第80話 青の姫君、王都の門を自分の足で越える
翌朝、フローラが目を覚ました時、最初に聞こえたのは鐘の音だった。
宿の廊下を歩く足音でも、裏庭で馬具を整える金属音でもない。まだ夜の名残を含んだ薄暗い空の向こうから、低く長い音が一度届き、少し間を置いて、二度目の響きが静かに重なった。
フローラは寝台の上で目を開いたまま、その余韻が消えていくのを待った。
昨夜、王家の使者から聞いていた。
今夜泊まっている町は、王都から一日とかからない場所にある。空気が澄み、風向きが合えば、王都の外郭に設けられた鐘の音が届くこともあるのだと。
説明を受けた時には、そうなのですね、と答えただけだった。
地図の上でも、日数でも、王都が近いことは分かっていたからだ。
けれど、実際に聞いた鐘の音は、紙の上の距離とは違った。
まだ見えない場所から届く音。
遠いはずなのに、身体へ触れる響き。
それが、王都を急に現実のものへ変えた。
「……聞こえました」
誰もいない部屋で呟くと、自分の声がいつもより小さく感じられた。
毛布の上から胸へ手を置く。
まだ何も起きていない。
父様にも、母様にも、国王陛下にも会っていない。
それでも心臓は、すでに誰かの前へ立たされているように速く打っていた。
「今日は、王都へ着きます」
昨日までは、着くかもしれない、だった。
今日は違う。
使者から、昼前には城門へ到着すると聞いている。
道に大きな問題がなければ、今日、王都へ入る。
フローラは目を閉じた。
森。
最初に思い浮かんだのは、王都の外壁でも、公爵家の屋敷でもなかった。
朝露を載せた青豆一号。葉の色をゆっくり深めていたアオジロウ。白い擦れ跡の残るムラマル。雨の日に少しだけ茎を傾けたモリタン。
小石で囲まれた場所から芽を出したオカエリ。皺のある葉を残しながら、それでも新しい葉を伸ばしていたキズナ。
記録板を抱え、朝から真剣な顔をするサム。話したいことが多すぎて、途中から何を先に言うべきか分からなくなるエマ。掘ってはいけない場所ほど気になるトト。花守り布の縫い目を、何度も指で確かめていたリーナ。
村長さん。ガルドさん。パン屋の女性。薬師。大鍋を持たせようとした井戸番のおじいさん。
全部、まだある。
自分が見ていないだけで。
王都へ近づいても、森が消えたわけではない。
「王都へ入っても、森はなくなりません」
フローラは、ゆっくりと声にした。
「王宮へ入っても、私の家が王都へ変わるわけではありません」
誰かが決めない限り、ではない。
自分が決めない限り。
今のフローラが、森ではなく王都を帰る場所にすると決めない限り、家は勝手に変わらない。
花守り布の内側には、昨日まとめた五つの言葉がある。
森で暮らしたい。
住む場所は、私も決める。
今は婚姻を望まない。
公爵家をどうするかは、まだ分からない。
分からないことを、今すぐ決めたことにしない。
昨日、茶屋の女の子からもらった木の実も、その隣に入れてある。
帰りも持ってきて。
あの言葉を思い出すと、胸の奥が少しだけ温かくなった。
「王都へ行きます」
帰る、ではない。
「話をするために、行きます」
国王陛下へ。
父様へ。
必要なら、母様へ。
全部を今日決める必要はない。
全部を一度に言う必要もない。
言えない時は、少し待ってくださいと言えばいい。
疲れた時は、今日はここまでですと言えばいい。
分からない時は、分かりませんと言っていい。
「おはようございます」
薄暗い部屋へ言う。
それから、少し間を置いた。
「おはようございます、母様」
母様のいる王都へ、今日入る。
胸が痛む。
けれど、その痛みを消そうとは思わなかった。
「今日、会うかどうかは、今日の私が決めます」
昨日決めなかったことを、朝になったから決める必要はない。
「おはようございます、父様」
呼ぶと、別の痛みが胸へ広がった。
父様へ言いたいこと。
遅かった。
私が屋敷にいた時に見てほしかった。
娘として呼んでほしかった。
それは、昨日の夜に見つけた。
「今日は、言えるところまでです」
フローラは胸から手を離し、ゆっくりと寝台から足を下ろした。
◇
窓を開けると、冷たい朝の空気が部屋へ流れ込んできた。
宿は少し高い場所に建っているらしく、遠くまで見渡せる。手前には朝靄の残る街道があり、その向こうには広い農地が続いていた。さらに先には、いくつもの町の屋根と、細く立ち上る煙が重なっている。
そして、その最も遠い場所。
灰青色の朝の中に、水平へ長く伸びる線があった。
昨日、丘の上から一度見た。
それでも、今日の方が大きい。
昨日は景色の中に細く引かれた線だった。
今は、明らかに壁だと分かる。
「……王都」
喉が固くなる。
王都の外壁。
あの向こうに王宮がある。
公爵家の屋敷がある。
父様がいる。
母様がいる。
昔の自分が、記憶の中に残っている。
窓枠を握る指へ、少しずつ力が入る。
ただ見ただけ。
まだ、近づいてもいない。
それなのに呼吸が浅くなり、胸の内側が狭くなる。
フローラは窓から一歩離れた。
「少し待ちます」
誰かへ頼むのではなく、自分へ言う。
王都の外壁を見続けなければならない決まりはない。
目を閉じる。
足の裏には、宿の床がある。
今は朝。
ここは宿の部屋。
扉の向こうにはミナがいる。
別の部屋にはリオがいる。
王家の使者も、護衛もいる。
森へ戻る道は、なくなっていない。
一つずつ確認しながら、ゆっくり呼吸を整える。
もう一度、窓へ目を向けた。
外壁は消えていない。
けれど、先ほどより少しだけ、ただの遠い景色として見ることができた。
「大きいですね」
怖い。
でも。
大きい。
まずは、それだけでもいい。
◇
顔を洗い、髪を梳く。
自分で髪を編むことにも、旅の最初の日よりは慣れてきた。
一度目で、左右はほとんど同じ高さになった。
右側が、ほんの少しだけ緩い。
昨日なら、そのままでよいと思えた。
けれど今日は、少し整えたい。
王都へ入るから。
誰かに見られるから。
その理由だけだろうか。
フローラは鏡の中の自分を見つめた。
誰かに公爵令嬢らしいと思われたいわけではない。
完璧な髪でなければ、王都へ入れないわけでもない。
ただ、今日の自分を、自分の手でもう少し整えたい。
「直したいので、直します」
一度ほどき、もう一度編む。
今度は左右がきれいに揃った。
「はい」
自分で決め、自分で納得する。
それだけで少し安心できた。
花守り布を手に取る。
森から外へ伸びる途中までの道。
森側へ集まる小さな点。
ミナとリオを示す二つの点。
自分の点は、まだない。
動いているから。
今いる場所を一つへ決められないから。
それでいい。
布の内側には、昨日縫いつけた小さな袋がある。
縫い目は少し曲がっている。
でも、五つの言葉と木の実は、きちんと入っていた。
フローラは花守り布を頭へかぶった。
王都の貴族が見れば、素朴すぎると言うかもしれない。
公爵令嬢が身につけるものではないと、眉をひそめる者もいるかもしれない。
それでも、これは村のみんなが用意してくれたものだ。
今のフローラが、持っていくと決めたもの。
「これで行きます」
◇
朝食の個室へ入ると、リオは窓際に立っていた。
いつもなら食事が並んでいれば、最初に席へ着いている。けれど今朝は、温かなパンにも卵にも手をつけず、窓の外を見ていた。
「おはようございます」
フローラが声をかけると、リオが振り返った。
「おはよう」
「何を見ていますか」
「あれ」
彼は窓の外を指した。
ここからも、王都の外壁が見える。
「見えますね」
「でかい」
「はい」
「森より?」
フローラは少し考えたあと、首を傾げた。
「比べるものが違うと思います」
「でも、でかい」
「それは、そうですね」
思わず笑うと、胸の緊張が少しだけ緩んだ。
「怖いですか」
フローラが尋ねると、リオはすぐには答えなかった。
今までは、自分が聞かれる側だった。
けれど今日は、聞いてみたかった。
リオは窓の外へもう一度目を向ける。
「人が多そうなのは嫌」
「はい」
「城も嫌」
「はい」
「王様も、少し嫌」
「リオ」
ちょうど入ってきたミナが、最後の言葉を聞きつけた。
「陛下へ、その言い方をしてはいけません」
「本人には言わない」
「顔にも出さないようにしてください」
「無理かも」
「努力してください」
ミナが困ったように眉を下げ、フローラはまた笑った。
リオも王都が嫌なのだ。
人が多い場所も、城も、王様も。
それでも、一緒に来てくれた。
「ありがとうございます」
突然言われ、リオが眉を寄せた。
「何」
「来てくれて」
「急にどうした」
「外壁を見たら、本当に王都へ行くのだと思って」
フローラは窓の向こうへ目を向けた。
胸の奥が、また少し痛む。
「二人がいて、よかったです」
ミナは静かに微笑んだ。
リオは視線を逸らし、少し早い動きで席へ座る。
「飯、冷める」
「はい」
耳が少し赤く見えたけれど、フローラは何も言わなかった。
◇
朝食は、温かなパンと卵、それに野菜と豆を煮込んだスープだった。
王都へ近いからなのか、昨日までの宿より料理が少し整っている。器には簡素な模様があり、食材の切り方まで揃っていた。
フローラはスープを一口飲んだ。
香辛料の香りが少し強い。
それでも、温かい。
喉を通る。
「今日、王都へ入る前に、五つの言葉をもう一度確認します」
リオがパンを千切る手を止めた。
「覚えているだろ」
「はい」
「なら、いいんじゃないか」
フローラは少し考えた。
「覚えていても、確認したいです」
「なんで」
「王都の空気へ入った時、昔の自分へ戻りそうだからです」
ミナが静かにフローラを見た。
「昔の自分とは、どのような自分でしょう」
「誰かが正しい答えを言ったら、それに合わせる私です」
父様。
教師。
貴族。
王家。
皆が正しい答えを知っている。
自分だけが、何も分かっていない。
だから、従わなければならない。
以前のフローラは、そう思っていた。
「怖くなった時ほど、自分の答えを忘れるかもしれません」
リオが少し考え、言った。
「じゃあ、俺が言う」
「何をですか」
「森」
短い答えだった。
「それだけですか」
「畑」
「はい」
「オカエリ」
「はい」
「キズナ」
「はい」
「大鍋」
「どうして最後に大鍋が入るのですか」
「帰ったら使う」
フローラは笑った。
そう。
帰る。
王都へ入った時。
迷ったら。
森。
畑。
オカエリ。
キズナ。
大鍋。
「大鍋も、必要かもしれませんね」
「ほら」
得意そうなリオを見て、ミナまで笑った。
◇
食後、フローラは花守り布の内側から、小さく折った紙を取り出した。
一つ目。
森で暮らしたい。
二つ目。
住む場所は、私も決める。
三つ目。
今は婚姻を望まない。
四つ目。
公爵家をどうするかは、まだ分からない。
五つ目。
分からないことを、今すぐ決めたことにしない。
一つずつ、声に出す。
読み終えた時、リオが言った。
「六つ目」
フローラは顔を上げた。
「増やしますか」
「森へ帰る」
胸が強く鳴った。
ミナも少しだけ目を細める。
森で暮らしたい。
その言葉の中には、帰ることも含まれているはずだった。
でも。
少し違う。
森で暮らしたいという望み。
王都へ入ったあと、森へ戻るという決意。
フローラは紙の余白へ、ゆっくり文字を書いた。
六つ目。
森へ戻る。
短い。
それだけ。
「六つ目が増えました」
「うん」
「ありがとうございます」
リオは少し不思議そうにした。
「俺に?」
「はい」
フローラは六つの言葉が書かれた紙を折り、花守り布の内側へ戻した。
◇
出発する頃には、街道はすでに多くの人と馬車で混み合っていた。
商人の荷車。地方から王都へ向かう旅人。物資を運ぶ大きな車列。巡回兵。装飾の施された貴族らしい馬車。
王家の紋章が入った馬車が道へ出ると、周囲は自然に道を空けた。
その動きによって、かえって視線が集まる。
フローラは窓のカーテンを半分だけ開けた。
全部閉じない。
全部開けない。
今日も、自分で決める。
街道沿いから、いくつもの声が聞こえた。
「王家の馬車だ」
「誰が乗っているんだ」
「青の姫君じゃないか」
「今日、王都入りするらしい」
「公爵家へ戻るのか」
「婚姻のためだって聞いたぞ」
噂は、すでにフローラより先に王都へ着いている。
胸が少し痛んだ。
「また噂ですね」
フローラが言うと、リオが外へ目を向けた。
「言う?」
「今は、言いません」
「うん」
全部を訂正する必要はない。
自分が言いたい時だけ。
必要だと思った時だけ。
それでいい。
◇
午前の途中、馬車は街道沿いの検問所へ着いた。
王都へ入る主要な道には、外郭へ近づく前にいくつかの検問が設けられている。王家の馬車であるため、通常なら確認はすぐに終わるはずだった。
けれど、この日は人が多かった。
検問を待つ馬車が並び、旅人たちは荷物を下ろして順番を待っている。王家の馬車が止まったことで、さらに多くの目が集まった。
使者が外へ出て、書類を提示する。
フローラは馬車の中から、その様子を見守った。
「ここで降りますか」
「必要はありません」
ミナの返事に、少し安心する。
その時、外から年若い女性たちの声が聞こえた。
「青の姫君?」
「本当に森から来たの?」
「公爵家へ戻るんでしょう?」
「結婚のために呼び戻されたって聞いたけど」
胸が強く固くなった。
婚姻。
違う。
今は望んでいない。
なのに、噂はフローラの知らないところで形を変え、すでに誰かの中で決まったことになっている。
リオの表情が険しくなる。
「違う」
「はい」
「言わない?」
フローラは少し考えた。
今は馬車の中。
外にいる相手の顔も分からない。
自分が話す必要もない。
「今は、言いません」
胸は苦しい。
それでも、花守り布の内側にある紙へ手を置く。
「私は、知っています」
「うん」
「今は婚姻を望みません」
「うん」
「それで、いいです」
ミナが静かに頷いた。
「はい」
◇
検問所を抜けると、王都の外壁はさらに大きくなった。
もう遠くの線ではない。
巨大な石の壁が空を遮るように続き、その上にはいくつもの塔が並んでいる。王家の旗が風を受け、大きくはためいていた。
城門へ続く道は、さらに多くの人と馬車で埋まっている。
フローラは窓の外を見た。
怖い。
それでも、完全には目を逸らさなかった。
「昔、ここを通りました」
ミナがフローラを見る。
「王都を出た時ですか」
「はい」
森へ向かった日。
馬車。
荷物。
従者。
先の分からない不安。
それでも、王都から離れることへの小さな安堵。
誰にも見られない場所へ行く。
何も求められない場所へ行く。
あの日のフローラは、王都へ戻ることなど考えていなかった。
「その時は、またここへ来るとは思っていませんでした」
リオが尋ねる。
「今は、戻る?」
フローラは一瞬言葉を止めた。
違う。
「王都へ、また入ります」
帰る、ではない。
「でも、家へ帰るのではありません」
家は森にある。
「王都へ行く、です」
ミナが静かに頷いた。
「はい」
王都へ行く。
森へ帰る。
同じではない。
◇
昼前、馬車は城門の手前にある王家専用の休憩所へ入った。
ここで馬を休ませ、隊列を整え、王都へ入るための手続きを行う。王宮から迎えの者も来る予定になっていた。
つまり、ここを出れば王都だった。
馬車が止まっても、フローラはすぐに立ち上がれなかった。
「フローラ様」
ミナが静かに声をかける。
「降りられそうですか」
フローラはすぐに答えなかった。
窓の外には巨大な城壁がある。王家の旗が風を受け、何度も大きくはためいている。
昔の王都。
屋敷。
母様。
父様。
閉ざされた部屋。
見られることへの恐怖。
化け物と呼ばれた声。
全部が一度に戻り、胸を圧迫した。
「……少し待ってください」
「はい」
言えた。
使えた。
フローラは目を閉じ、両手を膝へ置いた。
六つの言葉を、一つずつ思い出す。
森で暮らしたい。
住む場所は、私も決める。
今は婚姻を望まない。
公爵家をどうするかは、まだ分からない。
分からないことを、今すぐ決めたことにしない。
森へ戻る。
一つ。
二つ。
三つ。
呼吸を整える。
「リオ」
「何」
「言ってください」
「何を」
「森」
リオは一瞬目を見開いた。
けれど、すぐに頷いた。
「森」
「畑」
「畑」
「オカエリ」
「オカエリ」
「キズナ」
「キズナ」
「大鍋」
「大鍋」
涙が滲んだ。
でも、フローラは笑った。
「ありがとうございます」
「これでいいの?」
「はい」
ミナも微笑んでいた。
けれど、その目は少しだけ赤く見えた。
「降ります」
フローラは言った。
◇
休憩所の外へ出ると、王都から流れてくる風が頬へ触れた。
石。
馬。
煙。
香辛料。
人。
森とは全く違う匂いだった。
王宮からの迎えが、すでに到着している。
先頭に立つのは、濃紺の礼装を着た年配の男性だった。姿勢は真っ直ぐで、動きに無駄がない。
フローラが近づくと、男性は深く頭を下げた。
「フローラ・フォン・スプリング公爵令嬢様。王宮侍従次長、エドガー・ハイルと申します。陛下の命により、お迎えに参りました」
公爵令嬢。
その呼び方へ、胸が少し固くなる。
けれど、フローラは逃げずに口を開いた。
「フローラ・フォン・スプリングです。お迎え、ありがとうございます」
声は少し震えた。
それでも、自分で名乗ることができた。
エドガーは顔を上げ、フローラの旅服と花守り布へ目を向けた。ほんの一瞬だけ視線が止まったが、驚きや疑問を表情へ出すことはなかった。
「長旅で、お疲れでございましょう」
「はい。少し、疲れています」
正直に答える。
エドガーの表情が、ほんのわずかに柔らかくなった。
「西客室へご到着後、本日は一切の公式予定を入れておりません」
胸が少し軽くなる。
「陛下との謁見は?」
「明日以降、フローラ様のご体調を確認した上で日程を整えます」
フローラは驚いた。
「私が決めてもよいのですか」
「陛下より、無理に予定を定めるなと申し付かっております」
国王陛下が待つ。
それは、以前のフローラが知っている王都では、あまり考えられなかったことだった。
「ありがとうございます」
◇
その時、休憩所の入口へ別の馬車が近づいてきた。
黒を基調とした車体。
深い青の装飾。
春の花と剣、蔦を組み合わせた紋章。
スプリング公爵家。
胸の奥が、一瞬で冷たくなった。
「……父様」
声が小さく零れる。
エドガーの表情も、わずかに固くなった。
馬車が止まる。
扉が開く。
背の高い男性が降りてきた。
濃い色の髪には、以前より白いものが増えている。厳しい顔立ちは記憶の中と変わらないように見えたが、頬や目元には、フローラが知らない時間が残っていた。
父様。
スプリング公爵。
フローラは動けなかった。
怖い。
悲しい。
腹が立つ。
会いたかったのかもしれない。
会いたくなかったのかもしれない。
どれか一つへ決めることなどできないほど、いくつもの感情が同時に胸へ押し寄せた。
父はフローラを見たまま、足を止めた。
距離は十歩ほど。
それ以上近づかない。
フローラも動かない。
侍従、護衛、ミナ、リオ、使者。
その場にいる全員が、何も言わずに見守っていた。
長い沈黙のあと、父が口を開いた。
「……フローラ」
家名も、公爵令嬢という呼び方もなかった。
ただ、名前だけ。
父からの手紙に書かれていたように。
胸が強く痛む。
すぐに返事はできなかった。
以前なら、呼ばれた瞬間に「はい、父上」と答えていただろう。
でも今は。
「少し、待ってください」
声は震えた。
父はわずかに目を見開いた。
それでも、すぐに頷いた。
「分かった」
近づかない。
返事を急かさない。
フローラは一つずつ呼吸を整えた。
父の手紙を読んだ。
公爵として。
父として。
自分の言葉で話したい。
帰るかどうかは、フローラが決めてよい。
書かれていた言葉を思い出す。
けれど今、目の前にいる父へ何を言えばよいのかは、まだ分からない。
「お久しぶりです」
まず、それだけを言った。
父の目がわずかに揺れる。
「……ああ」
低い声は、少し掠れていた。
「手紙を読みました」
「そうか」
「はい」
また、沈黙が落ちた。
父は何かを言いかけているように見えた。
けれど、言わない。
フローラは公爵家の馬車へ目を向けた。
「父様」
「何だ」
「なぜ、公爵家の馬車が」
父は一度、ゆっくりと息を吐いた。
「迎えに来た」
胸が固くなる。
だが、父はすぐに続けた。
「しかし、乗れとは言わない」
フローラは父を見る。
「屋敷へ来いとも、言わない」
父は視線を逸らさなかった。
「ただ、到着する日を知った」
一度、言葉が止まる。
「だから、顔を見たかった」
胸が強く痛んだ。
怒りが、熱を持って湧き上がる。
今になって。
今、顔を見たかったと言う。
昔。
同じ屋敷で暮らしていた時。
フローラは毎日そこにいた。
それなのに。
「……遅いです」
周囲の空気が張り詰めた。
父は目を閉じた。
「分かっている」
「分かっていたなら、どうして、もっと前に」
声が震える。
涙が滲む。
「私が屋敷にいた時に、見てくださらなかったのですか」
父の表情が苦しそうに歪んだ。
それでも、フローラは続けた。
「私が森へ行ってから、生きていると分かって安心したと、手紙には書いてありました」
「……ああ」
「どうして、私がいる時に言ってくださらなかったのですか」
長い沈黙。
父はすぐに答えなかった。
周囲の誰も動かない。
風が王家の旗を揺らし、布が大きく鳴った。
「言えなかった」
ようやく父が答える。
「なぜですか」
「父親として、どう話せばよいか分からなかった」
胸が、さらに痛む。
「だから、公爵としてだけ話したのですか」
「そうだ」
「私は」
涙が頬を伝う。
「娘でした」
父の目が揺れる。
「……ああ」
「公爵家のためのものではありません」
「ああ」
「人です」
「ああ」
父は低い声で、何度も答えた。
「分かるのが、遅すぎた」
遅すぎた。
母様の手紙にもあった。
失ってから、離れてから、遅かったと分かる。
フローラはすぐに許すことなどできなかった。
けれど、父は逃げなかった。
言い訳を重ねず、フローラの言葉を受け止めていた。
「今日は、これ以上話せません」
フローラは涙を拭いながら言った。
父はすぐに頷いた。
「分かった」
「本当に?」
「ああ」
「途中でも?」
「ああ」
「私が、屋敷へ行かなくても?」
父の表情が一瞬だけ固くなる。
それでも。
「お前が決めてよい」
手紙に書かれていたものと同じ言葉だった。
フローラは息を整えた。
「では、今日は王宮へ行きます」
「分かった」
父はゆっくり頭を下げた。
父が。
公爵が。
フローラへ頭を下げる。
以前には見たことのない姿だった。
「来てくれて、ありがとう」
その言葉を、今すぐ受け取ることはできなかった。
答えれば、何かを許したことになるような気がした。
だから。
「……今日は、それだけにします」
「ああ」
父は一歩下がった。
それから公爵家の馬車へ戻っていく。
フローラは、その背中を見ていた。
胸は痛い。
けれど、追わない。
父も振り返らなかった。
馬車が去ったあとも、その場にはしばらく沈黙が残った。
「……言えました」
フローラが小さく呟く。
ミナが隣で頷く。
「はい」
リオは拳を握ったまま、去っていく馬車を見ていた。
「殴らなかった」
フローラは一瞬意味が分からず、彼を見る。
「誰をですか」
「公爵」
「父様を?」
「うん」
「駄目です」
「知ってる」
涙が残ったまま、少しだけ笑った。
その笑いによって、張り詰めていた空気がようやく少し戻った。
◇
王都の門をくぐる前、フローラはもう一度、六つの言葉を確認した。
森で暮らしたい。
住む場所は、私も決める。
今は婚姻を望まない。
公爵家をどうするかは、まだ分からない。
分からないことを、今すぐ決めたことにしない。
森へ戻る。
父様へ怒ることができた。
遅い、と言えた。
屋敷にいた時に見てほしかったと伝えられた。
私は娘だった。
人だった。
そこまで言えた。
でも、許したわけではない。
話した。
今日は、それだけ。
それでいい。
「フローラ」
リオが窓を指す。
「門」
巨大な石の門が開いている。
その向こうには、王都の建物と人の流れが見えた。
さらに遠くには、王宮の塔が空へ伸びている。
フローラは窓を少しだけ開いた。
王都の風が入ってくる。
石と煙と人の匂い。
昔の記憶が、一気に押し寄せる。
それでも、フローラは花守り布へ触れた。
「入ります」
声は震えた。
けれど、言えた。
「はい」
ミナが答える。
「うん」
リオも頷いた。
馬車がゆっくりと進み始めた。
◇
城門をくぐる。
衛兵たちが王家の馬車へ敬礼する。
石畳を転がる車輪の音、馬の蹄、市場の呼び声、店先で交わされる会話、遠くで鳴る鐘。
あまりにも多くの音が、一度に押し寄せた。
道の両側。
建物の窓。
店の前。
人々が王家の馬車を見る。
少し見える青い髪と花守り布へ、視線が集まる。
「青の姫君だ」
「帰ってきた」
「王都へ戻ったのか」
「本当に青い髪だ」
「森の公爵令嬢」
「婚姻の話はどうなっている」
「公爵家を継ぐのか」
噂がいくつも聞こえる。
胸が苦しい。
カーテンを閉めようと、手が動く。
でも、途中で止めた。
全部を見たくない。
けれど、少しは見たい。
フローラはカーテンを半分だけ閉じた。
「半分です」
自分へ言う。
リオが頷いた。
「うん」
王都を全部受け取る必要はない。
今日は、半分でいい。
◇
王宮へ続く大通りは、昔、何度も通った道だった。
けれど景色は、完全には同じではない。
店が変わっている。
街路樹が大きくなっている。
知らない人が歩いている。
そして何より、フローラ自身が変わっている。
だから、同じ道でも違って見える。
遠くにある王宮が、少しずつ大きくなる。
白い石壁。
高い屋根。
風にはためく旗。
胸がまた固くなる。
「大丈夫?」
リオが聞く。
反射的に、大丈夫です、と言いそうになる。
でも、フローラは言い直した。
「大丈夫ではありません」
「うん」
「でも、入れます」
ミナが静かに頷いた。
「はい」
◇
王宮の門が開く。
馬車は広い敷地へ入り、白い石の道を進んだ。
整えられた庭。
噴水。
左右対称に植えられた花。
以前も見たはずの景色。
けれど、土に触れ、畑を耕すようになった今のフローラには、以前とは違う見え方をしていた。
花壇は美しい。
けれど、食べられるものがない。
豆を植えたら、きっとよく育つ場所もある。
そんなことを考え、フローラは少しだけ笑った。
「どうしましたか」
ミナが尋ねる。
「いえ」
「何」
リオも見る。
「ここへ畑を作ったら、怒られるでしょうか」
リオは窓の外を確認した。
「怒られる」
「はい」
「やる?」
「まだ考えません」
三人で、少しだけ笑った。
王宮の中でも。
森で暮らしてきた自分が、消えたわけではない。
◇
馬車は西客室棟の前で止まった。
侍従、侍女、護衛が整然と並んでいる。
その光景を見た瞬間、フローラの身体が固くなった。
公爵家の屋敷でも、同じように人が並んでいた。
礼を受ける。
見られる。
公爵令嬢として正しく歩く。
昔の記憶が戻る。
エドガーが馬車の扉の前で頭を下げた。
「フローラ様。こちらは、フローラ様がお休みになるための客室でございます」
「はい」
「必要な者以外は、出入りさせません」
「はい」
「ミナ様とリオ様のお部屋も、同じ廊下にご用意しております」
リオがすぐに尋ねた。
「近い?」
「扉二つ先でございます」
胸が少し軽くなる。
「ありがとうございます」
エドガーは続けた。
「また本日は、陛下も、公爵閣下も、公爵夫人も、フローラ様の許可なくお部屋へ伺うことはございません」
母様。
胸が痛む。
「母様も?」
「はい」
安心する。
でも。
少しだけ寂しいような気もした。
会いたくない。
でも、来ないと聞くと寂しい。
また、両方。
「分かりました」
フローラは息を整えた。
「今日は、休みます」
「承知いたしました」
◇
客室は広かった。
森の家が、いくつ入るだろう。
大きな寝台。
高い窓。
暖炉。
机。
衣装部屋。
浴室。
入口で立ち止まったまま、フローラは正直に言った。
「……落ち着きません」
「はい」
ミナがすぐに答える。
「広すぎる」
リオも言う。
「はい」
侍女たちが数人、部屋の端で待っている。
その視線だけでも緊張した。
エドガーが言う。
「必要な人数まで減らすことができます」
フローラは、一人で、と言いかけて止めた。
一人になりたい。
でも、この広い部屋で本当に一人になるのは少し怖い。
ミナがいてほしい。
「着替えの時だけ、侍女の方を二人お願いします」
「承知いたしました」
「それ以外は、ミナがいてもよいですか」
「もちろんでございます」
「お願いします」
自分で選ぶ。
それができた。
◇
荷物から、村の毛布を取り出した。
王宮の大きな寝台には、上質な寝具が整えられている。
その上へ、古い茶色の毛布を広げる。
侍女の一人が、ほんの一瞬だけ毛布へ目を向けた。
けれど、何も言わない。
「これを使います」
「かしこまりました」
否定されなかった。
煙と草の匂いが少しだけ残る毛布。
王宮の中へ、村のものを置く。
胸が熱くなる。
「来ました」
フローラは小さく言った。
ミナが頷く。
「はい」
「王都へ」
「はい」
毛布を撫でる。
「でも、森も持ってきました」
ミナは静かに微笑んだ。
「はい」
◇
旅服から、簡素な室内着へ着替える。
正式な礼装は、まだ着ない。
謁見の日程も、まだ決まっていない。
二人の侍女は手早く動いた。
けれど、紐を締められた時、少し苦しいと感じた。
以前なら、何も言わずに我慢した。
公爵令嬢の衣装は苦しいもの。
それが当然だと思っていた。
「締めすぎないでください」
フローラが言うと、侍女はすぐに手を緩めた。
「失礼いたしました」
「もう少し、緩くお願いします」
「この程度でいかがでしょう」
フローラは深く息を吸う。
苦しくない。
「はい。ありがとうございます」
これも、言えた。
◇
夕方。
高い窓の向こうに、王都の屋根が広がっていた。
無数の煙が上がり、遠くでは鐘が鳴っている。
外壁の向こうに森は見えない。
それでも、方向は分かるような気がした。
フローラは窓の前に立つ。
「ただいま」
一瞬、言いそうになる。
けれど、止めた。
違う。
ここは、今の自分の家ではない。
「着きました」
その言葉を選ぶ。
王都へ着いた。
ただいま、ではない。
昔暮らしていた場所。
けれど、帰る場所とは違う。
「おかえりなさいと言われたら」
フローラは考えた。
明日以降、誰かに言われるかもしれない。
父様かもしれない。
母様かもしれない。
昔を知る貴族かもしれない。
その時、何と答えるのか。
まだ分からない。
なら、分からないままでいい。
◇
夕食は、ミナとリオの三人で客室の小さな食卓を囲んだ。
王宮の料理は豪華だった。
けれど、量が多い。
「少し減らしてもらえますか」
フローラが侍女へ頼む。
「もちろんでございます」
リオがすぐに付け加える。
「肉は残して」
「リオ」
ミナが窘める。
「俺の分」
フローラは笑った。
王宮の中。
広すぎる部屋。
知らない人。
それでも三人で食べれば、少しだけ普通の食事になる。
「王宮の味はどうですか」
フローラが聞くと、リオは肉を食べながら答えた。
「うまい」
「よかったです」
「でも、村の豆スープも食べたい」
「帰ったら」
「うん」
帰る。
また、その言葉を言えた。
胸が少し温かくなる。
◇
夜。
フローラは旅用の記録紙を机へ広げた。
今日は、王都の外壁を見た。
怖かった。
でも、少し待ってから、もう一度見ることができた。
王都へ入る前に、六つ目の言葉を加えた。
森へ戻る。
そして、父様が迎えに来た。
公爵家の馬車で。
私は屋敷へ行かなかった。
父様へ、遅いと言った。
屋敷にいた時に、私を見てほしかったと伝えた。
私は娘だった。
人だった。
そう言った。
父様は言い訳をしなかった。
分かるのが遅すぎたと答えた。
私は許していない。
でも、話した。
今日は、そこで止めた。
それでいい。
フローラは一度、筆を止めた。
王都へ入った。
噂が聞こえた。
でも、カーテンを半分だけ閉めた。
全部を見なくていい。
王宮へ着いた。
おかえりなさい、ではなく、着きました、と自分で思った。
ここは、今の私の家ではない。
滞在する場所。
話す場所。
考える場所。
そして、森へ戻るための途中。
最後に、もう一つ書く。
今日、私は王都の門をくぐった。
でも、森を門の外へ置いてきたわけではない。
村の毛布。
花守り布。
六つの言葉。
木の実。
ミナ。
リオ。
全部を持って入った。
私は今、王都にいる。
でも、森で暮らした私も、ここにいる。
◇
夜が深くなっても、すぐには眠れなかった。
王宮の寝台は大きすぎる。
村の毛布を胸まで引き上げても、周囲に余白が多い。
窓の外からは王都の音が聞こえる。
遠くの鐘。
馬車。
人の声。
母様が近くにいる。
父様には今日会った。
国王陛下も、同じ王宮にいる。
明日、会うかもしれない。
胸が速くなる。
「今日、門をくぐりました」
フローラは小さく言った。
「でも、帰る場所は変わっていません」
森。
家。
畑。
村。
「私は、王都へ着きました」
そのことを、きちんと認める。
「ただいま、ではありません」
そして、少しだけ笑った。
「まだ、いってきますの途中です」
王都へ着いても、途中。
話す。
考える。
会う。
会わない。
決める。
決めない。
そして、戻る。
全部、まだ途中。
「おやすみなさい、母様」
声が少し震える。
「今日は、会いませんでした」
それでいい。
「おやすみなさい、父様」
父へそう言うのは、初めてだった。
「今日は、ここまでです」
自分で終わりを決める。
最後に。
「おやすみなさい、森」
目を閉じる。
青豆一号。
アオジロウ。
ムラマル。
モリタン。
オカエリ。
キズナ。
春待ち。
子どもたち。
村のみんな。
姿が浮かぶ。
「帰ります」
小さく言う。
「必ず」
王都の夜の中で、フローラは森へ戻るという六つ目の言葉を胸へ置いた。
そして、王都で迎える最初の夜へ、ゆっくりと目を閉じた。




