↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『青の姫君の森暮らし 〜化け物と恐れられた公爵令嬢は、今日も畑を耕します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
92/101

第92話 青の姫君、黄色い葉に答えを急がない


 森へ帰ってから、二度目の朝だった。


 フローラが目を覚ました時、窓の向こうには白い霧が残っていた。昨夜のうちに冷えた空気が森の低い場所へ溜まり、家の周囲に立つ木々の幹を、途中から淡く曖昧にしている。葉先から落ちた雫が、屋根や地面へ小さな音を立て、その合間を縫うように、まだ眠たそうな鳥の声が一つ、また一つと増えていた。


 フローラは寝台の中で目を開いたまま、しばらく天井を見上げていた。


 昨日、畑へ帰った。


 青豆一号には新しい葉が二枚増え、アオジロウの支柱は高くなっていた。ムラマルの葉を食べていた青い虫は瓶の中で観察され、モリタンの成長は、子どもたちの曲がった線と印によって丁寧に残されていた。


 キズナには、薄い青の花が咲いていた。


 そして。


 オカエリの下葉は、二枚だけ、縁から黄色くなっていた。


 昨日の朝。


 昼。


 夕方。


 何度も見た。


 けれど、原因は分からなかった。


 水かもしれない。影かもしれない。土の状態かもしれない。根かもしれないし、虫が見えない場所にいるのかもしれない。


 何かをすべきなのではないか。


 水を足す。


 支柱を動かす。


 葉を切る。


 根元を掘る。


 自分が戻ってきたのだから、すぐにでも治してやらなければならないのではないか。


 そんな気持ちは、昨日からずっと胸の奥にあった。


 フローラは毛布の上へ両手を置いた。


「まだ、見ていません」


 今朝のオカエリを。


 悪くなったとも。


 良くなったとも。


 まだ決められない。


「まず、見ます」


 そう声にした途端、胸の中で動いていた不安が、ほんの少しだけ形を持った。


 消えたわけではない。


 けれど、怖いという気持ちと、今分かっていることを、同じものにしなくて済む。


     ◇


 フローラはゆっくりと身体を起こした。


 昨日は、朝、昼、夕方と三度畑へ行った。森へ帰った嬉しさも、キズナの花を見た感動も、みんなが残してくれた記録も、一度に胸へ入ってきた。


 身体は正直だった。


 腕に重さがある。脚にも少し張りが残っている。頭痛はなく、息も苦しくないが、何度もしゃがみ、立ち、畑と家を往復した疲れは、きちんと残っていた。


「今日は、昨日より少し休みます」


 畑を見ること。


 休むこと。


 どちらか一つではない。


 長く見続けるためには、自分の身体も見なければならない。


 フローラは寝台から足を下ろし、床の冷たさを確かめた。王都の客室よりも硬く、宿の床よりも馴染み深い。足裏から伝わる感触だけで、ここが自分の家なのだと分かる。


 机の端には、王都から持ち帰った箱が置かれていた。


 母からの手紙。


 若い侍女からの手紙。


 白鈴草の種。


 刺繍糸。


 母と父から受け取った言葉を三文ずつ選び、書き残した紙。


 昨日も開けなかった。


 今日も、蓋は閉じたままにする。


「待っていてください」


 箱へ向けて、静かに言う。


「今日は、昨日から待っている葉を見ます」


 母の言葉を捨てるのではない。


 王都を拒むのでもない。


 今は、森で先に見なければならないものがある。


 それを選ぶ。


     ◇


 隣の部屋から、器の触れ合う音が聞こえた。


 ミナが起きている。


 その少しあと、リオの声がした。


「石がない」


「窓辺の右側です」


「ない」


「昨日、布の横へ置きました」


「左にある」


「では、見つかっていますね」


「いた」


 フローラは、思わず小さく笑った。


 王宮から持ち帰った丸い石。


 リオは昨日、キズナの薄青い花へ見せていた。


 王宮の石と森の花が会った。


 リオは、そう言った。


 意味があるのかは分からない。


 けれど、フローラは、その言葉を嫌いではなかった。


     ◇


 畑仕事用の服へ着替える。


 昨日着た上着の袖には、まだ少し土が残っていた。指で払えば細かな粒が落ちるが、全部は消えない。


 洗ってから着るほどでもない。


 今日もまた、土はつく。


 フローラはそのまま袖を通した。


 髪を編む手は、少し急いでいた。毛束を分ける指が乱れ、途中で一度、編み目が崩れる。


 早く畑へ行きたい。


 オカエリを見たい。


 黄色が広がっていないか、確かめたい。


 フローラは髪をほどき、もう一度、最初から編み直した。


 急いでいる自分を責めるのではなく、手を少しだけゆっくり動かす。


 鏡の中。


 青い髪。


 森の服。


 昨日と同じ自分。


 でも、昨日より一日分、森へ戻っている。


     ◇


 食卓では、リオが王宮の石を膝の上へ置いていた。


 皿の横ではない。


「今日は、食卓へ置かないのですね」


「落ちるから」


「昨日、落としましたか」


「夜に一回」


 ミナが茶を注ぎながら頷いた。


「窓辺から床へ落ちました。石も床も、傷はありません」


「それならよかったです」


 リオは石を両手で包んだまま、フローラを見る。


「今日も畑へ持っていく」


「キズナへ見せるだけです」


「うん」


「オカエリの近くへは置きません」


「置かない」


「勝手に土へ埋めるのも駄目です」


「埋めない」


「本当に?」


「たぶん」


「たぶんでは困ります」


 ミナが小さく笑う。


 朝食は麦粥と焼いた根菜、それから昨夜作った豆の塗りものだった。


 王宮の料理人ヘルマンから教わった作り方を、森の豆と香草で作り直したもの。王宮で食べたものより豆の皮が少し残り、油も少なく、香草の香りは強い。


 同じ作り方でも、同じ味にはならない。


 フローラはパンへ薄く塗り、一口食べた。


「昨日より、味が分かります」


「昨日は、畑のことが胸へ入りすぎておられましたから」


 ミナの言葉に、フローラは頷いた。


「キズナの花も、オカエリの葉も、みんなの記録も、一度に見ました」


「はい」


「嬉しいことも、多いと疲れます」


「はい」


 嬉しいから、休まなくてよいわけではない。


 悲しいから、食べられないと決まるわけでもない。


 フローラは麦粥を口へ運び、いつもより丁寧に噛んだ。


 けれど、視線は何度も窓へ向かう。


 霧。


 薄い光。


 畑はここから見えない。


「窓を何度見ても、オカエリは見えません」


「はい」


 ミナは叱らず、ただ答えた。


「今は食べます」


「はい」


     ◇


 朝食を終えたあと、フローラは器を一つだけ運んだ。


 ミナが片づけると言ったが、昨日と同じように、急いでいる時ほど、いつもの暮らしを一つ行うことにした。


「今日は一つですか」


「はい」


「昨日も一つでした」


「同じでよいです」


 急いでいる自分を無理に止める必要はない。


 畑へ行きたい。


 その気持ちを持ったまま、皿を一枚運ぶ。


 それだけでも、昨日までの暮らしへ戻る道になる。


     ◇


 家を出ると、湿った空気が頬へ触れた。


 霧はまだ残り、遠くの木々をぼかしている。地面の表面は濡れていたが、雨が降ったわけではない。葉や枝から落ちた露が土へ染み、道の一部を暗くしている。


 リオは王宮の石を両手で抱え、ミナは記録板と布袋を持っている。


 フローラは歩きながら、昨日の観察帳を思い出した。


 みんなが残してくれた記録。


 植物の成長だけではない。


 誰が見た。


 誰が転びかけた。


 誰が鍋を焦がした。


 誰が笑った。


 自分がいない間の暮らし。


「今日は、観察帳を一日分だけ借ります」


 フローラが言うと、ミナが尋ねた。


「最初の日からですか」


「はい。私が森を出た翌日から」


 一日ずつ。


 全部を一度に読まない。


 自分がいなかった時間も、急いで追いつかなくてよい。


     ◇


 畑の近くまで来ると、子どもたちの声が霧の向こうから聞こえた。


「まだ開けるな!」


「見ただけ!」


「触った?」


「触ってない!」


「ガルドさんが来るまで待つんだって!」


「もう後ろにいる!」


「うわっ!」


 続いて、大人たちの笑い声が起こる。


 フローラが姿を見せると、子どもたちは一斉に振り返った。


「フローラ様!」


「おはよう!」


「花、まだあるよ!」


「虫も!」


「黄色い葉もある!」


「一度に言わないでください」


 そう返しながら、フローラの口元にも笑みが浮かぶ。


「おはようございます」


「おはようございます!」


 声が重なった。


 昨日より人数は少ない。


 帰還翌日のように、村中の人が待っているわけではない。


 畑へ来た者。


 村の仕事へ向かった者。


 家事をしている者。


 子どもを見ている者。


 それぞれの朝がある。


 少しだけ寂しい。


 でも、それでよい。


 フローラが戻ってきたからといって、みんなの暮らしが再び彼女だけを中心に回る必要はない。


「今日は、いつもの朝です」


 小さく言うと、ガルドが首を傾げた。


「何か?」


「いいえ。よい朝だと思いました」


     ◇


「おはようございます、フローラ様」


 ガルドは、昨日より少し眠そうだった。


「眠れましたか」


「はい」


「鍋のことを考えて?」


「考えておりません」


「二回焦がしたことを?」


「一回です!」


「二回」


 リオが横から言う。


「お前はなぜ毎回増やす!」


 子どもたちが笑う。


 胸にあった緊張が、少しほどける。


 オカエリを見たい。


 怖い。


 その気持ちがあっても、笑うことはできる。


     ◇


 柵の前で、フローラは一度立ち止まった。


「今日は、オカエリから見ます」


 昨日は、キズナの花を最初に見たい気持ちを抑え、いつもの順番で青豆一号から観察した。


 けれど、今日は目的が違う。


 昨日からの変化を、朝の光の中で確かめる。


「順番、変えていいの?」


 子どもが尋ねる。


「はい。今日は理由があります」


「理由があれば変えていい?」


「必要なものを先に見るためなら」


「理由がない時は?」


「いつもの順番が分かりやすいです」


 子どもは少し考え、頷いた。


     ◇


 柵を開ける。


 畑の土は、昨日よりしっとりしていた。


 雨は降っていない。


 霧と露。


 表面に水分が残っている。


 フローラはオカエリの前まで歩いたが、すぐにはしゃがまなかった。


 まず、少し離れた場所から見る。


 光。


 周囲の影。


 隣の葉。


 黄色くなった下葉二枚。


 昨日の朝より、薄く見える。


 胸が少し軽くなる。


 でも。


 今日は霧が濃い。


 光が弱い。


 色が違って見えるだけかもしれない。


「昨日より、薄い?」


 子どもが小声で言った。


「まだ、決めません」


 フローラは答え、ミナから昨日の記録を受け取った。


 朝。


 昼。


 夕方。


 書いた色の変化。


 絵。


 線。


 言葉。


 葉と紙を、何度も見比べる。


「黄色い範囲は、大きく広がっていないように見えます」


 ガルドが小さく息を吐いた。


 子どもたちの肩も、少し下がる。


「でも、良くなったともまだ言えません」


 フローラは続けた。


「今日は光が弱いです。昨日の昼や夕方と同じ見え方ではありません」


 安心したい。


 大丈夫だと言いたい。


 けれど、安心も答えを急ぐことがある。


     ◇


 フローラはしゃがみ、葉へ触れる前に表と裏を見た。


 黄色は、葉の縁から内側へ向かっている。


 境目は曖昧。


 茶色い斑点はない。


 虫食いの穴も増えていない。


 葉の裏に虫は見えず、卵らしいものもない。


 茎は、昨日と同じようにしっかりしている。


「葉脈は、緑です」


 フローラが言うと、ガルドが記録板へ書こうとして止まった。


「昨日は?」


「書いていません」


 フローラの指も止まる。


 昨日。


 黄色い部分ばかり見ていた。


 葉脈の色を、記録していなかった。


「昨日は見落としました」


「私たちもです」


 ガルドの声が重くなる。


 失敗したと思っている。


 フローラは、葉へ視線を戻した。


「昨日へ戻ることはできません」


「はい」


「今日から書きます」


「はい」


 見落としたことを隠さない。


 分からないものを、後から分かったことにしない。


     ◇


 葉へ指の腹をそっと当てる。


 柔らかすぎない。


 乾いてもいない。


 裏側も崩れない。


 根元へ顔を近づけ、匂いを確かめる。


 湿った土の匂い。


 腐りのような強い臭いはない。


 表面へ指を入れる。


 第一関節。


 湿っている。


 第二関節。


 冷たさが残る。


「昨日の朝より、表面が湿っています」


「水は与えておりません」


 ガルドが答えた。


「霧と露だと思います」


「それだけで?」


「畑の場所によっては、表面へ残ります」


 子どもが身を乗り出す。


「水、いらない?」


「今は、すぐには与えません」


「乾いたら?」


「また見ます」


 待つ。


 でも、放っておくのではない。


     ◇


 フローラはオカエリの周囲へ視線を移した。


 隣の株。


 支柱。


 伸びた葉。


 午後になると、その葉の影がオカエリへかかる。


 昨日。


 そう見えた。


 けれど、何時から何時まで。


 どれくらい続くか。


 風で外れるか。


 そこまでは分からない。


「影を見たいです」


 フローラが言うと、子どもたちが一斉に手を上げた。


「俺が見る!」


「私も!」


「ずっとここにいる!」


「ずっとは困ります」


「遊びながら見る!」


「忘れます」


「忘れない!」


 ガルドが咳払いをする。


「交代にしましょう」


 フローラは頷いた。


「午前、昼、午後で、違う人が見てください。影が黄色い葉へかかり始めた時と、離れた時に印をつけます」


「鐘ないよ」


「食事の前後と、空の位置でよいです」


「正確じゃなくても?」


「分かる形で残してください」


 文字が書けなければ印。


 絵。


 線。


 使える記録でよい。


     ◇


 土をもう少し見る。


 根元の片側に、小さな窪みがあった。


 昨日も見た。


 でも、いつできたかは分からない。


「水が流れた跡でしょうか」


 ガルドがしゃがむ。


「可能性はあります」


「前に水を与えた時?」


「三日前でした」


 記録を確認する。


 三日前。


 少なめ。


 その前。


 水なし。


 さらに前。


 雨。


 多すぎるようには見えない。


 少なすぎるとも、まだ決められない。


「根を見ますか」


 ガルドの問いに、フローラは窪みを見つめた。


 掘れば。


 分かることが増えるかもしれない。


 でも、根を傷つけるかもしれない。


 怖い。


 だから見たい。


 その気持ちがある。


「今日は掘りません」


「はい」


「明日の朝、黄色い範囲が広がっていたら、根元から離れた場所の土を少しだけ見ます」


「全部ではなく?」


「はい。いきなり根を出しません」


 段階を踏む。


 今できること。


 まだしないこと。


     ◇


「病気かな」


 小さな男の子が、不安そうに聞いた。


「まだ分かりません」


「死ぬ?」


 その言葉に、周囲が静かになる。


 フローラも、一瞬、息が止まりそうになった。


 オカエリ。


 帰るという名前をつけた株。


 自分が戻った日に、黄色い葉を見た。


 失いたくない。


 でも。


 安心させるための嘘は言えない。


「今は、立っています」


 フローラはゆっくり答えた。


「葉も全部黄色ではありません。茎も、まだしっかりしています」


「じゃあ大丈夫?」


「今すぐ枯れるとは思いません」


「絶対?」


「絶対とは言えません」


 子どもの顔が曇る。


 フローラは続けた。


「でも、私たちは見ています。変わったら気づけます。気づいたら、できることを考えます」


「怖くない?」


 フローラは少し黙った。


「怖いです」


 ガルドも。


 ミナも。


 子どもたちも。


 黙って聞いている。


「黄色い葉を見ると、何かをすぐしなければと思います。でも、怖いから水を増やしたり、怖いから根を掘ったりすると、違うことをしてしまうかもしれません」


「じゃあ、何もしない?」


「見ます」


 フローラは葉へ視線を戻した。


「見て、比べます。今日は、それをします」


 男の子は少し考えてから、頷いた。


「俺も見る」


「お願いします」


     ◇


 朝の記録を書く。


『霧。表面湿り。下葉二枚の黄色い範囲は、昨日の夕方から大きく広がったようには見えない。ただし光が弱く、色の比較は難しい。葉脈は緑。虫と卵は見つからない。茎は大きな変化なし。根元片側に小さな窪み。原因不明。隣の葉の影がかかる時間を観察する。』


 そこまで書き。


 フローラは少し迷ってから、さらに一行を加えた。


『黄色い葉を見て、私は少し怖い。』


 ガルドが記録を読み、目を上げる。


「気持ちも書かれるのですか」


「はい」


「植物の変化ではありません」


「でも、判断へ影響します」


 怖いから。


 水を増やしたくなる。


 葉を切りたくなる。


 掘りたくなる。


 自分がどんな気持ちで見たか。


 それも、残す。


「怖かったことを忘れると、あとで、自分がなぜ急いだか分からなくなるかもしれません」


「なるほど」


 ガルドは静かに頷いた。


     ◇


 次に、キズナを見る。


 薄い青の花は、朝霧の中で少し閉じていた。


 昨日の朝も、同じだった。


 昼には、もう少し開いた。


 花びらの先には露がつき、光を受けて小さく揺れている。


「寝てる」


 子どもが言う。


「そう見えます」


「昼に起きる?」


「昨日は、昨日の昼に開きました」


「今日も?」


「見ます」


「また分からない?」


「はい。でも、昨日より一日分は知っています」


 全部分からない。


 でも、何も分からないわけではない。


 少しずつ。


 同じ動きが続けば、分かることも増える。


     ◇


 リオが王宮の石を持ち上げた。


「おはよう」


 花へ向けて言う。


「石が言うのですか」


「うん」


「昨日、会いました」


「今日は朝だから」


「毎日会わせるのですか」


「花がいる間」


 フローラは薄青い花を見る。


 いつまで咲くか。


 分からない。


「手で持ったままにしてください」


「重い」


「なら、袋へ戻してください」


「花が見えない」


「少しだけです」


 リオは両手で石を持ち直し、花の正面へ向けた。


「見た」


「はい」


     ◇


 青豆一号。


 新しい葉は、昨日より少し開いている。


 アオジロウ。


 紐の位置に大きな変化はない。


 ムラマル。


 虫食いの跡は増えていない。


 瓶の中の青い虫三匹は、まだ動いている。


 モリタン。


 朝だけでは、伸びたか分からない。


「変わらないものも、書く?」


 子どもが尋ねる。


「書きます」


「何もないのに?」


「昨日と同じように見えたことが分かります」


「つまらない」


「あとで、大切になることがあります」


「鍋も?」


「鍋は畑の変化ではありません」


「でも前は、いいって言った!」


「毎日、鍋だけ書くのは違います」


 笑いが起こる。


 ガルドだけが不満そうな顔をしていた。


     ◇


 観察を終える頃には、霧が少し薄くなっていた。


 フローラは、ガルドから分厚い観察帳を受け取るのではなく、最初の日の紙だけを外してもらった。


 二枚。


 自分が森を出た翌日。


 それだけ。


「本当に一日分だけでよろしいのですか」


 ガルドが尋ねる。


「はい」


「続きもございます」


「知っています」


「気になりませんか」


「気になります」


「では」


「だから、一日ずつです」


 子どもたちが笑う。


「全部読むと思ってた!」


「夜まで!」


「寝ないかも!」


「寝ます」


 自分でも。


 全部持ち帰れば。


 止まらなくなるかもしれない。


 王都で過ごしていた日々。


 森で流れていた日々。


 全部、一度に重ねたくなる。


 でも。


 今日は、最初の日。


 それだけ。


     ◇


 畑を出る前に、役割を確認する。


 午前の影を見る子。


 昼に交代する子。


 午後。


 大人が一度確認する。


 水は、フローラが昼に戻るまで与えない。


「雨が降ったら?」


「記録してください」


「霧も?」


「今朝の分は書きました」


「虫が来たら?」


「どの葉へ来たか」


「石は?」


 リオが聞く。


「関係ありません」


「あるかも」


「今は調べません」


     ◇


 家へ戻る道。


 フローラは、観察帳の最初の二枚を胸へ抱えて歩いた。


 紙は軽い。


 でも。


 自分がいなかった日の重さがある。


 その日。


 自分は王都へ向かっていた。


 森では。


 何があったのか。


 誰が畑を見たのか。


 何を考えたのか。


「今、読みますか」


 ミナが尋ねる。


「家で」


「はい」


「座って」


「はい」


「茶を飲んでから」


「はい」


 持ち帰ったから。


 すぐ開く必要はない。


     ◇


 森の家へ着く。


「ただいま」


 朝の畑から。


 家へ。


 リオが先に入って振り返る。


「お帰り」


「一緒に帰りました」


「うん」


「でも、ありがとうございます」


 手を洗う。


 指の間。


 爪。


 オカエリの葉へ触れた感触。


 湿った土。


 冷たい水。


 昨日より、土は少ない。


 今日は、まだ何も動かしていない。


     ◇


 机。


 森の茶。


 観察帳の一日目。


 王都の箱。


 閉じたまま。


 フローラは椅子へ座り、すぐには紙を開かなかった。


 茶を一口。


 温かい。


 胸の奥。


 オカエリ。


 黄色。


 霧。


 葉脈。


 子どもの「死ぬ?」という声。


 不安。


 まだ残っている。


「先に、少し休みます」


 ミナが頷く。


「はい」


 紙は待つ。


 畑も。


 王都の箱も。


 全部。


 自分が見るまで、消えない。


     ◇


 茶を半分ほど飲んだところで、フローラは紙へ手を伸ばした。


「読みます」


 ミナは少し離れた椅子へ座り、リオは窓辺へ石を置いた。


「声に出す?」


「読めるところは」


 最初の紙。


 大きく、少し曲がった文字。


『フローラさまが王都へ行ったつぎの日』


 フローラはゆっくり読む。


『朝、ガルドさんが早かった。』


 その下。


 小さな字。


『本当はねむれなかった。』


 横には、髭のある顔。


 目の下に線。


「似ています」


 ミナが笑う。


「明日、ガルドさんへ聞きます」


「聞かなくてもよろしいのでは?」


「記録ですから」


「はい」


     ◇


『青豆一号。変わらない。』


『アオジロウ。変わらない。』


『ムラマル。葉のうらを見た。何もいない。』


『モリタン。少しのびた気がする。印をつけた。』


『オカエリ。変わらない。』


『キズナ。つぼみが小さい。』


 フローラの指が、キズナのところで止まる。


 自分が森を出た翌日。


 もう。


 小さな蕾があった。


 出発前に見落としたのか。


 その日にできたのか。


 分からない。


 けれど。


 誰かが見つけた。


 誰かが残した。


「私がいなくても、見つけられました」


「はい」


 ミナが答える。


 嬉しい。


 少し寂しい。


 自分が最初に見たかった。


 でも。


 自分がいないからこそ。


 誰かが見てくれた。


 どちらも。


 本当。


     ◇


 次の行。


『水は朝に少し。』


『昼、雨がふりそうだったけど、ふらなかった。』


『子ども二人が、どっちが最初に葉のうらを見るかでけんか。』


 フローラは目を瞬く。


『ガルドさんが、順番に見ろと言った。』


 さらに。


『そのあと、ガルドさんが自分で先に見た。』


 フローラの口元が動く。


「ガルドさん」


「急いでいたのでしょう」


「子どもへ順番と言ったあとです」


「はい」


「明日、聞きます」


     ◇


 紙の端。


 小さな絵。


 豆。


 太陽。


 支柱。


 その横。


『フローラさま、王都でごはん食べたかな。』


 フローラは声を止めた。


 森を出た翌日。


 馬車。


 街道。


 宿。


 不安。


 でも。


 食べた。


 豆パン。


 温かなスープ。


 少しだけ。


 森では。


 子どもが。


 自分がご飯を食べたか心配していた。


「食べました」


 フローラは紙へ言った。


「ちゃんと」


 返事はない。


 でも。


 言いたかった。


     ◇


『夜。豆はみんな大丈夫。』


『ガルドさんが、大鍋を見ていた。』


『使わなかった。』


 リオが窓辺から言う。


「まだ焦がしてない」


「最初の日ですから」


「二回の前」


「一回です」


 フローラは訂正した。


 それでも。


 笑った。


     ◇


 裏面。


 少し整った大人の字。


『姫君様が不在のため、観察は朝夕二回。子どもたちが見たものは、必ず大人が一度確認する。分からないことは、分からないと書く。姫君様が戻られた時、こちらで勝手に答えを決めておかない。』


 フローラは、その一文を何度も読んだ。


「こちらで勝手に答えを決めておかない」


 自分がいない間。


 誰かが。


 見つけたことを。


 正しい形へ整えすぎない。


 分からないものを。


 分からないまま残す。


 今。


 オカエリの黄色い葉。


 同じ。


「ガルドさんでしょうか」


「村長かもしれません」


「レナードさんかもしれません」


「はい」


 誰が書いたか。


 分からない。


 でも。


 みんなが守った。


     ◇


 その下。


『今日は、姫君様がいない最初の日。』


『畑は、いつもと同じように見える。』


『でも、見る人が多くて、いつもより賑やか。』


『待つ日は、静かだと思っていたが、そうでもない。』


 フローラは読み終えたあと、しばらく黙っていた。


 待つ日。


 静かではない。


 畑を見る。


 喧嘩する。


 順番を決める。


 ご飯を心配する。


 大鍋を見る。


 笑う。


 待つ。


「私がいない間も、暮らしていました」


「はい」


「止まっていたわけではありません」


「はい」


「でも、その暮らしの中に」


 紙へ触れる。


「私が帰ることも入っていました」


「はい」


     ◇


 フローラは、すぐに紙を閉じなかった。


 自分が王都へ向かっていた日。


 森で流れていた日。


 同じ一日。


 違う場所。


 今。


 紙の上で重なる。


 続きを読みたい。


 明日。


 次の日。


 その次。


 でも。


「今日は、ここまでです」


 リオが振り返る。


「続き気になる」


「私もです」


「じゃあ読む」


「読みません」


「理由があれば順番変えていい」


 朝。


 畑で言った。


 リオは覚えていた。


 フローラは少し黙る。


「気になるだけなら、全部読んでしまいます」


「うん」


「今日は、最初の日を持ちます」


「紙を?」


「心の中へ」


「紙は?」


「夕方、返します」


 リオは納得したような、していないような顔で頷いた。


     ◇


 昼前。


 再び畑へ向かう。


 霧は消え、朝より光が強い。


 オカエリの黄色い葉は、朝より濃く見えた。


 でも。


 昨日の昼も。


 同じように見えた。


「光かもしれません」


 フローラが言う。


「黄色が広がったわけでは?」


 ガルド。


「朝の記録と比べる限り、大きくは広がっていません」


 土。


 朝より表面が乾き始めている。


 中はまだ湿っている。


「水は、まだ与えません」


「夕方まで?」


「はい。夕方にもう一度見ます」


 子どもたちが影の記録札を持ってきた。


「まだ来てない!」


「ここまで!」


 影の端。


 オカエリの葉へ少しずつ近づいている。


 みんなで待つ。


 太陽が上がる。


 隣葉の影が、ゆっくり動く。


 黄色い葉の端へ。


 触れる。


「今です」


 札へ印。


「昼ごはんの前」


 正確な時間ではない。


 でも。


 後から分かる。


「影が原因?」


 子どもが聞く。


「まだ分かりません」


「でも、影は来た」


「はい。それは分かりました」


「一つ分かった?」


「はい」


 答えではない。


 違い。


 一つ。


     ◇


 午後。


 フローラは家で少し休んだ。


 昨日は、畑へ行きたい気持ちのまま何度も往復した。


 今日は。


 昼食後、寝台へ横になる。


 眠らなくてもよい。


 身体を休める。


「誰かが見ています」


 ミナが言う。


「はい」


「何かあれば、知らせが来ます」


「はい」


「来なければ」


「大きな変化がない可能性が高いです」


「はい」


 畑へ行かない。


 それも。


 畑を見ることの一部。


     ◇


 少し眠った。


 目を覚ますと、窓の光が変わっている。


 誰も来ていない。


 大きな変化はない。


 その事実へ、フローラは少し安心した。


 夕方。


 再び畑へ行く。


 オカエリの黄色い範囲。


 朝から大きな広がりはない。


 土の表面は乾いているが、指を入れれば中に湿りが残る。


 水。


 今日も与えない。


 明日の朝。


 乾き方を見る。


 影は、昼食後に少しして外れたという。


「今日だけでは、原因は分かりません」


 ガルドが言う。


「はい」


「明日も?」


「はい」


「何日くらい?」


「変化が出るまで」


 待つ。


 でも。


 見ている。


     ◇


 キズナの花は、夕方になると少し閉じ始めていた。


「眠る」


 子どもが言う。


「昨日も、同じくらいの時間に閉じました」


「じゃあ、夜は寝る?」


「そう見えます」


「分かった?」


「二日続きました」


「まだ?」


「もう少し見ます」


 子どもは少し不満そうだったが、それでも花を覗き込む。


「ずっと分からないね」


「少しずつ分かります」


 全部ではない。


 でも。


 昨日より。


 今日。


     ◇


 記録板へ書く。


『オカエリ。黄色い範囲に大きな広がりは見えない。朝は霧で薄く、昼と夕方は濃く見えた。葉脈は緑。土は朝に湿り、夕方には表面だけ乾いた。水は与えず。隣葉の影は昼前から昼食後まで。原因はまだ不明。』


 その下。


『黄色い葉を見て、何かをしたくなった。今日は水も支柱も変えなかった。』


 さらに。


『待つことは、何もしないことではない。見て、比べることも、待つことに入る。』


 フローラは筆を止めた。


「長い」


 リオが覗き込む。


「必要です」


「石は?」


「書きません」


「花と会った」


「昨日も書きました」


「今日も会った」


 フローラは少し考え、紙の端へ小さく書き足した。


『リオは、王宮の石を今日もキズナへ見せた。』


「書きました」


「うん」


     ◇


 観察帳の最初の日を、ガルドへ返す。


「明日は、次の日を借ります」


「承知しました」


「全部持って帰らなくてよろしいのですか」


「はい」


「途中が気になって眠れなくなりませんか」


「少し気になります」


「では」


「でも、待ちます」


 ガルドが静かに頷いた。


「姫君様がいらっしゃらない間、私たちも待ちました」


「はい」


「今度は、記録が待つのですね」


「はい」


 フローラは紙を見つめた。


「待たせても、なくなりません」


     ◇


 夕方の道を、家へ戻る。


 空は淡い橙色。


 霧はもうない。


 木々の影が長く伸び、朝とは違う森を作っている。


 待つ日は、静かではない。


 観察帳の言葉。


 自分も。


 王都で森へ帰る日を待ちながら。


 何もしていなかったわけではない。


 母へ会った。


 父へ会った。


 豆を見た。


 手紙を読んだ。


 読まなかった。


 泣いた。


 笑った。


 選んだ。


 森では。


 畑を見た。


 喧嘩した。


 大鍋を見た。


 ご飯を心配した。


 暮らした。


「待つ日も、暮らしです」


 フローラが言う。


 ミナが頷いた。


「はい」


     ◇


 夕食は、根菜の煮込みと少しの肉だった。


 リオは鍋の中を覗き込み、不満そうに言う。


「豆、少ない」


「毎日、豆だけではありません」


「寂しい」


「明日は少し増やします」


「うん」


 オカエリの黄色い葉は、頭の中へ残っている。


 でも。


 食べる。


 休む。


 話す。


 畑だけではない。


 これも。


 森の暮らし。


     ◇


 食後。


 王都の箱へ近づく。


 今日も、蓋は閉じたまま。


 フローラは、その上へ手を置いた。


「今日は、森の記録を読みました」


 母の手紙へ。


 若い侍女の手紙へ。


 白鈴草の種へ。


「明日も、たぶん、森の記録を先に読みます」


 返事はない。


「待っていてください」


 手を離す。


     ◇


 寝る前。


 花守り布へ、新しい紙を入れる。


『黄色い葉へ、まだ答えを出さなかった。』


『待つ日は、静かではない。』


『見て、比べることも、待つことに入る。』


 三つ。


 それだけ。


     ◇


 寝台へ入る。


 身体は、昨日より少し楽だった。


 午後。


 休んだ。


 畑へ行かない時間を作った。


 それでも。


 オカエリはなくならなかった。


 誰かが見ていた。


 影の印が残った。


「おやすみなさい、オカエリ」


 黄色い葉。


「明日も見ます」


 キズナ。


「おやすみなさい」


 薄い青の花。


 青豆一号。


 アオジロウ。


 ムラマル。


 モリタン。


 一株ずつ。


 そして。


「記録を、ありがとうございます」


 自分がいなかった最初の日。


 ご飯を食べたか。


 心配されていた。


「食べました」


 もう一度。


 紙へ届かない声で言う。


     ◇


 黄色い葉が、明日どうなっているか。


 怖い。


 でも。


 怖いまま。


 眠る。


 夜の間まで、葉の前に立ってはいられない。


 自分も休む。


 畑も。


 森も。


 暗い時間を過ごす。


「明日」


 また見る。


 答えを急がず。


 それでも、見失わず。


 フローラは、待つことの中にも観察と選択と暮らしがあるのだと知りながら、森へ帰って三度目の夜へ、静かに目を閉じた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。