第78話 青の姫君、噂の中の自分と今の自分を分ける
翌朝、フローラが目を覚ました時、窓の外では細い雨が降っていた。
軒先から一定の間隔で雫が落ち、濡れた石畳へ淡い輪を広げている。遠くでは荷馬車がゆっくりと動き始めており、水を含んだ車輪が道を擦る低い音と、馬の鼻息が朝の静けさへ混ざっていた。
フローラは寝台の上で目を開いたまま、しばらくその音を聞いていた。
森で聞く雨とは違う。
森では、雨はまず高い枝へ落ちる。葉に当たり、細かな雫となり、下にある葉へ渡りながら、最後に土へ届く。降り始めの頃には、雨音より先に、木々がざわめく音を聞くことも多かった。
ここでは、雨が屋根へ真っ直ぐ落ちている。
石へ落ち、馬車の幌へ落ち、宿の窓へ当たる。
人が作ったものへ、迷わず届く雨だった。
「旅の三日目ですね」
小さく声にすると、昨日より少しだけ自然に聞こえた。
森を出て、一日。
二日。
今日で三日目。
王都へ近づいている。
それでも、まだ王都には着いていない。
今は途中。
昨日、フローラは宿を出る時に、自分の名前を自分で名乗った。
知らない子どもから、髪が空のようできれいだと言われた。触ってよいかと聞かれ、怖いので今日は嫌です、と伝えた。馬車の中では眠いことを認め、ミナとリオへ任せて目を閉じた。
夢の中では森を失った。
けれど、目を覚ますと、リオとミナが森はまだあると言ってくれた。
そして夜には、フローラが王都へ向かっているという話が、すでに街道沿いへ広まり始めていることを知った。
森で暮らしていた公爵令嬢。
王命によって召還された青の姫君。
王都へ連れ戻される娘。
自分の知らない人たちが、自分について話している。
誰かから誰かへ伝わる間に、言葉が増えたり、削られたり、違う意味へ変わったりしている。
フローラは毛布の上から胸へ手を置いた。
少し速い。
けれど、昨日ほどではない。
「噂は、私ではありません」
部屋の中へ言う。
それだけでは足りない気がして、少し考えてから続けた。
「噂の中に私のことが入っていても、それが全部の私ではありません」
誰かが青の姫君と呼ぶ。
誰かが化け物と呼ぶ。
誰かが森へ逃げた公爵令嬢だと言う。
誰かが王命で連れ戻される娘だと決めつける。
それは、相手が作った言葉だった。
フローラ自身が決めたこととは違う。
自分は王都へ帰されるのではない。
自分で行くと決めた。
森での暮らしを守るために、自分の望みを自分の声で伝えるために。
「おはようございます」
薄暗い部屋へ言ったあと、フローラは少しだけ間を置いた。
「おはようございます、母様」
胸の奥が鈍く痛む。
王都へ近づくほど、母様との距離も縮まっている。
それでも。
「今日も、会うかどうかは決めません」
昨日決めなかったことを、今日の朝だから決める必要はない。
「今日の私は、今日の道を進みます」
その言葉を胸へ置き、フローラはゆっくりと寝台から足を下ろした。
◇
顔を洗い、髪を梳く。
昨日は自分で髪を編み、左右が少し違うまま一日を過ごした。
何も起きなかった。
髪の高さが少し違っても、王都へ向かう馬車には乗れる。食事もできる。知らない人と話すことも、自分の名前を名乗ることもできる。
だから今日も、自分でやってみる。
「昨日より、少しだけ上手くできれば十分です」
鏡の中の自分へ言う。
一度目。
右側がわずかに緩い。
二度目。
昨日ほど大きな違いはない。
完全ではない。
それでも、昨日よりは揃っている。
「……成長でしょうか」
思わず口にし、自分で少し笑った。
キズナも、皺のある葉を残したまま育っている。
すぐに全部が整わなくても、大きくなる。
自分も同じなのかもしれない。
上手ではない。
怖いものも多い。
それでも、一日ごとに少しずつできることが増えている。
花守り布を手に取る。
森から外へ伸びる途中までの道。
森側に集まる小さな点。
途中に並ぶミナとリオの点。
自分の点は、まだ縫われていない。
動いているから。
今いる場所を一つに決められないから。
それでいい。
今日は雨が降っている。
花守り布をそのままかぶれば、濡れてしまう。
フローラは薄い雨布の内側へ、花守り布を重ねた。
外からは、ほとんど見えない。
それでも、そこにある。
「今日は、中です」
そのことが、少しだけ面白かった。
見えなくても、ある。
森と同じ。
村と同じ。
今の自分と同じだった。
◇
扉を開けると、廊下にはすでにミナが待っていた。
「おはようございます」
「おはようございます。雨ですね」
「はい」
フローラは廊下の窓から外を見た。
宿の裏手では、王家の護衛たちが雨の中で馬車の車輪や馬具を確認している。雨水を含んだ道は昨日より暗い色になり、馬が一歩動くたび、泥が小さく跳ねた。
「道は進めそうですか」
「王家の方が朝一番で確認してくださいました。大きな遅れはないそうですが、今日は少し速度を落とすとのことです」
「ゆっくりですか」
「はい」
胸の奥が、少しだけ軽くなった。
王都へ近づいている。
それなのに、遅く進むと聞いて安心した。
矛盾している。
けれど、今はそれでよいと思えた。
「それなら、少しほっとします」
フローラが正直に言うと、ミナは驚かずに頷いた。
「王都へ着きたくないお気持ちがありますか」
「はい」
「でも、行く」
「はい」
「両方ですね」
「はい」
人の気持ちは、一つだけではない。
何度も知ったはずなのに、そのたびに確かめる必要がある。
王都へ行くと決めたことと、王都へ着くのが怖いこと。
森へ戻ると決めていることと、残してきた畑を心配すること。
父様の手紙を読んだことと、すぐに許せないこと。
全部、同時にあっていい。
◇
朝食は昨日と同じように、三人で小さな個室を使った。
リオはすでに席へ着き、パンを半分ほど食べ終えている。
「おはようございます」
「おはよう」
「早いですね」
「腹減った」
「昨日の夕食も、かなり食べていました」
「寝れば減る」
「そういうものですか」
「たぶん」
ミナが笑いながら席へ着いた。
今日は温かな粥と焼いた卵、少量の肉、それに果物が用意されている。雨の日の朝に湯気の立つ粥を見ると、森の家で食べていた朝食を思い出した。
リオが粥を一口食べる。
「村のより固い」
「はい」
「水が少ない」
「はい」
「でも食べやすい」
「今日は食事の批評家ですね」
「何それ」
「料理を食べて、味や作り方を評価する人です」
リオは粥とフローラを交互に見た。
「俺、固いか柔らかいしか言ってない」
「十分だと思います」
何でもない会話のおかげで、朝から胸へ集まっていた緊張が少しだけ散っていった。
フローラは粥を一口食べる。
温かい。
喉を通る。
「今日は」
匙を持ったまま、フローラはゆっくりと言った。
「噂と、自分を分けたいです」
リオが卵へ伸ばしていた手を止めた。
「どういうこと」
ミナは急かさず、静かにフローラを見ている。
「昨日、使者の方から、私が王都へ向かっているという話が広まっていると聞きました」
「うん」
「森で暮らしていた公爵令嬢が、王命で王都へ戻される、と」
「違う」
リオがすぐに言った。
「はい」
「フローラは、自分で行くと決めた」
「はい」
「なら違う」
単純な言葉。
けれど、その通りだった。
「でも、知らない人は、そう思います」
フローラが言うと、ミナが頷いた。
「すべての人へ訂正して回ることはできません」
「はい」
「それに、フローラ様が一人ずつ説明する必要もありません」
「はい」
「ただ、ご自分まで噂へ引っ張られないようにすることはできます」
「はい」
それが今日の目標だった。
「もし誰かに、『王都へ帰るのですね』と言われたら」
胸が少し速くなる。
「必要なら、『王都へ行きます。でも、森へ戻るつもりです』と伝えたいです」
リオが首を傾げる。
「必要なら?」
「全部の人へは言いません」
「うん」
「私が言いたい時だけ」
「それでいい」
ミナも静かに頷いた。
「とてもよいと思います」
今日、本当に言えるかどうかは分からない。
それでも、言葉を用意しておく。
それだけでも、少し安心できた。
◇
出発する頃になっても、雨は細く降り続いていた。
宿の表玄関には、王家の馬車を見るためなのか、旅人が何人か集まっている。露骨に近づく者はいなかったが、フローラが姿を現すと、自然にいくつもの視線が向けられた。
雨布の隙間から、青い髪が少しだけ見える。
「青い髪だ」
小さな声が聞こえた。
胸が固くなる。
けれど、歩く。
馬車の横では王家の使者が待っていた。
「フローラ様。本日は降雨のため、午前中は速度を落として進みます」
「はい」
「途中の休憩も、通常より一度多く取る予定です」
「ありがとうございます」
フローラは自分から尋ねた。
「道が危険になった場合は、どうしますか」
「無理には進みません。次の宿場町で待機いたします」
「分かりました」
無理に進まない。
王家の馬車であっても、雨や道の状態に従う。
そのことが少し安心につながった。
その時、宿の軒下にいた年配の男性が、隣にいる男へ低い声で言った。
「王都へ戻されるって話の娘だろ」
はっきり聞こえた。
胸の奥が強く痛む。
リオがすぐに声のした方へ顔を向けた。
フローラは彼の前へ小さく手を出した。
「リオ」
「聞こえた」
「はい」
今、言いたいだろうか。
胸へ聞く。
怖い。
それでも、今朝用意した言葉がある。
フローラは年配の男性へ顔を向けた。
目が合った瞬間、相手の顔へ驚きが浮かぶ。
周囲の会話も、少しずつ小さくなった。
「すみません」
声は震えた。
けれど、届いた。
「私は、王都へ戻されるのではありません」
男性は動かなかった。
近くにいた人々も、フローラの次の言葉を待っている。
「自分で、行くと決めました」
一度息を吸う。
「そして、森へ戻るつもりです」
雨が軒先から落ちる音だけが、しばらく続いた。
男性は気まずそうに口を開いた。
「……そうでしたか」
「はい」
「失礼しました」
頭を下げられ、フローラは少し驚いた。
怒られなかった。
笑われなかった。
王命に逆らうのかとも、公爵家の娘として間違っているとも言われなかった。
「いえ」
大丈夫です、と言いかけて止める。
少し傷ついた。
だから、全部大丈夫ではない。
「知られていないことなので」
そう答えると、男性はゆっくり顔を上げた。
「本当に、森へ戻るのですか」
「はい。王都で、自分の望みを話したあとに」
男性はしばらくフローラを見た。
先ほどまでとは少し違う目だった。
「それなら、お気をつけて」
「ありがとうございます」
フローラは頭を下げ、馬車へ乗った。
扉が閉まった瞬間、身体から力が抜ける。
「……言えました」
ミナが隣へ座りながら頷く。
「はい」
リオも向かいの席へ座った。
「すごい」
「すごいですか」
「俺なら、違う、だけで終わる」
「短いですね」
「でも伝わる」
フローラは少し笑った。
胸の鼓動はまだ速い。
それでも。
言えた。
◇
馬車は濡れた街道をゆっくりと進んだ。
雨のため窓は半分ほど閉じられており、薄いガラス越しに見える田畑は、昨日よりも色が濃い。湿った土の匂いが、わずかに車内まで入り込んでくる。
雨。
土。
畑。
森の畑にも、今頃雨が降っているだろうか。
同じ雲ではないかもしれない。
それでも、季節は同じ。
オカエリの周りに水が溜まっていないか。
キズナの皺のある葉が、雨の重さに耐えられているか。
子どもたちは雨の日の記録をどう書くだろう。
サムは葉の濡れ方を細かく記録するかもしれない。
エマは雨粒の数まで数えようとして、途中で分からなくなるかもしれない。
トトは水の流れを作ると言って、畑を掘ろうとするかもしれない。
心配が胸へ広がる。
「畑?」
向かいに座るリオが聞いた。
「はい」
「雨」
「はい」
「村にも降っているかは分からない」
「はい」
「でも、任せた」
「はい」
その通りだった。
「心配するのは、悪いですか」
フローラが尋ねると、リオは不思議そうな顔をした。
「なんで悪いの」
「任せたのに、心配しているので」
「任せたら、心配したら駄目なの?」
フローラは答えられなかった。
「……分かりません」
「俺だって、ガルドに森を任せても心配する」
「そうなのですか」
「普通に」
ミナが笑った。
「任せることと、心配しなくなることは別です」
また一つ。
同じではないもの。
「そうですね」
任せる。
でも、心配する。
両方あっていい。
◇
午前の途中、王家の馬車は街道沿いの休憩所へ入った。
雨脚は少し強くなっていた。
大きな木造の屋根の下では、何組もの旅人が雨宿りをしている。濡れた服の匂い、泥のついた靴、馬の匂い、暖炉の煙、温かな飲み物の湯気。
いくつもの匂いと人の声が混ざっていた。
使者は、フローラたちを奥にある小さな区画へ案内しようとした。
その途中。
「青の姫君?」
声が聞こえた。
若い男性が二人。
荷物の様子から、商人かもしれない。
二人は驚いたようにフローラを見ていた。
「本当に青い髪だ」
「スプリング公爵家の令嬢だろ」
胸が固くなる。
けれど、今は休みたい。
全部へ答えなくてもいい。
フローラは目を合わせず、奥へ進もうとした。
その時。
「森でも化け物って呼ばれているらしい」
足が止まった。
胸の奥にあった古い傷が、一気に開いたような痛みが走る。
化け物。
王都で、何度も聞いた言葉。
廊下で。
庭園で。
夜会で。
聞こえるように言われたことも、聞こえないふりをされたこともあった。
けれど。
森では違う。
村では違う。
それなのに、噂の中では、森でも恐れられていることになっている。
リオが振り返った。
「誰が」
低い声だった。
「リオ」
ミナが止める。
フローラはすぐには動けなかった。
悲しい。
怖い。
腹が立つ。
違うと言いたい。
でも、声が出ない。
胸へ手を置く。
森。
畑。
子どもたち。
自分の名前。
「違います」
自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。
商人たちが黙る。
周囲の人々も、少しずつ会話を止めた。
「森では、私は化け物とは呼ばれていません」
喉が痛い。
それでも続ける。
「名前で呼ばれています」
フローラ。
先生。
おねえちゃん。
公爵令嬢ではなく。
青の姫君でもなく。
化け物でもなく。
名前で。
「私は森で、畑を耕しています」
商人たちは動かなかった。
「子どもたちと、植物を見ています」
声が少し震える。
「それが、今の私です」
長い沈黙が落ちた。
雨の音。
暖炉で薪が弾ける音。
誰かが息を飲む音。
商人の一人が、顔を赤くした。
「……申し訳ありません」
もう一人もすぐに頭を下げる。
「王都から来た旅人に聞いたんです。森でも恐れられていると」
「違います」
今度は、少し静かに言えた。
「少なくとも、私の知っている森と村では」
二人はさらに深く頭を下げた。
「失礼しました」
フローラは、大丈夫です、と言いそうになった。
でも。
大丈夫ではない。
傷ついた。
だから。
「悲しかったです」
言った瞬間、周囲の空気がまた変わった。
怒るでもなく。
相手を責めるでもなく。
ただ、自分の気持ちを伝えた。
「でも、訂正できたので」
一度呼吸を整える。
「今は、それで十分です」
二人は何も言わず、もう一度頭を下げた。
フローラは奥の区画へ入り、扉が閉まったあと、すぐに椅子へ座った。
膝から力が抜けていた。
涙が溢れる。
「……化け物」
小さな声で言う。
リオはまだ怒っていた。
「殴ればよかった」
「駄目です」
「でも」
「駄目です」
涙を拭きながら、フローラは首を横へ振った。
「でも、言えました」
ミナが隣の椅子へ腰を下ろす。
「はい」
「森では違うと」
「はい」
「名前で呼ばれると」
「はい」
「悲しかったと」
胸はまだ痛い。
でも。
「言えました」
ミナはゆっくりと頷いた。
「とても大きなことです」
◇
温かい飲み物を用意してもらった。
森で飲む薬草茶とは違い、香辛料の香りが強く、少し甘い。両手で器を包むと、震えていた指先が少しずつ温まっていった。
「昔」
フローラが口を開く。
リオもミナも、急かさずに待っていた。
「化け物と呼ばれた時、何も言えませんでした」
王都の廊下。
庭園。
貴族の子どもたち。
大人たち。
聞こえないふりをした使用人。
「違うと言っても、信じてもらえないと思っていました」
自分が違うと証明する方法も分からなかった。
「それに、本当に私が悪いものなのかもしれないと、少し信じていました」
声が小さくなる。
リオの眉間へ皺が寄った。
「違う」
「はい」
「最初から」
「はい」
「森のみんなも知っている」
「はい」
「俺も知っている」
「はい」
「子どもたちも」
「はい」
「なら違う」
フローラは涙を残したまま笑った。
「単純ですね」
「単純でいい」
その言葉が、胸へ静かに届いた。
今日、フローラは森では違うと言えた。
なぜなら、自分一人だけがそう思っているのではない。
村のみんなが知っている。
名前で呼んでくれる人がいる。
畑で過ごした日々がある。
子どもたちと記録を作った時間がある。
それは噂よりも確かなものだった。
◇
雨が少し弱くなり、馬車は再び街道へ出た。
乗り込む前、フローラは休憩所の隅にいる先ほどの商人たちを見た。
目が合う。
二人はすぐに頭を下げた。
フローラは少し迷ったあと、小さく頭を下げ返した。
許したわけではない。
忘れたわけでもない。
ただ、礼を返した。
それだけでいい。
◇
午後になると、雨は止んだ。
雲の隙間から光が差し込み、濡れた畑や木々が一斉に明るくなる。葉の上に残った水滴が光り、街道の水溜まりには空の色が映っていた。
フローラは窓を少し開ける。
湿った空気が馬車の中へ入る。
森の雨上がりに少し似ている。
けれど、ここには木が少ない。
遠くまで丘と草地が続き、空が大きく見えた。
「晴れました」
「うん」
リオも窓の外を見る。
フローラは座席へ背を預けた。
「今日は、疲れました」
「まだ午後」
「はい」
「休む?」
「少し」
「寝る?」
フローラは考える。
「今日は、起きています」
「どうして」
「外を見たいです」
眠気はある。
でも、景色も見たい。
無理をしているほどではない。
だから、起きていることを選ぶ。
◇
しばらくすると、街道の先に大きな町の屋根が見えてきた。
使者が馬車の外から説明する。
「今夜は、あちらの町へ入ります。王都へ向かう主要街道の中継地です」
「大きいですね」
「この先は、さらに人が増えます」
胸が少し固くなる。
リオが尋ねた。
「王都へ近い?」
「まだ数日はかかりますが、ここから先は王都との往来がかなり増えます」
噂も、さらに増える。
視線も多くなる。
「そうですか」
フローラは胸へ手を置いた。
使者が少し言いにくそうに続ける。
「フローラ様。今夜の宿では、念のため裏口を使用することもできます」
選べる。
表から入る。
裏から入る。
今日はすでに疲れている。
化け物という言葉も、まだ胸へ残っている。
「裏口をお願いします」
「承知いたしました」
逃げたのではない。
今日は十分に言った。
必要な時に休む。
それでいい。
◇
町へ近づくにつれ、人の流れはさらに増えていった。
雨上がりの街道には荷車が並び、屋台からは湯気が上がっている。旅人や商人、馬に乗った兵士たちが行き交い、王家の馬車が通るたびに道を譲った。
そのたびに、視線が集まる。
カーテンは半分だけ閉じてある。
それでも、声は聞こえた。
「青の姫君が通るらしい」
「今日か?」
「王都へ召還された」
「森で暮らしていたって本当なの?」
「追放されたんじゃないのか」
「いや、自分から出たって話もある」
同じ自分について。
違う話がいくつも作られている。
フローラは胸へ手を置いた。
「全部、私ではありません」
小さく言う。
ミナが聞き取った。
「はい」
「私のことを話しているけれど、全部が本当ではありません」
「はい」
「だから、私が自分まで分からなくならないようにします」
ミナは静かに頷いた。
「それで十分です」
◇
宿は、これまで泊まった場所より大きかった。
王家の馬車は表玄関を通らず、建物の裏手にある静かな入口へ回された。そこで待っていた使用人たちは、フローラが降りると一斉に頭を下げた。
「フローラ・フォン・スプリング様」
呼ばれる。
今日はすでに何度も名前を聞いた。
それでも。
自分でも言いたいだろうか。
家名まで言う必要はないかもしれない。
フローラは少し考えた。
「はい。フローラです。よろしくお願いします」
使用人の一人が、わずかに表情を柔らかくした。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
公爵令嬢という肩書ではなく。
自分の名前だけ。
それでも、きちんと受け取ってもらえた。
◇
部屋へ入ると、フローラは最初に村の毛布を寝台へ広げた。
旅に出てから毎日続けていることだった。
ただ。
最初の日より、村の匂いが少し薄くなった気がした。
宿の匂い。
馬車の匂い。
雨の匂い。
いくつもの場所を通るうちに、混ざっている。
「洗わない方がよかったでしょうか」
自分で呟き、すぐに首を横へ振る。
いつかは洗う。
匂いは変わる。
それでも、村が消えるわけではない。
「匂いがなくても、村はあります」
今日、何度も同じことを学んでいる。
見えなくてもある。
匂わなくてもある。
噂が違っていても、自分はいる。
◇
夕食前、フローラは旅用の記録紙を開いた。
朝。
宿を出る時。
王都へ戻される娘、と聞こえた。
私は、自分で行くと決めたことと、森へ戻るつもりであることを伝えた。
相手は怒らなかった。
謝り、気をつけてと言った。
次に、休憩所でのことを書く。
知らない人に、森でも化け物と呼ばれている、と言われた。
私は、とても悲しかった。
昔の王都へ戻ったように感じた。
でも、森では違うと言えた。
名前で呼ばれている。
畑を耕している。
子どもたちと植物を見ている。
それが今の私だと、言えた。
フローラは一度、筆を止めた。
さらに続ける。
私は今日、噂を全部訂正していない。
聞こえた言葉すべてに話しかけてもいない。
必要だと思った時だけ伝えた。
疲れたので、今夜は裏口を選んだ。
それでいい。
今日、分かったこと。
噂の中の私は、一人ではない。
王都へ戻される私。
森で恐れられる私。
追放された私。
自分から逃げた私。
化け物の私。
青の姫君の私。
誰かがそれぞれ、違う私を作っている。
でも。
今の私は、森で暮らしている。
畑を耕している。
子どもたちと植物を見ている。
母様の手紙を一文ずつ読んだ。
王都へ行くと自分で決めた。
森へ戻ると決めた。
ミナとリオを、そばにいてほしい人として選んだ。
それが、フローラ自身が知っている今の自分だった。
噂より、自分が自分を知っていれば、全部に負けなくていい。
そこまで書き、フローラは少し考えた。
負ける。
少し強い言葉に思える。
線を引かず、そのまま下へ続けた。
噂へ勝つ必要はない。
噂を消す必要もない。
ただ、噂と私を同じにしなくていい。
その方が、今の気持ちに近かった。
◇
夕食は、ミナとリオと一緒に取った。
リオは肉を食べながら、まだ少し怒っている。
「化け物って」
「はい」
「どこでそんな話になるんだ」
「噂です」
「意味が分からない」
「はい」
「森を見たこともない人が」
「はい」
リオの声は少し強い。
「腹が立つ」
フローラは彼を見る。
「私のために怒っていますか」
「普通に」
「ありがとうございます」
「礼を言われること?」
「嬉しいので」
リオは返事をせず、肉へ視線を落とした。
ミナが静かに口を開く。
「フローラ様」
「はい」
「今日、あの場で悲しかったと言えたことは、とても大きかったと思います」
フローラは匙を止めた。
「違います、だけではなく」
「はい」
「悲しい、と」
「はい」
思い返す。
昔は、傷ついても言えなかった。
悲しいと言えば、相手を責めることになると思っていた。
相手が困る。
怒らせる。
嫌われる。
だから、自分の中へしまうしかなかった。
「悲しいと言うのは、相手を責めることだと思っていました」
「そうなる場合もあります」
「はい」
「でも、自分がどう感じたかを伝えることと、相手を攻撃することは同じではありません」
また一つ。
分ける。
「今日の私は、傷ついたと伝えました」
「はい」
「でも、相手を悪い人だとは決めませんでした」
「はい」
リオが小さく言う。
「俺は決めかけた」
「顔に出ていました」
「うん」
フローラとミナは、同時に少しだけ笑った。
◇
夜。
雨は完全に止んでいた。
窓の外には町の灯りが並び、濡れた道へ細長く映っている。
森は見えない。
けれど、今日、そのことが昨日ほど怖くなかった。
フローラは花守り布を膝へ広げた。
途中までの道。
森側の点。
ミナとリオの点。
自分の点は、まだない。
「今日も、動きました」
王都へ近づいている。
でも、昨日と同じ自分ではない。
少しだけ言えるようになった。
少しだけ休めるようになった。
噂と自分を、少しだけ分けられるようになった。
「おやすみなさい、母様」
胸が痛む。
それでも、静かだった。
「今日も、会うかどうかは決めませんでした」
返事はない。
「でも、王都へ近づいています」
そのことを認める。
「怖いです」
国王陛下の前へ出ること。
父様へ会うこと。
母様へ会うかもしれないこと。
そして、噂の中の自分を、王都の人々が先に知っていること。
「でも、私は、私のことを覚えています」
森。
畑。
キズナ。
オカエリ。
子どもたち。
村のみんな。
「だから、明日も一つずつです」
花守り布を丁寧に折り、枕元へ置く。
寝台へ横になり、村の毛布を胸まで引き上げる。
今日、誰かの噂は、フローラを傷つけた。
けれど、噂の中の自分と、今の自分を少しだけ分けることができた。
王都へ近づくほど、もっと多くのことを言われるだろう。
フローラの知らないフローラが、いくつも作られるかもしれない。
それでも。
自分が今の自分を見失わなければ、すべてを同じものとして受け取らなくていい。
傷と成長は、同じではない。
伝言と手紙は、同じではない。
会うことと許すことも、同じではない。
任せることと忘れることも、同じではない。
そして。
噂と私も、同じではない。
そのことを胸へ置いたまま、フローラは王都へ続く旅の三日目を、ゆっくりと眠りへ渡していった。




