第92話 青の姫君、黄色い葉に答えを急がない
森へ帰ってから、二度目の朝だった。
フローラが目を覚ました時、窓の向こうには白い霧が残っていた。昨夜のうちに冷えた空気が森の低い場所へ溜まり、家の周囲に立つ木々の幹を、途中から淡く曖昧にしている。葉先から落ちた雫が、屋根や地面へ小さな音を立て、その合間を縫うように、まだ眠たそうな鳥の声が一つ、また一つと増えていた。
フローラは寝台の中で目を開いたまま、しばらく天井を見上げていた。
昨日、畑へ帰った。
青豆一号には新しい葉が二枚増え、アオジロウの支柱は高くなっていた。ムラマルの葉を食べていた青い虫は瓶の中で観察され、モリタンの成長は、子どもたちの曲がった線と印によって丁寧に残されていた。
キズナには、薄い青の花が咲いていた。
そして。
オカエリの下葉は、二枚だけ、縁から黄色くなっていた。
昨日の朝。
昼。
夕方。
何度も見た。
けれど、原因は分からなかった。
水かもしれない。影かもしれない。土の状態かもしれない。根かもしれないし、虫が見えない場所にいるのかもしれない。
何かをすべきなのではないか。
水を足す。
支柱を動かす。
葉を切る。
根元を掘る。
自分が戻ってきたのだから、すぐにでも治してやらなければならないのではないか。
そんな気持ちは、昨日からずっと胸の奥にあった。
フローラは毛布の上へ両手を置いた。
「まだ、見ていません」
今朝のオカエリを。
悪くなったとも。
良くなったとも。
まだ決められない。
「まず、見ます」
そう声にした途端、胸の中で動いていた不安が、ほんの少しだけ形を持った。
消えたわけではない。
けれど、怖いという気持ちと、今分かっていることを、同じものにしなくて済む。
◇
フローラはゆっくりと身体を起こした。
昨日は、朝、昼、夕方と三度畑へ行った。森へ帰った嬉しさも、キズナの花を見た感動も、みんなが残してくれた記録も、一度に胸へ入ってきた。
身体は正直だった。
腕に重さがある。脚にも少し張りが残っている。頭痛はなく、息も苦しくないが、何度もしゃがみ、立ち、畑と家を往復した疲れは、きちんと残っていた。
「今日は、昨日より少し休みます」
畑を見ること。
休むこと。
どちらか一つではない。
長く見続けるためには、自分の身体も見なければならない。
フローラは寝台から足を下ろし、床の冷たさを確かめた。王都の客室よりも硬く、宿の床よりも馴染み深い。足裏から伝わる感触だけで、ここが自分の家なのだと分かる。
机の端には、王都から持ち帰った箱が置かれていた。
母からの手紙。
若い侍女からの手紙。
白鈴草の種。
刺繍糸。
母と父から受け取った言葉を三文ずつ選び、書き残した紙。
昨日も開けなかった。
今日も、蓋は閉じたままにする。
「待っていてください」
箱へ向けて、静かに言う。
「今日は、昨日から待っている葉を見ます」
母の言葉を捨てるのではない。
王都を拒むのでもない。
今は、森で先に見なければならないものがある。
それを選ぶ。
◇
隣の部屋から、器の触れ合う音が聞こえた。
ミナが起きている。
その少しあと、リオの声がした。
「石がない」
「窓辺の右側です」
「ない」
「昨日、布の横へ置きました」
「左にある」
「では、見つかっていますね」
「いた」
フローラは、思わず小さく笑った。
王宮から持ち帰った丸い石。
リオは昨日、キズナの薄青い花へ見せていた。
王宮の石と森の花が会った。
リオは、そう言った。
意味があるのかは分からない。
けれど、フローラは、その言葉を嫌いではなかった。
◇
畑仕事用の服へ着替える。
昨日着た上着の袖には、まだ少し土が残っていた。指で払えば細かな粒が落ちるが、全部は消えない。
洗ってから着るほどでもない。
今日もまた、土はつく。
フローラはそのまま袖を通した。
髪を編む手は、少し急いでいた。毛束を分ける指が乱れ、途中で一度、編み目が崩れる。
早く畑へ行きたい。
オカエリを見たい。
黄色が広がっていないか、確かめたい。
フローラは髪をほどき、もう一度、最初から編み直した。
急いでいる自分を責めるのではなく、手を少しだけゆっくり動かす。
鏡の中。
青い髪。
森の服。
昨日と同じ自分。
でも、昨日より一日分、森へ戻っている。
◇
食卓では、リオが王宮の石を膝の上へ置いていた。
皿の横ではない。
「今日は、食卓へ置かないのですね」
「落ちるから」
「昨日、落としましたか」
「夜に一回」
ミナが茶を注ぎながら頷いた。
「窓辺から床へ落ちました。石も床も、傷はありません」
「それならよかったです」
リオは石を両手で包んだまま、フローラを見る。
「今日も畑へ持っていく」
「キズナへ見せるだけです」
「うん」
「オカエリの近くへは置きません」
「置かない」
「勝手に土へ埋めるのも駄目です」
「埋めない」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんでは困ります」
ミナが小さく笑う。
朝食は麦粥と焼いた根菜、それから昨夜作った豆の塗りものだった。
王宮の料理人ヘルマンから教わった作り方を、森の豆と香草で作り直したもの。王宮で食べたものより豆の皮が少し残り、油も少なく、香草の香りは強い。
同じ作り方でも、同じ味にはならない。
フローラはパンへ薄く塗り、一口食べた。
「昨日より、味が分かります」
「昨日は、畑のことが胸へ入りすぎておられましたから」
ミナの言葉に、フローラは頷いた。
「キズナの花も、オカエリの葉も、みんなの記録も、一度に見ました」
「はい」
「嬉しいことも、多いと疲れます」
「はい」
嬉しいから、休まなくてよいわけではない。
悲しいから、食べられないと決まるわけでもない。
フローラは麦粥を口へ運び、いつもより丁寧に噛んだ。
けれど、視線は何度も窓へ向かう。
霧。
薄い光。
畑はここから見えない。
「窓を何度見ても、オカエリは見えません」
「はい」
ミナは叱らず、ただ答えた。
「今は食べます」
「はい」
◇
朝食を終えたあと、フローラは器を一つだけ運んだ。
ミナが片づけると言ったが、昨日と同じように、急いでいる時ほど、いつもの暮らしを一つ行うことにした。
「今日は一つですか」
「はい」
「昨日も一つでした」
「同じでよいです」
急いでいる自分を無理に止める必要はない。
畑へ行きたい。
その気持ちを持ったまま、皿を一枚運ぶ。
それだけでも、昨日までの暮らしへ戻る道になる。
◇
家を出ると、湿った空気が頬へ触れた。
霧はまだ残り、遠くの木々をぼかしている。地面の表面は濡れていたが、雨が降ったわけではない。葉や枝から落ちた露が土へ染み、道の一部を暗くしている。
リオは王宮の石を両手で抱え、ミナは記録板と布袋を持っている。
フローラは歩きながら、昨日の観察帳を思い出した。
みんなが残してくれた記録。
植物の成長だけではない。
誰が見た。
誰が転びかけた。
誰が鍋を焦がした。
誰が笑った。
自分がいない間の暮らし。
「今日は、観察帳を一日分だけ借ります」
フローラが言うと、ミナが尋ねた。
「最初の日からですか」
「はい。私が森を出た翌日から」
一日ずつ。
全部を一度に読まない。
自分がいなかった時間も、急いで追いつかなくてよい。
◇
畑の近くまで来ると、子どもたちの声が霧の向こうから聞こえた。
「まだ開けるな!」
「見ただけ!」
「触った?」
「触ってない!」
「ガルドさんが来るまで待つんだって!」
「もう後ろにいる!」
「うわっ!」
続いて、大人たちの笑い声が起こる。
フローラが姿を見せると、子どもたちは一斉に振り返った。
「フローラ様!」
「おはよう!」
「花、まだあるよ!」
「虫も!」
「黄色い葉もある!」
「一度に言わないでください」
そう返しながら、フローラの口元にも笑みが浮かぶ。
「おはようございます」
「おはようございます!」
声が重なった。
昨日より人数は少ない。
帰還翌日のように、村中の人が待っているわけではない。
畑へ来た者。
村の仕事へ向かった者。
家事をしている者。
子どもを見ている者。
それぞれの朝がある。
少しだけ寂しい。
でも、それでよい。
フローラが戻ってきたからといって、みんなの暮らしが再び彼女だけを中心に回る必要はない。
「今日は、いつもの朝です」
小さく言うと、ガルドが首を傾げた。
「何か?」
「いいえ。よい朝だと思いました」
◇
「おはようございます、フローラ様」
ガルドは、昨日より少し眠そうだった。
「眠れましたか」
「はい」
「鍋のことを考えて?」
「考えておりません」
「二回焦がしたことを?」
「一回です!」
「二回」
リオが横から言う。
「お前はなぜ毎回増やす!」
子どもたちが笑う。
胸にあった緊張が、少しほどける。
オカエリを見たい。
怖い。
その気持ちがあっても、笑うことはできる。
◇
柵の前で、フローラは一度立ち止まった。
「今日は、オカエリから見ます」
昨日は、キズナの花を最初に見たい気持ちを抑え、いつもの順番で青豆一号から観察した。
けれど、今日は目的が違う。
昨日からの変化を、朝の光の中で確かめる。
「順番、変えていいの?」
子どもが尋ねる。
「はい。今日は理由があります」
「理由があれば変えていい?」
「必要なものを先に見るためなら」
「理由がない時は?」
「いつもの順番が分かりやすいです」
子どもは少し考え、頷いた。
◇
柵を開ける。
畑の土は、昨日よりしっとりしていた。
雨は降っていない。
霧と露。
表面に水分が残っている。
フローラはオカエリの前まで歩いたが、すぐにはしゃがまなかった。
まず、少し離れた場所から見る。
光。
周囲の影。
隣の葉。
黄色くなった下葉二枚。
昨日の朝より、薄く見える。
胸が少し軽くなる。
でも。
今日は霧が濃い。
光が弱い。
色が違って見えるだけかもしれない。
「昨日より、薄い?」
子どもが小声で言った。
「まだ、決めません」
フローラは答え、ミナから昨日の記録を受け取った。
朝。
昼。
夕方。
書いた色の変化。
絵。
線。
言葉。
葉と紙を、何度も見比べる。
「黄色い範囲は、大きく広がっていないように見えます」
ガルドが小さく息を吐いた。
子どもたちの肩も、少し下がる。
「でも、良くなったともまだ言えません」
フローラは続けた。
「今日は光が弱いです。昨日の昼や夕方と同じ見え方ではありません」
安心したい。
大丈夫だと言いたい。
けれど、安心も答えを急ぐことがある。
◇
フローラはしゃがみ、葉へ触れる前に表と裏を見た。
黄色は、葉の縁から内側へ向かっている。
境目は曖昧。
茶色い斑点はない。
虫食いの穴も増えていない。
葉の裏に虫は見えず、卵らしいものもない。
茎は、昨日と同じようにしっかりしている。
「葉脈は、緑です」
フローラが言うと、ガルドが記録板へ書こうとして止まった。
「昨日は?」
「書いていません」
フローラの指も止まる。
昨日。
黄色い部分ばかり見ていた。
葉脈の色を、記録していなかった。
「昨日は見落としました」
「私たちもです」
ガルドの声が重くなる。
失敗したと思っている。
フローラは、葉へ視線を戻した。
「昨日へ戻ることはできません」
「はい」
「今日から書きます」
「はい」
見落としたことを隠さない。
分からないものを、後から分かったことにしない。
◇
葉へ指の腹をそっと当てる。
柔らかすぎない。
乾いてもいない。
裏側も崩れない。
根元へ顔を近づけ、匂いを確かめる。
湿った土の匂い。
腐りのような強い臭いはない。
表面へ指を入れる。
第一関節。
湿っている。
第二関節。
冷たさが残る。
「昨日の朝より、表面が湿っています」
「水は与えておりません」
ガルドが答えた。
「霧と露だと思います」
「それだけで?」
「畑の場所によっては、表面へ残ります」
子どもが身を乗り出す。
「水、いらない?」
「今は、すぐには与えません」
「乾いたら?」
「また見ます」
待つ。
でも、放っておくのではない。
◇
フローラはオカエリの周囲へ視線を移した。
隣の株。
支柱。
伸びた葉。
午後になると、その葉の影がオカエリへかかる。
昨日。
そう見えた。
けれど、何時から何時まで。
どれくらい続くか。
風で外れるか。
そこまでは分からない。
「影を見たいです」
フローラが言うと、子どもたちが一斉に手を上げた。
「俺が見る!」
「私も!」
「ずっとここにいる!」
「ずっとは困ります」
「遊びながら見る!」
「忘れます」
「忘れない!」
ガルドが咳払いをする。
「交代にしましょう」
フローラは頷いた。
「午前、昼、午後で、違う人が見てください。影が黄色い葉へかかり始めた時と、離れた時に印をつけます」
「鐘ないよ」
「食事の前後と、空の位置でよいです」
「正確じゃなくても?」
「分かる形で残してください」
文字が書けなければ印。
絵。
線。
使える記録でよい。
◇
土をもう少し見る。
根元の片側に、小さな窪みがあった。
昨日も見た。
でも、いつできたかは分からない。
「水が流れた跡でしょうか」
ガルドがしゃがむ。
「可能性はあります」
「前に水を与えた時?」
「三日前でした」
記録を確認する。
三日前。
少なめ。
その前。
水なし。
さらに前。
雨。
多すぎるようには見えない。
少なすぎるとも、まだ決められない。
「根を見ますか」
ガルドの問いに、フローラは窪みを見つめた。
掘れば。
分かることが増えるかもしれない。
でも、根を傷つけるかもしれない。
怖い。
だから見たい。
その気持ちがある。
「今日は掘りません」
「はい」
「明日の朝、黄色い範囲が広がっていたら、根元から離れた場所の土を少しだけ見ます」
「全部ではなく?」
「はい。いきなり根を出しません」
段階を踏む。
今できること。
まだしないこと。
◇
「病気かな」
小さな男の子が、不安そうに聞いた。
「まだ分かりません」
「死ぬ?」
その言葉に、周囲が静かになる。
フローラも、一瞬、息が止まりそうになった。
オカエリ。
帰るという名前をつけた株。
自分が戻った日に、黄色い葉を見た。
失いたくない。
でも。
安心させるための嘘は言えない。
「今は、立っています」
フローラはゆっくり答えた。
「葉も全部黄色ではありません。茎も、まだしっかりしています」
「じゃあ大丈夫?」
「今すぐ枯れるとは思いません」
「絶対?」
「絶対とは言えません」
子どもの顔が曇る。
フローラは続けた。
「でも、私たちは見ています。変わったら気づけます。気づいたら、できることを考えます」
「怖くない?」
フローラは少し黙った。
「怖いです」
ガルドも。
ミナも。
子どもたちも。
黙って聞いている。
「黄色い葉を見ると、何かをすぐしなければと思います。でも、怖いから水を増やしたり、怖いから根を掘ったりすると、違うことをしてしまうかもしれません」
「じゃあ、何もしない?」
「見ます」
フローラは葉へ視線を戻した。
「見て、比べます。今日は、それをします」
男の子は少し考えてから、頷いた。
「俺も見る」
「お願いします」
◇
朝の記録を書く。
『霧。表面湿り。下葉二枚の黄色い範囲は、昨日の夕方から大きく広がったようには見えない。ただし光が弱く、色の比較は難しい。葉脈は緑。虫と卵は見つからない。茎は大きな変化なし。根元片側に小さな窪み。原因不明。隣の葉の影がかかる時間を観察する。』
そこまで書き。
フローラは少し迷ってから、さらに一行を加えた。
『黄色い葉を見て、私は少し怖い。』
ガルドが記録を読み、目を上げる。
「気持ちも書かれるのですか」
「はい」
「植物の変化ではありません」
「でも、判断へ影響します」
怖いから。
水を増やしたくなる。
葉を切りたくなる。
掘りたくなる。
自分がどんな気持ちで見たか。
それも、残す。
「怖かったことを忘れると、あとで、自分がなぜ急いだか分からなくなるかもしれません」
「なるほど」
ガルドは静かに頷いた。
◇
次に、キズナを見る。
薄い青の花は、朝霧の中で少し閉じていた。
昨日の朝も、同じだった。
昼には、もう少し開いた。
花びらの先には露がつき、光を受けて小さく揺れている。
「寝てる」
子どもが言う。
「そう見えます」
「昼に起きる?」
「昨日は、昨日の昼に開きました」
「今日も?」
「見ます」
「また分からない?」
「はい。でも、昨日より一日分は知っています」
全部分からない。
でも、何も分からないわけではない。
少しずつ。
同じ動きが続けば、分かることも増える。
◇
リオが王宮の石を持ち上げた。
「おはよう」
花へ向けて言う。
「石が言うのですか」
「うん」
「昨日、会いました」
「今日は朝だから」
「毎日会わせるのですか」
「花がいる間」
フローラは薄青い花を見る。
いつまで咲くか。
分からない。
「手で持ったままにしてください」
「重い」
「なら、袋へ戻してください」
「花が見えない」
「少しだけです」
リオは両手で石を持ち直し、花の正面へ向けた。
「見た」
「はい」
◇
青豆一号。
新しい葉は、昨日より少し開いている。
アオジロウ。
紐の位置に大きな変化はない。
ムラマル。
虫食いの跡は増えていない。
瓶の中の青い虫三匹は、まだ動いている。
モリタン。
朝だけでは、伸びたか分からない。
「変わらないものも、書く?」
子どもが尋ねる。
「書きます」
「何もないのに?」
「昨日と同じように見えたことが分かります」
「つまらない」
「あとで、大切になることがあります」
「鍋も?」
「鍋は畑の変化ではありません」
「でも前は、いいって言った!」
「毎日、鍋だけ書くのは違います」
笑いが起こる。
ガルドだけが不満そうな顔をしていた。
◇
観察を終える頃には、霧が少し薄くなっていた。
フローラは、ガルドから分厚い観察帳を受け取るのではなく、最初の日の紙だけを外してもらった。
二枚。
自分が森を出た翌日。
それだけ。
「本当に一日分だけでよろしいのですか」
ガルドが尋ねる。
「はい」
「続きもございます」
「知っています」
「気になりませんか」
「気になります」
「では」
「だから、一日ずつです」
子どもたちが笑う。
「全部読むと思ってた!」
「夜まで!」
「寝ないかも!」
「寝ます」
自分でも。
全部持ち帰れば。
止まらなくなるかもしれない。
王都で過ごしていた日々。
森で流れていた日々。
全部、一度に重ねたくなる。
でも。
今日は、最初の日。
それだけ。
◇
畑を出る前に、役割を確認する。
午前の影を見る子。
昼に交代する子。
午後。
大人が一度確認する。
水は、フローラが昼に戻るまで与えない。
「雨が降ったら?」
「記録してください」
「霧も?」
「今朝の分は書きました」
「虫が来たら?」
「どの葉へ来たか」
「石は?」
リオが聞く。
「関係ありません」
「あるかも」
「今は調べません」
◇
家へ戻る道。
フローラは、観察帳の最初の二枚を胸へ抱えて歩いた。
紙は軽い。
でも。
自分がいなかった日の重さがある。
その日。
自分は王都へ向かっていた。
森では。
何があったのか。
誰が畑を見たのか。
何を考えたのか。
「今、読みますか」
ミナが尋ねる。
「家で」
「はい」
「座って」
「はい」
「茶を飲んでから」
「はい」
持ち帰ったから。
すぐ開く必要はない。
◇
森の家へ着く。
「ただいま」
朝の畑から。
家へ。
リオが先に入って振り返る。
「お帰り」
「一緒に帰りました」
「うん」
「でも、ありがとうございます」
手を洗う。
指の間。
爪。
オカエリの葉へ触れた感触。
湿った土。
冷たい水。
昨日より、土は少ない。
今日は、まだ何も動かしていない。
◇
机。
森の茶。
観察帳の一日目。
王都の箱。
閉じたまま。
フローラは椅子へ座り、すぐには紙を開かなかった。
茶を一口。
温かい。
胸の奥。
オカエリ。
黄色。
霧。
葉脈。
子どもの「死ぬ?」という声。
不安。
まだ残っている。
「先に、少し休みます」
ミナが頷く。
「はい」
紙は待つ。
畑も。
王都の箱も。
全部。
自分が見るまで、消えない。
◇
茶を半分ほど飲んだところで、フローラは紙へ手を伸ばした。
「読みます」
ミナは少し離れた椅子へ座り、リオは窓辺へ石を置いた。
「声に出す?」
「読めるところは」
最初の紙。
大きく、少し曲がった文字。
『フローラさまが王都へ行ったつぎの日』
フローラはゆっくり読む。
『朝、ガルドさんが早かった。』
その下。
小さな字。
『本当はねむれなかった。』
横には、髭のある顔。
目の下に線。
「似ています」
ミナが笑う。
「明日、ガルドさんへ聞きます」
「聞かなくてもよろしいのでは?」
「記録ですから」
「はい」
◇
『青豆一号。変わらない。』
『アオジロウ。変わらない。』
『ムラマル。葉のうらを見た。何もいない。』
『モリタン。少しのびた気がする。印をつけた。』
『オカエリ。変わらない。』
『キズナ。つぼみが小さい。』
フローラの指が、キズナのところで止まる。
自分が森を出た翌日。
もう。
小さな蕾があった。
出発前に見落としたのか。
その日にできたのか。
分からない。
けれど。
誰かが見つけた。
誰かが残した。
「私がいなくても、見つけられました」
「はい」
ミナが答える。
嬉しい。
少し寂しい。
自分が最初に見たかった。
でも。
自分がいないからこそ。
誰かが見てくれた。
どちらも。
本当。
◇
次の行。
『水は朝に少し。』
『昼、雨がふりそうだったけど、ふらなかった。』
『子ども二人が、どっちが最初に葉のうらを見るかでけんか。』
フローラは目を瞬く。
『ガルドさんが、順番に見ろと言った。』
さらに。
『そのあと、ガルドさんが自分で先に見た。』
フローラの口元が動く。
「ガルドさん」
「急いでいたのでしょう」
「子どもへ順番と言ったあとです」
「はい」
「明日、聞きます」
◇
紙の端。
小さな絵。
豆。
太陽。
支柱。
その横。
『フローラさま、王都でごはん食べたかな。』
フローラは声を止めた。
森を出た翌日。
馬車。
街道。
宿。
不安。
でも。
食べた。
豆パン。
温かなスープ。
少しだけ。
森では。
子どもが。
自分がご飯を食べたか心配していた。
「食べました」
フローラは紙へ言った。
「ちゃんと」
返事はない。
でも。
言いたかった。
◇
『夜。豆はみんな大丈夫。』
『ガルドさんが、大鍋を見ていた。』
『使わなかった。』
リオが窓辺から言う。
「まだ焦がしてない」
「最初の日ですから」
「二回の前」
「一回です」
フローラは訂正した。
それでも。
笑った。
◇
裏面。
少し整った大人の字。
『姫君様が不在のため、観察は朝夕二回。子どもたちが見たものは、必ず大人が一度確認する。分からないことは、分からないと書く。姫君様が戻られた時、こちらで勝手に答えを決めておかない。』
フローラは、その一文を何度も読んだ。
「こちらで勝手に答えを決めておかない」
自分がいない間。
誰かが。
見つけたことを。
正しい形へ整えすぎない。
分からないものを。
分からないまま残す。
今。
オカエリの黄色い葉。
同じ。
「ガルドさんでしょうか」
「村長かもしれません」
「レナードさんかもしれません」
「はい」
誰が書いたか。
分からない。
でも。
みんなが守った。
◇
その下。
『今日は、姫君様がいない最初の日。』
『畑は、いつもと同じように見える。』
『でも、見る人が多くて、いつもより賑やか。』
『待つ日は、静かだと思っていたが、そうでもない。』
フローラは読み終えたあと、しばらく黙っていた。
待つ日。
静かではない。
畑を見る。
喧嘩する。
順番を決める。
ご飯を心配する。
大鍋を見る。
笑う。
待つ。
「私がいない間も、暮らしていました」
「はい」
「止まっていたわけではありません」
「はい」
「でも、その暮らしの中に」
紙へ触れる。
「私が帰ることも入っていました」
「はい」
◇
フローラは、すぐに紙を閉じなかった。
自分が王都へ向かっていた日。
森で流れていた日。
同じ一日。
違う場所。
今。
紙の上で重なる。
続きを読みたい。
明日。
次の日。
その次。
でも。
「今日は、ここまでです」
リオが振り返る。
「続き気になる」
「私もです」
「じゃあ読む」
「読みません」
「理由があれば順番変えていい」
朝。
畑で言った。
リオは覚えていた。
フローラは少し黙る。
「気になるだけなら、全部読んでしまいます」
「うん」
「今日は、最初の日を持ちます」
「紙を?」
「心の中へ」
「紙は?」
「夕方、返します」
リオは納得したような、していないような顔で頷いた。
◇
昼前。
再び畑へ向かう。
霧は消え、朝より光が強い。
オカエリの黄色い葉は、朝より濃く見えた。
でも。
昨日の昼も。
同じように見えた。
「光かもしれません」
フローラが言う。
「黄色が広がったわけでは?」
ガルド。
「朝の記録と比べる限り、大きくは広がっていません」
土。
朝より表面が乾き始めている。
中はまだ湿っている。
「水は、まだ与えません」
「夕方まで?」
「はい。夕方にもう一度見ます」
子どもたちが影の記録札を持ってきた。
「まだ来てない!」
「ここまで!」
影の端。
オカエリの葉へ少しずつ近づいている。
みんなで待つ。
太陽が上がる。
隣葉の影が、ゆっくり動く。
黄色い葉の端へ。
触れる。
「今です」
札へ印。
「昼ごはんの前」
正確な時間ではない。
でも。
後から分かる。
「影が原因?」
子どもが聞く。
「まだ分かりません」
「でも、影は来た」
「はい。それは分かりました」
「一つ分かった?」
「はい」
答えではない。
違い。
一つ。
◇
午後。
フローラは家で少し休んだ。
昨日は、畑へ行きたい気持ちのまま何度も往復した。
今日は。
昼食後、寝台へ横になる。
眠らなくてもよい。
身体を休める。
「誰かが見ています」
ミナが言う。
「はい」
「何かあれば、知らせが来ます」
「はい」
「来なければ」
「大きな変化がない可能性が高いです」
「はい」
畑へ行かない。
それも。
畑を見ることの一部。
◇
少し眠った。
目を覚ますと、窓の光が変わっている。
誰も来ていない。
大きな変化はない。
その事実へ、フローラは少し安心した。
夕方。
再び畑へ行く。
オカエリの黄色い範囲。
朝から大きな広がりはない。
土の表面は乾いているが、指を入れれば中に湿りが残る。
水。
今日も与えない。
明日の朝。
乾き方を見る。
影は、昼食後に少しして外れたという。
「今日だけでは、原因は分かりません」
ガルドが言う。
「はい」
「明日も?」
「はい」
「何日くらい?」
「変化が出るまで」
待つ。
でも。
見ている。
◇
キズナの花は、夕方になると少し閉じ始めていた。
「眠る」
子どもが言う。
「昨日も、同じくらいの時間に閉じました」
「じゃあ、夜は寝る?」
「そう見えます」
「分かった?」
「二日続きました」
「まだ?」
「もう少し見ます」
子どもは少し不満そうだったが、それでも花を覗き込む。
「ずっと分からないね」
「少しずつ分かります」
全部ではない。
でも。
昨日より。
今日。
◇
記録板へ書く。
『オカエリ。黄色い範囲に大きな広がりは見えない。朝は霧で薄く、昼と夕方は濃く見えた。葉脈は緑。土は朝に湿り、夕方には表面だけ乾いた。水は与えず。隣葉の影は昼前から昼食後まで。原因はまだ不明。』
その下。
『黄色い葉を見て、何かをしたくなった。今日は水も支柱も変えなかった。』
さらに。
『待つことは、何もしないことではない。見て、比べることも、待つことに入る。』
フローラは筆を止めた。
「長い」
リオが覗き込む。
「必要です」
「石は?」
「書きません」
「花と会った」
「昨日も書きました」
「今日も会った」
フローラは少し考え、紙の端へ小さく書き足した。
『リオは、王宮の石を今日もキズナへ見せた。』
「書きました」
「うん」
◇
観察帳の最初の日を、ガルドへ返す。
「明日は、次の日を借ります」
「承知しました」
「全部持って帰らなくてよろしいのですか」
「はい」
「途中が気になって眠れなくなりませんか」
「少し気になります」
「では」
「でも、待ちます」
ガルドが静かに頷いた。
「姫君様がいらっしゃらない間、私たちも待ちました」
「はい」
「今度は、記録が待つのですね」
「はい」
フローラは紙を見つめた。
「待たせても、なくなりません」
◇
夕方の道を、家へ戻る。
空は淡い橙色。
霧はもうない。
木々の影が長く伸び、朝とは違う森を作っている。
待つ日は、静かではない。
観察帳の言葉。
自分も。
王都で森へ帰る日を待ちながら。
何もしていなかったわけではない。
母へ会った。
父へ会った。
豆を見た。
手紙を読んだ。
読まなかった。
泣いた。
笑った。
選んだ。
森では。
畑を見た。
喧嘩した。
大鍋を見た。
ご飯を心配した。
暮らした。
「待つ日も、暮らしです」
フローラが言う。
ミナが頷いた。
「はい」
◇
夕食は、根菜の煮込みと少しの肉だった。
リオは鍋の中を覗き込み、不満そうに言う。
「豆、少ない」
「毎日、豆だけではありません」
「寂しい」
「明日は少し増やします」
「うん」
オカエリの黄色い葉は、頭の中へ残っている。
でも。
食べる。
休む。
話す。
畑だけではない。
これも。
森の暮らし。
◇
食後。
王都の箱へ近づく。
今日も、蓋は閉じたまま。
フローラは、その上へ手を置いた。
「今日は、森の記録を読みました」
母の手紙へ。
若い侍女の手紙へ。
白鈴草の種へ。
「明日も、たぶん、森の記録を先に読みます」
返事はない。
「待っていてください」
手を離す。
◇
寝る前。
花守り布へ、新しい紙を入れる。
『黄色い葉へ、まだ答えを出さなかった。』
『待つ日は、静かではない。』
『見て、比べることも、待つことに入る。』
三つ。
それだけ。
◇
寝台へ入る。
身体は、昨日より少し楽だった。
午後。
休んだ。
畑へ行かない時間を作った。
それでも。
オカエリはなくならなかった。
誰かが見ていた。
影の印が残った。
「おやすみなさい、オカエリ」
黄色い葉。
「明日も見ます」
キズナ。
「おやすみなさい」
薄い青の花。
青豆一号。
アオジロウ。
ムラマル。
モリタン。
一株ずつ。
そして。
「記録を、ありがとうございます」
自分がいなかった最初の日。
ご飯を食べたか。
心配されていた。
「食べました」
もう一度。
紙へ届かない声で言う。
◇
黄色い葉が、明日どうなっているか。
怖い。
でも。
怖いまま。
眠る。
夜の間まで、葉の前に立ってはいられない。
自分も休む。
畑も。
森も。
暗い時間を過ごす。
「明日」
また見る。
答えを急がず。
それでも、見失わず。
フローラは、待つことの中にも観察と選択と暮らしがあるのだと知りながら、森へ帰って三度目の夜へ、静かに目を閉じた。




