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『青の姫君の森暮らし 〜化け物と恐れられた公爵令嬢は、今日も畑を耕します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第83話 青の姫君、母に会う前の約束を決める


 翌朝、フローラが目を覚ました時、王宮の窓の外には薄い雲が広がっていた。


 雨が降りそうな暗さではない。朝の光を柔らかく隠す雲が王都の上へ均等に広がり、建物の輪郭や庭の木々を、昨日よりも淡い色に見せている。


 遠くから聞こえる鐘の音も、今朝は少し丸く感じられた。


 王宮で迎える三度目の朝。


 フローラは村の毛布を胸まで引き上げたまま、寝台の上から机を見た。


 白い封筒は、昨夜と同じ場所にある。


 母様から届いた手紙。


 昨日、二文だけ読んだ。


『王都へ来てくれたと聞きました。』


『あなたが私に会わないと決めたことも、聞いています。』


 それ以上は読まなかった。


 続きを知りたい気持ちはあった。


 けれど、王宮の豆の葉に見つかった虫を確かめ、庭を歩き、夕食にその豆を食べたあとの心には、もう新しい言葉を受け取るだけの余白がなかった。


 だから、待たせた。


 母様の手紙は、一晩を越えても消えていない。


「今日も、あります」


 フローラは小さく呟いた。


 読んでいない言葉。


 まだ知らない母様の気持ち。


 それが封筒の中に残っている。


 怖い。


 それでも昨日より、少しだけ手紙の存在に慣れた気がした。


 手紙が届いた最初の夜は、机に置いてあるだけで、母様が部屋の前に立っているように感じられた。すぐに読まなければ、母様をまた傷つけるのではないかと思った。


 けれど、読まなくても何も起きなかった。


 二文で止めても、母様は新しい手紙を送ってこなかった。


 会いに来ることもなかった。


 ただ、ありがとうとだけ返した。


 母様は、待っている。


 それは、今のところ本当らしい。


「おはようございます」


 フローラは天蓋の向こうへ声をかけた。


「おはようございます、母様」


 昨日よりも、その呼びかけへ込められるものが増えている。


 来てくれた。


 会わないと決めた。


 母様が選んだ二つの言葉を、フローラは知っている。


「今日は、続きを読むかもしれません」


 まだ決定ではない。


「でも、全部は読みません」


 先に終わりを決めておく。


 絶対に一文だけ、とはしない。


 昨日は一文と決めたあと、二文読みたいと思った。


 最初に決めた数へ自分を縛る必要はない。


「苦しくなる前に、止めます」


 文字数ではなく、自分の心で止める。


 その方が、今のフローラには合っている気がした。


     ◇


 寝台を降り、カーテンを半分ほど開ける。


 西庭の菜園では、昨日と同じ庭師が若い使用人と一緒に豆の葉を確認していた。遠くて細かな表情までは見えないが、葉を一枚ずつ裏返している動きは分かる。


 昨日見つけた虫が、増えていないか確かめているのだろう。


「忘れていません」


 自分が伝えたことを、庭師たちが続けてくれている。


 森の畑でも同じだった。


 フローラがいない間も、ガルドさんや子どもたちが畑を見ている。


 自分がいない場所でも、伝えた言葉が残っている。


 母様の手紙も、同じなのだろうか。


 母様が書いた言葉は、母様が目の前にいなくても、紙の上へ残っている。


 しかし、植物の記録と人の手紙は同じではない。


 記録は、葉や茎の状態を残すもの。


 手紙には、書いた人の気持ちが入っている。


 その気持ちを、受け取る側がどう感じるかも一緒に生まれる。


「同じではありません」


 フローラは自分へ言い聞かせた。


 似ているものを見つける。


 けれど、全部を重ねない。


 森で覚えてきたことだった。


     ◇


 今朝、ミナは一人で部屋へ入ってきた。


 侍女は廊下で待っており、着替えを選んでから呼ぶことになっているらしい。


「おはようございます、フローラ様」


「おはようございます」


「お身体はいかがですか」


 フローラはすぐに大丈夫ですとは答えず、寝台から窓まで歩いた時の身体を思い出した。


「脚の重さは、昨日より少ないです」


「はい」


「胸は、手紙を見ると少し速くなります」


「はい」


「でも、昨日の朝よりは怖くありません」


 ミナは静かに頷いた。


「ご自分の状態を、とても細かく見られていますね」


「植物と同じでしょうか」


「似ているところはあると思います」


「でも、同じではありません」


「はい」


 二人で同じ答えを確認すると、フローラは少しだけ笑った。


「今日は、母様の手紙を読むかもしれません」


「はい」


「苦しくなる前に止めます」


「はい」


「何文読むかは、先に決めません」


「それが、今日の決め方なのですね」


「はい」


 昨日と同じ決め方を続ける必要はない。


 昨日の経験を使って、今日に合う形へ変える。


 それも、自分で決めるということなのだろう。


     ◇


 衣装部屋へ入ると、侍女が三着の服を並べて待っていた。


 淡い黄色。


 落ち着いた灰色。


 森の影を思わせる深い緑。


 フローラは緑へ手を伸ばしかけて、止めた。


 昨日は淡い青。


 一昨日は若葉のような緑。


 今日も森を近くに感じる色を選びたい気持ちはある。


 けれど、母様の手紙を読む日に、森の色を盾のように使おうとしているのではないか。


 そう思った瞬間、自分を責めそうになる。


 森の色を選ぶことは、逃げることなのだろうか。


「どうかなさいましたか」


 侍女が尋ねた。


「緑を選びたいです」


「はい」


「でも、怖いから選ぶのは、よくないでしょうか」


 侍女は驚いたようにフローラを見た。


 突然尋ねられ、どう答えるべきか迷っているのだろう。


 ミナが横から静かに言った。


「怖い時に、安心できるものを選んではいけないのでしょうか」


 フローラは緑の布へもう一度触れた。


「いけなくは、ありません」


「はい」


「森を思い出すために選んでもよいです」


「はい」


 逃げることと、自分を支えるものを持つことは同じではない。


「今日は、緑にします」


 深い緑の服は、謁見の日に着たものよりも簡素だった。袖口に小さな葉の刺繍があり、動きやすいように裾も少し短い。


 紐を締めてもらう時、フローラは昨日までと同じように、自分が苦しくない位置を伝えた。


 花守り布もかぶる。


 内側の小さな袋へ触れると、六つの言葉と木の実の形が指先へ伝わった。


 今日は、そこへ母様の手紙を入れるだろうか。


 まだ分からない。


     ◇


 朝食の部屋では、リオが豆の皿を探していた。


 食卓には焼いたパン、卵、茸のスープ、薄く切った肉が並んでいる。しかし、昨日食べた王宮の豆は見当たらない。


「豆がない」


 フローラが席へ着く前に、リオが言った。


「毎日あるわけではありません」


「昨日、あった」


「昨日の分は、少しだけ収穫したものです」


「今日も採ればいい」


「まだ育てる分も必要です」


 リオは納得しきれない顔で、茸のスープを見る。


「茸も森のものです」


 フローラが言う。


「王都の茸?」


「どこで採れたものかは分かりません」


「聞く?」


 侍女へ尋ねようとするリオを、ミナが少し笑いながら止めた。


「まずは、温かいうちにいただきましょう」


 三人が席へ着き、食事を始める。


 少しの間は、茸が森で採れたものか、王都の近くで育てられたものかという話をした。侍女に確認すると、王都の北にある領地から運ばれたものだという。


「森ではある」


 リオが満足そうに言った。


「私たちの森ではありません」


「でも森」


「はい」


 何でもない会話が、朝の緊張を少しずつ薄めていく。


 食事が半分ほど進んだところで、リオがフローラを見た。


「今日、手紙読む?」


「はい。朝食のあとに、読んでみます」


「全部?」


「苦しくなる前までです」


「分からない」


「何文という数では決めない、ということです」


「苦しくなったら止める?」


「はい」


「苦しくなる前って、分かる?」


 フローラは匙を止めた。


 大切な問いだった。


 苦しくなってから止めるのでは遅い。


 苦しくなる前。


 それをどう知るのか。


「胸が速くなります」


「うん」


「指が冷たくなります」


「うん」


「字を読んでいるのに、意味が分からなくなる時もあります」


「うん」


「そうなり始めたら、止めます」


 リオは頷いた。


「俺が見てても分かる?」


「分かる時もあると思います」


「じゃあ、言う」


「何と?」


「冷たい?」


 フローラは少し考えたあと、笑った。


「はい。聞いてください」


 自分だけでは気づけない時、近くにいる人へ知らせてもらう。


 任せきるのではない。


 一緒に見る。


「ミナも、お願いします」


「もちろんです」


     ◇


 朝食を終えると、三人はフローラの客室へ戻った。


 机の上の白い封筒は、昨日と同じ場所にある。


 けれど、封蝋はすでに切られている。


 開ける前の手紙ではない。


 二文だけ知っている手紙。


 知っている部分と、知らない部分が同じ紙の中にある。


 フローラは椅子へ座った。


 昨日と同じように、ミナは隣へ近い場所へ座り、リオは机の向かい側へ座った。


「今日は、最初から近いですね」


 フローラが言うと、リオが頷いた。


「昨日、途中で動いたから」


「はい」


「なら最初から」


 効率の話のように言う。


 でも、そばにいるために最初から近くへ来てくれた。


「ありがとうございます」


「うん」


 フローラは封筒へ手を伸ばした。


 紙を取り出す。


 昨日開いた折り目まで広げる。


 最初の二文が見える。


『王都へ来てくれたと聞きました。』


『あなたが私に会わないと決めたことも、聞いています。』


 昨日より、読むだけで胸が痛むことは少なかった。


 言葉に慣れたからではない。


 一晩かけて、二文が少しずつ自分の中へ置かれたのだろう。


「ここまでは、昨日読みました」


「うん」


 リオが小さく答える。


 フローラは紙の折り目を、もう少し開いた。


 三つ目の文。


『その決定を変えてほしいと願うことは、今の私には許されないと思っています。』


 目が止まった。


 胸が強く鳴る。


 決定を変えてほしい。


 母様は、そう願っていないのではない。


 願っている。


 会いたい。


 でも。


 今の自分には、変えてほしいと頼むことすら許されないと思っている。


「……分かりません」


 フローラは言った。


 ミナがすぐに答える。


「何が分からないのでしょう」


「母様が、どういう気持ちで書いたのか」


 後悔。


 罪悪感。


 諦め。


 自分を責めている。


 いくつも考えられる。


「私は」


 フローラは手紙を見た。


「変えてほしいと願われることまで、嫌なのでしょうか」


 会いたい。


 そう思われること自体は、嫌ではないような気がする。


 母様が自分へ何も感じていない方が、きっと悲しい。


 でも、会ってほしいと頼まれれば苦しい。


 願うことと、頼むこと。


 同じではない。


「母様が会いたいと思うことは、母様のものです」


 昨日、国王陛下が言った。


「はい」


「それを、私へ叶えてほしいと求めることとは、違います」


「はい」


 母様は、今のところ求めていない。


「続けます」


 まだ、指は冷たくない。


 胸は速い。


 でも、意味は分かる。


 フローラは次の行へ目を移した。


『あなたが王都で安心して眠り、自分の言葉を失わずに過ごせることを、今は一番に願っています。』


 呼吸が止まりそうになった。


 自分の言葉を失わずに。


 母様が、そのことを書いている。


 昔。


 王都にいたフローラは、自分の言葉を持っていなかった。


 持っていても、言えなかった。


 言えば困らせる。


 正しくない。


 公爵令嬢らしくない。


 母様にも、父様にも、教師にも、誰にも。


 母様は、今、それを知っている。


「母様は」


 声が震える。


「私が言葉を失っていたと、分かっているのでしょうか」


 ミナは答えを急がなかった。


「少なくとも、そのことを考えて、この言葉を書かれたのだと思います」


「でも」


 怒りが胸の奥へ湧く。


「なぜ、今なのですか」


 涙が目へ滲む。


「私が屋敷にいた時は」


 母様は、いつも静かだった。


 美しく、正しく、公爵夫人として整っていた。


 フローラが何を着るべきか。


 どのように笑うべきか。


 誰へ挨拶をするべきか。


 そうしたことは教えた。


 けれど、何を言いたいかは聞かなかった。


「今になって、私の言葉を失わないでと書くのは、ずるいです」


 フローラは言った。


 手紙の文字が涙で滲みそうになり、少し持ち上げる。


「はい」


 ミナは否定しなかった。


「母様は、ずるいです」


「そう感じておられるのですね」


「はい」


 気づいた。


 謝った。


 待っている。


 それは、今の母様がしていること。


 でも、それによって昔のことがなくなるわけではない。


「嬉しいです」


 声がさらに震える。


「はい」


「私の言葉を失わないでと書いてくれたことは、嬉しいです」


「はい」


「でも、遅いです」


「はい」


 父様へ言ったものと同じ。


 嬉しい。


 遅い。


 両方がある。


 フローラは目元を拭った。


 胸は速い。


 指先は。


 まだ温かい。


「もう一文、読みます」


 自分で決める。


 次の文。


『そのために私ができることが、あなたへ近づかずに待つことだけなら、私は待ちます。』


 フローラの目から、涙が一筋落ちた。


 紙へ落ちないよう、すぐに手紙を少し遠ざける。


 母様は待つ。


 国王陛下から聞いた。


 エドガーからも、会う申し出はないと聞いた。


 手紙の中でも、母様は同じことを書いている。


 近づかずに待つ。


「……近づかない」


 フローラは小さく繰り返した。


 昔は、近くにいた。


 同じ屋敷にいた。


 それでも、心は遠かった。


 今は距離を置いている。


 でも、手紙の言葉は、以前より少し近く感じる。


「変です」


 リオが首を傾げる。


「何が?」


「近づかないと書かれているのに、昨日より母様が近く感じます」


 リオは少し考えた。


「距離じゃない?」


「はい」


「なんか、言葉?」


「そうかもしれません」


 母様の身体は来ない。


 でも、言葉は届く。


 それは会うこととは違う。


 けれど、何も届かないこととも違う。


 フローラは次の文を見ようとした。


 その時、リオが言った。


「フローラ」


「はい」


「冷たい?」


 聞かれ、指先へ意識を向ける。


 少し冷たい。


 胸も、先ほどより苦しい。


 字はまだ読める。


 でも。


「少し、冷たいです」


「止める?」


 フローラは手紙を見た。


 次の一文。


 読みたい。


 続きを知りたい。


 母様が何を望んでいるのか。


 会いたいと言うのか。


 謝罪が続くのか。


 全部、知りたい。


 でも。


 苦しくなる前に止めると決めた。


 今は、苦しくなり始めている。


「止めます」


 口にした瞬間、惜しいような気持ちが生まれた。


 それでも、紙を折る。


 今日は、三つ目から五つ目まで。


 合計で五文を読んだ。


 数を決めなかった。


 身体を見て止めた。


「まだ読みたいです」


 フローラは正直に言う。


「はい」


 ミナが答える。


「でも、止めました」


「はい」


「明日なら、また読めます」


「はい」


 手紙は消えない。


     ◇


 封筒へ手紙を戻したあとも、フローラはすぐに椅子から立たなかった。


 今日読んだ三つの文が、胸の中へ一度に入っている。


 決定を変えてほしいと願うことは許されない。


 安心して眠り、自分の言葉を失わずに過ごしてほしい。


 近づかずに待つ。


 母様の言葉。


 母様が今、考えていること。


 すべてが本当かは、まだ分からない。


 手紙では、きれいな言葉を選ぶこともできる。


 書いている時には本気でも、会えば違うことを言うかもしれない。


 フローラの知っている母様は、目の前で感情を見せる人ではなかった。


「手紙の母様と、会った時の母様は、同じでしょうか」


 フローラが尋ねると、ミナは少し考えた。


「同じ方ではあります」


「はい」


「でも、手紙で話す時と、直接話す時では、出てくる言葉が違うこともあります」


「はい」


「ですから、手紙だけで会った時のすべてを決めることはできないと思います」


 フローラは頷いた。


「母様が手紙で待つと書いたから、会っても急かさないとは限りません」


「はい」


「でも、急かすと決めることもできません」


「はい」


 分からない。


 まだ。


 会っていないから。


「会う前に、約束を決められますか」


 言葉が自然に出た。


 ミナがフローラを見る。


「どのような約束でしょう」


「会う時に」


 母様と二人きりにならない。


 時間を短くする。


 途中で終わってよい。


 触れられたくないなら、触れないでもらう。


 公爵家へ戻る話や、婚姻の話はしない。


 いくつも浮かぶ。


「母様へ会うと決める前に、会う時の約束を決めたいです」


 リオが言う。


「守るか聞く?」


「はい」


「守るなら会う?」


「まだ、それも決めません」


 約束を受け入れてくれるか確認する。


 そのあとで、会うか決める。


 順番。


「よいと思います」


 ミナが静かに言った。


「会うことを先に決めてから条件を整えるのではなく、安心して会える形を先に考えるのですね」


「はい」


 それなら、母様へ近づくことを考えられるかもしれない。


     ◇


 フローラは新しい紙を一枚用意した。


 昨日までは、王都へ持ってくる六つの言葉を書いた。


 今日は、母様へ会う前の約束を書く。


「一つ目は」


 筆を持ち、考える。


「ミナとリオが、一緒にいることです」


 紙へ書く。


 一つ目。


 ミナとリオが同席する。


 母様と二人きりではない。


 母様は嫌がるだろうか。


 親子の話なのだから、二人だけでと言うかもしれない。


 でも。


「二人がいなければ、今は会えません」


 フローラははっきり言った。


「うん」


 リオが答える。


「はい」


 ミナも頷いた。


「二つ目」


 長い時間は難しい。


「最初は、四半刻だけです」


 王都の時間で四半刻。


 長すぎず、短すぎない。


 話せるかどうか分からなくても、終わりが見える時間。


「短いですか」


「最初であれば、よいと思います」


 ミナが答える。


「延ばしたいと思ったら?」


 リオが尋ねる。


「私が延ばすと決めた時だけ、延ばします」


 二つ目。


 最初は四半刻。延長はフローラが決める。


「三つ目」


 触れられること。


 母様に抱きしめられた記憶は、ほとんどない。


 幼い頃にあったのかもしれない。


 でも、覚えていない。


 今、母様が突然抱きしめたら。


 怖い。


「私へ触らないでほしいです」


 書く手が少し震えた。


「握手も?」


 リオが聞く。


「はい。今は」


 三つ目。


 フローラの許可なく、身体へ触れない。


「四つ目」


 話す内容。


 公爵家へ戻るのか。


 婚姻。


 跡継ぎ。


 それらを聞かれれば、母様との話ではなく、公爵家の話になってしまう。


「森から戻るよう、頼まないこと」


 筆を動かす。


「婚姻の話をしないこと」


「公爵家の話も?」


 ミナが尋ねる。


 フローラは少し考えた。


 母様が、自分のしたことを話す中で、公爵家での暮らしに触れるかもしれない。


 全部を禁じれば、話せることが少なくなる。


「公爵家のことは、昔のことなら話してもよいです」


「はい」


「でも、戻るかどうかを決めさせる話はしません」


 四つ目。


 森から戻るよう求めない。婚姻や今後の居住を決める話をしない。


「五つ目」


 母様が謝る。


 フローラは、何と答えるのだろう。


 許してほしいと言われたら。


 許せませんと言えるだろうか。


 泣かれたら。


 苦しそうな顔をされたら。


 自分が母様を慰めなければならないように感じるかもしれない。


「私へ、許す返事を求めないこと」


 書きながら、胸が痛んだ。


「母様が謝ることは、止めません」


「はい」


「でも、許してほしいと頼まれるのは、今は苦しいです」


 五つ目。


 謝罪への返事や許しを求めない。


「六つ目」


 途中で終えること。


 昨日、国王陛下との話でも使った。


「私が終わりにしたいと言ったら、途中でも終わること」


 リオが頷く。


「大事」


「はい」


 六つ目。


 フローラが終了を望んだ時は、話の途中でも終える。


 六つ。


 王都へ持ってきた言葉も六つだった。


 偶然。


 でも、少し覚えやすい。


 フローラは一つずつ読み返した。


 ミナとリオが同席する。


 最初は四半刻。延長はフローラが決める。


 許可なく身体へ触れない。


 森から戻るよう求めない。婚姻や居住を決める話をしない。


 謝罪への返事や許しを求めない。


 フローラが終了を望んだ時は、途中でも終える。


「厳しいでしょうか」


 書き終えたあと、不安が生まれる。


 母様が会いたいと言っている。


 それなのに、こんなに多くの約束を求める。


 親子なのだから。


 母親なのだから。


 もう少し信じるべきだと言われるかもしれない。


「厳しくてもいい」


 リオが言った。


「会うの、フローラだから」


「はい」


「母親が会いたいなら、守ればいい」


 単純。


 でも、その通りだった。


「母様が嫌だと言ったら?」


「会わない」


「はい」


 それだけ。


 条件を受け入れない人へ、無理に会わない。


「ミナは、どう思いますか」


「すべて、フローラ様が安心してお話しするために必要なことだと思います」


「母様を罰するためではありません」


「はい」


「困らせたいわけでも」


「はい」


「私が、会うためです」


「そのことも一緒に伝えればよいと思います」


 母様を拒絶するための約束ではない。


 会うことを考えるための約束。


     ◇


 昼前、エドガーが客室を訪れた。


 昨日の豆について、庭師から虫が増えていなかったという報告を持ってきてくれたのだという。


「葉を数枚取り除き、残りは弱い水で洗ったとのことです」


「隣の株は?」


「現時点では虫は見つからなかったそうです」


「よかったです」


 フローラの表情が自然に緩む。


 エドガーも、ほんの少しだけ口元を柔らかくした。


「それから、公爵夫人より、本日のご伝言や手紙はございません」


「はい」


 母様は、待っている。


 フローラは机の上の紙を見る。


「エドガー様」


「はい」


「母様へ、伝えてほしいことがあります」


 声が少し震えた。


「承ります」


「私は、母様へ会うかどうかを考えています」


 エドガーの目がわずかに動く。


 それでも、驚いた声は出さない。


「でも、会う前に、守ってほしい約束があります」


「はい」


 フローラは紙を持ち上げた。


 自分で読み上げる。


 一つずつ。


 途中で声が震えても、エドガーは静かに待った。


 六つ目まで読み終えたあと、フローラは紙を両手で持ったまま続けた。


「母様を困らせるためではありません」


「はい」


「私が、会うことを考えるために必要です」


「そのように、お伝えいたします」


「母様の返事は、急がなくてよいです」


「はい」


「今日中でなくても」


 母様にも考える時間がある。


 フローラが約束を求める。


 母様がそれを受け取る。


 すぐに答えられないこともあるかもしれない。


「返事を待ちます」


 自分が待つ側になる。


 母様が手紙を待ってくれたように。


 それは許したという意味ではない。


 ただ、相手が考える時間を認める。


「承知いたしました」


 エドガーは紙の内容を正確に写すため、フローラから一度預かりたいと頼んだ。


 原本を渡す。


 写し終えたら返してもらう。


「母様へ、これをそのまま渡しますか」


「フローラ様がお望みであれば、写しをお届けします」


 自分の字。


 母様が見る。


 胸が少し固くなる。


 でも。


「私が書いたものを、渡してください」


「承知いたしました」


     ◇


 エドガーが去ったあと、フローラは長く息を吐いた。


「渡しました」


「はい」


 ミナが答える。


「まだ、会うと決めていません」


「はい」


「でも、会う前の約束を渡しました」


「はい」


 何も決めていない昨日より、一歩だけ近づいた。


 けれど、母様へ会う約束をしたわけではない。


 母様が六つの約束を受け入れるか。


 その返事を聞く。


 そのあとで、会うか決める。


「順番があります」


 フローラは言った。


「うん」


 リオが頷く。


「約束」


「はい」


「返事」


「はい」


「会うか決める」


「はい」


「会う」


「会わないかもしれません」


「そうだった」


 三人で少しだけ笑った。


     ◇


 昼食のあと、フローラは王宮西庭の菜園へは行かなかった。


 脚の状態は悪くない。


 豆が気にならないわけでもない。


 けれど、今日は手紙を読み、母様へ六つの約束を送った。


 心が疲れている。


「今日は、部屋で休みます」


 自分から決める。


 窓際の長椅子へ座り、森から持ってきた植物の記録を読み返した。


 青豆一号。


 葉の先端に薄い変色。


 水分不足ではなく、風による擦れの可能性。


 アオジロウ。


 茎の傾きが少し戻った。


 ムラマル。


 白い跡は広がらず。


 モリタン。


 新しい芽を確認。


 オカエリ。


 芽の周囲の石は、そのまま。


 キズナ。


 皺のある葉を残し、新しい葉が二枚。


 一つずつ読む。


 森を出る前の記録。


 今は、さらに変わっているだろう。


 新しい葉。


 枯れた葉。


 雨。


 風。


 子どもたちが書いた続き。


「帰ったら、見ます」


 フローラは記録へ指を置いた。


 森へ帰る。


 その言葉は、母様へ会うことを考え始めても変わらない。


 母様へ会ったから王都へ残る。


 そうはならない。


 会うことと、帰る場所を変えることは同じではない。


     ◇


 午後の半ば。


 扉が叩かれた。


 エドガーだった。


 予想より早い。


 胸が強く鳴る。


「母様からですか」


「はい」


 エドガーの手には、フローラが書いた紙がある。


 その上に、小さく折られた別の紙が重ねられていた。


「公爵夫人は、六つの約束すべてを守ると仰っております」


 フローラは動けなかった。


「……すべて?」


「はい」


「何か、変えてほしいとは?」


「ございません」


「ミナとリオが同席することも?」


「はい」


「触れないことも?」


「はい」


「許しを求めないことも?」


「はい」


 全部。


 母様は受け入れた。


「こちらは、公爵夫人からの短い返答でございます」


 新しい紙。


 また、母様の字。


 フローラはすぐには受け取らなかった。


「読む必要がありますか」


「いいえ。口頭でお伝えした内容がすべてでございます」


「手紙には、それ以外が?」


「一文だけと伺っております」


 一文。


 それなら、今読めるだろうか。


 先ほど、今日は手紙を五文まで読んだ。


 心は疲れている。


 でも、この返事は、今の約束に対するもの。


「受け取ります」


 紙を手に取る。


 すぐには開かない。


 エドガーへ尋ねる。


「母様は、すぐに会いたいと言いましたか」


「いいえ」


「いつ会うかも、私が決める?」


「はい。そのように」


 母様は、約束を受け入れた。


 そして、会う日を急かしていない。


「ありがとうございます」


 エドガーが退出したあと、フローラは小さな紙を机へ置いた。


 読む。


 読まない。


 一文。


 でも、今日の心はすでに多くを受け取っている。


「どうしますか」


 ミナが尋ねた。


「読みたいです」


「はい」


「でも、少し休んでからにします」


 すぐに開かない。


 それだけでも、自分で選べた。


     ◇


 フローラは長椅子へ横になり、村の毛布を膝へかけた。


 眠るほどではない。


 目を閉じ、王都の音を聞く。


 遠い鐘。


 庭を歩く人。


 廊下を通る侍女の足音。


 森の音とは違う。


 でも、三日目になると、少しだけ一つずつ聞き分けられるようになっていた。


 母様が約束を受け入れた。


 そのことだけを、すぐに会う理由へ変えない。


 嬉しい。


 怖い。


 会ってみたい気持ち。


 まだ会いたくない気持ち。


 全部を、今は並べておく。


 しばらく休んだあと、指先の冷たさがなくなっていることを確かめた。


「読みます」


 机へ戻る。


 ミナとリオも近くへ来る。


 小さな紙を開く。


 そこには、本当に一文だけ書かれていた。


『あなたが決めた約束を、すべて守ります。』


 それだけ。


 会いたい。


 ありがとう。


 早く。


 いつ。


 何も書かれていない。


 フローラが決めた約束。


 母様は、そう書いた。


「私が決めた、と」


 フローラは声にした。


「はい」


 ミナが答える。


「守ります、と」


「うん」


 リオも頷く。


 母様が守る。


 本当に守るかは、会わなければ分からない。


 でも、まず言葉で約束した。


 フローラは紙を、最初の手紙の横へ置いた。


「今日は、会いません」


 言葉が自然に出た。


 ミナもリオも驚かなかった。


「はい」


「約束を受け取ったばかりなので」


「はい」


「今日すぐに会わなくても、約束は消えません」


「はい」


 母様が守ると書いた。


 一晩置いても。


 数日置いても。


 その言葉は紙へ残る。


「明日の朝、会うかどうかを考えます」


 今夜ではない。


 今日の疲れた心でもない。


 明日の自分が。


     ◇


 夕食には、昨日とは違う種類の豆が出た。


 濃い色の小さな豆を、肉と一緒に煮込んだ料理だった。


 リオが一口食べ、首を傾げる。


「昨日の豆じゃない」


「はい」


「でも豆」


「はい」


「王宮、豆多い?」


 侍女が少し困ったように答える。


「種類はいくつかございます」


「全部見たい」


「リオ」


 ミナが窘める。


 フローラは笑いながら煮込みを食べた。


 温かい。


 味が濃い。


 昨日の柔らかな豆とは違う。


「これも美味しいです」


「森へ持って帰る?」


 リオの言葉に、フローラは少し考えた。


「種を分けてもらえるなら、育ててみたいです」


「王宮の豆、森で育つ?」


「分かりません」


「試す?」


「はい」


 母様へ会うかもしれない。


 その話をした日。


 それでも、夕食では豆の種を森へ持ち帰る相談ができる。


 世界は、母様だけにはならない。


     ◇


 夜。


 フローラは記録紙を広げた。


 母様の手紙を、今日は三文読んだ。


 母様は、私が会わない決定を変えてほしいと願うことすら、今の自分には許されないと思っている。


 私が王都で安心して眠り、自分の言葉を失わずに過ごすことを一番に願っている。


 近づかずに待つと書いた。


 嬉しかった。


 でも、遅いと思った。


 母様はずるいとも思った。


 今になって、私の言葉を失わないでと書いたから。


 でも、嬉しい気持ちも本当。


 手紙を読む途中、指先が冷たくなった。


 リオが気づいた。


 私は止めた。


 まだ読みたかった。


 でも、止めた。


 そのあと、母様へ会う前の約束を六つ決めた。


 フローラは、一つずつ記録へ書いた。


 ミナとリオが同席する。


 最初は四半刻。延長は私が決める。


 許可なく身体へ触れない。


 森から戻るよう求めない。婚姻や居住を決める話をしない。


 謝罪への返事や許しを求めない。


 私が終わりたいと言ったら、途中でも終える。


 母様は、全部守ると答えた。


 返事は一文だった。


『あなたが決めた約束を、すべて守ります。』


 今日、私は会わなかった。


 約束を受け入れたからといって、すぐに会わなければならないわけではない。


 明日の朝、また決める。


 最後に。


 母様へ会うことを考えるために、母様との間へ約束を置いた。


 約束は、母様を遠ざける壁ではない。


 今の私が近づける距離を決めるための印。


 そこまで書き、フローラは筆を止めた。


 壁。


 王都の外壁。


 森の結界。


 人を拒むためのものもある。


 守るためのものもある。


 境界があるから、安心して近づけることもある。


 母様との六つの約束も、同じかもしれない。


 母様を罰するためではない。


 フローラが自分を失わず、母様の前へ立つための境界。


     ◇


 寝台へ入る前、フローラは二通の紙を机へ並べた。


 途中まで読んだ母様の手紙。


 六つの約束を守ると書かれた、一文だけの返事。


 どちらも、今日はこれ以上読まない。


「おやすみなさい、母様」


 フローラは机へ向かって言った。


「約束を守ると書いてくださって、ありがとうございます」


 感謝を口にする。


 それは、会う約束ではない。


 許した言葉でもない。


「でも、今日は会いませんでした」


 それも同時に本当。


「明日、考えます」


 母様へ会うか。


 まだ待つか。


 明日の自分が決める。


「おやすみなさい、父様」


 父様とは、王都へ入る前に一度会った。


 まだ、次に会う日は決めていない。


「おやすみなさい、国王陛下」


 六つの言葉を聞いてくれた人。


「おやすみなさい、王宮の豆」


 今日は違う豆を食べた。


 森へ種を持ち帰れるかもしれない。


 最後に、村の毛布を胸まで引き上げる。


「おやすみなさい、森」


 目を閉じる。


 花守り布の内側には、王都へ持ってきた六つの言葉。


 机の上には、母様へ会うための六つの約束。


 六つと六つ。


 どちらも、フローラが自分で決めたものだった。


「私は、私の言葉を失いません」


 母様の手紙に書かれていた願いを、自分の言葉で言い直す。


「失いそうになったら、止まります」


 そして。


「止まったあとで、また決めます」


 母様へ会う前の境界を作った日。


 フローラは、会うか会わないかを急いで決めるのではなく、自分を守ったまま会える形を先に選んだ。


 母様が約束を受け入れたことを胸へ置きながら、フローラは王都で迎える四度目の夜へ、ゆっくりと目を閉じた。

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