第90話 青の姫君、帰った家で最初の夜を迎える
森の結界を越えた瞬間。
空気の匂いが変わった。
湿った土。
苔。
木の皮。
落ち葉の下へ残る水。
遠くで流れる細い沢。
王都へ向かう前も、毎日のように吸っていた匂いだった。
けれど。
今は。
懐かしい。
フローラは森の道へ一歩入り、足を止めた。
王都を出てから。
ずっと。
森へ帰ると言ってきた。
街道でも。
宿でも。
馬車の中でも。
結界の外でも。
そして今。
自分の魔力が満ちた場所へ、身体ごと戻ってきた。
「ただいま」
もう一度。
今度は、少し大きな声で言う。
風が吹く。
頭上の葉が揺れる。
木々の間から、小さな鳥が飛び立つ。
森が返事をしたわけではない。
でも。
フローラには、返されたように感じた。
「お帰りなさい!」
子どもたちの声が重なる。
「姫様、お帰り!」
「フローラ様!」
「帰ってきた!」
森の静けさは、一瞬でなくなった。
結界の内側へ先に入っていた子どもたちが、振り返りながら何度も手を振る。転ばないように大人たちが声をかけているのに、誰も速度を落とそうとしない。
「走らないでください」
フローラが言う。
「フローラ様も走らないで!」
「私は走っていません」
「さっき速かった!」
「少しだけです」
「走ってた!」
「走っていません」
周囲から笑いが起きる。
ガルドも。
レナードも。
村の大人たちも。
ミナも。
森へ入ったばかりなのに。
もう、いつものような声がある。
◇
王宮の護衛たちは、結界の外へ残っていた。
フローラの魔力で許可を与えなければ、森の奥へは進めない。
護衛隊長と数名の騎士が、境界の向こうからこちらを見ている。
フローラは振り返った。
見送られる。
また。
王宮の西門。
宿。
休憩所。
そして、森の入り口。
「ここまでで、大丈夫です」
フローラは結界越しに言った。
護衛隊長が深く礼をする。
「フローラ様のご帰還を確認いたしました」
「はい」
「王都へ報告いたします」
国王陛下。
知らせたいと思ったら。
そう言われた。
でも、護衛は任務として報告する。
無事に結界へ着いたこと。
それは。
フローラからの手紙ではない。
「国王陛下へ」
言いかけて止まる。
何を伝える。
無事に帰った。
ありがとう。
また。
今は。
「無事に森へ入りましたと、伝えてください」
「承知いたしました」
「それだけでよいです」
「はい」
「母様と父様へは?」
護衛隊長は少し考える。
「王宮へ報告が入れば、公爵家へも伝わる可能性がございます」
「はい」
「ですが、フローラ様から何かお言葉を」
「ありません」
すぐに答える。
「承知いたしました」
何も送らない。
帰ったことは、王都側の報告で知るかもしれない。
でも。
母様と父様へ向けた言葉は、今はない。
それでよい。
◇
若い騎士が、列の後ろから一歩前へ出た。
道中で。
青の姫君は人を惑わせるという噂を信じていたと話した騎士。
「姫君様」
「はい」
騎士は森の中。
迎えに来た子どもたち。
村の人々。
フローラを何度も見比べる。
「王都へ戻りましたら」
「はい」
「見たことを、そのまま話します」
「はい」
「姫君様が、森へ入る前に泣かれたことも」
「はい」
「森の方々が、朝から待っていたことも」
「はい」
「子どもたちが」
騎士の口元が少し緩む。
「大鍋を二度焦がしたと話していたことも」
ガルドが声を上げる。
「一度です!」
子どもたちが一斉に反論する。
「二回!」
「一回は焦げてない!」
「黒かった!」
「あれは焼き色だ!」
「鍋の底の焼き色?」
「そうだ!」
「それを焦げって言う!」
王宮の騎士たちからも笑いが起きる。
若い騎士は笑いを堪えながら、もう一度フローラへ礼をした。
「見たままを」
「お願いします」
「はい」
化け物ではない。
そう話すのではなく。
泣いた。
笑った。
豆パンを食べた。
子どもたちに迎えられた。
大鍋の焦げで争った。
そのまま。
人として。
◇
王宮の護衛隊が離れていく。
馬の足音。
車輪の音。
王都へ続く道。
少しずつ遠くなる。
フローラは見えなくなるまで、結界の内側から見送った。
「王都へ、帰りました」
「うん」
リオが答える。
「私たちは、森へ帰ります」
「うん」
「同じ道を、反対へ進みます」
「うん」
王都へ戻る人。
森へ戻る人。
別れる。
でも。
道は消えない。
◇
荷物は、村の荷車へ移された。
王宮から持ってきた箱。
衣類。
裁縫箱。
菓子。
茶葉。
刺繍糸。
白鈴草の種。
手紙。
記録。
それらを村の若者たちが慎重に積んでいく。
「重いですか」
フローラが尋ねる。
「大丈夫です」
「紙が多い?」
「思ったより少ないです」
「選びました」
「はい」
王宮で。
持って帰るもの。
置いていくもの。
預けるもの。
あとから送ってもらうもの。
分けた。
「全部持って帰らなくてよかったです」
夢のように、馬車が紙で埋まらなかった。
今。
荷車にも余裕がある。
子どもたちが王宮からの箱を覗こうとする。
「何入ってる?」
「服」
「お菓子!」
「種」
「豆?」
「王宮の豆は、まだです」
「王豆一号!」
「名前は決まっていません」
「でも、リオが決めた!」
「芽が出てからです」
いつもの訂正。
いつもの笑い。
◇
村へ向かう道。
フローラは荷車へ乗らなかった。
歩く。
自分の足で。
木の根。
土。
濡れた落ち葉。
森へ行く時。
毎日のように歩いていた道。
でも。
九日以上離れていた。
身体は覚えている。
足を置く場所。
滑りやすい石。
枝が低く伸びている場所。
「ここは、前より根が出ています」
フローラが言う。
ガルドが頷く。
「雨で少し土が流れました」
「あとで直します」
「今日は、お休みください」
「見るだけです」
「見ると、直します」
「今日は直しません」
「本当ですか」
ガルドの目が疑っている。
「たぶん」
「たぶんですか」
笑いが起きる。
◇
子どもたちは。
前。
後ろ。
横。
絶えず話しかけてくる。
「王都、大きかった?」
「はい」
「家何個あった?」
「数えられません」
「王宮、森の家より大きい?」
「とても」
「大鍋あった?」
「大きな鍋はありました」
「焦げた?」
「見ていません」
「豆何種類?」
「数えていません」
「王様、怖かった?」
その問いに。
フローラの足が少し止まる。
国王陛下。
最初は怖かった。
会う。
王。
命令。
公爵家。
「最初は、怖かったです」
「今は?」
「少し怖いです」
「まだ?」
「はい」
「でも?」
女の子が続きを待つ。
「話を聞いてくれました」
「じゃあ、いい王様?」
簡単な答え。
フローラは考える。
「分かりません」
「分かんない?」
「はい」
「でも、私へ会う順番を返してくれました」
「何それ?」
「誰に会うか、私が決めてよいと言ってくれたのです」
「普通じゃないの?」
子どもの言葉。
フローラは少し息を止める。
普通。
誰に会うか。
自分で決める。
森の子どもには。
当たり前。
「そうですね」
胸が少し熱くなる。
「普通であってほしいことです」
◇
「母様には会った?」
別の子が聞く。
周囲の大人たちが少し緊張する。
ガルドが止めようとする。
「おい、その話は」
「会いました」
フローラが答える。
子どもたちが静かになる。
「怖かった?」
「はい」
「泣いた?」
「はい」
「仲直りした?」
胸が固くなる。
仲直り。
許した。
家族。
分かりやすい答え。
「していません」
「喧嘩したまま?」
「少し違います」
「じゃあ何?」
フローラは歩きながら、言葉を探す。
「母様は、約束を一度守りました」
「うん」
「私も、会うと決めたので会いました」
「うん」
「でも、許したわけではありません」
「うん」
子どもたちは、分かっているのか分からない顔をしている。
「また会う?」
「分かりません」
「会いたい?」
胸。
少しだけ。
「少し」
「じゃあ会えばいいのに」
子どもの真っ直ぐな言葉。
大人たちが息を呑む。
でも。
フローラは怒らない。
「会いたいと思っても、会わないことを選べます」
「なんで?」
「会うと、苦しくなることがあるからです」
「でも、会いたい」
「はい」
「変なの」
「はい」
フローラは少し笑う。
「自分でも、そう思います」
子どもも笑った。
分からないものを。
無理に分かりやすくしない。
◇
「父様にも会った?」
「はい」
「父様、何した?」
「豆の名前を聞きました」
子どもたちが、一斉に止まる。
「それだけ?」
「ほかにも話しました」
「でも豆?」
「はい」
「王都まで行って?」
「はい」
「豆の名前?」
「大切です」
笑いが起きる。
「青豆一号!」
「アオジロウ!」
「ムラマル!」
「モリタン!」
「オカエリ!」
「キズナ!」
子どもたちが、一つずつ叫ぶ。
森へ響く。
父様へ話した名前。
今。
ここで。
育てている人たちが呼ぶ。
「父様、覚えた?」
「分かりません」
「手紙で試す?」
「試しません」
「忘れてたら?」
「その時、私が聞きたいと思ったら聞きます」
急がない。
確かめるためだけに、すぐ手紙を出さない。
◇
村の入り口。
木々が少し開ける。
家々の屋根。
煙。
畑。
柵。
人。
村の中央へ続く道。
フローラの足が止まった。
森へ来た時。
最初は。
村へ入ることも怖かった。
青い髪。
噂。
化け物。
人々の視線。
今。
村の入り口には。
さらに多くの人が待っていた。
老人。
女性。
子ども。
畑仕事の途中らしい服。
木工の道具を持ったままの男性。
料理の途中で出てきたのか、前掛けへ粉をつけた女性。
足の悪い老人を支える若者。
村のほとんど。
「帰ってきた!」
「姫君様だ!」
「フローラ様!」
「お帰りなさい!」
声。
拍手。
笑い。
泣く人。
手を振る人。
王都でも。
王宮でも。
見送られた。
でも。
これは。
迎えられている。
フローラは、その場から動けなくなった。
胸が苦しい。
でも、嫌な苦しさではない。
言葉が多い。
顔が多い。
会いたかった人が多い。
涙が、また溢れる。
「フローラ様」
ミナが近くで呼ぶ。
「はい」
「息はできますか」
「はい」
震える息。
「指先は?」
「温かいです」
「はい」
「胸は?」
「いっぱいです」
「はい」
フローラは、村の人々を見る。
「ただいま、戻りました」
声は小さかった。
でも。
前にいた人が聞き。
隣へ伝え。
後ろへ広がる。
「ただいま戻りました!」
今度は大きく。
村中から声が返る。
「お帰りなさい!」
森の鳥が飛び立つほど。
大きい。
フローラは笑いながら泣いた。
◇
村の女性たちが、次々に近づこうとする。
でも。
子どもたちのように、すぐ抱きつかない。
立ち止まる。
フローラの顔を見る。
「握手は、よいですか」
一人の女性が尋ねる。
「はい」
手を差し出す。
土で少し荒れた手。
温かい。
「お帰りなさい」
「ただいま」
次の人。
「肩へ触れても?」
「はい」
軽く。
すぐ離れる。
「よかった」
「はい」
また別の人。
「抱きしめても?」
フローラは少し考える。
今日は。
子どもたちに抱きつかれた。
でも、大人は。
身体が少し緊張する。
「今日は、握手だけでお願いします」
「はい」
女性は、すぐに頷く。
悲しそうには見えない。
手を握る。
「戻ってきてくださって、ありがとうございます」
「私の家へ帰っただけです」
「それでも」
女性は笑う。
「帰ってきてくださって、嬉しいです」
胸が熱くなる。
◇
村長も待っていた。
杖。
穏やかな顔。
その隣には、村長の家族。
母様からの最初の手紙を預かっていた家。
フローラは、少し緊張する。
「お帰りなさいませ」
「ただいま戻りました」
「王都では、いろいろとございましたか」
「はい」
「お疲れでしょう」
「少し」
「今日は、何も決めず」
「はい」
「何も答えず」
「はい」
「まずは家へ」
村長の言葉。
何も決めず。
何も答えず。
家へ。
「はい」
胸の力が抜ける。
「そうします」
◇
けれど。
村の中央には。
大きな机。
鍋。
布。
何かの準備。
フローラは目を細める。
「何ですか」
村の人々が少し視線を逸らす。
ガルドが咳払いする。
「ささやかな食事を」
「宴ですか」
「宴というほどでは」
机は長い。
椅子も多い。
鍋も三つ。
「多いです」
「皆が少しずつ持ち寄りまして」
「ささやかではありません」
子どもたちが叫ぶ。
「お帰りの会!」
「言いましたね」
ガルドが額へ手を当てる。
「秘密だった?」
「姫君様が疲れていたら、明日へ回すつもりでした」
フローラは机を見る。
パン。
焼いた野菜。
肉。
豆。
豆。
さらに豆。
「豆が多いです」
リオの顔が明るくなる。
「いい」
「あなたのためではありません」
「でも食べる」
「はい」
周囲から笑いが起きる。
「今日、食べられますか」
ミナが小さく尋ねる。
フローラは自分の身体を見る。
疲れている。
足も少し重い。
頭の中には、声が多い。
でも。
家へ着く前。
村。
みんな。
一緒に食べたい気持ちもある。
「短い時間なら」
フローラは言う。
「はい」
「暗くなる前に、家へ帰ります」
「もちろんです」
「大きな話はしません」
「はい」
「王都で何があったかも」
「今日は、聞きません」
村長が答える。
「ありがとうございます」
◇
荷物は、先に森の家へ運んでもらうことになった。
ただし。
手紙。
花守り布。
木の実。
植物の記録。
白鈴草の種。
それらが入った小さな箱だけは、フローラが自分で持つ。
「重いですか」
ガルドが尋ねる。
「少し」
「持ちます」
「いいえ」
「ですが」
「私が持ち帰ると決めたものです」
重さ。
今は持てる。
「家まで、自分で持ちます」
「承知しました」
◇
お帰りの会。
大げさな音楽はない。
飾りも少ない。
森の花。
葉。
木の枝。
子どもたちが作った小さな札。
『おかえり、フローラさま』
文字が曲がっている。
『まってた』
『まめ、げんき』
『なべ、たぶんだいじょうぶ』
最後の札へ。
ガルドが顔をしかめる。
「たぶんとは何だ」
「焦げたから」
「一回だ!」
「二回!」
また始まる。
フローラは笑った。
王都では。
丁寧に整えられた文字。
封蝋。
書類。
約束。
ここには。
曲がった文字。
大鍋。
豆。
でも。
胸へ届く。
◇
フローラは、席へ座る。
中央ではない。
端でもない。
いつも食事をする時と同じように。
ミナ。
リオ。
ガルド。
子どもたち。
村の人々。
料理が配られる。
豆の煮込み。
森の香草。
硬めのパン。
焼いた根菜。
少し焦げた肉。
「これは、焦げています」
フローラが言う。
ガルドが身体を固くする。
「大鍋ではありません」
「では誰が?」
村の青年が手を上げる。
「俺です」
「正直です」
「ガルドさんみたいに、焼き色とは言いません」
笑い。
ガルドが抗議する。
「俺も正直だ!」
「二回焦がしたことは?」
「一回だ!」
食事が始まる。
◇
森の豆。
一口。
王宮の豆とは違う。
香り。
皮。
煮崩れ。
塩。
森の水。
「森の味です」
フローラが言う。
リオも頷く。
「うん」
「王宮の豆も、おいしかったです」
周囲が少し静かになる。
「王宮で、豆を食べたのですか」
村の女性が尋ねる。
「はい」
「王宮にも畑がありました」
「畑?」
「小さな菜園です」
「姫君様、見に行ったのですか」
「はい」
「王都へ行ってまで?」
「豆がありました」
笑いが起きる。
「虫も見つけました」
「やっぱり畑を見てる」
「王様より豆?」
「国王陛下とも話しました」
「何を?」
「公爵家のこと」
「はい」
「母様と父様のこと」
周囲の空気が少し固くなる。
でも。
「それから豆です」
また笑いが戻る。
「順番は?」
「覚えていません」
◇
村の人々は、王都の話を聞きたい。
顔に出ている。
でも。
約束通り。
誰も急かさない。
聞かない。
子どもたちだけは、少し違う。
「王宮の菓子ある?」
「あります」
「今?」
「今日は出しません」
「なんで?」
「荷物の中です」
「取りに行く!」
「行きません」
「明日?」
「明日、みんなで分けます」
「本当?」
「はい」
「待つ!」
一人が言う。
ほかの子どもたちも。
「待つ!」
「明日!」
「忘れないで!」
「忘れたら?」
「その時は言ってください」
「すぐ言う!」
「はい」
待つ。
今。
自然に。
◇
ガルドが、少し声を落として言う。
「畑のことですが」
フローラの身体が前へ出る。
「はい」
「青豆一号は、葉が二枚増えました」
「はい」
「アオジロウは、支柱を少し高く」
「はい」
「ムラマルには、一度虫が」
「どの虫ですか」
「小さな青いものです」
「葉の裏?」
「はい」
「何匹?」
「三匹」
「取ったものは?」
「瓶へ入れてあります」
「見たいです」
「明日で」
「今」
「暗くなります」
「見るだけです」
「見るだけで終わりません」
ガルドが断言する。
周囲の人々が頷く。
「姫君様は、見ると記録します」
「記録すると比べます」
「比べると土も見ます」
「土を見ると水も」
「水を見ると支柱も」
「気づいたら夜です」
フローラは黙る。
全員。
分かっている。
「今日は、見ません」
少し苦しい。
「はい」
「明日の朝」
「はい」
「一番に」
「承知しました」
「誰も先に触らないでください」
「虫の瓶へ?」
「はい」
「分かりました」
待つ。
畑も。
虫も。
◇
「モリタンは?」
フローラが尋ねる。
「伸びました」
「どれくらい?」
子どもが両手を広げる。
「これくらい!」
「分かりません」
「前よりこれくらい!」
「もっと分かりません」
笑い。
「記録があります」
ガルドが言う。
「毎日?」
「はい」
「誰が?」
「皆で」
子どもたちが胸を張る。
「字、書いた!」
「絵も!」
「虫も描いた!」
「豆も!」
「ガルドさんの焦げ鍋も!」
「なぜ畑の記録に鍋がある!」
「その日あったこと!」
フローラは笑いながら。
少し泣いた。
「ありがとうございます」
いない間。
見てくれた。
待った。
記録した。
フローラが戻らなくても。
畑は進んだ。
でも。
戻った時に、続けられるように。
◇
オカエリ。
キズナ。
その名前を聞く。
「オカエリは、少し葉が黄色くなりました」
胸が固くなる。
「水は?」
「多くしすぎないようにしました」
「土は?」
「表面は乾いていて、中は湿っています」
「根は?」
「触っていません」
「よいです」
「明日、見ます」
「はい」
「キズナは?」
「花が咲きました」
フローラは息を止める。
「花?」
「はい」
「何色?」
「薄い青」
「本当ですか」
「見せたい!」
子どもたちが立ち上がりそうになる。
「今日は行きません」
自分へ言う。
「明日です」
薄い青。
キズナ。
王都にいる間。
咲いた。
「待っていてくれますか」
「花は、明日もたぶん」
村の女性が答える。
「たぶん?」
「花ですから」
散る可能性。
胸が焦る。
今見たい。
でも。
日が暮れる。
身体も疲れている。
「散ったら?」
「記録に絵があります」
「はい」
「でも、できれば」
「明日の朝、一番に」
「はい」
待つ。
花が待つとは限らない。
それでも。
安全に。
身体を休めて。
明日。
◇
食事の途中。
村の老人が言う。
「姫君様」
「はい」
「お顔が、少し変わりましたな」
フローラは自分の頬へ触れる。
「痩せましたか」
「そうではなく」
老人は考える。
「王都へ行く前より」
視線を細める。
「人を見る時、少し長くなったような」
フローラは目を瞬く。
「長い?」
「以前は」
老人は遠慮しながら言う。
「見て、すぐ逸らされることが多かった」
「はい」
「今は、見てから考えておられる」
変わった。
自分では分からない。
王都で。
国王陛下。
母様。
父様。
侍女。
庭師。
料理人。
騎士。
たくさんの顔を見た。
声を聞いた。
表情。
沈黙。
「怖くなくなったわけではありません」
「はい」
「今も、たくさん見られると怖いです」
「はい」
「でも」
周囲を見る。
村の人々。
「見たいと思うことが増えました」
老人は笑う。
「それは、よいことです」
「よいかは、まだ分かりません」
「では」
「はい」
「分からないままにしておきましょう」
王宮で広がった言葉。
森へ。
村の老人が。
自然に言う。
フローラは、胸が温かくなった。
◇
食事は、長くしすぎなかった。
まだ話したい人は多い。
聞きたいことも。
渡したいものも。
でも。
村長が立ち上がる。
「今日は、ここまでにいたしましょう」
「えー!」
子どもたちが不満の声を上げる。
「姫君様は、王都から戻られたばかりです」
「まだ元気!」
「皆が元気でも、姫君様はお疲れです」
「フローラ様、疲れた?」
直接聞かれる。
フローラは自分へ尋ねる。
楽しい。
嬉しい。
でも。
頭が少し重い。
脚も。
声も多い。
「疲れました」
正直に言う。
子どもたちが静かになる。
「では、帰って寝てください」
一人がすぐ言う。
「はい」
「明日、畑!」
「はい」
「お菓子!」
「はい」
「王都の話!」
「少しずつ」
「約束!」
「はい」
◇
村の人々が、また道を空ける。
森の家へ。
ここから。
少し歩く。
夕方。
空は橙色。
木々の影が長い。
フローラは、小さな箱を抱える。
ミナ。
リオ。
ガルド。
レナード。
数人の村人。
子どもたちは、村長に止められた。
「家まで行く!」
「今日は、ここで見送ります」
「なんで!」
「姫君様を休ませるためです」
子どもたちが不満そう。
フローラは振り返る。
「明日」
「うん」
「畑で会います」
「絶対?」
「はい」
「朝?」
「朝です」
「日の出?」
「少しあと」
「待つ!」
「寝てください」
「寝る!」
声。
笑い。
手。
村を出る。
◇
森の家へ続く道。
人の声が少しずつ遠くなる。
鳥。
風。
足音。
荷物を運ぶ荷車は、別の道をゆっくり進んでいる。
フローラは歩く。
少し疲れている。
でも。
家へ向かう足。
王都の客室ではなく。
宿でもなく。
自分の家。
「あと、どれくらいですか」
リオが尋ねる。
「知っているでしょう」
「聞きたい」
「もう少しです」
「大鍋」
「家にあります」
「焦げてる?」
ガルドが前から言う。
「焦げていません!」
「二回」
「一回だ!」
また。
フローラは笑う。
◇
木々の間から。
屋根が見えた。
森の家。
小さい。
王宮と比べれば。
宿よりも。
村長の家よりも。
でも。
胸が止まりそうになる。
「家です」
フローラの足が止まる。
苔のついた屋根。
煙突。
窓。
扉。
小さな畑へ続く道。
井戸。
薪。
全部。
ある。
王都へ行く前と同じ。
でも。
フローラが戻ってくるのを待っていたように見える。
「帰りました」
誰へでもなく。
家へ。
声が震える。
◇
扉の前。
フローラは立つ。
鍵。
持っている。
自分で開ける。
王宮では。
扉の前に人がいた。
開けてくれた。
ここは。
自分で。
鍵を入れる。
回す。
音。
扉を押す。
森の家の匂い。
乾いた木。
灰。
布。
少しの土。
懐かしい。
胸へ一気に入る。
「ただいま」
フローラが言う。
返事はない。
でも。
家の奥から。
「お帰り」
リオ。
すぐ後ろ。
「私より先に言わないでください」
「家が言わないから」
「はい」
ミナも。
「お帰りなさいませ、フローラ様」
「ただいま戻りました」
◇
家の中。
きれい。
誰かが毎日見ていた。
埃は少ない。
寝台。
机。
棚。
鍋。
道具。
フローラのもの。
「誰が掃除を?」
ガルドが答える。
「ミナ殿が出発前に頼まれた順番で、村の者が」
「毎日?」
「はい」
「全部触りましたか」
「必要な場所だけです」
「手紙の机は?」
「触れておりません」
「畑の記録は?」
「追加分を横へ置いただけです」
「はい」
約束。
守られている。
自分がいない家へ。
勝手に入り込まない。
でも。
暮らせるように。
見てくれた。
「ありがとうございます」
◇
荷物が運び込まれる。
箱。
衣類。
菓子。
裁縫箱。
種。
王都から。
森の家へ。
部屋が少し狭くなる。
「多いです」
フローラが言う。
村の青年が笑う。
「王宮からのお荷物にしては、少ないかと」
「この家には多いです」
「どこへ置きますか」
フローラは考える。
今。
全部開けない。
王都のものを。
帰った家へ、すぐ広げない。
「衣類は、壁際へ」
「はい」
「菓子は、食べ物の棚の近く」
「はい」
「種と手紙は」
抱えている小さな箱。
「私が置きます」
「はい」
「今日は、開けません」
母様の手紙。
侍女の手紙。
白鈴草。
刺繍糸。
王都。
今は。
家へ帰ったことを感じたい。
◇
人々が帰っていく。
ガルド。
レナード。
村の若者。
「明日の朝」
フローラが言う。
「畑を見ます」
「承知しました」
「虫の瓶を」
「持ってきます」
「記録も」
「はい」
「キズナの花は」
「今のところ、まだ咲いております」
「本当ですか」
「先ほど、確認しました」
安心。
「触らないでください」
「はい」
「写真はありません」
「しゃしん?」
「……絵です」
王都で聞いた言葉ではない。
自分でも、なぜ出たか分からない。
「絵はあります」
「はい」
「でも、明日見ます」
「はい」
ガルドは、少し笑う。
「お帰りなさいませ、フローラ様」
もう一度。
「ただいま戻りました」
◇
扉が閉まる。
家の中。
フローラ。
ミナ。
リオ。
三人。
静か。
王宮の広い客室。
宿の三つの寝台。
馬車。
村の宴。
たくさんの声。
今。
家。
「静かです」
フローラが言う。
「うん」
リオが答える。
「嫌ですか」
「ううん」
「私も」
静けさ。
寂しくない。
安心する。
◇
小さな箱を机へ置く。
花守り布を外す。
袋から紙を出す。
『今日、森へ戻る。』
裏。
『王都を出た。まだ途中。』
『森が見えた。待っていた声を聞いた。』
『今から、自分の足で結界を越える。』
今。
結界を越えた。
村へ。
家へ。
筆を持つ。
新しい一文。
『森へ帰った。家へ帰った。』
書く。
手が震える。
涙が紙へ落ちそうになる。
少し横へ避ける。
「帰りました」
リオが覗く。
「二つ?」
「森と、家です」
「同じじゃない?」
「少し違います」
「村も?」
フローラは考える。
森。
村。
家。
全部。
帰る場所。
『村へ帰った。』
間へ足す。
「三つです」
「うん」
◇
紙を見つめる。
王都へ持っていった六つの言葉。
国王陛下へ伝えた。
六つ目。
森へ戻る。
今。
戻った。
終わった。
でも。
全部が終わったわけではない。
「六つ目だけ、今日終わりました」
フローラが言う。
ミナが頷く。
「はい」
「母様のことは、終わっていません」
「はい」
「父様も」
「はい」
「公爵家も」
「はい」
「でも、森へ戻るは」
「はい」
「できました」
胸。
温かい。
重い。
でも。
嬉しい。
◇
花守り布の二つ目の袋。
今まで。
帰る日を書いた紙が入っていた。
戻った紙。
「どうしますか」
ミナが尋ねる。
「持っていてよいですか」
「もちろんです」
「終わった言葉を?」
「はい」
終わったから、捨てる必要はない。
できたこと。
帰ったこと。
記録。
「持ちます」
紙を折り直す。
二つ目の袋へ。
今度は。
未来ではない。
帰った記録。
◇
夕方。
日が沈む前。
フローラは、家の外へ出た。
畑へは行かない。
約束した。
でも。
家の前。
井戸。
薪。
空。
見る。
森の夕方。
王都の空より狭い。
木々に囲まれている。
でも。
落ち着く。
「空が小さいです」
「嫌?」
リオが尋ねる。
「いいえ」
「王都は大きい」
「はい」
「どっちがいい?」
フローラは考える。
「森です」
「うん」
「でも、王都の空も覚えています」
「うん」
「両方です」
王都を嫌わなくても。
森を選べる。
◇
井戸の水を汲む。
久しぶり。
桶。
縄。
重さ。
ミナが手伝おうとする。
「自分でします」
「今日は、お疲れです」
「一度だけ」
「はい」
縄を引く。
身体が覚えている。
少し腕が重い。
でも。
水が上がる。
桶を置く。
冷たい。
手を洗う。
王宮の水。
宿の水。
川の水。
森の井戸。
「帰った水です」
リオが首を傾げる。
「水も帰る?」
「私が帰って飲む水です」
「うん」
◇
夕食。
村で食べたため。
家では、温かな茶だけ。
王宮から持ち帰った茶葉ではない。
森でいつも飲んでいた葉。
ミナが淹れる。
香り。
少し苦い。
「森の茶です」
「はい」
「王宮の茶は?」
「明日以降にいたしましょう」
「はい」
王都のものを。
今日すぐ、混ぜない。
今夜は。
戻った味。
◇
リオは、大鍋の前へ立つ。
「見ます」
「何を?」
「焦げ」
蓋を開ける。
中。
洗われている。
底。
少し黒い。
リオが指差す。
「二回」
フローラも見る。
「一回か二回かは、分かりません」
「黒い」
「はい」
「二回」
「なぜ二回なのですか」
「広い」
「焦げた範囲で回数は分かりません」
ミナが笑う。
「明日、ガルドさんへもう一度聞きますか」
「はい」
「豆より先に?」
フローラは少し考える。
「豆が先です」
「うん」
◇
寝台。
自分の。
王宮の天蓋より小さい。
宿より少し硬い。
でも。
身体が知っている。
村の毛布を広げる。
王都へ持っていった。
戻ってきた。
同じ場所へ。
「置きました」
フローラが言う。
「はい」
ミナが答える。
毛布。
寝台。
家。
戻った。
◇
寝る前。
机の小さな箱を見る。
母様の二通の手紙。
若い侍女の手紙。
白鈴草の種。
刺繍糸。
父様と母様の三文ずつ。
今日は。
開けない。
「王都のものを、待たせます」
「はい」
「帰った家で、すぐ王都の話をしません」
「はい」
「でも、捨てません」
「はい」
置く場所。
机の端。
森の植物記録とは少し離す。
別々。
でも。
同じ机。
◇
母様の一文だけ。
封筒の外から触れる。
帰りたい場所へ。
あなたの決めた日に。
無事に。
「母様」
小さく言う。
「帰りました」
手紙は書かない。
今夜は。
言葉だけ。
「父様」
三文の紙へ触れる。
「森へ帰りました」
送らない。
でも。
心の中で。
知らせる。
◇
王宮の若い侍女からの手紙。
白鈴草の絵。
読むか。
少しだけ思う。
でも。
今日は。
待っていた声が多い。
お帰り。
ただいま。
豆。
大鍋。
花。
虫。
胸がいっぱい。
「明日以降です」
箱へ戻す。
◇
ミナが寝る前の確認をする。
「頭は痛くありませんか」
「少し重いです」
「お水を」
「はい」
「指先は?」
「温かいです」
「胸は?」
フローラは少し考える。
「まだ、いっぱいです」
「苦しいですか」
「少し」
「はい」
「でも、嫌ではありません」
「はい」
「嬉しさも、多いと苦しくなります」
「そうですね」
嬉しい。
帰った。
迎えられた。
でも。
身体には重さがある。
「今日は、もう眠ります」
「はい」
◇
リオは、王宮の丸い石を窓辺へ置いた。
宿でも。
馬車でも。
今。
森の家。
「ここにも置くのですか」
「うん」
「王宮の石が、森の家へ来ました」
「うん」
「明日は?」
「畑」
「畑へ持っていくのですか」
「たぶん」
「豆のそばへ置かないでください」
「なんで?」
「育ち方が変わるかもしれません」
「石で?」
「分かりません」
「置いてみる?」
「勝手に置かないでください」
笑う。
いつもの夜。
◇
寝台へ入る。
窓の外。
森。
虫の声。
葉。
風。
王都では聞こえなかった音。
フローラは目を閉じる。
「おやすみなさい、王都」
遠い。
でも、道がある。
「おやすみなさい、国王陛下」
無事に森へ入ったと、護衛が伝える。
「おやすみなさい、侍女さんたち」
衣装を待たせている。
「おやすみなさい、庭師さんたち」
王宮の豆を見ている。
「おやすみなさい、ヘルマンさん」
森の豆料理は、明日以降。
「おやすみなさい、茶屋の女の子」
木の実は、花守り布の中。
「おやすみなさい、母様」
帰った。
「おやすみなさい、父様」
森は、私の家です。
そして。
「おやすみなさい、村のみんな」
待っていた。
「おやすみなさい、畑」
明日、見る。
「おやすみなさい、青豆一号」
葉が増えた。
「おやすみなさい、アオジロウ」
支柱が高くなった。
「おやすみなさい、ムラマル」
虫は瓶の中。
「おやすみなさい、モリタン」
伸びた。
「おやすみなさい、オカエリ」
少し葉が黄色い。
「おやすみなさい、キズナ」
薄い青の花。
最後に。
家へ。
「おやすみなさい、私の家」
ただいま。
言えた。
王都から。
街道から。
宿から。
結界から。
村から。
帰った。
母様と父様とのことは、まだ途中。
公爵家のことも。
王都へまた行くかも。
何一つ。
すべては終わっていない。
でも。
六つ目の言葉。
森へ戻る。
それだけは。
今日。
できた。
「帰りました」
フローラは、もう一度小さく言った。
見送られた声。
迎えられた声。
お帰り。
ただいま。
その二つを胸へ置く。
王都で何かを受け取った自分も。
母様と父様へ少し会いたいと思った自分も。
許していない自分も。
豆を見たい自分も。
全部。
この家へ戻ってきた。
森は。
変わったフローラだけを求めなかった。
王都へ行く前のフローラへ戻ることも求めなかった。
ただ。
帰ったフローラを。
そのまま受け入れた。
「明日は、畑を見ます」
青い花。
虫。
葉。
記録。
王都の手紙ではなく。
まず。
森で待っていたものへ会う。
フローラは、自分の寝台の硬さを確かめ、村の毛布を胸まで引き上げた。
王都で迎えた夜より。
宿で迎えた夜より。
呼吸が深い。
森へ帰った最初の夜。
自分で選んだ家の中で。
フローラは「帰る」という言葉を、ようやく未来から過去へ変えながら、静かに眠りへ落ちていった。




