第8話 青の姫君、見習い先生になる
教材作りは、ほどほどにする予定だった。
予定だった。
けれど、気がつけば木板が七枚になっていた。
一枚目は、食べられる薬草。
二枚目は、毒草。
三枚目は、似ている薬草と毒草の見分け方。
四枚目は、畑の土の種類。
五枚目は、水やりの時間。
六枚目は、虫に食べられた葉の見方。
七枚目は、怪我をした時に最初にすること。
私は朝の光の中、机に並んだ木板を見つめた。
「……ほどほどとは」
自分で呟いて、少しだけ反省した。
ミナに見つかったら、きっと眉を寄せられる。
リオなら笑う。
ガルドさんは苦笑する。
村長さんは「予想通りだ」と言うかもしれない。
けれど、作っている間は楽しかった。
薬草の葉脈を描く。
毒草の斑点を分かりやすくする。
子供が見ても理解できるように、難しい言葉を避ける。
薬効を書きすぎると危険なので、まずは「触っていいもの」「触ってはいけないもの」「大人に知らせるもの」に分ける。
畑についても、土壌改良や栄養循環を詳しく説明したい気持ちはあった。
けれど、それは初回には多すぎる。
今日は、土を触ること。
葉を見ること。
虫を怖がりすぎないこと。
水をやりすぎないこと。
それくらいでいい。
……と思っていたはずなのに、私は七枚も作ってしまった。
私は木板を三枚だけ選び、残りを棚にしまった。
今日は、薬草の見分け方。
土の違い。
怪我をした時の対応。
この三つにする。
それでも多いかもしれない。
けれど、子供たちが飽きたら途中でやめればいい。
嫌だと言う練習の次は、やりすぎない練習も必要らしい。
私は深く息を吸った。
今日は村で、初めて子供たちに教える日だ。
見習い先生。
その言葉を思い出すと、胸が落ち着かなくなる。
私はこれまで、教わる側だった。
家庭教師、武術の先生、魔法師、薬師、料理人、侍女、領地経営の補佐官。
多くの大人が私に教えた。
そして私は覚えた。
早く。
正確に。
期待以上に。
それがいつしか、周囲を喜ばせるものから、怯えさせるものへ変わっていった。
教える側になるのは、怖い。
私が当たり前だと思っていることが、子供たちにとって難しすぎるかもしれない。
逆に、簡単すぎるかもしれない。
退屈させるかもしれない。
怖がらせるかもしれない。
失敗したら。
見習い先生として失敗したら。
そう考えると、指先が少し冷える。
私は机の上に置いたリーフェ村の客人札を見た。
村長さんがくれた木札。
村の印が焼き付けられている。
困った時は見せなさい。
村の者は君を一人にしない。
その言葉を思い出し、私は木札を首から下げられるよう紐を通した。
胸元に木札が触れる。
軽い。
けれど、心は少し落ち着いた。
私は淡い青のワンピースに着替え、髪を編んだ。
畑にも入れるよう、裾は動きやすく。
袖は邪魔にならないよう留める。
腰には小さな薬草袋。
籠には教材の木板、見本用の薬草、土の小瓶、清潔な布、簡易軟膏。
準備を確認する。
一つ。
二つ。
三つ。
多すぎない。
たぶん。
家の戸締まりをし、結界を整える。
畑には朝の水やりを済ませた。
小鳥が果樹に止まっている。
最近、あの青い羽の小鳥はよく来るようになった。
虫を食べてくれるので、私は黙認している。
「行ってきます」
私は家と畑に向かって言った。
返事はない。
けれど風が葉を揺らした。
村への道を歩く。
今日はリオとミナが迎えに来る予定だった。
約束の場所は、森の結界の外。
私が一人で村まで行くこともできる。
けれど、村長さんとの約束で、しばらくは誰かと一緒に行くことになっている。
守られることに、まだ少し慣れない。
でも、約束を破る理由はない。
森の道を少し進むと、聞き慣れた声がした。
「フローラ!」
リオだ。
やっぱり声が大きい。
その後すぐにミナの声。
「リオ兄さん、今日は授業の日なんだから、先生を驚かせないで」
「先生って呼ぶの、なんか面白いな」
「面白がらないの」
木々の間から二人が現れた。
リオはいつも通り元気そうで、ミナは籠を持っている。
中には布に包まれたパンらしきものが見えた。
「おはようございます」
私が挨拶すると、リオがにっと笑った。
「おはよう、フローラ先生!」
先生。
胸が跳ねた。
「……まだ見習いです」
「じゃあ、フローラ見習い先生?」
「長いですね」
「フローラ先生でいいだろ」
ミナが微笑む。
「私も、今日はそう呼びたいです」
「ミナまで」
「だめですか?」
「だめではありません」
だめではない。
むしろ、少し嬉しい。
でも恥ずかしい。
私は視線を籠に落とした。
「今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ。子供たち、朝から楽しみにしていましたよ」
「楽しみに」
「はい。薬草の先生が来るって」
薬草の先生。
畑の先生。
見習い先生。
呼び名がまた増えた。
リオが私の籠を覗き込む。
「教材か?」
「はい。三枚にしました」
「三枚に?」
リオが首を傾げる。
ミナがすぐ察したように私を見る。
「本当は何枚作ったんですか?」
私は少し沈黙した。
「……七枚です」
ミナはやっぱり、という顔をした。
リオは笑った。
「多い!」
「ほどほどにする予定でした」
「フローラのほどほどは、ほどほどじゃないな」
「学習します」
ミナが優しく言う。
「三枚に減らしたなら、ちゃんと調整できていますよ」
その言葉に少し救われた。
「はい」
村へ向かう道すがら、リオは今日集まる子供たちの名前を教えてくれた。
そばかすの女の子は、エマ。
私に白い花をくれた男の子は、ニコ。
少しやんちゃな双子、トトとルル。
真面目な男の子、サム。
恥ずかしがりの女の子、リーナ。
他にも数人。
私は名前を頭の中で繰り返した。
顔と名前を一致させるのは得意だ。
けれど、子供たちとどう話すかは別問題だった。
「子供たちに敬語は必要でしょうか」
私が尋ねると、リオが笑った。
「いらないんじゃないか?」
「でも、教える立場として礼を欠くのは」
「フローラは普通にしてても丁寧すぎるから大丈夫」
ミナも頷く。
「少し柔らかく話すくらいでいいと思います。でも、無理に変えなくても大丈夫です」
「柔らかく」
私は練習してみた。
「皆さん、今日はよろしくお願いします」
「硬い」
リオが即答した。
「みんな、今日はよろしくね」
ミナが例を出してくれる。
私は繰り返す。
「みんな、今日はよろしくね」
リオが頷いた。
「おお、先生っぽい」
「そうですか」
「でも顔が真剣すぎる」
「顔」
難しい。
笑顔を作るべきか。
淑女教育の微笑みではなく、自然な笑顔。
最近少しできるようになった気がするが、意識すると難しい。
ミナがそっと言った。
「子供たちは、フローラが一生懸命なら分かってくれます。完璧じゃなくていいんです」
「完璧ではなくていい」
「はい」
その言葉を胸に置く。
完璧でなくていい。
私はずっと、完璧であることを求められてきた。
満点。
無詠唱。
勝利。
失敗しないこと。
間違えないこと。
でも、今日の私は見習い先生だ。
見習いなら、完璧でなくてもいいのかもしれない。
そう考えると、少しだけ呼吸が楽になった。
村に着くと、広場にはすでに子供たちが集まっていた。
いつもより賑やかだ。
木陰に丸太が並べられ、簡易の机が置かれている。
バルドさんが腕を組んで立っていた。
ガルドさんも広場の端にいる。
村長さんは少し離れた家の前から様子を見ていた。
大人たちも何人か集まっている。
子供の親だろう。
見学するつもりらしい。
私は足を止めそうになった。
思っていたより多い。
子供だけではない。
大人もいる。
視線。
期待。
好奇心。
緊張で喉が少し乾く。
リオが小声で言った。
「大丈夫」
ミナも隣で頷いた。
「私たちもいます」
私は胸元の木札に指先で触れた。
リーフェ村の客人札。
大丈夫。
ここは訓練場ではない。
私は力を見せに来たわけではない。
子供たちに薬草を教えに来た。
私は一歩前へ出た。
子供たちが一斉にこちらを見る。
「フローラだ!」
「先生だ!」
「青い髪、今日もきれい!」
「薬草持ってる?」
「魔法見せて!」
「熊倒す話して!」
声が一気に飛んでくる。
私は少し目を瞬いた。
リオが笑っている。
ミナが子供たちに声をかける。
「みんな、順番にね。今日はフローラが先生です」
エマが元気に手を上げた。
「先生って呼んでいい?」
私は少しだけ迷い、頷いた。
「はい。でも、見習い先生です」
「見習い先生!」
子供たちが面白がって繰り返す。
見習い先生。
フローラ見習い先生。
青い先生。
薬草先生。
呼び名が増えていく。
少し混乱するが、子供たちは楽しそうだ。
バルドさんが低い声で言った。
「お前ら、騒ぐのはそこまでだ。先生の話を聞け」
子供たちは少し静かになった。
さすがバルドさん。
畑だけでなく子供にも効くらしい。
私は子供たちの前に立った。
胸がどきどきしている。
手に持った木板が少し重く感じる。
私は練習した言葉を思い出した。
みんな、今日はよろしくね。
柔らかく。
硬すぎず。
自然に。
「みんな、今日はよろしくね」
言えた。
子供たちが「よろしくお願いしまーす!」と声をそろえた。
少しずれていた。
けれど元気だった。
その声に、私は少し笑った。
授業が始まった。
まずは薬草の見分け方。
私は木板を掲げた。
「これは、森や村の近くでよく見る薬草です。小さな傷や虫刺されに使えます。でも、似ている毒草があります」
子供たちは木板をじっと見る。
大人たちも後ろから覗いている。
私は見本の薬草を机に置いた。
「触っていい薬草は、こちら。触ってはいけない毒草は、こちらです」
エマがすぐ手を上げた。
「どうして似てるの?」
「植物が自分を守るために、他の草に似ることがあります。食べられないように」
「草も守るの?」
「はい。草も生きています」
トトとルルの双子が顔を見合わせる。
「草、逃げないのに?」
「逃げない代わりに、毒を持ったり、苦くなったり、棘を持ったりします」
「へえ!」
リオが後ろで小さく呟いた。
「俺も知らなかった」
ミナが微笑む。
私は少し安心した。
子供たちは聞いてくれている。
次に、触っていい薬草を順番に回した。
「香りを嗅いでみてください。でも、口には入れません」
ニコが恐る恐る匂いを嗅ぐ。
「ちょっとすーっとする」
「はい。その香りが目印の一つです」
エマが元気に匂いを嗅ぐ。
「こっちは?」
「それは毒草なので、触らず見るだけです」
「なんで?」
「手がかぶれることがあります」
トトがすぐ手を引っ込めた。
「やだ!」
「だから、分からない草は勝手に触らないこと。必ず大人に聞くこと」
子供たちが頷く。
私は少しだけ声を強めた。
「薬草は役に立ちます。でも、間違えると危険です。分からない時は、分からないと言ってください」
言いながら、自分にも言っているような気がした。
分からない時は、分からないと言う。
困った時は、相談する。
私も学んでいる最中だ。
リーナという恥ずかしがりの女の子が、小さく手を上げた。
「……分からなかったら、フローラ先生に聞いてもいい?」
私は胸が温かくなった。
「はい。聞いてください。でも、私が近くにいない時は、お父さんやお母さん、村の大人に聞いてください」
「うん」
リーナは安心したように頷いた。
次は土の違い。
私は小瓶を三つ出した。
森の腐葉土。
村の畑の土。
水はけの悪い重い土。
子供たちは興味津々で覗き込む。
「土なんて全部同じじゃないの?」
サムが言う。
私は三つの土を小皿に出した。
「触ってみると違います」
子供たちは順番に触る。
「こっちふわふわ!」
「こっちは固い」
「黒いの、いい匂いする」
「土の匂いだ!」
私は頷く。
「植物は土の中に根を伸ばします。だから土が苦しいと、植物も苦しくなります」
「土が苦しい?」
リオがまた後ろで反応する。
子供たちも首を傾げる。
私は少し考え、手で土をぎゅっと握った。
「例えば、この重い土は水をたくさん含みます。でも、水が多すぎると根が息をしにくくなります」
「根っこって息するの?」
「します」
「鼻ないのに?」
トトが真剣に聞く。
「鼻はありませんが、根も空気を必要とします」
子供たちは驚いた顔をした。
大人たちも頷いたり、感心したりしている。
バルドさんが腕を組んで嬉しそうだった。
「だから、水をたくさんあげればいい、とは限りません」
「えー!」
「水あげた方が喜ぶと思ってた!」
ニコが声を上げる。
私は頷いた。
「喉が渇いた時は水が必要です。でも、お腹いっぱいなのに食べ物をたくさん口に入れられたら苦しいですよね」
「苦しい!」
「それと少し似ています」
子供たちは納得したようだった。
ミナが小さく拍手する。
「分かりやすいです」
その言葉に、私は少しほっとした。
説明できている。
たぶん。
授業は思っていたより順調だった。
しかし、順調だったのは途中までだった。
虫に食べられた葉の話をしようとした時、トトとルルの双子が、机の端に置いていた薬草袋に手を伸ばした。
「あ、これは――」
私が止めるより早く、袋が倒れた。
中から薬草と小瓶が転がる。
小瓶の一つが地面に落ち、蓋が外れた。
中身は強い匂いのする虫除け液。
毒ではない。
だが、濃いまま肌につくと少しひりつく。
「触らないでください」
私は反射的に魔法を使いかけた。
小瓶を浮かせ、液を回収し、地面を浄化する。
一瞬でできる。
でも、村の広場。
子供たちの前。
大人たちの前。
魔法を使いすぎない約束。
指先に集まった魔力を止める。
その一瞬の迷いの間に、トトが驚いて後ずさり、ルルが泣きそうな顔になった。
「ご、ごめんなさい……」
空気が固まる。
私は息を吸った。
怒る場面なのだろうか。
危険だった。
注意は必要。
でも、怖がらせたいわけではない。
私はしゃがみ、二人と目線を合わせた。
「怪我はありませんか」
トトとルルは首を振った。
「手に液はついていませんか」
「ついてない」
「少し匂いする……」
「では、念のため洗いましょう」
私は清潔な布を取り出し、水で濡らした。
ルルの手を拭く。
トトの手も。
「ごめんなさい」
ルルが小さく言った。
「怒ってる?」
トトも不安そうに聞く。
私は少し考えた。
怒っているか。
驚いた。
危ないと思った。
でも怒りではない。
「怒ってはいません。でも、危ないことでした」
二人はこくりと頷いた。
「薬草や薬の瓶は、先生か大人に聞いてから触りましょう」
「うん」
「ごめんなさい」
「はい。分かってくれたなら大丈夫です」
私は落ちた小瓶を拾った。
今度は魔法ではなく、布で拭き取る。
地面に少し染みた液には、薄めた中和液をかけた。
子供たちは静かに見ていた。
失敗。
授業中の小さな事故。
でも、誰も逃げていない。
怖がってもいない。
むしろ、真剣に見ている。
私は立ち上がり、皆に向き直った。
「今のように、薬は使い方を間違えると危ないことがあります。薬草は便利ですが、遊び道具ではありません」
子供たちは真面目に頷いた。
私は続けた。
「でも、失敗した時は、隠さずすぐに言ってください。怒られるのが怖くて隠すと、もっと危なくなります」
言いながら、自分の胸に刺さるものがあった。
失敗したら、隠さず言う。
失敗しても終わりではない。
私はそれを、今教えている。
自分がまだ学んでいることを。
バルドさんが後ろで低く言った。
「いい教え方だ」
村の大人たちも頷いている。
私は少しだけ肩の力を抜いた。
授業はその後、広場から畑へ移った。
村の小さな共同畑の一角を使い、子供たちに土を触ってもらう。
バルドさんが手伝ってくれた。
「いいか、お前ら。土はただ踏むもんじゃねえ。見るもんだ。触るもんだ。匂いも見る」
「匂いも見るって変!」
エマが笑う。
「うるせえ。畑やってりゃ分かる」
バルドさんは怖い顔をしているが、子供たちは意外と怖がっていない。
慣れているのだろう。
私は子供たちに小さな木の棒を配った。
「今日は、一人一つ、小さな穴を掘って豆を植えます」
「豆!」
「育てるの?」
「自分の?」
「はい。村の共同畑の端で、みんなで育てます」
歓声が上がった。
子供たちはそれぞれ穴を掘る。
深すぎる子。
浅すぎる子。
隣と近すぎる子。
リオが手伝おうとして、バルドさんに止められる。
「自分でやらせろ」
「でも曲がってる」
「曲がったら覚える」
私は少し驚いた。
失敗させることも教えなのか。
屋敷では、失敗する前に直されることが多かった。
正しい形。
正しい姿勢。
正しい答え。
でも、畑では曲がった穴も学びになる。
私は子供たちの様子を見ながら、一人ずつ声をかけた。
「少し深いです。豆が起きにくくなります」
「ここは近すぎるので、少し離しましょう」
「上手です」
「土を強く押しすぎないでください。ふんわり」
ニコが真剣な顔で豆を置いた。
「これ、大きくなる?」
「育て方次第です」
「毎日見に来る」
「それが一番大事です」
ニコは嬉しそうに頷いた。
エマは自分の豆に名前をつけていた。
「この子はマメタ」
「名前をつけるのですか」
「うん! フローラ先生の豆は?」
「私の豆」
考えていなかった。
豆に名前。
畑の記録では品種名や区画番号を使う。
しかしエマは個体名をつけている。
私は少し悩んだ。
「……青豆一号」
リオが吹き出した。
「フローラ、名前が研究っぽい!」
「だめですか」
「いや、フローラっぽい」
ミナも笑っている。
エマは真剣に頷いた。
「青豆一号、かっこいい!」
かっこいいらしい。
私は少し安心した。
豆を植え終わると、子供たちは満足そうに手を泥だらけにしていた。
村の女性たちが水を用意し、順番に洗わせる。
私は最後に、怪我をした時の基本を説明した。
「転んで血が出たら、まず水で汚れを流します。土が入ったままだと、悪くなることがあります」
ニコが手を上げる。
「痛い時は?」
「痛い時は、痛いと言ってください」
「泣いてもいい?」
その質問に、私は少し止まった。
泣いてもいいか。
私は泣き方をよく知らない。
泣かずに我慢してきた。
泣く前に考え、対処し、飲み込んできた。
でも、子供に何と答えるべきかは、なぜか分かった。
「はい。泣いてもいいです」
ニコは安心したように笑った。
「そっか」
「痛い時に泣くのは、悪いことではありません」
言葉にしてから、自分の胸が少し痛んだ。
泣いてもいい。
誰に言っているのだろう。
子供たちに。
そして、昔の私に。
リオが少し静かにこちらを見ていた。
ミナも同じだった。
私は少し恥ずかしくなり、木板を持ち直した。
「ただし、怪我を隠してはいけません。大人に見せてください」
「はーい!」
子供たちの元気な声。
授業はそこで終わった。
終わった瞬間、子供たちが一斉に私の周りへ集まってきた。
「フローラ先生、次いつ?」
「今度は魔法も教えて!」
「薬草取りに行きたい!」
「豆、明日芽出る?」
「明日はまだ早いです」
「えー!」
「フローラ先生、これあげる!」
エマが小さな石をくれた。
白く丸い石。
ニコは木の実をくれた。
リーナは恥ずかしそうに小さな布切れを差し出した。
「これ、栞にできるかもって……」
私はそれぞれ受け取った。
白い石。
木の実。
布の栞。
どれも高価なものではない。
でも、私にとってはとても大切なものだった。
「ありがとうございます」
私が礼を言うと、子供たちは嬉しそうに笑った。
大人たちも拍手してくれた。
小さな拍手。
広場に響く音。
私は固まった。
拍手。
屋敷でも拍手はあった。
模擬戦で勝った時。
勉強で成果を出した時。
けれど、あの拍手はやがて沈黙に変わった。
恐怖に変わった。
だから、拍手の音は少し怖い。
でも今の拍手は違った。
子供たちが笑っている。
大人たちが頷いている。
バルドさんが腕を組んで満足そうにしている。
村長さんが静かに手を叩いている。
リオが得意げに拍手している。
ミナが目を細めている。
怖くない。
怖くない拍手も、あるのだ。
私は胸元の木札に触れた。
そして、小さく礼をした。
「ありがとうございました」
声が少し震えた。
でも、ちゃんと言えた。
昼食は村の広場で用意された。
今日は授業のお礼だと言って、パンと野菜のスープ、チーズ、果物が並んだ。
子供たちは自分が植えた豆の話で盛り上がっている。
「マメタが一番大きくなる!」
「青豆一号も強そう!」
「僕のはニコ豆!」
「そのままだ!」
リオは笑いながらパンを食べている。
ミナは私の隣に座り、そっと尋ねた。
「疲れましたか?」
「はい」
私は正直に答えた。
「でも、嫌な疲れではありません」
「よかったです」
「少し、緊張しました」
「見ていて分かりました」
「やはり顔に出ていましたか」
「少し。でも、子供たちは気にしていませんでしたよ」
ミナはスープを一口飲み、微笑んだ。
「みんな、フローラ先生のことが好きになったと思います」
好き。
その言葉に、私は少し反応した。
恋愛小説のせいだろうか。
好きという言葉は、まだ扱いが難しい。
「それは、友達の好きですか」
私が尋ねると、ミナが一瞬目を丸くした。
隣でリオがむせた。
「フローラ、それ聞くのか」
「分類が必要かと」
ミナは少し頬を赤くしながらも、笑った。
「そうですね。子供たちの好きは、先生として好き、友達みたいに好き、だと思います」
「先生として好き」
「はい」
「恋愛ではない」
「違います」
ミナははっきり言った。
私は安心した。
「分かりました」
リオがまだ笑っている。
「フローラ、恋愛気にしすぎだろ」
「本で読んでも難しかったので」
「どんな本読んだんだよ」
「騎士と令嬢が身分違いの恋をする話です」
ミナが少し身を乗り出した。
「それ、今度貸してもらえますか」
「はい」
「ミナ、そういうの好きなのか?」
「リオ兄さんには関係ありません」
「えー」
ミナの頬が少し赤い。
恋愛小説はミナにとっても少し特別らしい。
私は新しい発見として心に記録した。
昼食後、村長さんが私のところへ来た。
「初授業、ご苦労だった」
「はい。とても緊張しました」
「良い授業だった」
「ありがとうございます」
「子供たちが薬草を遊び道具にしないよう教え、同時に怖がらせすぎもしなかった。畑の方も良い。自分で植えた豆なら、毎日見るだろう」
私は少しほっとした。
「失敗もありました」
「小瓶の件か」
「はい」
「あれも授業の一部になった。君はよく対応した」
村長さんの言葉に、胸が少し軽くなる。
「怒るべきか迷いました」
「迷っていい。教える側も学ぶ」
教える側も学ぶ。
見習い先生には、ありがたい言葉だった。
バルドさんもやってきた。
「次は畑だけで一回やるぞ」
「次」
「子供たち、思ったより食いつきがいい。豆を植えたのは正解だ。今度は芽が出た時に何を見るか教える」
「はい」
「それと、青豆一号は名前がいい」
「本当ですか」
「ああ。強そうだ」
私は少し嬉しくなった。
青豆一号。
研究記録のようだと言われたが、バルドさんには評価された。
リオが横から言う。
「じゃあ俺も豆植えようかな。名前はリオ豆」
「そのままですね」
「強そうだろ」
「リオ兄さんの豆、うるさそう」
「ミナ、豆はしゃべらないぞ」
「リオ兄さんが育てたら、なぜか騒がしそう」
その会話に周囲の子供たちが笑う。
リオは納得いかない顔をしていた。
私はそれを見ながら、心が柔らかくなるのを感じた。
ここにいると、私はよく笑う。
まだ大きな声で笑うのは少し難しい。
でも、口元が自然に緩むことが増えた。
それはきっと、良いことなのだろう。
夕方前、私は森へ帰ることになった。
子供たちは名残惜しそうだった。
「また来てね!」
「次も先生して!」
「青豆一号見に来て!」
「薬草探し行こうね!」
たくさんの声。
私は一つ一つ頷いた。
「また来ます」
その言葉を、もう怖がらずに言えるようになっていた。
リオとミナが送ってくれる。
ガルドさんも同行した。
帰り道、私は少し疲れていた。
足は重くない。
けれど心がたくさん動いたせいで、静かに歩きたかった。
リオはそれを察したのか、いつもより少し声を抑えている。
ミナは隣で歩幅を合わせてくれた。
「フローラ」
「はい」
「今日、本当に先生みたいでした」
「見習いです」
「見習いでも、先生でした」
私は少し照れた。
「子供たちは、楽しそうでしたか」
「とても」
「怖がっていませんでしたか」
「誰も怖がっていません」
ミナははっきり言った。
「みんな、フローラにまた教えてほしいと思っています」
私は胸元の木札に触れた。
「よかった」
本当に、よかった。
リオが前を歩きながら振り返る。
「俺も少し勉強になったぞ」
「リオもですか」
「根っこが息するの知らなかった」
「大事です」
「あと、泣いてもいいってやつ」
リオの声が少し真面目になった。
「フローラも、泣いていいからな」
私は足を止めそうになった。
ミナもリオを見る。
リオは少し照れたように頭を掻いた。
「いや、先生が言ってたからさ。痛い時は泣いていいって。だったらフローラもだろ」
私は返事に時間がかかった。
泣いていい。
子供たちには言えた。
でも自分に向けられると、途端に難しくなる。
「……練習します」
私が言うと、リオは苦笑した。
「泣く練習って変だな」
「変ですか」
「でも、フローラっぽい」
ミナが優しく言う。
「無理に泣かなくていいんです。ただ、泣きたくなった時は我慢しなくていいんですよ」
「はい」
泣きたくなった時。
いつか、そんな日が来るのだろうか。
その時、私は誰かの前で泣けるのだろうか。
まだ分からない。
でも、泣いてもいいと言ってくれる人がいる。
それだけで、少し心が軽くなった。
森の家に着くと、私は三人に薬草茶を出した。
今日は送ってくれたお礼と、授業の感想を聞きたかったからだ。
庭の木陰に座り、夕方の柔らかい光の中でお茶を飲む。
リオは焼き菓子を食べ、ミナは白い石と布の栞を見て微笑んでいる。
「子供たちからの贈り物、どうするんですか?」
「保管します」
「全部?」
「はい」
リオが笑う。
「フローラ、もらったもの全部大事にしそう」
「大事です」
私は白い石を手に取った。
「これは、初めての授業でもらったものなので」
ミナは嬉しそうに目を細めた。
「きっとエマも喜びます」
「次に会ったら、お礼をもう一度言います」
「はい」
ガルドさんが静かに茶を飲み、言った。
「今日の授業で、村の空気がまた少し変わりました」
「変わった」
「ええ。フローラ殿をただ助けてくれる不思議な子として見るのではなく、村の子供たちに知識を残してくれる先生として見始めた」
「それは、良いことでしょうか」
「良いことです。ただし、頼られすぎないようには気をつけましょう」
「はい」
私は素直に頷いた。
そこは大事だ。
村長さんも言っていた。
私は村の道具ではない。
でも、村の一員のように関われるなら嬉しい。
その線を学ばなければならない。
夜、リオたちが帰った後、私は家の中に戻った。
机の上に、今日もらったものを並べる。
白い石。
木の実。
布の栞。
それから、子供たちの名前を書いた木板。
エマ。
ニコ。
トト。
ルル。
サム。
リーナ。
他にも数人。
それぞれの顔を思い出す。
質問。
笑い声。
驚いた顔。
失敗して謝る顔。
豆を植える真剣な手。
私は日記帳を開いた。
今日、初めて村の子供たちに薬草と畑を教えた。
とても緊張した。
教材は七枚作ったが、三枚だけ使った。
ほどほどにできたと思う。
小瓶が倒れる失敗があった。
でも、失敗も授業になった。
子供たちは豆を植えた。
私の豆は青豆一号になった。
エマに白い石をもらった。
ニコに木の実をもらった。
リーナに布の栞をもらった。
拍手された。
怖くなかった。
私は少し考えて、最後に書いた。
私は今日、見習い先生になった。
完璧ではなかった。
でも、また教えたいと思った。
書き終えて、しばらくその文字を見つめた。
完璧ではなかった。
でも、またやりたい。
それは私にとって、とても大きなことだった。
失敗しても終わらない。
完璧でなくても、受け入れてもらえる。
見習いでも、先生と呼んでもらえる。
私は少しずつ、知らなかった世界を知っている。
友達。
村。
畑。
ジャム。
噂。
約束。
そして、教えること。
窓の外には夜の森。
遠く、村の方角に小さな灯りがある気がした。
本当には見えない。
木々に隠れているから。
でも、そこにあると知っている。
それだけで、森の夜は前より暗くない。
私は机の上の白い石を手に取った。
小さくて、丸くて、何の価値もない石。
でも、初めて先生と呼ばれた日の贈り物。
私はそれを木札の隣に置いた。
家紋の代わりの村の札。
宝石の代わりの白い石。
どちらも、今の私には大切なものだ。
「次は、芽が出た時の授業ね」
そう呟くと、胸が少し弾んだ。
今日も私は、森で暮らしている。
けれど、森の外に続く道は、昨日より少し広くなった。
私はもう、捨てられただけの青の姫君ではない。
森の薬師見習いで。
畑の先生で。
リオとミナの友達で。
そして今日から、子供たちの見習い先生だ。
暖炉の火が、ぱちりと鳴った。
私はその音を聞きながら、静かに笑った。




