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『青の姫君の森暮らし 〜化け物と恐れられた公爵令嬢は、今日も畑を耕します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第79話 青の姫君、王都へ持っていく言葉を六つに絞る



 翌朝、フローラが目を覚ました時、窓の外には薄い霧が広がっていた。


 昨夜まで道や屋根を濡らしていた雨は上がっていたものの、町全体がまだ水分を抱えている。軒先からは時折雫が落ち、石畳の隙間では小さな水溜まりが朝の白い空を映していた。


 宿の裏手から、馬の身体を拭く音が聞こえる。


 硬い毛を束ねた刷毛が濡れた馬体を擦り、馬が低く鼻を鳴らす。誰かが桶を置く音や、車輪の留め具を確認する金属音も混ざり、旅を続けるための朝が少しずつ始まっていた。


 フローラは寝台の中で目を開き、その音をしばらく聞いていた。


 旅へ出てから、朝ごとに違う音を聞いている。


 森の家では、鳥の声や木の葉の擦れる音、風が窓の隙間を通る音が先に届いた。宿では、荷馬車や人の足音、扉の開閉、食事を運ぶ食器の音がする。


 場所が変わるたび、朝の形も変わる。


 それでも、自分が目を覚ますことは変わらない。


「旅の四日目です」


 声に出す。


 昨日は、噂の中の自分と、今の自分を分けようとした。


 王都へ戻される娘。


 森で恐れられている化け物。


 追放された公爵令嬢。


 自分から逃げ出した青の姫君。


 知らない人たちは、フローラの知らないフローラをいくつも作っていた。


 その言葉へ傷ついた。


 けれど、森では名前で呼ばれていると伝えることもできた。


 畑を耕している。


 子どもたちと植物を見ている。


 それが今の自分だと、自分の口で言えた。


 思い出すと、胸の奥がまだ少し痛む。


 化け物という言葉は、昔の記憶に深く触れた。


 けれど、痛みだけではない。


 違うと言えたことも残っている。


 悲しかったと言えたことも残っている。


「傷ついたことと、言えたことは、どちらもあります」


 一つだけを選ばなくていい。


 傷ついたのだから、何も成長していないわけではない。


 言えたのだから、もう傷つかないわけでもない。


 両方。


 昨日の自分の中にある。


 フローラは毛布から手を出し、枕元の花守り布へ触れた。


 森から伸びる途中までの道。


 森側へ集まる点。


 ミナとリオを示す二つの点。


 動いている自分には、まだ決まった点がない。


 王都へ向かっている。


 でも、王都にいるわけではない。


 森を出た。


 でも、森を手放したわけではない。


「今日も、途中です」


 昨日と同じ言葉。


 それでも、今日は昨日とは違う。


 王都との距離が少し縮まっている。


 旅をした日が一日増えている。


 言えた言葉も増えている。


 怖さも、少しずつ形を変えている。


「おはようございます」


 薄い霧の向こうへ言う。


 少し間を置く。


「おはようございます、母様」


 母様のいる王都へ、また近づく。


 胸が痛む。


 けれど、今日はその痛みを消そうとしなかった。


「今日も、会うかどうかは決めません」


 母様へ会わないと決めたわけではない。


 会うと決めたわけでもない。


 決めていない。


 それでいい。


「今日は、王都で話したいことを確かめます」


 国王陛下へ。


 父様へ。


 必要なら、母様へ。


 自分が何を望んでいるのか。


 何が分からないのか。


 何を今は決めたくないのか。


 王都へ着いてから考え始めるのでは遅い、とは思わない。


 けれど、王都の空気に囲まれた時、自分の言葉を見失うかもしれない。


 だから。


 今のうちに。


「自分の言葉を、持っていきます」


     ◇


 顔を洗い、髪を梳く。


 自分で髪を編むことにも、少しずつ慣れてきた。


 最初は指が絡まり、何度も途中でほどけた。左右を揃えようとするほど形が崩れ、ミナへ頼みたくなったこともある。


 それでも、昨日より少し上手くできればよいと思うようになった。


 今日は一度で、ほとんど同じ高さにまとめることができた。


 鏡へ顔を近づけて確認する。


 右側が、ほんの少しだけ緩い。


 以前なら、すぐに直した。


 誰かに見られた時、公爵令嬢として整っていないと思われるのが怖かったから。


 今は。


 自分が気になるだろうか。


 フローラは鏡の中の自分へ問いかけた。


「……今日は、このままでよいです」


 少しの違い。


 それだけ。


 髪が完全に揃っていなくても、自分の言葉まで歪むわけではない。


 花守り布を頭へかぶる。


 昨日は雨布の内側へ重ねたため、外からはほとんど見えなかった。


 今日は、そのまま見える。


 誰かに見られるかもしれない。


 素朴だと思われるかもしれない。


 公爵令嬢らしくないと言われるかもしれない。


 それでも、持っていくと決めた。


「今日は、外です」


 見える形で森を持っていく。


 見えない日があってもいい。


 見える日があってもいい。


 それも、自分で選べる。


     ◇


 朝食の部屋へ入ると、リオは大きな窓の前に立っていた。


 昨日までなら、食事が置かれていれば、最初に席へ着いていたはずだ。今日はパンにも卵にも手をつけず、外を見ている。


「おはようございます」


「おはよう」


「何を見ていますか」


「霧」


「はい」


「森みたい」


 フローラも窓へ近づいた。


 町の屋根や街道は白い霧の向こうへ輪郭を失っている。遠くの建物はほとんど見えず、木や荷馬車の影だけがぼんやり浮かんでいた。


「少し似ていますね」


「でも木が少ない」


「はい」


「音が多い」


「はい」


 霧の中から、人の声や車輪の音が届く。


 森の朝霧なら、鳥の声や濡れた枝の音が聞こえる。


 似ている。


 でも、同じではない。


「昨日も言っていました」


 フローラは少し笑った。


「何を」


「似ていても、同じではないと」


「俺が?」


「私です」


「覚えてない」


「昨日の私の言葉ですから」


 ちょうど入ってきたミナが、小さく笑った。


「お二人とも、朝食の前から難しいお話をされていますね」


「霧の話です」


「難しくない」


「では、食べながら続きをお願いします」


 三人は席へ着いた。


 朝食には、焼いたパンと温かな豆の煮込み、薄く切った燻製肉、それに煮た果物が用意されている。


 フローラは豆の煮込みを一口食べた。


 森のものより、香辛料が多い。


 豆も少し大きい。


「王都に近づくと、味も変わるのでしょうか」


 ミナが答える。


「王都へ出入りする商人が増えますから、使われる香辛料や食材も増えるのでしょう」


 リオが豆を見ながら言う。


「村の方が豆の味がする」


「こちらも豆の味はします」


「香りが強い」


「それは分かります」


 フローラはもう一口食べた。


 美味しい。


 でも、村の味とは違う。


 違うものを、美味しいと思ってもいい。


 村の味を忘れることにはならない。


「今日」


 フローラは匙を置いた。


「王都で話すことを、まとめたいです」


 リオがパンを千切る手を止める。


「王様に?」


「国王陛下にも。父様にも」


「母様にもですか」


 ミナの問いへ、フローラは少し考えた。


「まだ、分かりません」


「はい」


「会うかどうかを決めていないので」


「承知しています」


 決めていないことを、決めていないまま話せる。


 ミナは急かさない。


 リオも、会えば、とは言わない。


「何を言うの」


 リオが尋ねる。


「森で暮らしたいです」


「うん」


「公爵家へ戻るよう言われても、すぐには決めません」


「うん」


「婚姻も、今は望みません」


 言葉にすると、胸が少し固くなる。


 婚姻。


 昨日の噂でも聞いた。


 王都では、さらに多くの人がその話をするかもしれない。


 公爵令嬢であるフローラが戻るなら、次に話題となるのは婚姻と継承。


 以前なら。


 それが当然だと思った。


 公爵家の娘なのだから。


 家のために決められた相手と結ばれる。


 受け入れる以外の答えはない。


 でも、今は違う。


「望みません、と言ってよいでしょうか」


 フローラが尋ねると、リオは迷わず答えた。


「いい」


「でも、公爵家のことが」


「フローラのことだろ」


「はい」


「なら、フローラが決める」


 簡単な言葉。


 けれど、王都ではそれほど簡単ではないことを、フローラは知っている。


 家。


 地位。


 領地。


 血筋。


 義務。


 公爵家の娘一人の望みだけでは決められないこともある。


「すべてを一人で決められないとしても」


 ミナが静かに言った。


「望みを伝えることはできます」


「はい」


「望みを伝えた上で、何を一緒に考える必要があるのかを確認できます」


「はい」


「最初から望みを消す必要はありません」


 フローラは頷いた。


 王都では、自分の望みがそのまま通るとは限らない。


 でも。


 だからといって、最初から言わない理由にはならない。


     ◇


 朝食を終えたあと、フローラは小さな紙を机へ広げた。


 旅の記録とは別に用意した紙。


 王都で伝えたいことを書くためのものだった。


 ミナとリオも同じ机へ座る。


 何から書けばよいだろう。


 国王陛下へ話す言葉。


 父様へ話す言葉。


 相手によって違う。


 でも、中心にあるものは同じかもしれない。


「最初は」


 フローラは筆を持ったまま考える。


「森で暮らしたい、です」


 紙の一番上へ書く。


 一つ目。


 森で暮らしたい。


 書いた文字を見つめる。


 これだけなら、以前から何度も思っていた。


 でも。


 王都で口にするとなると、少し違う。


 森は逃げた場所だと言われるかもしれない。


 公爵家の責任から離れたいだけだと受け取られるかもしれない。


「森で暮らしたい理由も、書きますか」


 ミナが尋ねた。


 フローラは筆を止める。


「理由」


「はい」


「畑があるから」


 リオが言う。


「村も」


「はい」


「子どもたちも」


「はい」


「家も」


「はい」


 全部、本当。


 けれど、それだけではない。


「森では」


 フローラはゆっくり言葉を探した。


「自分で朝を決められます」


 王都では、起きる時間も、食事の時間も、誰に会うかも、何を学ぶかも決められていた。


 森では。


 雨なら畑を見る。


 疲れているなら少し休む。


 手紙を読みたくない日は読まない。


 誰かへ会いたい時は、自分で扉を開く。


「自分で、暮らすことを決められます」


 フローラはその言葉を、紙の下へ小さく書いた。


「森だから、だけではないのですね」


 ミナが言う。


「はい」


「自分で暮らせる場所だから」


「はい」


 森が好き。


 でも、森であればどこでもよいわけではない。


 今の森。


 今の家。


 今の村。


 そこに、自分で選んだ暮らしがある。


「二つ目は?」


 リオが聞く。


 フローラは考えた。


「住む場所を、勝手に決めてほしくありません」


 言葉が強いように感じる。


 けれど、本当。


「私も決める、ではどうでしょう」


 ミナが提案する。


 フローラは紙へ書いてみた。


 二つ目。


 住む場所は、私も決める。


「これがよいです」


 誰にも決めさせない、ではない。


 王家や公爵家の事情を全く聞かないという意味でもない。


 でも、自分を外して決めないでほしい。


 私も決める。


 その言葉なら、自分の望みに近い。


「三つ目」


 フローラは一度筆を置き、両手を膝へ重ねた。


 婚姻。


 書く。


 それだけなのに、胸が緊張する。


「今は、婚姻を望みません」


 リオがすぐに頷く。


「うん」


 ミナも急かさずに待つ。


 フローラは紙へ書いた。


 三つ目。


 今は婚姻を望まない。


 今は。


 ずっと、ではない。


 決して、でもない。


 今。


 それが大切だった。


「今後も望まないかは、まだ分かりません」


 フローラが言うと、ミナは頷いた。


「それも、そのままでよいと思います」


「曖昧ではありませんか」


「今の答えが、今後も変わらないと断言する方が不自然です」


 そうかもしれない。


 以前は、答えは一度決めたら変えてはいけないと思っていた。


 でも、人の気持ちは変わる。


 植物も、天気も、季節も変わる。


 変わることは、嘘だったという意味ではない。


 今の答えは、今の自分にとって本当。


 それでいい。


「四つ目は、公爵家です」


 フローラは言った。


 ここが最も難しい。


 公爵家を継ぐのか。


 継がないのか。


 父様の後をどうするのか。


 自分が森で暮らし続けるなら、公爵家との関係をどうするのか。


 分からない。


「分かりません」


 正直に言う。


 リオが答える。


「なら、分からないでいい」


「でも、王都へ行くのに」


「王都へ行けば、何でも分かるの?」


 フローラは言葉を失った。


「……分からないと思います」


「なら、分からないって言えばいい」


 ミナが静かに補う。


「公爵家について考えたくないのではなく、考えるための情報や時間が足りないのですね」


「はい」


「でしたら、それを伝えればよいと思います」


 フローラは紙へ書く。


 四つ目。


 公爵家をどうするかは、まだ分からない。


 まだ。


 その一言があるだけで、少し呼吸がしやすくなる。


「五つ目」


 フローラは紙の余白を見た。


 何だろう。


 森。


 住む場所。


 婚姻。


 公爵家。


 他に。


 王都で忘れてはいけないこと。


 怖くなった時。


 周囲が答えを急いだ時。


 国王陛下や父様から、どうするのかと尋ねられた時。


 分からないことを、分かったふりで答えない。


「分からないことを、今すぐ決めたことにしない」


 口にすると、胸へすっと入った。


 ミナが静かに微笑む。


「とても大切だと思います」


 リオも頷いた。


「それ」


 フローラは五つ目を書いた。


 分からないことを、今すぐ決めたことにしない。


 紙の上に、五つの言葉が並んだ。


 森で暮らしたい。


 住む場所は、私も決める。


 今は婚姻を望まない。


 公爵家をどうするかは、まだ分からない。


 分からないことを、今すぐ決めたことにしない。


 フローラは一つずつ読み返した。


「少ないでしょうか」


「多い」


 リオが即座に答える。


「多いですか」


「俺なら二つ」


「何ですか」


「森へ帰る」


「一つではありませんか」


「帰るまで邪魔するな」


「二つ目が強いです」


 ミナが口元へ手を当て、笑いをこらえている。


「リオの言葉も分かりやすいですが、フローラ様の言葉の方が陛下へは伝わりやすいと思います」


「王様、長いの分かる?」


「分かります」


「ならいい」


 フローラも笑った。


 張りつめていた空気が少し柔らかくなる。


     ◇


 紙を折ろうとして、フローラは手を止めた。


 これをどこへ入れるか。


 荷物の中では、必要な時にすぐ取り出せない。


 服の内側へ入れると、落とすかもしれない。


 ミナが花守り布を見る。


「布の内側へ、小さな袋を縫い付けてはいかがでしょう」


「今からですか」


「簡単なものでよければ」


 ミナは荷物の中から針と糸を取り出した。


 旅の途中で衣服がほつれた時のために持ってきたものらしい。


「私が縫っても?」


 フローラが尋ねると、ミナは針を差し出した。


「もちろんです」


 フローラは花守り布を膝へ広げた。


 裏側。


 森の道の刺繍へ重ならない場所。


 小さく折った紙が入る程度の布を当てる。


 針へ糸を通す。


 一針目。


 少し斜め。


 二針目。


 間隔が広い。


 ミナは何も言わずに見守っている。


 リオは途中で椅子を離れ、窓の外を見たり、戻ってきたりした。


「遅い」


「縫っているので」


「まだ半分」


「急ぐと曲がります」


「もう曲がってる」


「リオ」


 フローラは思わず彼を見る。


「本当のこと」


「言い方があります」


「でも、使える?」


 フローラは縫い目を見る。


 少し曲がっている。


 でも、布は留まっている。


「使えます」


「ならいい」


 また。


 それでいい。


 見た目が完全でなくても、役目を果たせる。


 最後まで縫い終え、小さな袋の中へ五つの言葉を書いた紙を入れた。


 外からは見えない。


 でも、触れれば分かる。


「ここにあります」


 花守り布を持ち上げる。


「王都で怖くなった時、触ります」


「はい」


 ミナが頷く。


「なくさない」


 リオも言う。


「はい」


 フローラは花守り布をもう一度頭へかぶった。


 五つの言葉が、布の内側で額に近い場所へ触れる。


 少しだけ重い。


 でも、嫌な重さではない。


 森から持っていく言葉の重さだった。


     ◇


 出発の時間になり、三人は宿の裏口へ向かった。


 昨日、フローラが選んだ入口。


 表玄関には旅人や町の人が集まっていると聞いていた。


 噂を訂正するために、毎日表へ出る必要はない。


 今日は、静かに出たい。


 裏口では、王家の護衛たちがすでに馬車を整えていた。


 雨は上がっている。


 霧も少しずつ薄くなり、遠くの道が見え始めていた。


 使者が頭を下げる。


「フローラ様。本日は昼過ぎに次の宿場へ到着する予定です」


「はい」


「明日以降は、王都へ向かう馬車がさらに増えます」


「はい」


「また、王宮から迎えの者が途中まで来る可能性がございます」


 フローラの胸が少し固くなる。


「誰が来るのですか」


「現時点では、王宮侍従の一行と聞いております」


 父様ではない。


 母様でもない。


 そのことへ、安心した。


 そして、安心した自分へ少しだけ罪悪感が生まれる。


「安心してもよいでしょうか」


 小さく言うと、ミナが答えた。


「はい」


「父様や母様でなくて、安心しています」


「はい」


「悪い娘ではありませんか」


 ミナはすぐには答えなかった。


 少し考えてから、静かに言う。


「会う準備ができていないことと、娘として悪いことは同じではありません」


 また、分ける。


「そうですね」


 フローラは頷いた。


     ◇


 馬車は霧の残る街道を進んだ。


 昨日の雨で道はまだ柔らかく、車輪が深い轍を作る。速度は速くなかったが、揺れはいつもより少し大きかった。


 フローラは窓のカーテンを半分開けた。


 外には、濡れた畑が広がっている。


 農夫たちが畝の状態を確かめ、溜まった水を細い溝へ流していた。子どもが長い棒を持ち、水路に詰まった葉を取り除いている。


 森の畑でも、同じようなことをしているだろうか。


 ガルドさんが水の流れを見ている。


 サムが記録する。


 エマが手伝おうとして、長靴のまま泥へ入りすぎる。


 トトが掘ってよい場所と、掘ってはいけない場所を間違える。


 想像すると、少し笑った。


「畑?」


 リオが聞く。


「はい」


「また心配?」


「少し」


「任せた」


「はい」


 昨日と同じやり取り。


 でも、今日は少し違う。


「心配してもよいです」


 フローラが自分から言うと、リオは頷いた。


「うん」


「でも、任せました」


「うん」


「両方です」


「うん」


 ミナが向かいの席で微笑んでいる。


「今日は、ご自分で言えましたね」


「はい」


 少しずつ。


 何度も繰り返すうちに、自分の言葉になる。


     ◇


 午前の休憩は、街道沿いの小さな茶屋で取ることになった。


 昨日の休憩所ほど大きくはない。


 木造の建物と簡素な厩、外には雨上がりの土を踏み固めた広場がある。旅人の数も少なく、荷馬車が二台止まっているだけだった。


 フローラが馬車を降りると、茶屋の主人らしい中年の女性が深く頭を下げた。


「お待ちしておりました」


 王家の使者から事前に連絡が届いていたらしい。


「温かいお茶をご用意しております」


「ありがとうございます」


 声をかけると、女性は少し驚いたように顔を上げた。


 青い髪。


 公爵令嬢。


 噂。


 何を想像していたのだろう。


 けれど、女性はすぐに笑った。


「こちらへどうぞ」


 茶屋の奥には、三人で使える小さな部屋が用意されていた。


 窓の外には、低い柵で囲まれた小さな菜園がある。雨を受けた葉が濃い緑色になり、端には背の低い豆の株が並んでいた。


「豆です」


 フローラは思わず窓へ近づいた。


 茶屋の女性が嬉しそうに頷く。


「はい。この辺りではよく育つ種類です」


「見てもよいですか」


「もちろんです」


 フローラは外へ出た。


 泥へ入らないよう、柵の外から葉を見る。


 森の豆とは形が少し違う。葉は丸みがあり、茎も太い。雨を受けたせいか、一部の葉が下を向いていた。


「水が多いですか」


「昨日は、かなり降りましたから」


「根元に水は溜まっていませんか」


 女性は少し驚きながら、畝の間を指した。


「朝、夫が溝を掘りました」


 見ると、細い水路が作られている。


「きれいに流れています」


「お詳しいのですね」


 その言葉へ、フローラの胸が少し動く。


 公爵令嬢だからでも。


 青い髪だからでも。


 噂の姫君だからでもなく。


 植物に詳しいと言われた。


「森で、畑を耕しています」


 昨日、知らない人へ言った言葉。


 今日は、少し自然に言えた。


 女性の目が丸くなる。


「本当に?」


「はい」


「ご自分で?」


「はい」


「それは……」


 女性は言葉を探すように豆の畑を見る。


「手が荒れませんか」


 フローラも自分の手を見る。


 公爵家で暮らしていた頃より、少し硬くなった指先。


 土が爪の間へ入ることもある。


 小さな傷もある。


「荒れます」


 正直に答える。


「でも、土に触れるのは好きです」


 女性は少しの間、何も言わなかった。


 そのあと、柔らかく笑う。


「そうですか」


 ただ、それだけ。


 変だとも。


 公爵令嬢らしくないとも言われない。


「豆の花が咲いたら」


 フローラは畑を見る。


「雨のあとに花の根元が傷んでいないか、見た方がよいと思います」


「分かりました」


「それから、葉の裏に小さな虫がつくことがあります」


「夫に伝えます」


 頼まれてもいないのに、言いすぎただろうか。


 フローラは少し不安になる。


「すみません。余計なことを」


「いいえ」


 女性はすぐに首を振った。


「助かります。私たちは毎年育てていますが、全部が分かるわけではありませんから」


 毎年育てていても、全部は分からない。


 植物と同じ。


 人も。


 家族も。


 長く一緒にいても、全部が分かるわけではない。


 だから、分からなかったと言えばよい。


 でも。


 分からなかったから見なくてよいわけではない。


 父様。


 母様。


 少し思い出す。


 けれど、豆と父様を同じにはしない。


 似ているところがあっても、同じものではない。


     ◇


 茶屋へ戻ると、温かな薬草茶と焼いた小さな菓子が用意されていた。


 リオがすでに一つ食べている。


「早いですね」


「冷める」


「まだ温かいです」


「だから」


 フローラも一つ取る。


 外側は少し硬いが、中には柔らかな果実が入っている。


「美味しいです」


 茶屋の女性が嬉しそうに笑う。


「よかったです」


 その時、入口の方で小さな声がした。


「青い」


 フローラが振り向くと、茶屋の女性の後ろに、小さな女の子が隠れていた。


 六歳くらい。


 女性と似た髪の色。


 娘だろうか。


「こら」


 女性が慌てて振り返る。


「申し訳ありません」


「大丈夫です」


 言ってから。


 本当に大丈夫だろうか。


 子どもに見られること。


 今は。


 怖くない。


「こんにちは」


 フローラが声をかけると、女の子は母親の服を握ったまま顔を出した。


「こんにちは」


「青い髪は、珍しいですか」


 女の子は頷いた。


「空みたい」


 昨日会った子どもも、同じことを言った。


「昨日も、そう言われました」


「同じ人?」


「違う人です」


 女の子は少し考えた。


「みんな空って思うの?」


「そうかもしれません」


 リオが横から言う。


「川って言う人もいる」


「川?」


「水も」


 女の子はフローラの髪をじっと見る。


「夜の空」


「夜ですか」


「青くて、少し暗い」


 フローラは自分の髪を一房取った。


 明るい場所では青く。


 影の中では少し濃く見える。


「そうかもしれません」


 女の子が一歩前へ出る。


 そして、何かを言おうとして止まった。


 昨日の子ども。


 触ってもよいか聞いた。


 今日も?


 胸が少し緊張する。


 けれど、女の子が尋ねたのは違うことだった。


「森って怖い?」


 フローラは少し驚いた。


「どうしてですか」


「化け物がいるって」


 胸が固くなる。


 昨日と同じ言葉。


 でも、女の子はフローラを化け物だと言っているわけではない。


 森に化け物がいる。


 そう聞いただけ。


「森には、危険な動物もいます」


「怖い?」


「怖い時もあります」


「青いお姉ちゃん、住んでるんでしょう?」


「はい」


「怖くない?」


 フローラは考えた。


 森は安全だけではない。


 夜の音。


 獣。


 嵐。


 病気。


 畑が傷むこと。


 怖いものはある。


 でも。


「怖いことがあっても、好きです」


 女の子は不思議そうにする。


「怖いのに?」


「はい」


「どうして?」


「好きなものも、たくさんあるからです」


 畑。


 家。


 村。


 子どもたち。


 静かな朝。


 風。


 土。


「怖くない場所だから好きなのではありません」


 言って。


 自分でも少し驚く。


 王都。


 怖い。


 でも、王都に好きなものはあるだろうか。


 まだ分からない。


 母様。


 父様。


 昔。


 全部が嫌だったわけではない。


 けれど、今それを考えなくてもいい。


 女の子は少し考えたあと、頷いた。


「私、犬怖いけど、うちの犬は好き」


「似ていますか」


「たぶん」


 フローラは笑った。


「では、少し似ています」


     ◇


 茶屋を出る前、女の子が小さな木の実を一つ持ってきた。


「これ」


「何ですか」


「お守り」


 手のひらに載せられたのは、丸く硬い殻を持つ木の実だった。


「森にある?」


「似たものはあります」


「王都まで持っていって」


 母親が慌てる。


「そのようなものを公爵令嬢様へ」


「よいです」


 フローラは木の実を両手で受け取った。


 高価ではない。


 何の力もないかもしれない。


 でも、女の子が渡すと決めたもの。


「ありがとうございます」


「帰りも持ってきて」


 帰り。


 胸が温かくなる。


「はい」


 森へ帰る途中。


 またここを通るかは分からない。


 でも。


「なくさないようにします」


 木の実を、五つの言葉が入った小さな袋の隣へ入れる。


 花守り布の内側。


 言葉と、お守り。


 少し重くなった。


     ◇


 午後の道では、霧がすっかり晴れていた。


 空には薄い雲が残っているものの、時折日差しが落ちる。濡れた草原が光り、遠くには低い丘が続いていた。


 王都へ向かう馬車も増えている。


 すれ違う商人。


 地方の紋章を掲げた貴族の馬車。


 巡礼者。


 兵士。


 王家の馬車を見るたび、道を譲り、視線を向ける。


 窓越しに、青い髪が見えたのだろう。


 何人かが驚いた顔をした。


 頭を下げる人もいる。


 隣の人へ何かを囁く人もいる。


 フローラはカーテンを半分開けたままにしていた。


 全部の視線を受け取らない。


 でも、全部から隠れない。


 今日は、それができている。


「疲れましたか」


 ミナが尋ねる。


「少し」


「カーテンを閉めますか」


 フローラは外を見る。


 まだ見たい。


 でも、視線は少し重い。


「もう少しだけ閉めます」


 半分から、三分の一ほどへ。


 全部ではない。


 それでいい。


     ◇


 馬車が緩やかな丘を越えた時、使者が外から声をかけた。


「フローラ様。右手をご覧ください」


 何だろう。


 フローラはカーテンを少し開いた。


 遠く。


 空と大地の境目。


 まだ小さい。


 けれど、水平へ長く続く灰色の線が見えた。


「……あれは」


「王都の外壁です」


 胸が一度、大きく鳴った。


 まだ遠い。


 今日中に着く距離ではない。


 それでも。


 見えた。


 王都。


 父様。


 母様。


 国王陛下。


 昔の屋敷。


 廊下。


 視線。


 化け物という声。


 全部が一度に胸へ押し寄せる。


 フローラの呼吸が浅くなった。


「閉める?」


 リオがすぐに聞く。


 フローラは答えられない。


 見たい。


 見たくない。


 両方。


「少し、待ってください」


 自分へも、二人へも言う。


 カーテンを手で持ったまま、目を閉じる。


 花守り布の内側。


 五つの言葉へ触れる。


 森で暮らしたい。


 住む場所は、私も決める。


 今は婚姻を望まない。


 公爵家をどうするかは、まだ分からない。


 分からないことを、今すぐ決めたことにしない。


 木の実。


 女の子のお守り。


 帰りも持ってきて。


 帰り。


 王都へ着く。


 でも。


 戻る道もある。


「もう一度、見ます」


 フローラは目を開いた。


 灰色の線。


 外壁。


 先ほどより、少しだけただの景色として見える。


 怖い。


 でも。


「遠いですね」


「明日か、明後日には着くと思います」


 使者の答えへ、胸がまた少し固くなる。


「そうですか」


 フローラはカーテンを閉めなかった。


 しばらく外壁を見たあと、自分で三分の一まで戻した。


 見た。


 今日は、それで十分。


     ◇


 夕方、宿場町へ到着した。


 昨日よりさらに大きな町だった。


 王都へ向かう人々が集まるため、宿の前には多くの馬車が並んでいる。兵士や商人だけでなく、上等な服を着た貴族の従者らしい者も多い。


 王家の馬車が入ると、周囲がざわめいた。


「青の姫君では」


「王都へ戻るのか」


「明日には入城するらしい」


「公爵家が迎えを出すという話だ」


「国王陛下が直々に」


 声が重なる。


 フローラは馬車の中で息を整えた。


「今日は、裏口ですか」


 使者が答える。


「どちらも選べます」


 どちらも。


 表。


 裏。


 昨日は裏を選んだ。


 今日は。


 疲れている。


 王都の外壁を見た。


 胸がまだ落ち着かない。


 でも、五つの言葉を持っている。


 木の実もある。


「表から」


 言って。


 自分でも驚く。


 ミナがすぐには何も言わない。


 リオがフローラを見る。


「大丈夫?」


 大丈夫ではない。


 でも。


「少しだけ、表から入りたいです」


 全部の人へ話すためではない。


 噂を訂正するためでもない。


 ただ。


 今日は、自分で表を選んでみたい。


「途中で難しくなったら、馬車へ戻ってもよいですか」


 使者が深く頷く。


「もちろんでございます」


「では、お願いします」


     ◇


 馬車の扉が開いた。


 夕方の町の空気が流れ込む。


 人。


 声。


 馬。


 料理の匂い。


 車輪の音。


 いくつもの視線。


 フローラは花守り布へ触れた。


 五つの言葉。


 木の実。


 ミナ。


 リオ。


 全部ある。


 ゆっくりと馬車を降りる。


 周囲のざわめきが少し大きくなった。


「本当に青い」


「公爵令嬢様」


「森から」


 声。


 胸が固い。


 でも、歩く。


 宿の入口までは、それほど遠くない。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 その時、前方で小さな物音がした。


 荷物を抱えていた少年が、足元の水溜まりへ気づかず滑った。箱が傾き、中に入っていた乾燥した薬草の束が地面へ落ちる。


「あっ」


 少年が慌てて膝をつく。


 周囲の大人たちは王家の馬車やフローラへ目を向けており、すぐには動かなかった。


 フローラも足を止める。


 公爵令嬢。


 旅服。


 人前。


 地面は濡れている。


 膝をつけば服が汚れる。


 以前なら、侍女が動くのを待った。


 でも。


 薬草。


 濡れる。


 フローラは少年の近くへ屈み、地面へ落ちた束を拾った。


「これは、濡れても大丈夫ですか」


 少年は目を大きく見開いた。


「え」


「乾燥させた薬草ですよね」


「は、はい。でも、水に濡れると」


「こちらは、まだ乾いています」


 水溜まりへ落ちなかった束から拾う。


 ミナもすぐに隣へ屈み、リオは転がった箱を押さえた。


 周囲のざわめきが、違うものへ変わっていく。


「公爵令嬢が」


「薬草を」


「本当に森で暮らしていたのか」


 声は聞こえる。


 でも今は、少年と薬草を見る。


「この葉は」


 フローラは一束を確認する。


「湿気を吸いやすいので、今夜もう一度広げた方がよいと思います」


 少年は何度も頷いた。


「はい」


「箱の底も濡れています」


 リオが言う。


「別の箱、ある?」


「宿に予備があります」


「なら替えた方がいい」


「はい」


 すべて拾い終え、フローラは立ち上がった。


 旅服の裾へ、少し泥がついている。


 侍女らしい女性が慌てて近づく。


「フローラ様、お召し物が」


「少しだけです」


 以前なら。


 汚れ。


 失敗。


 叱られる。


 でも。


 今は。


 薬草が濡れるよりよかった。


「洗えば落ちます」


 言うと、侍女は驚いたように黙った。


 少年が深く頭を下げる。


「ありがとうございました」


「いいえ」


 フローラは少し考えたあと続けた。


「今夜、必ず広げてください」


「はい」


 少年の後ろにいた年配の男性も頭を下げる。


「助かりました。王都の薬師へ運ぶ大切な品でして」


「王都へ?」


「はい」


「では、届くとよいですね」


 周囲の人々は、まだフローラを見ていた。


 でも、先ほどまでとは視線が少し違う。


 青い髪。


 公爵令嬢。


 噂。


 それだけではなく。


 薬草を拾った人。


 服の裾を汚した人。


 森で植物を見ている人。


 今の自分の一部を、誰かが見た。


 フローラはそれを嬉しいと思った。


 でも。


 良い人だと思われたいから拾ったわけではない。


 薬草が濡れそうだったから。


 拾いたかったから。


 それでいい。


     ◇


 宿の部屋へ入ると、フローラはすぐに椅子へ座った。


 力が抜ける。


「疲れました」


 正直に言う。


 ミナが旅服の裾を確認する。


「泥は乾いてから落とせば問題ありません」


「はい」


 リオが窓際の椅子へ座る。


「表、入れた」


「はい」


「薬草も拾った」


「はい」


「人、いっぱい見てた」


「はい」


「嫌だった?」


 フローラは少し考えた。


「嫌でした」


「うん」


「でも」


 自分の裾の泥を見る。


「拾えてよかったです」


「うん」


「両方です」


 リオは頷いた。


 ミナも静かに笑う。


「今日も、両方ですね」


「はい」


     ◇


 夕食前。


 フローラは五つの言葉が入った紙をもう一度取り出した。


 紙の端へ、少し皺がついている。


 花守り布の内側へ入れたまま、何度も触れたからだ。


 皺。


 キズナ。


 残る。


 でも、使える。


 フローラは紙を広げ、一つずつ読み返した。


 森で暮らしたい。


 住む場所は、私も決める。


 今は婚姻を望まない。


 公爵家をどうするかは、まだ分からない。


 分からないことを、今すぐ決めたことにしない。


「これで足りますか」


 ミナへ聞く。


「明日になれば、また増えるかもしれません」


「増えてもよいですか」


「もちろんです」


「減っても?」


「はい」


 決めた言葉も、変えてよい。


 今の自分を守るために作ったものだから。


 言葉のために、自分を縛る必要はない。


「今日は、これでよいです」


 紙を折る。


 内側の袋へ戻す。


     ◇


 夕食は、宿の部屋へ運んでもらった。


 表玄関で姿を見られたため、食堂にはさらに多くの人が集まっているらしい。使者から聞き、フローラは部屋で食べることを選んだ。


「表から入ったのに、食堂へ行かないのは変ですか」


 フローラが尋ねると、ミナは首を横へ振った。


「表から入ることと、食堂で大勢に囲まれることは別です」


「はい」


 今日も、分ける。


 食卓には、肉と根菜の煮込み、焼いたパン、豆の和え物が並んだ。


 リオは豆を見て、一口食べる。


「朝より村に近い」


「香辛料が少ないからでしょうか」


「たぶん」


「批評家ですね」


「またそれ」


 三人で笑う。


 王都の外壁を見た日。


 人の前を歩いた日。


 それでも、食事の時には豆の味を話せる。


 そのことが嬉しかった。


     ◇


 夜。


 旅の記録紙を広げる。


 今日は、王都へ持っていく言葉を五つにした。


 森で暮らしたい。


 住む場所は、私も決める。


 今は婚姻を望まない。


 公爵家をどうするかは、まだ分からない。


 分からないことを、今すぐ決めたことにしない。


 花守り布の内側へ、小さな袋を縫った。


 縫い目は曲がった。


 でも、紙は入った。


 茶屋で豆を見た。


 女の子から木の実のお守りをもらった。


 森は怖いかと聞かれた。


 怖いことがあっても、好きだと答えた。


 王都の外壁が見えた。


 怖かった。


 でも、少し待ってから、もう一度見た。


 宿へは、表から入った。


 人が多くて怖かった。


 薬草が落ちたので拾った。


 服が少し汚れた。


 でも、拾えてよかった。


 フローラは筆を止める。


 今日も、いくつもの両方があった。


 王都へ行く。


 でも、着くのは怖い。


 表から入りたい。


 でも、大勢に囲まれたくない。


 見られるのは嫌。


 でも、薬草を拾った自分を見てもらえたことは少し嬉しい。


 父様と母様ではなく、侍従が迎えに来ると聞いて安心した。


 でも、安心した自分を少し悲しいとも思った。


 どれかを消さなくていい。


 全部、今の自分。


 最後に。


 王都へ持っていくもの。


 花守り布。


 村の毛布。


 五つの言葉。


 木の実。


 ミナ。


 リオ。


 そして。


 森で暮らした私。


 それを書いた。


     ◇


 寝台へ横になる前、フローラは窓を少し開けた。


 町の向こう。


 暗い空。


 王都の外壁は、夜の中へ隠れて見えない。


 昼には確かに見えた。


 でも、今は見えない。


 見えなくなったからといって、消えたわけではない。


 森も同じ。


 王都も同じ。


「明日」


 フローラは小さく言う。


「もっと近くなります」


 怖い。


 でも。


「五つ、あります」


 花守り布へ触れる。


 木の実もある。


「おやすみなさい、母様」


 少し間を置く。


「今日も、会うかどうかは決めませんでした」


 決めない。


 それを、自分で選んだ。


「おやすみなさい、父様」


 呼んでみる。


 胸が痛む。


「父様へ何を言うかも、全部は決めていません」


 でも。


「遅かった、と言いたいです」


 自分が屋敷にいた時。


 見てほしかった。


 声を聞いてほしかった。


 娘として呼んでほしかった。


 それは、言いたい。


 全部を今日決めない。


 でも、言いたいことが一つ見つかった。


「おやすみなさい、森」


 村の毛布を胸まで引き上げる。


「今日も、いってきますの途中です」


 王都へ着く前の夜。


 フローラは、花守り布の内側にある五つの言葉へ指先で触れた。


 森で暮らしたい。


 住む場所は、私も決める。


 今は婚姻を望まない。


 公爵家をどうするかは、まだ分からない。


 分からないことを、今すぐ決めたことにしない。


 王都で誰かの言葉に囲まれても。


 昔の自分へ戻りそうになっても。


 この五つへ触れれば、今の自分を思い出せる。


 そう願いながら。


 フローラは王都へ続く旅の四日目を、静かな眠りへ渡していった。

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