第10話 青の姫君、外の世界の風を聞く
翌朝、ニコ豆が芽を出した。
それを知らせに来たのは、ニコ本人だった。
森の結界に小さな人の反応が触れた時、私は畑で青豆一号の様子を見ていた。
いつもならリオかミナ、あるいはガルドさんの気配が先に分かる。
けれど、その反応は小さく、足取りも頼りなかった。
子供。
しかも一人。
私は手を止めた。
村長さんとの約束では、子供たちは大人と一緒でなければ森の家へ来ないことになっている。
何かあったのだろうか。
胸の奥が少し冷える。
私は結界の外へ意識を伸ばした。
小さな足音。
荒い息。
枝に引っかかる布の音。
そして、半泣きの声。
「フローラせんせ……」
ニコだ。
私はすぐに玄関を出た。
結界の端へ向かうと、木々の間からニコが現れた。
頬は赤く、目には涙が浮かんでいる。
片手に小さな木札を握りしめ、もう片方の手には土がついていた。
「ニコ」
私が呼ぶと、ニコはほっとしたように顔をくしゃりと歪めた。
「フローラ先生……!」
「一人で来たのですか」
責める声にならないよう、できるだけ静かに尋ねる。
ニコはびくりと肩を揺らし、すぐに俯いた。
「ごめんなさい……でも、出たから……」
「出た?」
「ニコ豆、芽が出たの……!」
その声は、泣きそうで、嬉しそうで、誇らしそうだった。
私は一瞬言葉を失った。
ニコ豆が芽を出した。
昨日、まだ芽が出ていなくて不安そうだったニコ。
待つことも育てることだと伝えた。
その豆が、今朝芽を出したのだ。
知らせたかったのだろう。
私に。
それだけは、分かる。
けれど、一人で森へ来るのは危険だ。
魔物もいる。
道に迷うこともある。
転べば怪我をする。
私はしゃがみ、ニコと目線を合わせた。
「ニコ豆が芽を出したのですね」
「うん……」
「よかったですね」
「うん……!」
ニコの目から涙が一粒落ちた。
「でも、一人で森へ来てはいけません」
私はゆっくり言った。
ニコの顔が強張る。
「……ごめんなさい」
「怒っているのではありません」
「でも」
「心配しました」
そう言うと、ニコは目を丸くした。
怒られると思っていたのかもしれない。
私は続けた。
「森には危ないものがあります。ニコが怪我をしたら、私は悲しいです」
「悲しい?」
「はい」
ニコは唇を噛んだ。
小さな手に握られた木札は、村の子供たち用に配った簡易札だった。
困った時や迷った時に大人へ見せるもの。
それを握ってきたということは、ニコなりに約束を思い出していたのかもしれない。
でも、嬉しさが勝った。
私はその気持ちも分かる気がした。
誰かに伝えたいことができると、人は少しだけ無茶をする。
私も、青豆一号が芽を出した時、すぐ村へ行きたくなった。
「次からは、リオかミナ、ガルドさん、または村の大人と一緒に来てください」
「うん」
「約束できますか」
「できる」
「では、大丈夫です」
ニコは恐る恐る顔を上げた。
「もう怒らない?」
「怒っていません」
「本当?」
「本当です」
ニコは少し安心したように息を吐いた。
私は彼の手を見た。
土がついているだけで、傷はない。
足元も確認する。
膝に少し草の汁がついているが、怪我はなさそうだ。
「お茶を飲みますか。村へ送ります」
「いいの?」
「はい。でも、その前に青豆一号を見ていきますか」
ニコの顔がぱっと明るくなった。
「見たい!」
私は少し笑った。
「では、少しだけ」
畑へ案内する。
ニコは慎重に歩いた。
先ほど注意されたばかりだからだろう。
畑の前で立ち止まり、青豆一号を見る。
「これ?」
「はい。青豆一号です」
「ちっちゃい」
「芽なので」
「ニコ豆と同じくらい」
「そうですか」
ニコはしゃがみ込み、じっと青豆一号を見た。
小さな指が伸びかける。
でも、途中で止まった。
「触らない」
「はい。よく覚えています」
褒めると、ニコは少し誇らしそうに笑った。
「ニコ豆もね、ちょっと曲がってた」
「芽は光の方へ伸びます。少し曲がっても大丈夫です」
「そっか」
「今日、村へ行って見ます」
「本当?」
「はい。ニコが一人で来たことも、村の大人に話します」
ニコの顔がまた曇る。
「怒られる?」
「少し注意されるかもしれません。でも、それはニコを大事に思っているからです」
ニコは不安そうに頷いた。
「うん」
私は家に戻り、薄い薬草茶と小さなパンを出した。
ニコは椅子に座ると、少し落ち着いたようだった。
足が床に届かず、ぶらぶら揺れている。
その様子を見て、私は改めて思う。
子供だ。
この小さな子が一人で森へ来た。
無事でよかった。
もし途中で魔物に遭っていたら。
もし道に迷っていたら。
想像するだけで、胸が冷たくなる。
私は強い。
けれど、強いからといって、誰かが傷つく前に必ず間に合うわけではない。
守るというのは難しい。
結界を張るだけでは足りない。
約束を作るだけでも足りない。
子供の嬉しさや衝動まで考えなければならない。
私はまだ、先生として学ぶことが多い。
ニコを村へ送る途中、リオとガルドさんが慌てた様子で森へ入ってくるのに出会った。
リオは私とニコを見つけるなり、大きく息を吐いた。
「ニコ!」
その声にニコが肩を縮める。
ガルドさんも厳しい顔をしていたが、まずニコの怪我を確認した。
「怪我は?」
「ない……」
「よかった」
ガルドさんは短く言い、それから深く息を吐いた。
リオはニコの前にしゃがんだ。
「一人で森に来るなって言われただろ」
「ごめんなさい……」
「芽が出たの、嬉しかったんだよな」
ニコが驚いたように顔を上げる。
リオは少し困った顔で笑った。
「分かるよ。でも危ない。フローラも心配する」
「うん」
「次は俺を呼べ。走って連れてってやるから」
「リオ兄さん」
私が思わず口を挟んだ。
「走るのは危険です」
「あ、そうだった。じゃあ歩いて連れてく」
ガルドさんが頷く。
「それでいい」
ニコは小さく頷いた。
「ごめんなさい。次は一人で行かない」
ガルドさんは厳しい顔のまま、けれど声は少し柔らかかった。
「約束だ」
「うん」
村へ戻ると、ニコの母親が泣きそうな顔で駆け寄ってきた。
彼女はニコを抱きしめ、何度も名前を呼んだ。
「ニコ、ニコ……!」
「母さん、ごめんなさい……」
「本当に心配したんだから……!」
村の広場には人が集まっていた。
子供が一人で森へ向かったと分かり、大騒ぎになっていたらしい。
ミナも心配そうに待っていた。
私を見ると、ほっとした顔で近づいてくる。
「フローラ、大丈夫でしたか?」
「はい。ニコも怪我はありません」
「よかった……」
ミナは胸に手を当てた。
村長さんも出てきた。
彼はニコと母親の様子を見てから、私に向き直る。
「すまなかった。村の管理不足だ」
「いいえ。ニコは、芽が出たことを知らせに来てくれました」
「それでも危険だ」
「はい」
私は頷いた。
「ですから、子供たちともう一度約束を確認したいです」
村長さんは目を細めた。
「頼めるか」
「はい」
その日の観察会は、まず約束の確認から始まった。
共同畑の前に子供たちを集める。
ニコは母親の隣でしゅんとしていた。
他の子供たちも、いつもより静かだ。
私は子供たちの前に立った。
怒るためではない。
怖がらせるためでもない。
大事なことを伝えるため。
「今日は、まず森へ来る時の約束を確認します」
子供たちは頷いた。
「森は楽しい場所でもあります。薬草もあります。豆もあります。私の家もあります。でも、危ない場所でもあります」
エマが小さく手を上げた。
「魔物がいるから?」
「はい。魔物もいます。毒草もあります。迷うこともあります。だから、子供だけで森へ来てはいけません」
トトとルルも真剣な顔で聞いている。
私はニコを見た。
ニコは涙目だった。
「ニコは、私に芽が出たことを知らせに来てくれました。それは、とても嬉しかったです」
ニコが少し顔を上げる。
「でも、もし途中で怪我をしたら、私は悲しいです。ニコのお母さんも、村のみんなも悲しいです」
広場が静かになる。
「嬉しいことがあった時は、誰かに知らせたくなります。それは悪いことではありません。でも、知らせる時は安全な方法を選びましょう」
私は木板を出した。
急いで作ったものだ。
森へ行く時の約束。
一、子供だけで行かない。
二、必ず大人に言う。
三、道から外れない。
四、分からないものに触らない。
五、困ったら大きな声で助けを呼ぶ。
子供たちは声に出して読んだ。
何度も。
リオも一緒に読んでいた。
ミナが横で微笑んでいる。
村の大人たちも真剣だった。
ニコは最後に、私の前に来て小さく頭を下げた。
「フローラ先生、ごめんなさい」
「はい」
私はしゃがんだ。
「約束を守れますか」
「守る」
「では、大丈夫です」
ニコはほっとした顔をした。
「ニコ豆、見てくれる?」
「もちろんです」
共同畑へ移動する。
ニコ豆は、確かに芽を出していた。
少し曲がっているが、元気だ。
ニコはそれを誇らしそうに見つめる。
「出たんだ」
「はい。よく待ちましたね」
「掘らなかった」
「偉いです」
ニコは笑った。
母親も少し涙ぐみながら笑っていた。
その様子を見て、私の胸も温かくなった。
今日の失敗は、約束を強くする機会になった。
そう思いたい。
昼頃、村の空き小屋に泊まっていた旅人カイルが広場に出てきた。
足の腫れは少し引いたようだ。
私を見ると、軽く会釈する。
村長さんと話していたが、やがてこちらへ歩いてきた。
リオがすぐ警戒する。
ミナも少し身構える。
私は二人に小さく頷き、カイルと向き合った。
「足の具合はどうですか」
「おかげでだいぶいい。薬が効いた」
「今日はまだ無理をしない方がいいです」
「ああ。村長にも言われた。明日の朝に発つつもりだ」
「そうですか」
会話はそこで終わるはずだった。
けれどカイルは少し迷ったように視線を落とし、それから声を低くした。
「フローラ、だったな」
「はい」
「変なことを聞くようだが、王都に行ったことはあるか?」
リオが一歩前に出た。
「なんでそんなこと聞くんだよ」
カイルは両手を上げた。
「悪気はない。ただ、髪色が珍しいから気になっただけだ」
「髪の色は薬の効き目に関係ありません」
私が昨日と同じように言うと、カイルは苦笑した。
「それは昨日聞いた」
「では、それ以上の理由はありません」
声が少し硬くなった。
自分でも分かった。
カイルも気づいたのだろう。
彼は無理に聞こうとはしなかった。
「すまない。詮索するつもりはなかった」
「……はい」
沈黙が落ちる。
カイルは少し空を見上げた。
「王都では最近、貴族の話が多くてな」
胸が少し冷える。
リオの表情が険しくなる。
ミナが私の袖にそっと触れた。
カイルは続けた。
「スプリング公爵家の青の姫君が、病気で静養しているとか、婚約を嫌がって修道院へ入れられたとか、魔法の研究で塔にこもったとか。噂は色々だ」
私は息を止めた。
病気。
静養。
修道院。
魔法研究。
どれも違う。
私は森に捨てられた。
でも、外ではそんなふうに語られているのか。
「……そうですか」
それだけ答える。
カイルは私を見た。
その目に、疑いはある。
けれど、悪意はまだ見えない。
「もし、君が何か困っているなら――」
「カイル」
村長さんの声が割って入った。
静かだが、重い声だった。
「その子は村の客人だ。余計な詮索は控えてもらおう」
カイルは村長さんを見て、小さく頭を下げた。
「失礼しました」
空気が張り詰める。
村人たちもこちらを見ている。
子供たちは状況が分からず、不安そうだ。
私は胸元の木札に触れた。
逃げたい。
けれど、ここは村だ。
私を一人にしない場所。
「私は、森の薬師見習いです」
私はゆっくり言った。
「今は、それ以上ではありません」
カイルは私を見つめた。
やがて、深く頷いた。
「分かった。森の薬師見習いフローラ。手当て、感謝する」
「はい」
会話はそこで終わった。
カイルは村長さんと共に空き小屋へ戻っていく。
リオが悔しそうに拳を握っていた。
「やっぱり怪しい」
「リオ兄さん」
ミナの声も少し硬い。
「でも、聞かれましたね」
「はい」
私は小さく頷いた。
外の世界の噂。
青の姫君。
私の名前はまだ出ていない。
けれど髪色と年齢と時期が重なれば、気づく人はいる。
カイルは、ほとんど気づいているのかもしれない。
でも、踏み込まなかった。
村長さんが止めたから。
私が言ったから。
森の薬師見習いだと。
「フローラ、大丈夫か?」
リオが聞く。
「怖いです」
私は正直に答えた。
リオは一瞬目を見開いたが、すぐ頷いた。
「うん」
「でも、言えました」
「うん」
「私は今、森の薬師見習いだと」
ミナが静かに微笑んだ。
「はい。ちゃんと言えていました」
その言葉に、少し救われた。
午後、私は早めに森へ帰ることにした。
村長さんもそれがいいと言った。
カイルが悪人と決まったわけではない。
でも、今日は少し距離を置いた方がいい。
帰りはガルドさん、リオ、ミナの三人が送ってくれた。
森の道は静かだった。
誰もすぐには話さなかった。
木々の間を風が通る。
葉が擦れる音。
小鳥の声。
足元の土の感触。
私は籠を抱えながら、胸の中のざわめきを落ち着かせようとした。
カイルが言った噂。
病気。
修道院。
研究塔。
外の世界で、私はいろいろな形に変えられている。
本当の私はここにいるのに。
畑を耕し、子供たちに薬草を教え、豆の芽を見て喜んでいるのに。
噂の中の青の姫君は、私とは違う場所で勝手に生きている。
それが気味悪かった。
「フローラ」
ミナが隣で声をかける。
「はい」
「手、繋ぎますか」
私は少し驚いた。
手。
また、恋愛小説の場面が頭をよぎる。
けれど、今は分類する前に分かった。
これは心配の手だ。
友達の手。
私は少し迷い、それから頷いた。
「お願いします」
ミナの手が私の手を包んだ。
温かい。
それだけで、胸のざわめきが少し落ち着く。
リオは前を歩きながら、振り返らなかった。
けれど少しだけ声を低くして言った。
「俺、明日カイルが村を出るまで見張る」
「一人ではだめです」
私が言うと、リオは振り返った。
「分かってる。ガルド叔父さんと一緒に」
「なら」
ガルドさんが頷く。
「村でも注意します。フローラ殿は今日は休んでください」
「はい」
休む。
それも大事だ。
最近、私は少しずつ覚えている。
頑張るだけではなく。
頼ること。
断ること。
怖いと言うこと。
休むこと。
森の家に着くと、青豆一号が夕方の光の中で揺れていた。
私はミナの手を離し、畑の前にしゃがんだ。
小さな芽。
朝よりほんの少し開いた気がする。
気のせいかもしれない。
でも、そう見えた。
「伸びています」
私が言うと、リオも覗き込んだ。
「本当だ」
ミナも隣にしゃがむ。
「強いですね」
「はい」
小さな芽は、外の噂など知らない。
公爵家も、王都も、青の姫君も知らない。
ただ、土の中から出て、光へ向かって伸びている。
それが少し羨ましかった。
そして、少し励まされた。
「私も、伸びられるでしょうか」
無意識に呟いた。
ミナが私を見る。
リオも。
ガルドさんも静かに立っている。
リオが言った。
「伸びるだろ」
「そうですか」
「だって、もう伸びてるし」
私は瞬きをした。
「私が?」
「うん。最初に会った時より、今のフローラの方がよく笑う。嫌だって言う練習もしてるし、先生もしてるし、怖いって言えるようになった」
リオは少し照れくさそうに続けた。
「それって、伸びてるってことだろ」
胸が熱くなった。
ミナも頷く。
「私もそう思います」
ガルドさんも穏やかに言った。
「芽は、自分では伸びていることに気づきにくいものです」
私は青豆一号を見た。
小さな芽。
昨日より少し、今日より明日。
少しずつ。
急がず。
私は頷いた。
「では、伸びていることにします」
リオが笑った。
「そうしとけ」
三人が帰った後、私は家に入った。
疲れていた。
ニコのこと。
約束の確認。
ニコ豆の芽。
カイルの問い。
外の噂。
ミナの手。
リオの言葉。
たくさんのことがあった。
私は夕食を簡単に済ませ、日記帳を開いた。
今日、ニコが一人で森へ来た。
ニコ豆が芽を出したことを知らせたかったらしい。
危険だったので、森へ来る時の約束を子供たちと確認した。
ニコ豆は元気だった。
カイルさんに、王都の噂を聞いた。
青の姫君は病気、修道院、研究塔など、色々言われているらしい。
私は怖かった。
でも、自分は森の薬師見習いだと言えた。
ミナが手を繋いでくれた。
リオが、私は伸びていると言ってくれた。
私はペンを止めた。
少し考え、最後に書く。
噂の中の私は、私ではない。
今の私は、森で畑を耕し、豆の芽を見て、友達に手を繋いでもらうフローラだ。
それを忘れないようにしたい。
日記帳を閉じる。
窓の外は暗い。
けれど、畑には青豆一号がある。
村にはニコ豆がある。
きっと明日も、どこかの芽が少し伸びる。
私も、少しずつ伸びている。
そう思うことにした。
「おやすみなさい、青豆一号」
返事はない。
でも、夜の森は少しだけ優しかった。




