第82話 青の姫君、母の手紙を最後まで読まない
翌朝、フローラが目を覚ました時、王宮の窓には淡い光が差し込んでいた。
厚いカーテンの隙間から伸びた光は、広い床の上を細く横切り、机の脚と椅子の影を長く引き延ばしている。夜のうちに火を落とした暖炉には、灰の下へわずかな赤みが残り、窓の外からは遠い鐘の音と、庭を整える箒の音が静かに届いていた。
フローラは村から持ってきた毛布の中で、しばらく目を開けたまま動かなかった。
王宮で迎える二度目の朝だった。
昨日の朝よりも、目を覚ました直後の混乱は少ない。天蓋を見ても、ここがどこか分からなくなることはなかった。寝台の広さにも、部屋の高い天井にも、まだ落ち着くことはできないけれど、怖さの形だけは少し分かるようになっていた。
ここは王宮。
森の家ではない。
けれど、閉じ込められているわけでもない。
国王陛下へ六つの言葉を伝えた。
話を終える時も、自分で決めた。
今日は、昨日の続きではあるけれど、昨日と同じ日ではない。
そこまで確かめたあとで、フローラの視線は机へ向かった。
白い封筒が置かれている。
昨夜、公爵夫人である母様から届けられた手紙。
封は、まだ開けていない。
昨日は読まないと決めた。国王陛下へ会い、六つの言葉を伝え、母様へは会わないと決めた。そのあとで手紙まで読めば、心の中へ入ってくるものが多すぎると感じたからだ。
手紙は、待たせた。
夜の間も、机の上で消えずに残っていた。
「……あります」
フローラは小さく呟いた。
読まなかったからといって、なくなってはいない。
母様の言葉も、封筒の中で待っている。
森にいた頃、母様から届いた手紙を一日一文だけ読むことを覚えた。読まない日もあった。続きを知りたくても、心が疲れていれば閉じた。読みたくない言葉があるかもしれないと怖くなれば、手紙を箱へ戻した。
それでも、手紙は待っていた。
昨日届いた新しい手紙も、同じだろうか。
王都にいる母様が、今のフローラへ書いた手紙。
森へ送られた長い手紙とは違う。
この王宮から、馬車で遠くない公爵家の屋敷から届いたもの。
書いた人が近くにいる。
そのことが、封筒を以前より重くしていた。
フローラは毛布の上から胸へ手を置いた。
心臓は、まだ静かだった。
机を見ると、少し速くなる。
「今日は、読むでしょうか」
自分へ尋ねる。
すぐに答えを出さない。
寝台の上で決めなくてもいい。
顔を洗ってからでもいい。
朝食を食べてからでもいい。
母様の手紙があるからといって、朝のすべてを手紙から始める必要はない。
「おはようございます」
部屋へ向かって言う。
それから、いつものように少し間を置いた。
「おはようございます、母様」
机の上に、母様の手紙がある。
呼びかけた声が、昨日より近くへ届くような気がした。
「今日は、手紙を読むかもしれません」
会う、ではない。
まず、読む。
それも、全部とは限らない。
「決めるのは、朝食のあとにします」
そう言ってから、フローラは寝台を降りた。
◇
窓辺へ近づき、カーテンを半分だけ開く。
朝の王都が広がっていた。
屋根の間から煙が立ち上り、遠くの大通りではすでに荷車が動いている。王宮の庭では庭師たちが作業を始めており、昨日案内してもらった西庭の菜園には、二人の使用人が水桶を運んでいた。
白い豆の花。
昨日見た花が、朝露を受けているだろうか。
ここからでは小さすぎて見えない。
でも、ある。
「今日も、豆があります」
母様の手紙とは関係のないことを言う。
それだけで、少し呼吸が楽になった。
世界は手紙だけではない。
母様だけでもない。
国王陛下との話だけでもない。
王宮の庭には豆があり、庭師が水を運び、朝食の準備をしている人がいる。
森では今頃、ガルドさんが畑を見ているかもしれない。サムたちは、王都へ向かったフローラがいない日も記録を続けているはずだ。
すべてが止まって、フローラの返事を待っているわけではない。
そのことが、少し安心だった。
◇
扉が叩かれた。
「ミナです」
「入ってください」
昨日よりも、答える声が早く出た。
ミナが入ってくる。その後ろには、着替えを手伝う侍女が一人だけいた。
「おはようございます、フローラ様」
「おはようございます」
「昨夜はお休みになれましたか」
「はい。昨日よりは」
「昨日よりは、ですか」
「一度、鐘の音で目を覚ましました。でも、ここが王宮だと分かりました」
昨日までなら、眠れました、とだけ答えていたかもしれない。
けれど今は、少しずつ詳しく言える。
眠れた。
途中で起きた。
でも、怖くて朝まで眠れなかったわけではない。
「お身体に痛みや強い疲れはございますか」
「脚が少し重いです」
「昨日、庭を歩かれましたからね」
「はい。でも、歩けないほどではありません」
「承知しました」
ミナはフローラの言葉をそのまま受け取ったあと、机の上の封筒へ目を向けた。
視線だけ。
読むのですか、と聞かない。
母様からの手紙ですよ、と急かさない。
フローラは、その待ち方に少し安心した。
「ミナ」
「はい」
「昨日の手紙は、まだそこにあります」
「はい」
「夜の間に、読まなければならないような気持ちになりました」
「はい」
「母様が待っていると思って」
ミナはしばらく黙っていた。
すぐに、それでも読まなくてよい、と答えない。
「母様が待っていることと、フローラ様が今すぐ読むことは、同じでしょうか」
静かな問いだった。
「……同じではありません」
「はい」
「母様は、手紙を書きました」
「はい」
「私は、いつ読むかを決めます」
「はい」
昨日、国王陛下から聞いた言葉に似ている。
会いたい気持ちは、母様のもの。
会うかどうかは、フローラのもの。
手紙を書きたい気持ちは、母様のもの。
読む時を決めるのは、フローラ。
「朝食のあとに、読みたいか考えます」
「それがよいと思います」
◇
その日の衣装は、淡い青の簡素なドレスを選んだ。
国王陛下との面会はない。
父様とも母様とも、まだ約束していない。
王宮内で過ごすための服。
侍女が三着を用意したが、フローラは一つずつ見たあと、自分で青を選んだ。
昔の自分なら、青い髪に青い服を合わせることを嫌がったかもしれない。
青が目立つ。
青の姫君と呼ばれる。
髪も服も青ければ、さらに見られる。
けれど、今日の青は淡かった。
朝の空に近い色。
森の家の窓から見た、雨上がりの空のような色。
「今日は、青にします」
「かしこまりました」
花守り布も身につけた。
正装ではないから、頭全体を覆うようにかぶる。
内側の袋へ触れる。
六つの言葉。
木の実。
そして、机の上には母様の手紙。
手紙を花守り布へ入れることはしなかった。
まだ、自分の中へ持っていくと決めていないから。
◇
朝食の部屋では、リオが窓の近くに立ち、王宮の庭を見下ろしていた。
「おはようございます」
「おはよう」
「今日は、食べる前に窓を見る日ですか」
「豆」
「豆?」
「昨日の豆」
リオが窓の外を指す。
ここからも西庭の菜園の一部が見える。
「見えますか」
「たぶん、あれ」
「小さいですね」
「でも豆」
「はい」
ミナも席へ着いた。
朝食には焼いたパン、卵、野菜のスープ、それに少量の果物が並んでいる。
リオは席へ座るなり、パンを手に取った。
「今日は誰に会うの」
あまりにも早く尋ねられ、フローラは匙を取る手を止めた。
「まだ決めていません」
「王様は昨日」
「はい」
「公爵は会った」
「はい」
「残りは母親?」
胸が固くなる。
リオに悪気はない。
順番を数えているだけ。
それでも、母様という言葉は胸の奥へ深く入る。
「そうなります」
「今日?」
フローラはすぐには答えなかった。
ミナがリオを見る。
「急かしてはいけません」
「聞いただけ」
「聞かれることで、決めなければならないように感じることもあります」
「あ」
リオがフローラを見る。
「ごめん」
すぐに謝る。
その早さへ、フローラは少し驚いた。
「大丈夫です」
言ってから、自分の胸へ聞く。
少し固くなった。
でも、強く傷ついたわけではない。
「少し驚きました。でも、大丈夫です」
「うん」
「今日は、まず手紙を読むかどうかを決めます」
「手紙?」
「母様から、昨日届きました」
リオは机の上にはない封筒を探すように周囲を見る。
「読んでない?」
「はい」
「なんで」
「昨日は、国王陛下へ会ったので」
「疲れた?」
「はい」
「なら今日?」
「それを、今から決めます」
リオは少し考えたあと、頷いた。
「分かった」
以前のリオなら、読めばいい、と言ったかもしれない。
でも今は、待つことを覚えている。
フローラだけではない。
リオも、ミナも。
森で一緒に過ごす中で、少しずつ変わっている。
◇
朝食を食べながら、フローラは母様の手紙について考えた。
封を開ける。
最初の一文だけ読む。
それとも、今日は触れない。
いくつかの選択がある。
「手紙を読む時、二人にいてほしいです」
フローラが言うと、ミナが頷いた。
「はい」
リオもパンを飲み込んでから答える。
「いる」
「でも、読むのは私です」
「うん」
「内容を声に出すかは、まだ決めません」
「うん」
そばにいてほしい。
でも、手紙は自分で読む。
必要なら、内容を伝える。
全部を共有しなくてもいい。
「朝食のあと、部屋で開けます」
決めた瞬間、胸が大きく鳴った。
怖い。
でも、逃げたいだけではない。
読みたい気持ちもある。
「全部は読みません」
続ける。
「一文だけですか」
ミナが尋ねた。
「はい」
森で覚えた読み方。
母様の手紙を一度に全部受け取らない。
「一文を読んで、そのあとを決めます」
「承知しました」
◇
朝食を終え、三人はフローラの客室へ戻った。
机の上には、白い封筒が置かれている。
朝の光を受け、封蝋の紋章がはっきり見えた。
スプリング公爵家の紋章ではない。
花を三つ組み合わせた、母様個人の印。
森へ届いた手紙にも、同じ印が押されていた。
フローラは椅子へ座った。
ミナは少し離れた場所へ椅子を置き、リオは窓辺に立つ。二人とも、封筒を覗き込まない。
「近くにいてください」
フローラが言う。
リオが窓辺から離れ、机の端に近い椅子へ座った。
ミナも少しだけ距離を縮める。
それでも、手紙の文字が見えるほど近くはない。
フローラは封筒へ手を伸ばした。
指先が少し震える。
昨日届いた。
一晩待たせた。
母様は、今頃どうしているだろう。
返事を待っているのだろうか。
手紙を読んだか、王宮へ尋ねているだろうか。
そう思った瞬間、胸が苦しくなる。
「今は、母様のことではなく」
フローラは小さく言った。
「私が読むかどうかです」
封筒へ触れる。
冷たい紙。
開けてもいい。
開けなくてもいい。
今は、開けたい。
「開けます」
誰へでもなく告げてから、封蝋の端へ指をかけた。
無理に剥がすと紙が破れそうだったため、ミナが用意してくれた小さな紙切り用の刃を使う。
薄い音がして、封が開いた。
胸が強く鳴る。
中には、一枚だけ紙が入っていた。
森へ届いていた手紙よりも短い。
そのことに、少し安心する。
でも、短いから最後まで読まなければならないわけではない。
フローラは紙を取り出し、折り目を一つだけ開いた。
母様の字。
見覚えのある、少し細く、丁寧な文字。
最初の一行。
フローラは目で追った。
『王都へ来てくれたと聞きました。』
そこで、止めた。
胸が痛む。
来てくれた。
帰ってきた、ではない。
戻ってきた、でもない。
来てくれた。
母様は、王都をフローラの帰る場所だと決めていない。
国王陛下から聞いたのだろうか。
それとも、自分でその言葉を選んだのだろうか。
「読みました」
声が少し震えた。
ミナは内容を尋ねず、ただ頷いた。
「はい」
「最初の一文だけです」
「はい」
リオも黙っている。
フローラは紙を見たまま、呼吸を整えた。
『王都へ来てくれたと聞きました。』
来てくれた。
感謝の言葉のように見える。
でも、来るよう命じた人の言葉ではない。
母様は、王都へ来たことを受け取っている。
「母様は、おかえりなさいと書きませんでした」
フローラは言った。
ミナが静かに答える。
「はい」
「戻ってきた、とも」
「はい」
「来てくれた、と」
胸が熱くなる。
嬉しい。
でも、そのまま嬉しいだけではない。
なぜ今になって、その言葉を選べるのか。
昔、王都にいた時は、フローラのいることを受け取ってくれなかったのに。
怒りもある。
「嬉しいです」
フローラは正直に言った。
「はい」
「でも、遅いです」
「はい」
「昨日、父様へ言ったのと同じです」
「はい」
嬉しい。
遅い。
両方。
「続きを、読みたいです」
口にすると、胸がさらに速くなる。
読みたい。
でも、一文だけと決めた。
決めたことを変えてはいけないのだろうか。
「一文だけと決めました」
フローラが言うと、リオが首を傾げた。
「読みたいなら読めば?」
「でも、決めました」
「変えたら駄目なの?」
昨日、六つの言葉についてミナから言われたことを思い出す。
決めた言葉も、変えていい。
言葉のために、自分を縛る必要はない。
「変えてもよいです」
「うん」
「でも」
今、本当に続きを読みたいのか。
それとも、早く全部を終わらせたいだけなのか。
読まないまま残ることが怖くて、先へ進もうとしていないだろうか。
フローラは紙を見つめた。
次の行は、折り目の下へ隠れている。
開けば読める。
「少し待ちます」
紙を机へ置く。
両手を膝へ重ねる。
一つ目の文。
王都へ来てくれたと聞きました。
それだけを胸へ置く。
母様の言葉を、すぐに次の言葉で上書きしない。
一文へ滞在する。
「来てくれた、と書かれています」
もう一度言う。
「はい」
「母様は、私が来たことを、母様のためだと思っているでしょうか」
ミナはすぐには答えない。
「手紙の続きを読まなければ、分からないかもしれません」
「はい」
「でも、今の一文だけでは、そうとは書かれていません」
「はい」
母様のために来た。
会いに来た。
屋敷へ戻るために来た。
どれも書かれていない。
王都へ来たと聞いた。
それだけ。
「私は、話すために来ました」
「はい」
「森へ戻るために」
「はい」
母様の一文が、フローラの目的を変えるわけではない。
「今日は、もう一文読みます」
フローラは言った。
一文だけという最初の決定を、二文へ変える。
全部ではない。
今の自分が受け取れそうな分だけ。
紙の折り目を、もう少し開く。
二つ目の文が見える。
『あなたが私に会わないと決めたことも、聞いています。』
胸が固くなった。
母様は知っている。
昨日、フローラが会わないと決めたことを。
責める言葉ではない。
悲しいとも書いていない。
ただ、聞いている。
それでも、次の文が怖い。
残念です。
悲しいです。
母親なのに。
会ってください。
そう続くかもしれない。
「……怖いです」
フローラの声が震えた。
ミナが立ち上がりかける。
「そばへ参りましょうか」
「はい」
ミナが隣へ座る。
触れてよいかを聞くように、少しだけ手を伸ばす。
フローラは自分から、その手を握った。
温かい。
リオも椅子を机へ近づけた。
「読む?」
フローラは首を横へ振った。
「今日は、ここまでにします」
続きが怖い。
それだけではない。
二つ目の一文を、まだ受け取れていない。
あなたが私に会わないと決めたことも、聞いています。
母様は、決めた、と書いた。
会わなかった。
拒んだ。
逃げた。
そうではなく。
決めた。
「母様は、私が決めたと書いています」
フローラが言うと、ミナが頷いた。
「はい」
「会わないことを、私が選んだと」
「はい」
「悪い娘だとは、書いていません」
「はい」
まだ二文だけ。
この先に何が書かれているかは分からない。
それでも、二文の中には、フローラの選択を否定する言葉はなかった。
「今日は、二文読みました」
「はい」
「最初は、一文の予定でした」
「はい」
「でも、二文へ変えました」
「はい」
「全部は読みません」
「はい」
自分で増やした。
自分で止めた。
どちらもできた。
フローラは手紙を丁寧に折り直した。
封筒へ戻す。
封蝋はすでに切れている。
もう、開いている手紙。
でも、読んだのは二文だけ。
「机へ置きます」
花守り布の内側には入れない。
まだ、一日中持ち歩きたいとは思わない。
机の上。
見える場所。
でも、すぐに読まなくてもよい場所。
◇
手紙を読み終えたあと、フローラはしばらく椅子から立てなかった。
泣いてはいない。
けれど、胸の中に重さがある。
母様の字を見た。
今の母様が書いた言葉を読んだ。
会わないと決めたことを、母様は知っている。
その事実だけで、昨日より母様が近くなった。
会ってはいない。
それでも、近い。
「疲れました」
フローラが言うと、リオが頷いた。
「二文だけなのに?」
「はい」
「文字、少ない」
「心の中では、多いです」
リオは少し考えたあと、手紙を見る。
「重い?」
「はい」
「紙は軽い」
「はい」
「変なの」
「本当ですね」
少しだけ笑える。
その笑いで、部屋の空気が柔らかくなった。
「何か、別のことをしたいです」
フローラは窓の外を見る。
菜園。
豆。
でも今日は脚が少し重い。
「歩かずにできることはありますか」
ミナが考える。
「昨日見た豆の記録をまとめてはいかがでしょう」
「王宮の豆ですか」
「はい」
昨日は見るだけだった。
葉の色。
花。
茎の細さ。
支柱の必要。
記録にできる。
「書きます」
◇
フローラは新しい紙を用意してもらった。
王宮西庭菜園。
白花の豆。
葉色は安定。
茎はやや細い。
花がついている。
風への対策として、支柱を早めに立ててもよい。
土の水分は、見た範囲では多すぎない。
実際に根元へ触れていないため、断定しない。
最後の一文を書いたあと、フローラは紙を見つめた。
「断定しない」
植物の記録では、以前から気をつけていることだった。
見ていないことを、見たように書かない。
分からないことを、分かったように決めない。
昨日、国王陛下へ伝えた五つ目の言葉にも似ている。
「手紙も、同じです」
ミナが尋ねる。
「何がでしょう」
「二文しか読んでいないのに、母様の気持ちを全部決めない」
「はい」
「謝りたいのかもしれません」
「はい」
「会いたいだけかもしれません」
「はい」
「私へ戻ってほしいのかもしれません」
「はい」
「でも、まだ分かりません」
読んでいない部分を、怖さだけで埋めない。
良い言葉だと期待だけで決めない。
「分からないままにします」
「それがよいと思います」
◇
昼前になると、エドガーが客室を訪れた。
今日はフローラの予定を確認するためだという。
「フローラ様。本日、陛下からの面会のご希望はございません。昨日のお疲れをお取りいただきたいとのことです」
「はい」
「公爵閣下からも、ご面会の申し出はございません」
父様。
昨日、今日はもう会わないと決めたことが伝わっているのだろう。
「母様は?」
尋ねたあと、胸が少し速くなる。
エドガーは静かに答えた。
「公爵夫人からも、申し出はございません」
「手紙を読んだかどうかは、聞かれましたか」
「いいえ」
フローラは驚いた。
「本当に?」
「はい。お届けできたかだけを確認されました」
「読んだかは?」
「尋ねられておりません」
母様は待っている。
本当に。
少なくとも、今は急かしていない。
「二文だけ読みました」
なぜか、エドガーへ伝えたくなった。
「そうでございましたか」
「母様へ、伝わりますか」
「フローラ様がお望みであれば」
伝える。
伝えない。
また選べる。
母様は、読んだか聞いていない。
なら、あえて伝えなくてもよいのかもしれない。
でも。
「二文読んだことだけ、伝えてください」
「承知いたしました」
「内容は、言わないでください」
「もちろんでございます」
「続きをいつ読むかも、まだ決めていません」
「そのままお伝えいたしますか」
フローラは考えた。
「はい」
母様へ。
二文だけ読んだ。
続きをいつ読むかは、まだ決めていない。
それだけ。
返事を求めない。
「それから」
エドガーが続ける。
「本日の午後、西庭の菜園を管理する者から、フローラ様へご相談したいことがあるそうです」
フローラの表情が自然に明るくなる。
「豆ですか」
「豆でございます」
「何でしょう」
「葉に小さな斑点が見つかったとのことです」
胸の中にあった手紙の重さが、一瞬だけ別の場所へ動いた。
「見に行きます」
すぐに言い、脚の重さを思い出す。
「でも、少し休んでからにします」
エドガーが頷いた。
「午後の早い時間でよろしいでしょうか」
「はい」
母様の手紙を二文読んだ日。
午後は、豆の斑点を見る。
それでいい。
◇
昼食は三人で客室に用意してもらった。
温かな鶏肉の煮込みと、柔らかなパン、根菜の和え物。
リオは肉を食べながら、手紙のことではなく豆の話をしていた。
「斑点って、病気?」
「まだ分かりません」
「虫?」
「分かりません」
「水?」
「それも、見なければ分かりません」
「全部分からない」
「はい」
「でも見たら?」
「少しは分かるかもしれません」
「手紙と同じ?」
突然言われ、フローラは匙を止めた。
「似ています」
「読まないと分からない」
「はい」
「でも、読んでも全部は分からない?」
「はい」
母様の言葉を全部読んでも、母様の心が全部分かるわけではない。
豆の葉を見ても、すぐに原因が分からないことがある。
似ている。
でも、同じではない。
「豆は、私へ会いたいとは言いません」
「言ったら怖い」
「そうですね」
ミナが笑いをこらえきれず、小さく肩を揺らした。
「リオ、フローラ様をあまり困らせないでください」
「困ってない?」
フローラは少し考える。
「少し面白かったです」
「ならいい」
◇
午後。
フローラは淡い青のドレスの裾を少し持ち上げ、西庭の菜園へ向かった。
今日は長く歩かないよう、途中で一度、庭の椅子へ座って休んだ。昨日なら、菜園まで行きたい気持ちを優先して歩き続けたかもしれない。
けれど今日は、脚が重いと分かっている。
「少し休みます」
誰かに止められる前に、自分で言う。
ミナもリオも、急かさず隣で待った。
休んだあと、もう一度歩く。
菜園では、昨日話した庭師と、若い使用人が待っていた。
「フローラ様。お越しいただき、ありがとうございます」
「豆を見せてください」
庭師は菜園の奥へ案内した。
白い花をつけた豆の一部。
葉の表面へ、小さな淡黄色の斑点が散っている。
フローラは屈み込み、葉を近くで見た。
今日は汚れてもよいように、侍女から小さな敷き布を借りている。地面へ敷き、その上へ膝をついた。
「葉の裏を見てもよいですか」
「はい」
そっと葉を持ち上げる。
裏には、小さな白い虫が数匹ついていた。
「います」
リオも隣へ屈む。
「小さい」
「はい」
「取る?」
「全部を手で取るのは難しいです」
周りの葉も確認する。
斑点がある葉。
ない葉。
虫の数。
土の状態。
風通し。
「病気ではないと思います」
すぐに断定しそうになり、言い直す。
「今見た範囲では、虫が葉から養分を吸った跡に見えます」
庭師が頷く。
「どのようにすればよいでしょう」
「虫が多い葉は、他へ移る前に取り除いた方がよいと思います」
「葉ごとですか」
「はい。ただ、全部の葉を取ると豆が弱ります」
フローラは一枚ずつ確認する。
「虫が少ない葉は、水で流せるかもしれません。強くかけると茎が傷むので、弱く」
庭師が若い使用人へ指示を出す。
周囲では、王宮の侍女や護衛が少し離れて見ていた。
青い髪の公爵令嬢が、ドレスの膝へ布を敷き、豆の葉を裏返している。
通りかかった使用人たちも足を止め、何が起きているのかと小声で話していた。
「本当に畑を」
「森で暮らしているという話は」
「豆の虫を見ているの?」
声は聞こえた。
昨日までなら、見られていることへ身体が固くなったかもしれない。
今日は、目の前の葉を見る。
虫。
斑点。
新しい葉。
「この株は、まだ元気です」
フローラは言った。
「斑点があるからといって、全部を抜く必要はありません」
庭師が深く頷く。
「承知しました」
「明日の朝、また虫が増えていないか見てください」
「はい」
「それから、隣の株へ移っていないかも」
「記録いたします」
記録。
その言葉へ、フローラは少し笑った。
「私も書きます」
◇
作業を終えたあと、若い使用人が小さな木箱を持ってきた。
中には、菜園で採れたばかりの豆が入っている。
「少しではございますが、フローラ様へ」
「私に?」
「昨日、支柱のことを教えていただきましたので」
フローラは豆を見る。
森の青豆一号とは違う。
少し細く、色も薄い。
でも、王宮で育った豆。
「受け取ってもよいですか」
「もちろんでございます」
「今日の夕食へ使えますか」
庭師が驚いた。
「お召し上がりになるのですか」
「はい」
「王宮では、より上等な食材を」
「この豆を食べたいです」
自分が見た豆。
虫を確認した菜園で育った豆。
「料理人の方へ、お願いできますか」
「承知いたしました」
周囲で見ていた使用人たちから、小さなざわめきが広がる。
公爵令嬢が、使用人用の菜園の豆を食べる。
珍しいのだろう。
でも、フローラにとって豆は豆だった。
誰のために育てたかで、味が変わるわけではない。
◇
客室へ戻る頃には、脚がさらに重くなっていた。
フローラは部屋へ入ると、無理をせず長椅子へ腰を下ろした。
「今日は、もう歩きません」
自分から宣言する。
ミナが微笑む。
「はい」
リオは窓際の椅子へ座った。
「手紙、続き読む?」
フローラは机を見る。
白い封筒。
午前に二文読んだ。
今は疲れている。
「読みません」
すぐに答えられた。
「豆を見ました。歩きました。疲れました」
「うん」
「今日は二文で終わりです」
「うん」
手紙が見える。
続きが気になる。
それでも、読まない。
読みたい気持ちがないわけではない。
でも、今日の心にはもう十分入っている。
◇
夕食には、王宮の菜園で採れた豆が添えられていた。
柔らかく茹で、少量の塩と香草で味つけされている。
豪華な肉料理や白いパンの隣に、小さな豆の皿が置かれていた。
リオが最初に一つ食べる。
「どうですか」
フローラが尋ねる。
「うまい」
「森の豆と比べて?」
「少し柔らかい」
「はい」
「味は薄い」
「はい」
「でも甘い」
フローラも食べる。
噛むと、やさしい甘みが広がった。
「美味しいです」
侍女が少し驚いたように顔を上げる。
フローラは彼女へ向かって言った。
「庭師の方と、料理をしてくださった方へ、美味しかったと伝えてください」
「かしこまりました」
王宮の豆。
森の豆とは違う。
でも、美味しい。
王都に好きなものが一つ増えたからといって、森へ帰りたい気持ちが減るわけではない。
「王都の豆も、好きです」
フローラが言うと、リオが頷く。
「森のも?」
「はい」
「両方?」
「両方です」
◇
夕食を終えたあと、エドガーが再び客室を訪れた。
「フローラ様。公爵夫人へ、二文だけお読みになったことと、続きを読む時はまだ決めておられないことをお伝えしました」
胸が少し固くなる。
「母様は、何と?」
「ありがとうございます、と」
「それだけですか」
「はい」
ありがとうございます。
読んでくれて。
それとも、伝えてくれて。
どちらかは分からない。
「返事は?」
「ございません」
新しい手紙も。
会いたいという申し出も。
ない。
母様は、待っている。
「分かりました」
◇
夜。
フローラは記録紙を広げた。
今日は、母様の手紙を読んだ。
最初は一文だけと決めていた。
でも、二文読んだ。
一文目。
王都へ来てくれたと聞きました。
二文目。
あなたが私に会わないと決めたことも、聞いています。
フローラは母様の文をそのまま記録へ写したあと、少し間を空けた。
母様は、帰ってきたとも、戻ってきたとも書かなかった。
来てくれた、と書いた。
私が会わないことを、拒絶とは書かなかった。
決めた、と書いた。
嬉しかった。
でも、遅いと思った。
続きを読みたい気持ちもある。
怖い気持ちもある。
今日は、二文で止めた。
最初に決めた一文から、二文へ変えた。
でも、全部は読まなかった。
増やすことも、止めることも、自分で決めた。
午後は、王宮の豆を見た。
葉の斑点は、虫が原因に見えた。
今見た範囲では、と伝えた。
分からないことを、分かったことにしなかった。
夕食に、王宮の豆を食べた。
森の豆とは違う。
でも、美味しかった。
王都に美味しい豆があっても、森へ戻りたい気持ちは変わらない。
王都のすべてを嫌わなくても、森を選んでよい。
最後の一文を書いた時、フローラは筆を止めた。
王都のすべてを嫌わなくても、森を選んでよい。
以前の自分なら、どちらか一つにしなければならないと思ったかもしれない。
王都が嫌だから森へ行く。
森が好きなら王都を嫌わなければならない。
母様を許さないなら、母様の言葉を嬉しいと思ってはいけない。
怒っているなら、会いたいと思ってはいけない。
でも。
違う。
王都の豆を美味しいと思える。
国王陛下が話を聞いてくれたことへ感謝できる。
父様が待ったことも認められる。
母様の「来てくれた」を嬉しいと思える。
それでも、遅かったと怒っていていい。
森へ帰ると決めていていい。
◇
寝台へ入る前、フローラは机の上の手紙へ近づいた。
手を伸ばす。
けれど、封筒から取り出さない。
上から一度だけ、指で撫でる。
「今日は、二文です」
母様へ伝えるように言う。
「続きは、まだ待ってください」
手紙は何も答えない。
でも、消えない。
「おやすみなさい、母様」
昨日より、声が少しだけ近い。
「会うかどうかは、まだ決めません」
手紙を読んだからといって、会う約束にはならない。
二文受け取った。
今日は、それだけ。
「おやすみなさい、父様」
今日は会わなかった。
父様からも、会いたいという申し出はなかった。
「おやすみなさい、国王陛下」
昨日話を聞いてくれた人。
「おやすみなさい、王宮の豆」
言ったあと、自分で少し笑った。
リオが聞けば、豆にまで挨拶するのかと言うかもしれない。
でも、今日見た豆も、今日の一部だった。
最後に、村の毛布を胸まで引き上げる。
「おやすみなさい、森」
青豆一号。
アオジロウ。
ムラマル。
モリタン。
オカエリ。
キズナ。
子どもたち。
村のみんな。
思い浮かべる。
「今日は、母様の手紙を最後まで読みませんでした」
読み切らなかった。
逃げたのではない。
途中で止めると決めた。
「明日の私が、また決めます」
続きの一文を読むか。
読まないか。
母様へ会うか。
まだ会わないか。
すべてを今夜の自分が背負わなくていい。
母様の手紙は、机の上で待っている。
フローラは、読み終えることよりも、自分が受け取れる速さを選んだ。
その選択を胸へ置きながら、王都で迎える三度目の夜へ、ゆっくりと目を閉じた。




