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『青の姫君の森暮らし 〜化け物と恐れられた公爵令嬢は、今日も畑を耕します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第93話 青の姫君、切るか残すかを一人で決めない


 森へ帰ってから、三度目の朝。


 夜のうちに霧はほとんど出なかったらしく、窓の向こうには、昨日よりも輪郭のはっきりした木々が立っていた。東から差し込む朝日はまだ弱いものの、枝葉の隙間を通った光が床へ細長く落ち、風が吹くたび、淡い帯のように揺れている。


 フローラは目を覚ますと、寝台の中で一度だけ深く息を吸った。


 湿った木の匂い。


 灰の残る炉。


 干した香草。


 森の家。


 いつもの朝へ戻りつつある香りを確かめてから、昨日のオカエリを思い出した。


 下葉二枚。


 縁から広がった黄色。


 葉脈は緑。


 茎に弱りはない。


 虫も卵も見つからなかった。


 朝は霧のせいで薄く見え、昼と夕方には濃く見えたが、黄色い範囲そのものは、大きく広がっていないように思えた。


 水は与えなかった。


 隣の葉が作る影は、昼前から昼食後まで。


 根元の片側には、小さな窪みがある。


 分かったことは増えた。


 それでも、原因はまだ分からない。


 フローラは毛布の上で指を組んだ。


 昨日より悪くなっていたら。


 水を与えなかったことが間違いだったのかもしれない。


 変わっていなければ。


 何もしなかったことがよかったのかもしれない。


 けれど、そのどちらも、見なければ分からない。


「今日は、今日の葉を見ます」


 昨日の怖さを、そのまま今日の答えにしない。


 そう決めて、ゆっくり身体を起こした。


     ◇


 身体には、昨日より少し強い疲れが残っていた。


 午後に休んだとはいえ、森へ戻ってからの数日、フローラは畑と家を何度も往復している。王都からの長い移動を終えたばかりの身体にとって、慣れた道を歩くことさえ、まだ完全に日常へ戻ったわけではない。


 脚の奥が重い。


 肩も少し固い。


 頭痛はない。


 息も苦しくない。


 けれど、何でもできる朝ではなかった。


「今日は、朝と夕方にします」


 昼の観察を誰かへ任せる。


 その言葉を口にすると、胸の奥がわずかにざわついた。


 オカエリの黄色が広がっているかもしれない。


 自分で見なければ。


 自分が帰ってきたのだから。


 そう思う気持ちは強い。


 でも、昨日読んだ観察帳には書かれていた。


 自分がいない間も、村の人たちは見ていた。


 勝手に答えを決めず、分からないことを分からないまま残した。


 ならば。


 帰ってきたからといって、すべてを自分だけで見なければならないわけではない。


「任せることも、見続けることに入ります」


 自分へ言い聞かせる。


 まだ、少し怖い。


     ◇


 机の端。


 王都から持ち帰った箱は、今日も閉じている。


 昨日、観察帳の最初の日を読んだ。


 今日は二日目。


 自分が王都へ向かっていた間、森で降った雨の日。


 箱の中には、母からの手紙がある。


 若い侍女の手紙も。


 白鈴草の種も。


 フローラは蓋へ手を置いた。


「今日も、森の記録を先に読みます」


 言ってから、少し考える。


「でも、ずっとではありません」


 いつ開けるか。


 まだ決めない。


 ただ。


 忘れているわけではない。


     ◇


 食卓へ向かうと、リオが窓辺に立ち、王宮の丸い石へ指を当てていた。


 横には小さな紙が置かれ、大きな丸が一つ描かれている。


「何をしているのですか」


「昨日より冷たいか見る」


「昨日の記録はありますか」


「ない」


「では、今日が最初ですね」


「うん」


「丸が大きいほど冷たいのですか」


「うん」


「明日、もっと冷たかったら?」


 リオは紙を見る。


 少し考えたあと、両手を広げる。


「もっと大きい」


「紙から出ます」


「次の紙」


 ミナが茶を運びながら笑う。


「リオ様なりの観察帳ですね」


「畑の記録には入れません」


 フローラが念を押すと、リオは素直に頷いた。


「石だけ」


     ◇


 朝食は、焼いたパンと卵、根菜のスープだった。


 昨日、豆が少ないとリオが不満を言ったため、スープには柔らかく煮た豆が少し入っている。


「増えた」


「少しだけです」


「毎日増える?」


「増えません」


「なんで?」


「豆以外も食べるからです」


「畑は豆いっぱい」


「育てているものと、毎日食べるものは同じではありません」


 いつものようなやり取り。


 フローラは笑いながらスープを口へ運んだが、食事の途中で何度も窓へ視線を向けそうになった。


 今日は霧がない。


 朝から光が強い。


 昨日の朝より、黄色が濃く見えるかもしれない。


 そう考えたところで、フローラは手を止めた。


「まだ見ていません」


 小さく言う。


 ミナが向かいから尋ねる。


「オカエリのことでしょうか」


「はい。頭の中では、もう黄色が広がっています」


「実際には?」


「まだ分かりません」


「はい」


「今は、食べます」


 パンを一口。


 噛む。


 味。


 温かさ。


 畑へ行く前の時間を、畑の不安だけで埋めない。


     ◇


 食後。


 フローラは器を一枚運び、食卓を布で拭いた。


 昨日は、急いでいる時にいつものことを一つだけした。


 今日は二つ。


 それだけで、畑へ向かう足が少し落ち着く。


「昨日より、待てています」


 ミナが言う。


「少しだけです」


「少しで十分です」


     ◇


 森の道は、昨日より乾いていた。


 朝露はある。


 けれど、地面の表面はところどころ明るく、足跡もはっきり残る。風が木々の間を通り、濡れた葉を揺らしていた。


 リオは今日も王宮の石を両手で抱えている。


「毎日、重くありませんか」


「少し」


「袋へ入れればよいでしょう」


「花に見せる」


「手で持たなくても見せられます」


「石が見えない」


「石には目がありません」


「分からない」


 昨日、フローラが何度も使った言葉を、リオは気軽に返す。


 フローラは少し黙り、やがて笑った。


「確かに、石が何を見ているかは分かりません」


     ◇


 畑へ近づくと、昨日より少ない人数が待っていた。


 ガルド。


 子どもたちが四人。


 畑仕事を手伝っている村の女性が二人。


 ほかの者たちは、自分の仕事へ向かっている。


「おはようございます、フローラ様」


「おはようございます」


 ガルドはフローラの歩く速さを見て、すぐに眉を寄せた。


「お疲れですか」


「少し」


「今日は休まれた方が」


「朝と夕方だけ見ます」


「昼は?」


「お願いします」


 言えた。


 胸はまだざわついている。


 けれど、ガルドは大げさに驚くことなく、静かに頷いた。


「承知しました」


「黄色い範囲、土の湿り、上の葉と新芽、茎。それから影を」


「昨日と同じように記録します」


「はい」


 自分が細かく説明しなくても、ガルドはもう分かっている。


 それが。


 少し嬉しい。


 少し寂しい。


 でも、どちらも持ったままでよい。


     ◇


 柵を開け、オカエリへ向かう。


 今日は朝から日差しがある。


 黄色い下葉が、昨日の朝より濃く見えた。


 フローラの胸が固くなる。


 足を止めず、近くまで行く。


 すぐ触れない。


 まず、昨日の記録と見比べる。


 葉の縁。


 黄色と緑の境目。


 葉脈。


 光。


「板で影を作ってください」


 ガルドが記録板を持ち、葉へ触れないよう光を遮る。


 色が少し薄くなる。


 昨日の夕方の記録。


 絵。


 線。


 フローラは何度も葉と紙を見比べた。


「広がっています」


 声は、自分が思ったより落ち着いていた。


 子どもたちが黙る。


 ガルドの顔も引き締まる。


「どのくらいでしょう」


「縁から、指一本分ほど。全部ではありませんが、二枚とも」


 昨日。


 大きな変化はないと書いた。


 今日。


 変化がある。


 それを。


 見たまま言う。


     ◇


「悪くなった?」


 小さな女の子が尋ねた。


 フローラはすぐには答えず、上の葉を見る。


 緑。


 新しい葉。


 小さいが、開こうとしている。


 茎。


 しっかりしている。


 根元。


 腐った匂いはない。


「黄色い部分が広がったことは、よい変化には見えません」


 フローラは正直に言った。


「でも、上の葉と新芽は緑です。茎も、まだしっかりしています」


「じゃあ、全部悪いんじゃない?」


「はい。悪いように見える変化と、まだ力があるように見える変化が、同時にあります」


「どっち?」


「どちらもです」


 子どもは困った顔をした。


 大人でも。


 困る。


 よい。


 悪い。


 一つへ決めたくなる。


 でも、植物は。


 同じ株の中で。


 違う様子を見せる。


     ◇


 土へ指を入れる。


 表面。


 昨日の朝より乾いている。


 第一関節。


 少し湿り。


 第二関節。


 冷たさはあるが、水分は少ない。


「水を与えますか」


 ガルドが尋ねる。


 昨日は与えなかった。


 今日。


 土は乾き始めている。


 水不足かもしれない。


 でも。


 根元の片側には窪みがあり、以前の水が一方へ溜まった可能性もある。


 多すぎる。


 少なすぎる。


 どちらも。


 まだ消えていない。


「根元へ直接ではなく、少し離れた場所へ少量だけ与えます」


「流れを見るためですか」


「はい」


 ガルドが小さな器へ水を汲む。


 フローラはオカエリから少し離れた土へ、ゆっくり流してもらった。


 水はすぐに染み込む。


 一部が、根元の窪みの方へ寄る。


「やはり、こちらが低いです」


「水が集まりますか」


「少なくとも、流れやすい形です」


「原因?」


 子どもが聞く。


「原因の一つかもしれません。でも、これだけでは決めません」


「また分からない?」


「一つ分かったことがあります」


 フローラは窪みを指した。


「水が同じように広がらず、片側へ寄りやすいことです」


「それを直す?」


 すぐ。


 土を動かしたい。


 水が溜まらないように。


 根を守りたい。


 胸の中の焦りが強くなる。


     ◇


 フローラは、しばらく土を見つめた。


 昨日、怖いからといって根を掘らなかった。


 今日。


 黄色が広がった。


 何かをしなければ。


 その気持ちは、昨日より強い。


「私は今、怖いです」


 周囲へ聞こえるように言った。


 ガルドも。


 村の女性たちも。


 子どもたちも。


 黙っている。


「黄色が広がったので、すぐに全部の土を動かしたいと思っています。でも、それが必要だからなのか、怖いからなのか、まだ分けきれていません」


 ガルドがゆっくり口を開いた。


「水が片側へ流れることは、今見ました」


「はい」


「土の高さが違うことは、怖さではなく、見たことです」


「はい」


「ならば、根元を掘らず、表面だけ少し整えるのはどうでしょう」


 自分で。


 全部決めなくてもよい。


 フローラはガルドを見る。


「どれくらいなら、根を傷つけませんか」


「根元から離れたところの土を、木片で少し寄せる程度なら」


 村の女性の一人が答えた。


 四十代ほどの、日焼けした頬を持つ女性だった。


 昨日も畑にいた。


 けれど、フローラはまだ名前を聞いていない。


「あなたは、畑に詳しいのですか」


「詳しいと言えるほどではございません。村で野菜を育てているだけです」


「お名前を」


 女性が驚く。


「エマと申します」


「エマさん」


 フローラはもう一度土を見る。


「手伝ってください」


「はい」


     ◇


 小さな木片を使い、根元から離れた表面の土だけを少し動かす。


 窪みを完全に埋めるのではない。


 水が一か所へ勢いよく流れ込まないよう、高さをわずかに整える。


 フローラ。


 ガルド。


 エマ。


 三人で確かめながら。


 子どもたちは、柵の外側から静かに見ていた。


「もっと入れる?」


「今は、これだけです」


「まだ低いよ」


「全部を一度に変えません」


「なんで?」


「今日の変化が、この土を動かしたからなのか分からなくなるからです」


 少し。


 変える。


 見る。


 また。


 考える。


     ◇


 土を整えたあと、フローラは黄色い葉へ視線を戻した。


 色は変わらない。


 すぐに緑へ戻るわけではない。


「直したのに、まだ黄色い」


 子どもが言う。


「はい」


「失敗?」


「結果は、まだ分かりません」


「いつ分かる?」


「明日かもしれません。もっと先かもしれません」


「長い」


「植物の返事は、人の返事より遅いことがあります」


 フローラがそう言うと、ガルドが少し笑った。


「人も、遅いことはあります」


 母。


 父。


 自分。


 言葉。


 返事。


 フローラは一瞬黙り、静かに頷いた。


「はい」


     ◇


 葉を見ていたエマが、少し迷うように口を開いた。


「フローラ様」


「はい」


「黄色くなった葉を、切ることはお考えですか」


 その言葉に、フローラの指が止まった。


「切る?」


 子どもたちがざわめく。


「取っちゃうの?」


「オカエリ痛い?」


「血出る?」


 エマは慌てて首を振る。


「病気と決まったわけではありません。ただ、以前、私の畑で斑点の出た葉を取ったところ、その後、ほかの葉へ広がらなかったことがありました」


「その株は、同じ豆ですか」


「いいえ。葉物の野菜でした」


「黄色でしたか」


「斑点があり、縁が茶色くなっていました」


「オカエリとは違いますね」


「はい。ですから、切るべきだとは申せません。ただ、残したままで広がることを心配する者もおります」


 エマは、誰かを責めるような言い方をしなかった。


 村で。


 黄色い葉を見て。


 心配している人がいる。


 自分が帰ってきたから、任せればよいと考える者。


 でも。


 手遅れになる前に切るべきではないかと思う者もいる。


 どちらも。


 オカエリを守りたい。


     ◇


 フローラは黄色い下葉を見つめた。


 切る。


 病気なら、広がるのを止められるかもしれない。


 古い葉なら、株の負担を減らせるかもしれない。


 でも。


 まだ葉脈は緑。


 虫も斑点もない。


 切れば。


 黄色がどのように進むのか観察できなくなる。


 必要な葉を失うかもしれない。


 残す。


 原因を見続けられる。


 でも。


 病気なら、上の葉へ広がるかもしれない。


「切るのも怖いです」


 フローラは言った。


「残すのも」


 エマが頷く。


「はい」


「あなたなら、どうしますか」


 エマはすぐには答えなかった。


 土。


 葉。


 茎。


 新芽。


 時間をかけて見る。


「私の畑なら、今日一日は残します」


「なぜですか」


「斑点も腐りもなく、上の葉が元気だからです。ただし、明日、黄色が上へ移るか、茎が弱るようなら、切ることを考えます」


「今日一日」


「はい」


 ガルドも口を開く。


「私も、同じ考えです。今切れば、切ることはできます。しかし、戻すことはできません」


 切らない選択は。


 明日、変えられる。


 切る選択は。


 戻せない。


「では、今日は残します」


 フローラは決めた。


「明日の朝まで。上の葉、新芽、茎、黄色い範囲を見ます。斑点や腐りが出たら、すぐ知らせてください」


「承知しました」


「エマさん」


「はい」


「明日も、来られますか」


「参ります」


「あなたの畑の時のことを、もう少し聞かせてください」


「はい」


 一人で決めない。


 経験を。


 借りる。


     ◇


 子どもが不安そうに尋ねた。


「葉、切らないの?」


「今日は切りません」


「明日は?」


「見てから決めます」


「切ったら、オカエリじゃなくなる?」


 フローラは、その問いに少し驚いた。


 下葉二枚を失っても。


 オカエリは。


 オカエリ。


 でも。


 子どもにとっては。


 昨日まであった葉も。


 名前の一部なのかもしれない。


「葉が一枚減っても、オカエリです」


「じゃあ、全部なくなったら?」


 胸が痛む。


「今は、全部なくなる話はしません」


「でも」


「今ある葉を見ます」


 子どもは黙った。


 フローラは、少し言葉を足す。


「先の怖いことを全部考えると、今見えるものを見失います。今日は、下葉二枚が黄色く、上の葉と新芽が緑です」


「うん」


「それを覚えていてください」


「うん」


     ◇


 朝の記録を書く。


『オカエリ。下葉二枚の黄色い範囲が、昨日より指一本分ほど内側へ広がったように見える。葉脈は緑。上葉と新芽は緑。茎に大きな変化なし。土は昨日朝より乾いている。少量の水を根元から離して与えると、片側の窪みへ流れた。根元から離れた表面土のみ、少量動かして水の流れを整えた。』


 その下へ。


『黄色い葉を切る案が出た。斑点、腐り、上葉への広がりが見られないため、今日は残す。明日の朝まで観察する。』


 さらに。


『切ることも、残すことも怖かった。一人で決めず、ガルドさんとエマさんの考えを聞いた。』


 フローラは筆を止めた。


 自分が決めた。


 でも。


 一人で決めなかった。


     ◇


 キズナへ移る。


 薄青い花は、昨日よりわずかに下を向いていた。


 花びらの一枚。


 端が少し乾き始めている。


「終わる?」


 子どもが聞く。


「花の終わりへ近づいているように見えます」


「取っておく?」


「まだ咲いています」


「落ちたらなくなるよ」


「土へ落ちます」


「探す?」


 フローラは花を見る。


 帰った翌朝。


 待っていた花。


 残したい。


 でも。


 咲いているうちに取れば。


 花の時間を、自分の都合で終わらせることになる。


「咲いている間は、咲いていてもらいます」


「落ちたら?」


「その時、見つけられたら考えます」


 全部を。


 今。


 決めない。


     ◇


 リオが王宮の石を持ち上げる。


「おはよう」


 花へ。


「毎日言いますね」


「花がいるから」


「花が落ちたら?」


 リオは少し考える。


「種に言う」


「種ができれば」


「待つ」


 短い言葉。


 でも。


 フローラの胸へ残る。


     ◇


 ムラマルの青い虫は、瓶の中で三匹とも動いていた。


 けれど、一匹だけ、昨日より動きが少ない。


 葉は入っている。


 瓶の内側へ少し水滴がついている。


「一匹だけ、別の瓶へ移します」


 フローラが言う。


「なんで?」


「三匹一緒にいることが影響しているかもしれないからです」


「喧嘩?」


「分かりません」


「寂しい?」


「それも分かりません」


「分からないこと多い」


「はい」


「でも分けるの?」


「比べるためです」


 一匹。


 二匹。


 同じ葉。


 同じ場所。


 できるだけ。


 違いを少なく。


 観察。


     ◇


 青豆一号。


 新しい葉は、昨日より開いている。


 アオジロウ。


 紐の締まりに大きな変化はない。


 モリタン。


 印より、ほんの少し上へ伸びたように見える。


「変わってないのも書く?」


「はい」


「今日も?」


「毎日です」


「鍋も?」


「鍋は書きません」


「昨日の紙にはあったよ」


「生活の記録としてです」


「今日の生活」


「ガルドさん、今日鍋を使いましたか」


「朝から使っておりません!」


「では書くことがありません」


 笑い。


 朝の緊張が。


 少しだけ。


 ほどける。


     ◇


 畑を出る前、フローラは昼の観察を確認した。


「黄色い範囲。上葉。新芽。茎。土の湿り。影。それから、動かした土が崩れていないか」


「承知しました」


 ガルド。


「エマさんも?」


「昼までおります」


「お願いします」


「はい」


「大きな変化があれば、知らせてください」


「小さな変化は記録へ」


「はい」


 自分が行かない時間。


 怖い。


 でも。


 任せる。


     ◇


 ガルドから、観察帳の二日目の紙を受け取る。


 今日は二枚。


 昨日と同じ。


「全部は?」


 子どもが聞く。


「読みません」


「続き気になるよ」


「私もです」


「なら読めばいいのに」


「気になるからこそ、一日ずつです」


「なんで?」


「一日を一日として持ちたいからです」


 自分がいなかった時間。


 まとめて過ぎ去ったものにしない。


 一日ずつ。


 森で暮らした人たちの時間として。


     ◇


 家へ戻る道。


 フローラの脚は、朝から少し重い。


 ミナが歩幅を合わせる。


「昼は、必ずお休みください」


「はい」


「畑へ戻りたくなっても」


「はい」


「誰かが見ています」


「分かっています」


 口では。


 分かっている。


 でも。


 胸は。


 何度も振り返りたい。


 森の道からは。


 畑はもう見えない。


「見えなくても、あります」


 フローラが言う。


「はい」


「私がいなくても」


「はい」


「見ている人がいます」


「はい」


     ◇


 家へ着く。


「ただいま」


 朝の畑から。


 リオが先に入り、振り返る。


「お帰り」


「一緒に帰りました」


「今日も」


「はい」


 小さなやり取り。


 でも。


 毎日。


 帰る。


     ◇


 手を洗い、森の茶を飲む。


 机の上。


 観察帳の二日目。


 王都の箱。


 閉じたまま。


 フローラは椅子へ座ったが、すぐに紙へ手を伸ばさなかった。


 脚が重い。


 肩も。


 頭の中。


 オカエリ。


 切る。


 残す。


 黄色。


 新芽。


「少し横になります」


 ミナが頷く。


「はい」


「紙は、そのあと」


「はい」


 読みたい。


 でも。


 休む。


     ◇


 寝台へ横になっても、すぐには眠れなかった。


 畑。


 今。


 誰かが見ている。


 影は。


 黄色は。


 土は。


 でも。


 何か大きな変化があれば、知らせが来る。


 来ない。


 静か。


 風。


 家。


 昨日読んだ言葉。


『待つ日は、静かだと思っていたが、そうでもない。』


 今は。


 静かな待つ時間。


 どちらも。


 ある。


「静かな日も、待っています」


 小さく言い、目を閉じた。


     ◇


 少し眠った。


 目を覚ますと、部屋へ入る光が高くなっている。


 誰も来ていない。


 ミナが窓辺で縫い物をしていた。


 リオは、石の記録へ今日の丸を書き足している。


「畑から、誰か来ましたか」


「いいえ」


「大きな変化は」


「ないのでしょう」


「はい」


 安心。


 でも。


 まだ。


 自分の目で見たい。


 夕方まで。


 待つ。


     ◇


 机へ戻り、観察帳の二日目を開く。


 昨日より整った字。


『フローラさまが王都へ行って二日目』


 その下。


『朝、雨。』


 大きな雲。


 斜めの線。


 雨の絵。


『青豆一号。葉に水がいっぱい。』


『アオジロウ。支柱がぬれた。』


『ムラマル。葉の裏を見ると、手もぬれた。虫はいない。』


『モリタン。昨日の印より少し上。』


『オカエリ。変わらない。』


『キズナ。蕾。昨日より少し大きい。』


 雨。


 自分は。


 馬車の中。


 王都へ向かう道。


 窓を打つ雨。


 薄暗い空。


 思い出す。


「同じ日に、森も雨でした」


「はい」


 ミナ。


「同じ雲かは分かりません」


「はい」


「でも、同じ日に雨を見ていました」


「はい」


     ◇


 次の行。


『朝の水やりはなし。』


『ガルドさんが、雨でも水をやろうとした子を止めた。』


『昨日は自分が先に葉の裏を見たのに、今日は順番を守れと言った。』


 フローラは思わず笑った。


「昨日の続きです」


「ガルド様らしいのか、らしくないのか」


「明日、聞きます」


『子どもに、昨日はどうだったと言われた。』


『ガルドさんは、昨日は昨日だと言った。』


「便利な言葉です」


 リオが横から言う。


「今日も今日」


「はい」


「石も」


「石は関係ありません」


     ◇


『昼まで雨。』


『畑へ入る人を少なくした。』


『外から見た。』


『葉の裏は全部見られなかった。』


『分からないと書く。』


 フローラの指が止まる。


 雨。


 畑へ入る。


 土を踏む。


 見たい。


 でも。


 見ない。


『ムラマルの葉の裏は、朝に二枚だけ見た。ほかは分からない。』


『オカエリの土の中は見ていない。』


『キズナの蕾は、外から見えた。』


「見られなかったことも、残しています」


「はい」


「全部見ない日がありました」


「はい」


 今。


 昼の畑。


 自分は。


 行かない。


 でも。


 誰かが見ている。


 その人たちも。


 全部を見られるわけではない。


 それで。


 よい。


     ◇


 子どもの字。


『フローラさまの家、雨のおとした。』


 少し足りない言葉。


 でも。


 意味は分かる。


『ミナさんいないから、家がひとり。』


 フローラの胸が。


 ゆっくり痛む。


『ガルドさんが、家はひとりにならないと言った。』


『森があるから。』


『でも、へやはしずか。』


 自分の家。


 空。


 誰も眠らない寝台。


 火のない炉。


 閉じた扉。


 でも。


 村の人が。


 外から見た。


 雨の音を聞いた。


「家も、待っていたのでしょうか」


 フローラが言う。


「どうでしょう」


 ミナは、すぐに肯定しない。


「家は話しません」


「はい」


「ですが」


 ミナは室内を見渡す。


「フローラ様が戻られた今は、前より家らしく見えます」


 フローラも。


 見る。


 机。


 箱。


 茶。


 縫い物。


 石。


 人。


「はい」


     ◇


『昼、村長が家の前を見た。』


『扉は開けなかった。』


『フローラさまのものだから。』


 勝手に入らない。


 守る。


 触れない。


『窓の外から、変な音がしないか聞いた。』


『何もなかった。』


『何もないと、少し安心した。』


 何もない。


 それも。


 記録。


     ◇


 夕方。


『雨が止んだ。』


『畑へ入った。』


『青豆一号、変わらない。』


『アオジロウ、支柱の下が少しゆるい。明日見る。』


『ムラマル、見た葉には虫なし。』


『モリタン、土がぬれている。』


『オカエリ、変わらない。』


『キズナ、蕾。』


 アオジロウの支柱。


 この日に。


 緩みに気づいた。


 でも。


 すぐには直さなかった。


「雨で、土が柔らかかったからでしょうか」


 ミナが言う。


「たぶん」


 フローラは答え。


 少し笑う。


「明日の記録を読みます」


「ガルド様へ聞かないのですか」


「聞けます」


「はい」


「でも、先に記録を読みたいです」


 本人へ。


 すぐ答えを聞くこともできる。


 でも。


 その日の人たちが。


 どう考えたか。


 紙の中で。


 先に聞く。


     ◇


 裏面。


 大人の字。


『雨の日は、見られないものが増える。』


『見られないと、不安になる。』


『不安だから畑へ入ると、土を踏み固めるかもしれない。』


『今日は、入らない時間を作った。』


 フローラは声に出して読んだ。


「不安だから畑へ入ると、土を踏み固めるかもしれない」


 今日。


 自分が昼に行けば。


 それだけで。


 悪いわけではない。


 でも。


 疲れた身体で。


 不安のまま。


 何度も見る。


 必要以上に触る。


 土を踏む。


「見たいことと、見に行くことが、いつも同じではありません」


「はい」


 ミナ。


     ◇


 続き。


『姫君様がいたら、雨でも畑へ行こうとしたかもしれない。』


 フローラの手が止まる。


『でも、姫君様がいないから、みんなで止める人を決めた。』


『待つ側にも、姫君様が戻った時に言えることができた。』


『今日は、入らなかった。』


『それも記録する。』


 誰が書いたのか。


 分からない。


 でも。


 自分を知っている。


 雨でも行く。


 見たい。


 止まれない。


 今。


 自分は。


 昼に行かなかった。


「少し、できるようになりました」


 フローラが言う。


「はい」


「いない間に、教えられました」


「はい」


     ◇


 最後。


 子どもの字。


『フローラさま、雨の日も馬車かな。』


『ぬれてないかな。』


『ごはん食べたかな。』


 また。


 食事。


 フローラは笑った。


 でも。


 目の奥が熱くなる。


「食べました」


 紙へ向かって答える。


「濡れませんでした」


 馬車の屋根。


 窓。


 雨。


「少し、怖かったです」


 王都へ。


 近づく。


 母。


 父。


 でも。


 進んだ。


『森は雨。王都も雨かもしれない。』


『同じ空じゃなくても、雨だったら少し一緒。』


 フローラは、紙へ涙を落とさないよう、顔を上げた。


 同じ空ではない。


 でも。


 同じ日に。


 雨。


 森。


 道。


 離れていて。


 少し。


 一緒。


     ◇


 観察帳を閉じず、そのまま机へ置く。


「待つ側も、全部を見ていたわけではありません」


「はい」


「雨で見られない葉がありました」


「はい」


「家の中も、開けませんでした」


「はい」


「分からないまま、待ちました」


「はい」


 全部を知ることが。


 待つことではない。


 見ない。


 触れない。


 入らない。


 それも。


 守る。


     ◇


 昼食。


 フローラは畑へ行かなかった。


 窓を何度か見た。


 でも。


 ここから畑は見えない。


 リオも、今日は石を持って出なかった。


「花、昼に開いてる」


 窓辺で言う。


「見ていません」


「でも昨日は」


「はい」


「今日もかも」


「そうかもしれません」


「行く?」


「行きません」


「うん」


 リオも。


 それ以上言わない。


     ◇


 午後。


 ガルドが記録板を持って家へ来た。


 知らせ。


 でも。


 急いだ様子ではない。


 フローラは立ち上がりかけたが、ガルドの顔を見て、少し落ち着く。


「大きな変化は?」


「ございません」


 胸が。


 緩む。


「入ってください」


 ガルドは玄関で土を払ってから、家へ入った。


「畑へ戻らなくてよいのですか」


「子どもたちとエマさんがおります」


「では、座ってください」


「私が?」


「はい。茶を」


「しかし」


「私が休むために、ガルドさんが休まないのは違います」


 ガルドは困った顔をした。


 でも。


 座る。


     ◇


 昼の記録。


『オカエリ。黄色い範囲に大きな変化なし。上葉と新芽、緑。茎、大きな変化なし。土の表面は乾き始め、第一関節では湿りあり。朝に動かした土は崩れていない。』


『影は風で何度も外れた。続けてかかる時間は昨日より短い。』


『キズナ。昼に花が開いた。花びら一枚、朝より少し下向き。』


『ムラマル。別の瓶へ移した一匹も動く。二匹のうち一匹は、少し動きが少ない。』


 大きな変化はない。


 黄色も。


 上へ移っていない。


「ありがとうございます」


「はい」


「私が行かなくても、記録が来ました」


「はい」


「畑は止まりませんでした」


「はい」


 ガルドが少し笑う。


「姫君様が戻られる前から、止まっておりません」


「そうでした」


     ◇


「エマさんは、昼も見てくださいましたか」


「はい。黄色い葉の縁を、朝の印と比べております」


「印?」


「葉には触れず、板へ形を写しました」


「見たいです」


 ガルドが板を見せる。


 朝。


 昼。


 線。


 ほとんど同じ。


「エマさんへ、ありがとうございますと」


「ご本人へ、夕方お伝えください」


「はい」


 一人で決めない。


 人の目を。


 借りる。


     ◇


「フローラ様」


 ガルドが茶を置いた。


「はい」


「葉を切る話ですが」


「はい」


「村で、少し意見が分かれております」


「切った方がよいという人と?」


「残した方がよいという者です」


「怒っている人は?」


「おりません。ただ、皆、心配しております」


 自分がいない間。


 畑は。


 みんなのものでもあった。


 だから。


 意見がある。


 それは。


 奪われたのではない。


 守ろうとした時間がある。


「夕方、聞きます」


「全員へ?」


「来られる人だけでよいです」


「決めるのは、フローラ様です」


「はい」


 ガルドの声は。


 まっすぐ。


「でも、聞いてから決めます」


     ◇


 夕方。


 畑へ行くと、朝より人が増えていた。


 仕事を終えた村人。


 子ども。


 エマ。


 レナードも来ている。


 大勢。


 でも。


 騒がしくはない。


 みんな。


 オカエリを心配している。


 フローラは、まず葉を見る。


 朝に広がった黄色の範囲から、夕方まで大きな変化はない。


 上葉。


 新芽。


 緑。


 茎。


 しっかり。


 土。


 表面は乾いている。


 中。


 少し湿り。


 朝に整えた場所。


 崩れていない。


「今日の間は、広がっていません」


 フローラが言うと、周囲から小さな息が漏れた。


     ◇


「切った方がよいと思う人の話を、聞かせてください」


 フローラは村人たちへ向き直った。


 すぐに声は上がらなかった。


 やがて、年配の男性が一歩前へ出る。


「病気なら、早く取った方がほかへ移らないと思いました」


「同じような経験は?」


「豆ではありません。果樹の葉で」


「その葉は?」


「黒い斑点が出ておりました」


「オカエリにはありません」


「はい。だから、同じとは言えません」


 男性は正直に答えた。


     ◇


 次に。


 若い女性。


「私は、残した方がよいと思います。上の葉が元気だからです」


「経験は?」


「ありません。ただ、元気な部分があるのに切るのが怖くて」


「はい」


 経験。


 気持ち。


 どちらも。


 意見。


     ◇


 エマが口を開く。


「私も、今日は残す方がよいと思います。ただ、明日の朝、黄色がさらに広がるか、上葉へ移るなら、下葉だけ切ることを考えてもよいかと」


「切った葉は?」


「別の場所へ置き、斑点や虫がないか調べます」


「捨てずに?」


「すぐ燃やす必要がある病気かどうかも分かりませんので」


 切る。


 観察を終わらせることではない。


 切ったあと。


 別に見る。


 その方法もある。


     ◇


 レナードが腕を組んだまま言う。


「俺は畑には詳しくない」


「はい」


「だから、切るか残すかは言えない。ただ」


 視線。


 村人たち。


 フローラ。


「姫君が一人で失敗の責任を背負う決め方にはしない方がいい」


 フローラは息を止める。


「失敗」


「何を選んでも、葉が悪くなる可能性はある。残して広がれば、切ればよかったと思う。切って弱れば、残せばよかったと思う」


「はい」


「だが、今見えているものを皆で確認し、聞ける話を聞いて決めたなら、それは姫君一人の間違いじゃない」


 畑。


 オカエリ。


 自分のもの。


 でも。


 見ていた人。


 守った人。


 今。


 意見を言う人。


「分けるのですか」


 フローラが尋ねる。


「責任を?」


「責任というより」


 レナードは少し考える。


「決めた時間を、皆で持つ」


 その言葉。


 胸へ。


 深く入る。


     ◇


 フローラは、もう一度オカエリを見る。


 黄色い下葉。


 緑の葉脈。


 上の葉。


 新芽。


 茎。


 土。


 今日。


 朝。


 昼。


 夕方。


 広がったのは。


 昨夜から朝の間。


 日中は。


 大きな変化なし。


「今日は、切りません」


 フローラは言った。


 周囲が静かに聞く。


「明日の朝まで残します。夜の間に黄色がどれくらい進むか、上の葉へ変化があるかを見ます」


 エマが頷く。


「はい」


「明日、さらに広がっていたら、下葉一枚だけを切ることを考えます」


「一枚だけ?」


 子ども。


「二枚とも切らず、比べます」


「残す葉と?」


「はい」


 切る。


 残す。


 どちらか全部ではない。


 一枚。


 一枚。


 比べる。


「切った葉も、捨てません。別に見ます」


「オカエリ痛い?」


「分かりません」


 子どもの顔が曇る。


 フローラは、少し言葉を変える。


「植物が人と同じように痛いかは分かりません。でも、傷を作ることにはなります。だから、必要かどうかを見てからにします」


「うん」


     ◇


「それでよいと思います」


 エマ。


「私も」


 年配の男性。


 若い女性。


 ほかの村人たちも。


 少しずつ頷く。


 全員が。


 同じ考えではない。


 でも。


 今日の決め方を。


 持つ。


「ありがとうございます」


 フローラは頭を下げた。


「オカエリを見てくれて」


 村人たち。


 少し戸惑う。


 ガルドが静かに答える。


「こちらこそ、見せてくださってありがとうございます」


 見せる。


 任せる。


 意見を聞く。


 畑は。


 自分のもの。


 でも。


 一人だけの目ではない。


     ◇


 キズナの花は、夕方の光の中で閉じ始めていた。


 花びらの一枚。


 朝より下へ向いている。


 端。


 少し乾く。


「明日、落ちるかもしれない」


 子どもが言う。


「はい」


「取らない?」


「取りません」


「落ちたら?」


「見つけられたら、拾います」


「残す?」


「その時、決めます」


 今。


 咲いている。


 それを。


 咲いているまま。


     ◇


 リオが石を持ち上げる。


「おやすみ」


 花へ。


「朝は、おはようでした」


「うん」


「毎日、二回?」


「いる時」


 花がいる時。


 石がある時。


 今。


     ◇


 夕方の記録。


『オカエリ。朝、下葉二枚の黄色い範囲が昨日より広がっていた。日中は大きな変化なし。上葉、新芽、茎に目立つ変化なし。土の片側へ水が流れやすいため、表面のみ少量整えた。』


『黄色い葉を切るか残すか、村の人たちの経験と考えを聞いた。今日は残す。明日の朝、さらに広がっていた場合は、下葉一枚だけを切り、もう一枚と比べる案を考える。』


 その下。


『決めた時間を、皆で持った。』


 フローラは筆を止めた。


 レナードの言葉。


 責任を。


 押しつけるのではない。


 決めた時間を。


 皆で。


     ◇


 家へ戻る道。


 空。


 橙。


 風。


 今日。


 昼。


 畑へ行かなかった。


 でも。


 記録は来た。


 意見も。


 経験も。


 自分だけで見ていたら。


 エマの畑の話を聞けなかった。


 村人の不安も。


 レナードの言葉も。


「一人で見ない方が、増えることがあります」


 フローラが言う。


 ミナが頷く。


「はい」


「見えるものが」


「はい」


     ◇


 夕食。


 今日は豆の入った煮込み。


 リオは満足そう。


 フローラは。


 オカエリのことを。


 何度も考えそうになる。


 でも。


 今は。


 食べる。


 明日の朝まで。


 決めた。


 今夜。


 何度考えても。


 葉は見えない。


「置きます」


 フローラが言う。


 ミナが尋ねる。


「何をでしょう」


「切るか残すかを、明日の朝まで」


「はい」


「今は、食べます」


     ◇


 食後。


 王都の箱。


 今日も。


 閉じている。


 フローラは蓋へ手を置いた。


「母様」


 小さく呼ぶ。


「今日は、一人で決めませんでした」


 母。


 父。


 公爵家。


 あの家では。


 自分のことが。


 自分へ聞かれずに決められたことがある。


 今。


 畑。


 自分が決める。


 でも。


 一人では決めない。


「違うことです」


 自分へ。


 確認する。


 誰かへ任せることと。


 誰かに奪われることは。


 同じではない。


     ◇


 花守り布へ、新しい紙を入れる。


『オカエリの黄色は、少し広がった。』


『土を少しだけ動かした。』


『黄色い葉を切るか、村のみんなへ聞いた。』


『今日は切らず、明日の朝まで見る。』


『決めた時間を、皆で持った。』


 五つ。


 今日は。


 多い。


 でも。


 必要。


     ◇


 寝台へ入る。


 身体。


 朝より楽。


 昼。


 休んだ。


 畑へ。


 行かなかった。


 でも。


 夕方。


 見た。


 オカエリ。


 黄色。


 日中は。


 大きく広がらなかった。


「おやすみなさい、オカエリ」


 下葉二枚。


「明日、もう一度見ます」


 切るかもしれない。


 残すかもしれない。


 全部ではない。


 一枚だけ。


 比べるかもしれない。


 答え。


 まだ。


 ない。


     ◇


「おやすみなさい、キズナ」


 薄青い花。


 終わりへ。


 近づく。


「落ちたら、見つけられるとよいです」


 拾うか。


 残すか。


 その時。


     ◇


 観察帳の二日目。


 雨。


 見られない葉。


 入らなかった畑。


 静かな家。


 ご飯を心配した子ども。


 同じ日。


 自分は。


 馬車の中。


 離れた場所。


 同じ雨ではないかもしれない。


 でも。


 少し。


 一緒。


     ◇


 フローラは毛布を胸まで引き上げた。


 明日の朝。


 黄色が広がっていたら。


 切るかもしれない。


 怖い。


 残しても。


 怖い。


 でも。


 今日の自分は。


 一人で怖がっていない。


 ガルド。


 エマ。


 レナード。


 村の人たち。


 子どもたち。


 みんなが。


 同じ葉を見た。


 同じ時間を持った。


「明日も、見ます」


 急がず。


 逃げず。


 でも。


 一人で抱えず。


 フローラは、誰かへ尋ねることと、自分で決めることが両立するのだと知りながら、森へ帰って四度目の夜へ、静かに目を閉じた。

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