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『青の姫君の森暮らし 〜化け物と恐れられた公爵令嬢は、今日も畑を耕します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第82話 青の姫君、母の手紙を最後まで読まない


 翌朝、フローラが目を覚ました時、王宮の窓には淡い光が差し込んでいた。


 厚いカーテンの隙間から伸びた光は、広い床の上を細く横切り、机の脚と椅子の影を長く引き延ばしている。夜のうちに火を落とした暖炉には、灰の下へわずかな赤みが残り、窓の外からは遠い鐘の音と、庭を整える箒の音が静かに届いていた。


 フローラは村から持ってきた毛布の中で、しばらく目を開けたまま動かなかった。


 王宮で迎える二度目の朝だった。


 昨日の朝よりも、目を覚ました直後の混乱は少ない。天蓋を見ても、ここがどこか分からなくなることはなかった。寝台の広さにも、部屋の高い天井にも、まだ落ち着くことはできないけれど、怖さの形だけは少し分かるようになっていた。


 ここは王宮。


 森の家ではない。


 けれど、閉じ込められているわけでもない。


 国王陛下へ六つの言葉を伝えた。


 話を終える時も、自分で決めた。


 今日は、昨日の続きではあるけれど、昨日と同じ日ではない。


 そこまで確かめたあとで、フローラの視線は机へ向かった。


 白い封筒が置かれている。


 昨夜、公爵夫人である母様から届けられた手紙。


 封は、まだ開けていない。


 昨日は読まないと決めた。国王陛下へ会い、六つの言葉を伝え、母様へは会わないと決めた。そのあとで手紙まで読めば、心の中へ入ってくるものが多すぎると感じたからだ。


 手紙は、待たせた。


 夜の間も、机の上で消えずに残っていた。


「……あります」


 フローラは小さく呟いた。


 読まなかったからといって、なくなってはいない。


 母様の言葉も、封筒の中で待っている。


 森にいた頃、母様から届いた手紙を一日一文だけ読むことを覚えた。読まない日もあった。続きを知りたくても、心が疲れていれば閉じた。読みたくない言葉があるかもしれないと怖くなれば、手紙を箱へ戻した。


 それでも、手紙は待っていた。


 昨日届いた新しい手紙も、同じだろうか。


 王都にいる母様が、今のフローラへ書いた手紙。


 森へ送られた長い手紙とは違う。


 この王宮から、馬車で遠くない公爵家の屋敷から届いたもの。


 書いた人が近くにいる。


 そのことが、封筒を以前より重くしていた。


 フローラは毛布の上から胸へ手を置いた。


 心臓は、まだ静かだった。


 机を見ると、少し速くなる。


「今日は、読むでしょうか」


 自分へ尋ねる。


 すぐに答えを出さない。


 寝台の上で決めなくてもいい。


 顔を洗ってからでもいい。


 朝食を食べてからでもいい。


 母様の手紙があるからといって、朝のすべてを手紙から始める必要はない。


「おはようございます」


 部屋へ向かって言う。


 それから、いつものように少し間を置いた。


「おはようございます、母様」


 机の上に、母様の手紙がある。


 呼びかけた声が、昨日より近くへ届くような気がした。


「今日は、手紙を読むかもしれません」


 会う、ではない。


 まず、読む。


 それも、全部とは限らない。


「決めるのは、朝食のあとにします」


 そう言ってから、フローラは寝台を降りた。


     ◇


 窓辺へ近づき、カーテンを半分だけ開く。


 朝の王都が広がっていた。


 屋根の間から煙が立ち上り、遠くの大通りではすでに荷車が動いている。王宮の庭では庭師たちが作業を始めており、昨日案内してもらった西庭の菜園には、二人の使用人が水桶を運んでいた。


 白い豆の花。


 昨日見た花が、朝露を受けているだろうか。


 ここからでは小さすぎて見えない。


 でも、ある。


「今日も、豆があります」


 母様の手紙とは関係のないことを言う。


 それだけで、少し呼吸が楽になった。


 世界は手紙だけではない。


 母様だけでもない。


 国王陛下との話だけでもない。


 王宮の庭には豆があり、庭師が水を運び、朝食の準備をしている人がいる。


 森では今頃、ガルドさんが畑を見ているかもしれない。サムたちは、王都へ向かったフローラがいない日も記録を続けているはずだ。


 すべてが止まって、フローラの返事を待っているわけではない。


 そのことが、少し安心だった。


     ◇


 扉が叩かれた。


「ミナです」


「入ってください」


 昨日よりも、答える声が早く出た。


 ミナが入ってくる。その後ろには、着替えを手伝う侍女が一人だけいた。


「おはようございます、フローラ様」


「おはようございます」


「昨夜はお休みになれましたか」


「はい。昨日よりは」


「昨日よりは、ですか」


「一度、鐘の音で目を覚ましました。でも、ここが王宮だと分かりました」


 昨日までなら、眠れました、とだけ答えていたかもしれない。


 けれど今は、少しずつ詳しく言える。


 眠れた。


 途中で起きた。


 でも、怖くて朝まで眠れなかったわけではない。


「お身体に痛みや強い疲れはございますか」


「脚が少し重いです」


「昨日、庭を歩かれましたからね」


「はい。でも、歩けないほどではありません」


「承知しました」


 ミナはフローラの言葉をそのまま受け取ったあと、机の上の封筒へ目を向けた。


 視線だけ。


 読むのですか、と聞かない。


 母様からの手紙ですよ、と急かさない。


 フローラは、その待ち方に少し安心した。


「ミナ」


「はい」


「昨日の手紙は、まだそこにあります」


「はい」


「夜の間に、読まなければならないような気持ちになりました」


「はい」


「母様が待っていると思って」


 ミナはしばらく黙っていた。


 すぐに、それでも読まなくてよい、と答えない。


「母様が待っていることと、フローラ様が今すぐ読むことは、同じでしょうか」


 静かな問いだった。


「……同じではありません」


「はい」


「母様は、手紙を書きました」


「はい」


「私は、いつ読むかを決めます」


「はい」


 昨日、国王陛下から聞いた言葉に似ている。


 会いたい気持ちは、母様のもの。


 会うかどうかは、フローラのもの。


 手紙を書きたい気持ちは、母様のもの。


 読む時を決めるのは、フローラ。


「朝食のあとに、読みたいか考えます」


「それがよいと思います」


     ◇


 その日の衣装は、淡い青の簡素なドレスを選んだ。


 国王陛下との面会はない。


 父様とも母様とも、まだ約束していない。


 王宮内で過ごすための服。


 侍女が三着を用意したが、フローラは一つずつ見たあと、自分で青を選んだ。


 昔の自分なら、青い髪に青い服を合わせることを嫌がったかもしれない。


 青が目立つ。


 青の姫君と呼ばれる。


 髪も服も青ければ、さらに見られる。


 けれど、今日の青は淡かった。


 朝の空に近い色。


 森の家の窓から見た、雨上がりの空のような色。


「今日は、青にします」


「かしこまりました」


 花守り布も身につけた。


 正装ではないから、頭全体を覆うようにかぶる。


 内側の袋へ触れる。


 六つの言葉。


 木の実。


 そして、机の上には母様の手紙。


 手紙を花守り布へ入れることはしなかった。


 まだ、自分の中へ持っていくと決めていないから。


     ◇


 朝食の部屋では、リオが窓の近くに立ち、王宮の庭を見下ろしていた。


「おはようございます」


「おはよう」


「今日は、食べる前に窓を見る日ですか」


「豆」


「豆?」


「昨日の豆」


 リオが窓の外を指す。


 ここからも西庭の菜園の一部が見える。


「見えますか」


「たぶん、あれ」


「小さいですね」


「でも豆」


「はい」


 ミナも席へ着いた。


 朝食には焼いたパン、卵、野菜のスープ、それに少量の果物が並んでいる。


 リオは席へ座るなり、パンを手に取った。


「今日は誰に会うの」


 あまりにも早く尋ねられ、フローラは匙を取る手を止めた。


「まだ決めていません」


「王様は昨日」


「はい」


「公爵は会った」


「はい」


「残りは母親?」


 胸が固くなる。


 リオに悪気はない。


 順番を数えているだけ。


 それでも、母様という言葉は胸の奥へ深く入る。


「そうなります」


「今日?」


 フローラはすぐには答えなかった。


 ミナがリオを見る。


「急かしてはいけません」


「聞いただけ」


「聞かれることで、決めなければならないように感じることもあります」


「あ」


 リオがフローラを見る。


「ごめん」


 すぐに謝る。


 その早さへ、フローラは少し驚いた。


「大丈夫です」


 言ってから、自分の胸へ聞く。


 少し固くなった。


 でも、強く傷ついたわけではない。


「少し驚きました。でも、大丈夫です」


「うん」


「今日は、まず手紙を読むかどうかを決めます」


「手紙?」


「母様から、昨日届きました」


 リオは机の上にはない封筒を探すように周囲を見る。


「読んでない?」


「はい」


「なんで」


「昨日は、国王陛下へ会ったので」


「疲れた?」


「はい」


「なら今日?」


「それを、今から決めます」


 リオは少し考えたあと、頷いた。


「分かった」


 以前のリオなら、読めばいい、と言ったかもしれない。


 でも今は、待つことを覚えている。


 フローラだけではない。


 リオも、ミナも。


 森で一緒に過ごす中で、少しずつ変わっている。


     ◇


 朝食を食べながら、フローラは母様の手紙について考えた。


 封を開ける。


 最初の一文だけ読む。


 それとも、今日は触れない。


 いくつかの選択がある。


「手紙を読む時、二人にいてほしいです」


 フローラが言うと、ミナが頷いた。


「はい」


 リオもパンを飲み込んでから答える。


「いる」


「でも、読むのは私です」


「うん」


「内容を声に出すかは、まだ決めません」


「うん」


 そばにいてほしい。


 でも、手紙は自分で読む。


 必要なら、内容を伝える。


 全部を共有しなくてもいい。


「朝食のあと、部屋で開けます」


 決めた瞬間、胸が大きく鳴った。


 怖い。


 でも、逃げたいだけではない。


 読みたい気持ちもある。


「全部は読みません」


 続ける。


「一文だけですか」


 ミナが尋ねた。


「はい」


 森で覚えた読み方。


 母様の手紙を一度に全部受け取らない。


「一文を読んで、そのあとを決めます」


「承知しました」


     ◇


 朝食を終え、三人はフローラの客室へ戻った。


 机の上には、白い封筒が置かれている。


 朝の光を受け、封蝋の紋章がはっきり見えた。


 スプリング公爵家の紋章ではない。


 花を三つ組み合わせた、母様個人の印。


 森へ届いた手紙にも、同じ印が押されていた。


 フローラは椅子へ座った。


 ミナは少し離れた場所へ椅子を置き、リオは窓辺に立つ。二人とも、封筒を覗き込まない。


「近くにいてください」


 フローラが言う。


 リオが窓辺から離れ、机の端に近い椅子へ座った。


 ミナも少しだけ距離を縮める。


 それでも、手紙の文字が見えるほど近くはない。


 フローラは封筒へ手を伸ばした。


 指先が少し震える。


 昨日届いた。


 一晩待たせた。


 母様は、今頃どうしているだろう。


 返事を待っているのだろうか。


 手紙を読んだか、王宮へ尋ねているだろうか。


 そう思った瞬間、胸が苦しくなる。


「今は、母様のことではなく」


 フローラは小さく言った。


「私が読むかどうかです」


 封筒へ触れる。


 冷たい紙。


 開けてもいい。


 開けなくてもいい。


 今は、開けたい。


「開けます」


 誰へでもなく告げてから、封蝋の端へ指をかけた。


 無理に剥がすと紙が破れそうだったため、ミナが用意してくれた小さな紙切り用の刃を使う。


 薄い音がして、封が開いた。


 胸が強く鳴る。


 中には、一枚だけ紙が入っていた。


 森へ届いていた手紙よりも短い。


 そのことに、少し安心する。


 でも、短いから最後まで読まなければならないわけではない。


 フローラは紙を取り出し、折り目を一つだけ開いた。


 母様の字。


 見覚えのある、少し細く、丁寧な文字。


 最初の一行。


 フローラは目で追った。


『王都へ来てくれたと聞きました。』


 そこで、止めた。


 胸が痛む。


 来てくれた。


 帰ってきた、ではない。


 戻ってきた、でもない。


 来てくれた。


 母様は、王都をフローラの帰る場所だと決めていない。


 国王陛下から聞いたのだろうか。


 それとも、自分でその言葉を選んだのだろうか。


「読みました」


 声が少し震えた。


 ミナは内容を尋ねず、ただ頷いた。


「はい」


「最初の一文だけです」


「はい」


 リオも黙っている。


 フローラは紙を見たまま、呼吸を整えた。


『王都へ来てくれたと聞きました。』


 来てくれた。


 感謝の言葉のように見える。


 でも、来るよう命じた人の言葉ではない。


 母様は、王都へ来たことを受け取っている。


「母様は、おかえりなさいと書きませんでした」


 フローラは言った。


 ミナが静かに答える。


「はい」


「戻ってきた、とも」


「はい」


「来てくれた、と」


 胸が熱くなる。


 嬉しい。


 でも、そのまま嬉しいだけではない。


 なぜ今になって、その言葉を選べるのか。


 昔、王都にいた時は、フローラのいることを受け取ってくれなかったのに。


 怒りもある。


「嬉しいです」


 フローラは正直に言った。


「はい」


「でも、遅いです」


「はい」


「昨日、父様へ言ったのと同じです」


「はい」


 嬉しい。


 遅い。


 両方。


「続きを、読みたいです」


 口にすると、胸がさらに速くなる。


 読みたい。


 でも、一文だけと決めた。


 決めたことを変えてはいけないのだろうか。


「一文だけと決めました」


 フローラが言うと、リオが首を傾げた。


「読みたいなら読めば?」


「でも、決めました」


「変えたら駄目なの?」


 昨日、六つの言葉についてミナから言われたことを思い出す。


 決めた言葉も、変えていい。


 言葉のために、自分を縛る必要はない。


「変えてもよいです」


「うん」


「でも」


 今、本当に続きを読みたいのか。


 それとも、早く全部を終わらせたいだけなのか。


 読まないまま残ることが怖くて、先へ進もうとしていないだろうか。


 フローラは紙を見つめた。


 次の行は、折り目の下へ隠れている。


 開けば読める。


「少し待ちます」


 紙を机へ置く。


 両手を膝へ重ねる。


 一つ目の文。


 王都へ来てくれたと聞きました。


 それだけを胸へ置く。


 母様の言葉を、すぐに次の言葉で上書きしない。


 一文へ滞在する。


「来てくれた、と書かれています」


 もう一度言う。


「はい」


「母様は、私が来たことを、母様のためだと思っているでしょうか」


 ミナはすぐには答えない。


「手紙の続きを読まなければ、分からないかもしれません」


「はい」


「でも、今の一文だけでは、そうとは書かれていません」


「はい」


 母様のために来た。


 会いに来た。


 屋敷へ戻るために来た。


 どれも書かれていない。


 王都へ来たと聞いた。


 それだけ。


「私は、話すために来ました」


「はい」


「森へ戻るために」


「はい」


 母様の一文が、フローラの目的を変えるわけではない。


「今日は、もう一文読みます」


 フローラは言った。


 一文だけという最初の決定を、二文へ変える。


 全部ではない。


 今の自分が受け取れそうな分だけ。


 紙の折り目を、もう少し開く。


 二つ目の文が見える。


『あなたが私に会わないと決めたことも、聞いています。』


 胸が固くなった。


 母様は知っている。


 昨日、フローラが会わないと決めたことを。


 責める言葉ではない。


 悲しいとも書いていない。


 ただ、聞いている。


 それでも、次の文が怖い。


 残念です。


 悲しいです。


 母親なのに。


 会ってください。


 そう続くかもしれない。


「……怖いです」


 フローラの声が震えた。


 ミナが立ち上がりかける。


「そばへ参りましょうか」


「はい」


 ミナが隣へ座る。


 触れてよいかを聞くように、少しだけ手を伸ばす。


 フローラは自分から、その手を握った。


 温かい。


 リオも椅子を机へ近づけた。


「読む?」


 フローラは首を横へ振った。


「今日は、ここまでにします」


 続きが怖い。


 それだけではない。


 二つ目の一文を、まだ受け取れていない。


 あなたが私に会わないと決めたことも、聞いています。


 母様は、決めた、と書いた。


 会わなかった。


 拒んだ。


 逃げた。


 そうではなく。


 決めた。


「母様は、私が決めたと書いています」


 フローラが言うと、ミナが頷いた。


「はい」


「会わないことを、私が選んだと」


「はい」


「悪い娘だとは、書いていません」


「はい」


 まだ二文だけ。


 この先に何が書かれているかは分からない。


 それでも、二文の中には、フローラの選択を否定する言葉はなかった。


「今日は、二文読みました」


「はい」


「最初は、一文の予定でした」


「はい」


「でも、二文へ変えました」


「はい」


「全部は読みません」


「はい」


 自分で増やした。


 自分で止めた。


 どちらもできた。


 フローラは手紙を丁寧に折り直した。


 封筒へ戻す。


 封蝋はすでに切れている。


 もう、開いている手紙。


 でも、読んだのは二文だけ。


「机へ置きます」


 花守り布の内側には入れない。


 まだ、一日中持ち歩きたいとは思わない。


 机の上。


 見える場所。


 でも、すぐに読まなくてもよい場所。


     ◇


 手紙を読み終えたあと、フローラはしばらく椅子から立てなかった。


 泣いてはいない。


 けれど、胸の中に重さがある。


 母様の字を見た。


 今の母様が書いた言葉を読んだ。


 会わないと決めたことを、母様は知っている。


 その事実だけで、昨日より母様が近くなった。


 会ってはいない。


 それでも、近い。


「疲れました」


 フローラが言うと、リオが頷いた。


「二文だけなのに?」


「はい」


「文字、少ない」


「心の中では、多いです」


 リオは少し考えたあと、手紙を見る。


「重い?」


「はい」


「紙は軽い」


「はい」


「変なの」


「本当ですね」


 少しだけ笑える。


 その笑いで、部屋の空気が柔らかくなった。


「何か、別のことをしたいです」


 フローラは窓の外を見る。


 菜園。


 豆。


 でも今日は脚が少し重い。


「歩かずにできることはありますか」


 ミナが考える。


「昨日見た豆の記録をまとめてはいかがでしょう」


「王宮の豆ですか」


「はい」


 昨日は見るだけだった。


 葉の色。


 花。


 茎の細さ。


 支柱の必要。


 記録にできる。


「書きます」


     ◇


 フローラは新しい紙を用意してもらった。


 王宮西庭菜園。


 白花の豆。


 葉色は安定。


 茎はやや細い。


 花がついている。


 風への対策として、支柱を早めに立ててもよい。


 土の水分は、見た範囲では多すぎない。


 実際に根元へ触れていないため、断定しない。


 最後の一文を書いたあと、フローラは紙を見つめた。


「断定しない」


 植物の記録では、以前から気をつけていることだった。


 見ていないことを、見たように書かない。


 分からないことを、分かったように決めない。


 昨日、国王陛下へ伝えた五つ目の言葉にも似ている。


「手紙も、同じです」


 ミナが尋ねる。


「何がでしょう」


「二文しか読んでいないのに、母様の気持ちを全部決めない」


「はい」


「謝りたいのかもしれません」


「はい」


「会いたいだけかもしれません」


「はい」


「私へ戻ってほしいのかもしれません」


「はい」


「でも、まだ分かりません」


 読んでいない部分を、怖さだけで埋めない。


 良い言葉だと期待だけで決めない。


「分からないままにします」


「それがよいと思います」


     ◇


 昼前になると、エドガーが客室を訪れた。


 今日はフローラの予定を確認するためだという。


「フローラ様。本日、陛下からの面会のご希望はございません。昨日のお疲れをお取りいただきたいとのことです」


「はい」


「公爵閣下からも、ご面会の申し出はございません」


 父様。


 昨日、今日はもう会わないと決めたことが伝わっているのだろう。


「母様は?」


 尋ねたあと、胸が少し速くなる。


 エドガーは静かに答えた。


「公爵夫人からも、申し出はございません」


「手紙を読んだかどうかは、聞かれましたか」


「いいえ」


 フローラは驚いた。


「本当に?」


「はい。お届けできたかだけを確認されました」


「読んだかは?」


「尋ねられておりません」


 母様は待っている。


 本当に。


 少なくとも、今は急かしていない。


「二文だけ読みました」


 なぜか、エドガーへ伝えたくなった。


「そうでございましたか」


「母様へ、伝わりますか」


「フローラ様がお望みであれば」


 伝える。


 伝えない。


 また選べる。


 母様は、読んだか聞いていない。


 なら、あえて伝えなくてもよいのかもしれない。


 でも。


「二文読んだことだけ、伝えてください」


「承知いたしました」


「内容は、言わないでください」


「もちろんでございます」


「続きをいつ読むかも、まだ決めていません」


「そのままお伝えいたしますか」


 フローラは考えた。


「はい」


 母様へ。


 二文だけ読んだ。


 続きをいつ読むかは、まだ決めていない。


 それだけ。


 返事を求めない。


「それから」


 エドガーが続ける。


「本日の午後、西庭の菜園を管理する者から、フローラ様へご相談したいことがあるそうです」


 フローラの表情が自然に明るくなる。


「豆ですか」


「豆でございます」


「何でしょう」


「葉に小さな斑点が見つかったとのことです」


 胸の中にあった手紙の重さが、一瞬だけ別の場所へ動いた。


「見に行きます」


 すぐに言い、脚の重さを思い出す。


「でも、少し休んでからにします」


 エドガーが頷いた。


「午後の早い時間でよろしいでしょうか」


「はい」


 母様の手紙を二文読んだ日。


 午後は、豆の斑点を見る。


 それでいい。


     ◇


 昼食は三人で客室に用意してもらった。


 温かな鶏肉の煮込みと、柔らかなパン、根菜の和え物。


 リオは肉を食べながら、手紙のことではなく豆の話をしていた。


「斑点って、病気?」


「まだ分かりません」


「虫?」


「分かりません」


「水?」


「それも、見なければ分かりません」


「全部分からない」


「はい」


「でも見たら?」


「少しは分かるかもしれません」


「手紙と同じ?」


 突然言われ、フローラは匙を止めた。


「似ています」


「読まないと分からない」


「はい」


「でも、読んでも全部は分からない?」


「はい」


 母様の言葉を全部読んでも、母様の心が全部分かるわけではない。


 豆の葉を見ても、すぐに原因が分からないことがある。


 似ている。


 でも、同じではない。


「豆は、私へ会いたいとは言いません」


「言ったら怖い」


「そうですね」


 ミナが笑いをこらえきれず、小さく肩を揺らした。


「リオ、フローラ様をあまり困らせないでください」


「困ってない?」


 フローラは少し考える。


「少し面白かったです」


「ならいい」


     ◇


 午後。


 フローラは淡い青のドレスの裾を少し持ち上げ、西庭の菜園へ向かった。


 今日は長く歩かないよう、途中で一度、庭の椅子へ座って休んだ。昨日なら、菜園まで行きたい気持ちを優先して歩き続けたかもしれない。


 けれど今日は、脚が重いと分かっている。


「少し休みます」


 誰かに止められる前に、自分で言う。


 ミナもリオも、急かさず隣で待った。


 休んだあと、もう一度歩く。


 菜園では、昨日話した庭師と、若い使用人が待っていた。


「フローラ様。お越しいただき、ありがとうございます」


「豆を見せてください」


 庭師は菜園の奥へ案内した。


 白い花をつけた豆の一部。


 葉の表面へ、小さな淡黄色の斑点が散っている。


 フローラは屈み込み、葉を近くで見た。


 今日は汚れてもよいように、侍女から小さな敷き布を借りている。地面へ敷き、その上へ膝をついた。


「葉の裏を見てもよいですか」


「はい」


 そっと葉を持ち上げる。


 裏には、小さな白い虫が数匹ついていた。


「います」


 リオも隣へ屈む。


「小さい」


「はい」


「取る?」


「全部を手で取るのは難しいです」


 周りの葉も確認する。


 斑点がある葉。


 ない葉。


 虫の数。


 土の状態。


 風通し。


「病気ではないと思います」


 すぐに断定しそうになり、言い直す。


「今見た範囲では、虫が葉から養分を吸った跡に見えます」


 庭師が頷く。


「どのようにすればよいでしょう」


「虫が多い葉は、他へ移る前に取り除いた方がよいと思います」


「葉ごとですか」


「はい。ただ、全部の葉を取ると豆が弱ります」


 フローラは一枚ずつ確認する。


「虫が少ない葉は、水で流せるかもしれません。強くかけると茎が傷むので、弱く」


 庭師が若い使用人へ指示を出す。


 周囲では、王宮の侍女や護衛が少し離れて見ていた。


 青い髪の公爵令嬢が、ドレスの膝へ布を敷き、豆の葉を裏返している。


 通りかかった使用人たちも足を止め、何が起きているのかと小声で話していた。


「本当に畑を」


「森で暮らしているという話は」


「豆の虫を見ているの?」


 声は聞こえた。


 昨日までなら、見られていることへ身体が固くなったかもしれない。


 今日は、目の前の葉を見る。


 虫。


 斑点。


 新しい葉。


「この株は、まだ元気です」


 フローラは言った。


「斑点があるからといって、全部を抜く必要はありません」


 庭師が深く頷く。


「承知しました」


「明日の朝、また虫が増えていないか見てください」


「はい」


「それから、隣の株へ移っていないかも」


「記録いたします」


 記録。


 その言葉へ、フローラは少し笑った。


「私も書きます」


     ◇


 作業を終えたあと、若い使用人が小さな木箱を持ってきた。


 中には、菜園で採れたばかりの豆が入っている。


「少しではございますが、フローラ様へ」


「私に?」


「昨日、支柱のことを教えていただきましたので」


 フローラは豆を見る。


 森の青豆一号とは違う。


 少し細く、色も薄い。


 でも、王宮で育った豆。


「受け取ってもよいですか」


「もちろんでございます」


「今日の夕食へ使えますか」


 庭師が驚いた。


「お召し上がりになるのですか」


「はい」


「王宮では、より上等な食材を」


「この豆を食べたいです」


 自分が見た豆。


 虫を確認した菜園で育った豆。


「料理人の方へ、お願いできますか」


「承知いたしました」


 周囲で見ていた使用人たちから、小さなざわめきが広がる。


 公爵令嬢が、使用人用の菜園の豆を食べる。


 珍しいのだろう。


 でも、フローラにとって豆は豆だった。


 誰のために育てたかで、味が変わるわけではない。


     ◇


 客室へ戻る頃には、脚がさらに重くなっていた。


 フローラは部屋へ入ると、無理をせず長椅子へ腰を下ろした。


「今日は、もう歩きません」


 自分から宣言する。


 ミナが微笑む。


「はい」


 リオは窓際の椅子へ座った。


「手紙、続き読む?」


 フローラは机を見る。


 白い封筒。


 午前に二文読んだ。


 今は疲れている。


「読みません」


 すぐに答えられた。


「豆を見ました。歩きました。疲れました」


「うん」


「今日は二文で終わりです」


「うん」


 手紙が見える。


 続きが気になる。


 それでも、読まない。


 読みたい気持ちがないわけではない。


 でも、今日の心にはもう十分入っている。


     ◇


 夕食には、王宮の菜園で採れた豆が添えられていた。


 柔らかく茹で、少量の塩と香草で味つけされている。


 豪華な肉料理や白いパンの隣に、小さな豆の皿が置かれていた。


 リオが最初に一つ食べる。


「どうですか」


 フローラが尋ねる。


「うまい」


「森の豆と比べて?」


「少し柔らかい」


「はい」


「味は薄い」


「はい」


「でも甘い」


 フローラも食べる。


 噛むと、やさしい甘みが広がった。


「美味しいです」


 侍女が少し驚いたように顔を上げる。


 フローラは彼女へ向かって言った。


「庭師の方と、料理をしてくださった方へ、美味しかったと伝えてください」


「かしこまりました」


 王宮の豆。


 森の豆とは違う。


 でも、美味しい。


 王都に好きなものが一つ増えたからといって、森へ帰りたい気持ちが減るわけではない。


「王都の豆も、好きです」


 フローラが言うと、リオが頷く。


「森のも?」


「はい」


「両方?」


「両方です」


     ◇


 夕食を終えたあと、エドガーが再び客室を訪れた。


「フローラ様。公爵夫人へ、二文だけお読みになったことと、続きを読む時はまだ決めておられないことをお伝えしました」


 胸が少し固くなる。


「母様は、何と?」


「ありがとうございます、と」


「それだけですか」


「はい」


 ありがとうございます。


 読んでくれて。


 それとも、伝えてくれて。


 どちらかは分からない。


「返事は?」


「ございません」


 新しい手紙も。


 会いたいという申し出も。


 ない。


 母様は、待っている。


「分かりました」


     ◇


 夜。


 フローラは記録紙を広げた。


 今日は、母様の手紙を読んだ。


 最初は一文だけと決めていた。


 でも、二文読んだ。


 一文目。


 王都へ来てくれたと聞きました。


 二文目。


 あなたが私に会わないと決めたことも、聞いています。


 フローラは母様の文をそのまま記録へ写したあと、少し間を空けた。


 母様は、帰ってきたとも、戻ってきたとも書かなかった。


 来てくれた、と書いた。


 私が会わないことを、拒絶とは書かなかった。


 決めた、と書いた。


 嬉しかった。


 でも、遅いと思った。


 続きを読みたい気持ちもある。


 怖い気持ちもある。


 今日は、二文で止めた。


 最初に決めた一文から、二文へ変えた。


 でも、全部は読まなかった。


 増やすことも、止めることも、自分で決めた。


 午後は、王宮の豆を見た。


 葉の斑点は、虫が原因に見えた。


 今見た範囲では、と伝えた。


 分からないことを、分かったことにしなかった。


 夕食に、王宮の豆を食べた。


 森の豆とは違う。


 でも、美味しかった。


 王都に美味しい豆があっても、森へ戻りたい気持ちは変わらない。


 王都のすべてを嫌わなくても、森を選んでよい。


 最後の一文を書いた時、フローラは筆を止めた。


 王都のすべてを嫌わなくても、森を選んでよい。


 以前の自分なら、どちらか一つにしなければならないと思ったかもしれない。


 王都が嫌だから森へ行く。


 森が好きなら王都を嫌わなければならない。


 母様を許さないなら、母様の言葉を嬉しいと思ってはいけない。


 怒っているなら、会いたいと思ってはいけない。


 でも。


 違う。


 王都の豆を美味しいと思える。


 国王陛下が話を聞いてくれたことへ感謝できる。


 父様が待ったことも認められる。


 母様の「来てくれた」を嬉しいと思える。


 それでも、遅かったと怒っていていい。


 森へ帰ると決めていていい。


     ◇


 寝台へ入る前、フローラは机の上の手紙へ近づいた。


 手を伸ばす。


 けれど、封筒から取り出さない。


 上から一度だけ、指で撫でる。


「今日は、二文です」


 母様へ伝えるように言う。


「続きは、まだ待ってください」


 手紙は何も答えない。


 でも、消えない。


「おやすみなさい、母様」


 昨日より、声が少しだけ近い。


「会うかどうかは、まだ決めません」


 手紙を読んだからといって、会う約束にはならない。


 二文受け取った。


 今日は、それだけ。


「おやすみなさい、父様」


 今日は会わなかった。


 父様からも、会いたいという申し出はなかった。


「おやすみなさい、国王陛下」


 昨日話を聞いてくれた人。


「おやすみなさい、王宮の豆」


 言ったあと、自分で少し笑った。


 リオが聞けば、豆にまで挨拶するのかと言うかもしれない。


 でも、今日見た豆も、今日の一部だった。


 最後に、村の毛布を胸まで引き上げる。


「おやすみなさい、森」


 青豆一号。


 アオジロウ。


 ムラマル。


 モリタン。


 オカエリ。


 キズナ。


 子どもたち。


 村のみんな。


 思い浮かべる。


「今日は、母様の手紙を最後まで読みませんでした」


 読み切らなかった。


 逃げたのではない。


 途中で止めると決めた。


「明日の私が、また決めます」


 続きの一文を読むか。


 読まないか。


 母様へ会うか。


 まだ会わないか。


 すべてを今夜の自分が背負わなくていい。


 母様の手紙は、机の上で待っている。


 フローラは、読み終えることよりも、自分が受け取れる速さを選んだ。


 その選択を胸へ置きながら、王都で迎える三度目の夜へ、ゆっくりと目を閉じた。

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