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『青の姫君の森暮らし 〜化け物と恐れられた公爵令嬢は、今日も畑を耕します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第78話 青の姫君、噂の中の自分と今の自分を分ける


 翌朝、フローラが目を覚ました時、窓の外では細い雨が降っていた。


 軒先から一定の間隔で雫が落ち、濡れた石畳へ淡い輪を広げている。遠くでは荷馬車がゆっくりと動き始めており、水を含んだ車輪が道を擦る低い音と、馬の鼻息が朝の静けさへ混ざっていた。


 フローラは寝台の上で目を開いたまま、しばらくその音を聞いていた。


 森で聞く雨とは違う。


 森では、雨はまず高い枝へ落ちる。葉に当たり、細かな雫となり、下にある葉へ渡りながら、最後に土へ届く。降り始めの頃には、雨音より先に、木々がざわめく音を聞くことも多かった。


 ここでは、雨が屋根へ真っ直ぐ落ちている。


 石へ落ち、馬車の幌へ落ち、宿の窓へ当たる。


 人が作ったものへ、迷わず届く雨だった。


「旅の三日目ですね」


 小さく声にすると、昨日より少しだけ自然に聞こえた。


 森を出て、一日。


 二日。


 今日で三日目。


 王都へ近づいている。


 それでも、まだ王都には着いていない。


 今は途中。


 昨日、フローラは宿を出る時に、自分の名前を自分で名乗った。


 知らない子どもから、髪が空のようできれいだと言われた。触ってよいかと聞かれ、怖いので今日は嫌です、と伝えた。馬車の中では眠いことを認め、ミナとリオへ任せて目を閉じた。


 夢の中では森を失った。


 けれど、目を覚ますと、リオとミナが森はまだあると言ってくれた。


 そして夜には、フローラが王都へ向かっているという話が、すでに街道沿いへ広まり始めていることを知った。


 森で暮らしていた公爵令嬢。


 王命によって召還された青の姫君。


 王都へ連れ戻される娘。


 自分の知らない人たちが、自分について話している。


 誰かから誰かへ伝わる間に、言葉が増えたり、削られたり、違う意味へ変わったりしている。


 フローラは毛布の上から胸へ手を置いた。


 少し速い。


 けれど、昨日ほどではない。


「噂は、私ではありません」


 部屋の中へ言う。


 それだけでは足りない気がして、少し考えてから続けた。


「噂の中に私のことが入っていても、それが全部の私ではありません」


 誰かが青の姫君と呼ぶ。


 誰かが化け物と呼ぶ。


 誰かが森へ逃げた公爵令嬢だと言う。


 誰かが王命で連れ戻される娘だと決めつける。


 それは、相手が作った言葉だった。


 フローラ自身が決めたこととは違う。


 自分は王都へ帰されるのではない。


 自分で行くと決めた。


 森での暮らしを守るために、自分の望みを自分の声で伝えるために。


「おはようございます」


 薄暗い部屋へ言ったあと、フローラは少しだけ間を置いた。


「おはようございます、母様」


 胸の奥が鈍く痛む。


 王都へ近づくほど、母様との距離も縮まっている。


 それでも。


「今日も、会うかどうかは決めません」


 昨日決めなかったことを、今日の朝だから決める必要はない。


「今日の私は、今日の道を進みます」


 その言葉を胸へ置き、フローラはゆっくりと寝台から足を下ろした。


     ◇


 顔を洗い、髪を梳く。


 昨日は自分で髪を編み、左右が少し違うまま一日を過ごした。


 何も起きなかった。


 髪の高さが少し違っても、王都へ向かう馬車には乗れる。食事もできる。知らない人と話すことも、自分の名前を名乗ることもできる。


 だから今日も、自分でやってみる。


「昨日より、少しだけ上手くできれば十分です」


 鏡の中の自分へ言う。


 一度目。


 右側がわずかに緩い。


 二度目。


 昨日ほど大きな違いはない。


 完全ではない。


 それでも、昨日よりは揃っている。


「……成長でしょうか」


 思わず口にし、自分で少し笑った。


 キズナも、皺のある葉を残したまま育っている。


 すぐに全部が整わなくても、大きくなる。


 自分も同じなのかもしれない。


 上手ではない。


 怖いものも多い。


 それでも、一日ごとに少しずつできることが増えている。


 花守り布を手に取る。


 森から外へ伸びる途中までの道。


 森側に集まる小さな点。


 途中に並ぶミナとリオの点。


 自分の点は、まだ縫われていない。


 動いているから。


 今いる場所を一つに決められないから。


 それでいい。


 今日は雨が降っている。


 花守り布をそのままかぶれば、濡れてしまう。


 フローラは薄い雨布の内側へ、花守り布を重ねた。


 外からは、ほとんど見えない。


 それでも、そこにある。


「今日は、中です」


 そのことが、少しだけ面白かった。


 見えなくても、ある。


 森と同じ。


 村と同じ。


 今の自分と同じだった。


     ◇


 扉を開けると、廊下にはすでにミナが待っていた。


「おはようございます」


「おはようございます。雨ですね」


「はい」


 フローラは廊下の窓から外を見た。


 宿の裏手では、王家の護衛たちが雨の中で馬車の車輪や馬具を確認している。雨水を含んだ道は昨日より暗い色になり、馬が一歩動くたび、泥が小さく跳ねた。


「道は進めそうですか」


「王家の方が朝一番で確認してくださいました。大きな遅れはないそうですが、今日は少し速度を落とすとのことです」


「ゆっくりですか」


「はい」


 胸の奥が、少しだけ軽くなった。


 王都へ近づいている。


 それなのに、遅く進むと聞いて安心した。


 矛盾している。


 けれど、今はそれでよいと思えた。


「それなら、少しほっとします」


 フローラが正直に言うと、ミナは驚かずに頷いた。


「王都へ着きたくないお気持ちがありますか」


「はい」


「でも、行く」


「はい」


「両方ですね」


「はい」


 人の気持ちは、一つだけではない。


 何度も知ったはずなのに、そのたびに確かめる必要がある。


 王都へ行くと決めたことと、王都へ着くのが怖いこと。


 森へ戻ると決めていることと、残してきた畑を心配すること。


 父様の手紙を読んだことと、すぐに許せないこと。


 全部、同時にあっていい。


     ◇


 朝食は昨日と同じように、三人で小さな個室を使った。


 リオはすでに席へ着き、パンを半分ほど食べ終えている。


「おはようございます」


「おはよう」


「早いですね」


「腹減った」


「昨日の夕食も、かなり食べていました」


「寝れば減る」


「そういうものですか」


「たぶん」


 ミナが笑いながら席へ着いた。


 今日は温かな粥と焼いた卵、少量の肉、それに果物が用意されている。雨の日の朝に湯気の立つ粥を見ると、森の家で食べていた朝食を思い出した。


 リオが粥を一口食べる。


「村のより固い」


「はい」


「水が少ない」


「はい」


「でも食べやすい」


「今日は食事の批評家ですね」


「何それ」


「料理を食べて、味や作り方を評価する人です」


 リオは粥とフローラを交互に見た。


「俺、固いか柔らかいしか言ってない」


「十分だと思います」


 何でもない会話のおかげで、朝から胸へ集まっていた緊張が少しだけ散っていった。


 フローラは粥を一口食べる。


 温かい。


 喉を通る。


「今日は」


 匙を持ったまま、フローラはゆっくりと言った。


「噂と、自分を分けたいです」


 リオが卵へ伸ばしていた手を止めた。


「どういうこと」


 ミナは急かさず、静かにフローラを見ている。


「昨日、使者の方から、私が王都へ向かっているという話が広まっていると聞きました」


「うん」


「森で暮らしていた公爵令嬢が、王命で王都へ戻される、と」


「違う」


 リオがすぐに言った。


「はい」


「フローラは、自分で行くと決めた」


「はい」


「なら違う」


 単純な言葉。


 けれど、その通りだった。


「でも、知らない人は、そう思います」


 フローラが言うと、ミナが頷いた。


「すべての人へ訂正して回ることはできません」


「はい」


「それに、フローラ様が一人ずつ説明する必要もありません」


「はい」


「ただ、ご自分まで噂へ引っ張られないようにすることはできます」


「はい」


 それが今日の目標だった。


「もし誰かに、『王都へ帰るのですね』と言われたら」


 胸が少し速くなる。


「必要なら、『王都へ行きます。でも、森へ戻るつもりです』と伝えたいです」


 リオが首を傾げる。


「必要なら?」


「全部の人へは言いません」


「うん」


「私が言いたい時だけ」


「それでいい」


 ミナも静かに頷いた。


「とてもよいと思います」


 今日、本当に言えるかどうかは分からない。


 それでも、言葉を用意しておく。


 それだけでも、少し安心できた。


     ◇


 出発する頃になっても、雨は細く降り続いていた。


 宿の表玄関には、王家の馬車を見るためなのか、旅人が何人か集まっている。露骨に近づく者はいなかったが、フローラが姿を現すと、自然にいくつもの視線が向けられた。


 雨布の隙間から、青い髪が少しだけ見える。


「青い髪だ」


 小さな声が聞こえた。


 胸が固くなる。


 けれど、歩く。


 馬車の横では王家の使者が待っていた。


「フローラ様。本日は降雨のため、午前中は速度を落として進みます」


「はい」


「途中の休憩も、通常より一度多く取る予定です」


「ありがとうございます」


 フローラは自分から尋ねた。


「道が危険になった場合は、どうしますか」


「無理には進みません。次の宿場町で待機いたします」


「分かりました」


 無理に進まない。


 王家の馬車であっても、雨や道の状態に従う。


 そのことが少し安心につながった。


 その時、宿の軒下にいた年配の男性が、隣にいる男へ低い声で言った。


「王都へ戻されるって話の娘だろ」


 はっきり聞こえた。


 胸の奥が強く痛む。


 リオがすぐに声のした方へ顔を向けた。


 フローラは彼の前へ小さく手を出した。


「リオ」


「聞こえた」


「はい」


 今、言いたいだろうか。


 胸へ聞く。


 怖い。


 それでも、今朝用意した言葉がある。


 フローラは年配の男性へ顔を向けた。


 目が合った瞬間、相手の顔へ驚きが浮かぶ。


 周囲の会話も、少しずつ小さくなった。


「すみません」


 声は震えた。


 けれど、届いた。


「私は、王都へ戻されるのではありません」


 男性は動かなかった。


 近くにいた人々も、フローラの次の言葉を待っている。


「自分で、行くと決めました」


 一度息を吸う。


「そして、森へ戻るつもりです」


 雨が軒先から落ちる音だけが、しばらく続いた。


 男性は気まずそうに口を開いた。


「……そうでしたか」


「はい」


「失礼しました」


 頭を下げられ、フローラは少し驚いた。


 怒られなかった。


 笑われなかった。


 王命に逆らうのかとも、公爵家の娘として間違っているとも言われなかった。


「いえ」


 大丈夫です、と言いかけて止める。


 少し傷ついた。


 だから、全部大丈夫ではない。


「知られていないことなので」


 そう答えると、男性はゆっくり顔を上げた。


「本当に、森へ戻るのですか」


「はい。王都で、自分の望みを話したあとに」


 男性はしばらくフローラを見た。


 先ほどまでとは少し違う目だった。


「それなら、お気をつけて」


「ありがとうございます」


 フローラは頭を下げ、馬車へ乗った。


 扉が閉まった瞬間、身体から力が抜ける。


「……言えました」


 ミナが隣へ座りながら頷く。


「はい」


 リオも向かいの席へ座った。


「すごい」


「すごいですか」


「俺なら、違う、だけで終わる」


「短いですね」


「でも伝わる」


 フローラは少し笑った。


 胸の鼓動はまだ速い。


 それでも。


 言えた。


     ◇


 馬車は濡れた街道をゆっくりと進んだ。


 雨のため窓は半分ほど閉じられており、薄いガラス越しに見える田畑は、昨日よりも色が濃い。湿った土の匂いが、わずかに車内まで入り込んでくる。


 雨。


 土。


 畑。


 森の畑にも、今頃雨が降っているだろうか。


 同じ雲ではないかもしれない。


 それでも、季節は同じ。


 オカエリの周りに水が溜まっていないか。


 キズナの皺のある葉が、雨の重さに耐えられているか。


 子どもたちは雨の日の記録をどう書くだろう。


 サムは葉の濡れ方を細かく記録するかもしれない。


 エマは雨粒の数まで数えようとして、途中で分からなくなるかもしれない。


 トトは水の流れを作ると言って、畑を掘ろうとするかもしれない。


 心配が胸へ広がる。


「畑?」


 向かいに座るリオが聞いた。


「はい」


「雨」


「はい」


「村にも降っているかは分からない」


「はい」


「でも、任せた」


「はい」


 その通りだった。


「心配するのは、悪いですか」


 フローラが尋ねると、リオは不思議そうな顔をした。


「なんで悪いの」


「任せたのに、心配しているので」


「任せたら、心配したら駄目なの?」


 フローラは答えられなかった。


「……分かりません」


「俺だって、ガルドに森を任せても心配する」


「そうなのですか」


「普通に」


 ミナが笑った。


「任せることと、心配しなくなることは別です」


 また一つ。


 同じではないもの。


「そうですね」


 任せる。


 でも、心配する。


 両方あっていい。


     ◇


 午前の途中、王家の馬車は街道沿いの休憩所へ入った。


 雨脚は少し強くなっていた。


 大きな木造の屋根の下では、何組もの旅人が雨宿りをしている。濡れた服の匂い、泥のついた靴、馬の匂い、暖炉の煙、温かな飲み物の湯気。


 いくつもの匂いと人の声が混ざっていた。


 使者は、フローラたちを奥にある小さな区画へ案内しようとした。


 その途中。


「青の姫君?」


 声が聞こえた。


 若い男性が二人。


 荷物の様子から、商人かもしれない。


 二人は驚いたようにフローラを見ていた。


「本当に青い髪だ」


「スプリング公爵家の令嬢だろ」


 胸が固くなる。


 けれど、今は休みたい。


 全部へ答えなくてもいい。


 フローラは目を合わせず、奥へ進もうとした。


 その時。


「森でも化け物って呼ばれているらしい」


 足が止まった。


 胸の奥にあった古い傷が、一気に開いたような痛みが走る。


 化け物。


 王都で、何度も聞いた言葉。


 廊下で。


 庭園で。


 夜会で。


 聞こえるように言われたことも、聞こえないふりをされたこともあった。


 けれど。


 森では違う。


 村では違う。


 それなのに、噂の中では、森でも恐れられていることになっている。


 リオが振り返った。


「誰が」


 低い声だった。


「リオ」


 ミナが止める。


 フローラはすぐには動けなかった。


 悲しい。


 怖い。


 腹が立つ。


 違うと言いたい。


 でも、声が出ない。


 胸へ手を置く。


 森。


 畑。


 子どもたち。


 自分の名前。


「違います」


 自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。


 商人たちが黙る。


 周囲の人々も、少しずつ会話を止めた。


「森では、私は化け物とは呼ばれていません」


 喉が痛い。


 それでも続ける。


「名前で呼ばれています」


 フローラ。


 先生。


 おねえちゃん。


 公爵令嬢ではなく。


 青の姫君でもなく。


 化け物でもなく。


 名前で。


「私は森で、畑を耕しています」


 商人たちは動かなかった。


「子どもたちと、植物を見ています」


 声が少し震える。


「それが、今の私です」


 長い沈黙が落ちた。


 雨の音。


 暖炉で薪が弾ける音。


 誰かが息を飲む音。


 商人の一人が、顔を赤くした。


「……申し訳ありません」


 もう一人もすぐに頭を下げる。


「王都から来た旅人に聞いたんです。森でも恐れられていると」


「違います」


 今度は、少し静かに言えた。


「少なくとも、私の知っている森と村では」


 二人はさらに深く頭を下げた。


「失礼しました」


 フローラは、大丈夫です、と言いそうになった。


 でも。


 大丈夫ではない。


 傷ついた。


 だから。


「悲しかったです」


 言った瞬間、周囲の空気がまた変わった。


 怒るでもなく。


 相手を責めるでもなく。


 ただ、自分の気持ちを伝えた。


「でも、訂正できたので」


 一度呼吸を整える。


「今は、それで十分です」


 二人は何も言わず、もう一度頭を下げた。


 フローラは奥の区画へ入り、扉が閉まったあと、すぐに椅子へ座った。


 膝から力が抜けていた。


 涙が溢れる。


「……化け物」


 小さな声で言う。


 リオはまだ怒っていた。


「殴ればよかった」


「駄目です」


「でも」


「駄目です」


 涙を拭きながら、フローラは首を横へ振った。


「でも、言えました」


 ミナが隣の椅子へ腰を下ろす。


「はい」


「森では違うと」


「はい」


「名前で呼ばれると」


「はい」


「悲しかったと」


 胸はまだ痛い。


 でも。


「言えました」


 ミナはゆっくりと頷いた。


「とても大きなことです」


     ◇


 温かい飲み物を用意してもらった。


 森で飲む薬草茶とは違い、香辛料の香りが強く、少し甘い。両手で器を包むと、震えていた指先が少しずつ温まっていった。


「昔」


 フローラが口を開く。


 リオもミナも、急かさずに待っていた。


「化け物と呼ばれた時、何も言えませんでした」


 王都の廊下。


 庭園。


 貴族の子どもたち。


 大人たち。


 聞こえないふりをした使用人。


「違うと言っても、信じてもらえないと思っていました」


 自分が違うと証明する方法も分からなかった。


「それに、本当に私が悪いものなのかもしれないと、少し信じていました」


 声が小さくなる。


 リオの眉間へ皺が寄った。


「違う」


「はい」


「最初から」


「はい」


「森のみんなも知っている」


「はい」


「俺も知っている」


「はい」


「子どもたちも」


「はい」


「なら違う」


 フローラは涙を残したまま笑った。


「単純ですね」


「単純でいい」


 その言葉が、胸へ静かに届いた。


 今日、フローラは森では違うと言えた。


 なぜなら、自分一人だけがそう思っているのではない。


 村のみんなが知っている。


 名前で呼んでくれる人がいる。


 畑で過ごした日々がある。


 子どもたちと記録を作った時間がある。


 それは噂よりも確かなものだった。


     ◇


 雨が少し弱くなり、馬車は再び街道へ出た。


 乗り込む前、フローラは休憩所の隅にいる先ほどの商人たちを見た。


 目が合う。


 二人はすぐに頭を下げた。


 フローラは少し迷ったあと、小さく頭を下げ返した。


 許したわけではない。


 忘れたわけでもない。


 ただ、礼を返した。


 それだけでいい。


     ◇


 午後になると、雨は止んだ。


 雲の隙間から光が差し込み、濡れた畑や木々が一斉に明るくなる。葉の上に残った水滴が光り、街道の水溜まりには空の色が映っていた。


 フローラは窓を少し開ける。


 湿った空気が馬車の中へ入る。


 森の雨上がりに少し似ている。


 けれど、ここには木が少ない。


 遠くまで丘と草地が続き、空が大きく見えた。


「晴れました」


「うん」


 リオも窓の外を見る。


 フローラは座席へ背を預けた。


「今日は、疲れました」


「まだ午後」


「はい」


「休む?」


「少し」


「寝る?」


 フローラは考える。


「今日は、起きています」


「どうして」


「外を見たいです」


 眠気はある。


 でも、景色も見たい。


 無理をしているほどではない。


 だから、起きていることを選ぶ。


     ◇


 しばらくすると、街道の先に大きな町の屋根が見えてきた。


 使者が馬車の外から説明する。


「今夜は、あちらの町へ入ります。王都へ向かう主要街道の中継地です」


「大きいですね」


「この先は、さらに人が増えます」


 胸が少し固くなる。


 リオが尋ねた。


「王都へ近い?」


「まだ数日はかかりますが、ここから先は王都との往来がかなり増えます」


 噂も、さらに増える。


 視線も多くなる。


「そうですか」


 フローラは胸へ手を置いた。


 使者が少し言いにくそうに続ける。


「フローラ様。今夜の宿では、念のため裏口を使用することもできます」


 選べる。


 表から入る。


 裏から入る。


 今日はすでに疲れている。


 化け物という言葉も、まだ胸へ残っている。


「裏口をお願いします」


「承知いたしました」


 逃げたのではない。


 今日は十分に言った。


 必要な時に休む。


 それでいい。


     ◇


 町へ近づくにつれ、人の流れはさらに増えていった。


 雨上がりの街道には荷車が並び、屋台からは湯気が上がっている。旅人や商人、馬に乗った兵士たちが行き交い、王家の馬車が通るたびに道を譲った。


 そのたびに、視線が集まる。


 カーテンは半分だけ閉じてある。


 それでも、声は聞こえた。


「青の姫君が通るらしい」


「今日か?」


「王都へ召還された」


「森で暮らしていたって本当なの?」


「追放されたんじゃないのか」


「いや、自分から出たって話もある」


 同じ自分について。


 違う話がいくつも作られている。


 フローラは胸へ手を置いた。


「全部、私ではありません」


 小さく言う。


 ミナが聞き取った。


「はい」


「私のことを話しているけれど、全部が本当ではありません」


「はい」


「だから、私が自分まで分からなくならないようにします」


 ミナは静かに頷いた。


「それで十分です」


     ◇


 宿は、これまで泊まった場所より大きかった。


 王家の馬車は表玄関を通らず、建物の裏手にある静かな入口へ回された。そこで待っていた使用人たちは、フローラが降りると一斉に頭を下げた。


「フローラ・フォン・スプリング様」


 呼ばれる。


 今日はすでに何度も名前を聞いた。


 それでも。


 自分でも言いたいだろうか。


 家名まで言う必要はないかもしれない。


 フローラは少し考えた。


「はい。フローラです。よろしくお願いします」


 使用人の一人が、わずかに表情を柔らかくした。


「こちらこそ、よろしくお願いいたします」


 公爵令嬢という肩書ではなく。


 自分の名前だけ。


 それでも、きちんと受け取ってもらえた。


     ◇


 部屋へ入ると、フローラは最初に村の毛布を寝台へ広げた。


 旅に出てから毎日続けていることだった。


 ただ。


 最初の日より、村の匂いが少し薄くなった気がした。


 宿の匂い。


 馬車の匂い。


 雨の匂い。


 いくつもの場所を通るうちに、混ざっている。


「洗わない方がよかったでしょうか」


 自分で呟き、すぐに首を横へ振る。


 いつかは洗う。


 匂いは変わる。


 それでも、村が消えるわけではない。


「匂いがなくても、村はあります」


 今日、何度も同じことを学んでいる。


 見えなくてもある。


 匂わなくてもある。


 噂が違っていても、自分はいる。


     ◇


 夕食前、フローラは旅用の記録紙を開いた。


 朝。


 宿を出る時。


 王都へ戻される娘、と聞こえた。


 私は、自分で行くと決めたことと、森へ戻るつもりであることを伝えた。


 相手は怒らなかった。


 謝り、気をつけてと言った。


 次に、休憩所でのことを書く。


 知らない人に、森でも化け物と呼ばれている、と言われた。


 私は、とても悲しかった。


 昔の王都へ戻ったように感じた。


 でも、森では違うと言えた。


 名前で呼ばれている。


 畑を耕している。


 子どもたちと植物を見ている。


 それが今の私だと、言えた。


 フローラは一度、筆を止めた。


 さらに続ける。


 私は今日、噂を全部訂正していない。


 聞こえた言葉すべてに話しかけてもいない。


 必要だと思った時だけ伝えた。


 疲れたので、今夜は裏口を選んだ。


 それでいい。


 今日、分かったこと。


 噂の中の私は、一人ではない。


 王都へ戻される私。


 森で恐れられる私。


 追放された私。


 自分から逃げた私。


 化け物の私。


 青の姫君の私。


 誰かがそれぞれ、違う私を作っている。


 でも。


 今の私は、森で暮らしている。


 畑を耕している。


 子どもたちと植物を見ている。


 母様の手紙を一文ずつ読んだ。


 王都へ行くと自分で決めた。


 森へ戻ると決めた。


 ミナとリオを、そばにいてほしい人として選んだ。


 それが、フローラ自身が知っている今の自分だった。


 噂より、自分が自分を知っていれば、全部に負けなくていい。


 そこまで書き、フローラは少し考えた。


 負ける。


 少し強い言葉に思える。


 線を引かず、そのまま下へ続けた。


 噂へ勝つ必要はない。


 噂を消す必要もない。


 ただ、噂と私を同じにしなくていい。


 その方が、今の気持ちに近かった。


     ◇


 夕食は、ミナとリオと一緒に取った。


 リオは肉を食べながら、まだ少し怒っている。


「化け物って」


「はい」


「どこでそんな話になるんだ」


「噂です」


「意味が分からない」


「はい」


「森を見たこともない人が」


「はい」


 リオの声は少し強い。


「腹が立つ」


 フローラは彼を見る。


「私のために怒っていますか」


「普通に」


「ありがとうございます」


「礼を言われること?」


「嬉しいので」


 リオは返事をせず、肉へ視線を落とした。


 ミナが静かに口を開く。


「フローラ様」


「はい」


「今日、あの場で悲しかったと言えたことは、とても大きかったと思います」


 フローラは匙を止めた。


「違います、だけではなく」


「はい」


「悲しい、と」


「はい」


 思い返す。


 昔は、傷ついても言えなかった。


 悲しいと言えば、相手を責めることになると思っていた。


 相手が困る。


 怒らせる。


 嫌われる。


 だから、自分の中へしまうしかなかった。


「悲しいと言うのは、相手を責めることだと思っていました」


「そうなる場合もあります」


「はい」


「でも、自分がどう感じたかを伝えることと、相手を攻撃することは同じではありません」


 また一つ。


 分ける。


「今日の私は、傷ついたと伝えました」


「はい」


「でも、相手を悪い人だとは決めませんでした」


「はい」


 リオが小さく言う。


「俺は決めかけた」


「顔に出ていました」


「うん」


 フローラとミナは、同時に少しだけ笑った。


     ◇


 夜。


 雨は完全に止んでいた。


 窓の外には町の灯りが並び、濡れた道へ細長く映っている。


 森は見えない。


 けれど、今日、そのことが昨日ほど怖くなかった。


 フローラは花守り布を膝へ広げた。


 途中までの道。


 森側の点。


 ミナとリオの点。


 自分の点は、まだない。


「今日も、動きました」


 王都へ近づいている。


 でも、昨日と同じ自分ではない。


 少しだけ言えるようになった。


 少しだけ休めるようになった。


 噂と自分を、少しだけ分けられるようになった。


「おやすみなさい、母様」


 胸が痛む。


 それでも、静かだった。


「今日も、会うかどうかは決めませんでした」


 返事はない。


「でも、王都へ近づいています」


 そのことを認める。


「怖いです」


 国王陛下の前へ出ること。


 父様へ会うこと。


 母様へ会うかもしれないこと。


 そして、噂の中の自分を、王都の人々が先に知っていること。


「でも、私は、私のことを覚えています」


 森。


 畑。


 キズナ。


 オカエリ。


 子どもたち。


 村のみんな。


「だから、明日も一つずつです」


 花守り布を丁寧に折り、枕元へ置く。


 寝台へ横になり、村の毛布を胸まで引き上げる。


 今日、誰かの噂は、フローラを傷つけた。


 けれど、噂の中の自分と、今の自分を少しだけ分けることができた。


 王都へ近づくほど、もっと多くのことを言われるだろう。


 フローラの知らないフローラが、いくつも作られるかもしれない。


 それでも。


 自分が今の自分を見失わなければ、すべてを同じものとして受け取らなくていい。


 傷と成長は、同じではない。


 伝言と手紙は、同じではない。


 会うことと許すことも、同じではない。


 任せることと忘れることも、同じではない。


 そして。


 噂と私も、同じではない。


 そのことを胸へ置いたまま、フローラは王都へ続く旅の三日目を、ゆっくりと眠りへ渡していった。

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