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『青の姫君の森暮らし 〜化け物と恐れられた公爵令嬢は、今日も畑を耕します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第89話 青の姫君、帰る途中で待っていた声を聞く


 翌朝。


 フローラが目を覚ました時、宿の小さな窓には薄い朝靄が張りついていた。


 王宮の高い窓から見た朝とは違う。


 空は広く見えない。


 宿の屋根。


 向かいの納屋。


 低い木の柵。


 その向こうに、白く霞んだ畑と林がある。


 鳥の声も、王都より近い。


 まだ寝静まっている家々の間から、鶏の鳴き声が聞こえ、少し遅れて、桶へ水を汲む音がした。厩では馬が鼻を鳴らし、宿の裏手からは、薪を組み直す乾いた音が何度か響いている。


 森へ帰る道の、二度目の朝。


 フローラは村から持ってきた毛布の中で目を開いたまま、しばらく天井を見つめていた。


 低い梁。


 少し黒ずんだ木。


 王宮のような天蓋はない。


 金の装飾も。


 磨かれた石床も。


 遠くまで続く廊下もない。


 そのことへ、身体が少し安心している。


「今日も、帰ります」


 昨日。


 王都を出た。


 西門を越えた。


 王都の門を抜けた。


 街道を進み。


 宿へ着いた。


 今日。


 さらに森へ近づく。


 けれど、まだ森の家へ着くとは限らない。


 道の状態。


 馬の疲れ。


 休憩。


 森の入り口までの距離。


 予定では、夕方までに森の近くへ着く。


 そこから結界を越え、村へ入り、家まで戻れるか。


 すべては、進んでみなければ分からない。


「今日、着くかもしれません」


 胸が少し速くなる。


 青豆一号。


 アオジロウ。


 ムラマル。


 モリタン。


 オカエリ。


 キズナ。


 畑。


 森の家。


 大鍋。


 井戸。


 村の道。


 子どもたち。


 ガルドさん。


 レナードさん。


 思い浮かべると、毛布の中にいることが惜しくなった。


 早く起きたい。


 早く支度をしたい。


 馬車へ乗りたい。


 道を進みたい。


 でも。


 急ぐと。


 身体が追いつかない。


 昨日も、たくさんの声を受け取った。


 見送る声。


 王都の人々。


 宿の商人。


 帰る場所があるのはよいことだと言った老人。


 胸の中には、まだ言葉が残っている。


「急ぎません」


 帰りたい時ほど。


 一歩ずつ。


     ◇


 隣の寝台では、リオが毛布へ半分潜ったまま眠っていた。


 王宮から持ってきた丸い石は、窓辺に置かれている。


 朝の白い光を受け、ただの灰色の石に見える。


 王宮の庭の石。


 リオが持ち帰ると決めたもの。


 反対側。


 ミナの寝台は、すでに空だった。


 灰色の髪紐もない。


 先に起きている。


 フローラはゆっくり身体を起こした。


 床へ足を下ろす。


 冷たい。


 でも、昨日の王宮の床より柔らかな冷たさ。


 木だから。


 少し軋む。


 自分が動くと、音がする。


「起きました」


 小さく言う。


 リオは起きない。


 フローラは窓辺へ歩き、丸い石を見た。


「王宮の石も、宿で朝を迎えました」


 返事はない。


「今日は、森へ近づきます」


 石を持ち上げる。


 冷たい。


 少し重い。


 窓辺へ戻す。


「リオが起きたら、片づけてもらいます」


     ◇


 扉が軽く叩かれた。


「ミナです」


「入ってください」


 ミナが入る。


 すでに移動用の服。


 灰色の髪紐も結ばれている。


 手には、温かな湯の入った小さな桶と、布。


「おはようございます、フローラ様」


「おはようございます」


「よくお休みになれましたか」


「はい」


「夢は?」


「見ませんでした」


「はい」


「起きた時、森へ近づくと思いました」


「はい」


「少し、急ぎたいです」


「はい」


「でも、急ぎません」


 ミナが微笑む。


「それがよいと思います」


「今日、森へ着きますか」


「予定通り進めば、結界の近くまでは」


「家へは?」


「日が沈む前であれば、そのまま戻ることもできます」


「日が沈んだら?」


「手前の宿営地で一晩休む方が安全でしょう」


 胸が少し沈む。


 今日、家へ着かない可能性。


 目の前まで来て。


 でも。


「安全を優先します」


「はい」


「会いたい人が待っていても?」


「はい」


 森の人たち。


 帰りを知っているだろうか。


 王都から連絡は出ている。


 国王陛下の護衛。


 レナード隊。


 道中の安全確認。


 村へも、帰還予定は伝わっているはず。


「みんな、待っていますか」


 ミナは少し考えた。


「待っていると思います」


「はい」


「ですが」


 言葉を選ぶ。


「フローラ様が安全に戻られることを、一番に願っていると思います」


「はい」


 待たせる。


 それを覚えた。


 待たせたからといって、失うわけではない。


「一日遅れても?」


「はい」


「待ってくれます」


「はい」


 胸へ置く。


     ◇


 洗顔を終える。


 宿の湯。


 王宮の香油はない。


 ただ温かい。


 顔を拭く。


 目が覚める。


「指先は?」


 ミナが尋ねる。


「温かいです」


「胸は?」


「速いです」


「息は?」


「できます」


「はい」


 いつもの確認。


 身体。


 心。


 帰りたい気持ちに隠れていないか。


 見る。


     ◇


 着替えは、昨日と同じ移動用の服。


 外套。


 靴。


 花守り布。


 髪は自分で編む。


 昨日より少し乱れる。


 宿の鏡は小さく、全体が見えない。


 右側。


 左側。


 後ろ。


 手探り。


「曲がっていますか」


「少し」


「直しますか」


「いいえ」


 馬車へ乗る。


 森へ近づく。


 完璧でなくてよい。


 花守り布の内側へ触れる。


 一つ目。


 六つの言葉。


 木の実。


 二つ目。


『今日、森へ戻る。』


 その裏。


『王都を出た。まだ途中。』


 今日。


 さらに続きを書く。


 まだ早い。


 道を進んでから。


     ◇


「リオ」


 ミナが寝台へ近づく。


「朝です」


 返事はない。


「出発です」


 毛布の中で、少し動く。


「豆パンがあります」


 リオの顔が出た。


「ある?」


「道中用です」


「食べる」


「まず起きてください」


 フローラは笑った。


 森へ帰る朝。


 豆パンで起きる。


「大鍋より、豆ですか」


 リオは眠そうな顔で答える。


「今は豆」


「森へ着いたら?」


「大鍋」


「やはり」


     ◇


 朝食は、宿の一階で取った。


 昨日と同じ食堂。


 朝は空気が違う。


 旅人たちは出発準備をしながら食べ、商人たちは荷物の数を確かめ、地元の人々は仕事前の短い時間を過ごしている。


 フローラたちの席は、昨日ほど離されていなかった。


 王宮の護衛は近くにいる。


 でも、食堂全体を空けてはいない。


 視線はある。


 囁きも。


 それでも。


 昨日、商人へ答えた。


 森へ帰ることと、公爵家を捨てることは同じではない。


 分からないことを決めたことにしない。


 その話が、宿の中へ残っているのかもしれない。


「おはようございます、姫君様」


 宿の主人が頭を下げる。


「おはようございます」


「昨夜は、お休みになれましたか」


「はい」


「何かご不便は」


「ありませんでした」


 少し考える。


「窓が小さかったです」


 主人の顔が固まる。


「申し訳ございません」


「嫌だったという意味ではありません」


「はい」


「王宮の窓が大きすぎたので」


 周囲から小さな笑いが起きた。


 主人も、少し安心したように笑う。


「こちらは、普通の大きさでございます」


「はい」


「森の家は?」


「もう少し小さいです」


「では、こちらの方が王宮と森の中間ですな」


 中間。


 途中の宿。


 窓も。


 味も。


 場所も。


「はい」


     ◇


 朝食は、焼いた黒いパン。


 野菜の煮込み。


 卵。


 薄い乳。


 豆はない。


 リオは最初に皿を見て、少しだけ残念そうな顔をした。


「道で豆パンを食べます」


 フローラが言う。


「うん」


「今は卵を食べてください」


「うん」


 近くの席の子どもが、また笑う。


 昨日、豆パンについて尋ねた子。


 母親と一緒にいる。


「姫君様」


 子どもが小さな声で呼ぶ。


「はい」


「豆、好き?」


「はい」


「毎日?」


「毎日でなくてもよいです」


「その人は?」


 リオを見る。


「たぶん、毎日でもよいと思っています」


「うん」


 リオが答える。


 食堂に笑いが広がる。


 母親が恐縮して頭を下げる。


「何度も申し訳ありません」


「大丈夫です」


 フローラは子どもを見る。


「あなたは、何が好きですか」


 尋ねる。


 子どもは驚く。


「えっと」


 母親を見る。


 それから。


「卵」


「今日あります」


「うん」


「よかったです」


 子どもが笑う。


 何が好きか。


 聞く。


 父様が、フローラの豆を知ろうとした。


 今。


 フローラも。


 知らない子へ。


 大きなことではない。


 でも、少し胸が温かい。


     ◇


 食事の終わり。


 昨日話した商人が、席を立つ前に近づいてきた。


「姫君様」


「はい」


「昨夜は、失礼なことを伺いました」


「はい」


「一晩考えました」


 商人は帽子を胸へ当てる。


「私は、答えを急ぎすぎたようです」


「公爵家を捨てたか、ですか」


「はい」


「分かりやすい答えが欲しかったのでしょう」


「なぜですか」


 商人は少し困ったように笑う。


「その方が、人へ話しやすいからです」


 正直な答え。


「噂に?」


「はい」


 食堂の空気が少し静かになる。


「公爵令嬢が家を捨てた」


「はい」


「あるいは、公爵家へ戻った」


「はい」


「どちらかなら、話は簡単です」


「でも、違います」


「はい」


「私は、まだ決めていません」


「はい」


 商人は深く頷く。


「分からないままの話は、売り物になりにくい」


「話を売るのですか」


「商人同士の噂も、時に品物より早く広がります」


 フローラは胸の奥が少し冷える。


 自分のこと。


 誰かの話の種。


 面白い形へ整えられる。


 公爵家を捨てた。


 王都を拒んだ。


 化け物。


 畑の姫君。


 豆の令嬢。


 どれも。


 一部。


「私が分からないと言っても、誰かは決めるのですね」


「おそらく」


 商人は目を伏せる。


「私も、そうしようとしました」


「はい」


「ですが」


 顔を上げる。


「これからは、少なくとも私は、姫君様はまだ決めていないと伝えます」


 フローラはすぐに答えなかった。


 商人一人。


 噂すべては変わらない。


 でも。


「ありがとうございます」


「よろしいのですか」


「全部を正しく伝えられるかは、分かりません」


「はい」


「でも、決めていないと伝える人が一人いるのは」


 少し考える。


「嬉しいです」


 商人は頭を下げた。


     ◇


 出発準備。


 馬車の車輪。


 馬具。


 護衛の配置。


 宿の前には、昨日より多くの人が集まっていた。


 見送り。


 噂を聞いた人。


 ただ見たい人。


 子ども。


 老人。


 商人。


 農夫。


 フローラは宿の玄関で足を止めた。


 人が多い。


 胸が速くなる。


 王宮の西門。


 王都の通り。


 王都の門。


 昨日も見られた。


 今日も。


「大丈夫ですか」


 ミナが小さく尋ねる。


「少し、怖いです」


「はい」


「でも、歩けます」


「はい」


 リオが横へ立つ。


「森」


「はい」


「畑」


「はい」


「豆」


「はい」


「大鍋」


「はい」


 今日は最後まで、同じ声で答えられた。


     ◇


 宿の主人が深く頭を下げる。


「ご利用いただき、ありがとうございました」


「ありがとうございました」


「次にお通りの際も」


 次。


 フローラの身体が少し固くなる。


 主人はすぐに言い直す。


「通られることがあれば、でございます」


「はい」


「その時は」


「はい」


「窓の大きい部屋も探しておきます」


 周囲から笑いが起きる。


「普通の大きさでよいです」


「承知いたしました」


     ◇


 昨日の老人もいた。


 帽子を手に持っている。


「姫君様」


「はい」


「帰る場所は、近づきましたか」


「はい」


「よかった」


「でも、まだ途中です」


「途中なら、まだ帰っておられますな」


 不思議な言い方。


「着いていなくても?」


「帰る方へ進んでおられるなら」


 老人は笑う。


「帰っている途中です」


 昨日、自分が書いた言葉。


 でも、他の人から聞くと、少し違う。


「はい」


 フローラは頷いた。


「今日も、帰ります」


     ◇


 馬車へ乗る。


 宿の人々が頭を下げる。


 子どもが手を振る。


 フローラも振る。


 馬車が動く。


 宿。


 集落。


 畑。


 少しずつ遠ざかる。


 窓辺の丸い石は、今日はリオの膝の上。


「出さなかったのですか」


「出した」


「いつ?」


「起きる前」


「私が持ち上げたあとですか」


「うん」


「また置いたのですね」


「うん」


 大切らしい。


     ◇


 街道は、昨日より細くなった。


 両側の畑が減る。


 木が増える。


 人家も少ない。


 王宮の騎士たちは、道の前後を確認しながら進む。


 雨の影響で、ところどころ地面が柔らかい。


 車輪が沈む。


 速度が落ちる。


 フローラは、少し焦る。


 空を見る。


 まだ朝。


 時間はある。


 でも。


 遅い。


「今日、着けますか」


 何度目かの質問。


 ミナは責めない。


「今のところ、予定より少し遅れております」


「はい」


「ですが、昼以降の道が乾いていれば」


「はい」


「夕方までに結界へ着ける可能性はあります」


「家へは?」


「分かりません」


「はい」


 分からない。


 受け取る。


「急がせません」


「はい」


 御者へ速く進めと言わない。


 騎士へ無理をさせない。


 馬へ。


 道へ。


 待つ。


     ◇


 木々の間。


 鳥の声。


 街道の外へ、小さな花が咲いている。


 白鈴草ではない。


 森で見たことのある、小さな黄色い花。


「知っています」


 フローラが言う。


「何?」


 リオが窓を見る。


「ヒナツメです」


「食べる?」


「食べません」


「何に使う?」


「乾かすと、少し香りが残ります」


「必要?」


「今は、取りません」


 見知った植物。


 王都から遠ざかった。


 森へ近づいた。


「ヒナツメがあります」


 それだけで、胸が温かい。


     ◇


 午前の休憩。


 小さな川の近く。


 正式な休憩所ではない。


 道が少し広くなった場所へ馬車を止める。


 騎士たちは馬へ水を飲ませる。


 フローラも外へ降りた。


 川。


 細い。


 透明。


 石。


 水の音。


 王宮の噴水とは違う。


 止められていない。


 流れている。


「触ってもよいですか」


 護衛隊長が周囲を確認する。


「足元へお気をつけください」


「はい」


 川辺へ。


 しゃがむ。


 手を水へ入れる。


 冷たい。


 指先。


 手首。


 流れ。


「冷たい?」


 リオが尋ねる。


「水がです」


「心は?」


「温かいです」


 川の水を少し掬う。


 すぐに落ちる。


 持って帰れない。


 でも、触れた。


     ◇


 道中用の豆パン。


 包みを開く。


 昨日より少し固くなっている。


 でも、食べられる。


 フローラ。


 ミナ。


 リオ。


 騎士たちにも、別の包みが配られる。


 王宮の厨房。


 ヘルマンさん。


 豆の香り。


「森へ近づいても、王宮の味です」


 フローラが言う。


「うん」


 リオが食べる。


「嫌ですか」


「ううん」


「はい」


 王宮のものを。


 森へ向かう途中で食べる。


 混ざる。


 でも。


 森を選ぶ気持ちは変わらない。


     ◇


 護衛の若い騎士が、少し離れたところでフローラを見ていた。


 何か言いたそう。


 でも、近づかない。


 フローラが気づく。


「何かありますか」


 騎士が驚き、姿勢を正す。


「失礼いたしました」


「見ていました」


「はい」


「なぜですか」


 騎士は困る。


 隊長を見る。


 隊長は、止めなかった。


「以前」


 若い騎士が言う。


「公爵領の警備へ出たことがございます」


「はい」


「その際」


 声が小さくなる。


「青の姫君は、森で人を惑わせると聞きました」


 周囲の空気が固くなる。


 護衛たち。


 ミナ。


 リオ。


 フローラの胸も。


「はい」


「私は」


 騎士は目を伏せる。


「それを信じておりました」


 フローラは言葉が出ない。


 化け物。


 人を惑わせる。


 青い髪。


 森。


 昔の噂。


「今は?」


 ようやく尋ねる。


「分かりません」


 思っていなかった答え。


 騎士は続ける。


「一度の護衛で、姫君様のすべてを知ったとは言えません」


「はい」


「ですが」


 顔を上げる。


「少なくとも、私は昨日から、惑わされてはいないと思います」


 リオが横から言う。


「豆パン食べた」


 騎士が目を瞬く。


「はい」


「それで惑う?」


「分かりません」


「豆で?」


「……おそらく、違います」


 周囲から小さな笑いが起きる。


 固かった空気が少し緩む。


 騎士も、苦笑する。


「私は、噂を信じていたことを謝るべきだと思いました」


 フローラは川を見る。


 水。


 流れる。


「謝って、どうしてほしいですか」


 騎士は黙る。


「許してほしいですか」


「いいえ」


 すぐに答えた。


「許しを求めるつもりはございません」


「では?」


「今後、同じ噂を聞いた時」


 少し考える。


「分からないと答えます」


 フローラは騎士を見る。


「化け物ではないと、言わないのですか」


 自分でも、なぜ聞いたか分からない。


 騎士は正直に答える。


「そう言いたいと思っています」


「はい」


「ですが、それも姫君様を一度護衛しただけで、すべて分かったように話すことになるかもしれません」


「はい」


「なので」


 息を吸う。


「私が見た姫君様は、馬を急がせず、豆パンを分け、川の水を触っていたと伝えます」


 フローラの胸が熱くなる。


 化け物ではない。


 そう断言してほしい気持ちもある。


 でも。


 騎士が見たものを話す。


 それで。


「よいです」


「はい」


「見たことを、変えずに話してください」


「必ず」


     ◇


 休憩を終える。


 馬車へ戻る。


 若い騎士は、以前より少し近い位置で騎乗している。


 護衛の配置だから。


 でも、気になる。


「怒っていますか」


 ミナが尋ねる。


「少し」


「はい」


「悲しいです」


「はい」


「でも、正直に言ったことは」


 少し考える。


「嫌ではありません」


「はい」


 噂を信じていた。


 今も、すべては分からない。


 でも、見たことを話す。


「私も、王都の人を全部は知りません」


「はい」


「怖い人だと決めていたこともあります」


「はい」


「同じではありません」


 立場。


 傷。


 噂。


 同じにしてはいけない。


「でも、見ることはできます」


「はい」


     ◇


 午後。


 道の木々がさらに増える。


 森へ近い。


 フローラが知っている種類も増える。


 高い樹。


 灰色の幹。


 細い葉。


 蔓。


 鳥。


「知っています」


 何度も言う。


 リオも窓を見る。


「森?」


「まだです」


「でも近い」


「はい」


 胸が速くなる。


 今度は、緊張より嬉しさ。


 指先は温かい。


 息もできる。


 でも、身体が前へ出そうになる。


「馬車の中で歩けません」


 ミナが笑う。


「お気持ちは分かります」


「早く見たいです」


「はい」


「畑を」


「はい」


「家を」


「はい」


「みんなを」


「はい」


 言葉へするたび、待っていた気持ちが大きくなる。


     ◇


 道が、一度大きく曲がる。


 その先。


 遠くに、見覚えのある丘が見えた。


 低い。


 頂上に、一本だけ大きな木。


「知っています」


 フローラは窓へ身を寄せる。


「森の手前です」


 リオも立ち上がりそうになる。


「見えた」


「はい」


 丘。


 王都へ向かう時にも通った。


 あの丘を越えると。


 さらに先。


 森の外縁。


 結界。


「近いです」


 胸が強く鳴る。


 涙が滲む。


 まだ着いていない。


 でも。


 知っている景色。


「帰ってきましたか」


 思わず言う。


 ミナが、すぐに答えない。


「まだ、途中です」


「はい」


「ですが」


 窓の外を見る。


「見知った場所へは、戻ってきました」


「はい」


 涙が一筋落ちる。


 嬉しい。


 安心。


 王都の九日間。


 遠かった。


 長かった。


 でも。


 道はつながっていた。


     ◇


 丘へ向かう道。


 速度は遅い。


 ぬかるみ。


 馬。


 急げない。


 フローラは、何度も外を見る。


 丘は近づく。


 木。


 石。


 道端の草。


 知っている。


 すべてが。


 自分を知っているわけではない。


 でも、自分が知っている。


「待っていてください」


 森へ。


 畑へ。


 人へ。


「もう少しです」


     ◇


 丘の手前。


 前方の護衛が止まった。


 合図。


 馬車も止まる。


 フローラの胸が固くなる。


「何かありましたか」


 ミナが窓を開く。


 護衛隊長が近づいてくる。


「前方に、人影がございます」


「誰ですか」


「確認中です」


 森の近く。


 盗賊。


 魔物。


 村の人。


 分からない。


 騎士たちが動く。


 前方。


 丘の影。


 何人か。


 立っている。


 フローラは目を凝らす。


 遠い。


 でも。


 一人が、大きく手を振った。


「フローラ様ー!」


 声。


 風に乗る。


 知っている。


 胸が止まりそうになる。


「ガルドさん」


 フローラは立ち上がった。


 馬車が揺れる。


「お気をつけください」


 ミナが支える。


 前方。


 ガルド。


 その隣。


 子どもたち。


 何人も。


 レナード隊の一部。


 村の大人。


 道の端。


 待っている。


「みんな」


 声が震える。


 フローラは扉へ手を伸ばす。


「降ります」


「まだ、馬車が」


「止まっています」


「足元を」


「はい」


 扉が開く。


 地面へ降りる。


 護衛が周囲を確認する。


 でも。


 フローラの目には、前しか見えない。


 ガルドさん。


 子どもたち。


 手を振っている。


 走ってくる子も。


 大人に止められている。


「姫様!」


「フローラ様!」


「帰ってきた!」


「青の姫君!」


 声。


 重なる。


 王宮の見送りとは違う。


 整っていない。


 大きい。


 笑い。


 泣き声。


 叫び。


 フローラの脚が動く。


 一歩。


 二歩。


 走りたい。


 でも。


 足元。


 土。


 外套。


 転ばないように。


 急がない。


 それでも、いつもより速い。


     ◇


 ガルドが最初に近づく。


 大きな身体。


 いつもの服。


 森の土。


 髭。


 目が赤い。


「お帰りなさいませ」


 深く頭を下げる。


 フローラは、言葉が出ない。


 お帰りなさい。


 王都では聞かなかった。


 王宮へ来た時。


 帰ってきたと言われそうになることが怖かった。


 王都は、帰る場所ではない。


 今。


 森の手前。


 ガルドさん。


 お帰りなさい。


 胸の奥へ、まっすぐ届く。


「はい」


 声が震える。


「帰ってきました」


 言えた。


 涙が落ちる。


 ガルドも目元を拭う。


「遅くなりました」


「いいえ」


 ガルドは首を横へ振る。


「待っておりました」


「はい」


「皆で」


「はい」


「畑も」


 子どもたちが後ろから叫ぶ。


「見てた!」


「青豆一号、元気!」


「アオジロウも!」


「ムラマル、虫いた!」


「取った!」


「モリタン、伸びた!」


 言葉が一度に来る。


 フローラは泣きながら笑った。


「一人ずつ、お願いします」


 でも、子どもたちは止まらない。


「オカエリも!」


「キズナは花ついた!」


「大鍋、洗った!」


「ガルドさんが二回焦がした!」


「一回だ!」


「二回!」


「二回です!」


 周囲から笑いが起きる。


 フローラも。


 涙のまま。


「大鍋も、待っていましたか」


「はい!」


     ◇


 子どもたちが近づく。


 抱きつこうとして。


 途中で止まる。


 王都へ行く前。


 フローラが、触れられることへ敏感なことを知っている。


 一人の女の子が、両手を胸の前で止めた。


「抱きついていい?」


 フローラの胸が強く鳴る。


 母様。


 約束。


 許可なく触れない。


 今。


 森の子ども。


 自分へ聞く。


 フローラは一人ずつ見る。


 会いたかった。


 抱きしめたい。


 触れたい。


「はい」


 言う。


「今日は、よいです」


 子どもたちが一斉に動きそうになる。


「一人ずつ」


 ミナがすぐに言う。


 笑い。


 最初の女の子が抱きつく。


 小さな身体。


 土の匂い。


 髪。


 温かい。


「お帰り」


「ただいま」


 言葉が出た。


 自然に。


 ただいま。


 王都へは言えなかった。


 ここへ。


 言える。


 次の子。


 男の子。


 抱きつくというより、腕へ掴まる。


「遅い」


「はい」


「待った」


「はい」


「でも、帰ってきた」


「はい」


「ただいま」


 何度も言う。


 ただいま。


 ただいま。


 ただいま。


 声にするたび、身体が森へ戻っていく。


     ◇


 リオも馬車から降りる。


 子どもたちが群がる。


「リオ!」


「石持ってる?」


「何の石?」


「王宮の石」


「見せて!」


 リオは丸い石を高く持ち上げる。


「これ」


「普通!」


「丸い!」


「王宮の石!」


 子どもたちが騒ぐ。


 ミナも降りる。


 村の女性たちが近づき、灰色の髪紐へ気づく。


「王都の?」


「はい」


「似合う」


「ありがとうございます」


 それぞれ。


 持ち帰ったものを見せる。


 でも。


 フローラは、まだ家へ着いていない。


 丘の手前。


 森も。


 結界も。


 少し先。


「なぜ、ここで待っていたのですか」


 フローラがガルドへ尋ねる。


「今日、戻られると連絡がありましたので」


「でも、時間は分かりません」


「はい」


「朝から?」


 ガルドは少し視線を逸らす。


 子どもたちが答える。


「朝から!」


「ガルドさん、もっと後って言った!」


「でも俺たち来た!」


「昼も食べた!」


「ここで?」


「うん!」


 フローラの胸が痛む。


「待たせました」


「はい」


 ガルドは否定しなかった。


「ですが」


 フローラを見る。


「待てました」


 その言葉。


 主題。


 フローラが覚えてきたこと。


 待たせる。


 待つ。


「怒っていませんか」


「少し」


 子どもの一人が言う。


 周囲が笑う。


「遅かった!」


「はい」


「でも、帰ってきたからいい」


 別の子。


「畑も見た」


「はい」


「毎日」


「はい」


「フローラ様がいなくても」


「はい」


「でも、いた方がいい」


 涙がまた出る。


「はい」


     ◇


 レナードが前へ出る。


 王都へ同行しなかった隊員たちもいる。


 森の警備。


 村。


 結界。


「お帰りなさいませ、フローラ様」


「ただいま戻りました」


「王都での任を終えられたこと、お祝い申し上げます」


 フローラは少し首を横へ振る。


「終わっていません」


 レナードの目が動く。


「はい」


「母様の手紙も」


「はい」


「父様との話も」


「はい」


「公爵家のことも」


「はい」


「終わっていないまま、帰ってきました」


 レナードは、深く頷いた。


「承知いたしました」


「よいですか」


「ここは」


 森の方向を見る。


「終わっていないことを持って帰れない場所ではございません」


 胸へ届く。


 王都で。


 全部終わらせてから帰る必要はないと決めた。


 今。


 森の人が。


 受け入れる。


「ありがとうございます」


     ◇


 王宮の護衛隊長が、ガルドとレナードへ近づく。


 引き継ぎ。


 道中の報告。


 宿。


 休憩。


 異常なし。


 若い騎士もいる。


 噂を信じていたと話した人。


 彼は、森の人々がフローラへ群がる姿を見ている。


 子ども。


 大人。


 笑い。


 涙。


 青の姫君。


 化け物。


 その言葉と、目の前の姿。


 若い騎士の表情が変わる。


 驚き。


 少し恥じるような。


 でも。


 フローラは何も言わない。


 見たことを、見たまま。


 持ち帰ればよい。


     ◇


「今日は、家まで戻れますか」


 フローラがレナードへ尋ねる。


「日没まで、まだ少しございます」


「はい」


「結界を越えれば、村までは十分に」


「家へは?」


「村からさらに歩きますが」


 レナードは空を見る。


「急がず進んでも、暗くなる前には」


 胸が大きく鳴る。


「帰れますか」


「はい」


 家へ。


 今日。


「馬車は?」


「結界の手前までとなります」


 王宮の馬車。


 森の中へは入らない。


「歩きます」


「はい」


 王都へ入る時。


 門を自分の足で越えた。


 森へ帰る時。


 結界を。


 自分の足で。


「歩きます」


 もう一度。


     ◇


 王宮の護衛隊長が、フローラへ礼をする。


「我々は、結界の手前までお送りいたします」


「はい」


「その後、王都へ戻ります」


 別れ。


 また。


 昨日、王宮の人々へ。


 宿。


 今日、護衛。


「ありがとうございました」


「任務でございます」


「それでも」


 道中。


 安全。


 豆パン。


 川。


 噂を話した騎士。


「ありがとうございます」


 隊長は深く頭を下げた。


 若い騎士も。


 フローラは彼を見る。


「見たことを」


「はい」


「変えずに話してください」


「はい」


「私が泣いていたことも?」


 騎士は少し迷う。


「話してよいでしょうか」


 フローラは考える。


 泣く。


 弱い。


 公爵令嬢。


 青の姫君。


「子どもたちに会って泣いたと」


「はい」


「見たままなら」


「承知しました」


     ◇


 再び馬車へ。


 でも。


 子どもたちは歩いてついてくる。


 丘。


 森の手前。


 馬車はゆっくり進む。


 ガルドたちも。


 大勢。


 見送りではない。


 迎え。


「迎えられています」


 フローラが言う。


「うん」


 リオが答える。


「王宮では見送られました」


「うん」


「今は、迎えられています」


「うん」


「両方、たくさんです」


「うん」


 王都で増えたもの。


 森で待っていたもの。


 間にいる。


     ◇


 丘を越える。


 向こう。


 森。


 広い。


 濃い緑。


 風。


 木々の波。


 見えた瞬間。


 フローラは息を止めた。


「森です」


 声が震える。


 リオも窓へ。


「森」


「はい」


 知っている。


 帰る場所。


 結界は、目には見えない。


 でも。


 ある。


 森の外縁。


 境界。


 王都から。


 家へ。


 フローラの目から涙が溢れる。


 昨日より。


 今朝より。


 大きい。


「帰ってきました」


 まだ結界の外。


 でも。


 森が見える。


「はい」


 ミナが答える。


「帰ってきました」


     ◇


 馬車が、森の手前で止まる。


 ここから先。


 細い道。


 木の根。


 馬車には向かない。


 王宮の荷物は、村の荷車へ移す。


 人々が動く。


 箱。


 毛布。


 紙。


 服。


 菓子。


 裁縫箱。


 白鈴草の種。


 持ち帰るもの。


 森へ入る。


 王宮へ置いてきたものは、来ない。


 あとで届くものもある。


 今。


 必要なものだけ。


「歩けますか」


 ミナが尋ねる。


「はい」


「疲れていませんか」


「少し」


「はい」


「でも、歩きたいです」


「はい」


     ◇


 王宮の護衛たち。


 最後の礼。


 フローラは、一人ずつの顔を見る。


 名前を知らない人も多い。


 でも、道を一緒に来た。


「無事に送ってくれて、ありがとうございました」


 隊長が答える。


「森へお戻りになるまでが任務でございます」


「まだ、結界の外です」


「はい」


「では」


 フローラは少し笑う。


「もう少し、お願いします」


 周囲に笑いが起きる。


「もちろんでございます」


     ◇


 結界の手前。


 空気が少し違う。


 風。


 匂い。


 木。


 土。


 フローラには分かる。


 森。


 自分が張った結界。


 自分を守ったもの。


 今。


 戻る。


 フローラは立ち止まる。


 花守り布へ触れる。


 紙。


『今日、森へ戻る。』


 裏。


『王都を出た。まだ途中。』


 ここ。


 結界。


「続きを書きます」


 小さな筆記具を出す。


 紙を手のひらへ置く。


『森が見えた。待っていた声を聞いた。』


 書く。


 さらに。


『今から、自分の足で結界を越える。』


 筆を止める。


「よいです」


 紙を袋へ戻す。


     ◇


 ガルド。


 ミナ。


 リオ。


 子どもたち。


 村の人々。


 レナード隊。


 王宮の護衛。


 みんなが見ている。


 でも。


 怖くない。


 少し緊張する。


 胸は速い。


 指先は温かい。


 息はできる。


「行きます」


 フローラは言った。


 一歩。


 森の土。


 二歩。


 空気。


 三歩。


 結界へ。


 目には見えない境界。


 触れる。


 自分の魔力。


 懐かしい。


 拒まない。


 迎える。


 薄い風のような感覚が、髪と外套を撫でる。


 王都へ出る時。


 結界を離れた。


 今。


 戻る。


「ただいま」


 フローラは森へ言った。


 木々が揺れる。


 風。


 葉。


 鳥の声。


 返事のように。


 周囲の子どもたちが叫ぶ。


「お帰り!」


「お帰りなさい!」


「姫様!」


 声が森へ広がる。


 フローラは涙を拭わなかった。


「ただいま戻りました」


 王都で見送られ。


 街道を進み。


 宿で言葉を受け取り。


 噂を聞き。


 見知った丘を越え。


 待っていた声を聞いた。


 全部を終わらせてはいない。


 許しも。


 答えも。


 決めていないことも。


 持ったまま。


 それでも。


 森は、フローラを拒まなかった。


 人々も。


 畑も。


 家も。


 まだ見えない。


 でも、ここから先にある。


「帰る途中は、もう少しです」


 フローラは森の奥へ続く道を見た。


 村。


 畑。


 家。


 大鍋。


 今度こそ。


 自分の足で。


 最後まで。


「家へ帰ります」


 その言葉を胸へ置き、待っていた人々の声に囲まれながら、フローラは森の結界を越え、自分の家へ続く道をゆっくりと歩き始めた。

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