第88話 青の姫君、見送られながら森へ帰る
出発の朝。
フローラが目を覚ました時、王宮の空はまだ朝焼けの途中だった。
東の窓から見える空は、夜の名残を薄く残した青紫色で、その下へ柔らかな橙色が滲んでいる。王都の屋根はまだ眠っているように静かだったが、王宮の中ではすでに多くの人が動き始めていた。
遠くの廊下を行き交う足音。
荷車の小さな車輪が石床を転がる音。
低く交わされる声。
馬を整えるために、西門へ向かう騎士たちの金具の音。
王宮で迎える九度目の朝。
そして。
森へ帰る朝。
フローラは村から持ってきた毛布の中で目を開いたまま、しばらく天蓋を見つめていた。
「今日、帰ります」
昨日までは、明日だった。
今は、今日。
二日後。
明日。
今日。
言葉が一日ずつ近づき、ついに今の時間になった。
胸は速く鳴っている。
嬉しい。
森へ帰れる。
畑を見られる。
青豆一号。
アオジロウ。
ムラマル。
モリタン。
オカエリ。
キズナ。
ガルドさん。
村の子どもたち。
レナードさんたち。
森の家。
自分の寝台。
土の匂い。
朝の鳥の声。
大鍋。
思い浮かべるたび、身体の奥が温かくなる。
けれど。
王宮を出る。
国王陛下。
侍女たち。
庭師。
料理人。
豆の菜園。
母様。
父様。
胸の中には、小さな寂しさもある。
「両方です」
昨日から何度も確認した言葉。
帰りたい。
少し寂しい。
どちらかを消す必要はない。
フローラは毛布の端を握った。
母様は、見送りに来ない。
父様も来ない。
来ないと聞いた時。
安心した。
帰る直前に、また心を揺らされずに済む。
会いたいと言われない。
引き止められない。
抱きしめたいと頼まれない。
森へ戻る決定を、もう一度守らなくてよい。
でも。
見送りに来ない。
その事実は、少しだけ寂しい。
母様は、今どこにいるのだろう。
公爵邸。
王宮の別室。
自分の部屋。
父様は。
書斎。
王宮。
領地から届いた書類。
朝の執務。
二人とも、今日フローラが森へ帰ることを知っている。
その時間に、何を思うのか。
それは、二人のもの。
「私は、帰ります」
姿がなくても。
見送られなくても。
逆に。
姿がないからといって、気持ちがないと決めない。
分からない。
分からないものは、そのままにする。
◇
フローラは毛布をめくり、寝台から降りた。
床は少し冷たい。
王宮へ来た最初の朝。
この冷たささえ、知らない場所のものとして怖かった。
今は。
「王宮の床です」
それだけ。
森の家とは違う。
でも、怖いだけではない。
窓辺へ近づき、カーテンを開ける。
西庭の菜園は、まだ薄い朝の光の中にあった。
庭師たちは、今日はいつもより早く出ている。
フローラの出発前に、豆の様子を見せるためだろうか。
年長の庭師が葉を一枚ずつ持ち上げ、若い庭師が記録板へ何か書いている。昨日言った通り、葉の表だけでなく裏も見ている。
「見ています」
フローラは窓の向こうへ小さく言った。
自分が帰ったあとも。
今日も。
明日も。
見てくれる。
「お願いします」
届かない声。
でも。
あとで直接言える。
◇
扉が叩かれた。
「ミナです」
「入ってください」
ミナが入ってくる。
今日はすでに移動用の服を着ていた。
落ち着いた茶色の上着。
足元まで届かない軽い裾。
腰には必要な小物を入れる袋。
王宮で使っていた灰色の髪紐は、今朝の髪に結ばれている。
「おはようございます、フローラ様」
「おはようございます」
「ご気分はいかがですか」
「帰りたいです」
「はい」
「少し寂しいです」
「はい」
「緊張しています」
「はい」
「でも、帰れます」
ミナが頷いた。
「はい」
「眠れました」
「はい」
「母様の手紙は、読みませんでした」
「はい」
「父様へ、何も書いていません」
「はい」
「それでも、今日です」
「はい」
一つずつ言葉へする。
今の自分。
今日の朝。
「お身体は?」
「痛くありません」
「指先は?」
フローラは自分の手を見る。
「温かいです」
「はい」
「胸は速いです」
「はい」
「でも、息はできます」
ミナは、いつものように急がせない。
「お着替えになられますか」
「はい」
◇
移動用の服は、王都へ来た時に着ていたものに似ていた。
柔らかな布。
長すぎない裾。
土がついても目立ちにくい深い緑。
上から薄い茶色の外套を羽織る。
公爵令嬢としての華やかさは少ない。
でも。
森へ帰る服。
「これがよいです」
「はい」
侍女たちが、最後の着替えを手伝う。
昨日、王宮へ置いていくと決めたドレスは、すでに別の部屋へ運ばれている。
持って帰る三着は、箱へ。
今日着ているものは、王宮から森へ続く道を一緒に進む。
髪は、自分で編む。
昨夜決めた。
侍女へ任せるのも嫌ではなくなった。
でも、森へ帰る朝は。
「自分でします」
「かしこまりました」
鏡の前へ座る。
髪を分ける。
指を通す。
編む。
王都へ来る時より、少し速い。
手は震えている。
でも、止まらない。
左側の編み目が少し緩い。
右側は少し細い。
最後を紐で結ぶ。
「できました」
鏡の中。
青い髪。
森へ帰る服。
花守り布。
少し不揃いな編み目。
今のフローラ。
年長の侍女が、そっと口を開く。
「とても、お似合いでございます」
「きれいですか」
「はい」
「公爵令嬢らしいですか」
侍女は少し迷う。
以前なら。
正しい答えを探した。
今日は。
「フローラ様らしいと思います」
胸の奥が温かくなる。
「それがよいです」
◇
花守り布を手に取る。
内側の袋。
一つ目。
王都へ持ってきた六つの言葉。
茶屋の女の子からもらった木の実。
二つ目。
明日、森へ戻る。
昨日まで、そう書かれていた紙。
フローラは紙を取り出した。
机へ置く。
筆を持つ。
『今日、森へ戻る。』
書き直す。
二日後。
明日。
今日。
最後の形。
「着いたら?」
リオの声が扉の外から聞こえた。
まだ呼んでいない。
「入ってよいですか」
「どうぞ」
扉が開き、リオが顔を出す。
すでに荷物を背負っている。
「早いです」
「準備した」
「朝食は?」
「まだ」
「荷物を背負ったまま食べるのですか」
「置く」
リオは荷物を床へ置き、机の紙を見る。
「今日?」
「はい」
「森へ戻る」
「はい」
「着いたら、どうする?」
紙。
今日、森へ戻る。
森へ着いたあと。
戻った。
過去になる。
「森へ着いたら、新しく書きます」
「何を?」
「帰りました」
「うん」
未来。
今。
過去。
言葉も変わる。
◇
朝食は、客室で取った。
王宮で最後の朝食。
でも、特別に豪華ではない。
温かな麦粥。
小さく焼いた魚。
柔らかな野菜。
薄い果実水。
道中用に作られた豆の塗りものを、試しに少しだけパンへ載せてある。
「これです」
若い料理人が緊張した様子で説明する。
「煮た豆へ塩と香草、それから少量の油を加えております」
フローラはパンを一口食べた。
豆の甘さ。
香草の香り。
少しだけ塩。
「おいしいです」
料理人の顔が明るくなる。
「森でも作れますか」
「似た香草があれば」
「あります」
「油が少ない場合は、煮汁を少し残して潰すとよろしいかと」
「書いてありますか」
「はい」
作り方の紙。
荷物へ入っている。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
料理人は深く頭を下げた。
「姫君様に食べていただき、光栄でございました」
「私は、たくさん食べていません」
「それでも」
「豆は、何度も食べました」
「はい」
「森でも作ります」
「はい」
料理人の目が少し潤む。
フローラは、なぜか胸が痛くなった。
もう会わないかもしれない。
名前も知らない。
でも。
作ってくれた。
食べた。
持って帰る。
「名前を、聞いてもよいですか」
若い料理人が驚く。
「私の、でございますか」
「はい」
「ヘルマンと申します」
「ヘルマンさん」
名前を呼ぶ。
料理人の肩が震えた。
「はい」
「豆の作り方を、ありがとうございます」
「……はい」
深く頭を下げる。
周囲の侍女たちも、静かにその様子を見ていた。
名前を呼ぶ。
父様へ求めていたこと。
フローラも。
今、誰かの名前を聞いた。
◇
朝食の途中。
年長の侍女が、白鈴草の種について報告した。
「今の時期に取れる種が、少量ございました」
「本当ですか」
「はい。ただし」
「はい」
「森の土で育つかは、分からないとのことでございます」
「それでよいです」
「小さな袋へお入れしております」
白い布袋。
中には、細かな種。
「持って帰ります」
「はい」
「でも、全部は蒔きません」
「はい」
「最初は少しだけ」
「よいと思います」
「芽が出なければ?」
侍女は少し考える。
「残念です」
「はい」
「でも、王都で咲いていたことは変わりません」
フローラは侍女を見る。
自分が言いそうな言葉。
王宮の人が言った。
「はい」
「育たなければ、また考えます」
◇
朝食を終える。
食器が下げられる。
若い料理人たち。
侍女。
部屋を整えていた使用人。
一人ずつ。
少しずつ、扉の近くへ集まっている。
正式な見送りは西門。
でも。
この部屋で過ごした人たちは、ここで言葉を伝えたいのだろう。
年長の侍女が一歩前へ出た。
「フローラ様」
「はい」
「王宮へお越しくださり、ありがとうございました」
フローラはすぐに返事をしなかった。
来た。
自分で。
王都の門を越えた。
王宮へ。
怖かった。
でも。
「私も」
声が少し震える。
「来てよかったです」
侍女たちの目が揺れる。
「全部ではありません」
「はい」
「怖いこともありました」
「はい」
「苦しいことも」
「はい」
「でも」
国王陛下へ言葉を伝えた。
母様へ会った。
父様へ会った。
王宮の豆を見た。
侍女たちと笑った。
名前を聞いた。
「来なければ、分からなかったことがありました」
「はい」
「ありがとうございます」
侍女たちは、一斉に頭を下げた。
誰かが小さく鼻をすする。
別の侍女が手巾で目元を押さえる。
若い料理人ヘルマンも、少し離れたところで唇を噛んでいる。
フローラの胸が熱くなる。
「泣かないでください」
言いかけて止まる。
泣くことは。
その人のもの。
「泣いてもよいです」
言い直す。
侍女たちの間に、小さな笑いが生まれた。
「私も、少し寂しいです」
それを言うと。
何人かの涙が増えた。
◇
荷物の最終確認。
箱は二つ。
大きなものは衣類。
小さなものは紙や道具。
菓子。
裁縫箱。
刺繍糸。
豆料理の紙。
茶葉。
白鈴草の種。
母様の手紙。
若い侍女からの手紙。
母様と父様の言葉を三文ずつ書いた紙。
植物の記録。
村の毛布。
花守り布。
リオの丸い石。
ミナの髪紐は、すでに身につけている。
王宮へ預ける紙は、封筒へ入れられた。
母様との六つの約束。
父様との七つの約束。
詳しい面会記録。
国王陛下との話の写し。
封蝋。
青い蝋。
フローラが選んだ。
「私の許可なく開けないでください」
エドガーが頷く。
「厳重に保管いたします」
「母様と父様が、読みたいと言っても?」
「お見せいたしません」
「国王陛下が?」
「陛下へも、フローラ様の私的な記録であることをお伝えしております」
「はい」
「返却をお望みの際は、いつでも」
「はい」
紙を置いていく。
でも。
王宮へ自分の一部を奪われるわけではない。
預ける。
待たせる。
◇
最後に、客室を見回す。
寝台。
天蓋。
大きな窓。
机。
椅子。
母様の手紙を読んだ場所。
父様との約束を書いた場所。
豆の名前を話した場所。
王宮へ来た最初の夜、広すぎると思った部屋。
今も広い。
森の家より、ずっと。
でも。
知らないだけの場所ではなくなった。
「ありがとうございました」
部屋へ言う。
リオが首を傾げる。
「部屋に?」
「はい」
「返事しない」
「分かっています」
「でも言う?」
「はい」
言いたいから。
◇
廊下へ出る。
荷物は使用人たちが運ぶ。
フローラは、花守り布の袋へ触れる。
今日、森へ戻る。
紙がある。
木の実も。
廊下には、想像していたより多くの人がいた。
正式な見送りへ呼ばれていない使用人たち。
侍従。
侍女。
料理人。
庭師。
清掃係。
警備の兵。
廊下の端へ並び、フローラが通る道を空けている。
静か。
最初の日のような囁きは少ない。
ただ。
視線。
頭を下げる人。
手を胸へ当てる人。
少し笑う人。
泣いている人。
フローラの足が止まりそうになる。
こんなに多くの人。
自分を見ている。
怖い。
胸が速い。
「フローラ」
リオが小さく呼ぶ。
「はい」
「森」
「はい」
「畑」
「はい」
「豆」
「はい」
「大鍋」
「やはり、最後はそれなのですね」
少し笑う。
息が戻る。
歩く。
◇
廊下の途中。
年配の清掃係の女性が、頭を下げたまま声をかけた。
「姫君様」
フローラは立ち止まる。
「はい」
女性は顔を上げる。
「お部屋の窓辺へ、土が少し落ちておりました」
フローラの胸が固くなる。
「申し訳ありません」
菜園から戻った時。
靴。
服。
土。
汚した。
すぐに謝る。
けれど、女性は慌てて首を横へ振った。
「いいえ」
「でも」
「王宮の客室へ、土が落ちているのを見たのは初めてでございました」
周囲の人々が静かに聞いている。
「嫌でしたか」
「いいえ」
女性は笑った。
「少し、嬉しゅうございました」
「なぜですか」
「ここで、誰かが暮らしていたように見えたからです」
客室。
整えられる。
使われる。
去れば、元へ戻す。
でも。
土。
フローラが歩いた。
「すぐに掃除してしまいましたが」
「はい」
「掃除する前に、少しだけ見ました」
「はい」
「森からいらした方の土なのだと思いました」
胸が熱くなる。
「掃除してくれて、ありがとうございます」
「こちらこそ」
女性は深く頭を下げた。
フローラはまた歩き出す。
土。
王宮へ落とした。
森の土ではないかもしれない。
菜園の土。
でも。
土が残った。
◇
階段を下りる。
広い玄関廊下。
外から朝の光が差し込む。
西門へ続く扉が開いている。
その向こうに、馬車。
馬。
騎士。
荷物。
帰る道。
フローラの足が少し速くなりそうになる。
でも。
急がない。
一歩ずつ。
◇
西門の内側。
国王陛下が待っていた。
王冠はない。
見送りのための正式な礼装でもない。
濃い紺色の上着。
側近が二人。
護衛。
エドガー。
庭師たち。
厨房の代表。
侍女たち。
必要最低限と聞いていた。
それでも、フローラには多く見えた。
門の外には、さらに王宮の騎士が整列している。
馬車は二台。
先頭に護衛騎士。
後ろにも。
道中の安全確認を終えた騎士が、エドガーへ報告している。
「道は問題ございません」
「昨日の雨によるぬかるみが、一部残っております」
「速度を落として進みます」
「宿は前回と同じ場所を確保しております」
帰るための準備。
整っている。
国王陛下がフローラを見る。
「眠れたか」
「はい」
「食べたか」
「はい」
「忘れ物は」
フローラは少し考える。
「あるかもしれません」
国王陛下の眉が上がる。
「確認していないのか」
「確認しました」
「なら、なぜあるかもしれぬ」
「忘れたことに気づいていないものは、分かりません」
国王陛下が黙る。
側近の一人が、わずかに口元を押さえる。
「……そうだな」
国王陛下は小さく息を吐いた。
「必要なものなら送る」
「はい」
「必要でなければ、そのまま置いておけ」
「はい」
◇
フローラは、国王陛下の前へ立つ。
最初に会った日。
六つの言葉を伝えた。
今日は。
帰ることを伝える。
「森へ帰ります」
「ああ」
「公爵家のことは、まだ決めません」
「ああ」
「母様の手紙も、途中です」
「ああ」
「父様と母様へ、次に会うかも決めていません」
「ああ」
「分からないまま、帰ります」
国王陛下は、ゆっくり頷いた。
「それでよい」
「王都へ、また来るかも分かりません」
「それも、その時に決めろ」
「はい」
「ただし」
国王陛下の表情が少し厳しくなる。
「何かあれば、知らせろ」
王命。
そう聞こえそうになる。
フローラの身体が少し固くなる。
国王陛下は気づいたのだろう。
「命令ではない」
「はい」
「知らせたいと思った時でよい」
「はい」
「助けが必要な時に、王都を頼ることはできる」
頼る。
残る。
戻る。
同じではない。
「覚えておきます」
「それでよい」
◇
国王陛下は、少しだけ視線を逸らした。
西庭の方向。
「庭師たちが、豆の種を必ず送ると言っている」
「はい」
「白い花の種も」
「はい」
「王宮から森へ、豆と花の種を送ることになるとは思わなかった」
「駄目ですか」
「駄目ではない」
国王陛下の口元が少し緩む。
「ただ」
「はい」
「次に来る時は、王宮の庭を畑に変えるな」
周囲から、小さな笑いが起きる。
「全部は変えません」
「一部なら変えるつもりか」
「必要なら」
「必要とは何だ」
「育つか見るためです」
「森で見ろ」
「王都で育つものもあります」
「……もうよい」
国王陛下が額へ手を当てる。
リオが横から言う。
「王豆一号」
「その名は何だ」
「王宮の豆」
「まだ決まっていません」
フローラが訂正する。
「芽が出てからです」
「王宮の豆を森へ持っていくのだな」
「種です」
「同じことだ」
「株は持って帰りません」
国王陛下が、今度ははっきり笑った。
周囲の側近や騎士たちも、緊張を少し緩める。
青の姫君の見送り。
重い別れだけではない。
豆の話。
◇
笑いが落ち着いたあと。
国王陛下は、フローラをまっすぐ見る。
「フローラ」
「はい」
「王都へ来たことを、後悔しているか」
すぐには答えない。
苦しかった。
怖かった。
母様へ会った。
父様へ会った。
怒った。
泣いた。
手紙を読んだ。
読まなかった。
王都の人々に見られた。
噂された。
豆を食べた。
笑った。
「後悔していません」
言えた。
「そうか」
「でも、またすぐ来たいとは思いません」
国王陛下が少し笑う。
「正直だな」
「はい」
「それでよい」
◇
見送りへ集まった人々の中。
母様も父様もいない。
フローラは、分かっていた。
でも。
一度だけ、周囲を見た。
門の内側。
柱の影。
窓。
回廊。
いない。
胸が少し痛む。
国王陛下が、その視線に気づいたかもしれない。
でも、何も言わない。
フローラも聞かない。
母様と父様が、どこから見ているのか。
見ていないのか。
分からない。
「会いたい気持ちは、少しあります」
心の中で言う。
でも。
会わないと決めた。
見送りに来ないことを、二人は選んだ。
約束を守るために。
「受け取ります」
◇
庭師たちが前へ出る。
年長の庭師の手には、小さな木札があった。
「姫君様」
「はい」
「王宮の豆の記録札でございます」
「持って帰るのですか」
「いいえ」
庭師は笑う。
「これは、こちらへ残します」
木札には。
『青の姫君確認株』
そう書かれている。
フローラは目を見開いた。
「私の名前ではありません」
「お名前を勝手に書くことは避けました」
「青の姫君も、私です」
「そうでございますね」
周囲から笑いが起きる。
「必要ですか」
「若い者たちが、忘れぬために」
「何を?」
「葉の裏を見ることを」
フローラは木札を見る。
「私が帰ったあとも?」
「はい」
「分からない時は?」
「分からないと記録します」
「見てから?」
「必ず」
胸が熱くなる。
「お願いします」
庭師たちは深く頭を下げた。
◇
厨房の副料理長とヘルマンも前へ出る。
手には、道中用の包み。
「豆の塗りものを挟んだパンでございます」
「はい」
「一つずつ布へ包んでおります」
「ありがとうございます」
「森で作られた時」
ヘルマンが緊張しながら言う。
「王宮とは違う味になりましたら」
「はい」
「いつか、手紙で教えていただけると」
手紙。
王都へ。
フローラは少し考えた。
「書きたいと思ったら」
ヘルマンは、すぐに頷く。
「はい」
「その時は、書きます」
「ありがとうございます」
期待を持つこと。
でも、急がない。
王宮の人たちも、少しずつ分かってくれている。
◇
侍女たち。
年長の侍女が、最後に小さな布を差し出した。
「こちらは、王宮へ置いていかれるお衣装の目録でございます」
「目録?」
「はい。どの服をお預かりしているか」
「必要ですか」
「次にお越しになった時、分からなくならないように」
また来る。
その言葉。
「来ないかもしれません」
「はい」
「それでも?」
「はい」
「待たせますか」
「はい」
侍女は穏やかに笑う。
「お衣装も、お待ちしております」
フローラは目録を受け取った。
「持って帰ります」
◇
エドガーが出発の時間を告げる。
「そろそろ、お時間でございます」
空は、もう朝焼けを終えている。
王都の屋根には、白い光。
西門の外。
道。
馬車。
森へ続く。
フローラは国王陛下へ向き直った。
礼をする。
公爵令嬢として教えられた礼。
でも。
深さは自分で決める。
「ありがとうございました」
「何に対してだ」
「会う順番を、私へ返してくれたこと」
「ああ」
「帰る日を、止めなかったこと」
「ああ」
「王宮の豆を、食べさせてくれたこと」
国王陛下の口元が少し動く。
「最後がそれか」
「大切です」
「そうか」
「それから」
フローラは、少し息を吸う。
「王都へ来た私を、森へ帰してくれること」
国王陛下の目が揺れた。
「帰るのは、お前の決定だ」
「はい」
「私は、道を整えただけだ」
「それでも」
「そうか」
国王陛下は、それ以上否定しなかった。
「無事に帰れ」
「はい」
「森へ着いたら、知らせろ」
フローラの身体が少し固くなる前に。
国王陛下が続ける。
「知らせたいと思ったら、でよい」
フローラは少し笑った。
「はい」
◇
馬車へ向かう。
人々の視線。
でも、怖いだけではない。
階段。
一段。
二段。
馬車の前。
扉が開いている。
リオが先に乗る。
ミナがフローラを待つ。
乗る前。
フローラは振り返った。
国王陛下。
エドガー。
侍女たち。
庭師。
料理人。
騎士。
王宮。
母様と父様は、いない。
それでも。
「行ってきます」
言いかけて止まる。
行ってきます。
戻る前提。
今は。
「帰ります」
フローラは言った。
声は、思ったより大きく出た。
「森へ帰ります」
人々が頭を下げる。
「どうか、ご無事で」
「姫君様」
「また、いつか」
「お元気で」
声が重なる。
大きすぎない。
でも、多い。
群衆の中には、泣いている人も。
笑っている人も。
手を振りそうになり、礼儀を思い出して止めた若い侍女もいた。
フローラは、その侍女へ小さく手を上げた。
侍女が驚き。
そして。
今度は、そっと手を振る。
周囲の人々も、少しずつ手を上げる。
正式な王宮の見送りではない。
でも。
フローラが望んだわけでもない。
人々が、自分で。
手を振る。
フローラも振った。
◇
馬車へ乗る。
ミナ。
リオ。
三人。
王都へ来た時と同じ。
でも。
同じではない。
扉が閉まる。
窓は開けたまま。
御者の声。
馬が動く。
車輪が石畳を転がる。
ゆっくり。
西門を抜ける。
王宮の内側。
外側。
門の影が馬車の中を通り過ぎる。
フローラの胸が強く鳴る。
「出ました」
「うん」
リオが答える。
「王宮を」
「うん」
「帰ります」
「うん」
窓の外。
王宮の人々が小さくなる。
国王陛下は手を振らない。
でも、立っている。
侍女たちは、まだ手を振っている。
庭師も。
料理人も。
エドガーも、小さく頭を下げたまま。
見えなくなるまで。
◇
王宮から王都の通りへ。
朝の街は、すでに動いていた。
店を開く人。
荷車。
パンを運ぶ少年。
水を撒く女性。
通りの端へ寄る人々。
王宮の馬車。
護衛。
その中に。
青い髪。
「青の姫君だ」
誰かが言った。
「森へ帰るらしい」
「本当に?」
「公爵邸へは?」
「行かないそうだ」
「王宮から出るぞ」
「見ろ」
人が立ち止まる。
窓から顔を出す人。
子どもを抱き上げる母親。
商人。
職人。
噂。
視線。
王都へ入った日と同じように。
でも。
空気が違う。
「化け物」
その言葉は、聞こえない。
誰かが言っているかもしれない。
分からない。
でも、近くで聞こえるのは。
「畑の姫君」
「豆の令嬢」
「王宮の庭師に教えたって」
「病気じゃなく虫だったとか」
「森へ戻るのか」
話が変わっている。
全部正しいわけではない。
教えたのではない。
見つけた。
分からないと言った。
でも。
噂の中のフローラが、少し人に近くなっている。
「見られています」
ミナが言う。
「はい」
「大丈夫ですか」
「胸は速いです」
「はい」
「でも」
窓の外。
少女が手を振っている。
母親が止めようとする。
フローラは、小さく手を振り返した。
少女の顔が明るくなる。
「少し、大丈夫です」
◇
通りの角。
以前立ち寄った茶屋の近く。
茶屋の前に、人がいる。
あの小さな女の子。
母親らしい女性と一緒。
馬車を待っていたのだろうか。
幸運の木の実をくれた子。
少女がフローラを見つけ、大きく手を振る。
「姫君様!」
声が届く。
フローラは身体を窓へ寄せた。
「木の実!」
少女が叫ぶ。
「持ってる?」
花守り布の袋へ触れる。
ある。
王都へ来る前にもらった木の実。
帰りも持って帰る。
「持っています!」
フローラは声を返した。
馬車の音。
人の声。
それでも、届いた。
少女が笑う。
「よかった!」
茶屋の前の人々も笑う。
「またね!」
少女が言う。
また。
フローラは、すぐに同じ言葉を返せなかった。
また王都へ来るかは、分からない。
でも。
「元気で!」
そう返す。
少女は、何度も手を振った。
馬車が角を曲がる。
見えなくなる。
「木の実、持って帰れます」
フローラが言う。
「うん」
リオが頷く。
「約束した」
「はい」
◇
王都の門が近づく。
入った時。
大きく見えた門。
城壁。
兵士。
人の流れ。
自分の足で越えた。
今日は馬車で出る。
門の前には、出入りを待つ荷車や旅人が並んでいた。
王宮の騎士が先に進み、道を整える。
人々が端へ寄る。
フローラは窓から門を見る。
「帰る門です」
王都へ来る門でも。
出る門でも。
同じ。
見る方向が違う。
門番たちが礼をする。
その中の一人は、入都の日にもいたのかもしれない。
分からない。
「青の姫君様」
門番の声。
「道中、ご無事で」
「ありがとうございます」
馬車が門の影へ入る。
光が薄くなる。
車輪の音が、石壁へ響く。
胸が鳴る。
門の中。
門の下。
門の外。
光。
王都の外。
空が広がる。
遠くへ続く道。
「出ました」
フローラは言う。
「うん」
「王都を」
「うん」
「森へ帰ります」
「うん」
◇
王都の城壁が、少しずつ遠ざかる。
フローラは窓から振り返った。
大きな壁。
塔。
門。
王宮は見えない。
母様も。
父様も。
王都の中。
置いてきた。
でも。
捨ててきたわけではない。
手紙を持っている。
三文ずつの言葉を持っている。
約束の紙は王宮へ預けた。
衣装も。
豆の種は、あとで届く。
白鈴草の種は、今荷物の中。
道はつながっている。
「寂しいです」
フローラが言う。
「うん」
リオが答える。
「帰れて嬉しいです」
「うん」
「王都を嫌いではないと思うのが、少し怖いです」
ミナが静かに尋ねる。
「なぜでしょう」
「森を選ぶ気持ちが、弱くなるように思うからです」
「弱くなりましたか」
フローラは森の方向を見る。
胸の奥。
帰りたい。
早く畑を見たい。
家へ入りたい。
毛布を置きたい。
大鍋を使いたい。
変わっていない。
「いいえ」
「はい」
「王都に嫌ではないものがあっても、森へ帰りたいです」
「はい」
「両方、持てます」
「はい」
王都を嫌い続けなければ、森を選べないわけではない。
母様と父様を憎み続けなければ、自分を守れないわけでもない。
でも。
許す必要もない。
決めない。
今は。
◇
街道へ入る。
朝の風が、窓から入ってくる。
王都の匂いが少しずつ薄くなる。
石。
煙。
パン。
人。
代わりに。
土。
草。
畑。
風。
森へ近い匂い。
まだ遠い。
でも。
「匂いが変わりました」
「うん」
リオが鼻を動かす。
「土」
「はい」
「王都の土ではありません」
「同じ土じゃない?」
「少し違います」
フローラは笑う。
街道沿いの畑。
知らない作物。
遠くの村。
農夫たちが手を止め、馬車を見る。
王宮の紋章。
青い髪。
「姫君様!」
誰かが帽子を上げる。
フローラは小さく頭を下げる。
王都の外でも。
見られる。
でも。
畑がある。
土がある。
少し安心する。
◇
馬車の中。
最初の休憩まで、まだ時間がある。
リオが道中用の包みへ手を伸ばす。
「朝食を食べたばかりです」
「少し」
「昼まで待ってください」
「豆パン」
「逃げません」
「固くなる」
「数時間では、あまり変わりません」
リオは包みを見つめる。
フローラは笑った。
「一つだけなら」
ミナが言う。
「ミナ」
「出発で緊張しておりましたから」
「私は?」
「フローラ様も、召し上がりますか」
フローラは少し考える。
朝食を食べた。
でも。
王宮を出た。
王都を出た。
胸が空いたような感覚がある。
「少しだけ」
包みを開く。
豆の塗りものを挟んだパン。
三人で分ける。
王宮の料理。
王都の外の道。
森へ向かう馬車。
「同じ味です」
リオが言う。
「まだ、王宮で作ったものですから」
「森で作ったら違う」
「はい」
「早く作る」
「まず帰ってからです」
「今日着く?」
「今日は宿までです」
「明日?」
「明日、森へ近づきます」
「遠い」
「来る時も、同じ道でした」
「帰りは長い」
フローラは窓の外を見る。
「帰りたいからでしょうか」
「うん」
◇
馬車が進む。
王都の城壁は、もう見えない。
フローラは花守り布の袋へ触れた。
今日、森へ戻る。
でも。
今日中には森へ着かない。
王都を出た。
宿へ。
その次。
森。
「戻るは、一日では終わりません」
フローラが言う。
「はい」
ミナが答える。
「今日、王都を出ました」
「はい」
「でも、まだ森には着いていません」
「はい」
「帰る途中です」
「はい」
途中。
母様と父様とのことも。
公爵家のことも。
自分の気持ちも。
全部、途中。
帰る道も。
「途中でよいです」
フローラは紙を取り出した。
『今日、森へ戻る。』
見る。
少し違う。
今日、森へ戻るために王都を出る。
森へ着くのは、まだ先。
書き直すか。
考える。
「書いた時は、今日から戻るという意味でした」
「はい」
ミナが言う。
「間違いではありません」
「はい」
「でも、着いたとは書いていません」
「はい」
言葉は、完全でなくてもよい。
今の自分が意味を知っている。
「そのままにします」
紙を袋へ戻す。
◇
昼前。
最初の休憩所が見えてきた。
王都へ入る前。
父様と会った場所とは違う。
もっと小さな街道沿いの休憩所。
木造の屋根。
井戸。
馬を休ませる柵。
何台かの荷馬車。
旅人。
王宮の一行が入ると、人々が驚いて道を空ける。
フローラの馬車が止まる。
扉が開く。
外へ降りる。
土。
靴の下。
王宮の石ではない。
フローラは一度、深く息を吸った。
「土です」
リオが言う。
「はい」
「王宮にもあった」
「はい」
「でも違う?」
「少し」
風が吹く。
草の匂い。
馬。
井戸の水。
食事の煙。
王都より、森へ近い。
◇
休憩所の人々は、遠巻きにフローラを見ていた。
「青の姫君」
「王都から帰るらしい」
「森へ?」
「本当に畑仕事をしているのか」
「王宮でも豆を見ていたって」
噂は、すでに街道へ出ている。
フローラは少し緊張する。
でも、休憩所の端に小さな畑を見つけた。
細い葉。
赤みのある茎。
見慣れない作物。
「何でしょう」
近づこうとする。
護衛が少し動く。
人々もざわめく。
「姫君様?」
休憩所の主人らしい男性が、慌てて前へ出る。
「あの畑を見てもよいですか」
「は、はい」
「触りません」
「どうぞ」
フローラは畑の前へしゃがむ。
葉。
茎。
土。
小さな虫。
「食べるものですか」
「赤茎菜でございます」
「赤茎菜」
「この辺りでは、塩漬けにいたします」
「森でも育ちますか」
男性は困る。
「分かりません」
フローラは顔を上げた。
男性が慌てる。
「も、申し訳ございません」
「なぜ謝るのですか」
「分からないなど」
「分からないなら、それでよいです」
周囲の旅人たちが静かになる。
「ここでは育っています」
「はい」
「森では分かりません」
「はい」
「種はありますか」
「ございます」
リオが横から言う。
「また増える」
「全部は持って帰りません」
フローラは少し考える。
白鈴草。
王宮の豆。
すでに新しいものがある。
「今日は、持って帰りません」
男性が驚く。
「よろしいので?」
「はい」
「でも、名前を覚えます」
「赤茎菜でございます」
「はい」
持ち帰らない。
それでも、知った。
◇
休憩所で、昼食。
王宮から持たせてもらった豆パン。
干した肉。
果実水。
旅人たちから少し離れた場所。
でも、完全に囲わない。
人々の視線。
子どもたちが、遠くから見ている。
フローラはパンを食べる。
豆。
王宮の味。
街道の風。
「森の味じゃない」
リオが言う。
「まだ作っていません」
「帰ったら作る」
「はい」
近くの子どもが、小さく笑った。
リオが見る。
子どもは隠れる。
フローラはパンを少し持ち上げる。
「豆です」
子どもが顔を出す。
「豆?」
「はい」
「パンの中?」
「潰してあります」
「おいしい?」
「はい」
子どもが近づこうとし、母親に止められる。
「申し訳ありません、姫君様」
「大丈夫です」
フローラは子どもを見る。
「でも、これは道中の分です」
「うん」
分けない。
全部を与えなくてもよい。
「同じものを作る方法を、休憩所の人へ教えることはできます」
王宮の料理人の紙。
でも。
勝手に広めてよいのか。
フローラは少し考える。
「帰ったら、王宮の料理人へ聞きます」
手紙を書くかもしれない。
ヘルマンさんへ。
「書きたいと思ったら」
まだ決めない。
◇
休憩を終える。
馬車へ戻る。
休憩所の人々が頭を下げる。
「道中、お気をつけて」
「森へ、無事に」
「姫君様」
フローラは小さく頭を下げる。
馬車が動く。
赤茎菜の畑が遠ざかる。
持って帰らなかった。
でも。
覚えた。
◇
午後。
空は少し曇ってきた。
雨ではない。
白い雲が広がり、日差しを柔らかくしている。
馬車の揺れ。
来る時より、身体が慣れている。
フローラは窓の外を見ながら、少しずつ眠気を感じていた。
昨夜。
眠れた。
でも、出発の緊張で早く起きた。
「寝てもよいですか」
「もちろんです」
ミナが答える。
「帰る途中で、寝ても?」
「はい」
「道を見なくても?」
「はい」
「森へ着く時は起こして」
「今日は、まだ宿です」
「はい」
フローラは村の毛布を膝へかける。
王宮から持ってきた。
森から王都へ。
王都から森へ。
同じ毛布。
「置いてこなくてよかったです」
「はい」
目を閉じる。
馬車の音。
風。
馬。
護衛の声。
遠くなる。
◇
夢は見なかった。
目を覚ますと、窓の外の景色が変わっていた。
街道の両側に木が増えている。
森ではない。
でも、林。
葉。
影。
フローラは身体を起こした。
「近づいています」
「うん」
リオが答える。
「まだ?」
「まだです」
「でも木が多い」
「はい」
胸が温かくなる。
王都を出た。
街道。
休憩所。
林。
少しずつ。
◇
夕方前。
宿が見えてきた。
王都へ向かう途中に泊まった宿とは違う。
帰りの道で王宮側が選んだ、大きめの宿。
門。
厩。
二階建て。
周囲には小さな集落。
王宮の騎士が先に入り、安全を確認する。
人々が集まってくる。
「青の姫君だ」
「森へ帰る途中だ」
「王都で何があった?」
「公爵家へ戻らなかったって」
「本当に?」
噂。
また。
フローラは馬車の中で胸へ手を置く。
「降りられますか」
ミナが尋ねる。
「はい」
胸は速い。
でも、息はできる。
扉が開く。
外へ。
地面。
宿の主人が深く頭を下げる。
「お待ちしておりました、姫君様」
「一晩、お願いします」
「はい」
周囲の人々。
視線。
フローラは、一度だけ見回した。
怖い。
でも。
誰かが、化け物と叫ぶことはない。
一人の老人が、帽子を取る。
「森へ戻られるのですな」
「はい」
「よかった」
思っていなかった言葉。
「なぜですか」
老人は少し驚く。
「帰る場所があるのは、よいことです」
胸が熱くなる。
「はい」
フローラは答えた。
「私も、そう思います」
◇
宿の部屋へ入る。
王宮の客室より、ずっと狭い。
森の家よりは広い。
木の壁。
低い天井。
小さな窓。
寝台は三つ。
フローラは荷物を置き、村の毛布を一つの寝台へ広げた。
「今日、王都を出ました」
「うん」
リオが丸い石を荷物から出す。
窓辺へ置く。
「それは、王宮の石です」
「うん」
「ここで出すのですか」
「いる」
「森へ着くまで、毎回出すのですか」
「たぶん」
フローラは笑った。
ミナは灰色の髪紐を外し、丁寧に畳む。
それぞれ。
王宮から持ってきたもの。
◇
夕食。
宿の食堂は、王宮の人々のために一部を空けていた。
でも、完全な貸し切りではない。
商人。
旅人。
地元の人。
少し離れた席から、フローラを見ている。
料理は、焼いた鶏肉。
野菜のスープ。
黒いパン。
豆はない。
「豆がありません」
リオが言う。
宿の主人が慌てる。
「申し訳ございません」
「謝らなくてよいです」
フローラはすぐに言う。
「毎日、豆でなくてもよいです」
周囲から、小さな笑い。
リオは少し残念そう。
「明日、豆パンがある」
「はい」
「ならいい」
食事を始める。
王宮の味ではない。
森の味でもない。
旅の途中の味。
「途中の味です」
フローラが言うと、ミナが微笑む。
「はい」
◇
食事の途中。
隣の席の商人が、勇気を出すように声をかけた。
「姫君様」
「はい」
「王都では、公爵家へお戻りになると聞いておりました」
周囲が静かになる。
護衛が少し動く。
フローラは商人を見る。
「戻りませんでした」
「森へ?」
「はい」
「公爵家を捨てられたので?」
胸が固くなる。
捨てた。
そう見える。
フローラはすぐに答えず、言葉を探した。
「まだ、決めていません」
商人が目を瞬く。
「何を、でございますか」
「公爵家をどうするかです」
「しかし」
「分からないことを、決めたことにしません」
食堂の人々が静かに聞いている。
「森へ帰ることと、公爵家を捨てることは同じではありません」
「はい」
「王都へ残らないことと、逃げることも」
国王陛下の言葉。
家へ帰ることを、逃げるとは言わない。
「私は、家へ帰ります」
商人はしばらく黙った。
そして、深く頭を下げる。
「失礼いたしました」
「いいえ」
「分からないまま、聞きました」
「はい」
「答えてくださり、ありがとうございます」
フローラは小さく頷いた。
食堂の空気が少し緩む。
誰かが。
「家へ帰る、か」
小さく呟く。
◇
食後。
宿の裏庭へ出る。
夜の空気。
まだ完全には暗くない。
西の空に、淡い橙色。
木々の影。
王都より星が見え始めている。
「森の空に近いです」
「うん」
リオが答える。
「でも、まだ違います」
「うん」
「明日?」
「明日も、まだ道があります」
「遠い」
「でも、近づいています」
フローラは花守り布の袋から紙を出す。
『今日、森へ戻る。』
今日。
王都を出た。
森へ向かっている。
宿。
「今日、戻り始めました」
紙の裏へ書く。
『王都を出た。まだ途中。』
記録。
間違いを消すのではない。
続きを書く。
◇
部屋へ戻る。
机へ、母様の一文を置く。
『森へ帰ると聞きました。どうか、あなたが帰りたい場所へ、あなたの決めた日に、無事に帰れますように。』
今日は、まだ無事に着いていない。
でも。
王都を出た。
「母様」
小さく呼ぶ。
「今日は、宿まで来ました」
手紙は送らない。
今は、言うだけ。
「父様」
三文の紙。
父様は、森を私の家と呼んだ。
父様は、豆の名前を聞いた。
今は森へ来ないと約束した。
「父様」
呼ぶ。
「森へ近づいています」
父様が知るか。
知らない。
王宮の護衛から報告が行くかもしれない。
でも。
フローラからは、まだ送らない。
◇
王宮の若い侍女からもらった手紙。
読むか。
今日。
王都を出た日。
フローラは封筒を見る。
白鈴草の絵。
「今、読みたいですか」
ミナが尋ねる。
フローラは少し考える。
「少し」
「はい」
「でも、今日は言葉が多かったです」
「はい」
国王陛下。
庭師。
料理人。
侍女。
王都の人々。
茶屋の少女。
門番。
休憩所。
商人。
胸の中に、たくさんある。
「今日は、待たせます」
「はい」
手紙を荷物へ戻す。
◇
寝台へ入る。
王宮の天蓋はない。
小さな部屋。
隣の寝台にリオ。
もう一つにミナ。
三人。
王宮の客室より、森の家に近い。
でも。
まだ違う。
「おやすみなさい、王宮」
もう、遠い。
「おやすみなさい、国王陛下」
見送ってくれた。
「おやすみなさい、侍女さんたち」
手を振った。
「おやすみなさい、庭師さんたち」
葉の裏を見る。
「おやすみなさい、ヘルマンさん」
豆パンを食べた。
「おやすみなさい、茶屋の女の子」
木の実は持っている。
「おやすみなさい、母様」
見送りには来なかった。
でも、帰りたい場所へ帰れるようにと書いた。
「おやすみなさい、父様」
姿はなかった。
でも、森を家と呼んだ。
最後に。
「おやすみなさい、森」
まだ遠い。
でも。
「近づいています」
王都を出た。
城壁を越えた。
道を進んだ。
宿へ着いた。
今日の帰るは、終わっていない。
続いている。
「帰ることにも、途中があります」
フローラは目を閉じた。
母様と父様とのことも。
公爵家のことも。
森での暮らしも。
何も一日では終わらない。
それでも。
一歩進めば、場所は変わる。
王宮の客室から。
西門。
王都の通り。
城壁。
街道。
休憩所。
宿。
森へ。
フローラは王都で得たものを自分で選び、見送る人々の声を受け取りながら、自分が決めた日に王都を出た。
母様と父様へ会わずに。
許しも。
答えも。
置いたまま。
それでも、逃げるのではなく。
家へ帰るために。
「明日も、帰ります」
その言葉を胸へ置き、フローラは森へ続く道の最初の夜へ、ゆっくりと眠り落ちていった。




