第84話 青の姫君、母と四半刻だけ同じ部屋にいる
翌朝、フローラが目を覚ました時、王宮の窓には細かな雨粒がついていた。
強い雨ではない。
空を覆う灰色の雲から、音を立てないほど細い雨が降り続いている。窓硝子を伝う雫は、途中で別の雫と重なり、少しだけ速さを増して下へ流れていった。
王都の屋根は、雨の向こうで色を薄くしている。
遠くの塔も、普段より輪郭が曖昧だった。
森で見る雨とは違う。
森では、雨が葉を叩く音が最初に聞こえる。高い枝から低い草へ、何度も雫が落ち、土の匂いがゆっくり濃くなっていく。
王宮では、雨より先に石が目に入る。
濡れた石畳。
黒く色を変えた外壁。
雨水を流すために作られた細い溝。
違う場所。
違う雨。
けれど。
「今日は、母様へ会うかもしれません」
フローラは寝台の上で、ゆっくりと言った。
机の上には、二通の手紙がある。
途中まで読んだ母様の手紙。
そして。
『あなたが決めた約束を、すべて守ります。』
その一文だけが書かれた返事。
昨日、フローラは母様へ会う前の約束を六つ決めた。
ミナとリオが同席する。
最初は四半刻だけ。
延長するかどうかは、フローラが決める。
許可なく身体へ触れない。
森へ戻るよう求めない。
婚姻や今後の住まいを決める話をしない。
謝罪への返事や許しを求めない。
フローラが終わりたいと言ったら、話の途中でも終える。
母様は、そのすべてを守ると答えた。
会うための境界。
母様を罰するためではない。
今のフローラが自分の言葉を失わず、同じ部屋へ入るために必要なもの。
「今日は」
胸へ手を置く。
心臓は、まだ速くない。
けれど、母様を思い浮かべると、少しずつ音が大きくなる。
「会いたいでしょうか」
自分へ尋ねる。
母様へ会いたい。
そうはっきり言うのは、まだ怖い。
会いたくない。
それだけでもない。
手紙の続きが気になる。
声を聞きたい気持ちがある。
母様がどのような顔で、自分の名前を呼ぶのか知りたい。
でも。
昔のような顔だったら。
公爵夫人として整った、何も揺れない顔だったら。
優しい言葉のあとに、屋敷へ戻りなさいと言われたら。
泣かれたら。
許してと頼まれたら。
抱きしめられたら。
いくつもの怖さが、会いたい気持ちの周りへ集まっている。
「分かりません」
答えは、まだそれだった。
けれど。
昨日までの「分かりません」と、少し違う。
会うことを全く考えられないわけではない。
条件を整えた。
母様は守ると答えた。
四半刻。
ミナとリオもいる。
途中で終わっていい。
そこまでなら。
「同じ部屋へ、入ってみてもよいかもしれません」
口にした瞬間、胸が大きく鳴った。
会いたい。
とは、まだ言わない。
会うと決めた。
とも、まだ言わない。
同じ部屋へ入ってみてもよいかもしれない。
今日の自分には、そのくらいの言葉が合っていた。
◇
フローラは寝台を降り、窓のカーテンを半分まで開けた。
雨の庭では、庭師たちが頭へ雨除けの布をかぶり、排水路の状態を確認している。昨日、虫を見つけた豆の株には、簡単な雨避けが作られていた。
濡れすぎないように。
でも、完全に雨を遮らないように。
必要な分だけ守る。
「境界です」
フローラは小さく言った。
母様との六つの約束も、少し似ている。
完全に閉じるのではない。
何もかも受け入れるのでもない。
今の自分が傷みすぎないように、必要な範囲を守る。
豆と人は同じではない。
それでも、考える助けにはなる。
雨避けの下で、葉は風に揺れている。
守られていても、動ける。
「私も、動けます」
約束がある。
だから、会うことを考えられる。
◇
扉が叩かれた。
「ミナです」
「入ってください」
ミナは一人で部屋へ入ってきた。
フローラの顔を見ると、すぐに体調を尋ねるのではなく、窓の外へ一度目を向けた。
「雨ですね」
「はい」
「森の畑が気になりますか」
「少し」
「はい」
「でも、任せました」
「はい」
何度も繰り返してきた言葉。
今は、自然に言える。
ミナは机の上の手紙へ目を向けた。
フローラも同じ場所を見る。
「今日は」
声が少し震える。
「母様と、四半刻だけ同じ部屋に入ってみようと思います」
ミナは驚いた顔をしなかった。
喜びすぎることも。
心配を隠すこともない。
「はい」
ただ、静かに受け取った。
「会いたいと、まだはっきり思っているわけではありません」
「はい」
「でも、会わないと決めたいわけでもありません」
「はい」
「約束が守られるなら、四半刻だけ」
「そのように、お伝えしますか」
フローラは頷こうとして、止まった。
いつ。
どこで。
誰が先に部屋へ入るのか。
母様を待つのか。
母様が待つ部屋へ入るのか。
細かなことまで考えていなかった。
「少し、決めたいです」
「はい」
「母様が先に部屋へいるのは、怖いです」
扉を開けた瞬間。
母様がこちらを見ている。
逃げ道がなくなるように感じるかもしれない。
「では、フローラ様が先に入り、落ち着いてから公爵夫人をお迎えする形はいかがでしょう」
「それがよいです」
「場所は、昨日の東の小応接室より、もう少し小さな部屋もございます」
「広い部屋は、落ち着きません」
「では、西客室棟の談話室を使えるか確認いたします」
自分の部屋ではない。
母様の屋敷でもない。
どちらの場所でもない。
王宮の談話室。
「母様と私の、どちらの部屋でもない方がよいです」
「はい」
「扉の近くに、私が座ります」
「はい」
「母様は、向かいです」
「はい」
「机は、間にありますか」
「置けます」
机。
物理的な距離。
それも、今は必要だった。
「四半刻の終わりは、どうやって分かりますか」
「小さな時計を置くことができます」
「音は鳴りますか」
「音の鳴らない砂時計もございます」
砂時計。
少しずつ落ちる砂。
終わりが見える。
「砂時計がよいです」
「承知しました」
会う前から、細かなことを決めすぎているだろうか。
でも、決めるたびに胸の怖さが少し形を持つ。
形が分かれば、備えられる。
「リオにも伝えます」
「はい」
「それから」
フローラはミナを見る。
「母様が約束を破りそうになった時、私が言えなければ、ミナから止めてください」
「承知しました」
「リオにも、止めてもらいます」
ミナがほんの少しだけ困ったように笑う。
「リオの場合は、強く止めすぎるかもしれません」
「私も、それは少し心配です」
想像すると、母様が一歩近づいただけで、リオが間へ入る姿が浮かんだ。
「先に、怒鳴らないよう話します」
「お願いいたします」
少しだけ笑う。
母様へ会う話をしているのに。
笑えた。
それだけで、胸の緊張が少し緩んだ。
◇
朝の着替えには、昨日選んだものとは違う、落ち着いた灰緑色のドレスを選んだ。
母様へ会うから、母様が好きだった色を選ぶのではない。
公爵夫人の娘らしく見える色でもない。
今日のフローラが、目へ強く入りすぎず、落ち着けると感じた色。
刺繍も少ない。
袖口と襟元へ、細い蔦の模様が入っているだけだった。
「こちらにします」
侍女はいつものように、すぐに頷いた。
「かしこまりました」
髪は、自分で半分まで編んだ。
後ろだけ、侍女へ整えてもらう。
「今日は全部自分でなさらないのですか」
ミナが尋ねる。
「手が少し震えています」
フローラは正直に答えた。
「全部自分でしなければならないわけではありません」
「はい」
「できるところまで、自分でしました」
任せる。
でも、全部を渡すのではない。
自分でできる部分。
助けてもらう部分。
それも、分けていい。
最後に花守り布を頭へかぶる。
内側の袋へ触れる。
六つの言葉。
木の実。
そして今日は、母様へ会うための六つの約束を書いた紙も、小さく折って一緒に入れた。
少し厚くなる。
それでも、きちんと入った。
「今日は、十二個あります」
王都へ持ってきた六つの言葉。
母様へ会うための六つの約束。
全部、自分で選んだものだった。
◇
朝食の部屋へ入ると、リオはいつもより早く食卓へ着いていた。
パンには手をつけていない。
フローラを見ると、すぐに立ち上がる。
「今日、会う?」
もう聞いたのだろうか。
ミナが伝えたのか。
「はい」
フローラは席へ着く前に答えた。
「四半刻だけ、同じ部屋へ入ります」
リオの顔が少し固くなる。
「母親と?」
「はい」
「俺も?」
「一緒にいてください」
「うん」
迷いのない返事。
「それから」
フローラは続ける。
「母様が約束を破りそうでも、最初から怒鳴らないでください」
「……どれくらい?」
「怒鳴ることに、どれくらいもありません」
「近づいたら?」
「私が許可していないなら、まず『止まって』と言ってください」
「触ろうとしたら?」
「同じです」
「戻れって言ったら?」
「話を終わりにします」
「俺が連れ出す?」
「歩けるなら、自分で出ます」
リオは真剣な顔で、一つずつ覚えようとしている。
「泣いたら?」
その質問に、フローラの胸が固くなる。
母様が泣く。
母様が苦しそうな顔をする。
そうなれば。
慰めなければ。
許さなければ。
会ってよかったと言わなければ。
昔の自分なら、そう思っただろう。
「母様が泣いても」
言葉を探す。
「私が慰めなければならないわけではありません」
ミナが静かに頷く。
「はい」
「でも、泣かないでとは言いません」
「はい」
「母様が泣くことは、母様のものです」
「はい」
「私がどうするかは、私のものです」
国王陛下に教えてもらった言葉。
少しずつ、自分の言葉になっていく。
「じゃあ、泣いても何もしない?」
リオが尋ねる。
「何もしないかもしれません」
「うん」
「手巾を渡したいと思ったら、渡すかもしれません」
「うん」
「その時の私が決めます」
「分かった」
リオはようやく席へ座った。
朝食が始まる。
けれど、いつものようには食事が進まなかった。
パンを千切る。
少し食べる。
スープを一口飲む。
母様のことが頭へ浮かぶ。
匙が止まる。
「食べられませんか」
ミナが尋ねる。
「少し、喉を通りにくいです」
「無理に全部召し上がらなくても大丈夫です」
「でも、会う前に食べなければ」
「少量でもよいと思います」
フローラは頷いた。
パンを半分。
スープを少し。
果物を二切れ。
それだけは食べる。
「これでよいです」
「はい」
全部食べなくても、会える。
空腹にならないために必要な分だけ。
◇
朝食後、エドガーが客室を訪れた。
フローラが今日、母様と会うことを考えていると伝わっている。
「フローラ様。公爵夫人へ、四半刻の面会についてお伝えいたしました」
胸が強く鳴る。
「母様は?」
「すべて、フローラ様がお決めになった通りにすると仰っております」
「時間は?」
「正午前を希望されておりますが、フローラ様のご都合を優先すると」
正午前。
国王陛下へ会った時と同じくらいの時間。
午前のうちに準備ができる。
昼食前なら、終わったあとすぐに部屋へ戻れる。
「正午前にします」
「承知いたしました」
「談話室は?」
「西客室棟の小談話室をご用意いたします」
「私が先に入ります」
「はい」
「母様は、私が座ってから」
「そのように整えます」
「砂時計も」
「すでに準備しております」
一つずつ確認する。
「母様は、一人ですか」
「公爵夫人付きの侍女が一名、廊下まで同行します。室内へは入りません」
「父様は?」
「お越しになりません」
安心する。
父様まで同じ場にいれば、受け取るものが多すぎる。
「国王陛下は?」
「同席されません」
「はい」
母様。
ミナ。
リオ。
エドガー。
護衛。
必要な人だけ。
「母様へ会うと決めたことは、父様へ伝わりますか」
「公爵夫人からお伝えになる可能性はございます」
父様の気持ち。
それまで背負いそうになり、フローラは止める。
「父様がどう思うかは、父様のものです」
エドガーが少し目を見開いた。
それから、静かに頷いた。
「はい」
◇
正午前まで、まだ時間があった。
何かをしていたい。
けれど、手紙の続きを読む気持ちにはなれない。
植物の記録を開いても、文字が目へ入らないかもしれない。
「菜園へは行きません」
先に決めた。
外は雨。
歩けば、身体も疲れる。
「部屋で、何をしましょう」
リオが窓を見る。
「豆数える?」
「ここからは数えられません」
「じゃあ、縫う?」
「何をですか」
リオが花守り布を指す。
「袋」
「もうあります」
「増やす」
「これ以上、何を入れるのですか」
「分からない」
フローラは少し笑った。
縫い物。
それなら、手を動かせる。
母様へ会うための六つの約束を書いた紙は、今の小さな袋へ入っている。
でも、少し厚くなりすぎている。
「もう一つ、小さな袋をつけてもよいかもしれません」
「本当に増やすのですね」
ミナが微笑む。
「今の袋には、王都へ持ってきたものを入れます」
「はい」
「新しい袋には、王都で決めたものを入れます」
六つの約束。
母様の一文だけの返事。
これから王都で増える言葉。
「分けたいです」
「よいと思います」
小さな布を用意してもらう。
今日は、フローラが最初から最後まで縫う。
一針。
二針。
指先は少し震えている。
縫い目が曲がる。
それでも、手を止めない。
「緊張しています」
フローラが言うと、リオが頷く。
「分かる」
「顔に出ていますか」
「縫い目」
「縫い目に?」
「いつもより曲がってる」
見ると、確かに曲がっている。
昨日までなら、ほどいてやり直したかもしれない。
でも今日は、会う前の緊張も一緒に残してよいと思った。
「このままにします」
「使える?」
「使えます」
「ならいい」
新しい袋が完成する。
少し傾いている。
でも、紙は入る。
母様へ会うための六つの約束。
母様からの一文。
そこへ入れた。
「分けました」
王都へ持ってきた言葉。
王都で決めた約束。
同じ布の内側。
でも、別の袋。
◇
時間が近づく。
侍女が髪と服を確認する。
ミナは、六つの約束を書いた写しを持っている。
リオは、いつもより落ち着きなく室内を歩いていた。
「リオ」
「何」
「私より緊張していますか」
「してない」
「歩いています」
「座れないだけ」
「それを、緊張していると言うのではありませんか」
リオは足を止めた。
「母親が、変なこと言ったら嫌」
「はい」
「フローラが、前みたいになったらもっと嫌」
前みたい。
自分の言葉を失う。
何も言えず、ただ頷く。
リオは、それを心配している。
「その時は、呼んでください」
「何を」
「私の名前です」
「フローラ」
「はい」
「それで戻る?」
「分かりません」
「じゃあ、森も言う」
「はい」
「畑も」
「はい」
「大鍋も」
「最後は、それなのですね」
「大事」
フローラは笑った。
その笑いで、胸の奥に少し余白ができる。
「行きます」
◇
西客室棟の小談話室は、本当に小さな部屋だった。
森の家よりは広い。
それでも、王宮の他の部屋と比べれば落ち着ける大きさだった。
窓が一つ。
暖炉が一つ。
小さな丸机。
向かい合う椅子。
扉に近い側へ、フローラの椅子が置かれている。
すぐ隣にミナ。
その少し後ろにリオ。
母様の椅子は、机の向こう。
手を伸ばしても届かない距離。
机の中央には、細い砂時計が置かれていた。
上の器には白い砂が入っている。
まだ落ちていない。
「ここでよいですか」
エドガーが尋ねる。
フローラは室内を一つずつ見た。
扉。
窓。
机。
母様との距離。
ミナ。
リオ。
砂時計。
「はい」
椅子へ座る。
すぐには母様を呼ばない。
「少し、待ってください」
「はい」
エドガーは扉の近くで待った。
フローラは花守り布の内側へ触れる。
最初の袋。
森で暮らしたい。
住む場所は、自分も決める。
今は婚姻を望まない。
公爵家をどうするかは、まだ分からない。
分からないことを、今すぐ決めたことにしない。
森へ戻る。
二つ目の袋。
ミナとリオが同席する。
四半刻。
許可なく触れない。
戻るよう求めない。
婚姻や住まいを決めない。
許しを求めない。
終わりはフローラが決める。
木の実。
帰りも持ってきて。
「準備は、全部できています」
それでも怖い。
準備をしたから、怖くなくなるわけではない。
「呼んでください」
フローラは言った。
◇
エドガーが扉を開けた。
廊下へ一度出る。
短い言葉を交わす声。
そして。
足音が近づく。
ゆっくり。
一歩ずつ。
胸が速くなる。
指先が冷たくなる。
まだ、扉の向こう。
なのに。
昔の記憶が一度に戻る。
長い廊下。
母様の部屋の前。
呼ばれるまで入れない。
姿勢を整える。
笑顔。
声の高さ。
公爵令嬢として。
「フローラ」
リオが小さく呼んだ。
「はい」
「森」
「はい」
「畑」
「はい」
「大鍋」
「はい」
息が戻る。
今は、昔の廊下ではない。
この部屋は、フローラが選んだ。
母様は、約束を受け入れた。
扉が開く。
エドガーが先に入る。
その後ろ。
一人の女性が立っていた。
フローラの記憶の中より、少し痩せている。
淡い金色の髪には、以前にはなかった白いものが混じっていた。華美な装飾はなく、落ち着いた灰紫色のドレスを着ている。
姿勢は、昔と同じように真っ直ぐだった。
けれど。
顔が違った。
完璧に整った公爵夫人の顔ではない。
目元が赤い。
唇がわずかに震えている。
フローラを見た瞬間、母様の足が止まった。
何かを言おうとして。
言えない。
フローラも、声が出なかった。
母様。
手紙を書いた人。
自分を見なかった人。
自分を産んだ人。
会いたいと願いながら、近づかずに待つと書いた人。
全部が、目の前にいる。
母様が一歩、前へ出そうとした。
けれど。
すぐに止まった。
約束を思い出したように。
机の向こう。
決められた椅子。
母様はそこまで歩き、フローラへ触れられない距離で立ち止まった。
「……フローラ」
名前。
母様の声で。
胸が強く痛んだ。
昔も、名前を呼ばれたことはあった。
けれど、その多くは姿勢を直すため。
挨拶を促すため。
何かを教えるため。
今の声は、それとは違う。
弱く。
震えている。
母様は椅子へ座らず、フローラを見た。
「座ってください」
フローラが言う。
自分でも驚くほど、声は小さかった。
母様はすぐに頷いた。
「はい」
母様が敬語を使った。
娘へ。
そのことが、胸へ複雑に刺さる。
距離を守ろうとしている。
でも、母娘ではなく、他人のようでもある。
母様が椅子へ座る。
エドガーが砂時計へ手を伸ばした。
「始めてもよろしいでしょうか」
フローラは母様を見た。
母様も、フローラを見ている。
でも、何も言わない。
待っている。
「はい」
砂時計が返される。
白い砂が、細い道を通って落ち始めた。
◇
誰も、すぐには話さなかった。
雨が窓へ触れる音。
暖炉の小さな音。
砂が落ちる音は、ほとんど聞こえない。
母様は両手を膝の上へ重ねている。
指先が、強く握られていた。
フローラは、母様の顔を見る。
目が合う。
母様の瞳に、涙が浮かぶ。
でも、母様は泣かないようにしているのか、ゆっくり瞬きをした。
「……会いに来てくださって」
母様が話し始める。
すぐに言い直した。
「いいえ。会うことを選んでくださって、ありがとうございます」
戻ってきてくれて、ではない。
会いに来てくれて、と言いかけた。
でも、フローラが母様のために来たわけではないと気づいたのだろう。
「今日は、四半刻です」
フローラは言った。
「はい」
「延ばすかは、まだ分かりません」
「はい」
「母様へ会いたいと、はっきり思えたわけでもありません」
母様の顔が、わずかに歪んだ。
痛んだのだと思う。
それでも。
「はい」
母様は、それだけ答えた。
「でも」
フローラは続ける。
「会わないと決めたいわけでもありませんでした」
母様の目から、涙が一筋落ちた。
手巾を出す。
自分で拭う。
フローラへ慰めを求めない。
「それで、今日は来ました」
「ありがとうございます」
母様は、また言った。
その感謝へ、フローラは何と返せばよいか分からない。
返さなくていい。
そう思い、黙った。
沈黙。
母様も、急いで埋めない。
以前の母様なら、正しい話題を選び、場を整えただろう。
今は、フローラが話すのを待っている。
「母様」
「はい」
「手紙は、まだ最後まで読んでいません」
「はい」
「昨日までに、五文だけ読みました」
「はい」
「今日も、続きは読んでいません」
「分かりました」
「悲しいですか」
なぜ尋ねたのか、自分でも分からなかった。
母様は、少しだけ俯く。
すぐには答えない。
「悲しくないと言えば、嘘になります」
正直な返事。
「でも」
母様は顔を上げた。
「その悲しさを、あなたに急いで読ませる理由にはしません」
胸が痛む。
母様は悲しい。
でも、フローラへ背負わせない。
「母様は」
声が震える。
「変わったのですか」
母様の目が揺れた。
「変わったつもりでいるだけかもしれません」
予想していなかった答えだった。
「分からないのですか」
「はい」
「母様自身のことなのに?」
「はい」
母様は両手を膝の上で重ねたまま、ゆっくり言う。
「私は、今まで自分が正しいと思っていたことを、すべて間違いだったと知りました」
フローラの胸が固くなる。
「すべて?」
「少なくとも、あなたへ向けていたものは」
母様は目を逸らさない。
「公爵令嬢として守ることが、あなたを守ることだと思っていました」
「はい」
「感情を見せず、誰にも弱みを見せず、正しい言葉と姿勢を身につけさせれば、誰にも傷つけられないと」
「傷つきました」
フローラはすぐに言った。
母様の顔が歪む。
「はい」
「母様の言葉で」
「はい」
「母様が、何も言わなかったことで」
「はい」
「私を見ないことで」
「はい」
母様は否定しない。
でも、ただ頷くだけなのが、少し腹立たしい。
「はい、と言うだけですか」
フローラの声が強くなる。
ミナもリオも動かない。
母様も、逃げない。
「何を言っても、言い訳になると思っています」
「言い訳でも、聞きたいかもしれません」
母様の目が見開かれる。
フローラ自身も、自分の言葉へ驚いた。
言い訳を聞きたい。
許すためではない。
なぜ、そうしたのか知りたい。
「でも、今日は」
胸が速くなる。
砂時計を見る。
半分ほど落ちている。
「全部は聞けません」
「はい」
「一つだけ」
「はい」
「なぜ、私を見なかったのですか」
母様の息が止まった。
長い沈黙。
雨音が、少し大きく聞こえる。
母様は視線を落とした。
両手の指が、さらに強く重なる。
「怖かったからです」
フローラは理解できなかった。
「何がですか」
「あなたを、娘として見ることが」
「どうして?」
母様は、言葉を探すように唇を動かした。
「私は、公爵夫人としてなら、何をすべきか知っていました」
「はい」
「公爵家の娘を育てる方法も、教えられていました」
「はい」
「でも、母親として娘を愛する方法を、知りませんでした」
胸へ、何か冷たいものが落ちる。
「知らなかったから、しなかったのですか」
「はい」
「それで、私が傷ついても?」
「その時の私は、あなたが傷ついていることすら、見ようとしませんでした」
怒りが湧く。
「知らなかったでは、足りません」
「はい」
「母様が知らなかったことで、私は一人でした」
「はい」
「私が悪いと思いました」
「はい」
「化け物だから、愛されないのだと思いました」
母様の顔が大きく歪む。
涙が落ちる。
それでも、フローラへ近づかない。
「違います」
母様の声が、初めて少し強くなった。
フローラの身体が固くなる。
母様はすぐに気づいた。
「……ごめんなさい」
声を落とす。
「強く言いました」
約束。
触れないだけではない。
フローラを押し込める言葉にしない。
母様は自分で止まった。
「違う、と言いたかったのです」
母様はゆっくり言い直す。
「あなたが愛されなかったのは、あなたが化け物だったからではありません」
フローラの胸が痛む。
「私は、化け物ではありません」
「はい」
「今は、知っています」
「はい」
「森で、名前で呼ばれています」
「はい」
「畑を耕しています」
「はい」
「子どもたちと、植物を見ています」
「はい」
「母様に違うと言われなくても、知っています」
母様は、涙を拭いながら頷いた。
「はい」
「でも」
声が震える。
「昔の私には、誰かに言ってほしかったです」
母様の目から、また涙が落ちた。
「私が言うべきでした」
「はい」
「あなたは化け物ではないと」
「はい」
「あなたは私の娘だと」
「はい」
「大切だと」
胸が大きく痛む。
遅い。
また、その言葉。
「遅いです」
「はい」
「今言われても、昔の私には届きません」
「はい」
「今の私へは」
フローラは言葉を止めた。
届くだろうか。
少しは。
母様の言葉。
今の自分へ。
全部ではない。
でも。
「少しだけ、届きます」
母様が息を呑む。
顔に、喜びが浮かびそうになる。
けれど、すぐに抑えた。
フローラへ返事を求めない。
「ありがとうございます」
それだけ言った。
◇
砂時計の砂が、残り少なくなっていた。
母様も気づいている。
何かを言いたそうにする。
でも、急いで言葉を詰め込まない。
フローラは、そのことを見ていた。
四半刻。
終わりが近い。
延長するか。
しないか。
母様と、まだ話せるだろうか。
胸は苦しい。
指先は冷たい。
涙も出ている。
でも、言葉の意味は分かる。
まだ聞きたいことはある。
なぜ手紙を書いたのか。
森へ行ったあと、何を思っていたのか。
今、フローラへ何を望んでいるのか。
けれど。
今日、全部聞く必要はない。
「母様」
「はい」
「砂が終わります」
「はい」
母様は砂時計を見る。
残りの砂が、細く落ちる。
「延ばしません」
フローラは言った。
母様の顔に、ほんの少しだけ寂しさが浮かぶ。
それでも。
「分かりました」
すぐに受け入れた。
「まだ、話したいことはあります」
母様の目が揺れる。
「はい」
「でも、今日はここまでです」
「はい」
最後の砂が落ちた。
四半刻。
終わった。
「今日は、終わりです」
フローラが言う。
母様は椅子から立った。
机の向こう。
約束された距離を保ったまま。
「会うことを選んでくださって、ありがとうございました」
「はい」
返せた。
「母様」
呼び止める。
母様が立ち止まる。
「手紙の続きは、まだ読みます」
母様の唇が震える。
「はい」
「いつかは、分かりません」
「はい」
「でも、捨てません」
母様の目から、大きな涙が落ちた。
それでも近づかない。
「ありがとうございます」
母様は深く頭を下げた。
公爵夫人としての礼ではないように見えた。
娘に対して。
一人の人として。
それから、扉へ向かう。
フローラは背中を見ていた。
父様と別れた時とは違う。
追いたいとは思わない。
でも、もう二度と会いたくないとも思わない。
扉の前で、母様が一度だけ止まった。
振り返らない。
「また会いたいと願っても、よいでしょうか」
約束を破らないために。
願いをフローラへ押しつけないために。
尋ねている。
フローラはすぐに答えられなかった。
会いたいと願うことは、母様のもの。
許可は必要ない。
「それは、母様の気持ちです」
フローラは言った。
「はい」
「私へ会ってほしいと急がなければ」
「はい」
「願うことまで、止めません」
母様は、振り返らないまま頭を下げた。
「ありがとうございます」
扉が開く。
母様が出ていく。
閉じる。
足音が遠ざかる。
◇
母様がいなくなった瞬間、フローラの身体から力が抜けた。
椅子の背へもたれる。
呼吸が速い。
手が冷たい。
涙も止まらない。
「終わりました」
「はい」
ミナが隣へ来る。
「触れてもよいですか」
尋ねる。
フローラは頷いた。
ミナが肩へ手を置く。
温かい。
リオは机の向こうを睨むように見ていた。
「約束、守った」
「はい」
「全部?」
「はい」
「触らなかった」
「はい」
「戻れって言わなかった」
「はい」
「許しても言わなかった」
「はい」
全部、守った。
「母様は、泣きました」
「うん」
「でも、慰めませんでした」
「うん」
「悪いことですか」
「悪くない」
リオはすぐに答えた。
「母親が泣くのは、母親のもの」
フローラは、涙の中で少し笑った。
「覚えていましたね」
「うん」
「私がどうするかは、私のものです」
「うん」
「今日は、何もしませんでした」
「それでいい」
ミナも静かに頷く。
「はい」
◇
客室へ戻る途中、廊下の窓から雨の庭が見えた。
豆の雨避け。
葉。
庭師。
王都は、母様へ会っている間も動いていた。
森も動いている。
世界は、あの四半刻だけではない。
「歩けますか」
ミナが尋ねる。
「ゆっくりなら」
「休みますか」
「部屋まで行きたいです」
「はい」
一歩ずつ歩く。
母様へ会った。
四半刻。
約束を守った。
フローラも、自分の言葉を失わなかった。
怒った。
遅いと言った。
少しだけ届くと言った。
終わりを決めた。
「言えました」
歩きながら呟く。
「はい」
「全部ではありません」
「はい」
「でも、今日の分は」
「はい」
今日の分。
それでいい。
◇
部屋へ戻ると、フローラはすぐに緑のドレスを脱いだ。
柔らかな室内着へ着替え、村の毛布を長椅子へ持ってきてもらう。
横になる。
花守り布は、胸の上へ置いた。
二つの袋。
王都へ持ってきた言葉。
母様へ会うための約束。
「母様は、約束を守りました」
それは事実。
だからといって、すべてを信じるわけではない。
一度守った。
それだけ。
でも、その一度はなくならない。
「一度だけです」
ミナが答える。
「はい」
「次も守るかは、まだ分かりません」
「はい」
「でも、今日は守りました」
「はい」
分ける。
一度と、これから全部。
今日の母様と、昔の母様。
手紙の母様と、目の前の母様。
同じ人。
でも、同じ姿だけではない。
◇
昼食は、部屋へ運んでもらった。
フローラはほとんど食欲がなかった。
温かなスープを少し。
パンを一切れ。
それだけ。
「食べられません」
「はい」
ミナは無理に勧めない。
リオは自分の肉料理を食べながら、時折フローラを見る。
「あとで腹減る」
「はい」
「その時食べる?」
「はい」
今食べられなくても、あとで食べられる。
昼食の時間に全部食べる必要はない。
◇
午後。
フローラは長く眠った。
目を覚ました時、窓の雨は少し弱くなっていた。
頭が重い。
泣いたあとのような感覚。
実際に泣いた。
「母様へ会いました」
目を覚ましたあと、最初に確認する。
夢ではない。
母様は、思っていたより痩せていた。
泣いた。
約束を守った。
知らなかったから見なかったと言った。
愛する方法を知らなかった。
それで、フローラは一人だった。
「知らなかったでは、足りません」
眠る前にも思った。
目を覚ましても、同じ。
母様に事情があった。
母様も、母親になる方法を知らなかった。
それを理解できるかもしれない。
でも。
理解することと、傷がなくなることは同じではない。
「足りません」
もう一度言う。
それでいい。
◇
夕方になり、エドガーが母様からの伝言があると訪れた。
胸が少し固くなる。
「手紙ですか」
「いいえ。口頭で一言だけでございます」
「何ですか」
「本日は、ありがとうございました、と」
それだけ。
また会いたい。
続きが聞きたい。
手紙を読んでほしい。
何もない。
「返事は、必要ですか」
「求められておりません」
「では、今日は返しません」
「承知いたしました」
母様の感謝を受け取る。
でも、返さない。
それも選べる。
◇
夕食には、王宮の菜園で育った濃い色の豆が、少量の塩で煮て添えられていた。
リオがすぐに気づく。
「昨日の」
「はい」
「種、もらえる?」
侍女が微笑む。
「庭師へ確認しております」
「森で育てます」
フローラが言う。
母様へ会った日。
それでも、森へ戻ったあとの話をする。
胸が少し安心する。
王都へ残る未来だけではない。
「母親にも見せる?」
リオの問いへ、フローラは少し考えた。
「分かりません」
「うん」
「でも、母様が見たいと言ったら」
森へ来る。
そこまで想像し、胸が固くなる。
今は考えられない。
「まだ、そこまでは考えません」
「うん」
未来を急がない。
◇
夜。
フローラは記録紙を広げた。
今日は、母様へ会った。
四半刻だけ。
私が先に部屋へ入った。
扉の近くに座った。
ミナとリオも一緒だった。
机を間へ置いた。
砂時計を使った。
母様は、すべての約束を守った。
触れなかった。
森へ戻ることを止めなかった。
婚姻や住む場所の話をしなかった。
許してほしいと言わなかった。
私が終わりだと言った時、終わった。
母様は、私を見なかった理由を話した。
公爵夫人として娘を育てる方法は知っていた。
でも、母親として愛する方法を知らなかった。
だから、娘として見ることが怖かった。
フローラは筆を止めた。
もう一度書く。
知らなかったでは、足りない。
母様が知らなかったことで、私は一人だった。
母様に事情があっても、私の傷が消えるわけではない。
でも。
母様は、今日、私を見た。
私の言葉を聞いた。
遅いと言っても、逃げなかった。
私は、母様の言葉が今の私へ少しだけ届くと言った。
全部ではない。
少しだけ。
それでよい。
最後に。
母様と同じ部屋にいた。
でも、昔の私には戻らなかった。
花守り布をかぶっていた。
森へ持ってきた六つの言葉があった。
母様へ会うための六つの約束があった。
ミナとリオがいた。
そして。
私自身がいた。
◇
寝台へ入る前、フローラは母様の手紙へ近づいた。
続きを読む気持ちにはなれない。
今日は、手紙よりも多くの母様の言葉を直接聞いた。
「今日は、読みません」
手紙へ向かって言う。
「母様へ会ったから、読む必要はありません」
会ったことと、手紙を読むことは別。
「また、読みたい時に読みます」
机の上へ置いたままにする。
「おやすみなさい、母様」
今日は、同じ部屋で名前を呼ばれた。
「四半刻だけでした」
短い。
でも、十分だった。
「また会うかは、まだ決めません」
母様は願ってよい。
でも、会うかはフローラが決める。
「おやすみなさい、父様」
父様とは、まだ二度目に会っていない。
「おやすみなさい、国王陛下」
今日の面会へは立ち会わなかった。
でも、安心して会える部屋を用意してくれた。
「おやすみなさい、王宮の豆」
リオが種を欲しがっている。
森へ持ち帰るかもしれない。
最後に、村の毛布を胸まで引き上げる。
「おやすみなさい、森」
フローラは目を閉じた。
母様へ会った。
でも、許したわけではない。
母様の事情を聞いた。
でも、納得したわけでもない。
少しだけ言葉が届いた。
でも、傷がなくなったわけではない。
全部、同時にある。
「今日は、ここまでです」
四半刻を終えた時と同じ言葉。
一日の終わりも、自分で決める。
フローラは母様との再会を、和解という名前へ急いで変えなかった。
ただ、約束に守られた四半刻の中で、自分の言葉を失わずに同じ部屋へいられた。
その事実だけを静かに胸へ置きながら、フローラは王都で迎える五度目の夜へ、ゆっくりと目を閉じた。




