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『青の姫君の森暮らし 〜化け物と恐れられた公爵令嬢は、今日も畑を耕します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第71話 青の姫君、連れていくものと残していくものを選ぶ


 翌朝。


 私は。


 鳥が鳴くより少し前に、目を覚ました。


 窓の外は。


 まだ夜の色を残している。


 真っ暗ではない。


 けれど。


 朝と呼ぶには、少し早い。


 森の木々は。


 薄い灰色の影になり。


 枝と枝の隙間だけが。


 これから明るくなる空の色を映していた。


 私は寝台の上で。


 しばらく動かなかった。


 目を閉じれば。


 もう一度眠れたかもしれない。


 けれど。


 頭の中には。


 眠りへ戻ることを許さないほど。


 いくつもの言葉が浮かんでいた。


 七日以内。


 王都。


 国王陛下。


 公爵家。


 後継。


 婚姻。


 自分の言葉。


 必ず帰る。


 昨日。


 私は。


 王都へ行くと決めた。


 公爵家へ帰るためではない。


 この森へ戻るために。


 そう。


 皆の前で言った。


 言ったときは。


 胸の奥に。


 一本の柱が立ったような気がした。


 怖さはあっても。


 倒れない。


 ここへ戻りたいという気持ちが。


 自分を支えてくれる。


 そう思った。


 けれど。


 一晩が過ぎ。


 朝になりかけた今。


 柱は。


 少しだけ揺れていた。


 王都へ行く。


 それは。


 昨日。


 言葉にしたときより。


 ずっと大きい。


 森を出る。


 村を離れる。


 何日も。


 畑を自分の目で見られない。


 母様の手紙も。


 村長さんの家へ預けたまま。


 王都へ持っていくのか。


 置いていくのか。


 まだ。


 決めていない。


 レナード隊から届いた。


 二つ目の伝言も。


 まだ聞いていない。


 昨日。


 父様からの手紙と。


 国王陛下の召喚状を受け取ったことで。


 それまで。


 一文ずつ。


 一つずつ。


 受け取っていたものが。


 急に。


 大きく動き始めた。


 私は。


 胸の上へ手を置く。


 心臓。


 少し速い。


「今は、朝です」


 天井へ向かって言う。


 公爵家の屋敷にいた頃。


 独り言を言うことは。


 ほとんどなかった。


 侍女がいる。


 廊下には従者。


 扉の外には護衛。


 どこで。


 誰に聞かれているか。


 分からない。


 だから。


 何かを思っても。


 胸の中へ置いた。


 森へ来てから。


 私は。


 自分へ言葉を返すようになった。


 今は朝。


 ここは森の家。


 私はフローラ。


 昨日。


 王都へ行くと決めた。


 今日。


 すべてを決める必要はない。


「一度に一つです」


 昨日。


 柱を押さえているとき。


 村の女性に言われた。


 全部やろうとしない。


 今。


 必要なこと。


 起きる。


 畑を見る。


 食べる。


 村へ行く。


 旅支度について。


 皆と話す。


 同行する人。


 畑の世話。


 母様の手紙。


 レナード隊の伝言。


 持っていくもの。


 置いていくもの。


 多い。


 でも。


 一つずつ。


 私は。


 布団をめくった。


 床板へ足を下ろす。


 冷たい。


 足の裏から。


 身体が少しずつ。


 朝へ戻ってくる。


 窓へ向かう。


 開ける前に。


 耳を澄ませる。


 小川。


 葉。


 遠くの森鳥。


 結界。


 異常なし。


 鳥笛。


 なし。


 私は。


 窓の掛け金へ指をかけた。


 開ける。


 冷たい空気が。


 部屋へ流れ込む。


 土。


 草。


 昨日切った木材。


 新しい柵の匂い。


 乾いた木と。


 朝露に濡れた樹皮の匂いが。


 混ざっている。


 昨日まではなかった匂い。


 畑が。


 広がった証。


 薄暗い外へ目を凝らす。


 柵。


 少し曲がっている。


 けれど。


 倒れていない。


 新しい柱が。


 夜を越えて。


 そこに立っている。


「おはようございます」


 私は言った。


「倒れませんでしたね」


 誰へ言ったのか。


 分からない。


 柱へ。


 畑へ。


 昨日の私へ。


 全部へ。


 少し間を置く。


「おはようございます、母様」


 胸の奥が。


 僅かに痛む。


 母様の手紙。


 五つ目の一文まで。


 受け取った。


 手紙を受け取っただけで十分だという。


 伝言を一つ。


 聞いた。


 二つ目は。


 まだ。


 母様は。


 私が王都へ行くことを。


 知っているのだろうか。


 父様から聞いているのか。


 国王陛下の召喚を。


 知った上で。


 手紙を書いたのか。


 それとも。


 何も知らないのか。


 王都へ行けば。


 会うことになるのだろうか。


 母様へ。


「行きます」


 私は。


 小さく言った。


「王都へ」


 口にすると。


 また胸が鳴る。


「でも、母様へ会うためだけではありません」


 言葉を分ける。


 王都へ行くこと。


 母様へ会うこと。


 父様と話すこと。


 国王陛下へ答えること。


 全部。


 同じではない。


「母様へ会うかどうかは、まだ決めていません」


 王都へ着けば。


 公爵家へ戻るよう。


 求められるかもしれない。


 父様は。


 決めてよいと書いた。


 けれど。


 母様は。


 どう思っているのか。


 分からない。


「手紙も、持っていくか決めていません」


 言ったあと。


 少し寂しくなる。


 手紙は。


 母様の言葉。


 いままで。


 村長さんの家へ預け。


 一文ずつ。


 読んできた。


 王都へ持っていけば。


 私のそばにある。


 でも。


 いつでも読める状態になる。


 夜。


 不安になったとき。


 次を。


 その次を。


 全部読んでしまうかもしれない。


 置いていけば。


 森へ戻るまで。


 続きは読めない。


 それは。


 母様を待たせることになる。


 でも。


 手紙も。


 ここで。


 私の帰りを待ってくれる。


「まだ、決めません」


 私は。


 窓の外へ言った。


「畑を見てからです」


 顔を洗う。


 髪を梳く。


 一度。


 二度。


 三度。


 鏡に映る。


 空色の髪。


 昨日。


 編んでもらった髪は。


 眠る前に解いた。


 黄色い花は。


 白い花と一緒に。


 窓辺の器へ挿してある。


 少し萎れている。


 でも。


 まだ。


 形を残している。


 私は。


 花守り布を手に取った。


 三つの芽。


 途中の花。


 開いた花。


 閉じ始めた花。


 少し立ったキズナ。


 皺のある葉。


 赤い短い線。


 昨日。


 王都から手紙が届いたことは。


 まだ。


 布へ残していない。


 残すのか。


 それも。


 リーナと話す。


「今日は、決める日ではありません」


 花守り布をかぶりながら。


 自分へ言う。


「選び始める日です」


 外へ出る。


 夜露。


 草。


 新しい柵。


 昨日。


 大勢の足で踏まれた場所は。


 土が少し固くなっている。


 木陰には。


 食事をした跡。


 パンの欠片は。


 もうない。


 夜の間に。


 小さな鳥か。


 獣が持っていったのだろう。


 畑の端。


 赤い木の実を埋めた場所。


 小石の円。


 白。


 灰色。


 茶色。


 青い石。


 朝露に濡れ。


 昨日より。


 色が濃く見える。


 私は。


 その前へしゃがんだ。


「おはようございます」


 まだ。


 芽は出ていない。


 当然だ。


 昨日。


 埋めたばかり。


 それでも。


 私は土の表面を見る。


 掘り返された跡。


 なし。


 獣の足跡。


 なし。


 水分。


 十分。


「今日は、何もしません」


 触れない。


 掘らない。


 水も。


 まだ必要ない。


 待つ。


 青豆一号。


 新葉。


 朝露。


 異常なし。


 アオジロウ。


 茎。


 安定。


 ムラマル。


 擦れ跡。


 変化なし。


 モリタン。


 本葉。


 色。


 昨日より濃い状態を維持。


 私は。


 順番に。


 見ていく。


「おはようございます」


 昨日。


 王都から手紙が来ても。


 芽は。


 芽のまま。


 葉は。


 葉のまま。


 私が。


 七日後に出ると決まっても。


 畑の時間は。


 急がない。


 そのことが。


 少しだけ。


 安心だった。


 記録板を開く。


 青豆一号、古い葉離脱後二十七日目。


 新葉一枚。


 朝露あり。


 虫害・折損なし。


 アオジロウ、茎・葉安定。


 追加処置不要。


 ムラマル、葉端擦過跡変化なし。


 周囲変色なし。


 モリタン、本葉完全展開後四日目。


 葉色濃化状態維持。


 葉面・葉脈良好。


 三芽、状態良好。


 新規観察対象。


 赤色木の実。


 播種後一日目。


 畑外縁。


 小石囲い。


 掘り返し・獣害なし。


 追加水分不要。


 私は。


 少し迷ってから。


 最後に書いた。


 観察者、七日以内に王都へ向け出発予定。


 観察者不在中の観察・処置担当を、本日村と協議する。


 書いた文字を。


 長く見つめる。


 観察者不在。


 自分が。


 この畑にいない日。


 記録板へ。


 初めて。


 その予定を書いた。


 胸が。


 また痛む。


「戻ります」


 誰も聞いていないのに。


 私は言う。


「戻って、続きを書きます」


 その下へ。


 一行。


 観察者、帰還後に記録再開予定。


 書き足した。


 少し。


 呼吸がしやすくなる。


 不在。


 でも。


 終了ではない。


 中断。


 引き継ぎ。


 再開。


 畑の記録も。


 私の暮らしも。


 続く。


     ◇


 朝食は。


 昨日残ったスープへ。


 少し水を足し。


 塩を足し。


 葉野菜を加えた。


 昨日。


 塩を入れ忘れたと。


 皆で笑ったスープ。


 温め直した今日の味は。


 少し濃い。


「足しすぎました」


 一口食べて。


 呟く。


 昨日の女性へ。


 塩が薄いと言った。


 今日の私は。


 濃くしてしまった。


 誰かと食べるなら。


 また笑えたかもしれない。


 一人だと。


 少しだけ寂しい。


 けれど。


 寂しいと思えること自体。


 以前とは違う。


 森へ来たばかりの頃。


 一人で食べても。


 寂しいと感じなかった。


 感じないようにしていたのかもしれない。


 誰かと食べる温かさを。


 知らなければ。


 一人が冷たいことにも。


 気づかずにいられる。


 私は。


 パンを千切り。


 濃いスープへ浸した。


 味が。


 少し和らぐ。


 失敗しても。


 直せる。


 塩を。


 鍋から取り出すことはできない。


 でも。


 水を足す。


 パンと食べる。


 別の形へ。


 変えられる。


「王都でも」


 私は。


 匙を置く。


「失敗したら、直せるでしょうか」


 国王陛下の前で。


 言葉を間違える。


 父様へ。


 怒りすぎる。


 黙ってしまう。


 泣く。


 自分の望みを。


 うまく話せない。


 一度。


 間違えたら。


 終わり。


 そう思ってしまう。


 公爵家では。


 人前での失敗は。


 取り戻せないと教えられた。


 一度の無礼。


 一度の言い間違い。


 一度の涙。


 すべて。


 家の評価へつながる。


 だから。


 失敗しないよう。


 何も言わない。


 何も選ばない。


 周囲の正しい答えへ従う。


 でも。


 それで。


 私は。


 森へ逃げた。


「間違えても」


 声にする。


「言い直します」


 簡単ではない。


 でも。


 練習する。


「分からなくなったら、分からないと言います」


 父様の手紙。


 国王陛下の紙。


 どちらにも。


 分からないまま来てよいと。


 書かれていた。


「怖くなったら、少し待ってくださいと言います」


 昨日。


 使者へ。


 すぐに手紙を開けられなかった。


 待ってもらった。


 皆にも。


 待ってもらった。


 それでも。


 開けることができた。


 私は。


 朝食を最後まで食べた。


 鍋を片づける。


 食器を洗う。


 その途中。


 結界へ。


 三つ。


 いつもの気配。


 リオ。


 ミナ。


 ガルドさん。


 けれど。


 今日は。


 少し後ろに。


 もう一つ。


 小さな気配がある。


 子ども。


 私は手を拭き。


 戸を開けた。


「おはようございます」


「おはよう」


 リオ。


 ミナ。


 ガルドさん。


 そして。


 その後ろ。


 エマが。


 大きな籠を両腕で抱えている。


 籠が大きすぎて。


 顔の下半分が隠れている。


「フローラ先生!」


「エマ。どうしたのですか」


「朝ごはん!」


「食べました」


 籠の向こうで。


 エマの目が丸くなる。


「もう?」


「はい」


「早い」


「起きるのが早かったので」


「じゃあ昼ごはん!」


「まだ朝です」


「持ってって!」


 エマは。


 籠を差し出す。


 私は受け取ろうとする。


 けれど。


 予想より重い。


「これは」


 籠の中。


 パン。


 乾燥肉。


 焼いた芋。


 布に包まれた卵。


 小さな瓶。


 干した果物。


 一人分とは。


 思えない。


「旅のごはん!」


「まだ七日あります」


「腐る?」


「物によります」


 ミナが。


 笑いをこらえながら。


「村の子供たちが、朝から集めたそうです」


「集めた?」


 エマが。


 胸を張る。


「みんな、一個ずつ!」


「一個ずつ?」


「うん。家から」


 私は。


 籠を見る。


 形の違うパン。


 大きさの違う芋。


 卵。


 肉。


 一つずつ。


 それぞれの家から。


 子どもたちが。


 持ってきたのだろう。


「勝手に持ち出してはいませんか」


「聞いた!」


「本当に?」


「だいたい!」


「だいたい?」


 リオが。


 籠の中を覗く。


「この肉、誰の家だ」


「トト」


「トトの家、昨日獲ったばかりだろ」


「お父さんがいいって」


「この瓶は?」


「ニコ」


 ミナが瓶を持ち上げる。


 中には。


 濃い色の蜜。


「高価なものでは」


「ニコのおばあちゃんが、喉にいいって」


 私は。


 すぐに。


 ありがとうと言えなかった。


 嬉しい。


 でも。


 皆の家の食料。


 旅のために。


 私へ。


 七日後。


 王都まで。


 王家が準備すると書かれている。


 食料も。


 きっと。


 用意される。


「エマ」


「はい」


「とても嬉しいです」


 まず。


 それを言う。


「ですが」


 エマの顔が。


 少し曇る。


「全部を、私が持っていく必要はありません」


「どうして?」


「王都までの食事は、使者の方々も用意してくださいます」


「でも、村のごはんのほうがおいしいよ」


「それは」


 私は少し迷う。


「そうかもしれません」


「じゃあ持ってく」


「でも、村の皆さんにも必要です」


「一個ずつなら大丈夫」


 昨日。


 村の人々が。


 木材を持ってきた。


 古い納屋の残り。


 仕事の空いた人。


 皆。


 自分の中から。


 少しずつ。


 持ち寄った。


 今日。


 子どもたちも。


 一つずつ。


 私が。


 すべてを拒めば。


 彼らの気持ちまで。


 要らないと言うことになるのかもしれない。


 でも。


 すべて受け取れば。


 持ちきれない。


 食べきれない。


 腐らせる。


「では」


 私は。


 籠の中を見る。


「持っていくものを、一緒に選びましょう」


「全部じゃない?」


「全部ではありません」


「なんで?」


「持てる量が決まっているからです」


「馬車でしょ?」


「荷物は、私のものだけではありません」


「大きい馬車にすれば?」


「王家の馬車を、私が勝手に大きくはできません」


 エマは。


 不満そうに頬を膨らませた。


 リオが。


「全部持ってって、腐らせるほうが嫌だろ」


「食べればいい」


「フローラ一人で?」


「護衛にもあげる」


「勝手に配るのか」


「だめ?」


「駄目じゃないけど」


 ミナが。


 エマの前へしゃがむ。


「エマ。フローラ様が旅へ持っていける食べ物は、限られています」


「うん」


「だから、傷みにくいものを選びます」


「残りは?」


「出発まで、皆で一緒に食べるのはどうでしょう」


 エマは。


 少し考える。


「お別れのごはん?」


 その言葉に。


 胸が締めつけられる。


 ミナも。


 すぐには答えなかった。


 私は。


 エマの前へしゃがむ。


「お別れではありません」


「でも行く」


「はい」


「いっぱい寝ないと帰らない」


「はい」


「じゃあ、お別れ」


「いってらっしゃいの食事です」


 昨日。


 村長さんがくれた言葉。


 さようならではない。


 いってらっしゃい。


「帰ってくる人と食べる食事です」


 エマは。


 私を見る。


「帰ってくる?」


「はい」


「絶対?」


「はい」


 言える。


 昨日より。


 少し。


 強く。


「必ず、帰ってきます」


 エマは。


 ようやく。


 小さく頷いた。


「じゃあ、いってらっしゃいのごはん」


「はい」


「持ってくのも選ぶ」


「はい」


 籠は。


 小屋の中へ。


 持ち込む。


 パンは。


 今日か明日。


 皆で食べる。


 乾燥肉。


 干した果物。


 蜜。


 旅へ。


 卵。


 焼いた芋。


 今日の昼。


 分ける。


 一つずつ。


 役目を決める。


 持っていくもの。


 残すもの。


 今。


 食べるもの。


 どれも。


 無駄にしない。


「畑は?」


 リオが聞く。


「見ました」


「赤い実」


「変化なしです」


 エマが。


 すぐ外へ走ろうとする。


「見てくる!」


「走らないでください」


「走ってない!」


 もう走っている。


 昨日の女の子と。


 同じような返事。


 私は。


 思わず笑った。


     ◇


 畑を見たあと。


 四人で。


 村へ向かう。


 今日は。


 話し合うことが多い。


 村長さんの家。


 旅支度。


 同行者。


 畑の世話。


 レナード隊。


 王都から来た使者への返答。


 返答は。


 昨日。


 王都へ行くと決めた。


 それを伝える。


 使者は。


 正午まで。


 村へ滞在している。


 私は。


 返事を。


 紙へ書くのか。


 口頭で伝えるのか。


 まだ知らない。


 森の道。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 王都へ行く。


 四歩。


 森へ戻る。


 五歩。


 全部持たない。


 六歩。


 残すものを選ぶ。


 七歩。


 頼る。


 エマが。


 私の隣を歩く。


「王都って、遠い?」


「はい」


「何回寝る?」


「馬車なら、十日前後でしょうか」


「十回?」


「片道で」


「帰りも?」


「はい」


「二十回?」


「王都に滞在する日もあります」


「いっぱいだ」


「はい」


「赤い実、芽出るかな」


「出るかもしれません」


「帰る前に木になる?」


「それは難しいと思います」


「じゃあ帰ってから見る?」


「はい」


 エマは。


 少し黙る。


「帰ってきたら、大きくなってるものある?」


「あると思います」


「キズナも?」


「はい」


「モリタンも?」


「はい」


「フローラ先生、見られないね」


「はい」


 その事実が。


 胸へ刺さる。


 芽の変化。


 葉の角度。


 朝露。


 雨。


 一日。


 二日。


 十日。


 二十日。


 私が戻る頃。


 畑は。


 同じではない。


 キズナも。


 大きくなる。


 春待ちの花は。


 すべて落ちているかもしれない。


 見られない。


 記録できない。


 私がいない間の変化。


「記録するよ」


 エマが言った。


 私は。


 足を止めそうになる。


「私たちが」


「エマたちが?」


「うん。サムが書く。リーナが縫う。ニコが歌う」


「トトとルルは?」


「トトは見る」


「ルルは?」


「いっぱい見る」


「二人とも見るのですね」


「うん」


 リオが。


 後ろから言う。


「それ、昨日の夜に決めたらしい」


「昨日?」


「村長の家で、大人が同行者の話をしてる横で」


「俺たちも守るって」


 エマは。


 少し誇らしそうに言った。


「フローラ先生の畑」


「でも」


「触らない」


「水も」


「言われた時だけ」


「掘らない」


「掘らない」


「芽が出たか気になっても」


「掘らない!」


 強く答える。


 私は。


 少し安心する。


 それでも。


 子どもたちだけへ。


 任せるわけにはいかない。


 でも。


 子どもたちも。


 記録へ。


 参加できる。


「お願いします」


 私は。


 頭を下げた。


 エマが慌てる。


「先生、頭下げない!」


「なぜですか」


「先生だから」


「お願いするときは、下げます」


「でも」


「エマたちへ、お願いします」


 もう一度。


 ゆっくり頭を下げる。


「私がいない間の変化を、見ていてください」


 エマは。


 少し困った顔をして。


 それから。


 大きく頷いた。


「任せて!」


 道の先。


 村の屋根が見える。


 煙。


 朝の音。


 今日は。


 いつもより。


 人の声が多い。


 私が近づくと。


 見張りが。


 丸の合図を出す。


 村へ入る。


 広場には。


 すでに。


 多くの人が集まっていた。


 昨日。


 畑へ来た人たちだけではない。


 パン屋の女性。


 薬師。


 井戸番の老人。


 木工職人。


 布を扱う女性たち。


 狩人。


 荷車を扱う若者。


 子どもたち。


 皆。


 何かを持っている。


 布。


 革袋。


 木箱。


 小瓶。


 縄。


 鍋。


 毛布。


 靴。


 私は。


 足を止めた。


「これは」


 村長さんが。


 広場の中央で。


 深く息を吐いた。


「昨夜、話が広がりまして」


「広がった?」


「フローラ様が王都へ行かれると」


 顔のある。


 皆。


 その全員が。


 旅支度を。


 持ってきた。


「この靴、底を直せるよ」


「雨布は二枚必要だ」


「夜は冷える。毛布を」


「王都で使うなら、こんな粗い布じゃ駄目じゃないか」


「道中で使うんだよ」


「薬は何が必要だ」


「酔い止め」


「フローラ様、馬車に酔うのか?」


「長い馬車は、あまり」


「じゃあ必要」


「食べ物は干したもの」


「水筒、蓋が緩いぞ」


「修理する」


「櫛もいるよ」


「持ってるでしょう」


「旅用の小さいの」


「裁縫道具」


「針は危ないから包む」


「王様へ会う服は?」


「公爵家の服があるそうだ」


「森から持っていくのか」


「虫に食われてないか?」


 声。


 声。


 声。


 一度に。


 いくつも。


 私へ向けられる。


 胸が。


 少し苦しくなる。


 皆。


 善意。


 分かっている。


 でも。


 多い。


 受け取れない。


 答えられない。


 私は。


 無意識に。


 一歩下がった。


 ミナが。


 すぐ気づく。


「皆さん」


 声を上げる。


 広場が。


 少しずつ静かになる。


「一度に話さないでください」


 村長さんも。


 杖の先で。


 地面を一度叩いた。


「昨夜、順番を決めると言っただろう」


「でも朝になったら、思いついて」


「私も」


「これも必要かと」


「必要かどうかは、フローラ様が決める」


 村長さんの言葉で。


 皆の視線が。


 私へ集まる。


 また。


 胸が固くなる。


 私が。


 選ぶ。


 全員の善意から。


 必要なものだけ。


 要らないと言えば。


 傷つけるかもしれない。


 全部受け取れば。


 持てない。


 私は。


 胸へ手を置く。


 一度に一つ。


「ありがとうございます」


 まず。


 言う。


「皆さんが、私のために考えてくださったことが、とても嬉しいです」


 声が。


 少し震える。


 でも。


 聞こえる。


「ですが」


 皆の顔を見る。


「全部を持っていくことはできません」


 誰かが。


 少し残念そうに。


 持っていた布を下げる。


 胸が痛む。


 でも。


 続ける。


「必要なものを、一つずつ選びたいです」


 村長さんが。


 大きく頷く。


「それでよい」


「持っていかないものが、要らないという意味ではありません」


 自分でも。


 誰かへ言っているのか。


 分からない。


「皆さんの気持ちを、拒むわけではありません」


 私自身へも。


 言う。


 選ぶことは。


 否定ではない。


「道中で使うもの。王都で使うもの。森へ残していくもの。出発までに使うもの」


 朝。


 エマの籠で。


 分けたように。


「四つに分けて、決めてもよいですか」


 広場に。


 短い沈黙。


 それから。


 薬師が。


 小さく笑った。


「それなら分かりやすい」


 木工職人も。


「木箱を四つ用意しよう」


「箱まで増やすなよ」


「分けるための箱だ」


「持っていく箱と勘違いするだろう」


「札を書けばいい」


「誰が」


「サム」


 呼ばれたサムが。


 すでに板を持っている。


「書く」


 四枚の札。


 道中。


 王都。


 森。


 出発前。


 広場の地面へ。


 布が四枚敷かれる。


 皆が。


 持ってきた物を。


 一つずつ。


 その前へ置く。


 私は。


 村長さんと。


 ミナと。


 リオと。


 ガルドさんと一緒に。


 見ていく。


 最初。


 靴。


「道中です」


 底を直した靴。


 森を歩くためのもの。


 王都へ着く前に。


 泥や雨で傷む。


「王都では?」


 布を扱う女性が聞く。


「屋敷へ戻らないなら、どこで着替えるんだい」


 召喚状。


 滞在場所。


 王家が。


 城内の客室を用意すると。


 書かれていた。


「王宮で、用意してくださるそうです」


 口にすると。


 広場が。


 少しざわつく。


「王宮」


「城に泊まるのか」


「王様の家?」


「家って言うな」


「広いの?」


 子どもたち。


 私は。


 少しだけ。


 昔の王宮を思い出す。


 高い天井。


 金。


 白い石。


 大きな扉。


 足音が。


 何度も反響する廊下。


 人が多いのに。


 誰とも近くない場所。


「とても広いです」


「迷う?」


「……迷うかもしれません」


「おねえちゃん、迷子になる?」


 昨日の女の子が。


 心配そうに聞く。


「案内の方がいます」


「一人で歩かないでね」


「はい」


 村人たちから。


 小さな笑いが起きる。


 少し。


 空気が柔らかくなる。


 靴。


 道中。


 雨布。


 道中。


 毛布。


 王家の馬車にある。


 でも。


「村のものを一枚」


 私は選ぶ。


 夜。


 知らない場所で。


 森の匂いがする布があれば。


 眠れるかもしれない。


「どれにします」


 三枚。


 差し出される。


 厚い。


 軽い。


 古い。


 新しい。


 私は。


 一番。


 古い毛布を見る。


 端が。


 何度も縫い直されている。


 茶色。


 少し薄い。


「これは」


「村の集会所で使ってたもの」


 女性が言う。


「古いけど、よく乾く」


「皆さんが使うものでは」


「新しいのを作ったから、余ってる」


 余っている。


 以前の私なら。


 その言葉だけで。


 受け取ったかもしれない。


 でも。


 この村の人たちは。


 必要なものも。


 余っていると言う。


 私と同じように。


「本当に、今は使っていませんか」


「使ってないよ」


「冬にも?」


「集会所には新しい毛布がある」


「では」


 私は。


 古い毛布へ触れる。


 少し。


 煙の匂い。


 干した草。


 人の暮らし。


「これを、お借りします」


「貸すんじゃないよ」


「ですが」


「帰ってきたら、森の家で使えばいい」


 帰ってきたら。


 その言葉と一緒に。


 毛布を受け取る。


「ありがとうございます」


 道中の布へ。


 置く。


 薬。


 酔い止め。


 腹痛。


 熱。


 傷。


 虫刺され。


 眠れない夜の薬草茶。


 多い。


「全部持っていきな」


 薬師が言う。


「でも」


「薬は、使わないほうがいい。使わなくても持つ」


 非常用の袋。


 同じ。


 準備。


 でも。


 使わないことを望む。


「量は」


「私が分ける」


 薬師が。


 一つずつ。


 小さな包みへする。


 説明を書いた紙。


 字。


 大きく。


「王家の医師もいるでしょう」


「知らない医師へ、全部任せるのかい」


「それは」


「向こうの薬を拒めとは言わない。こっちの薬も持て」


 私は。


 頷く。


「お願いします」


 王都で使うもの。


 正装。


 手袋。


 髪飾り。


 靴。


 古い公爵家の荷物。


 森の家へ。


 いくつか。


 持ってきている。


 逃げるように出たのに。


 公爵令嬢として。


 最低限必要なものを。


 従者が荷車へ積んでいた。


 ずっと。


 木箱の中。


 開けていない服もある。


「今日、皆さんと確認します」


 私は言った。


「一人では?」


 布を扱う女性が聞く。


「難しいです」


 素直に答える。


「王都の服を出すと、少し……苦しくなるかもしれません」


「なら、女たちで行くよ」


「大勢では」


「何人ならいい?」


 選ばせてくれる。


 私は。


 少し考える。


「二人」


「分かった」


 髪を編んでくれた女性。


 服直しができる女性。


 二人。


 午後。


 森の家へ。


 来てもらう。


 森へ残すもの。


 畑の道具。


 種。


 薬草の記録。


 花守り箱。


 日記。


 母様の手紙。


 そこで。


 私は。


 言葉を止めた。


 母様の手紙。


 持っていくか。


 残すか。


 村長さんが。


 気づく。


「手紙は、あとで決めよう」


「はい」


 すぐ。


 答えを求めない。


 ありがたい。


 出発前。


 皆で食べるもの。


 パン。


 卵。


 焼いた芋。


 広場の端へ。


 並べる。


「今食べてもいい?」


 トトが聞く。


「まだ朝だぞ」


「朝ごはん二回目」


「食べすぎ」


「動くから」


「何を」


「記録」


「記録で腹は減らない」


 子どもたちの声。


 大人たちの笑い。


 物を選ぶ時間は。


 想像していたより。


 怖くなかった。


 持っていかないと決めた人も。


 怒らない。


「これは森へ置こう」


「帰ってきてから使えばいい」


「旅には重い」


「王都には合わない」


「出発前に食べよう」


 一つずつ。


 場所が決まる。


 私が。


 すべてを選んでいるわけではない。


 分からないものは。


 聞く。


 皆が。


 答える。


 最後に。


 広場の中央。


 持ち主の決まらない大きな鍋が残った。


「誰が持ってきたのですか」


 皆。


 顔を見合わせる。


「俺じゃない」


「うちでもない」


「昨日の鍋じゃないか?」


「昨日のは私のだよ」


「じゃあ誰だ」


 井戸番の老人が。


 杖を上げる。


「わしだ」


「何に使うのですか」


「旅先で煮炊き」


「馬車へ大鍋を?」


「必要だろう」


「王家が用意します」


「王家の飯が口に合わなかったら」


「鍋だけあっても、火と食材が」


「そこまで持てばいい」


「荷車が一台増えます」


「なら、わしが引く」


「王都まで?」


「途中で交代」


「誰と」


「考えてなかった」


 広場へ。


 大きな笑い。


 私も。


 笑った。


「鍋は、森へ残します」


「使わない?」


「帰ってきたら」


 一度。


 息を吸う。


「皆で、何かを作りましょう」


 老人は。


 少し不満そうだったが。


「なら、いい」


 鍋は。


 森へ残す場所へ。


 置かれた。


 帰ってきたら。


 使う。


 また。


 帰還後の約束が。


 一つ増えた。


     ◇


 持ち物の整理が。


 ひと区切りついたあと。


 村長さんの家へ。


 移動する。


 仕事部屋ではなく。


 今日は。


 広い食堂。


 長い机。


 村長さん。


 リオ。


 ミナ。


 ガルドさん。


 薬師。


 木工職人。


 畑の世話を引き受ける人。


 そして。


 昨夜。


 同行を希望した者たち。


 五人。


 私は。


 机の向こうへ並んだ顔を見る。


 リオ。


 ミナ。


 ガルドさん。


 パン屋の女性の息子。


 狩人の男性。


「五人も」


 村長さんが言う。


「希望した」


「全員は、難しいです」


「分かっています」


 ガルドさんが答える。


「同行は一人、あるいは二人が現実的です」


 王家の護衛。


 使者。


 馬車。


 そこへ。


 村から。


 一人。


 昨日。


 村長さんは。


 誰かをつけると言った。


「皆さんは」


 私は。


 五人を見る。


「なぜ、同行を」


 リオが。


 最初に口を開く。


「俺が一番、森の道を知ってる」


「王都へ行く道は」


「知らない」


「では」


「でも、フローラを知ってる」


 言葉が。


 まっすぐ。


 胸へ入る。


「眠れない時も。怖い時に大丈夫って言うことも。飯を食べなくなることも」


「食べています」


「怖い時は減る」


「……はい」


「だから」


 リオは。


 少し言葉を探す。


「知らない奴だけの中に、一人で置きたくない」


 私は。


 答えられない。


 ミナが。


 次に言う。


「私は、女性です」


「はい」


「道中や王都で、男性には頼みにくいことがあります」


「はい」


「体調。着替え。夜。髪。人前で話せなくなった時」


 ミナは。


 私を見ている。


「フローラ様の言葉を代わりに話すためではありません」


「はい」


「フローラ様が、自分で話せるところまで戻るのを待つためです」


 私の代わりに。


 答えない。


 待ってくれる。


 ガルドさん。


「私は護衛経験があります」


「王家の護衛がいます」


「王家の護衛は、王命を優先します」


 部屋が。


 少し静かになる。


「フローラ様の安全と、王家の命令が衝突した場合」


「衝突するのですか」


「可能性の話です」


「はい」


「村側の人間が一人いる意味はあります」


 父様の手紙。


 国王陛下の紙。


 私の意志を聞く。


 そう。


 書かれている。


 でも。


 王都。


 貴族。


 公爵家。


 何が起きるか。


 分からない。


 パン屋の息子。


「俺は馬と荷車を扱えます」


「王家の御者がいます」


「道中で何かあれば、手が多いほうがいい」


「家の仕事は」


「弟がやる」


「本当に?」


「昨日、殴り合いで決めた」


「殴り合い?」


「冗談です」


 母親らしいパン屋の女性が。


 扉の外から。


「半分本当だよ!」


 声を上げる。


「どちらですか」


「胸ぐらだけ!」


「それは殴り合いではありませんね」


 少し。


 笑いが起きる。


 最後。


 狩人の男性。


「森を離れる経験がある」


「王都へ?」


「近くまでなら」


「なぜ、同行を」


「公爵家の連中が、森の暮らしを馬鹿にした時」


 男は。


 低い声で言う。


「実際に見てきた人間が、一人いたほうがいい」


「争うためではありません」


「分かってる」


「怒らないでください」


「それは約束できない」


「では」


「口には出さない」


「顔には?」


「出るかもしれない」


 リオが。


「それ駄目だろ」


「お前よりましだ」


「俺は出さない」


「全部出る」


「出ない」


「今も出てる」


 張りつめていた空気が。


 少し崩れる。


 私は。


 五人を見る。


 誰か。


 一人。


 選ぶ。


 全員。


 理由がある。


 誰を選んでも。


 他の人を選ばないことになる。


 胸が。


 また苦しくなる。


「今すぐ」


 言いかけ。


 止める。


 今すぐ決めなければ。


 使者への返答。


 正午。


 でも。


 同行者の名は。


 今日でなくてもよい。


「同行者は、今日決めなければなりませんか」


 村長さんが。


 首を横へ振る。


「明日でもよい」


「では」


 私は。


 息を吐く。


「今日は、決めません」


 五人へ。


 視線を向ける。


「皆さんが来たいと言ってくださったことを、嬉しく思います」


 言葉を選ぶ。


「ですが、すぐに一人を選ぶと、私は理由ではなく、断りやすい人を選ばないようにしてしまうかもしれません」


 リオが。


 少し眉を寄せる。


「どういうこと」


「私が断っても、傷つかないように見える人を」


 ガルドさん。


 狩人。


 大人。


 強い。


 彼らを。


 断りやすいと思うかもしれない。


 ミナ。


 女性。


 安心。


 リオ。


 近い。


 誰を選ぶか。


 相手の役目ではなく。


 私の罪悪感で決めてしまう。


「一晩、考えます」


 村長さんが頷く。


「それがよい」


 五人も。


 不満は。


 見せなかった。


 リオだけ。


 少し口を開きかけ。


 閉じた。


 あとで。


 何か言うかもしれない。


 それでも。


 今は。


 待ってくれた。


「次に」


 村長さんが。


 机へ。


 紙を置く。


「使者への返答だ」


 紙。


 白。


 短い。


 王都へ行く意志。


 出発予定日。


 同行者は未定。


 森から村の者一名を同行させる予定。


 王家の護衛を受け入れる。


 滞在先として。


 王宮客室を使用する。


 ただし。


 公爵家屋敷へ戻る意志は。


 現時点でない。


 私は。


 最後の一文を見つめる。


『スプリング公爵家屋敷へ帰還する意思は、現時点において有しておりません』


 強い。


 正式な文章。


 私の言葉より。


 固い。


「これは」


 私は。


 村長さんを見る。


「必要ですか」


「書かなくてもよい」


「では」


「だが、書けば記録に残る」


 王都へ着いてから。


 公爵家へ。


 当然のように。


 連れていかれることを。


 防ぐ。


「父様は、私が決めてよいと書きました」


「うん」


「でも、王家の使者は、父様の手紙を読んでいません」


「そうだ」


「国王陛下の召喚状にも、居住地を王都へ定めないと」


「書かれている」


「では、必要ないようにも」


 ミナが。


 静かに言う。


「フローラ様が、森へ戻る意志を持っていることを、今の時点で文書へ残す意味があります」


「はい」


「王都へ着いた時。怖くて話せなくなったとしても」


 胸が痛む。


「この紙は残ります」


 自分が。


 言えない時。


 昨日。


 言った言葉を。


 紙が。


 持っていてくれる。


「書きます」


 私は答えた。


 筆。


 墨。


 手が。


 少し震える。


 けれど。


 自分で書く。


 王都へ行く。


 王家の護衛を受ける。


 村人一名を同行させる。


 そして。


 公爵家屋敷へ帰還する意志は。


 現時点でない。


 一文字。


 一文字。


 自分の手で。


 書く。


 最後に。


 署名。


 フローラ・フォン・スプリング。


 家名。


 公爵令嬢としての名。


 森では。


 フローラ。


 おねえちゃん。


 先生。


 でも。


 王都へ届ける紙には。


 家名が必要。


 私は。


 以前なら。


 その名へ。


 自分を閉じ込められた。


 今は。


 使う。


 自分の意志を。


 届けるために。


 署名を終える。


 村長さんが。


 蝋を用意する。


「封蝋は」


 公爵家の紋章。


 私の箱の中に。


 一つ。


 ある。


 森へ来てから。


 使っていない。


「取りに戻ります」


「村の印でも」


「いいえ」


 私は。


 少し考え。


「スプリング公爵家の娘として、書きます」


 家を。


 捨てるのか。


 継ぐのか。


 まだ。


 決めていない。


 でも。


 誰かが。


 私の代わりに決めることを。


 許さない。


 そのためには。


 私が。


 公爵家の娘であることを。


 使う。


「家名は」


 私は。


 自分へ言うように。


「私を縛るためだけのものではありません」


 村長さんが。


 静かに頷いた。


「そうだ」


     ◇


 正午。


 王都の使者へ。


 返答を渡した。


 村の広場。


 昨日と同じ。


 灰色の外套。


 銀の印。


 使者は。


 封書を受け取る。


「確かに、お預かりいたします」


「出発は」


「五日後を希望します」


 七日以内。


 私は。


 最大まで待つこともできた。


 けれど。


 畑の引き継ぎ。


 旅支度。


 王都までの日数。


 五日後。


 村長さんと。


 皆で決めた。


「承知しました。五日後の朝、王家の馬車をこちらへ」


「お願いします」


「同行者については」


「明日までに、お伝えします」


「一名ですか」


「一名を予定しています」


「承知しました」


 使者は。


 余計なことを聞かない。


 私の服。


 泥。


 村。


 昨日。


 驚いた顔をした。


 今日は。


 何も表情へ出さない。


「一つ」


 私は。


 使者を呼び止める。


「はい」


「王都へ着いた後、公爵家の屋敷へ立ち寄るよう命じられていますか」


「いいえ」


「本当に?」


「国王陛下より、フローラ様の滞在先は王宮西客室と定められております」


「父からは」


「スプリング公爵閣下より、屋敷へお迎えしたいとの申し出はありました」


 胸が。


 少し固くなる。


「ですが」


 使者は続ける。


「陛下が却下されました」


 広場の周囲。


 村人たちが。


 息を呑む。


「理由は」


「フローラ様の意思確認前に、滞在場所を公爵家と定めるのは適当でない、と」


 国王陛下。


 父様。


 私の知らないところで。


 話が。


 進んでいる。


 でも。


 少なくとも。


 私の意志を。


 先に。


 守ろうとしている。


「分かりました」


「また」


 使者が。


 少し言葉を選ぶ。


「王宮へ入る際、スプリング公爵家の馬車を使用する必要もございません」


「王家の馬車のまま?」


「はい」


 公爵家へ。


 返されない。


 王家の客として。


 入る。


 その違い。


 大きい。


「ありがとうございます」


「私へではなく」


 使者は。


 僅かに頭を下げる。


「陛下へ、お伝えください」


「はい」


 使者たちが。


 村を出る。


 馬の蹄。


 昨日とは。


 違う音に聞こえる。


 昨日。


 来る音は。


 私の暮らしを奪うものに聞こえた。


 今日。


 去る音は。


 私の言葉を。


 王都へ運ぶ音。


 同じ馬。


 同じ鉄の蹄。


 でも。


 意味が変わった。


 村人たち。


 少しずつ。


 息を吐く。


「王様、ちゃんと考えてるんだね」


 子どもが言う。


「王様に、ちゃんとって言うな」


「だって、ちゃんとしてる」


「まあ……そうだな」


「公爵様は迎えたかったのか」


 誰かが呟く。


 私は。


 父様の手紙を思い出す。


 屋敷へ戻るかは。


 決めてよい。


 それでも。


 迎えたいとは。


 申し出た。


 矛盾。


 ではないのかもしれない。


 父様も。


 帰ってきてほしい。


 でも。


 命じない。


 そう。


 決めたのかもしれない。


 まだ。


 分からない。


「父様のことは」


 私は。


 周囲へ言う。


「王都で、確認します」


 誰かの解釈で。


 決めない。


 父様が。


 何を思っているのか。


 本人へ。


 聞く。


 怖い。


 けれど。


 私の言葉だけでなく。


 相手の言葉も。


 直接。


 受け取る。


     ◇


 昼食のあと。


 女性二人と。


 森の家へ戻った。


 王都で着る服。


 確認。


 小屋の奥。


 長く開けていない木箱。


 私は。


 鍵を持って。


 その前へ座る。


 女性たちは。


 少し離れている。


 急かさない。


 髪を編んでくれた女性が。


「開けられそうかい」


「はい」


 そう答える。


 でも。


 鍵を。


 すぐ差し込めない。


 木箱。


 森へ来た日。


 荷車から。


 降ろされた。


 公爵家の紋章。


 衣装。


 靴。


 手袋。


 宝飾品。


 私が。


 ここへ来てから。


 触れなかったもの。


 森の服。


 畑仕事の服。


 村で直してもらった上着。


 それで。


 暮らせた。


 木箱は。


 必要なかった。


 開けば。


 公爵家の空気が。


 小屋へ戻ってくる気がした。


「今日は、服を選ぶだけです」


 私は。


 自分へ言う。


「戻るのではありません」


 鍵。


 差し込む。


 回す。


 かちり。


 蓋を。


 少し上げる。


 香りがした。


 乾燥させた花。


 防虫香。


 懐かしい。


 屋敷の衣装部屋。


 侍女。


 朝。


 礼装。


 息を止めて。


 紐を締められる感覚。


 私は。


 手を止めた。


「閉じるかい?」


 女性が聞く。


「いいえ」


「無理しなくていい」


「無理では」


 言いかけ。


 やめる。


「少し、苦しいです」


「なら、待つよ」


「はい」


 待ってもらう。


 私は。


 何度か。


 呼吸する。


 小屋。


 窓。


 白い花。


 黄色い花。


 畑。


 曲がった柵。


 今。


 ここ。


「開けます」


 蓋を。


 上げる。


 中。


 布に包まれた衣装。


 深い青。


 白。


 銀。


 淡い水色。


 公爵家の色。


 どれも。


 整えられている。


 畳まれたまま。


 森の時間を。


 過ごしていた。


 女性たちが。


 近づく。


「これは細いね」


「前のフローラ様、どれだけ痩せてたんだい」


「今も細いけど」


「肩が違う」


「畑仕事したからだよ」


 服を広げる。


 深い青の礼装。


 首元。


 高い。


 袖。


 長い。


 腰。


 細い。


「着られますか」


「着てみないとね」


 私は。


 着替える。


 女性二人が。


 布を持つ。


 侍女のように。


 でも。


 違う。


 手が。


 怖がっていない。


 私の身体へ。


 服を合わせる。


 背中。


 留める。


 途中で。


 止まる。


「閉まらない」


「やはり」


「胸じゃないよ。背中だ」


「肩」


「畑仕事で筋肉ついたね」


 私は。


 鏡を見る。


 以前より。


 肩。


 腕。


 少し。


 しっかりしている。


 食べる。


 働く。


 眠る。


 森で。


 身体が。


 生きる形へ変わった。


 公爵家の服が。


 合わない。


 以前なら。


 恥ずかしいと思ったかもしれない。


 太った。


 形が崩れた。


 公爵令嬢らしくない。


 今は。


 少しだけ。


 誇らしい。


「直せますか」


「できる」


「布は」


「裾から取るか、似た色を足す」


「見た目は」


「王様に会うんだろう。ちゃんと仕上げるよ」


 女性は。


 生地を。


 指で確認する。


「ただし」


「はい」


「前と同じ形にはしない」


 私は。


 顔を上げる。


「なぜ」


「苦しいから」


 首元。


 高い。


 胸。


 締める。


 腰。


 細い。


「王都の服は、こういうものです」


「だからって、息できない服で話せるのかい」


 私は。


 答えられない。


「自分の言葉を話しに行くんだろう」


「はい」


「なら、息のできる服にする」


 その言葉。


 胸へ。


 深く入る。


 公爵令嬢らしい服。


 でも。


 私が。


 息をできる形。


「変えても、よいのでしょうか」


「誰の服だい」


「私の」


「なら、いい」


 女性は。


 迷いなく言った。


「王都の決まりを全部破れとは言わない。礼は守る。でも、苦しむ形まで守る必要はない」


 もう一人も。


「首元を少し開けよう。中に白い布を合わせれば、失礼にはならない」


「腰も」


「締めすぎない」


「袖は」


「畑仕事するわけじゃないから長くてもいいけど、手は出るようにする」


「手を」


 私は。


 自分の手を見る。


 土。


 小さな傷。


 縄の跡。


 昨日。


 柱を支えた手。


 公爵家では。


 手袋で隠した。


 傷。


 日焼け。


 土。


 公爵令嬢らしくない。


「手袋は」


「必要ならする」


 女性は。


 私の顔を見る。


「隠したいかい」


 私は。


 すぐには答えない。


 国王陛下の前。


 貴族たち。


 森で畑を耕している。


 その証。


 手。


 隠す。


 礼儀。


 でも。


 隠したくない。


「式の間は、手袋をします」


 私は言う。


「ですが、必要なら外します」


「必要って?」


「私が、畑を耕していると話すとき」


 自分の手を。


 見せる。


 言葉だけではない。


 私が。


 ここで。


 何をしてきたか。


「よし」


 女性が。


 笑う。


「じゃあ、外しやすいものにしよう」


 服。


 直す。


 以前と同じ形へ。


 戻すのではない。


 今の私へ。


 合わせる。


 王都へ行くための服。


 でも。


 森で生きた身体を。


 締めつけない服。


 私は。


 鏡の中の自分を見る。


 深い青。


 まだ。


 背中は閉じていない。


 首元も。


 苦しい。


 でも。


 これから。


 直す。


 変えられる。


「お願いします」


 私は。


 服を脱ぐ。


 畑仕事の服へ。


 戻る。


 女性たちは。


 深い青の礼装を。


 大切に。


 でも。


 恐れず。


 折り畳む。


「明日までに仮縫い」


「そんなに早く?」


「五日しかないんだろ」


「眠ってください」


「縫い物は好きなんだよ」


「でも」


「全部一人でやらない」


 昨日。


 私が言われた言葉を。


 女性が。


 自分へも使う。


「村の女たちで分ける」


「はい」


「任せな」


「お願いします」


     ◇


 二人を見送ったあと。


 私は。


 一人で。


 机の前へ座った。


 父様の手紙。


 国王陛下の召喚状。


 机の上。


 窓辺。


 白と黄色の花。


 そして。


 村長さんの家にある。


 母様の手紙。


 持っていくもの。


 残すもの。


 選ぶ。


 父様の手紙は。


 持っていく。


 国王陛下の召喚状も。


 必要。


 母様の手紙は。


 どうする。


 私は。


 机の引き出しを開けた。


 空。


 以前。


 母様の手紙を。


 置いていた場所。


 いまは。


 村長さんの家。


 離れているから。


 一文ずつ。


 読めた。


 王都へ。


 持っていけば。


 母様へ。


 会うかもしれない。


 手紙を。


 直接。


 返すこともできる。


 続きを。


 母様の前で読むことも。


 あるいは。


 読まないことも。


 でも。


 母様を目の前にして。


 手紙があれば。


 私は。


 母様の気持ちを。


 先に考えてしまうかもしれない。


 読んでいない。


 待たせている。


 申し訳ない。


 その気持ちが。


 自分の言葉を。


 小さくするかもしれない。


「置いていく」


 声にする。


 胸が痛む。


 すぐ。


 決めたくない。


 でも。


 今。


 浮かんだ答え。


「母様の手紙は、この森へ置いていきます」


 手紙は。


 私が戻るまで。


 待てる。


 昨日。


 受け取っただけで十分という。


 伝言。


 それを。


 信じ切らなくても。


 いま。


 使ってもよい。


「母様へ会っても」


 私は。


 机へ手を置く。


「手紙の続きを読まなければ、話せないわけではありません」


 手紙の中の母様。


 目の前の母様。


 同じ。


 でも。


 違う。


 手紙を。


 王都へ持っていかないことで。


 二つを。


 分けられるかもしれない。


「戻ってから、続きを読みます」


 森へ戻る。


 その約束。


 手紙とも。


 する。


「二つ目の伝言も」


 まだ。


 聞いていない。


 王都へ行く前に。


 聞くか。


 聞かないか。


 伝言は。


 母様から。


 始まったかもしれない。


 内容。


 会いたい。


 帰ってきて。


 許して。


 何か。


 分からない。


 聞けば。


 王都へ向かう気持ちへ。


 影響する。


 でも。


 聞かずに。


 母様へ会う可能性もある。


 私は。


 胸へ手を置く。


 今。


 聞きたいか。


 怖い。


 でも。


 少し。


 知りたい。


 手紙とは。


 違う。


 二つ目の伝言。


「明日」


 私は。


 小さく言う。


「明日、聞くかどうか決めます」


 今日は。


 もう。


 たくさん選んだ。


 食べ物。


 毛布。


 薬。


 服。


 返答。


 出発日。


 母様の手紙を。


 置いていくこと。


 同行者は。


 まだ。


 二つ目の伝言も。


 まだ。


 一度に。


 全部。


 決めない。


 私は。


 日記帳を開く。


 今日。


 王都へ行く返答を書いた。


 出発は五日後。


 公爵家屋敷へ帰還する意志は、現時点でないと書いた。


 国王陛下は。


 公爵家の迎えを認めず。


 私を王宮の客室へ迎えると決めてくださった。


 私は。


 王家の馬車で王都へ入る。


 村の皆が。


 旅のものを持ってきてくれた。


 全部は持てない。


 だから。


 道中。


 王都。


 森。


 出発前。


 四つに分けた。


 持っていかないものは。


 要らないものではない。


 森へ残すものは。


 帰ってから使うもの。


 私は。


 深い青の礼装を出した。


 以前の私の身体へ合わせた服は。


 今の私には。


 少し小さかった。


 肩が。


 閉まらなかった。


 畑仕事をして。


 食べて。


 眠り。


 生きた身体へ。


 服を直してもらう。


 以前と同じ形へ戻すのではなく。


 今の私が息をできる形へ。


 私はペンを止める。


 息ができる服。


 自分の言葉を。


 話すため。


 その下へ。


 母様の手紙は、森へ置いていく。


 村長さんの家で。


 私を待ってもらう。


 王都へ持っていけば。


 母様の言葉を背負いすぎるかもしれない。


 母様に会う時。


 手紙の母様と。


 目の前の母様を。


 同じものにしてしまうかもしれない。


 だから。


 手紙は。


 この森に置く。


 戻ってから。


 続きを読む。


 私は。


 書いた文字を見つめた。


 戻ってから。


 また。


 戻る約束。


 一つ。


 増えた。


 最後に。


 同行者は、まだ決めていない。


 五人が来たいと言ってくれた。


 誰を選ぶか。


 断りやすさや。


 罪悪感で決めない。


 私が。


 王都で。


 自分の言葉を話すために。


 誰がそばにいるとよいのか。


 一晩考える。


 二つ目の伝言も。


 明日の私が決める。


 今日は。


 ここまで。


 日記帳を閉じる。


 夕方の光。


 窓辺。


 花。


 外。


 新しい柵。


 畑の端。


 赤い実。


 私は。


 外へ出る。


 夕方の畑。


 青豆一号。


 アオジロウ。


 ムラマル。


 モリタン。


 朝と。


 大きな変化なし。


 赤い実。


 芽。


 なし。


 当然。


 でも。


 見る。


「ただいま」


 今日は。


 村へ行き。


 戻った。


 五日後。


 もっと遠くへ行く。


 でも。


 同じように。


 言いたい。


「ただいま」


 私は。


 新しい柵へ触れる。


 少し。


 ざらつく。


 柱。


 昨日。


 皆で立てた。


「同行する人を、明日決めます」


 畑へ。


 報告する。


「母様の手紙は、ここへ置いていきます」


 風が。


 葉を揺らす。


「戻ってから、続きを読みます」


 その言葉が。


 胸へ。


 静かに沈む。


「今日は」


 私は。


 小石で囲まれた土を見る。


「連れていくものと、残していくものを選びました」


 残す。


 置いていく。


 以前なら。


 捨てることと。


 同じに思えたかもしれない。


 けれど。


 違う。


 残すものは。


 帰る場所にあるもの。


 待ってくれるもの。


 すべてを。


 持っていかなくてよい。


 持っていかなくても。


 なくならない。


 母様の手紙も。


 畑も。


 花守り箱も。


 日記も。


 大鍋も。


 曲がった柵も。


 ここで。


 私を待ってくれる。


 王都へ持っていくのは。


 父様の手紙。


 国王陛下の召喚状。


 村の毛布。


 皆が分けてくれた食べ物。


 薬。


 直してもらう青い服。


 そして。


 自分の言葉。


 それだけで。


 十分。


 私は。


 空を見上げる。


 夕暮れ。


 橙。


 青。


 森の向こう。


 王都の方角。


 まだ。


 遠い。


 けれど。


 五日後。


 私は。


 自分で。


 その道へ出る。


 何もかも。


 持っていくためではない。


 ここへ戻るために。


 必要なものだけを。


 選んで。


 向かうのだ。

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