第91話 青の姫君、待っていた畑へただいまを言う
翌朝。
フローラは、鳥の声で目を覚ました。
王宮の朝にも鳥はいた。
高い窓の向こう。
整えられた庭の木々。
遠くから届く、細く澄んだ声。
宿の朝にもいた。
屋根の上。
納屋の近く。
人が動き出す前の空気へ、短い声を落としていた。
けれど。
今、聞こえている声は。
寝台のすぐそばにある小さな窓の向こうから、幾つも重なって届いていた。
枝が揺れる。
葉が擦れる。
遠くで沢が流れる。
森の家の壁が、風を受けて小さく鳴る。
自分の家の朝。
フローラは目を開いたまま、しばらく天井を見つめていた。
低い梁。
薄い影。
見慣れた木目。
王宮の天蓋ではない。
宿の黒ずんだ梁でもない。
森へ来てから、何度も見上げた天井。
「帰っています」
声にする。
昨日。
結界を越えた。
村へ帰った。
家へ帰った。
寝台へ入り。
眠った。
夢ではない。
「今日は、畑を見ます」
胸の奥が、一気に目を覚ました。
青豆一号。
葉が二枚増えた。
アオジロウ。
支柱が高くなった。
ムラマル。
葉の裏へ虫が三匹。
モリタン。
伸びた。
オカエリ。
葉が少し黄色い。
キズナ。
薄い青の花。
「花」
フローラは毛布の中で上半身を起こした。
今も咲いているだろうか。
ガルドさんは、昨夜の時点では咲いていると言った。
でも。
夜の風。
朝露。
虫。
花びら。
散っているかもしれない。
閉じているかもしれない。
傷んでいるかもしれない。
早く。
すぐに。
見たい。
毛布をめくる。
寝台から降りようとして。
フローラは止まった。
「急ぎません」
昨日。
何度も言った。
帰りたい時ほど。
一歩ずつ。
森へ帰ったからといって。
急ぐ癖まで消えたわけではない。
花が待っている。
畑が待っている。
記録が待っている。
でも。
自分の身体も。
起きたばかり。
「まず、確認します」
手を見る。
指先。
温かい。
握る。
開く。
腕。
少し重い。
昨日、箱を持って歩いた。
村まで。
家まで。
脚。
張っている。
頭。
痛くない。
胸。
速い。
でも、息はできる。
「見られます」
自分へ言う。
◇
隣の部屋から、小さな物音がした。
誰かが棚を開ける音。
器。
水。
ミナだろう。
リオは。
まだ静か。
昨夜、王宮の丸い石を窓辺へ置いた。
畑へ持っていくと言っていた。
あの石を持ったまま眠ってはいないはず。
フローラは村の毛布を丁寧に畳み、寝台の端へ置いた。
王都へ持っていった。
王都から持ち帰った。
でも。
今は、いつもの場所にある。
「戻りました」
毛布へ言う。
返事はない。
それでも。
言いたい。
◇
窓へ近づく。
外。
朝の森。
薄い霧。
家の前の土。
井戸。
薪。
その向こう。
畑へ続く細い道。
畑そのものは、木々に隠れて見えない。
でも。
あそこにある。
昨日まで。
フローラがいない間も。
育った。
待っていたという言葉が、正しいかは分からない。
植物は、フローラを待つために育つのではない。
日を受ける。
水を吸う。
根を伸ばす。
虫に食べられる。
葉を増やす。
花を咲かせる。
それでも。
「私は、待っていたと思います」
自分が。
畑へ戻る日を。
ずっと。
◇
机の端。
王都から持ち帰った小さな箱がある。
母様の手紙。
若い侍女の手紙。
白鈴草の種。
刺繍糸。
母様と父様の言葉を三文ずつ書いた紙。
蓋は閉じたまま。
今日は。
畑。
昨日、決めた。
フローラは箱へ触れなかった。
「待っていてください」
王都の言葉へ。
「今日は、森で待っていたものを見ます」
◇
扉が軽く叩かれた。
「ミナです」
「入ってください」
ミナが入る。
森で着ていたいつもの服。
髪には、王宮から持ち帰った灰色の紐が結ばれている。
森の服。
王都の紐。
混ざっている。
「おはようございます、フローラ様」
「おはようございます」
「よく眠れましたか」
「はい」
「夢は?」
「見ませんでした」
「はい」
「鳥の声で起きました」
「はい」
「森の鳥です」
ミナが少し笑う。
「そうですね」
「王都の鳥とは、違います」
「種類が違いますか」
「たぶん」
「たぶん?」
「声だけでは、全部は分かりません」
「はい」
分からない。
でも。
森の朝と感じる。
「今日は、畑へ行きます」
「はい」
「すぐに」
言って。
止まる。
「朝食のあとです」
「はい」
ミナの口元が少し緩む。
「昨日より、待てるようになられました」
「少しだけです」
「はい」
「でも、花が散るかもしれません」
「はい」
「キズナの」
「はい」
「食べながら考えると思います」
「それでも、召し上がってください」
「はい」
◇
着替え。
王都から持ち帰った三着のドレスは、箱の中。
今日は着ない。
森で畑仕事をする服。
土がついてもよいもの。
袖をまくりやすい。
裾は短い。
深い青の上着。
茶色のスカート。
丈夫な靴。
「戻りました」
服へ腕を通す。
身体が知っている。
紐を結ぶ位置。
袖の長さ。
重さ。
王宮の服は。
嫌いではなかった。
でも。
「畑には、こちらです」
髪を編む。
自分で。
今日は、昨日より少し整っている。
森の小さな鏡。
全体は見えない。
でも。
手が覚えている。
◇
花守り布。
内側の袋。
一つ目。
六つの言葉。
木の実。
二つ目。
帰った記録。
『今日、森へ戻る。』
『王都を出た。まだ途中。』
『森が見えた。待っていた声を聞いた。』
『今から、自分の足で結界を越える。』
『森へ帰った。村へ帰った。家へ帰った。』
フローラは最後の一文を指でなぞる。
「今日は、畑へ帰ります」
新しい紙を入れるか。
考える。
畑へ帰る。
家へ帰ったのだから、畑も家の一部。
でも。
自分にとっては。
別の場所。
別のただいま。
「見てから書きます」
◇
朝食の部屋へ入ると。
リオは、すでに食卓へ座っていた。
王宮の丸い石を、皿の横へ置いている。
「石も朝食ですか」
「違う」
「なぜ食卓に?」
「畑へ持っていく」
「食べ終わってからでよいでしょう」
「忘れる」
「昨日から忘れていません」
「今日忘れるかも」
「石は、逃げません」
リオは石を両手で包む。
「逃げるかもしれない」
「石が?」
「転がる」
「それは逃げるとは言いません」
ミナが笑う。
朝。
森の家。
いつもの会話。
胸の奥が、柔らかくなる。
◇
朝食は。
焼いたパン。
野菜のスープ。
昨夜の豆の煮込みを少し温め直したもの。
森の茶。
王宮から持ち帰った茶葉は、まだ開けない。
「豆です」
リオが言う。
「昨日も食べました」
「朝もいい」
「はい」
フローラは豆を一口食べる。
森の味。
昨夜より、少し濃い。
温め直したから。
「昨日と違います」
「同じ鍋ですが」
ミナが言う。
「時間が経ちました」
「はい」
「味も変わります」
「はい」
王都へ行く前の自分。
王都にいた自分。
帰った自分。
同じ。
でも。
時間が経った。
味が変わる。
「悪くありません」
「はい」
◇
朝食を食べながら。
フローラの視線は、何度も窓へ向かう。
空。
光。
畑の方向。
ミナは何も言わない。
リオは豆を食べる。
一口。
二口。
三口。
「急いでいますか」
ミナが尋ねる。
「少し」
「はい」
「でも、噛んでいます」
「はい」
「昨日より速いですか」
「少し」
フローラは匙を置いた。
息を吐く。
「花は、私が急いでも散る時は散ります」
「はい」
「急がなくても、残っている時は残っています」
「はい」
「でも」
「はい」
「見たいです」
「それでよいと思います」
急がないことは。
見たい気持ちを消すことではない。
待つことは。
何も望まないことではない。
フローラは、もう一度匙を持った。
◇
食事を終える。
器を片づける。
フローラも手伝おうとする。
「今日は、畑へ」
ミナが止める。
「でも」
「私が片づけます」
「全部任せてよいですか」
「はい」
「では」
少し考える。
「お願いします」
全部自分でしなくても。
畑へ行ける。
◇
外へ出る。
朝の空気。
冷たい。
昨日の夕方より、湿っている。
土は柔らかい。
家の前。
井戸の横。
足跡。
昨日、荷物を運んだ人々。
荷車。
自分。
たくさん。
「まだ残っています」
フローラが言う。
「雨が降らなかったから」
リオが答える。
「はい」
王宮の客室へ落ちた土。
清掃係の女性が。
誰かが暮らしていたように見えたと言った。
ここには。
人が来た跡。
迎えた跡。
帰った跡。
たくさん残っている。
◇
畑へ続く道。
フローラ。
リオ。
ミナ。
三人。
ガルドたちは、畑で待っているはず。
子どもたちも。
朝。
日の出より少しあと。
約束した。
道を歩く。
木の根。
昨日も通った。
でも。
今日は荷物がない。
脚は少し痛い。
それでも。
軽い。
「走りません」
フローラが言う。
「まだ何も言っていません」
ミナが答える。
「自分へ言いました」
「はい」
リオは少し前を歩く。
丸い石を持って。
「石を落とさないでください」
「うん」
「畑へ勝手に置かないでください」
「うん」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんでは困ります」
◇
道の先。
木々が開ける。
畑。
朝の光。
柵。
支柱。
葉。
土。
フローラの足が止まった。
王都へ行く前。
毎日見ていた。
朝。
昼。
夕方。
雨の日。
風の日。
変化を探した。
名前をつけた。
話しかけた。
今。
目の前。
畑は。
少し違う。
支柱が増えている。
紐の位置が変わっている。
葉が大きい。
色が濃い。
小さな札が増えている。
畑の端には、子どもたちが作った観察台。
木箱。
瓶。
記録板。
そして。
人。
ガルド。
村の子どもたち。
数人の大人。
レナード。
みんな。
フローラが来るのを待っていた。
「来た!」
「フローラ様!」
「畑!」
「花まだある!」
「虫も!」
「お帰り!」
声が飛ぶ。
フローラは、すぐに答えられなかった。
畑。
人。
待っていた。
胸が熱い。
目が潤む。
「ただいま」
小さく。
畑へ。
「ただいま戻りました」
今度は。
人々へ。
「お帰りなさい!」
また。
声が返る。
◇
フローラは、柵の前へ立つ。
すぐには入らない。
まず。
全体を見る。
土。
水。
葉。
支柱。
影。
風。
王宮の菜園でも。
最初に全体を見た。
今。
自分の畑。
「変わっています」
声が震える。
ガルドが頷く。
「はい」
「増えました」
「はい」
「減ったものは?」
「大きな被害はございません」
「大きな、ということは?」
「小さな虫食い」
「はい」
「一部、葉の黄変」
「はい」
「支柱の緩みが一度」
「はい」
「それから」
子どもが割り込む。
「ガルドさんが水やり忘れた!」
「忘れていない!」
「遅れた!」
「朝が昼になっただけだ!」
「忘れたのと同じ!」
「違う!」
笑い。
フローラも。
泣きそうなまま。
笑った。
◇
「入ります」
柵を開ける。
一歩。
畑の土。
柔らかい。
靴が少し沈む。
王宮の菜園。
街道の畑。
休憩所の赤茎菜。
いろいろ見た。
でも。
ここ。
自分の畑。
匂い。
土の感触。
支柱の並び。
全部。
「ただいま」
もう一度。
誰に向けるでもなく。
畑全体へ。
◇
最初に。
キズナを見たい。
薄い青の花。
でも。
順番。
青豆一号から。
いつも。
畑の端から順に見る。
キズナだけ先に見れば。
ほかを待たせる。
植物が気にするわけではない。
でも。
自分が。
いつもの順番で戻りたい。
「青豆一号から見ます」
子どもたちから不満の声。
「花先じゃないの?」
「まだあるよ!」
「散るかも!」
フローラの胸も揺れる。
でも。
「いつもの順番です」
ガルドが、少し笑う。
「承知しました」
◇
青豆一号。
葉が二枚増えた。
聞いた通り。
でも。
実際に見ると。
新しい葉は、古い葉より少し明るい。
縁が柔らかい。
葉脈は細い。
朝露。
表。
裏。
フローラはしゃがむ。
触れる前に見る。
虫。
傷。
色。
茎。
土。
「水は?」
「三日前の朝に少し多め、その後は控えました」
ガルドが答える。
「なぜ?」
「土の内側が乾いていたためです」
「どう見ましたか」
「指を第二関節まで」
「誰が?」
「私と」
子どもが手を上げる。
「私!」
「僕も!」
「全部で三人です」
「同じ場所?」
「少しずらしました」
「はい」
フローラは土へ指を入れる。
表面。
少し乾いている。
中。
湿り。
「よいです」
言うと。
子どもたちが顔を明るくする。
「本当?」
「はい」
「間違ってない?」
「今、見る限りでは」
「今?」
「明日は変わるかもしれません」
「うん!」
正しい。
間違い。
一度で決めない。
見る。
記録する。
◇
青豆一号の札。
横に。
小さな印が増えている。
「これは?」
「葉が増えた日です」
子どもが答える。
「字が書けなかったから、印」
「よいです」
「丸!」
「はい」
「二枚だから二つ!」
「分かりやすいです」
記録。
文字だけではない。
絵。
印。
自分たちが使える形。
「持って帰ってよかったです」
フローラが言う。
「何を?」
「私がいなくても、みんなが見られる方法を」
王都へ行く前。
観察を任せた。
戻るまで。
畑を止めないために。
今。
続いている。
◇
アオジロウ。
支柱が高くなっている。
蔓。
少し曲がりながら上へ。
新しい紐。
結び方。
フローラは、紐の位置を見る。
「これは、誰が?」
「私です」
村の女性が手を上げる。
「強く結びすぎていませんか」
「最初は、少し」
「最初?」
「翌朝、茎へ跡がつきそうでしたので緩めました」
「気づいたのは?」
「この子です」
小さな男の子。
胸を張る。
「曲がってた!」
「どこが?」
「ここ!」
茎の少し下。
今は跡が薄い。
「よく見ました」
「うん!」
「ありがとうございます」
子どもの顔が。
一瞬。
驚く。
「俺に?」
「はい」
「アオジロウを見てくれて」
「うん」
嬉しそうに笑う。
◇
ムラマル。
虫。
三匹。
葉の裏。
今は。
食べられた跡だけ。
小さな穴。
縁。
フローラは葉を持ち上げる。
「取りましたか」
「はい」
「潰しましたか」
「瓶へ」
「見せてください」
子どもたちが、待ってましたとばかりに木箱へ走る。
「走らないでください」
「すぐそこ!」
「転びます」
「転ばない!」
一人が根へ足を引っかける。
大人が支える。
「転びました」
「まだ転んでない!」
「転びかけました」
笑い。
瓶。
小さな青い虫。
三匹。
葉の欠片と一緒。
まだ動いている。
「生きています」
「うん」
「何を食べましたか」
「ムラマル」
「それ以外は?」
「入れてない」
「葉を少し入れた」
「毎日?」
「一日おき」
「なぜ?」
「忘れた」
正直。
「はい」
フローラは瓶を光へ透かす。
王宮の豆にいた虫とは違う。
形。
脚。
色。
「王都の虫と違います」
「王都にも虫いた?」
「はい」
「王宮に?」
「いました」
「王様の虫?」
「王様のものではありません」
「王宮の豆の虫」
「はい」
「強い?」
「分かりません」
「戦わせる?」
「戦わせません」
周囲が笑う。
◇
「この虫は、まだ名前が分かりません」
フローラが言う。
子どもがすぐに口を開く。
「青ムシ一号!」
「決めません」
「ムラカジリ!」
「まだです」
「三匹だから、ミツムシ!」
「名前は、調べてからです」
リオが横から言う。
「芽が出てから」
「虫は、もう出ています」
「じゃあ決める?」
「決めません」
また笑い。
「しばらく、観察します」
「逃がす?」
「今は瓶の中」
「食べる?」
「食べません」
「鳥に?」
「それも、まだ」
生き物。
畑を食べた。
害になるかもしれない。
でも。
今すぐ殺すと決めない。
見る。
◇
モリタン。
本当に。
伸びている。
子どもが両手を広げた長さでは、分からなかった。
でも。
記録札。
紐。
前の位置。
今の位置。
指二本分ほど。
「毎日、印を?」
「はい」
「雨の日も?」
「雨の日は、翌朝」
「なぜ?」
「濡れたから」
「何が?」
「俺たちが」
笑い。
「植物ではなく?」
「植物も」
「はい」
フローラは記録板を見る。
線。
日付。
絵。
曲がった文字。
雨の印。
鍋の絵。
なぜかガルドの顔。
「これは、畑の記録ですか」
「その日、ガルドさんが鍋焦がした」
「一回!」
「二回!」
「ここに二個描いてある!」
「一つは鍋で、一つは蓋だ!」
「蓋も焦げた?」
「焦げていない!」
フローラは。
笑いながら。
記録を見つめた。
自分が書く記録とは違う。
葉の長さ。
色。
水。
天気。
それだけではない。
誰が見た。
誰が転びかけた。
鍋。
笑い。
日々。
「よい記録です」
ガルドが驚く。
「本当に?」
「はい」
「鍋がありますが」
「畑を見た人たちが、何をしていたか分かります」
「必要ですか」
「私には」
フローラは紙へ触れる。
「嬉しいです」
◇
オカエリ。
葉が黄色い。
聞いていた。
でも。
実際に見ると。
下の葉。
二枚。
縁から。
少し。
全部ではない。
フローラはしゃがむ。
胸の笑いが消える。
見る。
葉。
茎。
土。
根元。
水。
「いつから?」
「四日前」
ガルドが答える。
「最初は?」
「縁が少し薄く」
「昨日は?」
「今より、わずかに少なかったと思います」
「思います?」
「色の見え方が、人によって違いました」
「記録は?」
差し出される。
色。
言葉。
『少し黄色』
『前より黄色』
『同じかもしれない』
『朝と夕方で違う』
誰も。
決めつけていない。
「よいです」
フローラが言う。
ガルドの肩の力が、少し抜ける。
「原因は?」
「分かりません」
みんなが答える。
フローラは。
少しだけ。
笑った。
「はい」
分からない。
守られている言葉。
◇
土へ指を入れる。
少し湿っている。
匂い。
根元。
腐りはない。
葉の裏。
虫は見えない。
茎。
柔らかすぎない。
「水は?」
「控えめに」
「日当たりは?」
「午前は変わりません。午後は、隣の葉が少し影を」
「いつから?」
「伸びてからです」
フローラは隣の支柱を見る。
影。
午後。
可能性。
でも。
「まだ分かりません」
「はい」
「今日、位置を変えますか」
ガルドが尋ねる。
フローラは考える。
すぐ直す。
原因を決める。
でも。
帰ったばかり。
今の状態を。
もう少し見る。
「今日は、触りません」
「はい」
「朝と昼と夕方」
「はい」
「色を見ます」
「はい」
「土の湿りも」
「はい」
「明日の朝」
「はい」
「変化を比べます」
待つ。
オカエリ。
名前。
帰る。
自分が戻った日に。
弱っているように見える。
胸が痛い。
「私がいなかったからではありません」
フローラが小さく言う。
ミナが、近くで聞く。
「はい」
「植物は、私を責めません」
「はい」
「でも」
葉へ触れないまま。
見つめる。
「戻った日に、黄色いのは、少し悲しいです」
「はい」
悲しい。
それだけ。
原因にしない。
◇
最後。
キズナ。
薄い青の花。
ここまで。
待った。
フローラは、ゆっくり立ち上がる。
胸が速い。
子どもたちが、黙る。
さっきまで。
笑い。
鍋。
虫。
大きな声。
今。
みんな。
キズナの前を空ける。
フローラは歩く。
一歩。
二歩。
葉の間。
支柱。
その先。
花。
咲いている。
薄い青。
朝の光。
花びらは五枚。
少し透ける。
中央に。
淡い白。
小さい。
王宮の白鈴草より。
ずっと。
でも。
青。
フローラの髪より薄く。
空より柔らかく。
森の朝霧の中へ、青を一滴落としたような色。
「咲いています」
声が震える。
「うん」
子どもが答える。
「待ってた」
花が。
待っていたわけではない。
でも。
その言葉を。
今は。
否定したくなかった。
「はい」
フローラはしゃがむ。
近くで見る。
花びら。
一枚。
少し端が欠けている。
朝露。
茎。
細い。
揺れる。
触れない。
息を近づけすぎない。
「いつ咲きましたか」
「一昨日の朝」
ガルドが答える。
「最初に見たのは?」
小さな女の子が手を上げる。
「私」
「何時?」
「朝」
「どれくらいの朝?」
「ご飯の前」
「空は?」
「まだ白かった」
「雨は?」
「降ってない」
「前の日は?」
「蕾」
「記録は?」
差し出される。
絵。
蕾。
次の日。
青い花。
青い色を出すものがなくて。
黒と白を薄く重ね。
横へ『あお』と書いてある。
「青に見えません」
フローラが言う。
「青い絵の具なかった!」
「はい」
「でも、あおって書いた!」
「分かります」
絵の下。
『フローラさまにみせる』
曲がった文字。
フローラの目から。
涙が落ちた。
◇
「見られました」
声が小さくなる。
「はい」
ミナ。
「散っていませんでした」
「はい」
「待っていてくれました」
「はい」
フローラは。
花へ。
「ありがとうございます」
言う。
花は返さない。
でも。
揺れる。
風。
「キズナ」
名前を呼ぶ。
王都へ行く前。
つけた名前。
母様とのこと。
人とのこと。
結ぶ。
でも。
縛るとは違う。
切れないと決めることでもない。
今。
薄い青の花。
「咲きました」
それだけで。
胸がいっぱいになる。
◇
子どもたちは。
フローラの周りへ。
でも。
近づきすぎない。
花を踏まない。
畑へ入る順番。
立つ場所。
覚えている。
「泣いてる」
「はい」
「悲しい?」
「嬉しいです」
「嬉しくても泣く?」
「はい」
「王都でも?」
「はい」
「いっぱい泣いた?」
「少し」
「いっぱいじゃん」
「少しです」
笑い。
涙。
混ざる。
◇
「触りますか」
ガルドが尋ねる。
フローラは手を見る。
花。
触れたい。
でも。
細い。
小さい。
今は。
「触りません」
「はい」
「見るだけです」
「はい」
「今日、咲いていたことを記録します」
「はい」
「私が、見たことも」
「はい」
自分がいない間に咲いた。
でも。
戻ったあと。
見られた。
両方。
◇
フローラは記録板の前へ座った。
自分の筆記具。
紙。
村のみんなの記録。
並べる。
青豆一号。
新葉二枚。
アオジロウ。
支柱延長。
結び目修正。
ムラマル。
青い虫三匹。
モリタン。
伸長。
オカエリ。
下葉二枚の黄変。
原因未確定。
キズナ。
薄青の花。
開花二日目。
そこまで書いて。
フローラは止まる。
いつもの記録。
でも。
今日は。
それだけでは足りない。
村のみんなの記録には。
鍋。
転びかけた子。
雨。
笑い。
自分がいなかった時間。
フローラも。
書く。
『王都から帰った翌朝。』
『村のみんなと一緒に畑を見た。』
『キズナの花は、まだ咲いていた。』
『私は、嬉しくて泣いた。』
筆を止める。
人。
気持ち。
記録へ。
今までなら。
書かなかったかもしれない。
「これも、必要ですか」
ガルドが尋ねる。
「はい」
「植物の変化ではありません」
「でも」
フローラは紙を見る。
「私が、どう見たかです」
「はい」
「同じ花でも」
王都へ行く前に見ていたら。
違ったかもしれない。
今。
帰ったあと。
薄い青。
キズナ。
「今日の記録です」
◇
リオが。
王宮の丸い石を持ったまま。
キズナの近くへ来る。
「置く?」
「置きません」
「少し」
「駄目です」
「王宮の石と森の花」
「近くで見せるだけです」
リオは石を花の少し離れた場所へ持ち上げる。
「会った」
「石と花が?」
「うん」
「分かりません」
「会った」
フローラは。
少し考える。
王宮から持ってきた石。
森で咲いた青い花。
同じ場所。
「はい」
小さく笑う。
「会いました」
でも。
「置きません」
「うん」
◇
午前の光が。
少し強くなる。
畑の影が変わる。
オカエリ。
黄色い葉。
キズナ。
青い花。
フローラは、何度も行き来しそうになる。
でも。
全部を一度に直さない。
全部を一度に見続けない。
「今日は、午前の観察を終えます」
子どもたちが驚く。
「もう?」
「もっと見る?」
「見たいです」
「じゃあ見る!」
「でも、休みます」
「なんで?」
「王都から帰った翌日だからです」
「疲れた?」
「少し」
「畑見ても?」
「嬉しくても、疲れます」
昨日。
言った。
嬉しさも多いと苦しくなる。
今。
同じ。
「昼に、もう一度来ます」
「本当?」
「はい」
「オカエリ見る?」
「はい」
「花も?」
「はい」
「虫も?」
「はい」
「鍋は?」
「畑にありません」
笑い。
◇
ガルドが、記録をまとめようとする。
「これは、フローラ様がお持ちになりますか」
みんなの観察帳。
厚い。
紙。
絵。
文字。
フローラは手を伸ばす。
持ち帰りたい。
家で。
一つずつ読みたい。
自分がいなかった日。
全部。
でも。
今日は。
畑を見た。
花を見た。
胸がいっぱい。
「今日は、持ち帰りません」
ガルドが少し驚く。
「よろしいので?」
「はい」
「読みたいです」
「はい」
「でも、今読むと」
朝。
昼。
夜。
止まらなくなる。
「全部読んでしまいます」
子どもたちが笑う。
「読むと思う!」
「夜まで!」
「寝ない!」
「寝ます」
「たぶん?」
「たぶんではありません」
フローラも笑う。
「明日、一部だけ借ります」
「承知しました」
「一日分ずつ」
待たせる。
記録も。
◇
畑を出る前。
フローラは、一株ずつ見る。
青豆一号。
「ただいま」
アオジロウ。
「ただいま」
ムラマル。
「ただいま」
モリタン。
「ただいま」
オカエリ。
「ただいま」
キズナ。
「ただいま」
子どもたちが静かになる。
植物へ言う。
返事はない。
でも。
自分が。
言いたい。
「待ってくれて、ありがとうございます」
待っていたか。
分からない。
でも。
自分は。
戻ってきた。
◇
柵の外へ出る。
フローラは、花守り布から小さな紙を取り出した。
昨日までの帰還記録。
その下へ。
『畑へ帰った。』
書く。
さらに。
『キズナの青い花を見た。』
『オカエリの黄色い葉は、まだ原因が分からない。』
『みんなが、畑を見ていてくれた。』
筆を止める。
短い。
でも。
今日の朝。
「よいです」
袋へ戻す。
◇
家へ戻る道。
子どもたちは、途中までついてくる。
「昼も来る?」
「はい」
「何時?」
「昼食のあと」
「すぐ?」
「少し休んでから」
「どれくらい?」
「分かりません」
「待つ!」
「遊んでいてください」
「畑で?」
「畑の外で」
「虫見てる!」
「瓶を倒さないでください」
「倒さない!」
「石置く!」
リオ。
「置きません」
「少し」
「駄目です」
◇
家へ戻る。
朝とは違う。
畑を見たあと。
胸に。
青い花。
黄色い葉。
青い虫。
記録。
みんなの声。
フローラは、扉を開ける。
「ただいま」
今度は。
朝の畑から。
家へ。
「お帰りなさいませ」
ミナが答える。
同じ家から一緒に帰ってきたのに。
言う。
フローラは少し笑う。
◇
手を洗う。
井戸の水。
土。
指の間。
爪。
久しぶりの畑の土。
落とす。
でも。
全部は落ちない。
少し。
爪の端。
「残っています」
フローラが言う。
「あとで、もう一度洗いましょう」
「はい」
王宮の客室へ。
土を落とした。
今。
森の家へ。
畑の土を持ち帰る。
同じ土。
違う意味。
◇
昼前。
フローラは椅子へ座る。
少し休む。
机の端。
王都の箱。
目に入る。
母様の手紙。
侍女の手紙。
白鈴草の種。
畑で。
キズナの青い花を見た。
白鈴草。
王都の白い花。
種。
森へ。
蒔く場所。
いつ。
考えたい気持ちが出る。
でも。
「今日は、まだ開けません」
ミナが茶を置く。
「はい」
「白鈴草の種も」
「はい」
「キズナの花と、すぐ並べません」
「はい」
王都の花。
森の花。
比べない。
どちらがよいか。
すぐ決めない。
◇
「母様の手紙を、読みたいですか」
ミナが尋ねる。
フローラは胸へ手を置く。
少し。
帰ったと伝えたい気持ち。
母様の一文。
無事に帰れるように。
帰った。
でも。
今。
畑。
「今日は、読みません」
「はい」
「母様へも、書きません」
「はい」
「でも」
キズナの青い花。
母様。
絆。
名前。
「少し、思い出しました」
「はい」
思い出すことと。
すぐ何かをすることは。
同じではない。
◇
昼食。
簡単なもの。
パン。
残りの豆。
森の茶。
リオは。
王宮の丸い石を窓辺へ置く。
「畑へ置かなかった」
「よかったです」
「花と会った」
「はい」
「王宮の石、青い花見た」
「はい」
「母親に言う?」
フローラの手が止まる。
「なぜ母様に?」
「キズナ」
「名前が?」
「うん」
リオ。
短い言葉。
でも。
胸へ入る。
「今日は、言いません」
「うん」
「言いたいと思ったら」
「うん」
「その時です」
◇
食後。
少し横になる。
畑へ。
また行きたい。
でも。
身体。
昨日の疲れ。
今朝の感情。
目を閉じる。
眠らないと思った。
けれど。
少しだけ。
眠った。
◇
目を覚ます。
窓の光。
昼。
長くはない。
でも。
身体が軽い。
ミナが近くにいる。
「眠りましたか」
「少し」
「はい」
「畑へ行けます」
「はい」
「花は?」
「待っているかは分かりません」
「はい」
「でも、見に行きます」
◇
午後の畑。
朝と光が違う。
影。
オカエリ。
隣の葉。
少し影になる。
フローラは、すぐ動かさない。
位置。
時間。
記録。
朝の色。
今の色。
「少し濃く見えます」
ガルドが言う。
「黄色が?」
「はい」
「光のせいかもしれません」
「はい」
「葉そのものかもしれません」
「はい」
「夕方も見ます」
「はい」
待つ。
◇
キズナの花。
午後。
朝より少し開いている。
花びら。
光。
青。
「変わりました」
子どもが言う。
「はい」
「朝より大きい?」
「開いています」
「明日は?」
「分かりません」
「散る?」
「分かりません」
「種になる?」
「分かりません」
「分からないばっかり」
「はい」
フローラは笑う。
「だから、見ます」
◇
夕方。
三度目。
オカエリ。
色。
変わらないように見える。
でも。
朝と同じとは断言しない。
記録。
『夕方。大きな変化なし。光で色が違って見える可能性。』
キズナ。
花びらが少し閉じ始める。
「眠る?」
子どもが尋ねる。
「分かりません」
「また?」
「はい」
「でも、夜になると閉じるのかもしれません」
「明日開く?」
「見ます」
「一緒に?」
「はい」
約束。
明日の朝。
◇
日が傾く。
フローラは畑の柵を閉じる。
今日は。
直さなかった。
支柱も。
土も。
オカエリも。
見る。
記録。
それだけ。
「何もしませんでした」
フローラが言う。
ガルドが首を横へ振る。
「見ました」
「はい」
「帰ってこられました」
「はい」
「それで十分な日もございます」
フローラは。
畑を見る。
青豆一号。
アオジロウ。
ムラマル。
モリタン。
オカエリ。
キズナ。
全部。
ある。
「はい」
◇
家へ戻る夕方。
朝より。
道が短く感じる。
森の家。
煙突。
窓。
扉。
「ただいま」
今日。
二度目。
三度目かもしれない。
言うたび。
家が。
自分の場所になる。
◇
夕食。
大鍋。
今日は。
ガルドではなく。
ミナが使う。
豆の塗りもの。
王宮から持ち帰った作り方。
でも。
森の豆。
森の香草。
油は少ない。
煮汁を残す。
ヘルマンさんの助言。
「作りますか」
ミナが尋ねる。
フローラは少し考える。
王都のものを。
今日は開けないと決めた。
でも。
作り方。
すでに持ち帰った。
森の味にする。
「少しだけ」
「はい」
豆を潰す。
大鍋ではない。
小さな器。
リオが覗く。
「王宮の?」
「作り方は」
「味は?」
「森です」
パンへ塗る。
一口。
王宮と違う。
香草。
豆。
水。
でも。
おいしい。
「森の豆の塗りものです」
フローラが言う。
「名前?」
リオが尋ねる。
「まだ」
「森豆一号」
「料理に一号はつけません」
「なんで?」
「分かりません」
笑う。
◇
食後。
フローラは机へ向かう。
王都の箱。
今日も。
開けない。
その横へ。
畑の記録。
自分が書いた今日の紙。
『畑へ帰った。』
『キズナの青い花を見た。』
『オカエリの黄色い葉は、まだ原因が分からない。』
『みんなが、畑を見ていてくれた。』
さらに。
『今日は、直さなかった。見て、記録した。』
書く。
「よいです」
自分へ。
◇
寝る前。
花守り布へ紙を戻す。
帰る記録。
畑へ帰った記録。
重なる。
六つ目の言葉。
森へ戻る。
昨日。
終わったと思った。
でも。
今日。
畑へ。
身体。
暮らし。
少しずつ戻る。
「帰るは、一日で終わらないのかもしれません」
ミナが答える。
「はい」
「家へ着いても」
「はい」
「次の日も」
「はい」
「暮らしへ戻ります」
「はい」
◇
窓辺。
王宮の丸い石。
その横へ。
リオが。
小さな畑の土の塊を置こうとしている。
「何をしていますか」
「森の土」
「室内へ置かないでください」
「石の隣」
「土は落ちます」
「会う」
「外で会いました」
「まだ」
「戻してください」
リオは不満そう。
でも。
土を外へ。
「石だけです」
「うん」
◇
寝台へ入る。
身体。
疲れている。
でも。
昨日とは違う疲れ。
歩いた。
見た。
しゃがんだ。
記録した。
笑った。
泣いた。
「おやすみなさい、青豆一号」
葉が増えた。
「おやすみなさい、アオジロウ」
結び目が直された。
「おやすみなさい、ムラマル」
虫はまだ瓶。
「おやすみなさい、モリタン」
伸びた。
「おやすみなさい、オカエリ」
明日も見る。
「おやすみなさい、キズナ」
青い花。
最後に。
「おやすみなさい、みんな」
自分がいない間。
畑を見た。
記録した。
待った。
そして。
自分へ。
「おやすみなさい、帰ってきた私」
王都へ行く前と。
同じではない。
でも。
違いすぎて、森へ戻れないわけでもない。
王都の手紙を持っている。
母様と父様の言葉を持っている。
王宮の豆の作り方を持っている。
丸い石も。
灰色の髪紐も。
白鈴草の種も。
それでも。
森の畑へしゃがみ。
土へ指を入れ。
葉の裏を見た。
自分の暮らしは。
なくなっていなかった。
待っていた人々が。
フローラのいない時間を埋めてくれた。
でも。
フローラの場所を奪わなかった。
帰ったあと。
続きを見られるように。
記録を残してくれた。
「ただいま」
畑へ言った。
花は返事をしなかった。
豆も。
土も。
でも。
人々が。
お帰りと返した。
それで。
十分だった。
「明日も、見ます」
黄色い葉。
青い花。
青い虫。
王都の手紙ではなく。
まず。
目の前で変わるものを。
フローラは、森へ帰った翌日の疲れを身体へ感じながら、待っていた畑へ自分の言葉を返せたことを胸へ置き、ゆっくりと目を閉じた。




