第86話 青の姫君、森へ帰る日を先に決める
翌朝。
フローラが目を覚ますと、王宮の窓の外には、久しぶりに雲の少ない青空が広がっていた。
昨夜まで屋根や石畳へ残っていた雨の色は薄れ、朝の光を受けた庭の木々は、一枚一枚の葉をはっきりと浮かび上がらせている。遠くの塔の尖端には白い鳥が止まり、その下を忙しそうに歩く使用人たちの影が、乾き始めた石の上へ長く伸びていた。
王宮で迎える七度目の朝。
フローラは村から持ってきた毛布の中で目を開けたまま、しばらく天蓋を見つめていた。
母様へ会った。
父様へも会った。
国王陛下へは、王都へ持ってきた六つの言葉を伝えた。
王宮の菜園では豆の虫を見つけ、食べ、森へ種を送ってもらう話まで進んでいる。
王都へ来る前に、自分がしなければならないと思っていたことは、少しずつ形になっていた。
それでも。
「いつ、帰るのでしょう」
フローラは小さく呟いた。
王都へ来た時から、森へ戻ることだけは決めていた。
けれど、何日に帰るかは決めていない。
国王陛下と会ってから。
母様の手紙を読んでから。
父様と話してから。
そうして一つずつ進めるうちに、王宮での朝は七度目になっている。
七日が長いのか、短いのか。
森で畑を見ていた時なら、七日はよく分かった。
一日目に芽を見つける。
二日目に葉が開く。
三日目に風で傾く。
四日目に支柱を直す。
五日目に虫を見つける。
六日目に隣の株を確かめる。
七日目に記録を読み返す。
七日の中には、目で確認できる変化があった。
王宮での七日は、心の中で動くものが多すぎて、長さを測りにくい。
「森では、今」
青豆一号の葉はどうなっているだろう。
アオジロウの茎は。
ムラマルの濃い葉は。
モリタンの新しい芽は。
オカエリ。
キズナ。
ガルドさん。
村の子どもたち。
レナードさんたち。
みんなは、フローラがいなくても暮らしている。
任せた。
待たせた。
それは分かっている。
だから、すぐに帰らなければならないと自分を急かす必要はない。
でも。
帰る日を決めないまま王都へいることも、少し違う気がした。
「帰ると決めたのに、日を決めていません」
六つ目の言葉。
森へ戻る。
その言葉だけが、まだ日付を持っていない。
フローラはゆっくりと身体を起こした。
胸は、昨日より軽い。
父様との四半刻で聞いた言葉は、まだ残っている。
けれど、母様と会った翌朝のような強い重さではなかった。
父様は、豆のことを聞いた。
森を見てみたいと言った。
でも、今は来ないと答えた。
森はフローラの家だから。
その言葉を思い出す。
「森は、私の家です」
なら。
家へ帰る日を、自分で決めてもよい。
誰かが許すまで待つのではなく。
母様の手紙を最後まで読むまででもなく。
父様ともう一度会うまででもない。
公爵家の将来を決めるまででもない。
「全部を終わらせてから帰る必要は、ありません」
王都での話は、一度で終わらない。
父様と母様との関係も。
国王陛下との話も。
公爵家をどうするかも。
何度も考える。
手紙を使う。
会う日を選ぶ。
森から王都へ来ることもあるかもしれない。
でも、今の家へ戻ってから考えてもよい。
「今日は、帰る日を決めます」
言葉へすると、胸の奥へ一本の細い道ができた。
◇
寝台を降り、カーテンを開ける。
西庭の菜園では、庭師が昨日より多くの使用人を連れていた。
豆の株。
別の野菜。
雨で湿った土。
それぞれの場所で手を動かしている。
フローラが虫を見つけた株も残っている。
悪い葉を少し取り除いただけで、すべてを抜かなかった。
今日も見ている。
明日も見るのだろう。
「私が帰っても、見てください」
窓越しで届かない声を、庭へ向ける。
王宮の豆は、王宮の人たちが見る。
森の豆は、森の人たちとフローラが見る。
それぞれの場所へ戻る。
それは、見捨てることではない。
◇
扉が叩かれた。
「ミナです」
「入ってください」
ミナが入ってくる。
今朝のフローラの顔を見て、わずかに目を細めた。
「昨日より、お顔の色がよろしいように見えます」
「身体も、昨日より軽いです」
「はい」
「父様の言葉は、まだ残っています」
「はい」
「でも、今日は別のことを考えられます」
ミナは急かさず、続きを待つ。
「森へ帰る日を決めたいです」
その言葉に、ミナの表情が少しだけ揺れた。
驚き。
寂しさ。
安心。
いくつかの感情が、静かな顔の奥へ見えた。
「はい」
ミナは、それだけ答えた。
「帰ることは、最初から決めていました」
「はい」
「でも、何日かは決めていません」
「はい」
「母様の手紙を全部読むまで、いる必要はありません」
「はい」
「父様ともう一度会うまででもありません」
「はい」
「公爵家をどうするかを決めるまででも」
「はい」
一つずつ確認する。
「全部を終わらせてから帰ろうとすると、いつまでも帰れません」
「そうかもしれません」
「王都でしかできないことは、ありますか」
ミナは少し考えた。
「国王陛下へ、帰還の予定をお伝えすること」
「はい」
「王宮側の護衛や馬車の手配」
「はい」
「王都でお会いになると決めた方が、ほかにいらっしゃるかどうかの確認」
「はい」
「公爵家へ、王都を離れる日を伝えること」
その言葉へ、胸が少し固くなる。
「許可をもらうためではありません」
「はい」
「予定を伝えるだけです」
「はい」
父様や母様が、もう一度会いたいと言うかもしれない。
手紙を読んでほしいと言うかもしれない。
王都へ残ってほしいと、約束を破って頼む可能性もある。
でも。
帰る日を決めたからといって、すぐに伝えなければならないわけではない。
まず自分で決める。
そのあと、伝える。
「何日後がよいでしょう」
自分へ尋ねるように言う。
今日すぐ。
明日。
二日後。
三日後。
身体の疲れ。
馬車の準備。
護衛。
道の状態。
雨上がり。
「今日出るのは、急すぎます」
「はい」
「明日も」
「護衛や道中の準備を考えると、少し慌ただしいかもしれません」
「二日後なら?」
「十分に整えられると思います」
二日後。
王宮で、あと二度夜を迎える。
その間に。
国王陛下へ伝える。
母様と父様へ予定を知らせる。
会うかどうかは別に決める。
母様の手紙を読むかもしれない。
読まないかもしれない。
王宮の豆の様子を最後に見る。
「二日後に帰ります」
口にした。
胸が大きく鳴る。
怖さではない。
寂しさでもない。
道が、日付を持った音。
「二日後」
ミナが確認する。
「はい」
「変更する可能性は?」
フローラは少し考えた。
天候。
体調。
道の安全。
変えなければならない理由はあるかもしれない。
「安全に帰れない時は、変えます」
「はい」
「誰かが会いたいと言っただけでは、変えません」
ミナが静かに頷く。
「承知しました」
◇
着替えには、淡い青緑のドレスを選んだ。
王都へ来た初日に選んだ服よりも軽く、袖も動かしやすい。裾には小さな白い花の刺繍があり、森で春に咲く花とは違う形だった。
「今日は、この花も嫌ではありません」
フローラが刺繍へ触れる。
「王都の花でしょうか」
侍女が答える。
「王都近郊でよく見られる花を模したものと聞いております」
「名前は?」
「白鈴草でございます」
「白鈴草」
森では見たことがない。
「種は取れますか」
侍女は少し驚いたあと、微笑んだ。
「庭師へ尋ねてみます」
「何でも持ち帰ろうとしているように見えますか」
「少しだけ」
侍女は正直に答えた。
フローラは怒らなかった。
「森にないものを見ると、育つか知りたくなります」
「はい」
「でも、全部は持ち帰りません」
「はい」
持ち帰るもの。
王都へ置いていくもの。
それも選ぶ。
髪は、今日はミナに手伝ってもらいながら編んだ。
昨日ほど緩くない。
でも、公爵令嬢だった頃のように、一本の乱れもない形ではない。
花守り布をかぶる。
中には、王都へ持ってきた六つの言葉と木の実だけ。
二つの空の袋もある。
軽い。
「今日は、帰る日を書いた紙を入れます」
小さな紙へ。
二日後、森へ戻る。
そう書いた。
六つ目の言葉に、日付がついた。
新しい紙は二つ目の袋へ入れる。
「七つ目ではありません」
フローラは言った。
「六つ目の続きです」
◇
朝食の部屋では、リオがパンを二つ重ね、その間へ焼いた肉を挟んでいた。
「何を作っていますか」
「道で食べるもの」
フローラは足を止めた。
「誰から聞きましたか」
「ミナ」
ミナを見る。
「帰る日を決められたことだけ、先に伝えました」
「はい」
「二日後?」
リオが尋ねる。
「はい」
リオは肉を挟んだパンを持ったまま、大きく頷いた。
「帰る」
「はい」
「森に」
「はい」
その顔には、迷いがない。
嬉しそう。
安心したようにも見える。
「まだ、二日あります」
「準備する」
「パンは、今日作っても固くなります」
ミナが指摘する。
リオは挟んだ肉を見た。
「じゃあ食べる」
「はい」
そのまま朝食になった。
フローラは粥を食べながら、帰る日を決めたことを説明する。
「安全に問題があれば変えます」
「うん」
「母様や父様が会いたいと言っても、それだけでは変えません」
「うん」
「国王陛下へも伝えます」
「王様、止める?」
「分かりません」
「止めたら?」
フローラは匙を置いた。
国王陛下は、会う順番をフローラへ返してくれた。
帰ることも、止めないと思いたい。
でも。
「止められても、理由を聞きます」
「うん」
「安全のためなら、考えます」
「うん」
「王都へ残ってほしいという気持ちだけなら、帰ります」
「うん」
許可ではない。
予定を伝える。
「母親と父親には?」
「今日、伝えます」
「会う?」
「まだ決めません」
帰る日を伝えるためだけなら、手紙や伝言でもよい。
「帰る前に会わないかもしれません」
「うん」
「会うかもしれません」
「うん」
「それも、別に決めます」
◇
朝食後。
フローラはエドガーを呼んでもらった。
しばらくして客室へ現れたエドガーは、いつも通り静かな礼をした。
「お呼びでしょうか、フローラ様」
「はい」
フローラは花守り布の二つ目の袋から、小さな紙を取り出した。
「森へ帰る日を決めました」
エドガーの顔が、ほんのわずかに固くなる。
「いつでございましょう」
「二日後です」
エドガーはすぐに答えず、日程を頭の中で確認しているようだった。
「護衛と馬車の準備は可能ですか」
「はい。二日後であれば、問題なく整えられます」
「道は?」
「昨日までの雨による大きな崩れは報告されておりません。ただ、念のため本日中に先行確認を出します」
「はい」
「ご体調に問題がなければ、予定通り出発できるかと存じます」
安全。
準備。
必要なこと。
「国王陛下へ、今日伝えたいです」
「謁見をご希望でしょうか」
会う。
国王陛下へ。
六つの言葉を伝えた時と同じような正式な謁見でなくてもよい。
「短い時間でよいです」
「はい」
「許可をいただくためではありません」
エドガーの目がわずかに動く。
「予定を伝えます」
「そのようにお取り次ぎいたします」
「母様と父様へも、二日後に帰ると伝えてください」
「はい」
「会いたいと言われても、今日は返事をしません」
「承知いたしました」
「まず、帰る日だけ」
「はい」
「母様の手紙を最後まで読んでいなくても帰ります」
「はい」
「父様と、もう一度会わなくても」
「はい」
「公爵家をどうするか決めていなくても」
「はい」
一つずつ言い切る。
エドガーは遮らない。
「王都で終わっていないことを、森へ持って帰ります」
「承知いたしました」
終わっていないものを持ち帰る。
以前なら、怖かった。
全部終わらせなければ。
迷惑をかけないように。
決めてから。
正しくしてから。
でも、今は違う。
「終わっていないことは、終わっていないままでよいです」
エドガーは少し目を伏せた。
「はい」
◇
国王陛下との面会は、昼前に決まった。
正式な謁見の間ではなく、最初に話した部屋よりも小さな執務室の隣の応接室。
フローラが希望した通り、短い時間。
ミナとリオも同行する。
廊下を歩く間、王宮の使用人たちが端へ寄り、頭を下げた。
最初の日。
青の姫君。
化け物。
森へ逃げた公爵令嬢。
噂の視線。
そう感じていた。
今も、見られている。
でも、少し違う。
菜園で虫を見つけた令嬢。
豆を夕食へ出してほしいと頼んだ人。
侍女たちと豆の名前で笑った人。
王宮にいる間に、フローラを知った者が少しだけ増えた。
「もう帰られるらしい」
廊下の奥で、若い侍従の小さな声が聞こえた。
「二日後だと」
「早いな」
「一週間以上いるだろう」
「でも、公爵邸には一度も泊まっていない」
「森へ戻るのだろう」
囁き。
以前なら、身体が固くなった。
今日は立ち止まらない。
噂のすべてを訂正する必要はない。
二日後に帰る。
それは本当。
公爵邸へ泊まっていない。
それも本当。
森へ戻る。
その通り。
「言われても、大丈夫ですか」
ミナが小さく尋ねる。
「少し、胸が速いです」
「はい」
「でも、間違っていません」
「はい」
「帰ることを隠さなくてよいです」
歩き続ける。
◇
応接室へ入ると、国王陛下はすでに待っていた。
正式な王冠はなく、濃い灰色の上着を着ている。机の上には数枚の書類があったが、フローラが入ると、すぐに横へ寄せた。
「来たか」
「はい」
「座れ」
フローラは椅子へ座る。
国王陛下との間には小さな机。
ミナとリオは後ろ。
砂時計はない。
今日は、話す内容が決まっている。
「森へ帰る日を決めました」
国王陛下は、少しだけ目を細めた。
「いつだ」
「二日後です」
沈黙。
国王陛下が何を思ったのか、すぐには分からない。
残ってほしい。
早い。
遅い。
公爵家との話が終わっていない。
そう言われるかもしれない。
「そうか」
最初の言葉は、それだけだった。
「止めませんか」
フローラが尋ねる。
国王陛下は、少し眉を上げた。
「止めてほしいのか」
「いいえ」
「なら、止めぬ」
胸の力が抜ける。
「公爵家のことは、まだ決めていません」
「知っている」
「母様の手紙も、最後まで読んでいません」
「それも聞いている」
「父様と母様へ、もう一度会うかも決めていません」
「それも、お前が決めることだ」
「全部、終わっていません」
国王陛下は、しばらくフローラを見た。
「終わらせてからでなければ、森へ帰れぬと誰かに言われたか」
「いいえ」
「では、誰に止められている」
フローラは少し考えた。
「私です」
「そうか」
「全部を終わらせてから帰るべきだと思いそうになりました」
「なぜだ」
「王都へ来たからです」
「王都へ来れば、すべて片づけなければならぬのか」
「いいえ」
「公爵令嬢だからか」
「以前なら、そう思いました」
「今は?」
「森へ持ち帰って考えてよいと思います」
国王陛下は、ゆっくりと頷いた。
「それでよい」
許可ではない。
でも、受け止められた。
「森へ戻ったあとも、公爵家のことを決める必要はありますか」
「いずれはある」
「はい」
「だが、王都にいなければ考えられぬことではない」
「はい」
「手紙を使えばよい」
「はい」
「必要なら、また来ればよい」
また来る。
その言葉へ、胸が少し固くなる。
王都へ二度と来ない。
そう決めてはいない。
でも、また来ると約束もできない。
「来るかは、その時に決めます」
「それでよい」
国王陛下は、すぐに受け入れた。
「護衛は整える。道も確認させる」
「ありがとうございます」
「帰還の日まで、予定を詰めるつもりはない」
「はい」
「会いたい者がいるなら会え。いないなら会わなくてよい」
「はい」
「王都を見たいなら見ればよい。部屋で豆を数していても構わぬ」
リオが後ろから言った。
「途中で分からなくなる」
国王陛下の視線がリオへ移る。
「何がだ」
「豆の数」
「数え直せ」
「食べて減る」
「なら、最初から数えるな」
リオは少し考える。
「それもそう」
国王陛下の口元がわずかに緩む。
フローラも笑った。
短い面会。
帰る日を伝えるだけ。
それでも、笑える時間があった。
◇
「陛下」
フローラは、もう一つだけ確認する。
「母様と父様が、帰る前に会いたいと言ったら」
「お前が決めろ」
「はい」
「私に聞く必要はない」
「はい」
「ただし」
国王陛下の声が少し低くなる。
「断る時に、自分が悪いと思う必要もない」
胸へ刺さる。
「はい」
「会わずに帰ることも、罰ではない」
「はい」
「会うことも、許しではない」
「はい」
母様と会った。
父様とも会った。
でも許していない。
国王陛下も、それを分けている。
「帰ることも、逃げることではない」
フローラは息を止めた。
逃げる。
王都から。
家族から。
公爵家の責任から。
そう思われる怖さが、胸の奥に少しあった。
「森は、お前が選んだ家なのだろう」
「はい」
「家へ帰ることを、逃げるとは言わぬ」
胸が熱くなる。
「ありがとうございます」
「礼を言うことではない」
「でも、言いたいです」
「そうか」
国王陛下は、それ以上否定しなかった。
◇
面会を終えて廊下へ出ると、エドガーが待っていた。
「公爵閣下と公爵夫人へ、帰還予定をお伝えいたしました」
胸が少し固くなる。
「返事は?」
「それぞれ、承知したとのことでございます」
「会いたいとは?」
「現時点では、どちらからも面会の申し出はございません」
驚く。
母様も。
父様も。
帰ると知って。
すぐに会いたいと言わなかった。
約束を守っている。
急がない。
「何も、言わなかったのですか」
「公爵夫人からは、お帰りになる日まで穏やかに過ごせることを願っていると」
「はい」
「公爵閣下からは、道中の安全を祈ると」
「それだけ?」
「はい」
会いたい。
寂しい。
もう一度。
そう言わない。
フローラの胸へ、嬉しさと寂しさが同時に生まれる。
「会いたいと言われないと、少し寂しいです」
エドガーは答えず、静かに待つ。
「でも、言われたら苦しいです」
「はい」
「勝手ですか」
「いいえ」
ミナが答える。
「両方のお気持ちがあるのだと思います」
「はい」
会いたいと願ってほしい。
でも、急かしてほしくない。
相手の心の中は見えない。
母様も父様も、願っているのかもしれない。
言葉へしないだけ。
「願うことは、二人のものです」
「はい」
「言わないことも、二人が決めたのですね」
「はい」
一度、約束を守った。
今も、守ろうとしている。
「受け取ります」
◇
昼食のあと。
フローラは王宮の菜園へ向かった。
帰る日を決めたから。
今すぐ別れを告げるためではない。
二日後まで、まだ見ることができる。
庭へ出ると、雨上がりの土の匂いが濃く残っていた。王宮の石壁に囲まれた菜園でも、土の匂いは森と少し似ている。
庭師たちはフローラを見ると、作業の手を止めて頭を下げた。
「姫君様」
年長の庭師が近づいてくる。
「虫のいた豆は、どうですか」
「今朝も数匹見つかりましたが、増えてはおりません」
「隣の株は?」
「一匹だけ確認しました」
「では、そこも見続けてください」
「はい」
フローラは葉の裏を見る。
小さな虫。
白い跡。
新しい葉。
「全部を抜かなくてよかったです」
「姫君様が、分からないうちに全部抜く必要はないと仰ったので」
庭師は少し笑う。
「私どもは、斑点を見ると病気だと思い、すぐ処分するところでした」
「病気の可能性もありました」
「はい」
「今回は虫が見つかりました」
「はい」
「でも、虫だけが原因かは、まだ分かりません」
庭師は深く頷いた。
「これからも記録いたします」
「お願いします」
帰ったあとも。
その言葉を伝える前に、庭師が言った。
「二日後に森へお戻りになると伺いました」
もう菜園にも伝わっている。
「はい」
「短い間ではございましたが、ありがとうございました」
「私は、虫を見ただけです」
「それだけではございません」
庭師は周囲を見る。
若い使用人たちも、少し離れた場所でこちらを見ている。
「私どもは、姫君様が何かをご存じだから驚いたのではありません」
「では、何に?」
「分からないことを、分からないと仰ったことに」
フローラは目を瞬いた。
「庭を任されておりますと、分からないとは言いにくいものです」
「はい」
「病気かもしれない。虫かもしれない。水かもしれない。何か答えなければ、仕事ができないと思われるのではないかと」
その言葉は、父様の話にも少し似ている。
分からないと答えられない。
正しい答えで埋める。
「でも、姫君様は、見た範囲だけを話されました」
「はい」
「それで、私どもも、急いで答えを決めなくてよいのだと思えました」
周囲の若い庭師たちが頷く。
「ありがとうございます」
フローラは、すぐに受け取れなかった。
自分が森で覚えたこと。
分からないことを、分からないままにする。
それが王宮の人へ残る。
「私が帰ったあとも」
「はい」
「分からない時は、分からないと記録してください」
「承知しました」
「でも、見ないまま分からないとは書かないでください」
庭師たちから、小さな笑いが起きた。
「はい」
「見てください」
「はい」
「葉の表だけでなく、裏も」
「必ず」
フローラも少し笑った。
◇
豆の種についても、庭師から直接説明を受けた。
今ある実は食用に育てているもの。
種として残すには、株の一部を収穫せず、十分に熟すまで待つ必要がある。
「森へ送れるのは、しばらく先になります」
「待ちます」
「確実に芽が出るとは申せません」
「はい」
「土も気候も違います」
「分かりません」
「はい」
「育つかは、育ててみてからです」
年長の庭師は、嬉しそうに頷いた。
「名前は、もうお決めですか」
横で聞いていた若い庭師が尋ねる。
リオがすぐに答える。
「王豆一号」
「まだです」
フローラが訂正する。
「芽が出てから決めます」
「では、仮の名でございますね」
「リオの中では」
若い庭師たちが笑う。
王宮の菜園。
青の姫君。
帰還の噂。
少し離れたところには、見物するように立ち止まる使用人たちもいた。
でも、笑いは怖くない。
豆の名前を一緒に面白がっている。
「種と一緒に、育て方の記録も送ります」
庭師が言う。
「王宮での育て方ですか」
「はい」
「森では、同じにならないかもしれません」
「それでも、最初の参考にはなるかと」
「お願いします」
王宮から森へ。
豆の種。
育て方の記録。
何かがつながる。
王都へ残ることと、森へ戻ることの間に。
細い道。
◇
客室へ戻る途中、フローラは廊下の窓から王都を見た。
二日後。
この景色から離れる。
嬉しい。
森へ帰れる。
でも。
少し寂しい。
王宮の菜園。
侍女たち。
庭師。
豆。
国王陛下。
母様。
父様。
王都のすべてを嫌っていた頃なら、帰ることだけが嬉しかったかもしれない。
今は違う。
「寂しいです」
フローラが言う。
「はい」
ミナが答える。
「帰りたいです」
「はい」
「両方です」
「はい」
王都を好きになった。
そこまでではない。
でも、嫌いだけではなくなった。
「嫌いではないものを、置いて帰れますか」
「置いて帰るから、なくなるわけではありません」
ミナの言葉に、フローラは窓の外を見る。
「また見るかもしれません」
「はい」
「見ないかもしれません」
「はい」
「それでも、今日見たことはなくなりません」
「はい」
母様と父様との四半刻と同じ。
一度あったものは、なくならない。
◇
夕方。
母様から、手紙が一通届いた。
新しい手紙。
フローラは、エドガーが差し出した白い封筒を見つめた。
机には、まだ最後まで読んでいない最初の手紙がある。
「母様は、手紙を増やしましたか」
「はい」
「帰ると聞いたから?」
「その後に書かれたものと伺っております」
胸が固くなる。
帰る前に読んでほしい。
もう一度会いたい。
そんな言葉が書かれているかもしれない。
「何文ですか」
「一文だけとのことでございます」
一文。
母様は、フローラが一度に多く読まないことを知っている。
「今、読まなければなりませんか」
「いいえ」
「帰る前に?」
「公爵夫人から、そのような希望は伝えられておりません」
ただ、送った。
読むかはフローラ。
「受け取ります」
封筒を手にする。
軽い。
本当に、一文だけ。
「今日は、読みません」
すぐに決めた。
「はい」
「帰る日を決めた日に、新しい言葉を入れません」
「はい」
机へ置く。
最初の手紙の隣。
二通。
どちらも待つ。
◇
父様からは、手紙も伝言もなかった。
それが少し気になる。
「父様は、何も言いませんでしたか」
フローラが尋ねると、エドガーは答える。
「道中の安全確認について、公爵家側でも騎士を出したいとの申し出がございました」
胸が固くなる。
公爵として。
娘の護衛。
王宮の護衛だけで足りる。
「父様としてですか。公爵としてですか」
「公爵閣下は、どちらであるか分からないと仰ったそうです」
フローラは目を瞬いた。
分からない。
七つ目の約束。
面会が終わっても、続けている。
「王宮の護衛がいるなら、公爵家の騎士は必要ですか」
「安全上は、王宮側だけで十分でございます」
「では、断ります」
「はい」
「父様が心配することは、止めません」
「はい」
「でも、護衛を増やすかは私が決めます」
「そのようにお伝えします」
「父様が悲しんでも?」
「はい」
「それは父様のものです」
「はい」
少しずつ。
帰る準備も、自分で決める。
◇
夕食では、王宮の厨房が道中用の保存食について相談したいと申し出てきた。
料理長本人ではなく、副料理長と若い料理人が二人、食後の客室へ来る。
「姫君様のお好みを伺いたく」
副料理長が緊張した様子で言う。
「道中で召し上がるものを、こちらでご用意いたします」
「パンと、干した肉でよいです」
「ほかには?」
「豆」
リオが即答する。
「豆は、馬車の中で食べにくいです」
「潰す」
若い料理人が、少し考える。
「豆を潰し、香草と混ぜてパンへ塗るものなら」
フローラが顔を上げる。
「できますか」
「はい」
「森でも作れますか」
料理人は、使う材料を一つずつ説明する。
煮た豆。
塩。
香草。
少量の油。
潰して混ぜる。
「森にあるもので、似たものは作れます」
「では、道中用にお作りいたします」
「作り方も、教えてください」
「もちろんでございます」
料理人たちは嬉しそうに頭を下げた。
王都から持ち帰るもの。
豆の種。
育て方の記録。
豆を潰した料理。
白鈴草の種は、まだ分からない。
「王都へ来て、豆が増えました」
フローラが言うと、副料理長が笑う。
「王宮の思い出が、豆でよろしいのでしょうか」
「はい」
迷わず答える。
「大切です」
周囲から、柔らかな笑いが起きた。
◇
夜。
フローラは記録紙を広げた。
今日は、森へ帰る日を決めた。
二日後。
安全に問題がある時は変える。
誰かが会いたいと言っただけでは変えない。
国王陛下へ、許可ではなく予定として伝えた。
国王陛下は止めなかった。
家へ帰ることを逃げるとは言わない、と言った。
母様と父様へも伝えた。
母様は、帰る日まで穏やかに過ごせることを願っていると答えた。
父様は、道中の安全を祈ると答えた。
どちらも、会いたいとは言わなかった。
少し寂しい。
でも、急かされなくて安心した。
両方ある。
母様から、一文だけの新しい手紙が届いた。
今日は読まなかった。
帰る日を決めた日に、新しい言葉を入れないと決めた。
父様は、公爵家の騎士を護衛へ加えたいと申し出た。
父親としてか、公爵としてかは分からないと答えた。
私は断った。
父様が心配することは止めない。
護衛を増やすかは私が決める。
王宮の菜園へ行った。
庭師たちは、分からないと記録することを覚えたと言った。
私が帰ったあとも、豆を見てくれる。
種は、育て方の記録と一緒に森へ送ってもらう。
芽が出るかは分からない。
名前は、芽が出てから決める。
リオは、もう王豆一号と呼んでいる。
道中では、豆を潰して香草と混ぜたものをパンへ塗って食べる。
作り方も教えてもらう。
最後に。
王都を嫌いなまま帰るのではない。
好きなもの。
少し嬉しかったもの。
寂しいと思うもの。
それらを置いて、森へ帰る。
置いて帰っても、なくならない。
フローラは筆を置いた。
◇
机の上。
母様から届いた新しい手紙。
まだ開いていない。
最初の手紙も途中まで。
二日後に帰る。
明日読むか。
帰ってから読むか。
まだ決めない。
「おやすみなさい、母様」
帰ると伝えた。
「新しい手紙は、今日は読みません」
母様は、急げとは言わなかった。
「おやすみなさい、父様」
公爵家の騎士は断った。
「心配することは、止めません」
でも、安全を決めるのはフローラ。
「おやすみなさい、国王陛下」
家へ帰ることを、逃げるとは言わないでくれた。
「おやすみなさい、王宮の庭師さんたち」
豆を見てくれる。
「おやすみなさい、王宮の豆」
いつか森へ来る。
最後に、村の毛布を胸まで引き上げる。
「おやすみなさい、森」
二日後。
日付を持った言葉。
「帰ります」
六つ目の言葉が、初めて未来の形を持った。
王都でのことは、まだ終わっていない。
母様の手紙も。
父様との話も。
公爵家の問題も。
何一つ、きれいには終わっていない。
それでも。
「終わっていないまま、帰ってよいです」
すべてを片づけなければ家へ戻れないわけではない。
答えが出ていなくても。
許していなくても。
次に会う日を決めていなくても。
帰れる。
「森で、続きを考えます」
フローラは王都での話を無理に終わらせず、終わっていないものを抱えたまま、自分の家へ戻る日を選んだ。
誰かに許された日ではない。
誰かの願いをすべて叶えた日でもない。
フローラが、自分で帰ると決めた日。
その日付を胸へ置きながら、フローラは王都で迎える七度目の夜へ、ゆっくりと目を閉じた。




