第87話 青の姫君、持ち帰るものを自分で選ぶ
翌朝。
フローラが目を覚ました時、王宮の空は薄い雲に覆われていた。
雨の気配はない。
けれど、昨日のような強い青空でもなかった。
朝の光は白く、窓辺へ置かれた手紙や記録紙の輪郭を柔らかく浮かび上がらせている。庭の木々は風に揺れ、葉の重なる音が、閉じた窓の向こうからかすかに届いていた。
王宮で迎える八度目の朝。
そして。
森へ帰る前日。
フローラは毛布の中で目を開けたまま、しばらく動かなかった。
「明日、帰ります」
昨日決めた言葉を、もう一度口にする。
明日。
森へ。
王都を出る。
公爵邸へは行かない。
父様や母様と、もう一度会うかは決めていない。
母様の手紙は、最初の一通を途中までしか読んでいない。
昨日届いた新しい手紙は、まだ封も切っていない。
公爵家の継承。
婚姻。
今後の住まい。
何も決めていない。
それでも。
「帰ります」
言葉は、昨日より自然に胸へ入った。
決めたから。
明日。
その日付は、誰かの返事で変わっていない。
母様も父様も、会いたいとは言わなかった。
国王陛下も止めなかった。
護衛の準備も進んでいる。
王宮の厨房では、道中用の食事が作られる。
菜園の豆の種は、いつか森へ送られる。
白鈴草の種も、庭師が確認してくれている。
帰るための道は、少しずつ整っていた。
けれど。
「何を持って帰るのでしょう」
フローラは上半身を起こし、机の上を見た。
王都へ来た時。
持ってきたものは、少なかった。
花守り布。
六つの言葉。
木の実。
着替え。
植物の記録。
村の毛布。
森へ戻ると決めた心。
今。
机の上には、紙が増えている。
母様からの手紙。
母様との六つの約束。
母様の返事。
父様との七つの約束。
父様との面会記録。
国王陛下との話。
王宮の菜園の記録。
王都で食べた豆の記録。
明日帰ると書いた紙。
持ち帰ろうと思えば、すべて持って帰れる。
紙だから、重さは大きくない。
でも。
「全部、持って帰らなければならないのでしょうか」
物の重さではない。
言葉の重さ。
記憶の重さ。
母様の手紙。
父様の言葉。
王都で受け取ったもの。
全部を森へ持ち込めば、森の家へ帰っても、王都が机の上を埋めるかもしれない。
それが悪いとは限らない。
でも。
自分で選びたい。
「持ち帰るものと、置いていくものを決めます」
帰る日の前に。
物も。
言葉も。
◇
フローラは寝台を降り、窓辺へ近づいた。
西庭の菜園では、庭師たちが朝から動いている。
昨日より風があるため、豆の支柱へ紐を足していた。
フローラが帰ったあとも。
王宮の豆は、王宮で育つ。
森へ種が届くまで。
ここに残る。
「豆は、持って帰れません」
今の株を掘り起こして持っていくことはできない。
種ができるまで待つ。
王宮で。
「待たせます」
王宮の庭師へ。
豆へ。
森の土へ。
芽が出るかは分からない。
でも、今は持って帰らない。
「全部を、今日持ち帰る必要はありません」
それは。
紙も同じかもしれない。
◇
扉が叩かれた。
「ミナです」
「入ってください」
ミナが部屋へ入り、フローラの視線が机へ向いていることに気づいた。
「おはようございます」
「おはようございます」
「昨夜は眠れましたか」
「はい」
「帰る夢を見ました」
「どのような夢でしたか」
フローラは少し考える。
「馬車へ荷物を積んでいました」
「はい」
「でも、紙が多すぎて」
「はい」
「馬車の中が全部、紙になりました」
ミナの口元が少し緩む。
「それは、随分と多いですね」
「座る場所もありませんでした」
「では、歩いてお帰りに?」
「夢の中では、リオが紙の上へ座っていました」
「破れそうですね」
「はい」
フローラも少し笑う。
笑ってから、机へ目を戻す。
「持ち帰るものを、今日決めたいです」
「はい」
「全部持って帰ることはできます」
「はい」
「でも、全部持って帰りたいかは分かりません」
ミナは、すぐに必要なものを整理しましょうとは言わなかった。
「何を置いていきたいと思われますか」
「まだ、分かりません」
「はい」
「母様の手紙は、持って帰ると思います」
「はい」
「でも、王宮で作った約束の写しは」
机の上。
六つ。
七つ。
紙が並んでいる。
「もう、私が覚えています」
「はい」
「持って帰らなくても、なくなりません」
「はい」
「でも、置いていくと、捨てたように感じるかもしれません」
約束を捨てる。
母様との境界。
父様との境界。
それを置いて帰るのは、怖い。
「捨てるのではなく、王宮へ預けることもできます」
ミナが言う。
「預ける?」
「はい。エドガー様へ保管をお願いするのです」
「また王都へ来た時に?」
「必要であれば、返していただけます」
置いていく。
でも、なくさない。
預ける。
待たせる。
「紙も、待てます」
「はい」
「王宮で決めた約束を、王宮へ置いていく」
「はい」
「森で必要になった時は?」
「写しを作ることもできます」
全部を一つの場所へ持つ必要はない。
記録は、二つあってもよい。
「考えます」
フローラは頷いた。
◇
着替えには、明るい若草色のドレスを選んだ。
王都へ来た最初の日にも、似た色を着た。
けれど、今日選んだものの方が布地は軽く、裾も短い。
「明日の馬車には、こちらを着ません」
「はい」
侍女が頷く。
「移動しやすい服へ着替えます」
「すでに準備しております」
「王都の服は、どれくらい持って帰りますか」
「こちらでご用意したものは、すべてフローラ様のお品としてお持ち帰りいただけます」
部屋に並ぶドレス。
王宮が用意したもの。
深緑。
灰緑。
茶色。
青緑。
若草色。
公爵邸にいた頃より少ない。
でも、森の家に置くには多い。
「全部は、いりません」
侍女が少し驚く。
「お気に召しませんでしたか」
「いいえ」
嫌いではない。
着やすいものもあった。
落ち着く色も。
「森では、畑仕事をします」
「はい」
「長い裾は、土へつきます」
「はい」
「全部持って帰ると、置く場所もありません」
「はい」
「必要なものだけ選びます」
侍女は、少し寂しそうにドレスを見た。
それを見て、フローラの胸も少し痛む。
用意してくれた。
一着ずつ。
フローラが何を着るか考えた。
持って帰らないと言うことは、その気持ちを拒むように見えるだろうか。
「持って帰らない服を、嫌いという意味ではありません」
フローラは言った。
侍女の目が少し見開かれる。
「はい」
「王宮に置いておいてください」
「保管を?」
「はい」
「またお越しになった時のために?」
また来る。
その前提。
胸が少し固くなる。
「また来るかは、分かりません」
「はい」
「でも、来た時に使えるように」
「承知いたしました」
「持って帰るのは」
フローラはドレスを一つずつ見る。
森の土を思わせる茶色。
落ち着く灰緑。
動きやすい青緑。
「三着にします」
「はい」
「それから、移動用の服」
「はい」
「ほかは、置いていきます」
選ぶ。
全部をもらうことが、感謝ではない。
必要な分を受け取る。
それも、自分で決める。
「ありがとうございます」
フローラは侍女へ言った。
「用意してくれたことは、持って帰ります」
侍女の目が潤む。
すぐに頭を下げる。
「もったいないお言葉でございます」
「言いたかったです」
◇
髪は、今日は侍女に整えてもらった。
明日は自分で編むつもり。
王都で最後に過ごす一日。
少しだけ、任せる。
「全部、自分でしなくても帰れます」
鏡の中で、整えられていく髪を見る。
公爵令嬢だった頃。
髪を触られる時間は、整えるためだけだった。
姿勢。
形。
乱れ。
正しさ。
今は違う。
侍女は、痛くないか尋ねる。
強く引きすぎない。
フローラが嫌だと言えば、止める。
「痛くありません」
「はい」
「少し緩くしてください」
「かしこまりました」
自分の言葉で整える。
◇
朝食の部屋へ入ると、リオは長い布袋を机の上へ置いていた。
「何ですか」
「持って帰るもの」
袋を開く。
中には。
小さな木片。
王宮の食堂でもらった硬い紐。
使いかけの布。
厨房でもらった香草の束。
なぜか小さな石。
「石は、どこからですか」
「庭」
「王宮の庭の石を持って帰ってよいのですか」
「拾った」
「拾えばよいとは限りません」
ミナが袋から石を取り出す。
「あとで庭師へ確認しましょう」
「大事」
「なぜですか」
「丸い」
フローラは石を見る。
確かに丸い。
でも。
「森にも、丸い石はあります」
「王宮の丸い石」
違うらしい。
「持って帰りたいのですか」
「うん」
「では、確認します」
リオは頷いた。
「フローラは?」
「今日は、持って帰るものを選びます」
「全部?」
「いいえ」
「手紙は?」
フローラは少し止まる。
「持って帰ります」
「読んでないのも?」
「はい」
「森で読む?」
「分かりません」
リオはそれ以上聞かない。
「豆は?」
「種ができたら送ってもらいます」
「王豆一号」
「まだです」
「たぶん」
「芽が出てからです」
いつものやり取り。
朝食の場が少し笑いで緩む。
◇
食後。
エドガーが、出発準備の確認へ訪れた。
「馬車は二台をご用意しております」
「二台?」
「一台はフローラ様、ミナ様、リオ様がお乗りになるもの。もう一台は荷物と護衛の交代要員を乗せるものです」
「荷物が多いですか」
「王宮からお持ち帰りになる品があると伺っております」
「まだ、選んでいます」
「はい」
「できるだけ少なくします」
「馬車には余裕がございます」
「余裕があっても、全部持って帰る必要はありません」
エドガーが静かに頷く。
「仰る通りでございます」
「それから」
フローラは机の上の紙を見た。
「王宮で作った約束の紙を、ここへ預けることはできますか」
「もちろんでございます」
「母様との六つの約束」
「はい」
「父様との七つの約束」
「はい」
「原本と写しの一部を、王宮へ置いていきたいです」
「どのように保管いたしましょう」
「私の許可なく、母様や父様へ見せないでください」
「承知いたしました」
「国王陛下にも?」
エドガーは少し考える。
「陛下は、必要であれば確認される権限をお持ちです」
「はい」
「ですが、フローラ様の私的な記録として封じて保管することはできます」
「封じる?」
「封蝋をし、開封にはフローラ様の許可が必要であると記録いたします」
フローラは考えた。
王宮へ置く。
でも、誰でも読めるわけではない。
「それがよいです」
「はい」
「私が次に来なかったら?」
「その場合も、保管いたします」
「ずっと?」
「期限をお決めになることもできます」
期限。
一年。
二年。
十年。
今は決められない。
「期限は、決めません」
「承知いたしました」
「私が手紙で返してほしいと言ったら?」
「森へお送りいたします」
「はい」
預ける。
待たせる。
必要な時に返してもらう。
「約束を置いていきます」
言葉へすると、胸が少し軽くなる。
◇
母様の手紙。
最初の一通。
新しい一文。
これは。
「持って帰ります」
エドガーへ伝える。
「はい」
「母様へ、まだ読んでいないと伝わりますか」
「お伝えしなければ、分かりません」
「では、伝えません」
「はい」
「読んだかどうかは、私のものです」
「その通りでございます」
母様が知りたいと思っても。
今は、返さない。
◇
父様との面会記録。
これは迷った。
持って帰る。
置いていく。
「父様の言葉は、森へ持って帰りたくないですか」
ミナが尋ねる。
「嫌だからではありません」
「はい」
「でも、森へ帰ってすぐ、父様の記録が机にあると」
父様が、森へいるように感じるかもしれない。
まだ来ないでくださいと伝えた。
実際には、来ない。
でも、言葉が先に入り込む。
「では、記録も王宮へ預けますか」
フローラは紙を見た。
父様が豆の名前で笑った。
父親を知らなかった。
森を見たい。
勝手に入らない。
書いた言葉。
「一部だけ、持って帰ります」
「一部?」
「全部ではなく」
新しい紙を用意する。
父様が森を、私の家と呼んだ。
父様は、豆の名前を聞いた。
今は森へ来ないと約束した。
それだけ。
三文。
「これを持って帰ります」
それ以外の記録は、王宮へ預ける。
全部を持たなくてもよい。
今、森へ持ち帰りたい言葉だけ。
◇
母様の記録も同じように分ける。
母様は、約束を守った。
今の私へ、少しだけ言葉が届いた。
また会いたいと願うことは、母様のもの。
三文。
「同じ数になりました」
フローラが言う。
リオが紙を見る。
「三つずつ」
「はい」
「父親と母親、同じ?」
「同じではありません」
「でも三つ」
「偶然です」
リオは少し疑うように見る。
「本当?」
「はい」
フローラは笑った。
「数が同じでも、意味は違います」
◇
昼前。
母様から届いた新しい一文を読むかどうか。
フローラは机の前へ座った。
封筒。
一文。
帰る前日。
読む。
読まない。
持ち帰る。
森で開ける。
選べる。
「今、読みたいですか」
ミナが尋ねる。
フローラは胸へ手を置く。
怖い。
少し。
でも、昨日ほどではない。
帰る前に何が書かれているか知りたい気持ちがある。
母様は、一文だけにした。
急がせないためか。
負担を減らすためか。
その意図も、分からない。
「一文だけなら」
言いかけて止まる。
一文だから読まなければならないわけではない。
「読みたいです」
言い直した。
「はい」
「帰る前だからではありません」
「はい」
「今、知りたいです」
「はい」
封を切る。
白い紙。
本当に、一文だけ。
フローラはすぐに読まず、まず紙を机へ置いた。
呼吸を整える。
リオが近くへ来る。
「冷たい?」
指先を聞く。
「まだ、大丈夫です」
「うん」
フローラは文字を見る。
『森へ帰ると聞きました。どうか、あなたが帰りたい場所へ、あなたの決めた日に、無事に帰れますように。』
一文。
でも、二つの節がある。
森へ帰る。
帰りたい場所。
あなたが決めた日。
無事に。
会いたいとは書いていない。
戻ってきてとも。
手紙を読んでとも。
もう一度会ってとも。
何もない。
「母様は、止めませんでした」
フローラが言う。
「はい」
「帰りたい場所と書きました」
「はい」
「公爵邸ではなく」
「はい」
「森を」
「はい」
胸が熱くなる。
嬉しい。
そして。
遅い。
母様がもっと早く、フローラの帰りたい場所を考えてくれていたら。
公爵邸にいた頃。
自分の部屋へ帰りたいと思えなかった。
誰かのいる場所へ帰りたいと願えなかった。
「遅いです」
「はい」
「でも」
紙を見つめる。
「今は、嬉しいです」
「はい」
指先は、まだ冷たくない。
胸は痛い。
でも、読んだ言葉が分かる。
「これは、持って帰ります」
迷わず言えた。
◇
最初の手紙は、まだ途中まで。
新しい一文は、最後まで読んだ。
順番が前後した。
でも。
「手紙は、順番に読まなくてもよいです」
フローラは言った。
「はい」
「母様の最初の手紙が終わっていなくても、新しい手紙を読みました」
「はい」
「間違いですか」
「いいえ」
ミナが答える。
「今、読めるものを読まれたのだと思います」
「はい」
順番。
正しさ。
最初から最後まで。
それに縛られない。
「最初の手紙は、森へ持って帰ります」
「はい」
「続きを読むかは、森で決めます」
「はい」
◇
母様へ返事を書くか。
フローラは考えた。
帰りたい場所へ帰れるように。
その言葉を受け取った。
返したい気持ちもある。
でも、何を書く。
ありがとう。
それだけ。
母様へ言えば、期待させるだろうか。
期待することは、母様のもの。
でも、自分が言いたいなら。
「一文だけ、返します」
新しい紙を出す。
『森を私の帰りたい場所と書いてくれたことは、今の私へ届きました。』
書く。
見つめる。
許したとは書いていない。
会いたいとも。
戻るとも。
今の私へ届いた。
それだけ。
「これでよいです」
エドガーへ渡す。
「本日中に、お届けいたします」
「返事は、いりません」
「そのようにお伝えいたします」
「読んだことだけ、伝わります」
「はい」
それでよい。
◇
父様へは、返事を書かない。
道中の安全を祈る。
公爵家の騎士を出したい。
それを断った。
父様は、何も返していない。
「父様には、何も書きません」
「はい」
「豆のことも、まだ」
「はい」
「次に会った時、話したいと思ったらです」
「はい」
約束を守る。
自分の言葉も。
◇
昼食後。
荷物を選ぶ時間になった。
侍女たちが、大きな箱を三つ運び込む。
一つは衣類。
一つは書類。
一つは王宮からの贈り物。
「贈り物?」
フローラは眉を寄せた。
箱を開ける。
中には。
王宮で使っていた上質な手巾。
小さな銀の櫛。
保存の利く菓子。
茶葉。
香油。
細かな刺繍糸。
小さな裁縫箱。
薬草を乾燥させるための薄い網。
豆の料理を書いた紙。
「多いです」
フローラが言うと、侍女たちは少し困った顔をした。
「各部署から、少しずつ」
「少しずつが、集まりました」
「はい」
王宮の人たち。
厨房。
侍女。
裁縫係。
庭師。
薬草庫。
それぞれが、何かを持たせようとした。
「全部持って帰る必要はありませんか」
「もちろんでございます」
年長の侍女が答える。
「お選びください」
一つずつ見る。
銀の櫛。
美しい。
でも、森では木の櫛を使っている。
「これは、置いていきます」
「はい」
香油。
強い香り。
森の家では、必要ない。
「これも」
「はい」
茶葉。
村の茶屋で飲んだものとは違う。
王宮で何度か飲んだ。
「少しだけ、持って帰ります」
「小分けにいたします」
裁縫箱。
花守り布へ袋を縫う時、使ったもの。
「これは、持って帰ります」
「はい」
乾燥網。
薬草や豆の種を乾かす時に使える。
「これも」
「はい」
豆の料理の紙。
「持って帰ります」
菓子。
子どもたち。
村へ。
「これは、村のみんなで食べられる量ですか」
「もう一箱、ございます」
「多いです」
リオが横から言う。
「持つ」
「馬車があります」
「食べる」
「帰る前に全部食べないでください」
周囲の侍女たちが笑う。
「半分、持って帰ります」
「残りは?」
「王宮の人たちで食べてください」
侍女たちが驚く。
「私たちが?」
「はい」
「よろしいのですか」
「全部は食べられません」
「はい」
「作った人も、食べてください」
厨房へ返す。
でも、拒むのではない。
分ける。
◇
刺繍糸。
青。
緑。
茶。
白。
赤。
色が多い。
「三色だけ、持って帰ります」
青。
緑。
白。
「なぜ、その三色を?」
侍女が尋ねる。
「青は、私です」
「はい」
「緑は、森です」
「はい」
「白は」
少し考える。
母様の手紙。
白い紙。
王宮の豆の花。
白鈴草。
「まだ、決めません」
侍女が目を瞬いた。
「でも、持って帰ります」
「はい」
意味は、あとで決めてもよい。
◇
荷物を選ぶ間。
王宮の侍女や使用人たちが、入れ替わるように挨拶へ来た。
正式な別れではない。
でも、明日の朝は慌ただしい。
今日のうちに。
「菜園の虫を見てくださって、ありがとうございました」
「服を選ぶ時、痛くないか聞いてくださって、ありがとうございました」
「厨房の豆料理を食べてくださって、ありがとうございます」
「姫君様が笑ってくださったので、少し安心しました」
一人ずつ。
短い言葉。
フローラは、どう返せばよいか迷った。
全部へ同じ「ありがとうございます」を返すと、薄くなる気がする。
でも、一人ずつ長く話すこともできない。
「王宮で、嫌ではないものが増えました」
フローラは言った。
侍女たちが静かになる。
「最初は、全部怖かったです」
「はい」
「廊下も」
「はい」
「部屋も」
「はい」
「見られることも」
「はい」
「でも、今は」
菜園。
豆。
服。
茶。
料理。
侍女たちの笑い。
「嫌ではないものがあります」
何人かの目が潤んだ。
「それを、持って帰ります」
物ではなく。
記憶。
気持ち。
それも持ち帰る。
◇
午後。
リオが持って帰りたいと言った丸い石は、庭師へ確認した結果、持ち帰ってよいことになった。
「特別な石ではございません」
庭師は笑った。
「ただの丸い石です」
「大事」
リオは両手で受け取る。
「なぜ、それを?」
若い庭師が尋ねる。
「王宮に来た」
「はい」
「帰る」
「はい」
「残るもの」
リオの言葉は短い。
でも。
フローラには少し分かった。
王宮へ来た。
王宮に残る。
森へ持って帰る。
石。
王宮そのものではない。
でも、ここにいたことを思い出すもの。
「私も、石を持って帰りますか」
フローラが言うと、リオは首を横へ振る。
「同じじゃなくていい」
「はい」
持ち帰るものは、一人ずつ違う。
フローラには手紙。
裁縫箱。
刺繍糸。
豆料理の紙。
茶葉。
王宮で選んだ服。
リオには丸い石。
ミナには。
「ミナは、何を持って帰りますか」
尋ねると、ミナは少し驚いた。
「私は」
しばらく考える。
「王宮の侍女から、髪を結ぶ紐をいただきました」
「見せてください」
淡い灰色の紐。
小さな銀糸が織り込まれている。
「それだけですか」
「はい」
「もっと、もらっても」
「私が持ち帰りたいのは、これです」
ミナも選んだ。
「分かりました」
◇
夕方。
国王陛下から、明朝の出発前に短く見送りたいという伝言が届いた。
フローラは少し考えた。
見送り。
門。
人。
群衆。
大げさになるかもしれない。
「何人ですか」
エドガーへ尋ねる。
「陛下と、側近数名。護衛。必要最低限とのことです」
「王宮の大広間ではありませんか」
「西門の内側でございます」
「民や貴族は?」
「呼びません」
安心する。
「それなら、会います」
「承知いたしました」
「母様と父様は?」
「見送りへは出ないと伺っております」
胸が少し痛む。
でも。
来ない。
それは、約束を守ること。
フローラを囲まない。
帰る直前に、感情を押しつけない。
「分かりました」
◇
母様から、返事は来なかった。
フローラが返事はいらないと伝えたから。
父様からも、何もない。
静かな夕方。
少し寂しい。
でも、穏やか。
「会わずに帰ることになりそうです」
フローラが言う。
「はい」
ミナが答える。
「後悔するでしょうか」
「分かりません」
「はい」
「会えば、会ったことで揺れるかもしれません」
「はい」
「会わなければ、会わなかったことで揺れるかもしれません」
「はい」
どちらを選んでも。
何も感じないわけではない。
「今は、会いたいですか」
フローラは胸へ手を置く。
母様。
父様。
顔。
声。
もう一度。
「少しだけ」
正直に出た。
「はい」
「でも、会うと、帰る日を変えたくなるかもしれません」
「はい」
「それが怖いです」
「はい」
「会いたい気持ちがあるから、会わないのは逃げですか」
ミナはすぐに答えなかった。
「フローラ様は、会わないことで何を守りたいのでしょう」
「明日、帰ることです」
「はい」
「今日の心を、これ以上重くしないことです」
「はい」
「母様と父様との一度目の面会を、急いで次へつなげないことです」
「はい」
「それなら」
ミナはゆっくり言う。
「逃げるのではなく、今日の境界を選んでいるのだと思います」
フローラは息を吐いた。
「会いません」
「はい」
「会いたい気持ちは、持ったまま」
「はい」
「明日、帰ります」
◇
夕食は、王宮で最後の夜になるため、厨房が少し豪華に用意していた。
けれど、フローラは大きな宴を望まなかった。
客室。
いつもの三人。
侍女たち。
料理は、王宮で食べた中から、フローラが好きだったものを少しずつ。
柔らかな白身魚。
根菜の煮込み。
豆のスープ。
焼いたパン。
薄い果実水。
「豆が多いです」
フローラが言うと、副料理長が胸を張った。
「姫君様がお好きだと伺いました」
「はい」
リオは満足そうに食べている。
「森でも作る」
「豆のスープは作れます」
「同じ味?」
「同じにはならないと思います」
「なぜ?」
「水も、豆も、香草も違います」
「じゃあ森の味」
「はい」
王宮の味を、森で同じにしなくてよい。
作り方を持ち帰る。
森の材料で作る。
別の味になる。
「それでよいです」
◇
食後。
若い侍女の一人が、手紙を差し出した。
「私から、でございます」
フローラは驚く。
「私へ?」
「はい」
「何が書いてありますか」
侍女は緊張している。
「短いお礼です」
「今、読みますか」
「フローラ様がお決めください」
その答えに、フローラの胸が少し温かくなる。
王宮の人も。
決めることを返してくれる。
「受け取ります」
「はい」
「森で読むかもしれません」
「はい」
「読まないかもしれません」
侍女の顔が少しだけ曇る。
でも、すぐに頷いた。
「はい」
読まない可能性を受け入れる。
「でも、持って帰ります」
侍女の目が潤む。
「ありがとうございます」
封筒には、小さな白鈴草の絵が描かれていた。
◇
夜。
荷物は、部屋の片側へまとめられた。
持って帰るもの。
置いていくもの。
預けるもの。
送ってもらうもの。
四つに分かれている。
持って帰る。
茶色、灰緑、青緑の三着のドレス。
移動用の服。
裁縫箱。
三色の刺繍糸。
豆料理の紙。
少量の茶葉。
村のみんなへ持って帰る菓子。
母様の二通の手紙。
母様と父様の言葉を三文ずつ書いた紙。
若い侍女からの手紙。
花守り布。
木の実。
村の毛布。
植物の記録。
リオの丸い石。
ミナの髪紐。
王宮へ置いていく。
残りのドレス。
銀の櫛。
香油。
余った手巾。
余った菓子。
王宮へ預ける。
母様との約束の原本。
父様との約束の原本。
面会の詳しい記録。
国王陛下との話の写し。
あとで送ってもらう。
王宮の豆の種。
育て方の記録。
白鈴草の種が取れるなら、その種。
「分けました」
フローラは荷物を見る。
全部を持ち帰らない。
でも、必要なものはある。
「馬車に座れます」
リオが言う。
「夢のように、紙で埋まりません」
「うん」
◇
机の上には、最後に一枚の紙が残った。
二日後、森へ戻る。
昨日書いたもの。
明日になれば。
「明日、森へ戻る」
書き直す。
二日後が、明日になった。
時間が進んだ。
紙を花守り布の二つ目の袋へ入れる。
明日の朝。
出発したら。
この紙はどうする。
「森へ着くまで、持ちます」
道の途中。
帰る。
まだ着いていない。
でも、向かっている。
◇
寝台へ入る前。
フローラは母様の新しい手紙をもう一度読んだ。
『森へ帰ると聞きました。どうか、あなたが帰りたい場所へ、あなたの決めた日に、無事に帰れますように。』
「母様」
声にする。
「届きました」
返事も送った。
それ以上は、今日しない。
「会いたい気持ちも、少しあります」
でも。
「今日は会いません」
母様がどう思うか。
母様のもの。
「父様」
父様へは、何も書かなかった。
「豆の話は、まだしません」
次に会うことがあれば。
話したいと思ったら。
「会いたい気持ちは、少しあります」
父様にも。
でも。
「今日は会いません」
同じではない。
母様への会いたさ。
父様への会いたさ。
違う形。
でも、両方。
「会いたいと思っても、会わないことを選べます」
それは。
我慢だけではない。
自分の境界。
◇
「おやすみなさい、国王陛下」
明朝、見送ると言った。
「大きな見送りではなくて、よかったです」
王宮の人々。
「おやすみなさい、侍女さんたち」
嫌ではないものが増えた。
「おやすみなさい、庭師さんたち」
豆を見てくれる。
「おやすみなさい、料理人さんたち」
豆を潰す料理を教えてくれた。
「おやすみなさい、王宮の豆」
いつか、種が森へ来る。
「おやすみなさい、白鈴草」
種が取れるかは分からない。
最後に。
村の毛布を胸まで引き上げる。
「おやすみなさい、森」
明日。
帰る。
胸が熱くなる。
嬉しい。
少し寂しい。
王都を離れる。
母様と父様へ会わずに。
終わっていない手紙を持って。
終わっていない気持ちを持って。
でも。
全部を持ち帰るわけではない。
王宮へ預けるもの。
置いていくもの。
あとで届くもの。
今、持つもの。
分けた。
「持ち帰るものは、私が選びました」
用意されたものを全部受け取らなくても。
言葉を全部抱えなくても。
気持ちを全部整理できなくても。
帰れる。
フローラは王都で得たものを、重さのまま抱え込まなかった。
必要なものを選び、今は持てないものを預け、まだ届かないものを待つことにした。
母様からの一文。
父様が森を家と呼んだ言葉。
王宮の人々の笑い。
豆の種を待つ約束。
それらを、明日の馬車へ載せる。
そして。
許しも。
和解も。
公爵家の答えも。
まだ載せない。
「明日、帰ります」
フローラは、その言葉をもう一度胸へ置いた。
王都で迎える最後の夜。
帰る前の静かな時間の中で、フローラは持ち帰るものを自分の手で選び終え、森へ続く明日の道を思いながら、ゆっくりと目を閉じた。




