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『青の姫君の森暮らし 〜化け物と恐れられた公爵令嬢は、今日も畑を耕します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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85/101

第85話 青の姫君、父に公爵ではなく父として座ってもらう



 翌朝、フローラが目を覚ました時、雨は上がっていた。


 王宮の高い窓には、昨夜までの雨粒がいくつか残っている。東の空から差し込む朝の光が、その一粒一粒へ触れ、細い銀色の筋を床の上へ落としていた。


 雲はまだ多い。


 けれど、灰色一色ではなかった。


 薄い青が雲の切れ間から見え、雨に洗われた王都の屋根は、昨日よりも輪郭をはっきりさせている。庭の木々も濡れた葉を光らせ、石畳の窪みには小さな水溜まりが残っていた。


 王宮で迎える五度目の朝。


 フローラは村から持ってきた毛布の中で、すぐには起き上がらなかった。


 身体が重い。


 脚が疲れているわけではない。


 長く歩いた翌朝のような筋肉の張りもない。


 けれど、胸の内側がまだ昨日の四半刻から戻りきっていなかった。


 母様。


 灰紫色のドレス。


 痩せた頬。


 赤い目。


 震える声。


 机を挟んだ距離。


 落ちていく白い砂。


 母様は、すべての約束を守った。


 触れなかった。


 戻るよう求めなかった。


 婚姻や公爵家の今後について話さなかった。


 許しを求めなかった。


 終わりをフローラへ返した。


 そして、なぜ自分を見なかったのかと聞いた時、母様は答えた。


 公爵夫人として娘を育てる方法は知っていた。


 けれど、母親として娘を愛する方法を知らなかった。


 娘として見ることが怖かった。


「知らなかったでは、足りません」


 フローラは寝台の上で、昨日と同じ言葉を口にした。


 朝になっても、気持ちは変わっていない。


 母様に事情があった。


 母様も、母親として何をすればよいか分からなかった。


 それを聞いた。


 理解できる部分もある。


 でも。


 理解と許しは同じではない。


 理由と、傷が消えることも同じではない。


 母様が怖かった間、フローラは一人だった。


 母様が知らなかった間、フローラは自分が悪いと思い続けた。


 化け物だから。


 青い髪だから。


 正しくできないから。


 愛されないのだと。


「それは、なくなりません」


 過去は戻らない。


 母様が今どれほど正しい言葉を選んでも、昔のフローラの部屋へは届かない。


 ただ。


 今の自分へは、少しだけ届いた。


 そのことも、朝になって消えてはいなかった。


「少しだけ、届きました」


 母様へ言った。


 あの時、母様の目に浮かんだ喜びを、フローラは見た。


 でも、母様は喜びへ縋らなかった。


 もっと言ってほしいとも。


 許してくれるのかとも。


 次はいつ会えるのかとも聞かなかった。


 約束を守った。


「昨日の母様は、約束を守りました」


 事実を一つだけ置く。


 一度守った。


 これからも守ると、まだ決めない。


 変わった人だと、すべてを信じない。


 でも、昔と同じだと決めつけることもしない。


「分かりません」


 今は、それでいい。


 フローラは目を閉じた。


「おはようございます、母様」


 昨日、同じ部屋で会った人へ。


「今日は、会いません」


 すぐに決められた。


 嫌だからではない。


 会いたくないからだけでもない。


 昨日の言葉が、まだ胸の中に残っている。


 新しい言葉を入れる前に、今あるものを置く時間が必要だった。


「おはようございます、父様」


 その呼びかけを口にした瞬間、別の重さが胸へ広がった。


 王都へ入る前。


 休憩所。


 公爵家の馬車。


 父様は、迎えに来た。


 でも、屋敷へ来いとは言わなかった。


 顔が見たかったと言った。


 フローラは父様へ、遅いと伝えた。


 屋敷にいた時に見てほしかった。


 私は娘だった。


 人だった。


 父様は、言い訳をしなかった。


 分かるのが遅すぎたと答えた。


 それ以来、父様とは会っていない。


「父様へは」


 今日、会うだろうか。


 母様との四半刻のあと。


 次は父様。


 順番のように考えそうになる。


 でも。


 人は、終わらせるために順番へ並べるものではない。


 国王陛下。


 母様。


 父様。


 一人ずつ会えば、王都での用事が終わるわけではない。


「今日、決めます」


 今すぐではない。


 朝食を食べてから。


 身体の重さを見てから。


 父様へ何を聞きたいのか考えてから。


 会うか。


 まだ待つか。


 それを自分で決める。


     ◇


 寝台を降り、窓辺へ近づく。


 カーテンは昨日より少し広く開いた。


 雨上がりの光は強すぎず、濡れた庭を柔らかく照らしていた。


 西庭の菜園では、豆へかけられていた雨避けが外されている。庭師が濡れた葉を一枚ずつ持ち上げ、裏側を確認していた。


 虫が増えていないか。


 雨で茎が倒れていないか。


 土へ水が溜まりすぎていないか。


 昨日までの続き。


「今日も、見ています」


 フローラがいなくても。


 庭師は豆を見る。


 森でも。


 ガルドさんや子どもたちが見ている。


 自分が全部を見なくても、植物は育つ。


 人も、時間も動く。


 母様も、父様も。


 フローラが会わない間に、考えているのかもしれない。


 何も変わっていない可能性もある。


 それは、会う前には分からない。


「見なければ、分かりません」


 豆の葉と同じ言い方をしてから、すぐに首を横へ振る。


「同じではありません」


 父様は植物ではない。


 会えば状態が分かるものでもない。


 言葉が本当か。


 態度が続くか。


 一度では分からない。


 でも、一度目を見なければ、二度目のことも分からない。


「少しずつです」


 それだけは、似ている。


     ◇


 扉が叩かれた。


「ミナです」


「入ってください」


 ミナが部屋へ入り、窓辺に立つフローラを見る。


「おはようございます、フローラ様」


「おはようございます」


「昨夜はお休みになれましたか」


 フローラは少し考えた。


「眠れました」


「はい」


「一度、母様の声を思い出して起きました」


「はい」


「でも、毛布を触って、ここにいると分かりました」


「はい」


「そのあと、また眠れました」


 眠れた。


 でも、何もなかったわけではない。


 そこまで言える。


「お身体は?」


「身体は、痛くありません」


 胸へ手を置く。


「でも、心が少し重いです」


「昨日のお時間が残っておられるのですね」


「はい」


 ミナは、すぐに今日は休みましょうとは言わなかった。


 会うべきとも言わない。


 フローラが続きを話すのを待つ。


「母様とは、今日は会いません」


「はい」


「手紙も、今日は読まないと思います」


「はい」


「父様へ会うかは、まだ決めていません」


「はい」


 言葉へすると、一日の形が少しずつ見える。


「父様へ、聞きたいことがあります」


「どのようなことでしょう」


 フローラは窓の外を見た。


「父様は、公爵としてなら話せる人でした」


「はい」


「領地のこと。王都のこと。家のこと」


「はい」


「でも、父親としてどう話せばよいか分からなかったと言いました」


「はい」


「それを、もう少し聞きたいです」


 どうして分からなかったのか。


 父様の父親は、どのような人だったのか。


 母様と同じように、父親になる方法を知らなかったのか。


 それとも。


 公爵家を優先し、娘を見ることを自分でやめたのか。


「理由を聞けば、許さなければならない気がしていました」


 ミナが静かに尋ねる。


「今は、どうでしょう」


「理由を聞いても、許さなくてよいと分かりました」


 母様との四半刻で、少し分かった。


 事情を聞く。


 理解できる部分がある。


 それでも、傷ついたと伝えていい。


「聞くことと、許すことは別です」


「はい」


「父様へ、一つ聞いてみたいです」


 そのために会う。


 すべての話を終わらせるためではない。


 屋敷へ戻る話をするためでもない。


 父様が、父親として話せなかった理由を聞くため。


「今日は、父様へ会うかもしれません」


「はい」


 母様の時より、言葉が早く出た。


 父様とはすでに一度会っている。


 怒りも伝えた。


 それでも、怖くないわけではない。


「母様と同じように、約束を決めます」


「よいと思います」


     ◇


 着替えには、柔らかな茶色のドレスを選んだ。


 森の土を思わせる色。


 母様へ会った昨日は、灰緑。


 今日は茶色。


 父様のために選んだ色ではない。


 自分が落ち着く色。


 裾には、小さな葉と種の刺繍が入っている。


「今日は、これにします」


「かしこまりました」


 髪は、自分で最後まで編んだ。


 昨日のような強い震えはない。


 けれど、左側の編み込みが少し緩い。


 鏡の中で確認する。


 直すか。


 そのままにするか。


「少し緩いですね」


 侍女が尋ねる前に、自分で言った。


「はい」


「直されますか」


「いえ」


 触っても、すぐに崩れるほどではない。


「今日は、このままでよいです」


 完璧に整えてからでなければ父様へ会えないわけではない。


 少し緩い髪。


 土色のドレス。


 花守り布。


 公爵令嬢として整えられた昔の姿とは違う。


 でも。


 今のフローラ。


 花守り布の内側には、二つの袋がある。


 最初の袋。


 王都へ持ってきた六つの言葉。


 二つ目の袋。


 母様へ会うために決めた六つの約束と、母様からの短い返事。


 父様へ会うための約束は、まだ書いていない。


「朝食のあとに書きます」


     ◇


 朝食の部屋へ入ると、リオは王宮の豆の種が届いていないか、侍女へ尋ねていた。


「まだですか」


「庭師が、種として残せるものを確認しております」


「今日?」


「数日かかるかもしれません」


「帰るまでに間に合う?」


 侍女は答えに困ったようにフローラを見る。


 王都からいつ帰るか。


 まだ正式な日程は決まっていない。


 けれど。


「間に合わなければ、あとで森へ送ってもらいます」


 フローラが言うと、リオは頷いた。


「送れる?」


「国王陛下へ、お願いしてみます」


「王様に豆を頼む?」


「庭師の方へお願いする方がよいかもしれません」


 ミナが笑う。


「陛下へ直接、豆の種を送ってくださいと頼む公爵令嬢は、王宮でも珍しいでしょうね」


「駄目ですか」


「駄目ではありません」


 少し笑い合い、席へ着く。


 今朝の食事は、麦の粥、焼いた白身魚、柔らかな野菜、それに薄い果実水だった。


 フローラは昨日の朝より食べられた。


 粥を半分。


 魚を少し。


 野菜。


 胸の重さはある。


 でも、喉は通る。


「今日は、父親?」


 リオが尋ねる。


「まだ、会うと決めてはいません」


「でも、会うかも?」


「はい」


「母親みたいに約束する?」


「はい」


「俺もいる?」


 フローラは少し考えた。


 父様へ聞きたいこと。


 父親として話せなかった理由。


 それをリオとミナの前で聞く。


 困ることではない。


 むしろ、二人には近くにいてほしい。


「二人とも、一緒にいてください」


「うん」


「母親と同じ四半刻?」


 時間。


 母様とは四半刻で十分だった。


 父様とは。


 最初の休憩所で、すでに少し話した。


 今日は一つだけ聞く。


「四半刻でよいと思います」


「同じ部屋?」


「母様とは別の部屋にします」


 昨日の小談話室には、母様との空気がまだ残っているような気がする。


 同じ場所で父様へ会うと、言葉や感情が混ざるかもしれない。


「父様とは、別の部屋がよいです」


 ミナが頷く。


「エドガー様へ、確認いたします」


「机は必要?」


 リオが聞く。


「はい」


 父様とも距離が必要。


「でも」


 母様の時と、全く同じではない。


 父様は休憩所で、十歩ほど離れた場所にいた。


 近づかなかった。


 フローラの言葉を待った。


「母様と同じ約束を全部使う必要はありません」


「違う?」


「はい」


 一人ずつ違う。


 母様に必要だった境界。


 父様に必要な境界。


 同じではない。


     ◇


 朝食後、フローラは客室の机へ新しい紙を広げた。


 父様へ会うための約束。


 母様へ決めた六つの約束を隣へ置く。


 一つずつ見比べる。


 一つ目。


 ミナとリオが同席する。


「これは、同じです」


 紙へ書く。


 一つ目。


 ミナとリオが同席する。


 二つ目。


 時間。


 四半刻。


 延長はフローラが決める。


「これも同じです」


 二つ目。


 最初は四半刻。延長はフローラが決める。


 三つ目。


 母様には、許可なく身体へ触れない。


 父様も。


 父様に抱きしめられた記憶はない。


 肩へ触れられた記憶さえ、ほとんどない。


 突然触れられれば、身体が固まる。


「同じにします」


 三つ目。


 フローラの許可なく身体へ触れない。


 四つ目。


 森へ戻るよう求めない。


 婚姻や今後の居住を決める話をしない。


 父様には、公爵家の話が深く関わる。


 公爵として話し始めれば、領地。


 継承。


 責任。


 王都へ戻る必要。


 そうした話になるかもしれない。


 今日は。


「公爵家の話を、しないでほしいです」


 ミナが尋ねる。


「昔のこともですか」


 父様が、なぜ父親として話せなかったのか。


 そこには、公爵家の役目や育ちが関係するかもしれない。


 全部を禁じれば、理由を聞けない。


「公爵家が、父様へ何を教えたかは聞きます」


「はい」


「でも、私がこれから公爵家をどうするかは話しません」


 四つ目。


 フローラの将来、継承、婚姻、居住を決める話をしない。


「森へ戻るよう、止めないことも入れます」


「はい」


 四つ目へ加える。


 森へ戻る決定を変えるよう求めない。


 五つ目。


 謝罪への返事や許しを求めない。


 父様は、休憩所で謝罪の言葉を多く使わなかった。


 分かるのが遅すぎた。


 それだけ。


 今日は、謝るかもしれない。


「同じにします」


 五つ目。


 謝罪への返事や許しを求めない。


 六つ目。


 途中で終える。


「これも同じです」


 六つ目。


 フローラが終了を望んだ時は、話の途中でも終える。


 六つ。


 母様とほとんど同じ。


 でも、四つ目が違う。


 それだけでは足りない気がした。


 今日、父様へ聞きたいこと。


 公爵ではなく、父として話してほしい。


「七つ目があります」


 フローラは新しい行へ筆を置いた。


 父様へは。


「公爵としてではなく、父様として答えてほしいです」


 リオが首を傾げる。


「違うの?」


「同じ人です」


「うん」


「でも、父様は、公爵としてしか話せなかったと言いました」


「うん」


「今日は、公爵の答えを聞きたいのではありません」


 領地を守るため。


 家のため。


 王家のため。


 それらが間違いだとは思わない。


 でも、今聞きたいのは。


 一人の父親が、なぜ娘を見なかったのか。


「七つ目」


 筆を動かす。


 公爵としての正解ではなく、父親として自分が感じたことを話す。


 書いたあと、フローラは紙を見つめた。


「父様は、できるでしょうか」


 ミナはすぐには答えなかった。


「分かりません」


「はい」


「けれど、できるかどうかを尋ねることはできます」


「はい」


 父様が、できないと答えるかもしれない。


 分からないと。


 その時。


 会わないのか。


 それとも、分からないまま座るのか。


「できないなら、できないと答えてもよいです」


 フローラは七つ目の下へ、小さく書き加えた。


 分からない時は、分からないと答える。


「公爵らしい答えで埋めないでほしいです」


「はい」


 七つの約束。


 母様より一つ多い。


「厳しいですか」


「必要なことだと思います」


 ミナが答える。


 リオも紙を見る。


「公爵の服、脱ぐ?」


 フローラは少し考えた。


「服は、そのままでよいです」


「見た目じゃない?」


「はい。話し方です」


「難しい」


「はい」


 だからこそ、約束にする。


     ◇


 昼前、エドガーが客室を訪れた。


 昨日の母様との面会後、フローラの様子を確認するために来たのだという。


「お身体はいかがでございましょう」


「身体は大丈夫です」


「はい」


「心は、少し疲れています」


「承知いたしました」


「でも、今日は父様へ会うことを考えています」


 エドガーの表情がわずかに変わる。


「公爵閣下へ、でございますか」


「はい」


 フローラは七つの約束を書いた紙を持ち上げた。


「父様へ、守ってほしいことがあります」


 一つずつ読み上げる。


 エドガーは途中で口を挟まず、最後まで聞いた。


 七つ目。


 公爵としての正解ではなく、父親として感じたことを話す。


 分からない時は、分からないと答える。


 そこまで読み終えた時、エドガーは少し長く黙った。


「難しいでしょうか」


 フローラが尋ねる。


「公爵閣下にとっては、最も難しいお約束かもしれません」


 正直な答え。


「やはり」


「閣下は、長く公爵であることを最優先に生きてこられました」


「はい」


「しかし」


 エドガーは静かに続ける。


「だからこそ、お伝えする必要があると存じます」


「父様が、できないと言ったら?」


「そのお返事も、フローラ様がお受け取りになる一つの答えではないでしょうか」


 できない。


 分からない。


 それも、父様の今。


「分かりました」


「本日、お会いになりますか」


 フローラはすぐに頷かなかった。


 七つの約束を伝える。


 父様が受け入れる。


 そのあとで会う。


 母様と同じ順番。


「まず、父様へ約束を伝えてください」


「はい」


「守ると答えたら、今日の午後に四半刻だけ会います」


「承知いたしました」


「できないものがあるなら、どれかを教えてください」


「そのままお伝えいたします」


「返事は、急がなくてよいです」


 父様にも考える時間がある。


 公爵ではなく父として話す。


 それが何を意味するのか。


 すぐには分からないかもしれない。


「今日でなくても」


「はい」


 無理に今日会わなくていい。


 そのことを言えた瞬間、胸の緊張が少し緩んだ。


     ◇


 エドガーが出ていったあと、フローラは昼食まで部屋で過ごした。


 母様の手紙は読まない。


 七つの約束を書いた紙の写しを作る。


 原本は父様へ渡す。


 写しは花守り布へ入れる。


 二つ目の袋は、すでに母様との約束と返事で少し膨らんでいた。


「三つ目の袋が必要でしょうか」


 フローラが言うと、リオがすぐに頷く。


「作る」


「簡単に言いますね」


「昨日も作った」


「今日は、会うかもしれません」


「縫うと落ち着く」


 昨日。


 母様へ会う前にも縫った。


 指先を動かす。


 曲がった縫い目を一つずつ重ねる。


 確かに、少し落ち着いた。


「作ります」


 小さな茶色の布を用意してもらう。


 花守り布の内側。


 最初の袋の反対側へ、新しい袋を縫いつける。


 一針。


 二針。


 今日は昨日より、手が震えていない。


 縫い目も少し真っ直ぐ。


「昨日より、きれいです」


 フローラが言う。


 リオが覗き込む。


「本当」


「昨日は母様へ会う前でした」


「今日は父親」


「はい」


「母親より怖くない?」


 フローラは針を止めた。


「怖さが違います」


「どう違う?」


 母様。


 見てもらえなかった。


 愛されなかった。


 女の子として。


 娘として。


 心の近さを求めて、得られなかった。


 父様。


 遠かった。


 公爵として。


 家の頂点として。


 近づくことさえ考えにくい存在だった。


「母様には、近くにいてほしかったです」


「うん」


「父様には、見てほしかったです」


「同じじゃない?」


「似ています」


 でも、少し違う。


「父様は、私を見ていないことにも気づいていなかったように思います」


「母親は?」


「母様は、見ないようにしていたと言いました」


「違う」


「はい」


 意識して目を逸らした人。


 公爵家の一部としてしか見なかった人。


 どちらも傷ついた。


 でも、聞きたいことは違う。


 三つ目の袋が完成する。


 縫い目は、昨日より少し真っ直ぐ。


 でも、最後だけ曲がった。


「使えます」


「うん」


     ◇


 昼食が部屋へ運ばれた頃、エドガーはまだ戻ってこなかった。


 父様は考えているのだろうか。


 それとも、公爵としての予定があるのだろうか。


 返事が遅いことへ、胸が落ち着かなくなる。


「断るでしょうか」


 フローラが言うと、ミナは食器を整えながら答える。


「分かりません」


「父様は、公爵として話すことをやめられないかもしれません」


「はい」


「父親として感じたことが、何もないかもしれません」


 口にした瞬間、胸が痛んだ。


 父様には、本当に何もなかった。


 娘が森へ行っても。


 帰ってこなくても。


 ただ公爵家の問題として考えただけ。


 そうだったら。


「それを聞くのが、怖いです」


「はい」


「でも、知らないままでも怖いです」


「はい」


 どちらも怖い。


「なら、聞きたい方を選びます」


 今は。


 答えがなくても。


 傷つく答えでも。


 自分から聞くと決めた。


 昼食は、豆と野菜の入った軽い煮込みだった。


 リオは豆を一つずつ数えながら食べている。


「十七」


「何をしていますか」


「豆の数」


「食べる前に数えているのですか」


「食べながら」


「途中で分からなくなりませんか」


「なった」


 フローラは笑った。


 父様の返事を待っている時間にも、豆を数えて途中で分からなくなる人がいる。


 それだけで、部屋の空気が少し普通になる。


     ◇


 午後の鐘が鳴る少し前、扉が叩かれた。


 エドガー。


 胸が強く鳴る。


「父様からですか」


「はい」


 エドガーの手には、七つの約束を書いた紙がある。


 返事の紙は見えない。


「公爵閣下は、七つすべてを守ると仰っております」


 フローラは息を止めた。


「七つ目も?」


「はい」


「公爵としてではなく、父様として?」


「はい」


「できるのですか」


 エドガーは、少し言葉を選んだ。


「できるかは分からない、と仰っております」


 胸が大きく鳴る。


 分からない。


 でも。


「分からないと、答えましたか」


「はい」


 七つ目の約束。


 分からない時は、分からないと答える。


 父様は、会う前からそれを守った。


「そして」


 エドガーは続ける。


「公爵としての言葉が出そうになった時は、止めてほしいと」


 父様から。


 止めてほしい。


「私が?」


「はい。フローラ様に止めていただきたい、と」


 フローラはすぐには答えられなかった。


 父様が。


 娘へ。


 自分を止めてほしいと頼む。


 以前なら、考えられない。


 公爵の言葉を遮る。


 父様へ違いますと言う。


 それを許す。


「分かりました」


 声が少し震えた。


「今日、会います」


「午後の早い時間でよろしいでしょうか」


「はい」


「場所はいかがいたしましょう」


 母様とは西客室棟の小談話室。


 今日は。


「菜園の近くに、部屋はありますか」


 エドガーが少し驚く。


「西庭の休憩室がございます」


「外が見えますか」


「はい。菜園も一部見えるかと」


 豆。


 土。


 庭師。


 父様へ会っている間も、森を思い出せるもの。


「そこがよいです」


「承知いたしました」


「私が先に入ります」


「はい」


「机を間へ置きます」


「はい」


「砂時計も」


「ご用意いたします」


「父様は、一人ですか」


「側近を廊下へ一名置かれますが、室内へはお一人で入られます」


「分かりました」


     ◇


 時間まで、フローラは新しく作った三つ目の袋へ、七つの約束の写しを入れた。


 父様からの返事は、紙ではない。


 言葉だけ。


 それでも、記録へ書く。


 七つすべて守る。


 父親として話せるかは分からない。


 公爵としての言葉が出たら、止めてほしい。


「これも、入れたいです」


 小さな紙へ書き、袋へ入れる。


 一つ目の袋。


 王都へ持ってきた言葉。


 二つ目の袋。


 母様との約束。


 三つ目の袋。


 父様との約束。


 花守り布の内側は、少し重くなった。


「重いです」


 フローラが言うと、リオが花守り布を持ち上げる。


「本当」


「でも、かぶれます」


「首、痛くない?」


「今は大丈夫です」


 重くなりすぎたら、また考える。


 全部を持ち続ける必要はない。


 でも、今日は持っていく。


     ◇


 西庭の休憩室へ向かう廊下は、雨上がりの匂いがした。


 窓が少し開けられている。


 濡れた土。


 葉。


 石。


 王宮の中でありながら、森に少し近い空気。


 フローラはゆっくり歩いた。


 ミナ。


 リオ。


 エドガー。


 護衛。


 必要な人だけ。


 休憩室へ入る。


 小さな部屋。


 窓の向こうに菜園が見える。


 白い花をつけた豆。


 支柱。


 雨に濡れた土。


 丸い机。


 向かい合う椅子。


 扉側へフローラが座る。


 右隣にミナ。


 少し後ろにリオ。


 机の中央には、砂時計。


「ここでよいですか」


「はい」


 フローラは窓の外を見る。


 庭師が豆の葉を確認している。


 今日も。


 変わらず。


「少し待ってください」


「はい」


 エドガーは扉の近くで待つ。


 フローラは花守り布の三つの袋へ、一つずつ触れた。


 森へ戻る。


 母様との約束。


 父様との約束。


「呼んでください」


     ◇


 エドガーが扉を開け、廊下へ出る。


 足音。


 父様の足音を、フローラは覚えていない。


 昔、屋敷で聞いたことはあるはずだった。


 けれど、父様が廊下を歩く時、フローラは自分の部屋で静かにしていた。


 呼ばれていなければ、出ない。


 姿を見かけても、邪魔をしない。


 父様の足音を待つことなどなかった。


 今。


 近づいてくる。


 胸が速くなる。


「フローラ」


 リオが小さく呼ぶ。


「はい」


「森」


「はい」


「畑」


「はい」


「豆」


 フローラは窓の外を見た。


「はい」


「大鍋」


「最後は、やはりそれなのですね」


 少し笑う。


 息が戻る。


 扉が開いた。


 エドガーの後ろから、父様が入ってくる。


 昨日までの記憶と同じ、濃い色の髪。


 白いものが増えたこめかみ。


 背の高い身体。


 今日は、公爵家の正式な礼装ではなかった。


 濃紺の上着。


 装飾は少ない。


 公爵家の紋章も、胸へ小さく入っているだけ。


 それでも、父様が公爵であることは変わらない。


 部屋へ入った瞬間、空気が少し張る。


 フローラの身体も固くなる。


 父様は、入口で立ち止まった。


 休憩所で会った時と同じように、勝手には近づかない。


「フローラ」


 名前を呼ぶ。


 声は低い。


 少し掠れている。


「はい」


 今日は、返事ができた。


「座ってください」


 母様へ言った時と同じ。


 父様は頷いた。


「分かった」


 向かいの椅子へ座る。


 背筋は真っ直ぐ。


 両手は膝ではなく、机の上で軽く組まれている。


 公爵として会議へ臨む姿に見えた。


 フローラの胸が少し固くなる。


「父様」


「何だ」


「今日は、公爵の会議ではありません」


 父様の手が止まる。


 すぐに、自分の姿勢へ気づいたのだろう。


 背を少しだけ椅子へ預けた。


 両手を机から下ろす。


「……そうだな」


 もう。


 七つ目の約束。


 父様は守ろうとしている。


 エドガーが砂時計へ手を伸ばす。


「始めてもよろしいでしょうか」


 フローラは父様を見る。


 父様も、フローラを見ている。


 以前のような、公爵家の後継を見る目なのか。


 娘を見る目なのか。


 まだ分からない。


「はい」


 砂時計が返される。


 白い砂が落ち始めた。


     ◇


 最初の沈黙は、母様の時より長く感じた。


 父様は、言葉を探している。


 フローラも、何から聞くか分かっているはずなのに、声が出ない。


 窓の外。


 庭師が豆の支柱を少し直している。


 風で傾いたのだろう。


 父様も一度、窓の外を見た。


「豆か」


 思っていなかった言葉だった。


「はい」


「王宮の庭に、豆があるとは知らなかった」


「使用人の方の菜園です」


「そうか」


 また沈黙。


「森でも、豆を?」


 父様から尋ねられた。


「育てています」


「何種類だ」


「今、名前をつけて見ているものは、四つです」


「名前?」


「青豆一号。アオジロウ。ムラマル。モリタンです」


 父様の目が、ほんの少しだけ見開かれる。


「すべて豆なのか」


「はい」


「なぜ、その名前に」


「青豆一号は、最初だったからです」


「なるほど」


「アオジロウは、青豆一号の次でした」


「……なるほど」


「ムラマルは、葉が少し丸く、色が濃かったので」


「モリタンは?」


「森で育てる、小さな豆です」


 父様の口元が、わずかに動いた。


 笑いそうになったのかもしれない。


 でも、笑ってよいか分からず止めたように見えた。


「笑ってもよいです」


 フローラが言うと、父様の目が揺れる。


「よいのか」


「名前が、少し変だと思ったのでしょう」


「……少しだけ」


「リオにも言われました」


 リオが後ろから口を挟む。


「俺は言ってない」


「モリタンは単純だと言いました」


「単純とは言った」


 父様の口元が、今度ははっきり緩んだ。


 小さな笑い。


 フローラは、父様が笑う姿をほとんど覚えていなかった。


 公爵家の晩餐。


 公式の場。


 来客。


 礼儀として笑うことはあった。


 でも、豆の名前で少し笑う父様。


 知らない顔。


 胸が不思議に痛む。


「父様」


「何だ」


「今のは、公爵ですか」


 父様の表情が止まった。


 少し考える。


「分からない」


 正直な答え。


「ただ、豆の名前が少し面白いと思った」


「それなら、父様だと思います」


 フローラが言うと、父様は視線を落とした。


「そうか」


     ◇


 砂は、まだ半分以上残っている。


 フローラは花守り布の三つ目の袋へ触れた。


 今日聞きたいこと。


「父様」


「何だ」


「王都へ入る前に、父親としてどう話せばよいか分からなかったと言いました」


「ああ」


「なぜ、分からなかったのですか」


 父様の顔が固くなる。


 すぐに公爵としての答えを作ろうとしているように見えた。


 家格。


 教育。


 責任。


 そうした言葉が出てくる前に。


「父様として、お願いします」


 フローラが止める。


 父様は目を閉じた。


「……ああ」


 長い沈黙。


 砂が落ちる。


 窓の外で、庭師が別の株へ移る。


 父様の手が、膝の上でゆっくり握られる。


「私の父は」


 父様が話し始めた。


「厳しい人だった」


 公爵家の前当主。


 フローラにとっては祖父。


 幼い頃に亡くなったため、記憶はほとんどない。


「私は、幼い頃から次の公爵として育てられた」


「はい」


「食事の時も、歩く時も、遊ぶ時も、公爵家の後継であることを忘れるなと言われた」


 父様の声は低い。


「転べば、後継が人前で無様な姿を見せるなと言われた」


「はい」


「泣けば、領民を不安にさせる顔をするなと言われた」


「はい」


「嬉しくても、大声で笑うなと言われた」


 フローラは父様を見る。


 少し前。


 豆の名前で笑いそうになり、止めた。


 今も。


 昔の言葉が残っている。


「父様も、笑ってはいけなかったのですか」


「そう教えられた」


「悲しいと言うことも?」


「言わなかった」


「怖いことも?」


「言わなかった」


 父様は、ゆっくり息を吐く。


「父は、私を公爵にした」


「はい」


「だが、父親として何を与えたのかは、今も分からない」


 フローラの胸が痛む。


 母様と似ている。


 愛し方を知らなかった。


 父様も、父親の姿を知らなかった。


 でも。


「それで、私にも同じことをしたのですか」


 父様の顔が歪む。


「結果としては、そうだ」


「結果として?」


「違うつもりだった」


「何がですか」


 父様はフローラを見る。


「私は、父ほど厳しくしなかった」


 胸の奥へ、怒りが生まれる。


 父様の言葉。


 父ほど厳しくしなかった。


 だから、自分は違う。


 そう言いたいのか。


「公爵の答えですか」


 フローラが尋ねる。


 父様はすぐに口を閉じた。


 少し考える。


「……そうかもしれない」


「私は、厳しくされなかったのではありません」


「ああ」


「見られませんでした」


「ああ」


「父様の父様と同じことをしなかったから、よい父様だったのですか」


「違う」


 父様の声が少し強くなる。


 フローラの身体が固まる。


 父様はすぐに気づいた。


「すまない」


 声を落とす。


「違う、と強く言った」


「はい」


「よい父親ではなかった」


 父様は、言葉を選ばずに続ける。


「厳しくしないことが、優しくすることだと思っていた」


 フローラは黙って聞く。


「口を出さないことが、自由を与えることだと」


「自由ではありませんでした」


「ああ」


「一人でした」


「ああ」


「母様に任せましたか」


「任せた」


「なぜですか」


「母親の方が、娘を分かると思った」


「母様も、分かりませんでした」


「ああ」


「父様は、確かめませんでした」


「ああ」


 一つずつ。


 父様は受け取る。


「私は、公爵家を支えることが家族を守ることだと思っていた」


 父様の声が少しずつ掠れる。


「領地を守り、家名を守り、王家との関係を保ち、屋敷が何不自由なく動けば、家族は守られていると」


「私は、守られていませんでした」


「ああ」


「物はありました」


「ああ」


「部屋も、服も、食事も」


「ああ」


「でも、誰もいませんでした」


 父様の目が赤くなる。


 泣くのだろうか。


 父様が泣く姿。


 想像したことがない。


「私は」


 父様は一度、言葉を止めた。


「お前が何を欲しいのか、聞くことが怖かったのかもしれない」


「なぜですか」


「答えられないものを求められる気がした」


「聞く前から?」


「ああ」


「私は、何も言っていませんでした」


「ああ」


「言えなかったからです」


「ああ」


「それでも、怖かったのですか」


 父様は長く黙った。


 そして。


「お前が、父親を求めることが怖かった」


 胸の奥へ、重い言葉が落ちる。


「なぜですか」


「私は、父親が何をするものか分からなかった」


「分からないと、言えばよかったです」


「ああ」


「母様と同じです」


「ああ」


「知らないから、しなかった」


「ああ」


「その間、私は一人でした」


「ああ」


 父様の目から、涙が一筋落ちた。


 すぐには拭わない。


 父様自身も、涙が出たことへ驚いているように見えた。


 フローラは慰めない。


 手巾も出さない。


 父様が泣くことは、父様のもの。


「父様」


「何だ」


「私は、父様へ何を求めていたのでしょう」


 自分でも、完全には分からない。


 父様は、すぐに答えなかった。


 公爵としてなら、教育。


 保護。


 後継としての準備。


 そう答えるかもしれない。


 でも今日は。


「名前を呼ぶことか」


 父様が言った。


「はい」


「話を聞くこと」


「はい」


「お前が何を好きなのか知ること」


 胸が痛む。


「はい」


「苦しい時に、苦しいと気づくこと」


「はい」


「父親として」


 父様の声が震える。


「そばにいること」


 フローラの目へ涙が滲む。


「遅いです」


「ああ」


「今、分かっても」


「ああ」


「昔の私には、届きません」


「ああ」


「でも」


 昨日、母様へ言った言葉。


 同じになるのだろうか。


 父様にも。


 今の言葉は、少し届いている。


 でも、母様と同じ形ではない。


「父様が、何を求めていたか考えたことは」


 声が震える。


「少しだけ、嬉しいです」


 父様は目を閉じた。


 涙がもう一筋落ちる。


 それでも、フローラへ感謝を求めない。


 許しを求めない。


「そうか」


 それだけ。


     ◇


 砂時計は、半分を過ぎていた。


 父様は窓の外の豆を見る。


「フローラ」


「はい」


「私は、お前が森で畑を耕していると聞いた時」


 言葉が止まる。


「はい」


「最初に、何を思ったと思う」


「公爵令嬢がすることではない、と」


 フローラは正直に答えた。


 父様は少し苦しそうに笑った。


「そう思った」


「はい」


「公爵家の娘が、森で一人、土を触っている」


「一人ではありません」


「ああ。今は知っている」


「はい」


「だが、最初は」


 父様は目を伏せる。


「失敗したと思った」


 胸が固くなる。


「私が?」


「私が、だ」


 父様はすぐに言った。


「お前を、そこまで追いやった」


「森へ行ったことが、失敗ですか」


「違う」


 また声が強くなりそうになり、父様は自分で止めた。


「……違う」


 静かに言い直す。


「森で暮らしていることではない」


「はい」


「お前が、王都にいるより森の方が安心できるようになるまで、何も知らなかったことだ」


 フローラは父様を見る。


「森を、悪い場所だと思いますか」


「以前は思っていた」


「今は?」


 父様は少し考える。


「分からない」


 約束通りの答え。


「行ったことがない」


「はい」


「お前が暮らしている場所を、私は知らない」


「はい」


「手紙や報告でしか」


「はい」


 父様は、さらに続けようとする。


「公爵としては、確認する必要が」


「父様」


 フローラが止めた。


 父様は口を閉じる。


「今のは、公爵です」


「ああ」


「父様としては?」


 長い沈黙。


 父様は窓の向こうの豆を見た。


「見てみたい」


 胸が強く鳴る。


「森を?」


「ああ」


「なぜですか」


「お前が好きだと言う場所だから」


 その言葉は、予想していなかった。


 父様が。


 フローラの好きな場所だから見たい。


「今まで、私が何を好きか知らなかったのに?」


「ああ」


「今から知りたいのですか」


「ああ」


「遅いです」


「ああ」


 父様は、すべて受け取る。


「森へ来たいですか」


 尋ねたあと、胸が固くなる。


 来られる。


 父様が森へ。


 家へ。


 畑へ。


 子どもたちのところへ。


 それは、今すぐ受け入れられない。


 父様は、すぐに答えなかった。


「行きたいと思っている」


「はい」


「だが」


 父様はフローラを見る。


「今、行ってよいとは思っていない」


 胸の力が少し抜ける。


「なぜですか」


「お前の家だからだ」


 家。


 父様が、森をフローラの家と呼んだ。


「公爵家の屋敷ではなく?」


「お前が、今帰る場所としているのは森だ」


「はい」


「なら、私が勝手に入る場所ではない」


 父様の口から。


 勝手に入らない。


「来たいと願うのは、父様のものです」


 フローラは言った。


「ああ」


「来てよいかを決めるのは、私です」


「ああ」


 母様へ言ったものと同じ。


 願うこと。


 叶えること。


 同じではない。


「今は、来ないでください」


 声は少し震えた。


 でも、はっきり言えた。


「分かった」


 父様はすぐに答えた。


「森へ戻ることも、止めませんか」


「止めない」


「本当に?」


「ああ」


「公爵家のことがあっても?」


 父様の表情が固くなる。


 公爵としての答えが出そうになる。


 フローラは待った。


 父様も、自分で気づいた。


 長く息を吐く。


「公爵としては、話すべきことがある」


「今日は、話しません」


「ああ」


「父様としては?」


 父様は、また考える。


「お前が安心できる場所へ戻ることを、止めたくない」


 胸が熱くなる。


「今は、それだけでよいです」


「ああ」


     ◇


 砂時計の砂が、残り少なくなっていた。


 母様との時より、短く感じる。


 まだ聞きたいことがある。


 父様が、森へ行ったあと何をしていたのか。


 どのように手紙を書いたのか。


 母様と何を話したのか。


 公爵家で、フローラの部屋をどうしているのか。


 聞きたい。


 でも。


 今日は、一つ聞くと決めた。


 なぜ、父親として話せなかったのか。


 聞いた。


 父様は、分からなかったと答えた。


 父親を知らなかった。


 娘が父親を求めることが怖かった。


 厳しくしないことを、優しさだと思っていた。


 何も言わないことを、自由だと思っていた。


 間違っていた。


「父様」


「何だ」


「砂が終わります」


「ああ」


「今日は、延ばしません」


 父様の目に、少しだけ寂しさが浮かぶ。


 でも。


「分かった」


 すぐに受け入れる。


「まだ、聞きたいことがあります」


「ああ」


「次に会うかもしれません」


 父様の指が、膝の上でわずかに動く。


「そうか」


「でも、いつかは決めません」


「ああ」


「父様から、会いたいと急がないでください」


「分かった」


「願うことは」


 母様と同じ。


「父様のものです」


「ああ」


「私が会うかは、私のものです」


「ああ」


 最後の砂が落ちる。


「今日は、ここまでです」


「分かった」


 父様は椅子から立つ。


 机の向こう。


 距離を保つ。


「フローラ」


「はい」


「一つだけ、聞いてもよいか」


 砂は終わった。


 今日は、ここまで。


 父様は約束を守るべき。


 でも、聞いてよいか尋ねている。


 フローラは少し考えた。


「質問だけなら」


「お前が育てている豆を」


 父様は窓の外の菜園へ目を向ける。


「次に会うことがあれば、もう少し教えてくれるか」


 公爵家。


 継承。


 森へ来ること。


 そうした話ではない。


 豆。


 フローラが好きなもの。


「はい」


 答えた。


「次に会った時、私が話したいと思ったら」


「ああ」


 父様の口元が、少しだけ緩む。


「それでよい」


 父様は深く頭を下げなかった。


 母様のようにも。


 公爵としての礼にも見えない。


 ただ、少しだけ頭を下げる。


「今日は、ありがとう」


「はい」


 父様が扉へ向かう。


 出る前に、振り返らない。


 扉が開く。


 閉じる。


 足音が遠ざかる。


     ◇


 父様がいなくなったあと、フローラはしばらく椅子へ座っていた。


 母様の時のように、すぐ身体から力が抜けることはなかった。


 代わりに、胸の中へいくつもの言葉が重なっている。


 父様も、父親を知らなかった。


 厳しくしないことが優しさだと思っていた。


 口を出さないことが自由だと思っていた。


 父親を求められることが怖かった。


 森を見たい。


 フローラが好きだと言う場所だから。


 でも、勝手に入らない。


「父様は、約束を守りました」


 フローラが言う。


「うん」


 リオが答える。


「公爵の言葉も出た」


「はい」


「止めた」


「はい」


「父親に戻った?」


 フローラは少し考えた。


「戻った、ではないと思います」


 父様は、父親だった時間がほとんどない。


「父様として話そうとしました」


「うん」


「できたかは、まだ分かりません」


「うん」


「でも、分からないと言いました」


「うん」


 それだけでも、以前とは違う。


「フローラ様」


 ミナが静かに尋ねる。


「今、どのようなお気持ちですか」


 フローラは胸へ手を置いた。


 母様と会ったあとは、悲しさと怒りが強かった。


 父様との今は。


「寂しいです」


 最初に出た。


「はい」


「父様も、父様を知らなかったことが」


「はい」


「私が一人だったことも」


「はい」


「父様も、一人だったのかもしれないことも」


 それを思うと、寂しい。


 かわいそう。


 そう言うこととは少し違う。


 父様が一人だったから、フローラが一人でよかったわけではない。


「でも、怒っています」


「はい」


「父様が分からなかったことで、私へ聞かなかったことに」


「はい」


「怖いから、何もしなかったことに」


「はい」


「それから」


 胸の奥へ、小さな温かさがある。


「豆のことを聞いたのは、少し嬉しかったです」


 リオが頷く。


「豆、大事」


「はい」


「父様が、私の好きなものを知ろうとしたのは、初めてかもしれません」


「はい」


 嬉しい。


 遅い。


 寂しい。


 怒っている。


 全部ある。


「今日も、全部一緒です」


「それでよいと思います」


     ◇


 客室へ戻る前、フローラは窓の外の菜園を少しだけ見た。


 庭師が、こちらへ気づいて頭を下げる。


 フローラも小さく頭を下げた。


 豆の葉には、雨上がりの水滴が残っている。


 支柱は真っ直ぐ。


 虫がいた葉の一部は取り除かれている。


 それでも、株は残っている。


 斑点があるから、全部を抜かなかった。


 傷んだ部分。


 元気な部分。


 両方を見た。


「父様も」


 言いかけて、止める。


 人と豆は同じではない。


「似ていても、同じではありません」


 でも。


 傷があるから全部を捨てる。


 一度よいことをしたから、全部よいと決める。


 どちらもしない。


 今見えたものだけを記録する。


 今日の父様は、約束を守った。


 それでいい。


     ◇


 客室へ戻ると、フローラはドレスを脱ぎ、柔らかな室内着へ着替えた。


 花守り布を外す。


 少し重い。


 三つの袋。


 紙。


 木の実。


 言葉。


「毎日、増えています」


 フローラが言うと、ミナが花守り布を見た。


「整理されますか」


「はい」


 全部を持ち歩き続ければ、首が重くなる。


 言葉も同じかもしれない。


 必要な時に持つ。


 部屋へ置いておけるものは、置く。


 フローラは三つ目の袋から、父様との七つの約束の写しを取り出した。


「今日は、もう会いません」


「はい」


「なので、これは机へ置きます」


 母様との約束も、今は持ち歩かなくてよい。


 二つ目の袋から、六つの約束を書いた紙と、母様から届いた一文だけの返事を取り出す。机の上には、途中まで読んだ母様の手紙も置かれていた。


 フローラは紙を一つずつ並べた。


 母様と会うための約束。


 父様と会うための約束。


 母様が守ると書いた返事。


 父様が守ると口頭で答えた内容を書き残した紙。


 どれも大切だった。


 けれど、大切だからといって、常に身体へ身につけていなければならないわけではない。


「花守り布へ残すのは、最初の六つの言葉と木の実だけにします」


「はい」


 ミナが頷く。


 フローラは最初の袋へ指を入れ、王都へ持ってきた紙があることを確認した。


 森で暮らしたい。


 住む場所は、私も決める。


 今は婚姻を望まない。


 公爵家をどうするかは、まだ分からない。


 分からないことを、今すぐ決めたことにしない。


 森へ戻る。


 六つの言葉。


 茶屋の女の子からもらった木の実。


 それだけでも、花守り布には少し重さが残っている。


 でも、先ほどまでとは違った。


「軽くなりました」


 フローラは両手で花守り布を持ち上げた。


「本当」


 リオが横から触れる。


「さっきより、だいぶ軽い」


「約束は、なくなっていません」


「机にある」


「はい」


「必要なら、また入れる?」


「はい」


 母様へ会う時。


 父様へ会う時。


 また必要になれば、それぞれの袋へ戻せばいい。


 常に全部を抱えなくても、決めたことは消えない。


「言葉も、置いておけます」


 フローラは机の上の紙を見た。


「忘れないように持ち続けなければならないと思っていました」


「はい」


「でも、書いてあります」


「はい」


「私が忘れそうになっても、紙が待っています」


「はい」


 手紙と同じ。


 約束も、待たせられる。


 すぐに使わないからといって、無効になるわけではない。


「全部を、ずっと身につけなくてよいです」


 自分へ言い聞かせるように、フローラはもう一度口にした。


 花守り布を椅子の背へかける。


 首も、肩も、少し楽になった。


     ◇


 昼食は、少し遅い時間に取ることになった。


 父様との面会前にも軽く口へ入れていたが、緊張していたため、ほとんど食べられていなかった。客室へ戻り、柔らかな服へ着替え、言葉の紙を机へ置いたあとで、ようやく身体が空腹を思い出した。


「お腹が空きました」


 フローラが言うと、リオがすぐに振り返った。


「食べる?」


「はい」


「いっぱい?」


「それは、食べてみなければ分かりません」


 ミナが侍女へ頼み、温かなスープと小さなパン、それに柔らかく煮た野菜を用意してもらう。


 運ばれてきたスープには、細かな豆が入っていた。


 淡い茶色の豆。


 昨日食べたものとも、今朝の煮込みに入っていたものとも違う。


「今日も豆です」


 リオが皿を覗き込む。


「王宮には、本当に豆が多いですね」


「公爵に教える?」


 その呼び方に、フローラは少しだけ笑った。


「次に会った時、私が話したいと思ったら」


「うん」


「父様は、豆のことを聞きたいと言いました」


「うん」


「でも、私が話したい時だけです」


「うん」


 約束した通り。


 父様が知りたいと思うことと、フローラが教えることは同じではない。


「それでも」


 スープを一口飲む。


 温かさが喉を通り、空になっていた身体へ広がっていく。


「父様が豆のことを聞いたのは、少し嬉しかったです」


 リオは自分の皿から豆を一つ掬い上げた。


「豆、大事」


「はい」


「父親になるなら、豆から?」


「父様が父様になることと、豆は同じではありません」


「でも、話すものがある」


 フローラは匙を止めた。


 確かに。


 父様と何を話せばよいか、これまで分からなかった。


 父様も、娘へ何を聞けばよいか分からなかった。


 公爵家。


 教育。


 王家。


 領地。


 そうしたもの以外に、二人の間へ置ける話題がなかった。


 でも、今は豆がある。


「豆なら、話せるかもしれません」


「うん」


「森へ来なくても」


「うん」


「私が話したい分だけ」


「うん」


 ミナが静かに微笑む。


「それも、父娘の話の始め方かもしれませんね」


 父と娘。


 その言葉は、まだ少し胸へ重い。


 けれど、以前のように遠すぎる言葉ではなかった。


「始め方」


 フローラは小さく繰り返す。


 すぐに親子へ戻るのではない。


 そもそも、戻る場所があったのかも分からない。


 これから。


 一つずつ。


 話せるものを探す。


「豆からでも、よいです」


 フローラはもう一口スープを飲んだ。


     ◇


 食後、フローラは長椅子へ座り、しばらく窓の外を眺めた。


 西庭の菜園は、午後の光を受けている。


 庭師たちはすでに別の区画へ移ったのか、豆の周りには誰もいなかった。雨粒だけが葉へ残り、時折吹く風で小さく揺れている。


 静かだった。


 父様と話していた時、あの豆が窓の向こうにあった。


 父様は、王宮に豆があるとは知らなかった。


 森で何種類育てているのか尋ねた。


 名前を聞いた。


 少し笑った。


 それだけのこと。


 でも。


 フローラにとっては、父様が初めて自分の好きなものへ触れた時間だった。


「父様は、豆の名前を覚えているでしょうか」


 フローラが言うと、リオが答えた。


「忘れてるかも」


「はい」


「多かったから」


「四つです」


「公爵は、もっと難しい名前を覚える」


「領主や貴族の名前でしょうか」


「なら豆も覚える」


 単純な理屈。


 それでも少し、期待してしまう。


 次に会った時。


 父様が青豆一号やアオジロウの名前を覚えていたら。


 嬉しいだろうか。


 きっと、少し嬉しい。


 でも、忘れていたら。


 傷つくだろうか。


「覚えていてほしいと思っています」


 フローラは正直に言った。


 ミナが頷く。


「はい」


「でも、忘れていたら、また教えるかは私が決めます」


「はい」


 期待することも、自分のもの。


 期待へ相手を縛ることとは違う。


「父様が覚えるかは、父様のものです」


「はい」


「私が、それをどう受け取るかは、私のものです」


「はい」


 少しずつ。


 国王陛下からもらった言葉が、いろいろな場面で使えるようになっている。


     ◇


 午後の半ば。


 フローラは父様との面会について、記録を書くことにした。


 机へ新しい紙を広げる。


 筆を持つ。


 最初に、今日の天気を書いた。


 雨上がり。


 王宮の庭には、水溜まり。


 豆の葉に雨粒。


 それから。


 父様へ会った。


 四半刻。


 西庭の休憩室。


 ミナとリオが同席した。


 丸い机を間へ置いた。


 砂時計を使った。


 七つの約束を決めた。


 父様は、すべて守ると答えた。


 父親として話せるかは分からないと言った。


 公爵としての言葉が出たら、止めてほしいと頼んだ。


 会う前から、分からない時は分からないと答える約束を守った。


 フローラは一度、筆を止めた。


 父様が部屋へ入った時、最初は公爵のように座った。


 背筋。


 机の上で組んだ手。


 会議を始める姿。


 私は、今日は公爵の会議ではないと言った。


 父様は姿勢を変えた。


 豆の話をした。


 青豆一号。


 アオジロウ。


 ムラマル。


 モリタン。


 父様は、少し笑った。


 私は、今のは公爵ですかと聞いた。


 父様は、分からないと答えた。


 ただ、豆の名前を面白いと思ったと言った。


 私は、それなら父様だと思うと答えた。


 文字へすると、あの小さな笑いがまた胸へ戻ってくる。


 フローラは少しだけ筆を止め、呼吸を整えた。


 嬉しい。


 でも。


 父様が笑っただけで、昔がなくなるわけではない。


 そのことも書く。


 父様が笑ったことは、少し嬉しかった。


 でも、それだけで父様を許したわけではない。


 次に。


 父様の父親について。


 父様は、幼い頃から公爵になるために育てられた。


 転ぶな。


 泣くな。


 笑うな。


 怖いと言うな。


 公爵であることを忘れるな。


 父親が何をするものか、知らなかった。


 自分の父ほど厳しくしなければ、よい父親になれると思った。


 口を出さないことが、自由を与えることだと思った。


 母様へ任せれば、娘のことは分かると思った。


 でも、確かめなかった。


 私は自由ではなかった。


 一人だった。


 フローラは、その一文を少し強く書いた。


 私は、一人だった。


 父様に理由があっても、このことは変わらない。


 父様は、私が父親を求めることが怖かった。


 答えられないものを求められると思ったから。


 でも、聞く前から逃げた。


 私は、名前を呼んでほしかった。


 話を聞いてほしかった。


 何を好きなのか知ってほしかった。


 苦しい時に気づいてほしかった。


 父親として、そばにいてほしかった。


 父様は、それを考えた。


 遅い。


 でも、少し嬉しかった。


 フローラの筆先が止まる。


 次に、森のこと。


 父様は、森を見てみたいと言った。


 私が好きだと言う場所だから。


 でも、今は行かないと言った。


 森は私の家だから。


 勝手に入る場所ではないから。


 私は、今は来ないでくださいと伝えた。


 父様は受け入れた。


 森へ戻ることも、父親としては止めたくないと言った。


 公爵としての話は、今日はしなかった。


 最後に。


 父様は、次に会うことがあれば、豆のことをもう少し教えてほしいと言った。


 私は、話したいと思ったら、と答えた。


 父様は、それでよいと言った。


 今日の父様は、約束を守った。


 一度だけ。


 次も守るかは、まだ分からない。


 でも、今日の一度はなくならない。


 そこまで書いたあと、フローラは筆を置いた。


     ◇


 記録を読み返す。


 母様との面会記録。


 父様との面会記録。


 並べると、似ているところが多い。


 四半刻。


 約束。


 机。


 砂時計。


 触れない。


 急がない。


 終わりをフローラが決める。


 でも。


 同じではない。


 母様には、愛し方を知らなかった理由を聞いた。


 父様には、父親として話せなかった理由を聞いた。


 母様は、娘として見ることを怖がった。


 父様は、父親を求められることを怖がった。


 母様には、近くにいてほしかった。


 父様には、見てほしかった。


 似ている。


 でも違う。


「二人を一緒に考えなくてよいです」


 フローラは言った。


 ミナが静かに頷く。


「はい」


「母様を許すかと、父様を許すかも、別です」


「はい」


「どちらかと会ったから、もう一人とも会わなければならないわけではありません」


「はい」


「同じ日に返事を出す必要もありません」


「はい」


 父様と母様。


 夫婦。


 公爵家の二人。


 それでも、フローラとの関係はそれぞれ違う。


「一人ずつ、別に見ます」


「それがよいと思います」


     ◇


 夕方前、扉が叩かれた。


 エドガーだった。


 フローラは少し身構える。


 父様から、新しい手紙だろうか。


 次の面会を求める伝言だろうか。


 しかし、エドガーの手には何もない。


「フローラ様。公爵閣下より、一言だけお預かりしております」


「何ですか」


「本日は、公爵ではなく父として座る機会を与えてくれて、ありがとう、と」


 フローラはすぐに返事をしなかった。


 父様として座れたか。


 それは、まだ分からない。


 途中で、公爵としての言葉が出た。


 フローラが止めた。


 父様も止まった。


 少し笑った。


 分からないと答えた。


 森をフローラの家と呼んだ。


「父様は、父様として座れたと思っているのでしょうか」


 フローラが尋ねると、エドガーは慎重に答えた。


「少なくとも、そのように座ろうとされたのだと思います」


「はい」


「それが十分であったかは、フローラ様がお決めになることでしょう」


「はい」


 十分ではない。


 四半刻だけ。


 一度だけ。


 でも、何もなかったわけでもない。


「返事は、必要ですか」


「求められておりません」


 母様と同じ。


 感謝だけ。


 返事を急がない。


「今日は、返しません」


「承知いたしました」


「でも、伝言は記録します」


「はい」


 エドガーが退出したあと、フローラは先ほどの記録紙へ一文を書き加えた。


 父様は、公爵ではなく父として座る機会を与えてくれてありがとうと伝えた。


 私は、まだ返事をしない。


 書いてから、もう一つ加える。


 返事をしないことは、受け取らなかったことではない。


 感謝の言葉は受け取った。


 返す言葉は、まだ決めない。


     ◇


 夕食の前。


 西庭の庭師から、王宮の豆の種について報告が届いた。


 今育っている株は、まだ実を取る時期ではない。種として残すなら、さらに日数が必要になるという。


 フローラが王都へいる間に間に合うかは分からない。


 しかし、乾燥させ、種として使える状態になったあと、森へ送ることはできるらしい。


「本当に送ってくれますか」


 フローラが侍女へ尋ねる。


「庭師が、そのように申しております」


「王宮から、森へ?」


「はい」


「豆の種を?」


「はい」


 侍女の口元が少しだけ緩む。


 王宮から森へ、公的な文書でも贈り物でもなく、豆の種が送られる。


 珍しいことなのだろう。


「ありがとうございますと伝えてください」


「かしこまりました」


 リオは満足そうに頷いた。


「森で育てる」


「はい」


「名前は、王豆一号」


「まだ決まっていません」


「王宮から来る」


「はい」


「なら王豆」


「青豆一号も、青い豆だから青豆一号でした」


「同じ」


「……そうですね」


 反論しにくい。


 ミナが笑いを堪えながら尋ねる。


「では、正式に王豆一号になさいますか」


 フローラは少し考えた。


「実際に森へ届いて、芽が出たら決めます」


「まだ?」


「育つか分かりません」


「芽が出たら王豆一号?」


「それも、その時に考えます」


 名前も、今すぐ決めなくてよい。


 届く。


 蒔く。


 芽が出る。


 育つ。


 その順番を待つ。


     ◇


 夕食には、豆と根菜を煮込んだ料理が出た。


 今日の豆は、昼のスープよりも少し大きく、噛むとほくほくしている。


 リオが一つ食べ、すぐに言った。


「これ、森でも育てたい」


「何でも持ち帰ることはできません」


「種もらう」


「王宮の菜園にも、必要な分があります」


「少し」


「庭師の方へ、聞いてみます」


 フローラはそう答えてから、少し笑った。


 王都へ来た目的。


 国王陛下へ話す。


 父様と母様へ会う。


 公爵家のこと。


 それらは重く、大きい。


 でも、王都へいる間に、持ち帰りたい豆が増えている。


「森へ帰ったあとの仕事が増えます」


「畑、広げる?」


「まず、植える場所を決めます」


「王豆の場所」


「まだ王豆ではありません」


「たぶん王豆」


 ミナが小さく笑う。


 侍女たちも、少し離れたところで口元を緩めていた。


 公爵令嬢。


 青の姫君。


 王都で噂される人。


 その人が、夕食の豆を見ながら、森のどこへ植えるか話している。


 周囲の者たちは、まだその姿に慣れていないのだろう。


 けれど、以前のような戸惑いだけではない。


 少し面白そうに。


 少し親しむように。


 見ている。


 フローラはその視線へ気づいた。


 身体は、少しだけ固くなる。


 でも。


 以前ほど怖くない。


「何か、おかしいですか」


 フローラが侍女へ尋ねると、若い侍女が驚いて背筋を伸ばした。


「い、いいえ」


「笑っていました」


「申し訳ございません」


 すぐに頭を下げる。


 フローラは少し考えた。


「豆の話が、おかしかったですか」


 侍女は困ったようにミナを見る。


 ミナは助け舟を出さず、静かに待った。


 若い侍女は、勇気を出すように口を開く。


「王宮へいらした公爵令嬢様が、夕食の豆を森へ持ち帰って育てるお話をされているのが」


「はい」


「少し、意外でございました」


「悪い意味ですか」


「いいえ」


 侍女は慌てて首を横へ振る。


「何と申しますか……楽しそうだと思いました」


 フローラは目を瞬いた。


「私が?」


「はい」


「楽しそうに見えましたか」


「はい」


 豆の話をしていた。


 森へ帰ったあとのことを考えていた。


 自分では、普通に話していたつもりだった。


「そうですか」


 胸の奥へ、小さな温かさが広がる。


「笑ってもよいです」


 今日、父様へ言った言葉と同じ。


「豆の名前は、少し変かもしれません」


 リオがすぐに言う。


「王豆は変じゃない」


「まだ決まっていません」


 今度は、侍女たちからも小さな笑いが漏れた。


 フローラも少し笑った。


 王宮の食堂ではない。


 客室の食事。


 限られた人だけ。


 それでも。


 自分が笑うと、周りも笑う。


 怖い笑いではない。


 嘲る声でもない。


 同じ話を少し面白いと思った笑い。


「王宮にも、少し慣れました」


 フローラが呟くと、ミナが頷いた。


「はい」


「でも、家ではありません」


「はい」


「森へ帰ります」


「はい」


 慣れることと、残ることは同じではない。


 楽しめるものがあることと、帰る場所を変えることも同じではない。


     ◇


 夜。


 フローラは寝台へ入る前、今日の記録を最後まで読み返した。


 母様へは会わなかった。


 手紙も読まなかった。


 父様へは会った。


 公爵ではなく、父様として座ってほしいと頼んだ。


 父様は、完全にはできなかった。


 公爵の言葉が出た。


 でも、止めることができた。


 分からないと言うこともできた。


 豆の名前で笑った。


 森を見てみたいと言った。


 今は来ないと言った。


 森を、フローラの家と呼んだ。


 それらを書いた紙。


 母様の紙。


 父様の紙。


 王都へ持ってきた六つの言葉。


 机の上には、たくさんの文字がある。


 フローラは一つずつ重ね、種類ごとに分けた。


 母様のもの。


 父様のもの。


 国王陛下との話。


 植物の記録。


 王宮の豆。


「混ぜません」


 紙を分けながら言う。


 母様への気持ち。


 父様への気持ち。


 公爵家の問題。


 森へ戻る予定。


 全部を一つの答えにしない。


 それぞれ。


 一つずつ。


 別に考える。


 最後に、花守り布を確認した。


 内側の三つの袋は空ではない。


 最初の袋には、六つの言葉と木の実。


 二つ目と三つ目は、今は空。


「空の袋も、残します」


 必要になれば、また言葉を入れられる。


 空いている。


 それは、不足ではない。


 余白。


 新しい言葉を入れる場所。


     ◇


 寝台へ入り、村の毛布を胸まで引き上げる。


 王宮で迎える六度目の夜。


 最初の夜より、部屋の広さへ驚かなくなった。


 天蓋。


 高い天井。


 遠い壁。


 すべて見慣れたわけではない。


 でも、自分の毛布がある。


 机には記録がある。


 花守り布がある。


 森へ持ち帰るかもしれない豆の種の話がある。


「おやすみなさい、母様」


 今日は会わなかった。


 手紙も読まなかった。


「昨日の言葉を、まだ考えています」


 愛する方法を知らなかった。


 娘として見ることを怖がった。


 それだけでは足りない。


 でも、少しだけ届いた。


「明日も、読むかは分かりません」


 母様の手紙は待っている。


「おやすみなさい、父様」


 今日は四半刻だけ会った。


「父様として座ろうとしていました」


 完全にできていたかは、分からない。


「でも、豆のことを聞きました」


 少し嬉しかった。


「父様も、豆の名前を覚えているでしょうか」


 分からない。


 次に会うことがあれば、確かめられるかもしれない。


「次に会うかは、まだ決めません」


 願うことは父様のもの。


 会うかは、フローラのもの。


「おやすみなさい、国王陛下」


 王宮で、安心して話せる場所を用意してくれた。


 直接立ち会わず、必要な時だけ支えてくれている。


「おやすみなさい、王宮の豆」


 森へ種が届くかもしれない。


「王豆一号になるかは、まだ分かりません」


 言ってから、少し笑う。


 最後に。


「おやすみなさい、森」


 目を閉じる。


 父様は、森を見てみたいと言った。


 フローラが好きな場所だから。


 でも、今は来ない。


 フローラが決めるまで。


「森は、私の家です」


 父様も、そう呼んだ。


 その言葉へ、胸の奥が少し温かくなる。


 でも。


 その温かさだけで、過去を許したことにはしない。


「今日は、父様に公爵ではなく父様として座ってもらいました」


 完全に公爵を脱げたわけではない。


 途中で、公爵の言葉が出た。


 フローラが止めた。


 父様も止まった。


「父様も、練習しているのでしょうか」


 父親として話すことを。


 娘の好きなものを聞くことを。


 自分が分からないと認めることを。


 その答えも、まだ分からない。


「私も、練習しています」


 怒ること。


 聞くこと。


 止めること。


 嬉しいと認めること。


 全部を一度に決めないこと。


「次も、一つずつです」


 母様。


 父様。


 国王陛下。


 公爵家。


 森へ帰る日。


 まだ話すことは多い。


 でも、今日の分は終わった。


 フローラは父様の事情を聞いても、許しへ急がなかった。


 父様が少し笑ったことを嬉しいと思っても、怒りを捨てなかった。


 ただ、公爵としてしか座れなかった人へ、父として座ってほしいと伝え、その四半刻を自分の言葉で終えた。


 その事実を静かに胸へ置きながら、フローラは王都で迎える六度目の夜へ、ゆっくりと目を閉じた。

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