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『青の姫君の森暮らし 〜化け物と恐れられた公爵令嬢は、今日も畑を耕します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第81話 青の姫君、会う順番を自分で決める


 翌朝、フローラが目を覚ました時、最初に感じたのは、寝台の広さだった。


 目を開ける前から、身体の周りに余白が多いことが分かる。いつもの森の家なら、腕を少し伸ばせば壁に近い空気を感じられた。寝返りを打てば毛布の端がずれ、窓から入る朝の風が頬へ触れる。


 けれど、王宮の寝台は広すぎた。


 村から持ってきた毛布は胸の上にきちんと残っているのに、その外側には冷えた空間が大きく広がっていた。見慣れない天蓋の布が頭上に垂れ、まだ薄暗い部屋の中で、重い影を作っている。


 フローラはすぐには起き上がらなかった。


 ここは、王宮。


 昨日、王都の門をくぐった。


 父様へ会った。


 王宮の客室へ入り、森の毛布を寝台へ広げた。


 それから夜になり、眠った。


 記憶を一つずつ確かめる。


 夢ではない。


「……朝です」


 小さく声にすると、その音が部屋の広さへ吸い込まれていった。


 森の家では、自分の声が壁へ近く返ってくる。ここでは、言葉が遠くまで行ってしまう。


 その違いへ、胸の奥が少し不安になる。


 けれど。


 毛布には、かすかに煙と乾いた草の匂いが残っている。


 枕元には花守り布が置いてある。


 内側の小さな袋には、六つの言葉と、茶屋の女の子からもらった木の実が入っている。


 目に見える形で、森のものがある。


 フローラは毛布の上から胸へ手を置いた。


 昨日ほど速くはない。


 でも、落ち着いているとも言えない。


 今日、国王陛下との面会があるかもしれない。


 昨日、王宮侍従次長のエドガーは、フローラの体調を確認した上で、日程を整えると言っていた。


 つまり。


 今日、会えますかと聞かれる。


 国王陛下が待っている。


 父様も、母様も王都にいる。


 昨日は父様へ会った。


 母様には会わなかった。


 今日は。


「今日は、今日の私が決めます」


 昨夜も同じことを言った。


 朝になっても、その言葉をもう一度必要としている。


 決めたことは、一度言えば終わりではない。


 怖くなるたびに、何度でも確かめていい。


「国王陛下へ、会うかどうか」


 会いたくないわけではない。


 逃げたいだけでもない。


 話さなければならないことがある。


 森で暮らしたい。


 住む場所は、自分も決めたい。


 婚姻は今は望まない。


 公爵家をどうするかは、まだ分からない。


 分からないことを、今すぐ決めたことにしない。


 森へ戻る。


 六つの言葉。


 昨日の自分は、それを持って王都へ入った。


 今日の自分は、その言葉を誰かへ渡さなければならない。


 思った瞬間、胸が固くなる。


 渡す。


 聞かれる。


 返事をされる。


 認めてもらえるかもしれない。


 否定されるかもしれない。


「……怖いです」


 誰もいない部屋で、正直に言う。


 それでも、昨日、父様へ言えた。


 遅い。


 屋敷にいた時に見てほしかった。


 私は娘だった。


 人だった。


 あれを言えた自分が、今日もいる。


「おはようございます」


 まだ閉じたままのカーテンへ向かって言う。


「おはようございます、母様」


 胸が、少しだけ強く痛んだ。


 母様は、同じ王都にいる。


 王宮から公爵家までは、森の家から村へ向かうよりも近いかもしれない。


 それでも、会う距離はまだ遠い。


「今日、会うかどうかは、まだ決めません」


 母様へ会う。


 国王陛下へ会う。


 父様へもう一度会う。


 全部を同じ日にしなくてもいい。


「順番を、私が決めます」


 その言葉を口にした時、フローラはようやく上半身を起こした。


     ◇


 寝台を降り、窓辺まで歩く。


 厚いカーテンへ手をかけたまま、少し迷った。


 昨日、王都の中へ入る時、カーテンを半分だけ閉めた。


 全部見たくない。


 でも、全部から隠れたくもない。


 今日はどうするだろう。


 少しだけ開く。


 朝の光が細い線になって、部屋の床へ落ちた。


 明るすぎる。


 フローラは目を細める。


 それでも、もう少しだけカーテンを開いた。


 高い窓の向こうには、王都の屋根が広がっていた。


 昨日の夕方とは違う。


 朝の王都は、白い煙と薄い青の空に包まれている。遠くでは鐘が鳴り、屋根の隙間を縫うように鳥が飛んでいた。


 王宮の庭では、すでに庭師たちが働いている。


 長い柄の箒で石畳を掃く者。


 花壇の縁へ膝をつき、土の状態を確かめる者。


 噴水の水路を覗き込む者。


 その姿へ、フローラの目が自然に止まった。


 花壇。


 昨日も思った。


 整っている。


 美しい。


 でも、どこにも豆がない。


 食べられるものがない。


「本当に、少しだけなら」


 豆を植えてもよい場所があるのではないか。


 王宮の庭へ勝手に畑を作ることはできない。


 それは分かっている。


 でも、考えるだけなら自由だった。


 花壇の端。


 陽当たり。


 土の色。


 水路からの距離。


 気づけば、国王陛下への面会より、豆を植える場所を考えている。


 フローラは小さく笑った。


「私は、まだいます」


 森で畑を見ていた自分。


 土の色で水分を考える自分。


 葉の形を見て、何を植えられるか考える自分。


 王宮の部屋で目を覚ましても、消えていない。


     ◇


 扉が控えめに叩かれた。


 身体がわずかに固くなる。


 王宮の部屋。


 知らない誰か。


 昨日なら、それだけで声が出なかったかもしれない。


「どなたですか」


 フローラが尋ねる。


「ミナです。お目覚めでしょうか」


 胸の力が抜けた。


「はい。入ってください」


 扉が開き、ミナが朝の服装で入ってきた。


 後ろには、昨日着替えを手伝ってくれた侍女が一人だけ立っている。


 数が少ない。


 フローラが昨日、必要な人数まで減らしてほしいと頼んだからだ。


 そのことに気づき、少しだけ安心する。


「おはようございます、フローラ様」


「おはようございます」


「お身体はいかがですか」


 大丈夫です。


 いつもの言葉が、すぐに出そうになる。


 けれど、フローラは一度息を吸った。


「少し、緊張しています」


「はい」


「寝台が広くて、何度か目を覚ましました」


「はい」


「でも、眠れなかったわけではありません」


 ミナは静かに頷いた。


「では、完全にお疲れが取れたわけではないけれど、動けないほどではないのですね」


「はい」


 正確に言葉へしてもらうと、自分の状態が少し分かりやすくなる。


「朝食の前に、エドガー様からご伝言がございます」


 胸が少し固くなる。


「国王陛下ですか」


「はい」


 ミナは急がずに続けた。


「陛下は、本日の午前、午後、どちらも予定を空けておられるそうです」


 フローラは目を見開いた。


「両方?」


「はい。フローラ様がお会いになれる時を選べるように、と」


 国王陛下が。


 国の頂点に立つ人が。


 午前も午後も空けている。


 それはフローラへ選ばせるため。


 胸が苦しくなる。


 待たせている。


 陛下の時間を、自分が止めている。


「すぐに決めなければ」


 言いかけたフローラへ、ミナが静かに首を横へ振った。


「朝食のあとでよいそうです」


「でも」


「陛下ご自身が、急がせないようにと仰ったそうです」


 急がせない。


 待つ。


 王都へ戻ってから、何度も聞くようになった言葉。


 父様も昨日、待った。


 国王陛下も待つ。


 以前なら、考えられなかった。


「午後にしたら、陛下の予定をさらに空けさせることになります」


「すでに空けておられます」


「でも」


「フローラ様」


 ミナの声は柔らかい。


「陛下が選ばれたことまで、フローラ様が背負わなくてよいのではありませんか」


 フローラは言葉を止めた。


「陛下が、時間を空けると決めた」


「はい」


「私が、決めたのではありません」


「はい」


「私が悪いわけではない?」


「はい」


 王の時間。


 国の予定。


 大切なもの。


 それでも、国王陛下が自分で選んだ。


 フローラが奪ったのではない。


「……朝食のあとに決めます」


「それでよいと思います」


     ◇


 侍女に手伝ってもらい、顔を洗い、髪を整える。


 今日は、正式な謁見の可能性がある。


 そのため、昨日までの旅服ではなく、王宮側が用意した衣装を着ることになっていた。


 衣装部屋へ入ると、三着のドレスが並んでいる。


 深い青。


 淡い銀。


 柔らかな緑。


 どれも華美すぎず、それでも上質だった。


 フローラは入口で足を止める。


 以前なら、侍女が選んだものを着た。


 季節。


 相手。


 家格。


 髪の色。


 自分の気持ちより、正しさが先だった。


「どれになさいますか」


 侍女が尋ねる。


 自分で選ぶ。


 胸が少し緊張する。


 国王陛下へ会うなら、深い青が公爵令嬢らしいのかもしれない。


 銀は王宮に合う。


 緑は。


 森に近い。


 フローラは三着を一つずつ見た。


「緑にします」


 侍女は驚かなかった。


「かしこまりました」


 それだけ。


 公爵令嬢なら青を、と言われない。


 王宮では銀が、と訂正されない。


「緑でよいのですか」


 フローラが確認すると、侍女は少しだけ不思議そうにした。


「フローラ様がお選びになったものですので」


 胸の奥が温かくなる。


「ありがとうございます」


 緑のドレスは、森の葉のように濃すぎる色ではなかった。春の若葉を思わせる柔らかな色で、袖や裾には同色の糸で小さな蔦の模様が刺繍されている。


 着せてもらう途中、背中の紐が締まる。


 少し苦しい。


 フローラはすぐに言った。


「もう少し、緩くしてください」


「この程度でしょうか」


「はい。ありがとうございます」


 昨日も言えた。


 今日も言えた。


 同じことでも、繰り返すたびに少し自然になる。


 髪飾りを選ぶ時、侍女が銀の花飾りを差し出した。


「こちらはいかがでしょう」


 きれいだった。


 でも。


 フローラは花守り布へ目を向ける。


 謁見に花守り布をつけてよいのだろうか。


 王宮の正式な場。


 村で作られた素朴な布。


 以前の自分なら、考える前に諦めていた。


「花守り布は、使えませんか」


 侍女の手が止まる。


「確認いたします」


 否定ではなかった。


 すぐに駄目とも言われなかった。


 侍女は一度部屋を出て、しばらくして戻ってきた。


「陛下との私的な面会であれば、問題ないとのことです」


「私的?」


「公式の謁見ではなく、陛下がフローラ様と個人的にお話しになるお時間として整えられる予定です」


 フローラは驚いた。


 国王と公爵令嬢。


 それでも、公式な場にしない。


 大勢の臣下も、記録官も、貴族もいない。


「では、花守り布を使います」


「かしこまりました」


 緑のドレス。


 花守り布。


 少し不思議な組み合わせ。


 それでも鏡を見ると、昨日までの自分と、これから会う自分の両方がいるように見えた。


     ◇


 朝食の部屋へ行くと、リオが先に待っていた。


 フローラを見た瞬間、手に持っていたパンを止める。


「何ですか」


「緑」


「はい」


「畑みたい」


「ドレスです」


「分かってる」


「似合いませんか」


 少し不安になって尋ねる。


 リオはフローラを上から下まで見たあと、言った。


「似合う」


 短い。


 でも、まっすぐだった。


「ありがとうございます」


「花守り布もある」


「はい」


「そのまま王様に会う?」


「まだ時間は決めていません」


「行きたくない?」


 フローラは席へ座りながら考えた。


「行きたくない、だけではありません」


「うん」


「怖いです」


「うん」


「でも、話したいです」


「うん」


 リオはパンを置いた。


「なら、行く?」


「時間を決めます」


「いつ」


 朝。


 昼。


 午後。


 選べる。


 フローラは食卓の上の湯気を見つめた。


 朝一番なら、待つ時間が短い。


 怖さを長く抱えずに済む。


 でも、心の準備が足りない。


 午後なら、準備できる。


 けれど、待つ間に怖さが大きくなるかもしれない。


「午前と午後の間はありますか」


 フローラが尋ねると、ミナは少し笑った。


「昼食の前後でしょうか」


「はい」


「エドガー様へ確認できます」


 朝でも、午後でもない。


 自分が落ち着きやすい時間。


「昼食の前がよいです」


 決めると、胸が大きく鳴った。


 怖い。


 でも。


 自分で選んだ。


「では、そのようにお伝えします」


 ミナが答える。


「はい」


     ◇


 朝食を終えたあと、フローラは六つの言葉が書かれた紙を取り出した。


 昨日、何度も触れたため、紙の端には少し皺がついている。


 机の上へ広げる。


 国王陛下へ、どこまで話すのか。


 六つすべて。


 それでよいのだろうか。


「順番も、このままですか」


 ミナが尋ねる。


 フローラは一つずつ読み返した。


 一つ目。


 森で暮らしたい。


 二つ目。


 住む場所は、私も決める。


 三つ目。


 今は婚姻を望まない。


 四つ目。


 公爵家をどうするかは、まだ分からない。


 五つ目。


 分からないことを、今すぐ決めたことにしない。


 六つ目。


 森へ戻る。


「最初と最後が、似ています」


 フローラが言う。


「森で暮らしたい。森へ戻る」


「似ていますが、同じではありません」


「はい」


 一つ目は望み。


 六つ目は、今の旅の終わり。


 王都へ滞在したあと、戻る。


 その決意。


「国王陛下へ、六つ全部を言います」


「はい」


「父様へは」


 昨日、一部は言えた。


 でも、六つの言葉そのものはまだ伝えていない。


「父様へ、今日また会う必要がありますか」


 ミナはすぐに答えなかった。


「フローラ様は、会いたいですか」


「……分かりません」


「では、今日決めなくてもよいと思います」


「国王陛下へ会ったあとに、決めても?」


「はい」


 順番。


 国王陛下。


 父様。


 母様。


 すべてを事前に決めなくていい。


 一人へ会ったあとの自分の状態を見てから、次を決める。


「それなら、今日はまず国王陛下です」


 口にすると、少しだけ整った。


「父様と母様は、そのあとに考えます」


 ミナが頷く。


「承知いたしました」


     ◇


 面会までの時間。


 フローラは客室で待つことになった。


 何かをしていたい。


 何もしなければ、国王陛下のことばかり考えてしまう。


 けれど、王宮の部屋には畑がない。


 植物の記録も、今日の分はまだ書けない。


 フローラは窓の外の庭へ目を向けた。


「庭を歩いてもよいでしょうか」


 エドガーへ確認してもらうと、西客室棟の前にある小庭園なら、自由に歩いてよいという返事が届いた。


 フローラ、ミナ、リオの三人で外へ出る。


 護衛は少し離れた位置からついてきた。


 王宮の庭は、近くで見るとさらに整っていた。


 石畳の間に雑草はほとんどない。


 花壇の縁は同じ高さに揃えられ、花も色ごとに並んでいる。


 美しい。


 でも。


 少し息が詰まる。


「きれいですね」


 フローラが言う。


 ミナが頷く。


「はい」


「でも、全部が同じ場所へ並んでいます」


「はい」


「森では、もっと勝手に生えます」


 リオが花壇を見る。


「ここの花、窮屈そう」


 フローラは少し驚いて、彼を見る。


「分かりますか」


「なんとなく」


 植えられた花が本当に窮屈かは分からない。


 人の気持ちと植物を、すぐに同じものへ重ねてはいけない。


 それでも、見ていて息苦しさを感じる自分はいる。


「この花が嫌だと決めることはできません」


 フローラはゆっくり言った。


「花は、ここで育ちたいと思っているかもしれません」


「うん」


「でも、私は少し窮屈に見えます」


「うん」


 似ている。


 でも、同じではない。


 花は花。


 自分は自分。


 その距離を残したまま、感じたことだけを認める。


 花壇の端へ、庭師の一人が立っていた。


 年配の男性で、フローラたちへ気づくと深く頭を下げる。


「おはようございます」


 フローラが先に声をかけると、庭師は驚いたように顔を上げた。


「おはようございます、フローラ様」


「少し、見てもよいですか」


「もちろんでございます」


 フローラは花壇へ近づき、土を見る。


 表面は乾いている。


 でも、指を入れれば下には水分がありそうだった。


「昨日は、水をやりましたか」


 庭師はまた少し驚く。


「朝に一度。夕方は、土の状態を見て控えました」


「それがよいと思います」


 言ってから、頼まれていないと気づく。


「すみません」


「いえ」


 庭師は首を横へ振った。


「土をご覧になれば、分かるのですか」


「完全には分かりません」


「完全には?」


「表面だけでは、下の水分は分からないことがあります」


 フローラは花壇の縁へ膝をつかず、少し身を屈めて土を見る。


「葉の状態や、昨日の天気も見ます」


「なるほど」


 庭師の目が、少し変わる。


 公爵令嬢を見る目ではなく。


 植物の話をする相手を見る目。


「こちらでは、食べられる植物は育てないのですか」


 フローラが尋ねると、庭師は少し考えた。


「薬草園と果樹園は別の区画にございます」


「豆は?」


「豆、でございますか」


「はい」


 リオが横から言う。


「王宮の庭に植えたいらしい」


「まだ、植えるとは言っていません」


「昨日から言ってる」


「考えているだけです」


 庭師の口元が、わずかに緩んだ。


「西庭の一角に、使用人用の菜園がございます。豆も少し育てております」


 フローラの顔が自然に明るくなる。


「見てもよいですか」


「本日は面会がおありと伺っておりますので、お時間が許せば、後ほどご案内いたします」


「本当ですか」


「はい」


 国王陛下との面会のあと。


 菜園を見る。


 胸の中へ、小さな予定ができた。


 怖いことのあとに、見たいものがある。


 それだけで、少し呼吸がしやすくなる。


「お願いします」


     ◇


 客室へ戻ると、エドガーが待っていた。


「フローラ様。陛下が、昼前のお時間で承知されました」


 胸が強く鳴る。


「はい」


「場所は、東の小応接室でございます」


「謁見の間ではないのですか」


「はい」


「誰がいますか」


 フローラはすぐに尋ねた。


 以前なら、聞いてはいけないと思った。


 王が決めた場へ、何も尋ねず行くものだと。


 でも今日は知りたい。


 誰がいるのか。


 どれほどの時間なのか。


 途中で休めるのか。


 エドガーは丁寧に答えた。


「陛下、私、護衛が二名。フローラ様がお望みであれば、ミナ様とリオ様も同席できます」


 フローラは驚いて二人を見る。


「一緒に入れますか」


「陛下より、そのように」


 リオがすぐに答える。


「入る」


「リオ」


 ミナが声をかける。


「フローラ様がお決めになります」


「あ」


 リオが黙る。


 フローラは少し考えた。


 国王陛下と話す。


 公爵家のこと。


 婚姻のこと。


 森のこと。


 ミナとリオへ聞かれて困る内容ではない。


 むしろ。


 そばにいてほしい。


「二人とも、一緒に来てください」


「はい」


 ミナが頷く。


「うん」


 リオも答えた。


 エドガーはさらに続ける。


「面会時間は定めておりません。フローラ様がお疲れになった時点で終えてよいと、陛下より申し付かっております」


「私から、終わりにしてよいのですか」


「はい」


「国王陛下の話の途中でも?」


 エドガーは一瞬だけ考えたあと、はっきりと頷いた。


「ご体調が難しい場合は、そのように」


 体調だけ。


 気持ちが苦しい時は。


「怖くなった時も?」


 フローラは聞いた。


 エドガーの表情が少し変わる。


 それでも、すぐに答えた。


「はい。陛下は、無理をさせないようにと仰せです」


 胸の奥が熱くなる。


「分かりました」


     ◇


 面会の時間が近づく。


 フローラは鏡の前へ座り、花守り布の位置を確かめた。


 内側の小さな袋へ触れる。


 六つの言葉。


 木の実。


 全部ある。


 ミナは後ろで、ドレスの裾を整えている。


 リオは礼装ではないが、王宮側から用意された簡素な上着を着ていた。首元が気になるらしく、何度も指を入れている。


「苦しいですか」


 フローラが尋ねる。


「少し」


「緩めてもらった方がよいです」


「王様の前」


「苦しいまま会う必要はありません」


 自分が言われたことを、今度はリオへ言う。


 ミナが上着の留め具を少し調整した。


「これでいかがですか」


「楽」


「では、それで」


 フローラは鏡の中で、自分と二人を見る。


 緑のドレス。


 花守り布。


 ミナ。


 リオ。


 王宮の部屋。


 不思議な光景。


 でも。


 これが、今の自分が選んだ形だった。


「行きます」


 声にすると、胸が強く鳴った。


 ミナが頷く。


「はい」


 リオも言う。


「うん」


     ◇


 東の小応接室へ向かう廊下は、静かだった。


 人の数が少ない。


 おそらく、フローラが大勢の視線を苦手としていることを考え、通行を減らしているのだろう。


 それでも、数人の侍従や護衛とすれ違う。


 全員が足を止め、頭を下げる。


 フローラの身体は、そのたびに少しだけ固くなった。


 見られる。


 公爵令嬢。


 青い髪。


 森から戻った娘。


 噂が、頭の奥へ浮かぶ。


 けれど、花守り布へ触れる。


 今の自分。


 畑を耕す。


 植物を見る。


 森へ戻る。


 廊下の窓から、中庭が見えた。


 白い石。


 水。


 花。


 遠くに庭師。


 さきほど約束した菜園。


 国王陛下へ会ったあと、見に行く。


 一つ先の予定。


 それが、足を前へ進める助けになった。


 エドガーが扉の前で立ち止まる。


「こちらでございます」


 扉。


 その向こうに国王陛下がいる。


 胸が苦しい。


 呼吸が浅くなる。


「少し、待ってください」


 フローラは言った。


 エドガーはすぐに扉から一歩離れた。


「はい」


 誰も急かさない。


 フローラは目を閉じる。


 森。


 畑。


 オカエリ。


 キズナ。


 大鍋。


 六つの言葉。


 ミナとリオ。


「フローラ」


 リオが小さく言う。


「森」


 頼んでいないのに。


 でも、必要だった。


「はい」


「畑」


「はい」


「大鍋」


「それは最後です」


「分かってる」


 少し笑う。


 呼吸が戻る。


「開けてください」


 フローラはエドガーへ言った。


     ◇


 扉がゆっくり開く。


 応接室は、謁見の間ほど広くなかった。


 暖炉。


 低い机。


 向かい合う椅子。


 窓から入る柔らかな光。


 そして、その奥に国王陛下が立っていた。


 記憶の中より、少し年を重ねている。


 王冠はない。


 重い礼装も着ていない。


 濃い色の上着をまとい、臣下へ命令を下す王というより、一人の年長の男性に近く見えた。


 それでも。


 国王陛下。


 身体がすぐに昔を思い出す。


 膝をつく。


 頭を下げる。


 言われるまで顔を上げない。


 フローラの足が止まる。


 国王は、フローラを見た。


 青い髪。


 花守り布。


 緑のドレス。


 そのすべてを、静かに受け止めるような目だった。


「フローラ」


 国王が名前を呼ぶ。


 公爵令嬢ではなく。


 青の姫君でもなく。


 名前。


 胸が強く痛んだ。


 フローラは反射的に膝を折りかける。


 その時、国王が静かに手を上げた。


「そのままでよい」


 フローラは動きを止めた。


「今日は、臣下として呼んだのではない」


 国王の声は低く、けれど強くなかった。


「話を聞くために、来てもらった」


 来てもらった。


 命じたのではない。


 呼び戻したのでもない。


 胸の奥へ、ゆっくり言葉が落ちる。


 国王は椅子を示した。


「座ってくれ。ミナとリオも」


 リオが国王をじっと見ている。


 ミナが小さく頭を下げ、リオの袖を引いた。


 三人で椅子へ座る。


 国王も向かいへ腰を下ろした。


 机の上には、茶と水が用意されている。


 誰もすぐには話さなかった。


 国王は急かさない。


 フローラが話すのを待っている。


 その沈黙が、かえって怖い。


 何を最初に言うのか。


 挨拶。


 感謝。


 謝罪。


 公爵令嬢らしい言葉。


 いくつも浮かぶ。


 でも。


 花守り布の内側へ触れる。


 一つ目。


「私は」


 声が震える。


 国王は動かない。


「森で暮らしたいです」


 言えた。


 最初の言葉。


 国王の表情は変わらない。


 否定も、驚きもない。


「そうか」


 ただ、短く受け取った。


 フローラは次の言葉を探す。


「住む場所は」


 呼吸を整える。


「私も、決めたいです」


「うむ」


「王家や、公爵家の事情があることは、分かっています」


 完全には分かっていない。


 それでも、事情があることは知っている。


「でも、私がいないところで、私の暮らす場所を決めないでほしいです」


 国王は、ゆっくり頷いた。


「もっともだ」


 その返事に、フローラは一瞬言葉を失った。


 もっとも。


 否定されなかった。


 自分勝手とも。


 公爵令嬢として無責任とも言われない。


 胸の奥が熱くなる。


「婚姻は」


 次。


 怖い。


 でも。


「今は、望みません」


 国王の目が、少しだけ細くなる。


「今は、か」


「はい」


「生涯望まぬ、と決めているわけではない?」


「分かりません」


 すぐに答えた。


「今後のことは、まだ分かりません」


「そうか」


「でも、今は望みません」


「分かった」


 また。


 それだけ。


 国王は、説得しない。


 理由を追及しない。


 フローラは少しだけ息を吐いた。


「公爵家をどうするかも」


 四つ目。


「まだ、分かりません」


 国王の表情が少しだけ重くなる。


 公爵家。


 領地。


 継承。


 国に関わる話。


「考えたくない、ということではありません」


 フローラは続ける。


「でも、森で暮らしたいことと、公爵家のことを、どう一緒にすればよいのか分かりません」


「うむ」


「すぐに決めるよう言われても、決められません」


 国王はしばらく黙っていた。


 その沈黙に、胸が不安になる。


 やはり、ここは認められないのだろうか。


 公爵家だけは、分からないでは許されない。


 そう思い始めた時。


「分からぬものを、分かったふりで決める必要はない」


 国王が言った。


 フローラは顔を上げる。


「公爵家の継承は、お前一人の気持ちだけで決められるものではない」


「はい」


「だが、お前の気持ちを無視して決めるものでもない」


 胸が強く鳴る。


「時間をかけてよい」


「……本当に?」


「国王として、永遠に待てるとは言えぬ」


 正直な言葉だった。


「領地には民がいる。公爵家には役目がある。いずれ、形を決める必要はある」


「はい」


「だが、今日決める必要はない」


 フローラの目へ涙が滲む。


 今日、決めなくていい。


「ありがとうございます」


 声が震えた。


「まだ、二つあります」


 国王の口元が、ほんの少しだけ緩む。


「聞こう」


 五つ目。


「分からないことを、今すぐ決めたことにしません」


「うむ」


「誰かが正しい答えを知っているように見えても」


 父様。


 教師。


 貴族。


 王家。


「私が分からないなら、分からないと言います」


 国王は、長くフローラを見た。


 その目には、痛みのようなものがあった。


「それを、お前へ教えるのが遅すぎた」


 フローラの胸が止まりそうになる。


 国王が。


「王都は、お前へ答えを求めすぎた」


 静かな言葉だった。


「正しい娘。正しい令嬢。正しい公爵家の後継。誰も、お前が何を思っているかを聞かなかった」


 父様だけではない。


 母様だけでもない。


 王都。


 国王陛下自身も。


「すまなかった」


 国王が頭を下げた。


 王が。


 フローラへ。


 昨日、父様も頭を下げた。


 今日は、国王陛下まで。


 フローラは何を言えばよいのか分からなかった。


 許します。


 大丈夫です。


 そう言えば、場は収まる。


 でも。


 すぐには言えない。


「……今は、受け取るだけにします」


 フローラは言った。


 国王は頭を上げ、静かに頷いた。


「それでよい」


 六つ目。


 最後。


「私は、森へ戻ります」


 声は、これまでで一番はっきり出た。


「王都へ来ました」


「うむ」


「話をするために」


「うむ」


「でも、ここに住むと決めたわけではありません」


「分かっている」


「父様の屋敷にも、今日は行きません」


「聞いている」


「母様へ会うかどうかも、まだ決めていません」


 国王の目が少しだけ揺れた。


 母様のこと。


 何か知っている。


 そう感じた。


「母様は」


 フローラは尋ねかけて、止まった。


 聞きたい。


 でも、怖い。


「少し、待ってください」


「よい」


 国王は待つ。


 フローラは花守り布の内側へ触れる。


 母様。


 手紙。


 一日一文。


 読まない日。


 口頭の伝言。


 自筆の言葉。


 全部、同じではない。


「母様は、私に会いたいと言っていますか」


 国王はすぐには答えなかった。


 言葉を選ぶように、一度視線を落とす。


「会いたいと、言っている」


 胸が痛む。


「でも」


「だが、自分から会いに行かないとも言っている」


 フローラは国王を見る。


「なぜですか」


「お前が決めるまで待つ、と」


 母様も。


 待つ。


 会いたい。


 でも、来ない。


 胸の中へ、二つの感情が同時に押し寄せる。


 安心。


 寂しさ。


 怒り。


 会いたい気持ち。


 会いたくない気持ち。


「母様は、元気ですか」


「身体は、以前より回復している」


「以前より?」


 国王は少し迷った。


「お前が森へ行ったあと、長く体調を崩していた」


 初めて聞く話。


 フローラの胸が強く締めつけられる。


「私のせいですか」


「違う」


 国王ははっきり答えた。


「お前のせいではない」


「でも」


「娘を見なかった自分自身を、責め続けた結果だ」


 母様。


 手紙。


 遅かった。


 見ていなかった。


 言葉がつながる。


 フローラは息を吸おうとして、上手くできなかった。


「少し、苦しいです」


 言うと、ミナがすぐに隣へ寄る。


「お水を飲まれますか」


「はい」


 水を一口飲む。


 国王は何も言わずに待っている。


 急かさない。


 続けろとも。


 母親なのだから会えとも言わない。


「今日は」


 フローラはゆっくり言った。


「母様へは会いません」


 国王は静かに頷いた。


「分かった」


「悪いですか」


「悪くない」


「会いたいと言っているのに」


「会いたいという気持ちは、王妃のものだ」


 国王の声は落ち着いている。


「会うかどうかは、お前のものだ」


 胸へ、深く落ちた。


 母様の会いたい。


 フローラの会いたくない、まだ決められない。


 どちらかが間違いではない。


「今日は、国王陛下へ会うと決めました」


「うむ」


「父様と母様は、今日の私が決めることではありません」


「それでよい」


 フローラは大きく息を吐いた。


 これ以上、話せるだろうか。


 まだ話したいことはある。


 王都での噂。


 婚姻。


 公爵家。


 けれど。


 胸が疲れている。


「今日は、ここまでにしてもよいですか」


 国王はすぐに頷いた。


「もちろんだ」


「話の途中でも?」


「今日は、お前が終わりを決める日だ」


 その言葉に、涙が溢れた。


 フローラは慌てて目元を拭う。


「ありがとうございます」


 国王は立ち上がらなかった。


 フローラが立つのを待っている。


 フローラはゆっくりと椅子から立った。


 膝は少し震えている。


 でも、立てる。


「また、話してもよいですか」


 自分から尋ねた。


 国王の表情が、少しだけ柔らかくなる。


「何度でも」


「一度に全部ではなく?」


「何度でもだ」


 フローラは小さく頭を下げた。


 臣下として深く礼をするのではなく。


 話を聞いてくれた人へ。


「では、今日は帰ります」


 言ってから。


 ここは王宮の客室へ戻るだけ。


 森へ帰るのではない。


 それでも。


 今いる部屋から、自分が選んだ場所へ戻る。


 小さな帰る。


 国王は、その言葉を訂正しなかった。


「ゆっくり休みなさい」


「はい」


     ◇


 応接室を出た瞬間、身体から力が抜けた。


 廊下の壁へ寄りかかりそうになる。


 ミナがすぐに腕を支えた。


「大丈夫ではありません」


 フローラは自分から言った。


「はい」


 ミナが答える。


「でも、歩けます」


「ゆっくり参りましょう」


 リオは、閉じた扉を振り返っていた。


「王様」


「はい」


「思ったより、怖くなかった」


 フローラは少し考えた。


「私は、怖かったです」


「うん」


「でも、話を聞いてくれました」


「うん」


「謝りました」


「うん」


「王様も謝るんだ」


 リオの言葉に、フローラは少しだけ笑った。


「はい」


 廊下をゆっくり歩く。


 往路より、足が重い。


 でも。


 六つ、全部言えた。


 国王陛下は、聞いた。


 すべてを認めたわけではない。


 公爵家のことは、いずれ決める必要があると言った。


 でも、今日ではない。


 その時間をくれた。


     ◇


 客室へ戻る途中、フローラは窓の外へ目を向けた。


 西庭の向こう。


 庭師が待っている。


 菜園。


 豆。


 約束。


「菜園」


 リオも気づいた。


「行く?」


 身体は疲れている。


 今すぐ寝台へ横になりたい気持ちもある。


 でも、少しだけ植物を見たい。


「少しだけ、行きます」


 ミナが心配そうにフローラを見る。


「本当に大丈夫ですか」


「大丈夫ではありません」


「はい」


「でも、菜園を見たら、少し落ち着くと思います」


 ミナはしばらく考えたあと、頷いた。


「では、短い時間だけにしましょう」


     ◇


 西庭の菜園は、華やかな庭園の奥に隠れるように作られていた。


 小さな畑。


 木の柵。


 薬草。


 葉野菜。


 豆。


 王宮の中にも、土の匂いがある。


 フローラは柵の前で足を止めた。


 胸の奥が、少しずつほどけていく。


「豆です」


「うん」


 リオも隣へ立つ。


 庭師が説明する。


「使用人たちの食事へ使うものを、少量育てております」


「花がついています」


「はい」


 白い小さな花。


 葉の色もよい。


 茎は少し細い。


 フローラは膝をつこうとして、緑のドレスを思い出した。


 泥がつく。


 でも。


 見たい。


「敷く布をお持ちします」


 庭師が言う。


「いえ」


 フローラは少し考えた。


 ドレスを汚したくない。


 でも、土へ近づきたい。


「今日は、立ったまま見ます」


 自分で選ぶ。


 全部を我慢するのでも。


 全部を優先するのでもない。


「この豆は、風が強いと倒れませんか」


「時折、支柱を立てております」


「もう少し早くてもよいかもしれません」


「明日、確認いたします」


 フローラは豆の葉を見た。


 森の豆とは違う。


 でも、豆。


 王宮の中で育っている。


「国王陛下へ、六つ言いました」


 突然、フローラが呟く。


 庭師は意味が分からず、少し離れた。


 リオとミナには分かる。


「うん」


「聞いてくれました」


「はい」


「母様には、今日は会いません」


「うん」


「父様にも、今日は会いません」


「はい」


 言葉にすると、今日の順番がはっきりする。


 国王陛下へ会った。


 それで、今日は十分。


「明日、決めます」


 誰へ会うか。


 会わないか。


 また明日の自分が。


     ◇


 客室へ戻ると、フローラは緑のドレスを脱ぎ、柔らかな室内着へ着替えた。


 花守り布も外す。


 内側から紙を取り出す。


 六つの言葉。


 国王陛下へ、全部伝えた。


 紙に小さな印をつけようとして、筆を止める。


 終わったわけではない。


 伝えた。


 それだけ。


 六つの言葉は、これからも必要になる。


 フローラは紙を丁寧に折り直し、花守り布へ戻した。


     ◇


 夕方。


 食事の前に、エドガーが小さな封筒を持ってきた。


「フローラ様。公爵夫人より、こちらをお預かりしております」


 身体が固くなる。


「母様から?」


「はい」


 封筒。


 自筆の手紙。


 口頭の伝言ではない。


 フローラはすぐに手を伸ばせなかった。


「今日、会わないと伝わりましたか」


「はい」


「母様は、何と」


 エドガーは静かに答える。


「承知しました、とだけ」


 それだけ。


 責めない。


 泣いたとも。


 失望したとも言わない。


「この手紙は、今日読まなくてもよいですか」


「もちろんでございます」


「明日でも?」


「はい」


「読まなくても?」


 エドガーは一瞬だけ言葉を止めた。


 けれど。


「フローラ様がお決めになることです」


 フローラは封筒を受け取った。


 軽い。


 でも、胸には重い。


「ありがとうございます」


 エドガーが去ったあと、フローラは封筒を机へ置いた。


 開かない。


 今日は、国王陛下へ会った。


 六つの言葉を伝えた。


 母様へ会わないと決めた。


 それで十分。


「今日は、読みません」


 フローラは言った。


 ミナが頷く。


「はい」


「明日、読みたければ読みます」


「はい」


「読みたくなければ、待たせます」


「はい」


 母様の手紙を待たせる。


 以前、森でも覚えたこと。


 手紙は、すぐに読まなくても消えない。


 母様の言葉も、封筒の中で待てる。


     ◇


 夜。


 フローラは旅の記録紙を机へ広げた。


 王宮で迎えた最初の朝。


 寝台が広く、何度か目を覚ました。


 国王陛下が午前と午後の予定を空けてくださった。


 私は昼前を選んだ。


 緑のドレスを選んだ。


 花守り布もつけた。


 ミナとリオへ、一緒に来てほしいと頼んだ。


 小応接室で、国王陛下へ六つの言葉を伝えた。


 森で暮らしたい。


 住む場所は、私も決める。


 今は婚姻を望まない。


 公爵家をどうするかは、まだ分からない。


 分からないことを、今すぐ決めたことにしない。


 森へ戻る。


 国王陛下は聞いた。


 公爵家のことは、いつか決める必要があると言った。


 でも、今日ではないと言った。


 王都が私へ正しい答えを求めすぎたと謝った。


 私は、今は受け取るだけにした。


 母様は、会いたいと言っている。


 でも、私が決めるまで来ない。


 私は今日は会わないと決めた。


 国王陛下は、会いたい気持ちは母様のもの、会うかどうかは私のものだと言った。


 その言葉を、フローラは少し大きく書いた。


 会いたい気持ちは、母様のもの。


 会うかどうかは、私のもの。


 どちらもある。


 でも、同じではない。


 最後に。


 母様から手紙が届いた。


 今日は読まない。


 手紙を待たせる。


 明日の私が、また決める。


     ◇


 寝台へ入る。


 村の毛布を胸まで引き上げる。


 王宮の夜は、昨日より少しだけ近く感じた。


 慣れたわけではない。


 ここを家だと思ったわけでもない。


 ただ、朝から夜まで過ごした時間が一日増えた。


「今日は、国王陛下へ会いました」


 フローラは小さく言う。


「六つ、全部言えました」


 胸の中へ、少しだけ誇らしさが生まれる。


 自分を褒めるのは、まだ少し恥ずかしい。


 でも。


「よく言えました」


 誰かが言ってくれるのを待たず、自分で言ってみる。


 胸が温かくなる。


「おやすみなさい、父様」


 今日は会わなかった。


 それでいい。


「おやすみなさい、母様」


 机の上には、母様の手紙がある。


「今日は、読みません」


 それも、自分で決めた。


「おやすみなさい、森」


 目を閉じる。


 豆。


 畑。


 子どもたち。


 村。


 そして、王宮の菜園で見た白い豆の花。


 王宮にも豆があった。


 森と同じではない。


 でも、完全に違う場所でもなかった。


「明日も、一つずつです」


 誰へ会うか。


 手紙を読むか。


 父様へもう一度話すか。


 母様へ会うか。


 全部を、今夜決めなくていい。


 今日のフローラは、国王陛下へ会う順番を選び、話の終わりを自分で決めた。


 明日のことは、明日の自分が決める。


 そのことを胸へ置きながら、フローラは王都で迎える二度目の夜へ、ゆっくりと目を閉じた。

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