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『青の姫君の森暮らし 〜化け物と恐れられた公爵令嬢は、今日も畑を耕します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第70話 青の姫君、帰るためではなく戻ると決める


 封を開いた手紙は。


 私が想像していたよりも、ずっと薄かった。


 何枚もの紙が重なっているわけではない。


 父が公爵として出す正式な命令書でもない。


 厚い紙が、二枚。


 それだけだった。


 けれど。


 折り目へ指をかけたまま。


 私は、なかなか開くことができなかった。


 割れた青い封蝋が。


 机の上に小さく散らばっている。


 春の花と。


 それを囲む剣と蔦。


 幼い頃から。


 屋敷の門にも。


 銀食器にも。


 馬車にも。


 私の衣装箱にも刻まれていた紋章。


 どこにいても。


 あれが自分の家の印なのだと教えられてきた。


 誇りなさい。


 忘れてはならない。


 スプリング公爵家の血を引く者として。


 常に正しくありなさい。


 正しく。


 美しく。


 恥じることなく。


 そう言われるたび。


 私は、自分の身体へ見えない紐を巻かれていくような気がした。


 きつく。


 動かないように。


 失敗しないように。


 誰にも嫌われないように。


 けれど。


 どれほど正しく立っていても。


 青い髪を見た人々は。


 私を恐れた。


 正しさなど。


 何の役にも立たなかった。


「おねえちゃん」


 隣から。


 小さな声がした。


 私は顔を上げる。


 女の子は。


 机の端へ両手を置き。


 父からの手紙を見つめていた。


「読まないの?」


「……読みます」


「字、分からない?」


「分かります」


「難しい字?」


「まだ見ていません」


「じゃあ、分からないね」


「はい」


 子どもに言われると。


 それは、とても簡単なことに聞こえた。


 まだ見ていない。


 だから分からない。


 中に何が書かれているか。


 私は知らない。


 知らないものを。


 自分で最も恐ろしい形へ作り変えている。


 それでも。


 恐怖は消えなかった。


 私は。


 ゆっくりと手紙を開いた。


 紙が擦れる。


 わずかな音が。


 小屋の中へ大きく響いた。


 見慣れた筆跡だった。


 角ばり。


 細く。


 無駄な飾りのない文字。


 父の字。


 手紙を書くところを。


 私は見たことがある。


 執務室。


 大きな机。


 左右へ積まれた書類。


 朝から夜まで。


 父は何かを読み。


 何かへ署名をしていた。


 私が部屋へ呼ばれたときも。


 すぐに顔を上げることはなかった。


 まず書類を読み終え。


 筆を置き。


 砂を振り。


 墨が乾くのを待ってから。


 ようやく私を見る。


 父の時間には。


 順番があった。


 公爵家のこと。


 領地のこと。


 王家のこと。


 家臣のこと。


 社交のこと。


 最後に。


 私。


 それが当然なのだと思っていた。


 父は公爵で。


 私は、その娘だから。


 手紙の一番上には。


 私の名が書かれていた。


『フローラへ』


 様も。


 公爵令嬢も。


 家名もない。


 ただ。


 フローラへ。


 その書き出しだけで。


 胸の中に、冷たいものが落ちた。


 父が。


 私の名だけを書くことなど。


 ほとんどなかった。


 幼い頃は。


 あったのかもしれない。


 けれど。


 覚えていない。


「なんて書いてあるの?」


 女の子が。


 背伸びをする。


「まだ、最初だけです」


「おねえちゃんの名前?」


「はい」


「じゃあ、おねえちゃんの手紙だね」


「……はい」


 他の誰でもない。


 私へ。


 父が書いた手紙。


 私は。


 次の行へ視線を落とした。


『この手紙を、お前がどのような場所で読んでいるのか、私には分からない』


 そこで。


 一度、目が止まった。


 場所は。


 森の中の小屋。


 朝、窓辺に置いた白い花がある。


 机の上には赤い木の実。


 土の匂いが。


 開いた窓から入っている。


 外では。


 村人たちが待っている。


 父は。


 この場所を知らない。


 どのような畑なのか。


 どのような小屋なのか。


 どんな人たちがいるのか。


 知らない。


『王都から送られてくる報告には、お前が森で暮らしていると書かれている。村人と共に畑を耕し、薬草を育て、冬には食料を分けたとも聞いた』


 私は。


 思わず窓の外を見た。


 誰が。


 報告したのだろう。


 王都へ。


 この森のことを。


 私の暮らしを。


 どこまで。


 知られているのだろう。


 胸が締めつけられる。


 静かに暮らしていたつもりだった。


 誰にも見られず。


 誰にも評価されず。


 ただ。


 畑を耕していた。


 けれど。


 王都は。


 ずっと私を見ていたのだろうか。


「おねえちゃん?」


「……大丈夫です」


 女の子が。


 私の顔を覗き込む。


 また。


 大丈夫と言ってしまった。


 本当は。


 大丈夫ではない。


 手紙を持つ指に。


 少しずつ力が入る。


 紙が歪みそうになり。


 私は慌てて手を緩めた。


『その報告を受けるたび、私は安心したと答えた』


 安心。


 その言葉を。


 何度も目で追った。


『お前が生きていると知り、食べ、眠り、働いていると知り、私は安心した』


 それだけ。


 書かれていることは。


 それだけだった。


 けれど。


 私は。


 次の行をすぐに読むことができなかった。


 父が。


 私の生死を気にしていた。


 食べているか。


 眠っているか。


 働いているか。


 それを知って。


 安心した。


 そんなことを。


 考える人だったのだろうか。


 私には。


 分からなかった。


 父の顔を思い浮かべる。


 厳しい目。


 深い皺。


 笑ったところを。


 ほとんど見たことがない。


 褒められた記憶も少ない。


 教師から。


 礼儀作法は申し分ないと報告されたとき。


 父は言った。


「当然だ」


 音楽会で。


 最後まで間違えず演奏したとき。


 父は言った。


「練習を続けなさい」


 舞踏会で。


 誰にも失礼なく振る舞えたとき。


 父は言った。


「油断するな」


 何をしても。


 足りないのだと思った。


 もっと。


 もっと。


 公爵令嬢らしくならなければ。


 父に認められない。


 私が青い髪であることを。


 父も恥じているのだと思っていた。


 けれど。


 安心した。


 たった四文字が。


 私の知っている父の形を。


 少しだけ崩した。


「泣いてる?」


 女の子が言った。


 私は。


 自分の頬へ触れた。


 濡れていた。


「どうしてでしょう」


「悲しい手紙?」


「まだ、分かりません」


「嬉しい?」


「それも……分かりません」


「変なの」


「はい」


 本当に。


 変だった。


 嬉しい。


 悲しい。


 怖い。


 腹立たしい。


 そのどれもが。


 同じ場所にある。


 父が心配していたことを。


 喜べばよいのか。


 ならば。


 なぜ。


 あの屋敷にいた頃。


 一度も言ってくれなかったのか。


 どうして。


 森へ逃げるまで。


 私が苦しんでいると気づかなかったのか。


 どうして。


 私がいなくなったあとで。


 生きていることを喜ぶのか。


 遅い。


 そう思う。


 あまりにも。


 遅い。


 けれど。


 遅くても。


 言葉が届いたことに。


 安堵している自分もいた。


 私は。


 袖で涙を拭う。


 今度は。


 泥のついていない内側を使った。


 そして。


 続きを読む。


『だが、安心したと答えるだけで、私は一度もお前へ手紙を書かなかった』


 父自身も。


 それを分かっていた。


『何を書けばよいか分からなかった』


 私は。


 呼吸を止めた。


『戻れと命じることはできた。公爵家の娘としての責務を説き、王都へ連れ戻すこともできた。だが、それをすれば、お前は再び何も言わずに従うだろうと考えた』


 何も言わずに。


 従う。


 父の中の私は。


 やはり。


 そういう娘だった。


 正しい。


 私は。


 言われれば戻っただろう。


 公爵家へ戻れ。


 王都へ来い。


 責務を果たせ。


 そう命じられれば。


 嫌だと思っても。


 泣きたくても。


 従った。


 父は。


 それを知っていた。


 なら。


 どうして。


 いままで。


 止めてくれなかったのか。


 縁談が。


 次々に持ち込まれたとき。


 私が誰の名も選べず。


 誰の顔も見られず。


 ただ震えていたとき。


 父は。


「公爵家のために選べ」と言った。


 私が。


 何も言わずに従う人間だと。


 知っていたのに。


 それでも。


 命じた。


 怒りが。


 胸の底から湧いた。


 熱いのに。


 身体は冷える。


 紙を持つ手が。


 また震える。


「おねえちゃん」


「はい」


「怒ってる?」


「……少し」


「手紙の人に?」


「はい」


「嫌い?」


 その問いに。


 私はすぐ答えられなかった。


 父を。


 嫌っているのだろうか。


 怖かった。


 苦しかった。


 会いたくないと思った。


 けれど。


 嫌いと。


 言い切ることはできない。


「分かりません」


「分からないの、多いね」


「はい」


「手紙って難しいね」


「とても」


 女の子は。


 机の端に置いた赤い木の実を。


 指で少し転がした。


「わたし、お父さんに怒るよ」


「そうなのですか」


「うん。お菓子を一人で食べたとき」


「お父様がですか」


「うん」


「それは、怒ってもよいと思います」


「でも嫌いじゃない」


「……はい」


「怒っても、嫌いじゃなくていいよ」


 私は。


 女の子を見る。


 その言葉は。


 誰かから教わったものではないのだろう。


 子どもにとって。


 当たり前のこと。


 怒ることと。


 嫌うことは。


 同じではない。


 公爵家では。


 怒りを表へ出してはいけないと教えられた。


 不満を口にするのは。


 品がない。


 感情を露わにするのは。


 未熟。


 だから私は。


 誰かへ怒ることができなかった。


 怒れば。


 その人を嫌っていることになると思っていた。


 嫌えば。


 自分が悪い人間になる。


 だから。


 すべて自分が悪いことにした。


「そうですね」


 私は。


 ゆっくり頷く。


「怒っても、嫌いにならなくてよいのですね」


「うん」


「嫌いになっても」


 そこで。


 私は少し考える。


「それでも、よいのかもしれません」


 女の子は首を傾げた。


 難しかったらしい。


 私は手紙へ戻る。


『私は、お前が従うことに甘えていた』


 その行は。


 他の文字より。


 少しだけ墨が濃かった。


 筆を止め。


 書き直したような跡がある。


『父としてではなく、公爵としてお前を扱った。お前の将来を考えているつもりで、お前の望みを聞かなかった』


 望み。


 私の望み。


 何だったのだろう。


 あの頃の私は。


 自分が何を望んでいるのか。


 分からなかった。


 友達がほしい。


 誰かと笑いたい。


 髪を怖がられたくない。


 好きな人と。


 好きな話をしたい。


 嫌なことを。


 嫌だと言いたい。


 それは。


 望みと呼んでよかったのだろうか。


 公爵家の役に立つ。


 立派な相手へ嫁ぐ。


 次代へ血を繋ぐ。


 領地と王国のために生きる。


 大きな望みばかりを。


 周りから与えられていた。


 私自身の。


 小さな望みは。


 口にする価値もないと思っていた。


『謝罪すれば許されるとは思っていない』


 私は。


 一度。


 指で文字をなぞった。


『それでも、謝らなければならない』


 続く行。


『すまなかった』


 短い。


 ただ。


 それだけ。


 私は。


 長い時間。


 その言葉を見つめた。


 許せるのか。


 分からない。


 許したいのかも。


 分からない。


 いま。


 謝られて。


 どうすればよいのか。


 分からない。


 怒りが消えるわけではない。


 苦しかった時間が。


 なくなるわけでもない。


 けれど。


 父が。


 謝ることのできない人ではなかった。


 その事実に。


 私の中の何かが。


 わずかにほどける。


 大きくではない。


 ほんの少し。


 固く結ばれた紐の。


 端が見えたような。


 そんな感覚。


『国王陛下からの召喚について、私から拒むことはできない』


 身体へ。


 また緊張が戻る。


『だが、王都へ戻ったあと、公爵家へ帰るかどうかは、お前が決めてよい』


 私は。


 息を止めた。


 もう一度読む。


『公爵家へ帰るかどうかは、お前が決めてよい』


 読み間違いではない。


 戻れとは。


 書いていない。


『屋敷へ戻らず、この森へ帰ることを望むなら、その意志を私は妨げない』


 視界が。


 滲んだ。


 文字が揺れる。


「……帰って、よいのですか」


 声が。


 勝手に漏れた。


「どこに?」


 女の子が聞く。


「ここへ」


「ここ、おねえちゃんのお家でしょ」


「はい」


「じゃあ帰ってくるよ」


 女の子は。


 当然のように言った。


「お家だから」


 お家。


 その言葉に。


 涙が。


 一つ。


 手紙の上へ落ちた。


 今度は。


 拭かなかった。


 紙へ染みが広がる。


 父の文字のそばへ。


 私の涙の跡が残る。


『王都へ来るかどうかも、最後はお前が決めるべきだと私は考えている。しかし、今回の召喚には、お前自身が知らなければならない理由がある』


 父の手紙は。


 そこで。


 少し内容を変えた。


『お前が森へ移ったあと、王都では、スプリング公爵家の後継とお前の婚姻を巡り、複数の家が王家へ働きかけを行った』


 胸が。


 また冷えた。


 森へ来れば。


 縁談から離れられると思っていた。


 けれど。


 私は。


 公爵家の一人娘。


 私がどこに住んでいても。


 その立場は。


 消えない。


『お前が王都を離れたのは、一時的な療養であり、いずれ婚姻のため戻るものだと主張する者がいる』


 療養。


 私は。


 病気ではない。


 青い髪も。


 青い瞳も。


 病ではない。


 けれど。


 王都の人々にとって。


 森で畑を耕す公爵令嬢は。


 正常ではないのだろう。


『また、お前には公爵家を継ぐ意思がないとして、遠縁の者を養子に迎えるべきだと主張する者もいる』


 私は。


 紙を持つ指へ力を入れた。


 家を継ぎたいのか。


 継ぎたくないのか。


 考えたことがない。


 考える機会すら。


 与えられなかった。


 父の後は。


 私が公爵家を継ぐ。


 あるいは。


 私の夫が家を支える。


 そう決まっているものだと思っていた。


 けれど。


 私が森へ来たことで。


 空いた席を。


 誰かが欲しがっている。


『陛下は、本人の意志を確認せずに決めることを認められなかった』


 国王陛下。


 私は。


 王宮の夜会で。


 何度か遠くから拝見したことがある。


 言葉を交わしたのは。


 幼い頃。


 一度だけ。


「珍しい髪だ」


 そう言われた。


 怖かった。


 また。


 化け物と言われるのだと思った。


 けれど。


 陛下は。


「空の色を持つ者は、空の広さを知るのだろうか」


 そう続けた。


 意味は。


 分からなかった。


 いまも。


 分からない。


 けれど。


 侮蔑ではなかったことだけは。


 覚えている。


『今回の召喚は、お前を王都へ連れ戻すためのものではない』


 手紙のその一文を。


 私は。


 何度も読んだ。


『お前自身の口から、今後の望みを陛下へ伝えるためのものだ』


 望み。


 また。


 その言葉。


『フローラ。私は、お前へ答えを用意しない』


 父らしくない言葉だった。


 父は。


 いつも答えを持っていた。


 何を着るか。


 誰と話すか。


 どこへ行くか。


 誰と結婚するか。


 どう生きるか。


 すべて。


 公爵家にとって正しい答えがあると。


 信じていた。


『公爵家を継ぎたいのか。継ぎたくないのか。森で暮らしたいのか。王都へ戻りたいのか。婚姻を望むのか。望まないのか』


 一つずつ。


 問いが並んでいる。


 どれも。


 私は。


 自分へ問いかけたことがなかった。


『分からないのであれば、分からないと答えてよい』


 胸の中で。


 何かが止まった。


 分からないと。


 答えてよい。


 それは。


 私が。


 一番言ってはいけないと思っていた言葉だった。


 公爵令嬢は。


 いつも答えを持たなければならない。


 質問されれば。


 正しく返す。


 迷えば。


 浅学と思われる。


 黙れば。


 無能と思われる。


 だから。


 分からなくても。


 何かを答えた。


 周囲が望むものを。


 選んだ。


『ただし、お前の人生について、他の誰かが勝手に答えることを許してはならない』


 最後の行。


『父として命じられることが、もし一つだけ残っているなら、自分の言葉で話しなさい』


 その下に。


 父の名。


 スプリング公爵としての署名ではない。


 父の。


 個人の名だけが書かれていた。


 手紙は。


 そこで終わっていた。


 私は。


 しばらく動けなかった。


 窓の外から。


 風が入る。


 机の端に置いた白い花が。


 微かに揺れた。


 外で。


 誰かが咳をする。


 子どもが。


 小さな声で何かを尋ね。


 大人が静かに答えている。


 村人たちは。


 まだ。


 待っている。


「終わった?」


 女の子が聞いた。


「はい」


「帰ってこられる?」


 私は。


 すぐには答えなかった。


 手紙には。


 帰ってよいと書かれていた。


 けれど。


 それは。


 王都へ行くと決めた場合。


 戻ってこられる。


 という意味。


 行かなければ。


 国王へ。


 自分の言葉を伝えることはできない。


「帰ってくるために」


 私は。


 ゆっくり言った。


「一度、遠くへ行かなくてはならないかもしれません」


「どのくらい?」


「分かりません」


「明日帰る?」


「明日は、難しいです」


「三回寝たら?」


「もっとかかるかもしれません」


「いっぱい?」


「……はい」


 女の子の顔が。


 少しずつ曇る。


 その表情を見て。


 胸が痛んだ。


 森へ来る前。


 私がいなくなって。


 悲しむ人などいないと思っていた。


 だから。


 何も告げずに出た。


 誰かの涙を。


 想像しなかった。


 けれど。


 いまは。


 私がいなくなるかもしれないと聞いて。


 悲しむ人がいる。


 それは。


 嬉しいことのはずなのに。


 苦しかった。


「行かないで」


 女の子は。


 小さな声で言った。


 私は。


 答えられなかった。


「ここにいればいいよ」


「はい」


「畑もあるよ」


「はい」


「木の実、埋めるんでしょ」


「はい」


「じゃあ、行かなくていい」


 子どもの言葉は。


 私が心の中で。


 何度も繰り返していた言葉だった。


 行かなくてよい。


 ここにいればよい。


 王都のことなど。


 知らないふりをすればよい。


 公爵家も。


 縁談も。


 後継も。


 すべて。


 森の外の話。


 私は。


 ただ畑を耕す。


 それでは。


 いけないのだろうか。


「……行きたくありません」


 私は。


 初めて。


 はっきり言った。


「私も、ここにいたいです」


「じゃあ」


「でも」


 言葉を。


 続ける。


「行きたくないから行かないと決めたら、きっと、また誰かが私の代わりに決めてしまいます」


 女の子には。


 難しい言葉だっただろう。


 首を傾げている。


「私が何も言わなければ、王都の人たちは、私がどうしたいのかを勝手に決めます」


「嫌って言えばいいよ」


「はい」


「おねえちゃん、嫌って言える?」


 問いかけられ。


 私は黙った。


 言えるのだろうか。


 国王の前で。


 父の前で。


 貴族たちの前で。


 私は。


 嫌だと。


 言えるのだろうか。


 いままで。


 一度も言えなかった。


 けれど。


 森では。


 少しずつ。


 言えるようになった。


 手伝ってください。


 お願いします。


 迷惑ではありません。


 怖いです。


 戻りたくありません。


 ここにいたいです。


 それらは。


 公爵家にいた頃の私なら。


 口にできなかった言葉。


「言えるようになりたいです」


 私は答えた。


「では、行くの?」


「まだ」


 机の左に置かれた。


 王家の封書を見る。


「もう一通、あります」


 赤い封蝋。


 国王陛下からの召喚状。


 父の手紙を読んでも。


 まだ。


 すべてが決まったわけではない。


 私は。


 小刀を持つ。


 赤い封蝋へ刃を当てた。


 先ほどより。


 手の震えは小さかった。


 ぱきり。


 王冠と翼の紋章が割れる。


 封書を開く。


 中には。


 一枚の正式な書状。


 その下に。


 もう一枚。


 小さな紙が入っていた。


 正式な召喚状には。


 決められた言葉が並んでいた。


 王命により。


 スプリング公爵令嬢フローラへ。


 王都への出頭を命じる。


 期限。


 護衛。


 滞在場所。


 道中の安全は王家が保証すること。


 召喚の目的は。


 本人の意志確認と。


 スプリング公爵家継承に関する審議。


 想像していたより。


 冷たい文章だった。


 けれど。


 最後の部分に。


 目が留まった。


『なお、本召喚は、フローラ・フォン・スプリングの居住地を王都へ定めるものではない』


 父の手紙と。


 同じ。


 王都へ行っても。


 森へ戻れる。


 少なくとも。


 書面の上では。


 そう認められている。


 その下。


 小さな紙を開く。


 正式な書状とは違い。


 乱れた筆跡だった。


『以前、空の色を持つ者は空の広さを知るのだろうかと、そなたへ尋ねたことがある』


 国王陛下。


 あの日の言葉を。


 覚えていた。


『いま思えば、幼い子どもへ答えられるはずもない問いであった』


 私は。


 少しだけ。


 息を漏らした。


 笑ったのか。


 驚いたのか。


 自分でも分からない。


『今度は、もっと簡単なことを聞きたい』


 次の行。


『そなたは、どこで、どのように生きたいのか』


 簡単ではない。


 父の問いより。


 さらに難しい。


『答えが決まっていないなら、決まっていないまま来るとよい』


 また。


 分からなくてよいと。


 書かれている。


『ただ、他人が語るそなたの望みではなく、そなた自身の声を聞きたい』


 紙の最後に。


 王の名。


 正式な署名ではなく。


 幼い子どもへ宛てるような。


 短い名だけ。


 私は。


 二通の手紙を。


 机へ並べた。


 父。


 国王。


 二人とも。


 私へ答えを求めている。


 けれど。


 以前とは違う。


 公爵家に正しい答えを。


 王国に都合のよい答えを。


 選べと言っているのではない。


 私の答え。


 私の言葉。


 それを。


 求めている。


 怖い。


 それでも。


 少しだけ。


 逃げずに考えたいと思った。


「おねえちゃん」


「はい」


「もう読んだ?」


「はい」


「どうする?」


「……皆さんへ、話します」


 答えは。


 まだ出ていない。


 けれど。


 一人で。


 抱え込まない。


 それだけは。


 決めることができた。


     ◇


 小屋の扉を開けると。


 外の光が。


 思っていたより強かった。


 雲の隙間から。


 陽が差している。


 森の葉が。


 雨上がりの水分を残したまま光っていた。


 村人たちは。


 誰も作業へ戻っていなかった。


 木陰。


 柵のそば。


 道具を置いた場所。


 それぞれに立ち。


 こちらを見ている。


 私が出てきた瞬間。


 何人かが。


 口を開きかけた。


 けれど。


 村長が片手を上げる。


 誰も。


 先に尋ねなかった。


 私は。


 二通の手紙を胸へ抱え。


 皆の前へ歩く。


 女の子は。


 私の横を歩いていた。


 離れず。


 けれど。


 裾は掴んでいない。


 私は。


 自分の足で。


 村人たちの前に立った。


「お待たせしました」


「構いません」


 村長が答える。


「お読みになりましたか」


「はい」


「王都へ」


 そこで。


 村長は言葉を止めた。


 戻れと。


 書かれていたのか。


 そう聞きたかったのだろう。


「王都へ来るように、と」


 私が言うと。


 空気が沈んだ。


 子どもたちの間から。


 小さな息遣いが聞こえる。


 女性の一人が。


 口元へ手を当てた。


 男たちは。


 互いに顔を見合わせる。


「いつです」


 村長が聞く。


「七日以内に、ここを発つようにと」


「七日」


 誰かが。


 繰り返した。


 短い。


 その響きだけで。


 皆が。


 同じことを思ったのだと分かった。


「戻らなければならないのですか」


 鍋を持ってきた女性が。


 低い声で尋ねた。


「王都へは、行かなければなりません」


「ここへは」


 女性は。


 その先を。


 うまく言えなかった。


「戻ることを、許されています」


 私は答えた。


 皆の顔が。


 僅かに動く。


「許されている?」


「はい」


「では」


「ですが」


 私は。


 手紙を握る。


「戻るかどうかを決めるために、王都へ行くのではありません」


 自分で。


 口にしながら。


 少しずつ。


 考えが形になる。


「王都へ行けば、ここへ戻ってよいと書かれています」


「なら、戻ってくればいい」


 男の一人が。


 すぐに言った。


「行って、話をして、それで戻ってくる。そういうことでしょう」


「たぶん」


「たぶん?」


「王都では、私の家のことを決める話し合いがあります」


 皆が黙る。


「私が公爵家を継ぐのか。継がないのか。誰かと婚姻をするのか。しないのか。森で暮らし続けるのか」


 言葉にすると。


 すべてが。


 大きく感じる。


 一人で決められることではないように。


 けれど。


 決めなければ。


 誰かが決める。


「私は」


 声が。


 少し震えた。


「まだ、何を選びたいのか分かりません」


 村人たちの前で。


 分からないと。


 言う。


 恥ずかしかった。


 情けないと思われるかもしれない。


 何も考えていないと。


 失望されるかもしれない。


 けれど。


 父の手紙には。


 分からないと答えてよいと書かれていた。


 私は。


 それを信じてみたかった。


「公爵家を継ぎたいのかも、分かりません」


 誰も。


 口を挟まない。


「婚姻は……」


 胸の奥が。


 固くなる。


 数え切れない縁談。


 私自身ではなく。


 髪と。


 血筋と。


 公爵家だけを見ていた人々。


「いまは、望んでいません」


 これは。


 分かった。


 誰かと。


 結婚することそのものが嫌なのか。


 まだ分からない。


 けれど。


 いま。


 王都の誰かと。


 家のために結ばれることは。


 望んでいない。


「森では」


 私は。


 広げかけの畑を見る。


「ここでは、暮らしたいです」


 言葉が。


 先ほどより強くなる。


「畑を耕したいです。薬草を育てたいです。皆さんと」


 一度。


 息が詰まる。


「皆さんと、一緒に暮らしたいです」


 村人たちの顔を。


 一人ずつ見る。


 村長。


 鍋を持ってきた女性。


 柱を打ってくれた男たち。


 髪を編んでくれた人。


 子どもたち。


 目が合う。


 誰も。


 逸らさない。


「なら、それを言いに行けばいい」


 最初に声を出したのは。


 古い板を担いできた男だった。


「王都へ」


「ですが」


「森で暮らしたいって言えばいい」


「それだけで、認められるかは」


「認めさせるために、呼ばれたんじゃないのか」


 別の男が言う。


「黙ってたら、勝手に決められる。だから、本人の口から聞くんだろう」


「はい」


「なら、話すしかない」


「簡単に言うねえ」


 女性が。


 男を睨んだ。


「王様の前だよ。あんたなら立っていられるのかい」


「俺は呼ばれてない」


「呼ばれたらどうする」


「逃げる」


「フローラ様に逃げるなって言った口で?」


「俺とフローラ様は違うだろ」


「どう違うのさ」


「俺は王様に会う理由がない」


「怖いだけじゃないか」


「怖くないとは言ってない」


 いつものような言い合い。


 けれど。


 笑う人はいなかった。


 男は。


 少しだけ肩を落とし。


 私を見る。


「怖いでしょう」


「はい」


「俺なら逃げます」


「はい」


「でも」


 男は。


 広げかけの畑を見る。


「ここに戻りたいなら、行かなきゃならないんでしょう」


 私は。


 答えられなかった。


 それは。


 自分でも分かっていた。


 ここにいたい。


 だから。


 ここから出る。


 矛盾している。


 けれど。


 何も言わず。


 森へ隠れ続ければ。


 いつか。


 もっと大きな力が。


 ここまで来る。


 王都の人々が。


 私の意志を知らないまま。


 私の未来を決める。


 公爵家を継がないと決められるかもしれない。


 勝手に婚姻を結ばれるかもしれない。


 森での暮らしを。


 一時的な気まぐれとして終わらせられるかもしれない。


 逃げ続けることは。


 自由ではない。


 追いつかれるまで。


 怯え続けること。


「フローラ様」


 村長が。


 静かに呼ぶ。


「行くと、お決めになったのですか」


「……まだ」


 一度。


 目を閉じる。


 怖い。


 王都の門。


 広い道。


 人々の視線。


 囁き。


 青い姫君。


 化け物。


 縁談。


 公爵令嬢。


 森へ逃げた娘。


 何を言われるか。


 想像できる。


 父へ会う。


 謝罪の言葉を。


 直接聞くかもしれない。


 何も言われないかもしれない。


 怒りが。


 また湧くかもしれない。


 許せないかもしれない。


 それでも。


 私は。


 目を開く。


「行きます」


 声は。


 大きくなかった。


 けれど。


 はっきり聞こえた。


「王都へ、行きます」


 胸が。


 激しく鳴る。


 言った。


 決めた。


「帰るためではありません」


 皆の顔を見る。


「公爵家へ帰るためではなく」


 広げかけの畑。


 立てたばかりの柱。


 髪に挿された。


 落ちた黄色い花。


「ここへ戻ってくるために、王都へ行きます」


 沈黙。


 長い。


 誰も。


 すぐに声を出さない。


 私の言葉が。


 森の中へ。


 少しずつ染み込んでいく。


「戻ってくるんだね」


 最初に言ったのは。


 鍋を持ってきた女性だった。


「はい」


 私は頷く。


「必ずとは」


「必ずって言いな」


 女性は。


 少し強い声で言った。


 責めるようではない。


 私が逃げられないように。


 言葉を支えるように。


「戻りたいなら、必ず戻るって言うんだよ」


「ですが」


「約束が怖いかい」


「……はい」


「守れなかったら、って考えてる?」


「はい」


「なら、守るために皆で手伝う」


 女性は。


 当たり前のように言った。


「約束ってのは、一人で背負うものじゃないよ」


 私は。


 目を見開いた。


「一人で背負わなくてよいのですか」


「全部一人でやるなって、さっき言っただろう」


 柱を押さえていたとき。


 言われた言葉。


 一度に一つ。


 全部やろうとしない。


 畑だけではない。


 約束も。


 決断も。


 怖さも。


 一人で抱えなくてよい。


「フローラ様」


 村長が。


 一歩前へ出る。


「こちらのことは、お任せください」


「こちら」


「畑です」


 私は。


 畑を見る。


 まだ。


 柵は半分しか広がっていない。


「ですが、私がいなければ」


「柵は完成させます」


「種は」


「蒔く時期を教えてください」


「水やりは」


「皆で交代します」


「薬草は、触り方を間違えると」


「出発までに教えてください」


「森の獣が」


「柵を丈夫にします」


「もし病気が出たら」


「そのときは、王都へ知らせを送ります」


 私が。


 心配を一つ口にするたび。


 村長は。


 答える。


 先ほど。


 柵を広げるときと同じ。


 私が断る理由を探すたび。


 皆が。


 その理由を受け取る。


「畑を」


 声が震える。


「守ってくださるのですか」


「もちろんです」


「私の畑です」


「知っています」


「皆さんのものでは」


「知っています」


 村長は。


 少しだけ笑った。


「フローラ様のものだから、守るのです」


 私がいない間。


 私のものを。


 誰かが守ってくれる。


 奪うためではなく。


 勝手に使うためでもなく。


 私が戻ったとき。


 また続けられるように。


「おねえちゃん」


 隣にいた女の子が。


 私の手を握った。


「木の実、埋めよう」


「いまですか」


「うん」


「ですが、まだ柵が」


「帰ってくる目印」


「目印?」


「芽が出たら、おねえちゃん帰ってくる」


 子どもたちが。


 その言葉へ反応した。


「じゃあ、早く埋めよう!」


「今日埋めたら、明日芽が出る?」


「出ないよ」


「いつ?」


「いっぱい寝たら」


「いっぱいって何回?」


「百回」


「そんなに待てない!」


「じゃあ十回!」


「勝手に早くするな」


 少しずつ。


 声が戻る。


 重かった空気が。


 子どもたちの言葉で。


 ゆっくり動き始める。


「埋めても」


 私は。


 赤い実を見る。


「芽が出るかは分かりません」


「出なかったら?」


「別の種を植えます」


「それも出なかったら?」


「また、別の種を」


「ずっと?」


「芽が出るまで」


 答えながら。


 気づく。


 失敗しても。


 終わりではない。


 芽が出なければ。


 別の種を蒔く。


 倒れたら。


 柱を立て直す。


 曲がったら。


 縄を張り直す。


 王都で。


 うまく話せなくても。


 一度で。


 すべてを決められなくても。


 終わりではないのかもしれない。


「では」


 私は。


 女の子の手を握り返した。


「埋めましょう」


     ◇


 赤い木の実を埋める場所は。


 新しく広げる畑の。


 最も外側に決まった。


 食べられるものか。


 どのような木になるのか。


 誰も知らない。


 けれど。


「畑の真ん中に生えたら邪魔だ」


 という現実的な理由で。


 端になった。


 子どもたちは。


 少し不満そうだった。


「目印なら真ん中がいい」


「木になったら畑が日陰になるだろう」


「大きくならないかも」


「大きくなったら困る」


「切ればいい」


「目印を切るな」


「じゃあ端でいい」


 簡単に納得した。


 私は。


 小さな移植ごてを持つ。


 土へ差し込む。


 柔らかい。


 朝の雨を吸った土。


 一度。


 二度。


 穴を掘る。


 深すぎず。


 浅すぎず。


「このくらいでしょうか」


「もっと深く!」


 男の子が言う。


「深いと芽が出にくいです」


「獣に食べられる!」


「赤い実を食べる獣なら、毒ではないかもしれません」


「毒じゃないの?」


「分かりません」


「分からないのに埋めるの?」


「分からないからです」


 男の子は。


 難しそうに眉を寄せた。


「大人って変」


「私も、そう思います」


 周りから笑いが起きる。


 私は。


 女の子から赤い実を受け取った。


 小さな傷がある。


 森の入り口へ落ちていた実。


 誰にも拾われなければ。


 踏まれていたかもしれない。


 獣に食べられたかもしれない。


 腐っていたかもしれない。


 それを。


 子どもたちが拾い。


 私のところへ持ってきた。


 食べられないと知っても。


 捨てなかった。


「入れますね」


「うん」


 穴の中へ。


 実を置く。


 土を。


 優しく戻す。


 手のひらで。


 軽く押さえる。


「これで終わり?」


「水をあげます」


「いっぱい?」


「少しです」


「いっぱいあげたほうが早く大きくなるよ」


「根が腐ります」


「まだ根ないよ」


「そうですね」


 言われて。


 少し困る。


 村人たちが笑った。


「フローラ様、負けてるぞ」


「負けてはいません」


「何の勝負だよ」


 水桶から。


 小さな柄杓で水を汲む。


 土へ。


 ゆっくり注ぐ。


 乾いた部分が。


 色を変える。


 水は。


 すぐに染み込んだ。


「芽が出ますように」


 女の子が。


 両手を合わせる。


 他の子どもたちも。


 真似をした。


「早く出ますように」


「大きくなりますように」


「食べられますように」


「毒じゃありませんように」


「おねえちゃんが帰ってきますように」


 最後の言葉で。


 皆が静かになった。


 私は。


 土の上へ置いた手を。


 動かせなかった。


「……帰ってきます」


 小さく言う。


 けれど。


 女性の言葉を思い出す。


 必ずと言いな。


 約束を。


 一人で背負わない。


 私は立ち上がる。


 膝についた土を。


 払わないまま。


 皆を見る。


「必ず、帰ってきます」


 声が。


 森へ広がる。


「王都へ行きます。でも、公爵家へ戻るためではありません」


 父の手紙を。


 胸へ抱く。


「私が、ここで暮らしたいと伝えるために行きます」


 国王の手紙も。


 一緒に。


「公爵家をどうするのか。まだ分かりません。すぐに答えられないかもしれません」


 分からない。


 それでも。


 言う。


「ですが、分からないことも、自分の口で伝えます」


 村長が。


 深く頷く。


「婚姻を望んでいないことも」


 胸が痛む。


 けれど。


 逃げない。


「私の住む場所を、私以外の誰かに決めてほしくないことも」


 言葉が。


 一つずつ。


 自分の中から出てくる。


「そして」


 畑を見る。


 小屋を見る。


 村人たちを見る。


「ここが、私の家だと」


 言った瞬間。


 涙が溢れた。


 声が。


 少し崩れる。


「ここへ、帰りたいと」


 私は。


 泣きながら。


 それでも。


 最後まで言った。


「伝えてきます」


 誰も。


 すぐには話さなかった。


 ただ。


 風が吹く。


 髪へ挿された黄色い花が。


 揺れる。


 村長が。


 ゆっくりと頭を下げた。


「いってらっしゃいませ」


 その言葉に。


 私は目を見開く。


 まだ。


 出発は七日後。


 準備も。


 何もしていない。


 けれど。


 村長は。


 もう。


 私が帰ってくることを。


 前提にした言葉をくれた。


 さようならではない。


 お別れでもない。


 いってらっしゃい。


 戻ってくる人へ。


 かける言葉。


「畑は、我々が守ります」


 村長の隣で。


 女性も頷く。


「小屋もね。埃だらけにはしないよ」


「勝手に入るのですか」


「掃除するときだけだよ」


「窓辺の花は」


「水を替える」


「畑の道具は」


「錆びないように片づける」


「薬草は」


「それは出発までに習う」


「鶏は」


「まだ飼ってないだろう」


「帰ってきたら飼おう!」


 子どもが叫ぶ。


「勝手に決めないでください」


「嫌?」


「……少し、考えます」


「やった!」


「まだ決めていません」


「考えるって言った!」


「飼うとは」


「名前つけよう!」


「何羽いるの?」


「いません」


 泣いているのに。


 笑ってしまった。


 涙を拭う。


 皆も。


 笑っている。


 寂しくないわけではない。


 怖くないわけでもない。


 けれど。


 行くことが。


 終わりではない。


 戻るための。


 途中。


 そう思うことができた。


「さて」


 古い板を持ってきた男が。


 地面に置いていた木槌を拾った。


「手紙も読んだ。実も埋めた」


 新しい柱の方へ歩く。


「日が暮れる前に、柵を完成させるぞ」


「今日中に?」


「七日後に出るんだろう。フローラ様に全部見てもらってから送り出す」


「まだ半分あるよ」


「人数がいる」


「休憩長かったけどねえ」


「誰のスープを食べてたと思ってる」


「塩のないスープ」


「まだ言うか」


 声が。


 また重なる。


 木槌の音。


 板を運ぶ足音。


 縄を張る声。


 子どもたちは。


 植えた実の周りへ。


 踏まれないよう小石を並べ始める。


 私は。


 その場に立ったまま。


 皆の動きを見つめた。


「フローラ様」


 村長が。


 私へ軍手代わりの布を差し出す。


「続きを」


「はい」


 私は。


 二通の手紙を。


 小屋の中へ戻す。


 机の上。


 白い花のそばへ置いた。


 父からの手紙。


 国王からの手紙。


 もう。


 先ほどほど。


 恐ろしいものには見えなかった。


 答えを奪う手紙ではない。


 答えを。


 自分で持てと。


 言う手紙。


 私は小屋を出る。


 袖を折り。


 布を手へ巻く。


 新しい柱を。


 両手で支える。


「ここでよいですか」


「少し右です」


「私の右ですか」


「はい、フローラ様の右です」


「このくらい?」


「もう少し」


「行き過ぎですか」


「今度はちょうどいい」


 木槌が。


 振り下ろされる。


 ごん。


 振動が。


 腕へ伝わる。


 ごん。


 柱が。


 土へ沈む。


 ごん。


 少しずつ。


 根を張るように。


 立っていく。


 私は。


 柱を支えながら。


 七日後のことを考えた。


 王都へ行く。


 あの場所へ。


 再び。


 青い髪を見られる。


 囁かれる。


 恐れられるかもしれない。


 笑われるかもしれない。


 責められるかもしれない。


 それでも。


 今度の私は。


 一人ではない。


 村人たちを。


 王都へ連れていくわけではない。


 けれど。


 私の中には。


 ここで受け取った言葉がある。


 全部やろうとしない。


 分からないと答えてよい。


 怒っても。


 嫌いでなくてよい。


 嫌なものは。


 嫌だと言ってよい。


 約束は。


 一人で背負わなくてよい。


 帰る場所は。


 誰かに与えられるだけではない。


 自分で。


 ここだと決めてよい。


「手を離していいですよ」


 言われ。


 私は。


 ゆっくり手を離した。


 柱は。


 まっすぐ立っていた。


「倒れませんね」


「倒れません」


「私がいなくても」


 男は。


 少しだけ考えた。


「倒れないように、皆で見ておきます」


 私は。


 柱へ。


 そっと触れる。


「お願いします」


「任せてください」


 短い。


 それだけのやり取り。


 けれど。


 胸の奥へ。


 深く残った。


     ◇


 日が傾く頃。


 畑の新しい柵は。


 ようやく形になった。


 完全ではない。


 板が足りず。


 一部は縄で仮留めされている。


 柱の高さも。


 少しずつ違う。


 真っ直ぐに張ったつもりの柵は。


 遠くから見ると。


 やはり。


 わずかに曲がっていた。


「曲がっています」


 私が言うと。


 皆が。


 同時に柵を見る。


「……少しな」


「朝よりはましだ」


「畑は四角じゃなくてもいい」


「最初に真っ直ぐにするって言ったのは誰だ」


「村長」


「私ではありません」


「またそれか」


 疲れた声で。


 笑いが起きる。


 私も。


 柵を見ながら笑った。


 曲がっている。


 完璧ではない。


 けれど。


 丈夫に立っている。


 誰か一人が作ったのではない。


 皆で。


 失敗し。


 直し。


 言い合い。


 笑いながら作った柵。


 私は。


 まっすぐすぎるものより。


 この少し曲がった柵が。


 好きだと思った。


「王都にも、こういう柵はありますか」


 男の子が聞いた。


「ありません」


「どうして?」


「王都では、畑を見たことがほとんどありません」


「食べ物どうするの?」


「市場で買います」


「市場で作るの?」


「違います。村や領地で作ったものを運びます」


「じゃあ王都の人、自分で作らないの?」


「作る人もいます」


「おねえちゃん、王都で畑やれば?」


 その発想に。


 大人たちが笑う。


 けれど。


 私は。


 少しだけ想像した。


 公爵家の庭。


 整えられた花壇。


 珍しい花。


 彫刻。


 噴水。


 その一角を。


 掘り返す。


 豆を植え。


 芋を育てる。


 父は。


 どのような顔をするだろう。


「怒られると思います」


「王様に?」


「父に」


「手紙の人?」


「はい」


「お菓子一人で食べた人?」


 女の子が聞く。


「違います」


「でも怒る?」


「たぶん」


「じゃあ、おねえちゃんも怒ればいい」


「畑を作れないことに?」


「うん」


 私は。


 笑った。


「考えておきます」


「作るんだ!」


「考えるだけです」


 空が。


 夕暮れの色へ変わっていく。


 森の向こう。


 薄い橙。


 高い場所には。


 まだ青が残っている。


 私の髪と。


 同じような青。


 けれど。


 空は。


 誰にも恐れられない。


 広く。


 遠く。


 どこまでも続いている。


 王都の上にも。


 この森と同じ空がある。


 私は。


 以前。


 王都から。


 逃げた。


 追われるように。


 何も言わず。


 誰にも告げず。


 ただ。


 離れた。


 今度は。


 違う。


 自分で行く。


 帰るためではない。


 戻るために。


 ここが。


 自分の家だと。


 伝えるために。


「フローラ様」


 村長が。


 私の隣へ立った。


「明日から、旅の支度を始めましょう」


「はい」


「王都までは、使者の馬車で?」


「書状には、王家が用意すると」


「護衛も?」


「はい」


「村からも、一人」


「必要ありません」


「必要です」


 すぐに返された。


「ですが」


「王都で何かをするわけではありません。道中のお世話です」


「使者が」


「王都の使者は、フローラ様の暮らしを知りません」


「それは」


「食事の量も。眠れない夜に、温かい湯を飲むことも。雨の前には頭が痛むことも」


 私は。


 驚いて村長を見る。


「なぜ、それを」


「村の者は知っています」


「皆が?」


「はい」


 また。


 皆。


 けれど。


 今度は。


 怖くなかった。


 顔のある。


 皆。


「誰が行くかは、今夜話し合います」


「仕事があります」


「交代で補います」


「家族も」


「本人と家族が納得した者を選びます」


「私は一人でも」


「全部一人でやらない」


 村長は。


 珍しく。


 少し強い口調で言った。


「今日、教わったばかりでしょう」


「……はい」


「王都へ行けば、森より人が多い。フローラ様を知っている者ばかりではありません」


「はい」


「一人でも、こちらの者がそばにいたほうがよい」


 私は。


 断る言葉を探した。


 けれど。


 それは。


 以前と同じ。


 好意を拒むための理由探し。


 本当は。


 一人で行くことが怖い。


 王家の護衛がいても。


 知らない人ばかりの中へ。


 一人で戻ることが。


 怖い。


「……お願いします」


 私は。


 素直に言った。


「誰か、一緒に来てください」


 村長は。


 ゆっくり頷いた。


「承知しました」


 お願いする。


 頼る。


 助けてと。


 言う。


 それだけのことが。


 少しずつ。


 できるようになっている。


「おねえちゃん!」


 子どもたちが。


 新しい柵の向こうから呼ぶ。


「こっち来て!」


「どうしましたか」


「見て!」


 私は。


 村長と一緒に。


 植えた赤い実の場所へ向かう。


 土の周りに。


 小石が円の形へ並べられていた。


 白。


 灰色。


 茶色。


 大きさも。


 形もばらばら。


 その中に。


 一つだけ。


 青みがかった石がある。


「これ、おねえちゃんの石」


 女の子が。


 青い石を指す。


「私の?」


「うん。青いから」


「では、他の石は?」


「みんな」


 男の子が言った。


「どれが誰かは決めてないけど、みんな」


 円になった石。


 中央には。


 埋めた実。


「これなら踏まれない」


「そうですね」


「おねえちゃん帰ってくるまで、守る」


「お願いします」


「芽が出たら、手紙書く!」


「字を書けるのですか」


「村長が書く」


「私ですか」


「だって書けるでしょ」


「書けますが」


「じゃあ決まり!」


 村長は。


 困ったように笑った。


「芽が出たら、お知らせします」


「はい」


「出なくても」


 私は。


 土を見つめる。


「戻ってきます」


「必ず?」


 女の子が聞く。


 私は。


 今度は迷わなかった。


「はい。必ず」


 夕暮れの風が。


 畑を通り抜ける。


 新しい柵が。


 わずかに鳴った。


 ぎしり。


 ぎしり。


 まだ。


 木が馴染んでいない音。


 それでも。


 倒れない。


 地面へ打ち込まれた柱が。


 空へ向かって立っている。


 私も。


 この柱のように。


 立てるだろうか。


 王都で。


 たくさんの人の前で。


 怖くても。


 震えても。


 自分の言葉を。


 口にできるだろうか。


 分からない。


 まだ。


 分からない。


 けれど。


 分からないまま。


 進んでよい。


 私は。


 ようやく。


 そう思えるようになった。


 髪へ手を伸ばす。


 朝。


 女の子が挿してくれた黄色い花。


 もう。


 少し萎れている。


 落ちた花。


 枝へ戻ることのできない花。


 それでも。


 今日一日。


 私の髪の中で咲いていた。


 私も。


 公爵家へ。


 以前と同じ形で戻ることはできない。


 戻りたいとも。


 思わない。


 けれど。


 王都へ行くことはできる。


 公爵令嬢として。


 誰かに決められた姿へ戻るのではなく。


 森で畑を耕し。


 子どもから花を受け取り。


 村人たちと曲がった柵を作った。


 いまの私として。


 あの場所へ。


 立つことはできる。


「明日から忙しくなりますね」


 私は言った。


「旅支度があります」


 村長が答える。


「畑のことも、教えなくては」


「全部一日で教えようとしないでください」


「はい」


「王都で話すことも、整理しましょう」


「はい」


「食事も取って」


「はい」


「夜は寝る」


「……はい」


「返事が遅いですよ」


「眠れるか分かりません」


「眠れなくても、横になる」


「分かりました」


 子どもたちが。


 私と村長のやり取りを聞いて笑う。


「村長、お母さんみたい」


「私は男です」


「お父さん?」


「そういう話ではありません」


「おじいちゃん?」


「まだ、そこまで年ではありません」


「髪、白いよ」


「これは昔からです」


「嘘だ」


「嘘ではありません」


 日が。


 森の向こうへ沈む。


 皆で。


 道具を片づける。


 残ったスープを。


 小屋へ運ぶ。


 板の切れ端をまとめ。


 明日使う縄へ。


 布をかける。


 作業を終えた人たちは。


 一人ずつ。


 村へ帰っていく。


「また明日」


「朝から来るよ」


「旅に持っていく食べ物、考えておく」


「王都の服、あるのかい?」


「……あります」


「入る?」


「どういう意味ですか」


「森に来てから、少し肉がついたでしょう」


 私は。


 自分の腰を見る。


「そうでしょうか」


「前が痩せすぎだったんだよ」


「直さないと着られないかもね」


「明日、持ってきな」


「お願いします」


 皆が。


 明日の話をする。


 私が。


 七日後にいなくなると分かっていても。


 その先。


 帰ってくる日の話まで。


 誰もが。


 当然のように続ける。


「畑は任せろ」


「薬草は枯らさないようにする」


「小屋の屋根も、出る前に見ておこう」


「鶏小屋作る?」


「まだ飼うと決めていません」


「帰ってきてから決めればいい」


「名前だけ考えよう」


「飼う前に名前を決めないでください」


 笑い声が。


 夕方の道へ続いていく。


 最後に。


 女の子が。


 私の前で立ち止まった。


「おねえちゃん」


「はい」


「お土産、いらないからね」


「そうなのですか」


「早く帰ってきて」


 胸が。


 ぎゅっと痛む。


 私は。


 しゃがみ。


 女の子と同じ高さになる。


「分かりました」


「ほんと?」


「はい」


「約束」


 小さな指が。


 一本。


 差し出される。


 私は。


 意味が分からず。


 その指を見る。


「指を出すの」


「どの指ですか」


「これ」


 女の子が。


 私の小指を取る。


 自分の小指へ絡めた。


「約束するとき、こうするの」


「そうなのですか」


「破ったら駄目だよ」


「破ったら」


「すごく怒る」


「怖いですね」


「泣くかも」


「それは、もっと困ります」


「じゃあ帰ってきて」


 私は。


 絡んだ小さな指へ。


 少しだけ力を入れた。


「必ず、帰ってきます」


 女の子は。


 満足そうに笑った。


「いってらっしゃい」


 まだ。


 出発していないのに。


 そう言って。


 村へ走っていく。


「走ると転びますよ」


「転ばない!」


 言った直後。


 道の石へつまずき。


 大きくよろめいた。


「転んでない!」


 両手を広げ。


 何とか踏みとどまり。


 そのまま走っていく。


 私は。


 小さく笑った。


 やがて。


 道から。


 人の姿が消える。


 森に。


 静けさが戻る。


 けれど。


 朝とは違う。


 地面には。


 大勢の足跡。


 畑の周りには。


 新しい柵。


 木陰には。


 食事をした跡。


 小屋の机には。


 二通の手紙。


 畑の端には。


 埋められた赤い実。


 誰もいなくなっても。


 皆がいたことは。


 消えない。


 私は。


 新しい柵の前に立つ。


 少し曲がっている。


 けれど。


 夕日の中で。


 まっすぐ影を伸ばしていた。


「いってきます」


 まだ。


 誰にも聞こえないほどの声で。


 言ってみる。


 胸が。


 少し痛い。


 怖い。


 それでも。


「必ず、帰ってきます」


 今度は。


 少し大きな声で。


 森へ伝える。


 木々が。


 風に揺れる。


 葉が。


 さわさわと音を立てる。


 返事のように。


 私は。


 小屋へ戻った。


 窓辺の白い花へ。


 新しい水を足す。


 髪から。


 黄色い花を外す。


 二つの花を。


 同じ器へ挿した。


 白と。


 黄色。


 どちらも。


 落ちていた花。


 枝へ。


 元の場所へ。


 戻すことのできない花。


 けれど。


 戻れないからといって。


 咲けないわけではない。


 元の場所へ帰らなくても。


 新しい場所で。


 根を張ることはできる。


 私は。


 机の上の手紙を。


 もう一度読む。


 父の謝罪。


 国王の問い。


 どこで。


 どのように生きたいのか。


 答えは。


 すべて決まっていない。


 けれど。


 一つだけ。


 もう。


 迷わない。


 私は。


 この森へ帰りたい。


 この小屋へ。


 この畑へ。


 曲がった柵のある場所へ。


 落ちた花を。


 拾ってくれる人たちのいる場所へ。


 帰ってきたい。


 そのために。


 私は。


 王都へ行く。


 帰るのではなく。


 戻るために。


 逃げた場所へ。


 今度は。


 自分の足で。


 向かうのだ。

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幼い娘を化け物扱いでネグレクトした挙げ句に侍女や護衛、食料無しで人里離れた森の奥に捨て、体裁の為に『療養』と世間を欺いてきた親からの手紙がこれか。 しかもいまだ幼い娘本人に対して。 なんか自ら出奔した…
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