第79話 青の姫君、王都へ持っていく言葉を六つに絞る
翌朝、フローラが目を覚ました時、窓の外には薄い霧が広がっていた。
昨夜まで道や屋根を濡らしていた雨は上がっていたものの、町全体がまだ水分を抱えている。軒先からは時折雫が落ち、石畳の隙間では小さな水溜まりが朝の白い空を映していた。
宿の裏手から、馬の身体を拭く音が聞こえる。
硬い毛を束ねた刷毛が濡れた馬体を擦り、馬が低く鼻を鳴らす。誰かが桶を置く音や、車輪の留め具を確認する金属音も混ざり、旅を続けるための朝が少しずつ始まっていた。
フローラは寝台の中で目を開き、その音をしばらく聞いていた。
旅へ出てから、朝ごとに違う音を聞いている。
森の家では、鳥の声や木の葉の擦れる音、風が窓の隙間を通る音が先に届いた。宿では、荷馬車や人の足音、扉の開閉、食事を運ぶ食器の音がする。
場所が変わるたび、朝の形も変わる。
それでも、自分が目を覚ますことは変わらない。
「旅の四日目です」
声に出す。
昨日は、噂の中の自分と、今の自分を分けようとした。
王都へ戻される娘。
森で恐れられている化け物。
追放された公爵令嬢。
自分から逃げ出した青の姫君。
知らない人たちは、フローラの知らないフローラをいくつも作っていた。
その言葉へ傷ついた。
けれど、森では名前で呼ばれていると伝えることもできた。
畑を耕している。
子どもたちと植物を見ている。
それが今の自分だと、自分の口で言えた。
思い出すと、胸の奥がまだ少し痛む。
化け物という言葉は、昔の記憶に深く触れた。
けれど、痛みだけではない。
違うと言えたことも残っている。
悲しかったと言えたことも残っている。
「傷ついたことと、言えたことは、どちらもあります」
一つだけを選ばなくていい。
傷ついたのだから、何も成長していないわけではない。
言えたのだから、もう傷つかないわけでもない。
両方。
昨日の自分の中にある。
フローラは毛布から手を出し、枕元の花守り布へ触れた。
森から伸びる途中までの道。
森側へ集まる点。
ミナとリオを示す二つの点。
動いている自分には、まだ決まった点がない。
王都へ向かっている。
でも、王都にいるわけではない。
森を出た。
でも、森を手放したわけではない。
「今日も、途中です」
昨日と同じ言葉。
それでも、今日は昨日とは違う。
王都との距離が少し縮まっている。
旅をした日が一日増えている。
言えた言葉も増えている。
怖さも、少しずつ形を変えている。
「おはようございます」
薄い霧の向こうへ言う。
少し間を置く。
「おはようございます、母様」
母様のいる王都へ、また近づく。
胸が痛む。
けれど、今日はその痛みを消そうとしなかった。
「今日も、会うかどうかは決めません」
母様へ会わないと決めたわけではない。
会うと決めたわけでもない。
決めていない。
それでいい。
「今日は、王都で話したいことを確かめます」
国王陛下へ。
父様へ。
必要なら、母様へ。
自分が何を望んでいるのか。
何が分からないのか。
何を今は決めたくないのか。
王都へ着いてから考え始めるのでは遅い、とは思わない。
けれど、王都の空気に囲まれた時、自分の言葉を見失うかもしれない。
だから。
今のうちに。
「自分の言葉を、持っていきます」
◇
顔を洗い、髪を梳く。
自分で髪を編むことにも、少しずつ慣れてきた。
最初は指が絡まり、何度も途中でほどけた。左右を揃えようとするほど形が崩れ、ミナへ頼みたくなったこともある。
それでも、昨日より少し上手くできればよいと思うようになった。
今日は一度で、ほとんど同じ高さにまとめることができた。
鏡へ顔を近づけて確認する。
右側が、ほんの少しだけ緩い。
以前なら、すぐに直した。
誰かに見られた時、公爵令嬢として整っていないと思われるのが怖かったから。
今は。
自分が気になるだろうか。
フローラは鏡の中の自分へ問いかけた。
「……今日は、このままでよいです」
少しの違い。
それだけ。
髪が完全に揃っていなくても、自分の言葉まで歪むわけではない。
花守り布を頭へかぶる。
昨日は雨布の内側へ重ねたため、外からはほとんど見えなかった。
今日は、そのまま見える。
誰かに見られるかもしれない。
素朴だと思われるかもしれない。
公爵令嬢らしくないと言われるかもしれない。
それでも、持っていくと決めた。
「今日は、外です」
見える形で森を持っていく。
見えない日があってもいい。
見える日があってもいい。
それも、自分で選べる。
◇
朝食の部屋へ入ると、リオは大きな窓の前に立っていた。
昨日までなら、食事が置かれていれば、最初に席へ着いていたはずだ。今日はパンにも卵にも手をつけず、外を見ている。
「おはようございます」
「おはよう」
「何を見ていますか」
「霧」
「はい」
「森みたい」
フローラも窓へ近づいた。
町の屋根や街道は白い霧の向こうへ輪郭を失っている。遠くの建物はほとんど見えず、木や荷馬車の影だけがぼんやり浮かんでいた。
「少し似ていますね」
「でも木が少ない」
「はい」
「音が多い」
「はい」
霧の中から、人の声や車輪の音が届く。
森の朝霧なら、鳥の声や濡れた枝の音が聞こえる。
似ている。
でも、同じではない。
「昨日も言っていました」
フローラは少し笑った。
「何を」
「似ていても、同じではないと」
「俺が?」
「私です」
「覚えてない」
「昨日の私の言葉ですから」
ちょうど入ってきたミナが、小さく笑った。
「お二人とも、朝食の前から難しいお話をされていますね」
「霧の話です」
「難しくない」
「では、食べながら続きをお願いします」
三人は席へ着いた。
朝食には、焼いたパンと温かな豆の煮込み、薄く切った燻製肉、それに煮た果物が用意されている。
フローラは豆の煮込みを一口食べた。
森のものより、香辛料が多い。
豆も少し大きい。
「王都に近づくと、味も変わるのでしょうか」
ミナが答える。
「王都へ出入りする商人が増えますから、使われる香辛料や食材も増えるのでしょう」
リオが豆を見ながら言う。
「村の方が豆の味がする」
「こちらも豆の味はします」
「香りが強い」
「それは分かります」
フローラはもう一口食べた。
美味しい。
でも、村の味とは違う。
違うものを、美味しいと思ってもいい。
村の味を忘れることにはならない。
「今日」
フローラは匙を置いた。
「王都で話すことを、まとめたいです」
リオがパンを千切る手を止める。
「王様に?」
「国王陛下にも。父様にも」
「母様にもですか」
ミナの問いへ、フローラは少し考えた。
「まだ、分かりません」
「はい」
「会うかどうかを決めていないので」
「承知しています」
決めていないことを、決めていないまま話せる。
ミナは急かさない。
リオも、会えば、とは言わない。
「何を言うの」
リオが尋ねる。
「森で暮らしたいです」
「うん」
「公爵家へ戻るよう言われても、すぐには決めません」
「うん」
「婚姻も、今は望みません」
言葉にすると、胸が少し固くなる。
婚姻。
昨日の噂でも聞いた。
王都では、さらに多くの人がその話をするかもしれない。
公爵令嬢であるフローラが戻るなら、次に話題となるのは婚姻と継承。
以前なら。
それが当然だと思った。
公爵家の娘なのだから。
家のために決められた相手と結ばれる。
受け入れる以外の答えはない。
でも、今は違う。
「望みません、と言ってよいでしょうか」
フローラが尋ねると、リオは迷わず答えた。
「いい」
「でも、公爵家のことが」
「フローラのことだろ」
「はい」
「なら、フローラが決める」
簡単な言葉。
けれど、王都ではそれほど簡単ではないことを、フローラは知っている。
家。
地位。
領地。
血筋。
義務。
公爵家の娘一人の望みだけでは決められないこともある。
「すべてを一人で決められないとしても」
ミナが静かに言った。
「望みを伝えることはできます」
「はい」
「望みを伝えた上で、何を一緒に考える必要があるのかを確認できます」
「はい」
「最初から望みを消す必要はありません」
フローラは頷いた。
王都では、自分の望みがそのまま通るとは限らない。
でも。
だからといって、最初から言わない理由にはならない。
◇
朝食を終えたあと、フローラは小さな紙を机へ広げた。
旅の記録とは別に用意した紙。
王都で伝えたいことを書くためのものだった。
ミナとリオも同じ机へ座る。
何から書けばよいだろう。
国王陛下へ話す言葉。
父様へ話す言葉。
相手によって違う。
でも、中心にあるものは同じかもしれない。
「最初は」
フローラは筆を持ったまま考える。
「森で暮らしたい、です」
紙の一番上へ書く。
一つ目。
森で暮らしたい。
書いた文字を見つめる。
これだけなら、以前から何度も思っていた。
でも。
王都で口にするとなると、少し違う。
森は逃げた場所だと言われるかもしれない。
公爵家の責任から離れたいだけだと受け取られるかもしれない。
「森で暮らしたい理由も、書きますか」
ミナが尋ねた。
フローラは筆を止める。
「理由」
「はい」
「畑があるから」
リオが言う。
「村も」
「はい」
「子どもたちも」
「はい」
「家も」
「はい」
全部、本当。
けれど、それだけではない。
「森では」
フローラはゆっくり言葉を探した。
「自分で朝を決められます」
王都では、起きる時間も、食事の時間も、誰に会うかも、何を学ぶかも決められていた。
森では。
雨なら畑を見る。
疲れているなら少し休む。
手紙を読みたくない日は読まない。
誰かへ会いたい時は、自分で扉を開く。
「自分で、暮らすことを決められます」
フローラはその言葉を、紙の下へ小さく書いた。
「森だから、だけではないのですね」
ミナが言う。
「はい」
「自分で暮らせる場所だから」
「はい」
森が好き。
でも、森であればどこでもよいわけではない。
今の森。
今の家。
今の村。
そこに、自分で選んだ暮らしがある。
「二つ目は?」
リオが聞く。
フローラは考えた。
「住む場所を、勝手に決めてほしくありません」
言葉が強いように感じる。
けれど、本当。
「私も決める、ではどうでしょう」
ミナが提案する。
フローラは紙へ書いてみた。
二つ目。
住む場所は、私も決める。
「これがよいです」
誰にも決めさせない、ではない。
王家や公爵家の事情を全く聞かないという意味でもない。
でも、自分を外して決めないでほしい。
私も決める。
その言葉なら、自分の望みに近い。
「三つ目」
フローラは一度筆を置き、両手を膝へ重ねた。
婚姻。
書く。
それだけなのに、胸が緊張する。
「今は、婚姻を望みません」
リオがすぐに頷く。
「うん」
ミナも急かさずに待つ。
フローラは紙へ書いた。
三つ目。
今は婚姻を望まない。
今は。
ずっと、ではない。
決して、でもない。
今。
それが大切だった。
「今後も望まないかは、まだ分かりません」
フローラが言うと、ミナは頷いた。
「それも、そのままでよいと思います」
「曖昧ではありませんか」
「今の答えが、今後も変わらないと断言する方が不自然です」
そうかもしれない。
以前は、答えは一度決めたら変えてはいけないと思っていた。
でも、人の気持ちは変わる。
植物も、天気も、季節も変わる。
変わることは、嘘だったという意味ではない。
今の答えは、今の自分にとって本当。
それでいい。
「四つ目は、公爵家です」
フローラは言った。
ここが最も難しい。
公爵家を継ぐのか。
継がないのか。
父様の後をどうするのか。
自分が森で暮らし続けるなら、公爵家との関係をどうするのか。
分からない。
「分かりません」
正直に言う。
リオが答える。
「なら、分からないでいい」
「でも、王都へ行くのに」
「王都へ行けば、何でも分かるの?」
フローラは言葉を失った。
「……分からないと思います」
「なら、分からないって言えばいい」
ミナが静かに補う。
「公爵家について考えたくないのではなく、考えるための情報や時間が足りないのですね」
「はい」
「でしたら、それを伝えればよいと思います」
フローラは紙へ書く。
四つ目。
公爵家をどうするかは、まだ分からない。
まだ。
その一言があるだけで、少し呼吸がしやすくなる。
「五つ目」
フローラは紙の余白を見た。
何だろう。
森。
住む場所。
婚姻。
公爵家。
他に。
王都で忘れてはいけないこと。
怖くなった時。
周囲が答えを急いだ時。
国王陛下や父様から、どうするのかと尋ねられた時。
分からないことを、分かったふりで答えない。
「分からないことを、今すぐ決めたことにしない」
口にすると、胸へすっと入った。
ミナが静かに微笑む。
「とても大切だと思います」
リオも頷いた。
「それ」
フローラは五つ目を書いた。
分からないことを、今すぐ決めたことにしない。
紙の上に、五つの言葉が並んだ。
森で暮らしたい。
住む場所は、私も決める。
今は婚姻を望まない。
公爵家をどうするかは、まだ分からない。
分からないことを、今すぐ決めたことにしない。
フローラは一つずつ読み返した。
「少ないでしょうか」
「多い」
リオが即座に答える。
「多いですか」
「俺なら二つ」
「何ですか」
「森へ帰る」
「一つではありませんか」
「帰るまで邪魔するな」
「二つ目が強いです」
ミナが口元へ手を当て、笑いをこらえている。
「リオの言葉も分かりやすいですが、フローラ様の言葉の方が陛下へは伝わりやすいと思います」
「王様、長いの分かる?」
「分かります」
「ならいい」
フローラも笑った。
張りつめていた空気が少し柔らかくなる。
◇
紙を折ろうとして、フローラは手を止めた。
これをどこへ入れるか。
荷物の中では、必要な時にすぐ取り出せない。
服の内側へ入れると、落とすかもしれない。
ミナが花守り布を見る。
「布の内側へ、小さな袋を縫い付けてはいかがでしょう」
「今からですか」
「簡単なものでよければ」
ミナは荷物の中から針と糸を取り出した。
旅の途中で衣服がほつれた時のために持ってきたものらしい。
「私が縫っても?」
フローラが尋ねると、ミナは針を差し出した。
「もちろんです」
フローラは花守り布を膝へ広げた。
裏側。
森の道の刺繍へ重ならない場所。
小さく折った紙が入る程度の布を当てる。
針へ糸を通す。
一針目。
少し斜め。
二針目。
間隔が広い。
ミナは何も言わずに見守っている。
リオは途中で椅子を離れ、窓の外を見たり、戻ってきたりした。
「遅い」
「縫っているので」
「まだ半分」
「急ぐと曲がります」
「もう曲がってる」
「リオ」
フローラは思わず彼を見る。
「本当のこと」
「言い方があります」
「でも、使える?」
フローラは縫い目を見る。
少し曲がっている。
でも、布は留まっている。
「使えます」
「ならいい」
また。
それでいい。
見た目が完全でなくても、役目を果たせる。
最後まで縫い終え、小さな袋の中へ五つの言葉を書いた紙を入れた。
外からは見えない。
でも、触れれば分かる。
「ここにあります」
花守り布を持ち上げる。
「王都で怖くなった時、触ります」
「はい」
ミナが頷く。
「なくさない」
リオも言う。
「はい」
フローラは花守り布をもう一度頭へかぶった。
五つの言葉が、布の内側で額に近い場所へ触れる。
少しだけ重い。
でも、嫌な重さではない。
森から持っていく言葉の重さだった。
◇
出発の時間になり、三人は宿の裏口へ向かった。
昨日、フローラが選んだ入口。
表玄関には旅人や町の人が集まっていると聞いていた。
噂を訂正するために、毎日表へ出る必要はない。
今日は、静かに出たい。
裏口では、王家の護衛たちがすでに馬車を整えていた。
雨は上がっている。
霧も少しずつ薄くなり、遠くの道が見え始めていた。
使者が頭を下げる。
「フローラ様。本日は昼過ぎに次の宿場へ到着する予定です」
「はい」
「明日以降は、王都へ向かう馬車がさらに増えます」
「はい」
「また、王宮から迎えの者が途中まで来る可能性がございます」
フローラの胸が少し固くなる。
「誰が来るのですか」
「現時点では、王宮侍従の一行と聞いております」
父様ではない。
母様でもない。
そのことへ、安心した。
そして、安心した自分へ少しだけ罪悪感が生まれる。
「安心してもよいでしょうか」
小さく言うと、ミナが答えた。
「はい」
「父様や母様でなくて、安心しています」
「はい」
「悪い娘ではありませんか」
ミナはすぐには答えなかった。
少し考えてから、静かに言う。
「会う準備ができていないことと、娘として悪いことは同じではありません」
また、分ける。
「そうですね」
フローラは頷いた。
◇
馬車は霧の残る街道を進んだ。
昨日の雨で道はまだ柔らかく、車輪が深い轍を作る。速度は速くなかったが、揺れはいつもより少し大きかった。
フローラは窓のカーテンを半分開けた。
外には、濡れた畑が広がっている。
農夫たちが畝の状態を確かめ、溜まった水を細い溝へ流していた。子どもが長い棒を持ち、水路に詰まった葉を取り除いている。
森の畑でも、同じようなことをしているだろうか。
ガルドさんが水の流れを見ている。
サムが記録する。
エマが手伝おうとして、長靴のまま泥へ入りすぎる。
トトが掘ってよい場所と、掘ってはいけない場所を間違える。
想像すると、少し笑った。
「畑?」
リオが聞く。
「はい」
「また心配?」
「少し」
「任せた」
「はい」
昨日と同じやり取り。
でも、今日は少し違う。
「心配してもよいです」
フローラが自分から言うと、リオは頷いた。
「うん」
「でも、任せました」
「うん」
「両方です」
「うん」
ミナが向かいの席で微笑んでいる。
「今日は、ご自分で言えましたね」
「はい」
少しずつ。
何度も繰り返すうちに、自分の言葉になる。
◇
午前の休憩は、街道沿いの小さな茶屋で取ることになった。
昨日の休憩所ほど大きくはない。
木造の建物と簡素な厩、外には雨上がりの土を踏み固めた広場がある。旅人の数も少なく、荷馬車が二台止まっているだけだった。
フローラが馬車を降りると、茶屋の主人らしい中年の女性が深く頭を下げた。
「お待ちしておりました」
王家の使者から事前に連絡が届いていたらしい。
「温かいお茶をご用意しております」
「ありがとうございます」
声をかけると、女性は少し驚いたように顔を上げた。
青い髪。
公爵令嬢。
噂。
何を想像していたのだろう。
けれど、女性はすぐに笑った。
「こちらへどうぞ」
茶屋の奥には、三人で使える小さな部屋が用意されていた。
窓の外には、低い柵で囲まれた小さな菜園がある。雨を受けた葉が濃い緑色になり、端には背の低い豆の株が並んでいた。
「豆です」
フローラは思わず窓へ近づいた。
茶屋の女性が嬉しそうに頷く。
「はい。この辺りではよく育つ種類です」
「見てもよいですか」
「もちろんです」
フローラは外へ出た。
泥へ入らないよう、柵の外から葉を見る。
森の豆とは形が少し違う。葉は丸みがあり、茎も太い。雨を受けたせいか、一部の葉が下を向いていた。
「水が多いですか」
「昨日は、かなり降りましたから」
「根元に水は溜まっていませんか」
女性は少し驚きながら、畝の間を指した。
「朝、夫が溝を掘りました」
見ると、細い水路が作られている。
「きれいに流れています」
「お詳しいのですね」
その言葉へ、フローラの胸が少し動く。
公爵令嬢だからでも。
青い髪だからでも。
噂の姫君だからでもなく。
植物に詳しいと言われた。
「森で、畑を耕しています」
昨日、知らない人へ言った言葉。
今日は、少し自然に言えた。
女性の目が丸くなる。
「本当に?」
「はい」
「ご自分で?」
「はい」
「それは……」
女性は言葉を探すように豆の畑を見る。
「手が荒れませんか」
フローラも自分の手を見る。
公爵家で暮らしていた頃より、少し硬くなった指先。
土が爪の間へ入ることもある。
小さな傷もある。
「荒れます」
正直に答える。
「でも、土に触れるのは好きです」
女性は少しの間、何も言わなかった。
そのあと、柔らかく笑う。
「そうですか」
ただ、それだけ。
変だとも。
公爵令嬢らしくないとも言われない。
「豆の花が咲いたら」
フローラは畑を見る。
「雨のあとに花の根元が傷んでいないか、見た方がよいと思います」
「分かりました」
「それから、葉の裏に小さな虫がつくことがあります」
「夫に伝えます」
頼まれてもいないのに、言いすぎただろうか。
フローラは少し不安になる。
「すみません。余計なことを」
「いいえ」
女性はすぐに首を振った。
「助かります。私たちは毎年育てていますが、全部が分かるわけではありませんから」
毎年育てていても、全部は分からない。
植物と同じ。
人も。
家族も。
長く一緒にいても、全部が分かるわけではない。
だから、分からなかったと言えばよい。
でも。
分からなかったから見なくてよいわけではない。
父様。
母様。
少し思い出す。
けれど、豆と父様を同じにはしない。
似ているところがあっても、同じものではない。
◇
茶屋へ戻ると、温かな薬草茶と焼いた小さな菓子が用意されていた。
リオがすでに一つ食べている。
「早いですね」
「冷める」
「まだ温かいです」
「だから」
フローラも一つ取る。
外側は少し硬いが、中には柔らかな果実が入っている。
「美味しいです」
茶屋の女性が嬉しそうに笑う。
「よかったです」
その時、入口の方で小さな声がした。
「青い」
フローラが振り向くと、茶屋の女性の後ろに、小さな女の子が隠れていた。
六歳くらい。
女性と似た髪の色。
娘だろうか。
「こら」
女性が慌てて振り返る。
「申し訳ありません」
「大丈夫です」
言ってから。
本当に大丈夫だろうか。
子どもに見られること。
今は。
怖くない。
「こんにちは」
フローラが声をかけると、女の子は母親の服を握ったまま顔を出した。
「こんにちは」
「青い髪は、珍しいですか」
女の子は頷いた。
「空みたい」
昨日会った子どもも、同じことを言った。
「昨日も、そう言われました」
「同じ人?」
「違う人です」
女の子は少し考えた。
「みんな空って思うの?」
「そうかもしれません」
リオが横から言う。
「川って言う人もいる」
「川?」
「水も」
女の子はフローラの髪をじっと見る。
「夜の空」
「夜ですか」
「青くて、少し暗い」
フローラは自分の髪を一房取った。
明るい場所では青く。
影の中では少し濃く見える。
「そうかもしれません」
女の子が一歩前へ出る。
そして、何かを言おうとして止まった。
昨日の子ども。
触ってもよいか聞いた。
今日も?
胸が少し緊張する。
けれど、女の子が尋ねたのは違うことだった。
「森って怖い?」
フローラは少し驚いた。
「どうしてですか」
「化け物がいるって」
胸が固くなる。
昨日と同じ言葉。
でも、女の子はフローラを化け物だと言っているわけではない。
森に化け物がいる。
そう聞いただけ。
「森には、危険な動物もいます」
「怖い?」
「怖い時もあります」
「青いお姉ちゃん、住んでるんでしょう?」
「はい」
「怖くない?」
フローラは考えた。
森は安全だけではない。
夜の音。
獣。
嵐。
病気。
畑が傷むこと。
怖いものはある。
でも。
「怖いことがあっても、好きです」
女の子は不思議そうにする。
「怖いのに?」
「はい」
「どうして?」
「好きなものも、たくさんあるからです」
畑。
家。
村。
子どもたち。
静かな朝。
風。
土。
「怖くない場所だから好きなのではありません」
言って。
自分でも少し驚く。
王都。
怖い。
でも、王都に好きなものはあるだろうか。
まだ分からない。
母様。
父様。
昔。
全部が嫌だったわけではない。
けれど、今それを考えなくてもいい。
女の子は少し考えたあと、頷いた。
「私、犬怖いけど、うちの犬は好き」
「似ていますか」
「たぶん」
フローラは笑った。
「では、少し似ています」
◇
茶屋を出る前、女の子が小さな木の実を一つ持ってきた。
「これ」
「何ですか」
「お守り」
手のひらに載せられたのは、丸く硬い殻を持つ木の実だった。
「森にある?」
「似たものはあります」
「王都まで持っていって」
母親が慌てる。
「そのようなものを公爵令嬢様へ」
「よいです」
フローラは木の実を両手で受け取った。
高価ではない。
何の力もないかもしれない。
でも、女の子が渡すと決めたもの。
「ありがとうございます」
「帰りも持ってきて」
帰り。
胸が温かくなる。
「はい」
森へ帰る途中。
またここを通るかは分からない。
でも。
「なくさないようにします」
木の実を、五つの言葉が入った小さな袋の隣へ入れる。
花守り布の内側。
言葉と、お守り。
少し重くなった。
◇
午後の道では、霧がすっかり晴れていた。
空には薄い雲が残っているものの、時折日差しが落ちる。濡れた草原が光り、遠くには低い丘が続いていた。
王都へ向かう馬車も増えている。
すれ違う商人。
地方の紋章を掲げた貴族の馬車。
巡礼者。
兵士。
王家の馬車を見るたび、道を譲り、視線を向ける。
窓越しに、青い髪が見えたのだろう。
何人かが驚いた顔をした。
頭を下げる人もいる。
隣の人へ何かを囁く人もいる。
フローラはカーテンを半分開けたままにしていた。
全部の視線を受け取らない。
でも、全部から隠れない。
今日は、それができている。
「疲れましたか」
ミナが尋ねる。
「少し」
「カーテンを閉めますか」
フローラは外を見る。
まだ見たい。
でも、視線は少し重い。
「もう少しだけ閉めます」
半分から、三分の一ほどへ。
全部ではない。
それでいい。
◇
馬車が緩やかな丘を越えた時、使者が外から声をかけた。
「フローラ様。右手をご覧ください」
何だろう。
フローラはカーテンを少し開いた。
遠く。
空と大地の境目。
まだ小さい。
けれど、水平へ長く続く灰色の線が見えた。
「……あれは」
「王都の外壁です」
胸が一度、大きく鳴った。
まだ遠い。
今日中に着く距離ではない。
それでも。
見えた。
王都。
父様。
母様。
国王陛下。
昔の屋敷。
廊下。
視線。
化け物という声。
全部が一度に胸へ押し寄せる。
フローラの呼吸が浅くなった。
「閉める?」
リオがすぐに聞く。
フローラは答えられない。
見たい。
見たくない。
両方。
「少し、待ってください」
自分へも、二人へも言う。
カーテンを手で持ったまま、目を閉じる。
花守り布の内側。
五つの言葉へ触れる。
森で暮らしたい。
住む場所は、私も決める。
今は婚姻を望まない。
公爵家をどうするかは、まだ分からない。
分からないことを、今すぐ決めたことにしない。
木の実。
女の子のお守り。
帰りも持ってきて。
帰り。
王都へ着く。
でも。
戻る道もある。
「もう一度、見ます」
フローラは目を開いた。
灰色の線。
外壁。
先ほどより、少しだけただの景色として見える。
怖い。
でも。
「遠いですね」
「明日か、明後日には着くと思います」
使者の答えへ、胸がまた少し固くなる。
「そうですか」
フローラはカーテンを閉めなかった。
しばらく外壁を見たあと、自分で三分の一まで戻した。
見た。
今日は、それで十分。
◇
夕方、宿場町へ到着した。
昨日よりさらに大きな町だった。
王都へ向かう人々が集まるため、宿の前には多くの馬車が並んでいる。兵士や商人だけでなく、上等な服を着た貴族の従者らしい者も多い。
王家の馬車が入ると、周囲がざわめいた。
「青の姫君では」
「王都へ戻るのか」
「明日には入城するらしい」
「公爵家が迎えを出すという話だ」
「国王陛下が直々に」
声が重なる。
フローラは馬車の中で息を整えた。
「今日は、裏口ですか」
使者が答える。
「どちらも選べます」
どちらも。
表。
裏。
昨日は裏を選んだ。
今日は。
疲れている。
王都の外壁を見た。
胸がまだ落ち着かない。
でも、五つの言葉を持っている。
木の実もある。
「表から」
言って。
自分でも驚く。
ミナがすぐには何も言わない。
リオがフローラを見る。
「大丈夫?」
大丈夫ではない。
でも。
「少しだけ、表から入りたいです」
全部の人へ話すためではない。
噂を訂正するためでもない。
ただ。
今日は、自分で表を選んでみたい。
「途中で難しくなったら、馬車へ戻ってもよいですか」
使者が深く頷く。
「もちろんでございます」
「では、お願いします」
◇
馬車の扉が開いた。
夕方の町の空気が流れ込む。
人。
声。
馬。
料理の匂い。
車輪の音。
いくつもの視線。
フローラは花守り布へ触れた。
五つの言葉。
木の実。
ミナ。
リオ。
全部ある。
ゆっくりと馬車を降りる。
周囲のざわめきが少し大きくなった。
「本当に青い」
「公爵令嬢様」
「森から」
声。
胸が固い。
でも、歩く。
宿の入口までは、それほど遠くない。
一歩。
二歩。
三歩。
その時、前方で小さな物音がした。
荷物を抱えていた少年が、足元の水溜まりへ気づかず滑った。箱が傾き、中に入っていた乾燥した薬草の束が地面へ落ちる。
「あっ」
少年が慌てて膝をつく。
周囲の大人たちは王家の馬車やフローラへ目を向けており、すぐには動かなかった。
フローラも足を止める。
公爵令嬢。
旅服。
人前。
地面は濡れている。
膝をつけば服が汚れる。
以前なら、侍女が動くのを待った。
でも。
薬草。
濡れる。
フローラは少年の近くへ屈み、地面へ落ちた束を拾った。
「これは、濡れても大丈夫ですか」
少年は目を大きく見開いた。
「え」
「乾燥させた薬草ですよね」
「は、はい。でも、水に濡れると」
「こちらは、まだ乾いています」
水溜まりへ落ちなかった束から拾う。
ミナもすぐに隣へ屈み、リオは転がった箱を押さえた。
周囲のざわめきが、違うものへ変わっていく。
「公爵令嬢が」
「薬草を」
「本当に森で暮らしていたのか」
声は聞こえる。
でも今は、少年と薬草を見る。
「この葉は」
フローラは一束を確認する。
「湿気を吸いやすいので、今夜もう一度広げた方がよいと思います」
少年は何度も頷いた。
「はい」
「箱の底も濡れています」
リオが言う。
「別の箱、ある?」
「宿に予備があります」
「なら替えた方がいい」
「はい」
すべて拾い終え、フローラは立ち上がった。
旅服の裾へ、少し泥がついている。
侍女らしい女性が慌てて近づく。
「フローラ様、お召し物が」
「少しだけです」
以前なら。
汚れ。
失敗。
叱られる。
でも。
今は。
薬草が濡れるよりよかった。
「洗えば落ちます」
言うと、侍女は驚いたように黙った。
少年が深く頭を下げる。
「ありがとうございました」
「いいえ」
フローラは少し考えたあと続けた。
「今夜、必ず広げてください」
「はい」
少年の後ろにいた年配の男性も頭を下げる。
「助かりました。王都の薬師へ運ぶ大切な品でして」
「王都へ?」
「はい」
「では、届くとよいですね」
周囲の人々は、まだフローラを見ていた。
でも、先ほどまでとは視線が少し違う。
青い髪。
公爵令嬢。
噂。
それだけではなく。
薬草を拾った人。
服の裾を汚した人。
森で植物を見ている人。
今の自分の一部を、誰かが見た。
フローラはそれを嬉しいと思った。
でも。
良い人だと思われたいから拾ったわけではない。
薬草が濡れそうだったから。
拾いたかったから。
それでいい。
◇
宿の部屋へ入ると、フローラはすぐに椅子へ座った。
力が抜ける。
「疲れました」
正直に言う。
ミナが旅服の裾を確認する。
「泥は乾いてから落とせば問題ありません」
「はい」
リオが窓際の椅子へ座る。
「表、入れた」
「はい」
「薬草も拾った」
「はい」
「人、いっぱい見てた」
「はい」
「嫌だった?」
フローラは少し考えた。
「嫌でした」
「うん」
「でも」
自分の裾の泥を見る。
「拾えてよかったです」
「うん」
「両方です」
リオは頷いた。
ミナも静かに笑う。
「今日も、両方ですね」
「はい」
◇
夕食前。
フローラは五つの言葉が入った紙をもう一度取り出した。
紙の端へ、少し皺がついている。
花守り布の内側へ入れたまま、何度も触れたからだ。
皺。
キズナ。
残る。
でも、使える。
フローラは紙を広げ、一つずつ読み返した。
森で暮らしたい。
住む場所は、私も決める。
今は婚姻を望まない。
公爵家をどうするかは、まだ分からない。
分からないことを、今すぐ決めたことにしない。
「これで足りますか」
ミナへ聞く。
「明日になれば、また増えるかもしれません」
「増えてもよいですか」
「もちろんです」
「減っても?」
「はい」
決めた言葉も、変えてよい。
今の自分を守るために作ったものだから。
言葉のために、自分を縛る必要はない。
「今日は、これでよいです」
紙を折る。
内側の袋へ戻す。
◇
夕食は、宿の部屋へ運んでもらった。
表玄関で姿を見られたため、食堂にはさらに多くの人が集まっているらしい。使者から聞き、フローラは部屋で食べることを選んだ。
「表から入ったのに、食堂へ行かないのは変ですか」
フローラが尋ねると、ミナは首を横へ振った。
「表から入ることと、食堂で大勢に囲まれることは別です」
「はい」
今日も、分ける。
食卓には、肉と根菜の煮込み、焼いたパン、豆の和え物が並んだ。
リオは豆を見て、一口食べる。
「朝より村に近い」
「香辛料が少ないからでしょうか」
「たぶん」
「批評家ですね」
「またそれ」
三人で笑う。
王都の外壁を見た日。
人の前を歩いた日。
それでも、食事の時には豆の味を話せる。
そのことが嬉しかった。
◇
夜。
旅の記録紙を広げる。
今日は、王都へ持っていく言葉を五つにした。
森で暮らしたい。
住む場所は、私も決める。
今は婚姻を望まない。
公爵家をどうするかは、まだ分からない。
分からないことを、今すぐ決めたことにしない。
花守り布の内側へ、小さな袋を縫った。
縫い目は曲がった。
でも、紙は入った。
茶屋で豆を見た。
女の子から木の実のお守りをもらった。
森は怖いかと聞かれた。
怖いことがあっても、好きだと答えた。
王都の外壁が見えた。
怖かった。
でも、少し待ってから、もう一度見た。
宿へは、表から入った。
人が多くて怖かった。
薬草が落ちたので拾った。
服が少し汚れた。
でも、拾えてよかった。
フローラは筆を止める。
今日も、いくつもの両方があった。
王都へ行く。
でも、着くのは怖い。
表から入りたい。
でも、大勢に囲まれたくない。
見られるのは嫌。
でも、薬草を拾った自分を見てもらえたことは少し嬉しい。
父様と母様ではなく、侍従が迎えに来ると聞いて安心した。
でも、安心した自分を少し悲しいとも思った。
どれかを消さなくていい。
全部、今の自分。
最後に。
王都へ持っていくもの。
花守り布。
村の毛布。
五つの言葉。
木の実。
ミナ。
リオ。
そして。
森で暮らした私。
それを書いた。
◇
寝台へ横になる前、フローラは窓を少し開けた。
町の向こう。
暗い空。
王都の外壁は、夜の中へ隠れて見えない。
昼には確かに見えた。
でも、今は見えない。
見えなくなったからといって、消えたわけではない。
森も同じ。
王都も同じ。
「明日」
フローラは小さく言う。
「もっと近くなります」
怖い。
でも。
「五つ、あります」
花守り布へ触れる。
木の実もある。
「おやすみなさい、母様」
少し間を置く。
「今日も、会うかどうかは決めませんでした」
決めない。
それを、自分で選んだ。
「おやすみなさい、父様」
呼んでみる。
胸が痛む。
「父様へ何を言うかも、全部は決めていません」
でも。
「遅かった、と言いたいです」
自分が屋敷にいた時。
見てほしかった。
声を聞いてほしかった。
娘として呼んでほしかった。
それは、言いたい。
全部を今日決めない。
でも、言いたいことが一つ見つかった。
「おやすみなさい、森」
村の毛布を胸まで引き上げる。
「今日も、いってきますの途中です」
王都へ着く前の夜。
フローラは、花守り布の内側にある五つの言葉へ指先で触れた。
森で暮らしたい。
住む場所は、私も決める。
今は婚姻を望まない。
公爵家をどうするかは、まだ分からない。
分からないことを、今すぐ決めたことにしない。
王都で誰かの言葉に囲まれても。
昔の自分へ戻りそうになっても。
この五つへ触れれば、今の自分を思い出せる。
そう願いながら。
フローラは王都へ続く旅の四日目を、静かな眠りへ渡していった。




