなければ。
自分の恐れや期待で、過去の形を変えてしまうかもしれない。
「だから、分かったことだけ書きます」
「分からないも?」
「はい。分からないことも」
◇
ミナが部屋の灯りを少し落とした。
「お休みになれそうですか」
フローラは胸へ手を置く。
速くない。
苦しくない。
切った葉。
気になる。
左の下葉。
明日の朝。
黄色。
広がるかもしれない。
茶色い点。
出るかもしれない。
でも。
今。
畑へ行く必要はない。
「眠れそうです」
「はい」
「明日のことは、明日見ます」
「はい」
「ガルドさんから知らせがなければ」
「大きな変化はないという約束です」
「はい」
知らせがない。
見られていない、ではない。
何も起きていないと断定することでもない。
大きな変化がない限り、今夜は任せる。
◇
フローラは目を閉じた。
今日。
切った葉と残した葉を比べた。
けれど、完全には比べられなかった。
切った葉は乾き。
残した葉は株の中で黄色を広げた。
条件が違う。
時間も違う。
だから、どちらが正しかったかという答えは出なかった。
それでも。
切り口は乾いていた。
上葉は緑だった。
新芽は僅かに開いていた。
左の下葉には、茶色い点がなかった。
今日。
切らないと決めた。
キズナの花びらは、土の上からすべて見えなくなった。
でも。
花のあった場所では、小さな膨らみが少しずつ形を持ち始めていた。
虫は三つの瓶へ分かれた。
比較の条件は変わった。
けれど、弱るのを見続けるより、分けることを選んだ。
観察帳の四日目を読んだ。
王都へ着いた自分と。
下を向いたキズナの蕾。
どちらも次を知らないまま。
『でも、今日は無事。』
そう残されていた。
「今日は、今のところ無事でした」
フローラは、小さく言った。
オカエリ。
キズナ。
虫。
畑。
自分。
全部が完全に良いわけではない。
答えも出ていない。
けれど。
答えが出ない日にも。
安心してよい。
嬉しいと思ってよい。
眠ってよい。
切った葉は戻らない。
残した葉も、昨日と同じではない。
それでも。
オカエリは、今夜も畑にいる。
花は戻らない。
花びらも見えない。
それでも。
キズナには、小さな次があるかもしれない。
「また明日」
最後に言った。
切った葉へ。
残した葉へ。
花のあとの膨らみへ。
森の畑へ。
今日の自分へ。
フローラは毛布の中でゆっくり呼吸を整え、答えを出さないまま眠ることを自分へ許した。
森へ帰って六度目の夜。
暖炉の火が静かに小さくなっていく中、青の姫君は、切ったものと残したもののどちらかだけを正しいと決めず、その両方が進む時間を、明日も見ると決めて目を閉じた。




