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『青の姫君の森暮らし 〜化け物と恐れられた公爵令嬢は、今日も畑を耕します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第86話 青の姫君、森へ帰る日を先に決める


 翌朝。


 フローラが目を覚ますと、王宮の窓の外には、久しぶりに雲の少ない青空が広がっていた。


 昨夜まで屋根や石畳へ残っていた雨の色は薄れ、朝の光を受けた庭の木々は、一枚一枚の葉をはっきりと浮かび上がらせている。遠くの塔の尖端には白い鳥が止まり、その下を忙しそうに歩く使用人たちの影が、乾き始めた石の上へ長く伸びていた。


 王宮で迎える七度目の朝。


 フローラは村から持ってきた毛布の中で目を開けたまま、しばらく天蓋を見つめていた。


 母様へ会った。


 父様へも会った。


 国王陛下へは、王都へ持ってきた六つの言葉を伝えた。


 王宮の菜園では豆の虫を見つけ、食べ、森へ種を送ってもらう話まで進んでいる。


 王都へ来る前に、自分がしなければならないと思っていたことは、少しずつ形になっていた。


 それでも。


「いつ、帰るのでしょう」


 フローラは小さく呟いた。


 王都へ来た時から、森へ戻ることだけは決めていた。


 けれど、何日に帰るかは決めていない。


 国王陛下と会ってから。


 母様の手紙を読んでから。


 父様と話してから。


 そうして一つずつ進めるうちに、王宮での朝は七度目になっている。


 七日が長いのか、短いのか。


 森で畑を見ていた時なら、七日はよく分かった。


 一日目に芽を見つける。


 二日目に葉が開く。


 三日目に風で傾く。


 四日目に支柱を直す。


 五日目に虫を見つける。


 六日目に隣の株を確かめる。


 七日目に記録を読み返す。


 七日の中には、目で確認できる変化があった。


 王宮での七日は、心の中で動くものが多すぎて、長さを測りにくい。


「森では、今」


 青豆一号の葉はどうなっているだろう。


 アオジロウの茎は。


 ムラマルの濃い葉は。


 モリタンの新しい芽は。


 オカエリ。


 キズナ。


 ガルドさん。


 村の子どもたち。


 レナードさんたち。


 みんなは、フローラがいなくても暮らしている。


 任せた。


 待たせた。


 それは分かっている。


 だから、すぐに帰らなければならないと自分を急かす必要はない。


 でも。


 帰る日を決めないまま王都へいることも、少し違う気がした。


「帰ると決めたのに、日を決めていません」


 六つ目の言葉。


 森へ戻る。


 その言葉だけが、まだ日付を持っていない。


 フローラはゆっくりと身体を起こした。


 胸は、昨日より軽い。


 父様との四半刻で聞いた言葉は、まだ残っている。


 けれど、母様と会った翌朝のような強い重さではなかった。


 父様は、豆のことを聞いた。


 森を見てみたいと言った。


 でも、今は来ないと答えた。


 森はフローラの家だから。


 その言葉を思い出す。


「森は、私の家です」


 なら。


 家へ帰る日を、自分で決めてもよい。


 誰かが許すまで待つのではなく。


 母様の手紙を最後まで読むまででもなく。


 父様ともう一度会うまででもない。


 公爵家の将来を決めるまででもない。


「全部を終わらせてから帰る必要は、ありません」


 王都での話は、一度で終わらない。


 父様と母様との関係も。


 国王陛下との話も。


 公爵家をどうするかも。


 何度も考える。


 手紙を使う。


 会う日を選ぶ。


 森から王都へ来ることもあるかもしれない。


 でも、今の家へ戻ってから考えてもよい。


「今日は、帰る日を決めます」


 言葉へすると、胸の奥へ一本の細い道ができた。


     ◇


 寝台を降り、カーテンを開ける。


 西庭の菜園では、庭師が昨日より多くの使用人を連れていた。


 豆の株。


 別の野菜。


 雨で湿った土。


 それぞれの場所で手を動かしている。


 フローラが虫を見つけた株も残っている。


 悪い葉を少し取り除いただけで、すべてを抜かなかった。


 今日も見ている。


 明日も見るのだろう。


「私が帰っても、見てください」


 窓越しで届かない声を、庭へ向ける。


 王宮の豆は、王宮の人たちが見る。


 森の豆は、森の人たちとフローラが見る。


 それぞれの場所へ戻る。


 それは、見捨てることではない。


     ◇


 扉が叩かれた。


「ミナです」


「入ってください」


 ミナが入ってくる。


 今朝のフローラの顔を見て、わずかに目を細めた。


「昨日より、お顔の色がよろしいように見えます」


「身体も、昨日より軽いです」


「はい」


「父様の言葉は、まだ残っています」


「はい」


「でも、今日は別のことを考えられます」


 ミナは急かさず、続きを待つ。


「森へ帰る日を決めたいです」


 その言葉に、ミナの表情が少しだけ揺れた。


 驚き。


 寂しさ。


 安心。


 いくつかの感情が、静かな顔の奥へ見えた。


「はい」


 ミナは、それだけ答えた。


「帰ることは、最初から決めていました」


「はい」


「でも、何日かは決めていません」


「はい」


「母様の手紙を全部読むまで、いる必要はありません」


「はい」


「父様ともう一度会うまででもありません」


「はい」


「公爵家をどうするかを決めるまででも」


「はい」


 一つずつ確認する。


「全部を終わらせてから帰ろうとすると、いつまでも帰れません」


「そうかもしれません」


「王都でしかできないことは、ありますか」


 ミナは少し考えた。


「国王陛下へ、帰還の予定をお伝えすること」


「はい」


「王宮側の護衛や馬車の手配」


「はい」


「王都でお会いになると決めた方が、ほかにいらっしゃるかどうかの確認」


「はい」


「公爵家へ、王都を離れる日を伝えること」


 その言葉へ、胸が少し固くなる。


「許可をもらうためではありません」


「はい」


「予定を伝えるだけです」


「はい」


 父様や母様が、もう一度会いたいと言うかもしれない。


 手紙を読んでほしいと言うかもしれない。


 王都へ残ってほしいと、約束を破って頼む可能性もある。


 でも。


 帰る日を決めたからといって、すぐに伝えなければならないわけではない。


 まず自分で決める。


 そのあと、伝える。


「何日後がよいでしょう」


 自分へ尋ねるように言う。


 今日すぐ。


 明日。


 二日後。


 三日後。


 身体の疲れ。


 馬車の準備。


 護衛。


 道の状態。


 雨上がり。


「今日出るのは、急すぎます」


「はい」


「明日も」


「護衛や道中の準備を考えると、少し慌ただしいかもしれません」


「二日後なら?」


「十分に整えられると思います」


 二日後。


 王宮で、あと二度夜を迎える。


 その間に。


 国王陛下へ伝える。


 母様と父様へ予定を知らせる。


 会うかどうかは別に決める。


 母様の手紙を読むかもしれない。


 読まないかもしれない。


 王宮の豆の様子を最後に見る。


「二日後に帰ります」


 口にした。


 胸が大きく鳴る。


 怖さではない。


 寂しさでもない。


 道が、日付を持った音。


「二日後」


 ミナが確認する。


「はい」


「変更する可能性は?」


 フローラは少し考えた。


 天候。


 体調。


 道の安全。


 変えなければならない理由はあるかもしれない。


「安全に帰れない時は、変えます」


「はい」


「誰かが会いたいと言っただけでは、変えません」


 ミナが静かに頷く。


「承知しました」


     ◇


 着替えには、淡い青緑のドレスを選んだ。


 王都へ来た初日に選んだ服よりも軽く、袖も動かしやすい。裾には小さな白い花の刺繍があり、森で春に咲く花とは違う形だった。


「今日は、この花も嫌ではありません」


 フローラが刺繍へ触れる。


「王都の花でしょうか」


 侍女が答える。


「王都近郊でよく見られる花を模したものと聞いております」


「名前は?」


「白鈴草でございます」


「白鈴草」


 森では見たことがない。


「種は取れますか」


 侍女は少し驚いたあと、微笑んだ。


「庭師へ尋ねてみます」


「何でも持ち帰ろうとしているように見えますか」


「少しだけ」


 侍女は正直に答えた。


 フローラは怒らなかった。


「森にないものを見ると、育つか知りたくなります」


「はい」


「でも、全部は持ち帰りません」


「はい」


 持ち帰るもの。


 王都へ置いていくもの。


 それも選ぶ。


 髪は、今日はミナに手伝ってもらいながら編んだ。


 昨日ほど緩くない。


 でも、公爵令嬢だった頃のように、一本の乱れもない形ではない。


 花守り布をかぶる。


 中には、王都へ持ってきた六つの言葉と木の実だけ。


 二つの空の袋もある。


 軽い。


「今日は、帰る日を書いた紙を入れます」


 小さな紙へ。


 二日後、森へ戻る。


 そう書いた。


 六つ目の言葉に、日付がついた。


 新しい紙は二つ目の袋へ入れる。


「七つ目ではありません」


 フローラは言った。


「六つ目の続きです」


     ◇


 朝食の部屋では、リオがパンを二つ重ね、その間へ焼いた肉を挟んでいた。


「何を作っていますか」


「道で食べるもの」


 フローラは足を止めた。


「誰から聞きましたか」


「ミナ」


 ミナを見る。


「帰る日を決められたことだけ、先に伝えました」


「はい」


「二日後?」


 リオが尋ねる。


「はい」


 リオは肉を挟んだパンを持ったまま、大きく頷いた。


「帰る」


「はい」


「森に」


「はい」


 その顔には、迷いがない。


 嬉しそう。


 安心したようにも見える。


「まだ、二日あります」


「準備する」


「パンは、今日作っても固くなります」


 ミナが指摘する。


 リオは挟んだ肉を見た。


「じゃあ食べる」


「はい」


 そのまま朝食になった。


 フローラは粥を食べながら、帰る日を決めたことを説明する。


「安全に問題があれば変えます」


「うん」


「母様や父様が会いたいと言っても、それだけでは変えません」


「うん」


「国王陛下へも伝えます」


「王様、止める?」


「分かりません」


「止めたら?」


 フローラは匙を置いた。


 国王陛下は、会う順番をフローラへ返してくれた。


 帰ることも、止めないと思いたい。


 でも。


「止められても、理由を聞きます」


「うん」


「安全のためなら、考えます」


「うん」


「王都へ残ってほしいという気持ちだけなら、帰ります」


「うん」


 許可ではない。


 予定を伝える。


「母親と父親には?」


「今日、伝えます」


「会う?」


「まだ決めません」


 帰る日を伝えるためだけなら、手紙や伝言でもよい。


「帰る前に会わないかもしれません」


「うん」


「会うかもしれません」


「うん」


「それも、別に決めます」


     ◇


 朝食後。


 フローラはエドガーを呼んでもらった。


 しばらくして客室へ現れたエドガーは、いつも通り静かな礼をした。


「お呼びでしょうか、フローラ様」


「はい」


 フローラは花守り布の二つ目の袋から、小さな紙を取り出した。


「森へ帰る日を決めました」


 エドガーの顔が、ほんのわずかに固くなる。


「いつでございましょう」


「二日後です」


 エドガーはすぐに答えず、日程を頭の中で確認しているようだった。


「護衛と馬車の準備は可能ですか」


「はい。二日後であれば、問題なく整えられます」


「道は?」


「昨日までの雨による大きな崩れは報告されておりません。ただ、念のため本日中に先行確認を出します」


「はい」


「ご体調に問題がなければ、予定通り出発できるかと存じます」


 安全。


 準備。


 必要なこと。


「国王陛下へ、今日伝えたいです」


「謁見をご希望でしょうか」


 会う。


 国王陛下へ。


 六つの言葉を伝えた時と同じような正式な謁見でなくてもよい。


「短い時間でよいです」


「はい」


「許可をいただくためではありません」


 エドガーの目がわずかに動く。


「予定を伝えます」


「そのようにお取り次ぎいたします」


「母様と父様へも、二日後に帰ると伝えてください」


「はい」


「会いたいと言われても、今日は返事をしません」


「承知いたしました」


「まず、帰る日だけ」


「はい」


「母様の手紙を最後まで読んでいなくても帰ります」


「はい」


「父様と、もう一度会わなくても」


「はい」


「公爵家をどうするか決めていなくても」


「はい」


 一つずつ言い切る。


 エドガーは遮らない。


「王都で終わっていないことを、森へ持って帰ります」


「承知いたしました」


 終わっていないものを持ち帰る。


 以前なら、怖かった。


 全部終わらせなければ。


 迷惑をかけないように。


 決めてから。


 正しくしてから。


 でも、今は違う。


「終わっていないことは、終わっていないままでよいです」


 エドガーは少し目を伏せた。


「はい」


     ◇


 国王陛下との面会は、昼前に決まった。


 正式な謁見の間ではなく、最初に話した部屋よりも小さな執務室の隣の応接室。


 フローラが希望した通り、短い時間。


 ミナとリオも同行する。


 廊下を歩く間、王宮の使用人たちが端へ寄り、頭を下げた。


 最初の日。


 青の姫君。


 化け物。


 森へ逃げた公爵令嬢。


 噂の視線。


 そう感じていた。


 今も、見られている。


 でも、少し違う。


 菜園で虫を見つけた令嬢。


 豆を夕食へ出してほしいと頼んだ人。


 侍女たちと豆の名前で笑った人。


 王宮にいる間に、フローラを知った者が少しだけ増えた。


「もう帰られるらしい」


 廊下の奥で、若い侍従の小さな声が聞こえた。


「二日後だと」


「早いな」


「一週間以上いるだろう」


「でも、公爵邸には一度も泊まっていない」


「森へ戻るのだろう」


 囁き。


 以前なら、身体が固くなった。


 今日は立ち止まらない。


 噂のすべてを訂正する必要はない。


 二日後に帰る。


 それは本当。


 公爵邸へ泊まっていない。


 それも本当。


 森へ戻る。


 その通り。


「言われても、大丈夫ですか」


 ミナが小さく尋ねる。


「少し、胸が速いです」


「はい」


「でも、間違っていません」


「はい」


「帰ることを隠さなくてよいです」


 歩き続ける。


     ◇


 応接室へ入ると、国王陛下はすでに待っていた。


 正式な王冠はなく、濃い灰色の上着を着ている。机の上には数枚の書類があったが、フローラが入ると、すぐに横へ寄せた。


「来たか」


「はい」


「座れ」


 フローラは椅子へ座る。


 国王陛下との間には小さな机。


 ミナとリオは後ろ。


 砂時計はない。


 今日は、話す内容が決まっている。


「森へ帰る日を決めました」


 国王陛下は、少しだけ目を細めた。


「いつだ」


「二日後です」


 沈黙。


 国王陛下が何を思ったのか、すぐには分からない。


 残ってほしい。


 早い。


 遅い。


 公爵家との話が終わっていない。


 そう言われるかもしれない。


「そうか」


 最初の言葉は、それだけだった。


「止めませんか」


 フローラが尋ねる。


 国王陛下は、少し眉を上げた。


「止めてほしいのか」


「いいえ」


「なら、止めぬ」


 胸の力が抜ける。


「公爵家のことは、まだ決めていません」


「知っている」


「母様の手紙も、最後まで読んでいません」


「それも聞いている」


「父様と母様へ、もう一度会うかも決めていません」


「それも、お前が決めることだ」


「全部、終わっていません」


 国王陛下は、しばらくフローラを見た。


「終わらせてからでなければ、森へ帰れぬと誰かに言われたか」


「いいえ」


「では、誰に止められている」


 フローラは少し考えた。


「私です」


「そうか」


「全部を終わらせてから帰るべきだと思いそうになりました」


「なぜだ」


「王都へ来たからです」


「王都へ来れば、すべて片づけなければならぬのか」


「いいえ」


「公爵令嬢だからか」


「以前なら、そう思いました」


「今は?」


「森へ持ち帰って考えてよいと思います」


 国王陛下は、ゆっくりと頷いた。


「それでよい」


 許可ではない。


 でも、受け止められた。


「森へ戻ったあとも、公爵家のことを決める必要はありますか」


「いずれはある」


「はい」


「だが、王都にいなければ考えられぬことではない」


「はい」


「手紙を使えばよい」


「はい」


「必要なら、また来ればよい」


 また来る。


 その言葉へ、胸が少し固くなる。


 王都へ二度と来ない。


 そう決めてはいない。


 でも、また来ると約束もできない。


「来るかは、その時に決めます」


「それでよい」


 国王陛下は、すぐに受け入れた。


「護衛は整える。道も確認させる」


「ありがとうございます」


「帰還の日まで、予定を詰めるつもりはない」


「はい」


「会いたい者がいるなら会え。いないなら会わなくてよい」


「はい」


「王都を見たいなら見ればよい。部屋で豆を数していても構わぬ」


 リオが後ろから言った。


「途中で分からなくなる」


 国王陛下の視線がリオへ移る。


「何がだ」


「豆の数」


「数え直せ」


「食べて減る」


「なら、最初から数えるな」


 リオは少し考える。


「それもそう」


 国王陛下の口元がわずかに緩む。


 フローラも笑った。


 短い面会。


 帰る日を伝えるだけ。


 それでも、笑える時間があった。


     ◇


「陛下」


 フローラは、もう一つだけ確認する。


「母様と父様が、帰る前に会いたいと言ったら」


「お前が決めろ」


「はい」


「私に聞く必要はない」


「はい」


「ただし」


 国王陛下の声が少し低くなる。


「断る時に、自分が悪いと思う必要もない」


 胸へ刺さる。


「はい」


「会わずに帰ることも、罰ではない」


「はい」


「会うことも、許しではない」


「はい」


 母様と会った。


 父様とも会った。


 でも許していない。


 国王陛下も、それを分けている。


「帰ることも、逃げることではない」


 フローラは息を止めた。


 逃げる。


 王都から。


 家族から。


 公爵家の責任から。


 そう思われる怖さが、胸の奥に少しあった。


「森は、お前が選んだ家なのだろう」


「はい」


「家へ帰ることを、逃げるとは言わぬ」


 胸が熱くなる。


「ありがとうございます」


「礼を言うことではない」


「でも、言いたいです」


「そうか」


 国王陛下は、それ以上否定しなかった。


     ◇


 面会を終えて廊下へ出ると、エドガーが待っていた。


「公爵閣下と公爵夫人へ、帰還予定をお伝えいたしました」


 胸が少し固くなる。


「返事は?」


「それぞれ、承知したとのことでございます」


「会いたいとは?」


「現時点では、どちらからも面会の申し出はございません」


 驚く。


 母様も。


 父様も。


 帰ると知って。


 すぐに会いたいと言わなかった。


 約束を守っている。


 急がない。


「何も、言わなかったのですか」


「公爵夫人からは、お帰りになる日まで穏やかに過ごせることを願っていると」


「はい」


「公爵閣下からは、道中の安全を祈ると」


「それだけ?」


「はい」


 会いたい。


 寂しい。


 もう一度。


 そう言わない。


 フローラの胸へ、嬉しさと寂しさが同時に生まれる。


「会いたいと言われないと、少し寂しいです」


 エドガーは答えず、静かに待つ。


「でも、言われたら苦しいです」


「はい」


「勝手ですか」


「いいえ」


 ミナが答える。


「両方のお気持ちがあるのだと思います」


「はい」


 会いたいと願ってほしい。


 でも、急かしてほしくない。


 相手の心の中は見えない。


 母様も父様も、願っているのかもしれない。


 言葉へしないだけ。


「願うことは、二人のものです」


「はい」


「言わないことも、二人が決めたのですね」


「はい」


 一度、約束を守った。


 今も、守ろうとしている。


「受け取ります」


     ◇


 昼食のあと。


 フローラは王宮の菜園へ向かった。


 帰る日を決めたから。


 今すぐ別れを告げるためではない。


 二日後まで、まだ見ることができる。


 庭へ出ると、雨上がりの土の匂いが濃く残っていた。王宮の石壁に囲まれた菜園でも、土の匂いは森と少し似ている。


 庭師たちはフローラを見ると、作業の手を止めて頭を下げた。


「姫君様」


 年長の庭師が近づいてくる。


「虫のいた豆は、どうですか」


「今朝も数匹見つかりましたが、増えてはおりません」


「隣の株は?」


「一匹だけ確認しました」


「では、そこも見続けてください」


「はい」


 フローラは葉の裏を見る。


 小さな虫。


 白い跡。


 新しい葉。


「全部を抜かなくてよかったです」


「姫君様が、分からないうちに全部抜く必要はないと仰ったので」


 庭師は少し笑う。


「私どもは、斑点を見ると病気だと思い、すぐ処分するところでした」


「病気の可能性もありました」


「はい」


「今回は虫が見つかりました」


「はい」


「でも、虫だけが原因かは、まだ分かりません」


 庭師は深く頷いた。


「これからも記録いたします」


「お願いします」


 帰ったあとも。


 その言葉を伝える前に、庭師が言った。


「二日後に森へお戻りになると伺いました」


 もう菜園にも伝わっている。


「はい」


「短い間ではございましたが、ありがとうございました」


「私は、虫を見ただけです」


「それだけではございません」


 庭師は周囲を見る。


 若い使用人たちも、少し離れた場所でこちらを見ている。


「私どもは、姫君様が何かをご存じだから驚いたのではありません」


「では、何に?」


「分からないことを、分からないと仰ったことに」


 フローラは目を瞬いた。


「庭を任されておりますと、分からないとは言いにくいものです」


「はい」


「病気かもしれない。虫かもしれない。水かもしれない。何か答えなければ、仕事ができないと思われるのではないかと」


 その言葉は、父様の話にも少し似ている。


 分からないと答えられない。


 正しい答えで埋める。


「でも、姫君様は、見た範囲だけを話されました」


「はい」


「それで、私どもも、急いで答えを決めなくてよいのだと思えました」


 周囲の若い庭師たちが頷く。


「ありがとうございます」


 フローラは、すぐに受け取れなかった。


 自分が森で覚えたこと。


 分からないことを、分からないままにする。


 それが王宮の人へ残る。


「私が帰ったあとも」


「はい」


「分からない時は、分からないと記録してください」


「承知しました」


「でも、見ないまま分からないとは書かないでください」


 庭師たちから、小さな笑いが起きた。


「はい」


「見てください」


「はい」


「葉の表だけでなく、裏も」


「必ず」


 フローラも少し笑った。


     ◇


 豆の種についても、庭師から直接説明を受けた。


 今ある実は食用に育てているもの。


 種として残すには、株の一部を収穫せず、十分に熟すまで待つ必要がある。


「森へ送れるのは、しばらく先になります」


「待ちます」


「確実に芽が出るとは申せません」


「はい」


「土も気候も違います」


「分かりません」


「はい」


「育つかは、育ててみてからです」


 年長の庭師は、嬉しそうに頷いた。


「名前は、もうお決めですか」


 横で聞いていた若い庭師が尋ねる。


 リオがすぐに答える。


「王豆一号」


「まだです」


 フローラが訂正する。


「芽が出てから決めます」


「では、仮の名でございますね」


「リオの中では」


 若い庭師たちが笑う。


 王宮の菜園。


 青の姫君。


 帰還の噂。


 少し離れたところには、見物するように立ち止まる使用人たちもいた。


 でも、笑いは怖くない。


 豆の名前を一緒に面白がっている。


「種と一緒に、育て方の記録も送ります」


 庭師が言う。


「王宮での育て方ですか」


「はい」


「森では、同じにならないかもしれません」


「それでも、最初の参考にはなるかと」


「お願いします」


 王宮から森へ。


 豆の種。


 育て方の記録。


 何かがつながる。


 王都へ残ることと、森へ戻ることの間に。


 細い道。


     ◇


 客室へ戻る途中、フローラは廊下の窓から王都を見た。


 二日後。


 この景色から離れる。


 嬉しい。


 森へ帰れる。


 でも。


 少し寂しい。


 王宮の菜園。


 侍女たち。


 庭師。


 豆。


 国王陛下。


 母様。


 父様。


 王都のすべてを嫌っていた頃なら、帰ることだけが嬉しかったかもしれない。


 今は違う。


「寂しいです」


 フローラが言う。


「はい」


 ミナが答える。


「帰りたいです」


「はい」


「両方です」


「はい」


 王都を好きになった。


 そこまでではない。


 でも、嫌いだけではなくなった。


「嫌いではないものを、置いて帰れますか」


「置いて帰るから、なくなるわけではありません」


 ミナの言葉に、フローラは窓の外を見る。


「また見るかもしれません」


「はい」


「見ないかもしれません」


「はい」


「それでも、今日見たことはなくなりません」


「はい」


 母様と父様との四半刻と同じ。


 一度あったものは、なくならない。


     ◇


 夕方。


 母様から、手紙が一通届いた。


 新しい手紙。


 フローラは、エドガーが差し出した白い封筒を見つめた。


 机には、まだ最後まで読んでいない最初の手紙がある。


「母様は、手紙を増やしましたか」


「はい」


「帰ると聞いたから?」


「その後に書かれたものと伺っております」


 胸が固くなる。


 帰る前に読んでほしい。


 もう一度会いたい。


 そんな言葉が書かれているかもしれない。


「何文ですか」


「一文だけとのことでございます」


 一文。


 母様は、フローラが一度に多く読まないことを知っている。


「今、読まなければなりませんか」


「いいえ」


「帰る前に?」


「公爵夫人から、そのような希望は伝えられておりません」


 ただ、送った。


 読むかはフローラ。


「受け取ります」


 封筒を手にする。


 軽い。


 本当に、一文だけ。


「今日は、読みません」


 すぐに決めた。


「はい」


「帰る日を決めた日に、新しい言葉を入れません」


「はい」


 机へ置く。


 最初の手紙の隣。


 二通。


 どちらも待つ。


     ◇


 父様からは、手紙も伝言もなかった。


 それが少し気になる。


「父様は、何も言いませんでしたか」


 フローラが尋ねると、エドガーは答える。


「道中の安全確認について、公爵家側でも騎士を出したいとの申し出がございました」


 胸が固くなる。


 公爵として。


 娘の護衛。


 王宮の護衛だけで足りる。


「父様としてですか。公爵としてですか」


「公爵閣下は、どちらであるか分からないと仰ったそうです」


 フローラは目を瞬いた。


 分からない。


 七つ目の約束。


 面会が終わっても、続けている。


「王宮の護衛がいるなら、公爵家の騎士は必要ですか」


「安全上は、王宮側だけで十分でございます」


「では、断ります」


「はい」


「父様が心配することは、止めません」


「はい」


「でも、護衛を増やすかは私が決めます」


「そのようにお伝えします」


「父様が悲しんでも?」


「はい」


「それは父様のものです」


「はい」


 少しずつ。


 帰る準備も、自分で決める。


     ◇


 夕食では、王宮の厨房が道中用の保存食について相談したいと申し出てきた。


 料理長本人ではなく、副料理長と若い料理人が二人、食後の客室へ来る。


「姫君様のお好みを伺いたく」


 副料理長が緊張した様子で言う。


「道中で召し上がるものを、こちらでご用意いたします」


「パンと、干した肉でよいです」


「ほかには?」


「豆」


 リオが即答する。


「豆は、馬車の中で食べにくいです」


「潰す」


 若い料理人が、少し考える。


「豆を潰し、香草と混ぜてパンへ塗るものなら」


 フローラが顔を上げる。


「できますか」


「はい」


「森でも作れますか」


 料理人は、使う材料を一つずつ説明する。


 煮た豆。


 塩。


 香草。


 少量の油。


 潰して混ぜる。


「森にあるもので、似たものは作れます」


「では、道中用にお作りいたします」


「作り方も、教えてください」


「もちろんでございます」


 料理人たちは嬉しそうに頭を下げた。


 王都から持ち帰るもの。


 豆の種。


 育て方の記録。


 豆を潰した料理。


 白鈴草の種は、まだ分からない。


「王都へ来て、豆が増えました」


 フローラが言うと、副料理長が笑う。


「王宮の思い出が、豆でよろしいのでしょうか」


「はい」


 迷わず答える。


「大切です」


 周囲から、柔らかな笑いが起きた。


     ◇


 夜。


 フローラは記録紙を広げた。


 今日は、森へ帰る日を決めた。


 二日後。


 安全に問題がある時は変える。


 誰かが会いたいと言っただけでは変えない。


 国王陛下へ、許可ではなく予定として伝えた。


 国王陛下は止めなかった。


 家へ帰ることを逃げるとは言わない、と言った。


 母様と父様へも伝えた。


 母様は、帰る日まで穏やかに過ごせることを願っていると答えた。


 父様は、道中の安全を祈ると答えた。


 どちらも、会いたいとは言わなかった。


 少し寂しい。


 でも、急かされなくて安心した。


 両方ある。


 母様から、一文だけの新しい手紙が届いた。


 今日は読まなかった。


 帰る日を決めた日に、新しい言葉を入れないと決めた。


 父様は、公爵家の騎士を護衛へ加えたいと申し出た。


 父親としてか、公爵としてかは分からないと答えた。


 私は断った。


 父様が心配することは止めない。


 護衛を増やすかは私が決める。


 王宮の菜園へ行った。


 庭師たちは、分からないと記録することを覚えたと言った。


 私が帰ったあとも、豆を見てくれる。


 種は、育て方の記録と一緒に森へ送ってもらう。


 芽が出るかは分からない。


 名前は、芽が出てから決める。


 リオは、もう王豆一号と呼んでいる。


 道中では、豆を潰して香草と混ぜたものをパンへ塗って食べる。


 作り方も教えてもらう。


 最後に。


 王都を嫌いなまま帰るのではない。


 好きなもの。


 少し嬉しかったもの。


 寂しいと思うもの。


 それらを置いて、森へ帰る。


 置いて帰っても、なくならない。


 フローラは筆を置いた。


     ◇


 机の上。


 母様から届いた新しい手紙。


 まだ開いていない。


 最初の手紙も途中まで。


 二日後に帰る。


 明日読むか。


 帰ってから読むか。


 まだ決めない。


「おやすみなさい、母様」


 帰ると伝えた。


「新しい手紙は、今日は読みません」


 母様は、急げとは言わなかった。


「おやすみなさい、父様」


 公爵家の騎士は断った。


「心配することは、止めません」


 でも、安全を決めるのはフローラ。


「おやすみなさい、国王陛下」


 家へ帰ることを、逃げるとは言わないでくれた。


「おやすみなさい、王宮の庭師さんたち」


 豆を見てくれる。


「おやすみなさい、王宮の豆」


 いつか森へ来る。


 最後に、村の毛布を胸まで引き上げる。


「おやすみなさい、森」


 二日後。


 日付を持った言葉。


「帰ります」


 六つ目の言葉が、初めて未来の形を持った。


 王都でのことは、まだ終わっていない。


 母様の手紙も。


 父様との話も。


 公爵家の問題も。


 何一つ、きれいには終わっていない。


 それでも。


「終わっていないまま、帰ってよいです」


 すべてを片づけなければ家へ戻れないわけではない。


 答えが出ていなくても。


 許していなくても。


 次に会う日を決めていなくても。


 帰れる。


「森で、続きを考えます」


 フローラは王都での話を無理に終わらせず、終わっていないものを抱えたまま、自分の家へ戻る日を選んだ。


 誰かに許された日ではない。


 誰かの願いをすべて叶えた日でもない。


 フローラが、自分で帰ると決めた日。


 その日付を胸へ置きながら、フローラは王都で迎える七度目の夜へ、ゆっくりと目を閉じた。

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