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『青の姫君の森暮らし 〜化け物と恐れられた公爵令嬢は、今日も畑を耕します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第9話 青の姫君、小さな芽に名前を呼ばれる



 青豆一号が芽を出した。


 それは、とても小さな芽だった。


 朝露に濡れた土の表面を、淡い緑色の先端がそっと押し上げている。


 まだ葉と呼ぶには頼りない。


 茎も細い。


 指で触れたら折れてしまいそうなほど弱々しい。


 けれど、その小さな芽は確かに土を割って、朝の光へ顔を出していた。


 私はしゃがみ込み、しばらく黙って見つめた。


 森の畑では、芽が出ること自体は珍しくない。


 毎朝、どこかで新しい葉が開き、根が伸び、実が膨らむ。


 私はそれを観察し、記録し、手入れをしてきた。


 けれど今日の芽は、少し違った。


 青豆一号。


 初めて村の子供たちに授業をした日に、私が植えた豆。


 エマに「名前をつけて」と言われ、咄嗟に名づけた豆。


 リオには研究っぽいと笑われ、バルドさんには強そうだと褒められた豆。


 その芽が出た。


「……出ましたね」


 私は小さく呟いた。


 返事はない。


 けれど、朝の風が畑を通り抜け、芽の先をほんの少し揺らした。


 まるで頷いたようだった。


 私は土の湿り具合を確かめた。


 水分は十分。


 少し表面が締まりすぎているので、周囲を軽くほぐす。


 虫の気配は少ない。


 日当たりも良い。


 順調だ。


 私は記録板に書き込んだ。


 青豆一号、発芽確認。


 発芽日、快晴。


 土壌状態、良好。


 水分、適正。


 子供たちへ報告すること。


 そこまで書いて、少し手が止まった。


 報告すること。


 そうだ。


 これは私だけの芽ではない。


 村の子供たちが植えた豆も、そろそろ芽を出しているかもしれない。


 エマのマメタ。


 ニコ豆。


 トトとルルの豆。


 サムの豆。


 リーナの豆。


 子供たちは毎日見に行くと言っていた。


 きっと今日も、村の共同畑へ向かっているだろう。


 私は胸の奥が少し弾むのを感じた。


 行きたい。


 芽を見たい。


 子供たちと一緒に、出た、出てない、こっちは早い、こっちは遅いと話したい。


 けれど、村へ行く時は誰かと一緒に。


 それが約束だ。


 私は少し考えた後、伝言鳥を作ることにした。


 魔法で鳥型の小さな光を作り、リオかミナに言伝を届ける。


 ただし、派手に飛ばすと村の人に驚かれるかもしれない。


 普通の小鳥に紛れるよう、青い羽の小鳥の形にする。


 内容は短く。


 青豆一号が芽を出しました。


 今日、共同畑の様子を見に行ってもいいですか。


 私は光の小鳥に言葉を込めた。


 指先からふわりと飛び立つ。


 小鳥は一度私の頭上を回り、森の道の方へ飛んでいった。


 魔法を使った後、私は少しだけ首を傾げた。


「……これは、派手ではないわよね」


 たぶん。


 小鳥型。


 静か。


 光は弱め。


 村長さんにも怒られない範囲だと思う。


 私は畑仕事をしながら返事を待った。


 待つ時間にも、少し慣れてきた。


 以前は待つことが苦手だった。


 父様が来るのを待つ。


 母様の体調がよくなるのを待つ。


 屋敷の空気が元に戻るのを待つ。


 あの頃の待つ時間は、胸が冷えるものだった。


 今は違う。


 リオたちが来るかもしれない。


 ミナから返事があるかもしれない。


 村へ行けるかもしれない。


 同じ待つでも、胸の中に少し光がある。


 昼前、結界に反応があった。


 二人。


 リオとミナ。


 足音で分かる。


 リオは今日も少し速い。


 ミナはその後ろで、何かを注意しているようだった。


「フローラー!」


 声が森に響く。


 私は畑から顔を上げた。


「リオ兄さん、また声が大きい!」


「だって芽が出たんだろ!?」


「だからって森で叫ばない!」


「嬉しいから仕方ないだろ!」


 二人が木々の間から現れた。


 リオは満面の笑み。


 ミナも息を切らしながら、嬉しそうにしている。


「小鳥、届きました」


 ミナが言った。


「驚かせませんでしたか」


「少し驚きました。でも可愛かったです」


「よかったです」


 リオは私の畑を覗き込んだ。


「青豆一号、どこ!?」


「こちらです」


 私は案内した。


 リオはしゃがみ込み、目を輝かせる。


「おお……出てる!」


「はい」


「ちっちゃいな!」


「芽なので」


「でもすげえな。昨日まで土だったのに」


 リオの声は本当に感心していた。


 ミナも隣にしゃがみ、優しく微笑んだ。


「可愛いですね」


「可愛い」


「はい。頑張って出てきた感じがします」


 私は青豆一号を見た。


 頑張って出てきた。


 確かに、そう見える。


 小さな芽が土を押し上げるのは、大きな力ではない。


 でも、諦めずに少しずつ上へ進んだ結果だ。


 私はその姿に、少し胸を打たれた。


「……そうですね。頑張っています」


 リオが立ち上がった。


「村の豆も見に行こうぜ!」


「はい」


 私は頷いた。


 今日は村へ行く。


 青豆一号の記録板と、芽が出た後の観察用木板を持つ。


 昨日の夜に作っておいたものだ。


 ……正確には、初授業の後に少しずつ作っていた。


 ほどほどに。


 たぶん。


 ミナが籠の中を見て、少し笑った。


「今日は何枚ですか?」


「二枚です」


「本当に?」


「はい。二枚だけです」


 私は誇らしく答えた。


 ミナは安心したように頷いた。


 リオは少し残念そうだった。


「七枚でも面白いのに」


「子供たちが疲れます」


「俺もちょっと疲れる」


「では、二枚が適切です」


 そうして三人で村へ向かった。


 森の道は、昨日より乾いていた。


 木漏れ日が地面に落ち、まだら模様を作っている。


 鳥の声が近い。


 途中、青い羽の小鳥が枝に止まっていた。


 私が伝言鳥の形にしたものと同じ種類だ。


 リオが指差した。


「あれ、フローラの小鳥か?」


「本物です」


「見分けつかないな」


「魔力を見れば分かります」


「普通は見えないんだって」


「そうでした」


 リオは笑った。


 ミナも微笑む。


 こういう小さな会話が、今は心地よい。


 村に着く前から、広場の方が騒がしいのが分かった。


 子供たちの声だ。


「出た!」


「出てない!」


「こっち出てる!」


「踏むなよ!」


「水やりすぎだって!」


 リオが笑う。


「もう始まってるな」


 村の共同畑には、子供たちが集まっていた。


 大人たちも数人、少し離れて見守っている。


 バルドさんは畑の端で腕を組み、まるで見張り番のように立っていた。


 私が近づくと、エマが真っ先に気づいた。


「フローラ先生!」


 その声に、子供たちが一斉にこちらを見る。


「先生来た!」


「芽出たよ!」


「マメタ出た!」


「僕のまだ!」


「見て見て!」


 子供たちが駆け寄ってくる。


 私は少し身構えたが、ミナがそっと横に立ってくれた。


 リオも子供たちの前に出る。


「押すなよ! 先生転ぶだろ!」


「リオ兄さんが一番押しそう」


 ミナの指摘に、子供たちが笑う。


 私は少しだけ肩の力を抜いた。


「みんな、おはようございます」


「おはようございます!」


 元気な声。


 今日も少しずれている。


 でも、それがいい。


 私は共同畑へ向かった。


 小さな区画に、それぞれの豆が植えられている。


 名札が刺さっていた。


 マメタ。


 ニコ豆。


 トト豆。


 ルル豆。


 サム豆。


 リーナの豆。


 そして、村で追加で植えたらしいリオ豆もあった。


「いつ植えたのですか」


 私が尋ねると、リオは胸を張った。


「昨日!」


「村長さんの許可は?」


「取った!」


 バルドさんが横から言った。


「俺が見てた。変な植え方だったから直させた」


「変じゃないって」


「深すぎた」


「強く育つかと思って」


「埋めすぎたら出てこねえ」


 子供たちが笑う。


 リオは少し恥ずかしそうに頭を掻いた。


 私はそれを見て、胸が温かくなった。


 大人も子供も、みんなで豆を見ている。


 ただの豆なのに。


 でも、ただの豆ではない。


 自分で植えたもの。


 名前をつけたもの。


 毎日見に来るもの。


 だから特別になる。


 私は一つずつ見て回った。


 エマのマメタは、しっかり芽を出していた。


 少し斜めだが元気だ。


「マメタ、どう?」


「元気です。ただ、周りの土が少し固いので、そっとほぐしましょう」


「そっとね!」


 エマは真剣に指で土を触る。


 力が入りすぎそうになり、ミナが優しく手を添える。


 ニコ豆はまだ芽が出ていなかった。


 ニコは不安そうに私を見る。


「僕の、だめ?」


「まだ分かりません」


「出てこないかも?」


「豆にもそれぞれ速さがあります。土の中で準備しているかもしれません」


「準備?」


「はい。外から見えなくても、中で根を伸ばしていることがあります」


 ニコは土をじっと見た。


「じゃあ、待つ」


「はい。待ちましょう。ただし、水をあげすぎると苦しくなるので、今日は少しだけです」


「うん」


 リーナの豆は小さな芽が顔を出していた。


 リーナは恥ずかしそうに、でも嬉しそうに笑っている。


「出ましたね」


「うん……」


「よく見ていましたか」


「毎朝、来た」


「それが大事です」


 リーナはこくりと頷いた。


 トトとルルの豆は、片方だけ芽が出ていた。


 二人は少し揉めている。


「僕の方が早い!」


「でも私の方が大きくなる!」


「分かんないだろ!」


「分かるもん!」


 私は二人の間にしゃがんだ。


「早く出た芽が一番大きくなるとは限りません」


「そうなの?」


「はい。遅く出ても、後からしっかり育つこともあります」


 ルルが少し安心した顔をする。


 トトは少し考えた後、言った。


「じゃあ、競争じゃない?」


「競争にしてもいいですが、観察も大事です」


「観察」


「違いを見ることです。早い芽、遅い芽。葉の形。色。伸び方。全部が勉強になります」


 トトとルルは顔を見合わせた。


「じゃあ、毎日比べる!」


「喧嘩しない範囲で」


「はーい!」


 サムの豆は、とても整った場所に植えられていた。


 土も程よくほぐされ、水も適量。


 芽も真っ直ぐ出ている。


「上手です」


 私が言うと、サムは真面目な顔で頷いた。


「昨日、バルドじいに聞いた」


 バルドさんが少しそっぽを向く。


「聞きに来たから教えただけだ」


「土、強く押さないって」


「覚えてたならいい」


 サムは少し誇らしげだった。


 私はその姿を見て、先生というものは一人ではないのだと思った。


 私が薬草や畑の基本を教える。


 バルドさんが土を教える。


 親が水やりを見守る。


 子供同士が比べ合う。


 そうやって知識は村の中で育っていく。


 私一人が抱える必要はない。


 それが少し嬉しかった。


 全員の豆を見終えると、私は木板を出した。


 今日は二枚だけ。


 一枚目は「芽が出た時に見ること」。


 二枚目は「芽が出ない時にすること」。


 子供たちは木板を覗き込む。


「芽が出た時に見ることは、三つです」


 私は指を立てた。


「色。向き。土の湿り具合」


 子供たちが真似して指を立てる。


「色!」


「向き!」


「土!」


「はい。葉が黄色すぎる時、茎が曲がりすぎている時、土が乾きすぎている時や濡れすぎている時は、大人に相談しましょう」


 エマが手を上げる。


「フローラ先生にも?」


「はい。私が村にいる時は」


「森にいる時は?」


「急ぎなら、リオかミナ、ガルドさんに伝えてください」


 リオが胸を張る。


「俺に言え!」


 ミナがすぐ付け足す。


「急ぎじゃないことは、まず家の大人かバルドさんに聞いてね」


「なんで俺だけだとだめなんだよ」


「リオ兄さんは勢いで森まで走りそうだから」


「走るかも」


「ほら」


 子供たちが笑った。


 私は二枚目の木板を見せる。


「芽が出ない時にすること。まず、掘り返さない」


 ニコがびくっとした。


「掘っちゃだめ?」


「だめです。気になっても、掘ると傷つけることがあります」


「見たいのに」


「見たい気持ちは分かります」


 私は頷いた。


 私も気になるものは調べたくなる。


 分解したくなる。


 けれど、育つものには時間が必要だ。


「でも、待つことも育てることです」


 言葉にした瞬間、少し胸に残った。


 待つことも育てること。


 豆だけではない。


 人も、関係も、心も。


 きっと同じなのだろう。


 私はリオとミナを少し見た。


 二人は静かに聞いている。


 ミナは微笑んでいた。


 リオは何か考えるような顔をしていた。


 授業が終わると、子供たちはそれぞれ自分の豆の周りに小さな柵を作り始めた。


 踏まれないようにするためだ。


 バルドさんが木の枝を用意してくれた。


 リオも手伝っている。


 やっぱり自分のリオ豆が気になるらしく、時々様子を見ている。


「リオ豆、まだ出ていませんね」


 私が言うと、リオは真面目な顔で頷いた。


「待つのも育てることだからな」


 私は少し驚いた。


「覚えてくれたのですか」


「先生が言ったからな」


 先生。


 リオにそう言われると、また少し恥ずかしい。


 でも嬉しい。


 ミナが横で笑った。


「リオ兄さんにも授業の効果がありましたね」


「俺だって学ぶぞ」


「たまにね」


「ミナ、厳しい」


 そのやり取りを聞きながら、私は青豆一号の話をした。


「私の畑の青豆一号も芽が出ました」


 子供たちが一斉に反応する。


「見たい!」


「森の畑行きたい!」


「青豆一号!」


「どれくらい大きい?」


 私は少し考えた。


 子供たちを森の家へ連れて行くには、大人の付き添いが必要だ。


 結界内なら安全だが、薬草園や魔法陣には触らない約束も必要。


 今すぐは難しい。


「今日は行けません。でも、次に大人と相談して、見学の日を作りましょう」


「本当!?」


「はい」


 歓声が上がった。


 バルドさんがすぐ釘を刺す。


「行けると決まったわけじゃねえぞ。騒ぐな」


「はーい!」


 返事は元気だが、子供たちはもう森の畑を想像している顔だった。


 私の家に、子供たちが来る。


 それを想像すると、少し不安になる。


 でも、少し楽しみでもあった。


 青豆一号を見せる。


 果樹を見せる。


 薬草園は危険な場所を区切る。


 井戸には近づきすぎないように。


 結界の説明は簡単に。


 お茶と焼き菓子も必要だろうか。


 考え始めると、また準備が増えそうだった。


 私は心の中で「ほどほど」と唱えた。


 昼食の時間になると、村の広場にはいつものように人が集まり始めた。


 今日は子供たちが自分の豆の話を大人にしている。


「僕のまだ出てないけど、準備してるんだって!」


「マメタは出た!」


「土を押しすぎると苦しいんだよ!」


「根っこも息するんだよ!」


 大人たちは笑いながら聞いていた。


 中には感心したように頷く人もいる。


「へえ、根が息するってのは俺も知らなかったな」


「水やりすぎるなって子供に怒られたよ」


「うちの畑も見直さねえとな」


 子供たちの学びが、大人にも広がっている。


 私はそれを見て、静かに驚いた。


 知識はこうやって広がるのか。


 一人が教え、子供が覚え、家で話し、大人が見直す。


 紙の上で計画する領地経営とは違う。


 人の声を通って、暮らしの中で広がる知識。


 その力を初めて目の当たりにした気がした。


 ミナが私の隣に座った。


「嬉しそうですね」


「そう見えますか」


「はい」


「子供たちが覚えてくれているのが、嬉しいです」


「先生ですね」


「見習いです」


「でも、先生です」


 ミナは譲らなかった。


 私は少し照れながら、村のスープを飲んだ。


 今日のスープは豆と根菜。


 素朴で温かい。


 リオは私の向かいでパンを食べていた。


 その隣でニコがリオに豆の話をしている。


「リオ豆もそのうち出るよ」


「おう。強い豆になるからな」


「深く植えすぎたらだめだよ」


「もう直された」


「よかったね」


 ニコに真剣に言われ、リオが少し困った顔をする。


 ミナが笑いをこらえている。


 私は思わず口元を緩めた。


 その時、広場の端が少し騒がしくなった。


 村の外へ続く道の方から、男が一人歩いてきていた。


 荷物を背負った旅人のようだった。


 行商人マルクではない。


 若い男。


 二十代後半くらい。


 革の外套。


 腰に短剣。


 靴は泥で汚れている。


 旅慣れているが、商人というより冒険者に近い。


 村人たちの空気が少し変わった。


 警戒。


 好奇心。


 私は自然と背筋を伸ばした。


 村外の人。


 噂の怖さを知ったばかりの私には、その存在だけで胸が少し冷える。


 リオがすぐこちらを見た。


 ミナも私の手元にそっと視線を落とす。


 胸元には、リーフェ村の客人札。


 私はそれに指先で触れた。


 旅人は広場に入ると、周囲を見回し、村長さんの姿を探したようだった。


 近くにいた村人が声をかける。


「旅の人かい」


「ああ。すまない、水と少し食料を分けてもらえないか。森の手前で道を間違えた」


 声は疲れていた。


 敵意はない。


 けれど、私の心は落ち着かなかった。


 村長さんが家から出てきた。


「旅人か」


「はい。カイルといいます。北の町へ向かう途中で、馬を失いまして」


「馬を?」


「森道で魔物に驚いて逃げられました。荷の一部は無事ですが、少し休ませていただけると助かります」


 村長さんは彼をじっと見た。


「怪我は」


「擦り傷程度です」


「ガルド」


 村長さんが呼ぶと、ガルドさんがすぐに動いた。


 旅人カイルの様子を見る。


 私は少し離れて見ていた。


 擦り傷。


 足首に少し腫れ。


 肩に打撲。


 命に関わるものではないが、放置すれば悪化するかもしれない。


 薬草で手当てできる。


 私は立ち上がりかけた。


 でも、止まった。


 村外の人。


 今、私が出ていけば目立つ。


 青い髪。


 薬師見習い。


 噂。


 リオが小声で言った。


「フローラ、無理すんな」


 ミナも静かに頷く。


「必要なら、ガルド叔父さんが呼んでくれます」


 私は座り直した。


 そうだ。


 一人で判断しない。


 相談する。


 村の中で決める。


 ガルドさんはカイルの怪我を確認し、村長さんと短く話した。


 そして、こちらを見た。


 私と目が合う。


 その目は「来てもらえるか」と尋ねていた。


 私は小さく頷いた。


 村長さんも頷く。


 なら、行っていい。


 私は立ち上がった。


 ミナも一緒に立つ。


 リオも当然のようについてきた。


「フローラ」


 村長さんが旅人に向かって言った。


「この子は森の薬師見習いだ。簡単な手当てができる」


 森の薬師見習い。


 私はその名乗りを受け入れ、軽く頭を下げた。


「フローラです。傷を見ます」


 カイルは少し驚いた顔をした。


 青い髪に目が留まる。


 けれど、すぐに礼をした。


「助かります」


 視線が少し長かった。


 気づかれたかもしれない。


 ただ珍しい髪と思っただけかもしれない。


 私は心を落ち着け、怪我を見た。


 擦り傷は浅い。


 泥が入っている。


 水で洗い、薬草液で消毒し、軟膏を塗る。


 足首は軽い捻挫。


 冷やして固定すればいい。


 治癒魔法を使えば一瞬だ。


 でも、ここでは使わない。


 私は薬草と布で処置した。


「今日はあまり歩かない方がいいです。腫れが引くまで無理をしないでください」


「ありがとう。若いのに手際がいいんだな」


 カイルが言った。


 私は短く答えた。


「学んでいますので」


「森の薬師見習い、か」


 彼の目が、また髪に向かう。


 リオが半歩前に出た。


「何か?」


 少し声が低い。


 ミナがリオの袖を軽く引く。


 カイルは苦笑した。


「いや、珍しい髪だと思っただけだ。失礼した」


「髪の色は薬の効き目に関係ありません」


 私が言うと、周囲が一瞬静かになり、それから小さな笑いが起きた。


 リオが吹き出しそうになっている。


 ミナも口元を押さえている。


 カイルは目を丸くした後、笑った。


「確かに。その通りだ」


 空気が少し和らいだ。


 私は内心ほっとした。


 意図して言ったわけではない。


 ただ事実を述べただけだ。


 でも、結果として視線の意味が少し軽くなったらしい。


 村長さんはそれを見て、少しだけ目を細めた。


 手当てが終わると、カイルは村の端の空き小屋で休むことになった。


 食料と水は村で少し分ける。


 代わりに、彼は持っていた塩漬け肉と小さな銀貨を出した。


 悪い旅人ではなさそうだ。


 けれど、村外の人であることに変わりはない。


 私は席に戻った。


 リオが小声で言う。


「あいつ、ちょっと怪しくないか」


「全員怪しく見えていませんか」


「だってさ」


 ミナが静かに言う。


「でも、怪我をしていたのは本当です」


「分かってるけど」


「警戒は必要ですが、敵と決めつけるのも危ないです」


 ミナは落ち着いていた。


 私はその言葉に頷いた。


「はい。観察します」


「フローラ、観察って言うと薬草みたいだな」


 リオが小さく笑う。


「人も観察は必要です」


「それはそう」


 その日の午後の授業は、予定より短くなった。


 旅人の件で村の空気が少し落ち着かなくなったからだ。


 子供たちは気にしていないように見えたが、大人たちの視線は時々空き小屋の方へ向かっていた。


 私は無理に続けず、豆の観察記録だけで終えることにした。


「今日はここまでにしましょう」


「えー!」


「もっとやりたい!」


「明日も見る?」


「豆は毎日見てください。でも、触りすぎないように」


 子供たちは不満そうだったが、バルドさんが一睨みすると納得した。


 エマが私の袖を引いた。


「フローラ先生、旅の人、怖い?」


 小さな声だった。


 私は少し驚いた。


 子供は大人が思うより、空気を見ている。


「少しだけ、警戒しています」


「けいかい?」


「危ないかもしれないから、気をつけることです。でも、怖い人と決まったわけではありません」


「じゃあ、どうするの?」


「一人で近づかない。大人に知らせる。困ったら相談する」


 エマは真剣に頷いた。


「薬草と同じ?」


 私は少し目を丸くした。


 分からない草は勝手に触らない。


 大人に聞く。


 確かに、少し似ている。


「そうですね。少し似ています」


 エマは納得した顔で言った。


「じゃあ、私も一人で近づかない」


「はい。それがいいです」


 教えたことが、別の形で返ってくる。


 私はまた少し驚いた。


 子供たちは、ちゃんと考えている。


 夕方、私は森へ帰ることにした。


 今日はリオとガルドさんが送ってくれる。


 ミナは村に残り、子供たちの様子を見ると言った。


 村の出口で、カイルが空き小屋の前に座っているのが見えた。


 足に布が巻かれている。


 私に気づくと、軽く頭を下げた。


「手当て、ありがとう」


「お大事に」


 私は短く答えた。


 彼の視線が胸元の木札に向かう。


「リーフェ村の客人なんだな」


「はい」


「大事にされてるんだ」


 その言葉に、少し胸が揺れた。


 大事にされている。


 私は何と答えるべきか迷った。


 リオが横から言った。


「そうだよ」


 即答だった。


「フローラは村の大事な先生だからな」


 カイルは少し驚いた顔をし、それから笑った。


「そうか。いい村だな」


「当たり前だろ」


「リオ」


 ガルドさんが静かにたしなめる。


 リオは少しだけ口を尖らせた。


 私はカイルに軽く礼をし、その場を離れた。


 森の道に入ると、緊張が少し抜けた。


 村外の人。


 珍しい髪を見る目。


 それだけで、まだ胸が冷える。


 でも今日は、リオがすぐ近くにいた。


 ガルドさんもいた。


 村長さんも、村人たちも、私を一人にしなかった。


 それが心強かった。


「リオ」


「ん?」


「先ほど、ありがとうございます」


「何が?」


「大事な先生と言ってくれたことです」


 リオは少し照れたように鼻の下をこすった。


「本当のことだし」


「……嬉しかったです」


「そっか」


 少し沈黙。


 森の夕方の空気が、やわらかく肌に触れる。


 リオは前を向いたまま言った。


「フローラが怖い時、俺が言うから」


「何をですか」


「フローラは大事だって」


 胸が、ぎゅっとなった。


 私はすぐに返事ができなかった。


 ガルドさんは何も言わず、少しだけ歩く速度を緩めた。


「……ありがとうございます」


 ようやく言うと、リオは笑った。


「おう」


 家に着くと、青豆一号は夕方の光の中で小さく揺れていた。


 私はその芽を見て、少しほっとした。


 今日一日、村でいろいろなことがあった。


 子供たちの芽。


 授業。


 旅人。


 警戒。


 大事な先生。


 胸の中が忙しい。


 けれど青豆一号は、朝と同じ場所で、ただ静かに伸びようとしている。


 私はリオとガルドさんにお茶を出した後、二人を見送った。


 夜。


 日記帳を開く。


 今日、青豆一号が芽を出した。


 村の子供たちの豆も芽を出し始めた。


 ニコ豆はまだだったが、待つことも育てることだと伝えた。


 子供たちはよく覚えていた。


 薬草の授業で話したことが、旅人への警戒にもつながった。


 村にカイルという旅人が来た。


 怪我をしていたので手当てした。


 青い髪を見られて少し怖かった。


 でも、リオが大事な先生だと言ってくれた。


 私は、それが嬉しかった。


 私はペンを止めた。


 外は静かだ。


 でも、村には今、旅人がいる。


 明日には出て行くかもしれない。


 あるいは、もう少し留まるかもしれない。


 彼が私の噂を外に出すかは分からない。


 怖い。


 けれど、今日の私は一人で怖がるだけではなかった。


 私は最後に一文を書いた。


 小さな芽は、土の中で準備してから出てくる。


 私も、少しずつ外へ出る準備をしているのかもしれない。


 日記帳を閉じる。


 窓の外を見る。


 月明かりの中、青豆一号の芽は見えない。


 けれど、そこにあると分かっている。


 村の灯りも見えない。


 けれど、そこに人がいると分かっている。


 私はもう、見えないものを全部怖がるだけではない。


 見えなくても、そこにある温かいものを知っている。


「明日、ニコ豆も出るといいわね」


 そう呟くと、暖炉の火がぱちりと鳴った。


 私はその音を聞きながら、静かに目を閉じた。

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