第94話 青の姫君、残すために一枚だけ手放す
森へ帰ってから、四度目の朝。
フローラが目を覚ました時、窓の外はまだ夜の色を少し残していた。東の空は木々の隙間からわずかに明るみ始めているものの、家の中へ届く光は弱く、机の上に置かれた王都の箱も、椅子の背へ掛けた花守り布も、輪郭だけが静かに浮かんでいる。
風はほとんどなかった。
枝葉の擦れる音も少なく、沢の流れと、どこか遠くで鳴いた鳥の声だけが、まだ眠っている森の中を通っていた。
フローラは毛布の中で目を開き、すぐには起き上がらなかった。
昨日。
オカエリの黄色は、前の日より広がっていた。
下葉二枚。
葉脈は緑のまま。
上の葉も、新芽も緑。
茎にも、目立つ弱りはない。
けれど、黄色い範囲は確かに広がっていた。
今日の朝。
さらに進んでいたなら、下葉一枚だけを切ることを考える。
もう一枚は残し、比べる。
昨日、みんなでそう決めた。
フローラは、毛布の上へ置いた両手を少し強く握った。
切る。
その言葉を思うだけで、胸の奥が固くなる。
下葉一枚。
たった一枚。
株すべてではない。
オカエリではなくなるわけでもない。
それでも、自分の手で傷をつけることに変わりはなかった。
「まだ、切ると決まっていません」
静かな部屋へ向けて言う。
今朝の葉を、まだ見ていない。
黄色が広がっていないかもしれない。
上の葉は、昨日と同じかもしれない。
土の状態が変わっているかもしれない。
先に怖がって、今日の葉を見失わない。
「まず、見ます」
昨日も。
一昨日も。
同じ言葉を使った。
けれど、同じ朝ではない。
昨日の自分は、葉を切ることをまだ遠い選択として見ていた。
今日の自分は、必要なら、その選択へ手を伸ばさなければならない。
◇
身体を起こす。
脚の重さは、昨日より少し軽かった。
昼に休んだこと。
畑へ行く回数を減らしたこと。
自分以外の人へ任せたこと。
その結果が、身体へ残っている。
腕。
肩。
まだ少し疲れている。
でも、痛みはない。
息も苦しくない。
「今日は、朝を見てから決めます」
畑へ何度行くか。
何をするか。
全部。
朝を見てから。
◇
机へ向かう。
王都の箱。
閉じたまま。
昨日、母へ向けて言った。
一人で決めなかった。
誰かへ任せることと、誰かに奪われることは違う。
その言葉は、夜の間も胸へ残っていた。
箱の中の母からの手紙。
まだ読んでいない。
若い侍女の手紙も。
白鈴草の種も。
今日。
観察帳の三日目を読む。
自分が王都へ向かっていた間。
雨の翌日。
森で何が起きたか。
「今日も、先に森の記録を読みます」
箱へ言う。
「でも、オカエリの葉を見てからです」
蓋へ触れない。
今日は。
手を置くこともしなかった。
◇
食卓へ向かうと、リオが窓辺の石を両手で持ち上げていた。
昨日の紙には、大きな丸が一つ。
その隣に、少し小さな丸。
「今日の方が温かい?」
フローラが尋ねる。
「少し」
「昨日より小さい丸ですね」
「うん」
「同じ場所で触りましたか」
リオが黙る。
石。
窓辺。
紙。
「昨日は布の上」
「今日は?」
「床」
「では、同じ条件ではありません」
「でも冷たい」
「冷たいことは分かります」
「記録、だめ?」
「駄目ではありません。場所が違ったことも書いてください」
「字」
「印でもよいです」
リオは紙の端へ、四角を描いた。
「床」
「分かりません」
「床の印」
「あなたが分かれば、今はよいです」
観察。
同じ条件。
違う条件。
リオの石。
オカエリの葉。
どちらも。
比べるためには、何が違ったかを残す。
◇
朝食は、薄く焼いたパンと、卵、香草を入れた温かなスープだった。
今日は豆が入っていない。
リオが鍋の中を覗き込み、残念そうな顔をする。
「ない」
「今日はありません」
「昨日あった」
「昨日は昨日です」
フローラが答えると、リオがすぐに言い返した。
「ガルドと同じ」
「何がですか」
「昨日は昨日」
観察帳二日目。
ガルドが子どもに言った言葉。
フローラは少し笑う。
「便利な言葉ですが、使いすぎると困ります」
「今日は今日」
「それもです」
◇
スープを口へ運ぶ。
温かい。
香草の香り。
卵。
塩。
味は分かる。
でも、胸の一部はもう畑へ向いている。
オカエリ。
黄色。
切る。
残す。
キズナの花。
昨日、花びらの一枚が下を向いていた。
今日。
まだ咲いているだろうか。
落ちているかもしれない。
戻ってきた自分を待っていた花。
見つけられるか。
朝露。
土。
子ども。
誰かが先に拾っているかもしれない。
フローラは窓へ視線を向けかけ、途中で止めた。
「今は、朝食です」
ミナが何も言う前に、自分で言う。
「はい」
ミナの声は、静かだった。
◇
食後。
器を一枚運ぶ。
食卓を拭く。
椅子を戻す。
昨日より一つ多い。
いつもの暮らし。
畑へ行きたい気持ちを消さずに。
それでも。
急ぎすぎない。
「今日は三つですね」
ミナが言う。
「数えていたのですか」
「フローラ様が数えておられそうでしたので」
「はい」
少しだけ。
胸の中で。
◇
家を出る。
朝の空気は、昨日より乾いていた。
霧は薄い。
風は弱い。
道の土は、表面だけ少し白く乾き、木の根の周りには夜露が残っている。
リオは今日も石を持っている。
ミナは記録板と布袋。
布袋の中には。
小さな刃物。
清潔な布。
細い糸。
別の紙。
昨日。
必要なら葉を一枚切る。
そのために。
準備している。
フローラは布袋を見る。
胸が。
また。
固くなる。
「見てからです」
ミナが言う。
「はい」
「持っているだけです」
「はい」
道具があることと。
使うことは。
同じではない。
◇
畑へ近づくと、いつもより人が多かった。
ガルド。
エマ。
昨日意見を言った年配の男性。
若い女性。
子どもたち。
レナードも、少し離れた場所に立っている。
誰も大声を出さない。
笑い声も。
今日は。
少ない。
みんな。
オカエリを見ている。
フローラの姿へ気づくと、子どもたちが駆け寄りかける。
でも。
途中で止まる。
昨日。
明日の朝まで残す。
その朝。
「おはようございます」
フローラが言う。
「おはようございます」
声。
少し重なる。
◇
ガルドが近づく。
「フローラ様」
「はい」
「朝、一度だけ離れたところから確認しました」
「触れましたか」
「いいえ」
「変化は?」
聞きたい。
でも。
ガルドはすぐ答えない。
「ご自身で見られた方がよいと思います」
その言葉だけで。
胸が。
さらに固くなる。
「広がっていますか」
「はい」
短い。
正直。
フローラは一度息を吸う。
「分かりました」
◇
柵を開ける。
歩く。
オカエリ。
少し離れた場所から。
見る。
昨日より。
黄色が。
広がっている。
下葉二枚。
葉の半分近く。
緑と黄色の境目が、昨日より内側へ進んでいる。
特に。
右側の下葉。
黄色の中へ。
小さな茶色。
点。
一つ。
胸の奥へ。
冷たいものが落ちる。
「斑点」
子どもが小さく言う。
昨日まで。
なかった。
フローラは近づく。
しゃがむ。
触れずに。
見る。
右の下葉。
黄色。
茶色い点。
大きさ。
爪の先より小さい。
左の下葉。
黄色は広がった。
斑点はない。
葉脈。
まだ緑。
上葉。
緑。
新芽。
緑。
茎。
昨日より。
わずかに。
柔らかいように感じる。
でも。
光。
手。
自分の不安。
「板を」
ガルドが影を作る。
色。
見る。
昨日の線。
朝。
昼。
夕方。
今日。
比較。
「広がっています」
フローラは言う。
「右の葉には、茶色い点が一つあります」
周囲。
沈黙。
「茎は?」
エマが尋ねる。
「昨日より少し柔らかいように感じます」
「上は?」
「上葉と新芽は、まだ緑です」
◇
土へ指を入れる。
表面。
乾いている。
第一関節。
湿り。
昨日より少ない。
第二関節。
少し湿り。
朝。
水。
必要。
でも。
今。
先に。
葉。
「昨日の水は、窪みへ溜まりましたか」
フローラが尋ねる。
「夕方まで、水が残るほどではありませんでした」
エマ。
「今朝の土は、こちら側だけ特に湿っている様子もございません」
「はい」
土の高さ。
少し整えた。
水の流れ。
昨日。
日中。
黄色は大きく進まなかった。
夜。
広がった。
気温。
湿り。
夜露。
まだ。
分からない。
でも。
茶色い点。
新しい変化。
◇
「切りますか」
誰かが尋ねた。
声。
小さい。
誰かは。
分からない。
フローラは、右の下葉を見る。
昨日。
決めた。
さらに広がったら。
下葉一枚だけ。
切ることを考える。
今。
広がった。
斑点。
ある。
右。
左。
違い。
「右の下葉一枚を、切ります」
言葉。
自分の口から出た。
胸の奥が痛む。
でも。
逃げない。
「左は残します」
エマが頷く。
「比較するのですね」
「はい」
「切った葉も?」
「別に見ます」
「はい」
◇
子どもが、目を潤ませる。
「本当に切るの?」
「はい」
「昨日は残した」
「昨日は、斑点がありませんでした」
「今日あるから?」
「はい。黄色も広がりました」
「オカエリ、痛い?」
昨日も。
同じ問い。
「人と同じように痛いかは、分かりません」
フローラは子どもの顔を見る。
「でも、傷を作るので、丁寧に切ります」
「切らないと駄目?」
「切らずに残す方法もあります」
「じゃあ」
「でも、右の葉には昨日なかった茶色い点が出ました。左の葉を残して比べることで、切った方がよいのか、残した方がよいのかを見ます」
「実験?」
子ども。
「比べます」
「オカエリで?」
責める声ではない。
でも。
怖い。
「はい」
フローラは答える。
「オカエリを守りたいからです」
言って。
胸が痛い。
守るため。
傷つける。
矛盾。
でも。
時には。
残すために。
手放すものがある。
◇
ミナが布袋から小さな刃物を取り出した。
刃。
薄い。
よく研がれている。
清潔な布。
湯で拭いた。
乾かした。
エマが確認する。
「切る位置は、茎の近くではなく、葉柄の途中がよいかと」
「なぜですか」
「株の本体へ傷が近すぎないようにです。ただし、長く残しすぎると、そこから傷むこともあります」
「どれくらい」
エマが指で示す。
葉の付け根。
少し離れた場所。
「この辺りです」
フローラは。
見る。
何度も。
「ガルドさん」
「はい」
「記録してください」
「承知しました」
「エマさん」
「はい」
「近くで見てください」
「はい」
「ミナ」
「はい」
「布を」
「こちらに」
一人で。
切らない。
でも。
刃を持つのは。
自分。
◇
フローラは、刃物を受け取った。
軽い。
冷たい。
指。
少し震える。
オカエリの右の下葉。
黄色。
茶色い点。
昨日まで。
ついていた。
自分が王都から帰る前から。
みんなが見ていた。
帰った日。
黄色。
今日。
切る。
「ごめんなさい」
小さく言う。
誰へ。
葉へ。
株へ。
自分へ。
分からない。
エマが静かに言う。
「フローラ様」
「はい」
「急がなくて大丈夫です」
「はい」
刃。
葉柄へ。
当てる。
力。
強すぎない。
一度。
止まる。
まだ。
戻せる。
切らない。
そう言える。
でも。
昨日。
今日。
見た。
聞いた。
決めた。
逃げない。
フローラは息を吐き、刃を動かした。
◇
小さな抵抗。
柔らかな感触。
葉柄が切れる。
右の下葉が。
フローラの手の中へ落ちた。
音は。
ほとんどない。
けれど。
子どもの一人が息を呑む声が聞こえた。
オカエリ。
右側。
葉が一枚。
ない。
切った跡。
薄い緑。
汁。
少し。
滲む。
ミナが布を当てる。
「強く押さえず」
エマ。
「はい」
フローラの手。
震える。
葉。
重い。
実際には。
軽い。
でも。
手のひらへ。
重い。
◇
「オカエリ」
子どもが泣きそうな声で呼ぶ。
株。
返事はない。
上の葉。
風がない。
動かない。
新芽。
緑。
「なくなった」
「一枚です」
フローラは答える。
自分へ。
言うように。
「一枚、手放しました」
「戻らない?」
「この葉は、戻りません」
嘘をつかない。
「でも、オカエリは残っています」
「本当に?」
「はい」
上葉。
新芽。
左の下葉。
茎。
根。
まだ。
ある。
◇
切った葉を。
清潔な白い布の上へ置く。
表。
裏。
黄色。
茶色い点。
葉脈。
虫。
卵。
見えない。
匂い。
腐り。
強くない。
切り口。
緑。
中。
茶色くない。
「斑点の裏は?」
エマ。
フローラは葉を返す。
裏。
茶色い点の裏。
わずかに色が薄い。
穴はない。
「虫ではないように見えます」
ガルド。
「今見える範囲では」
フローラが訂正する。
「はい」
決めつけない。
◇
別の紙。
葉の形。
写す。
黄色の範囲。
斑点。
切った時刻。
朝食後。
晴れ。
風弱い。
土。
湿り。
書く。
『右下葉一枚を切除。理由は、黄色の範囲が前日より拡大し、茶色い点が一つ現れたため。左下葉は残して比較する。切った葉に虫、卵、強い腐敗臭は確認できない。切り口は緑。』
その下。
『切る前に、ガルドさん、エマさん、村の人たちと確認した。』
『切った葉は捨てず、別に観察する。』
◇
フローラは筆を止める。
気持ち。
書く。
昨日。
怖い。
今日。
もっと。
「書きますか」
ガルドが尋ねる。
「はい」
『切る時、手が震えた。切ったあと、株が少なくなったように見えて悲しかった。』
『守るために切ったが、正しかったかはまだ分からない。』
正しい。
間違い。
今。
決めない。
◇
切り口。
布を外す。
汁。
止まりつつある。
エマが近くで見る。
「このままでよいと思います」
「何か塗りますか」
「今は何も。湿ったものを塗ると、かえって悪くなることもあります」
「はい」
「雨が降るようなら、葉で軽く覆うことを考えても」
「今日は?」
空。
晴れ。
雲。
少ない。
「今は、開けておきましょう」
「はい」
切った。
次。
すぐ何か。
したくなる。
でも。
また。
待つ。
◇
左の下葉。
残す。
黄色。
広がるか。
斑点。
出るか。
上葉。
新芽。
茎。
切り口。
見ることが増えた。
「昼の観察は」
フローラが言う。
「私が来ます」
ガルドが眉を寄せる。
「昨日、休むと」
「切ったので」
「だからこそ、任せてください」
フローラの言葉が止まる。
切った。
自分の手。
そのあと。
見たい。
何度も。
確かめたい。
でも。
その気持ち。
必要だからか。
怖いからか。
分ける。
「昼に、切り口を見たいです」
「私たちも見ます」
「でも」
レナードが少し離れた場所から口を開く。
「昨日、決めた時間を皆で持つと言った」
「はい」
「今日も同じだろう」
フローラは。
黙る。
「切ったのは姫君だ。だが、そのあとを姫君だけで見張る必要はない」
「見張る」
「そう見える」
レナード。
まっすぐ。
「畑を見るのではなく、間違っていないか自分を見張ろうとしている」
胸。
痛い。
でも。
否定できない。
切った。
正しかったか。
葉。
すぐ弱ったら。
自分のせい。
何度も見て。
何か。
変えたい。
それは。
オカエリを見るのではなく。
自分の選択を。
確かめたいだけかもしれない。
◇
「昼は、お願いします」
フローラが言う。
声。
少し小さい。
ガルドが頷く。
「はい」
「切り口。左の葉。上葉。新芽。茎。土」
「はい」
「切った葉も」
「家へ持ち帰られるのでは?」
フローラは布の上の葉を見る。
持ち帰る。
自分で。
見る。
でも。
それなら。
畑と。
家。
別に観察。
「切った葉は、家へ持ち帰ります」
「はい」
「昼、畑へは来ません」
「承知しました」
◇
子どもが尋ねる。
「葉、どうするの?」
「見ます」
「枯れる?」
「株から離れたので、少しずつ乾くと思います」
「捨てない?」
「今は捨てません」
「ずっと置く?」
「それも、まだ決めません」
切った葉。
最後。
どこまで。
残す。
分からない。
◇
キズナへ移る。
薄青い花。
ない。
茎。
花の付いていた場所。
残っている。
足元。
土の上。
薄い青。
花びら。
一枚。
二枚。
三枚。
散っている。
フローラの足が止まる。
胸。
別の痛み。
「落ちた」
子どもが言う。
「朝、来た時には」
ガルド。
「すでに、この状態でした」
花。
昨日。
閉じた。
今日。
散った。
フローラはしゃがむ。
触れない。
まず。
見る。
花びら。
露。
土。
端。
少し茶色。
青。
薄い。
「全部ありますか」
「見つけたのは四枚です」
エマ。
「花びらは?」
フローラは。
昨日までの花。
何枚。
数えていない。
「分かりません」
記録。
花びらの数。
書いていない。
見ていた。
でも。
数えていなかった。
「見落としました」
胸。
また。
痛む。
帰った翌朝。
嬉しくて。
泣いて。
でも。
花びらの数を。
数えなかった。
今。
全部あるか。
分からない。
◇
「拾う?」
子ども。
昨日。
言った。
見つけられたら、拾うか考える。
今。
見つかった。
土へ。
落ちている。
このまま。
土へ戻す。
拾う。
乾かす。
残す。
どれも。
できる。
「一枚だけ、拾います」
フローラが言う。
「全部じゃないの?」
「全部を持ち帰ると、ここに何も残りません」
「でも、なくなる」
「土へ戻ります」
「一枚だけ?」
「はい」
オカエリ。
一枚。
切った。
キズナ。
一枚。
拾う。
同じ一枚。
でも。
意味。
違う。
◇
フローラは、最も形の残っている花びらを一枚だけ、指先でそっと拾った。
薄い。
湿っている。
力を入れれば。
破れる。
掌へ。
置く。
残りの花びら。
土。
そのまま。
「踏まれない?」
子ども。
「今日は、周りへ印を置きます」
「囲う?」
「大きくは囲いません。見えるように」
小さな石。
周囲へ。
三つ。
花びらの近く。
でも。
風。
吹けば。
動く。
「明日なくなるかも」
「はい」
「いいの?」
フローラは。
土の上の青を見る。
「なくなるのではなく、土へ混ざります」
「見えなくなる」
「はい」
見えなくなる。
それは。
寂しい。
でも。
全部。
持ち帰る必要はない。
◇
花の後。
茎。
少し膨らんでいる。
「種?」
リオ。
石を抱えたまま。
「まだ分かりません」
「花いない」
「はい」
「おはよう言えない」
「茎へ言いますか」
リオは。
少し考える。
花のあった場所へ。
石を向ける。
「おはよう」
子どもたち。
少し笑う。
でも。
誰も。
馬鹿にしない。
「何に言ったのですか」
フローラが尋ねる。
「次」
「次?」
「種かも」
花の次。
まだ。
見えない。
でも。
あるかもしれない。
「はい」
◇
キズナの記録。
『薄青の花は、朝には散っていた。確認できた花びらは四枚。昨日までに花びらの総数を記録していなかったため、全部かは不明。一枚だけ拾い、三枚は土へ残す。花の付いていた場所は少し膨らんで見える。種になるか観察する。』
その下。
『咲いている間に取らなかった。散ったあと、一枚だけ持ち帰った。』
『全部を残すことと、全部を持つことは同じではない。』
◇
ムラマルの虫。
一匹。
二匹。
別の瓶。
一匹の方。
動く。
二匹の方。
昨日動きが少なかった一匹。
葉の裏へ。
ついている。
もう一匹。
瓶の壁。
動く。
「生きてる」
子ども。
「はい」
「分けてよかった?」
「まだ分かりません」
「また」
「一日で決めません」
虫。
葉。
水滴。
今日。
記録。
◇
青豆一号。
新葉。
アオジロウ。
支柱。
モリタン。
印。
いつもの観察。
オカエリ。
キズナ。
大きな出来事。
でも。
ほかの株も。
生きている。
「青豆一号、見忘れそうだった」
子どもが言う。
「私もです」
フローラは正直に答える。
「オカエリとキズナだけではありません」
「うん」
「大きな変化があると、ほかが見えにくくなります」
だから。
順番。
記録。
人。
必要。
◇
畑を出る前。
ガルドから観察帳の三日目を受け取る。
「今日は、一枚多いです」
「なぜですか」
「雨の翌日で、支柱のことが多く書かれております」
「はい」
全部。
読みたい。
でも。
今日も。
一日分。
「昼の観察」
フローラ。
「任せます」
ガルド。
「はい」
「大きな変化があれば」
「知らせます」
「小さな変化は」
「記録へ」
もう。
何度も。
言った。
でも。
今日は。
必要。
「お願いします」
◇
家へ戻る道。
フローラは。
切った葉を布ごと両手で持っている。
軽い。
薄い。
黄色。
茶色い点。
隣。
小さな紙へ包んだキズナの花びら。
失ったもの。
拾ったもの。
持ち帰る。
ミナが隣を歩く。
リオは石。
「重い?」
リオが尋ねる。
「葉は軽いです」
「でも?」
昨日。
石。
重い。
少し。
フローラは。
切った葉を見る。
「少し重いです」
リオは頷く。
「石も」
「はい」
◇
家。
「ただいま」
朝の畑から。
戻る。
机。
王都の箱。
観察帳。
切った葉。
花びら。
全部。
置く場所。
考える。
フローラは、王都の箱から少し離れた机の上へ、白い布を敷いた。
葉。
表。
花びら。
別の小皿。
混ざらない。
「乾かしますか」
ミナ。
「葉は、今の変化を見たいです」
「はい」
「花びらは」
湿っている。
このまま。
腐るかもしれない。
乾かす。
残る。
「一度、布の上へ置きます」
「はい」
全部。
今。
決めない。
◇
茶。
温かい。
フローラは椅子へ座る。
手。
まだ。
切った感触。
残る。
刃。
抵抗。
葉。
落ちる。
「手が震えています」
ミナが言う。
「はい」
「休みますか」
「少し」
観察帳。
三日目。
目の前。
でも。
先に。
休む。
◇
寝台へ横になる。
目を閉じる。
オカエリ。
葉。
一枚。
ない。
切り口。
汁。
子どもの声。
戻らない?
戻らない。
でも。
株はある。
キズナ。
花。
散った。
一枚。
拾った。
残り。
土。
見えなくなる。
「残すために、手放しました」
言う。
オカエリ。
残すため。
一枚。
キズナ。
全部持たず。
三枚。
土へ。
同じ。
手放す。
でも。
違う。
◇
少し眠った。
目を覚ます。
昼前。
誰も来ていない。
大きな変化。
ない。
ミナ。
縫い物。
リオ。
石の丸。
「畑?」
フローラ。
「来てない」
「はい」
「花びら、乾いた」
小皿。
薄青。
少し。
縮む。
「触りましたか」
「見ただけ」
「はい」
◇
切った葉。
端。
少し。
丸まり始める。
黄色。
斑点。
変化。
なし。
切り口。
乾く。
匂い。
まだ。
強くない。
記録。
『切ってから昼前。葉の縁が少し内側へ丸まる。斑点に大きな変化なし。強い臭いなし。』
株から離れた葉。
弱る。
当然。
でも。
斑点。
広がるか。
見る。
◇
観察帳の三日目。
開く。
『フローラさまが王都へ行って三日目』
『朝、雨はやんだ。』
『土がやわらかい。』
『ガルドさんが、今日は畑へ入る人を三人にした。』
昨日。
雨。
今日。
土。
柔らかい。
『子どもは柵の外から見る。』
『不満。』
横。
膨らんだ頬の顔。
フローラは少し笑う。
◇
『青豆一号。水なし。』
『アオジロウ。支柱の下がゆるい。』
『ムラマル。見える葉だけ。』
『モリタン。土がぬれている。』
『オカエリ。変わらない。』
『キズナ。蕾。』
オカエリ。
この時。
変わらない。
黄色。
まだ。
ない。
キズナ。
蕾。
◇
次。
『アオジロウの支柱は、朝に触らなかった。』
『土がやわらかいから。』
『昼、表面が少し乾いた。』
『支柱の反対側から土を足した。』
『全部直さない。』
フローラの指が止まる。
今日。
オカエリ。
表面。
少し。
土を動かした。
同じ。
『一度に動かすと、どれがよかったか分からない。』
誰か。
もう。
書いていた。
自分がいない間。
みんな。
同じことを。
学んでいた。
「私が教えたのでしょうか」
フローラが言う。
ミナが首を傾げる。
「何をですか」
「全部を一度に変えないことを」
「以前、フローラ様が畑で何度も話しておられました」
「はい」
「ですから、聞いていたのでしょう」
自分の言葉。
自分がいない時。
残る。
使われる。
◇
『昼、子どもが柵の外から、支柱が曲がって見えると言った。』
『中にいる大人には、曲がって見えなかった。』
『外から見ると、少し傾いていた。』
視点。
違う。
近く。
遠く。
中。
外。
見えるもの。
違う。
「今日も」
フローラが言う。
「私一人では、見えなかったことがあります」
「はい」
エマ。
ガルド。
村人。
子ども。
レナード。
意見。
◇
『夕方、支柱を少しだけ直した。』
『アオジロウの茎には触れなかった。』
『次の朝も見る。』
『すぐ真っすぐにしたかったけど、ガルドさんが止めた。』
『昨日は昨日だと言った人が、今日は待てと言った。』
フローラは。
笑う。
ガルド。
昨日。
今日。
でも。
少しずつ。
待つ。
◇
別の字。
『フローラ様がいない三日目。』
『子どもが、もう帰るかと聞いた。』
『まだだと答えた。』
『いつ帰るか聞かれた。』
『分からないと答えた。』
『分からないと言うと、子どもが怒った。』
フローラの胸。
少し。
痛む。
帰る日。
言えなかった。
王都。
どうなる。
分からない。
『だから、帰る日を勝手に決める案が出た。』
『明日。』
『明後日。』
『雨が止んだら。』
『キズナが咲いたら。』
子どもたち。
待つために。
日を。
決めたい。
『でも、決めた日に帰らなかったら、もっと悲しくなる。』
『だから、決めない。』
『帰る日は、姫君様が決める。』
フローラは。
紙を見る。
帰る日。
自分が。
決めた。
王都で。
明日、帰ります。
その言葉。
森へ。
まだ届いていない時。
みんな。
勝手に決めなかった。
◇
『待つ人は、帰る日を決められない。』
『でも、帰った時に見せるものは決められる。』
『今日は、アオジロウの支柱を少し直した。』
フローラの目が。
熱くなる。
帰る日。
決められない。
でも。
帰った時。
見せるもの。
畑。
記録。
花。
全部。
作った。
◇
子どもの字。
『フローラさま、きょうもごはん食べたかな。』
また。
フローラは笑いながら。
涙。
出る。
「食べました」
紙へ。
「今日も」
あの日。
馬車。
宿。
王都へ。
何を食べた。
少し。
思い出す。
「たぶん、パンとスープです」
「よく覚えておられますね」
ミナ。
「森で食べたものより、味は覚えていません」
「はい」
◇
裏面。
『今日、家の中へは入らなかった。』
『窓から見た。』
『机の上に、紙がある。』
『何の紙か分からない。』
『見ない。』
自分の家。
机。
書きかけ。
何。
覚えていない。
でも。
誰も。
入らない。
見ない。
『姫君様の分からないものを、こちらで分かったことにしない。』
昨日。
畑。
オカエリ。
今日。
葉。
同じ。
◇
『夕方、家の前へ小さな枝が落ちた。』
『明日、拾う。』
『今日は土がやわらかいから、踏まない。』
待つ。
明日。
枝。
今日。
無理に。
しない。
暮らし。
すべて。
同じ。
◇
最後。
『三日目も、姫君様は帰らなかった。』
『畑は、少し変わった。』
『村も、少し変わった。』
『待つ人も、昨日と同じではない。』
フローラは。
何度も読む。
待つ人も。
変わる。
自分がいない間。
止まらない。
畑。
村。
人。
帰る場所。
同じまま。
待つのではない。
変わりながら。
待つ。
◇
「私が帰った時」
フローラ。
「みんなは、私が出た日のままではありませんでした」
「はい」
ミナ。
「私も、出た日のままではありませんでした」
「はい」
「だから」
紙。
切った葉。
花びら。
「同じ場所へ戻っても、同じではないのですね」
「はい」
帰る。
元へ。
戻す。
ではない。
変わった自分が。
変わった場所へ。
戻る。
◇
昼食。
畑へ。
行かない。
でも。
切った葉。
見る。
花びら。
乾く。
観察帳。
読む。
人。
畑。
見ている。
静かな待つ。
◇
昼過ぎ。
エマが来た。
走っていない。
顔。
落ち着いている。
フローラは。
すぐ立つ。
「大きな変化は?」
「ございません」
息。
緩む。
「切り口は乾き始めています。汁も増えておりません」
「左の葉は?」
「黄色い範囲に、朝から大きな広がりはございません。斑点も見つかっておりません」
「上は?」
「変わらず緑です」
「茎」
「朝と同じ程度です」
フローラは椅子の背へ手を置く。
「ありがとうございます」
◇
エマは、机の切った葉を見る。
「こちらは?」
「端が少し丸まりました。斑点は、大きく変わっていません」
「裏を見ても?」
「どうぞ」
エマ。
見る。
触れない。
「強い腐りではなさそうです」
「病気ではない?」
「そこまでは申せません」
「はい」
「ただ、斑点が急に広がってはいないようです」
「はい」
切った。
正しかった。
間違い。
まだ。
分からない。
◇
「フローラ様」
「はい」
「切ったあと、畑へ来られませんでしたね」
「はい」
「来られると思っておりました」
「私も、行くと思いました」
「でも?」
「自分の選択を見張ろうとしていると言われました」
エマが少し笑う。
「レナード様でしょうか」
「分かりますか」
「言いそうです」
「はい」
◇
「私も」
エマ。
「自分の畑で、葉を切った日は何度も見に行きました」
「はい」
「見ても、戻せないのに」
「はい」
「でも、行きました」
「後悔しましたか」
エマは少し考える。
「切ったことより、もっと早く気づけなかったことを」
「はい」
「けれど、あとから考えると、毎日見ていたのです。見ていても、分からなかった」
フローラ。
黙る。
「見ていたのに」
「はい」
「分からないことがあります」
「あります」
見落とした。
気づけなかった。
それだけで。
見ていなかったことにはならない。
◇
「エマさん」
「はい」
「昨日、名前を聞きました」
「はい」
「今まで、畑を見てくれていたのに」
「はい」
「名前を知りませんでした」
エマが少し困った顔で笑う。
「私も、名乗っておりませんでした」
「でも」
フローラ。
「今日、葉を切る時、エマさんがいてくれてよかったです」
エマの表情。
止まる。
少し。
目元。
柔らかくなる。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
◇
夕方。
畑へ。
朝。
切った場所。
オカエリ。
右下葉。
ない。
見慣れない。
株。
少し。
空いている。
でも。
立っている。
切り口。
乾く。
色。
薄い緑。
汁。
なし。
左の下葉。
黄色。
朝から。
大きな広がりなし。
斑点。
なし。
上葉。
新芽。
緑。
茎。
朝と。
同じように見える。
「今日の間は」
フローラ。
「大きな悪化は見られません」
周囲。
小さく。
息。
◇
「切ってよかった?」
子ども。
すぐ。
答えたくなる。
よかった。
今。
悪くない。
でも。
一日。
「まだ分かりません」
子ども。
少し。
不満。
「でも、今日の間、切り口は乾き、左の葉へ斑点は出ませんでした」
「一つ分かった?」
「はい」
「オカエリ、元気?」
「上の葉と新芽は、まだ緑です」
「じゃあ、少し元気」
「そう見えます」
全部。
大丈夫。
ではない。
でも。
少し。
◇
キズナ。
土の上。
花びら。
二枚。
朝は三枚残した。
一枚。
ない。
風。
運んだ。
土へ。
混ざった。
分からない。
「一枚なくなった」
子ども。
「はい」
「探す?」
フローラは。
周囲。
見る。
畑。
土。
草。
青。
ない。
「探しません」
「なんで?」
「どこへ行ったか分からないからです」
「なくなった」
「見えなくなりました」
「同じじゃない?」
フローラ。
少し考える。
「見えなくても、どこかにあります。土の間か、風の先か」
「拾えない」
「はい」
「悲しい?」
「少し」
「でも探さない?」
「はい」
全部。
見つけようとしない。
帰った。
自分。
見られた花。
一枚。
持つ。
残り。
森。
◇
花の付いていた場所。
膨らみ。
朝より。
変わらない。
種。
できるか。
まだ。
分からない。
リオが石を向ける。
「おやすみ」
「花はありません」
「次に」
「はい」
◇
夕方の記録。
『オカエリ。右下葉一枚を朝に切除。夕方まで切り口は乾き、汁の増加なし。左下葉の黄色い範囲は朝から大きな拡大なし。斑点なし。上葉、新芽、茎に大きな変化なし。』
『切った葉は家で観察。縁が丸まり、乾き始めた。斑点に大きな変化なし。強い臭いなし。』
『切ったことが正しかったかは、まだ決めない。明日も比較する。』
その下。
『キズナの花びらは、朝に四枚確認。一枚だけ拾った。三枚を土へ残したが、夕方には二枚だけ確認できた。なくなった一枚は探さなかった。』
さらに。
『見えなくなったものを、全部取り戻そうとしなかった。』
◇
家へ戻る前。
村人たち。
少し。
残る。
フローラは。
みんなへ向く。
「今日は、ありがとうございました」
ガルド。
エマ。
レナード。
子ども。
「葉を切る時、見ていてくれて」
年配の男性が。
頭を下げる。
「こちらこそ」
「何がですか」
「皆の話を聞いてくださったことです」
若い女性。
「切ると決めた時も、残す葉を見せてくださったことです」
畑。
自分。
見せる。
意見。
聞く。
でも。
決める。
フローラは。
静かに頷いた。
◇
夕食。
今日は豆。
リオ。
満足。
フローラ。
切った葉。
机。
気になる。
何度も。
見たい。
でも。
食べる。
煮込み。
温かい。
森。
家。
暮らし。
◇
食後。
切った葉。
さらに乾く。
斑点。
少し。
濃く見える。
広がり。
分からない。
光。
朝。
違う。
「明日の朝、同じ窓辺で見ます」
ミナ。
「はい」
花びら。
乾く。
薄い青。
小さく。
縮む。
「これは」
フローラ。
「残したいです」
初めて。
言う。
「どのように?」
「紙に挟みます」
「乾かしてからの方が」
「はい」
今。
湿り。
もう少し。
乾く。
待つ。
◇
王都の箱。
今日も。
閉じている。
フローラは。
蓋へ手を置く。
「母様」
今日。
葉を切った。
花びらを拾った。
全部。
持たなかった。
「残すために、手放しました」
母。
公爵家。
過去。
手放す。
関係。
切る。
残す。
同じではない。
でも。
言葉。
胸へ。
重なる。
「まだ、読みません」
手を離す。
◇
花守り布へ。
紙。
『オカエリの右下葉一枚を切った。』
『切った葉は戻らない。オカエリは残っている。』
『切ったことが正しかったかは、まだ分からない。』
『キズナの花が散った。』
『一枚だけ拾い、残りは土へ置いた。』
『残すために、一枚だけ手放した。』
六つ。
多い。
でも。
今日。
◇
寝台。
身体。
疲れ。
ある。
でも。
昨日より。
深い。
心。
切った。
散った。
手放した。
残った。
「おやすみなさい、オカエリ」
右下葉。
ない。
「明日、切り口を見ます」
左。
残る。
「黄色も」
上。
新芽。
「緑も」
◇
「おやすみなさい、キズナ」
花。
ない。
でも。
茎。
膨らみ。
次。
あるかもしれない。
「花びらを、一枚だけ持っています」
全部ではない。
でも。
一枚。
◇
観察帳の三日目。
待つ人も。
昨日と同じではない。
自分も。
同じではない。
昨日。
切らなかった。
今日。
切った。
昨日。
花。
咲く。
今日。
散る。
変わる。
毎日。
同じ畑。
でも。
同じではない。
◇
フローラは毛布を胸まで引き上げた。
失うこと。
全部。
なくなることではない。
一枚。
手放す。
残り。
見る。
一枚。
拾う。
残り。
土へ。
戻す。
「明日も、見ます」
切った跡。
残した葉。
花の次。
見えなくなったもの。
見えるもの。
どちらも。
急がず。
決めつけず。
フローラは、残すことが何一つ失わないことではないと知りながら、森へ帰って五度目の夜へ、ゆっくりと目を閉じた。




