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『青の姫君の森暮らし 〜化け物と恐れられた公爵令嬢は、今日も畑を耕します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第69話 青の姫君、森の外から届いた手紙を開けない


 朝露を含んだ土は、夜のあいだに少しだけ色を濃くしていた。


 鍬を入れるたび。


 湿った土の匂いが、森の冷たい空気へゆっくりと溶けていく。


 さくり。


 さくり。


 同じ深さ。


 同じ間隔。


 急がず。


 けれど、止まらず。


 私は畝の端から端まで、一本ずつ土を返していた。


 昨夜、ほんの少しだけ雨が降った。


 屋根を叩くほどではない。


 窓辺に立って耳を澄ませなければ、気づかないくらいの細い雨。


 それでも畑にとっては十分だったらしい。


 表面だけ乾いていた土が柔らかくなり、鍬の刃を素直に受け入れてくれる。


「……よいしょ」


 小さく声を出しながら、固まった土を崩す。


 ぱらぱらと落ちた黒い粒の隙間から、細い白い根が覗いた。


 雑草の根だ。


 私は鍬を置き、しゃがみ込む。


 根の途中で切らないように指を差し込み、土ごと持ち上げた。


 引く。


 少し抵抗があって。


 そのあと、ぷつりと抜けた。


「取れました」


 誰に報告するでもなく、私は呟いた。


 森は何も答えない。


 けれど。


 高い枝の上で、小鳥が一度だけ鳴いた。


 それが返事のように聞こえて。


 私は抜いた草を籠の中へ入れた。


 昨日までなら。


 こんな朝を、静かだと思っただろう。


 人の声がない。


 馬車の音もない。


 磨き上げられた靴が床を叩く音も。


 扉の前で控える侍女たちの衣擦れも。


 朝食の時間を知らせる銀の鐘もない。


 公爵家の屋敷にいた頃の朝とは、何もかも違う。


 だから。


 森へ来たばかりの私は、この静けさを。


 誰にも見られない静けさを。


 ようやく手に入れた自由だと思っていた。


 けれど、今は。


 完全に静かなわけではないと知っている。


 葉の先から朝露が落ちる音。


 茂みの奥を、小さな獣が歩く音。


 遠くの村で、誰かが薪を割る音。


 煙突へ火を入れたのだろう。


 森の向こうから、薄く煙の匂いも届いている。


 そして。


「おねえちゃーん!」


 静けさなど、最初から存在しなかったのではないかと思うほど。


 甲高い声が、畑の向こうから響いた。


 私は鍬を持ったまま、ゆっくりと顔を上げる。


 柵の外。


 森から村へ続く細い道を、三人の子どもが駆けてきていた。


 一番前を走る男の子は、片手に何かを掲げている。


 その後ろから、二人の女の子が追いかけている。


「待って!」


「抜け駆けだめ!」


「おれが見つけたんだぞ!」


「見つけたの、わたし!」


「先に触ったのはおれ!」


「踏んだだけでしょ!」


 朝から元気である。


 私は鍬を畝の脇へ置き、立ち上がった。


 膝についた土を払いながら、柵の出入口へ向かう。


 子どもたちは私の前まで来ると、三人揃って肩を上下させた。


 息が整うのを待つ。


 けれど。


 一番前の男の子は待てなかったらしい。


「これ!」


 差し出された手のひらには。


 小さな木の実が乗っていた。


 丸く。


 赤く。


 片側に、ほんの少しだけ傷がついている。


「森の入り口に落ちてた!」


「わたしが見つけたの!」


「おれが拾った!」


「わたしが先に、あったって言った!」


「でも拾ったのはおれ!」


 二人の言い争いを横で聞きながら。


 もう一人の女の子は、黙ったまま私を見ている。


 何か言いたそうなのに。


 口を開けず。


 両手を背中へ隠していた。


 私は、赤い実を覗き込んだ。


「これは……たぶん、食べられません」


「えっ」


 三人の顔が同時に固まった。


「毒?」


「触った!」


「おれ、ずっと持ってた!」


 一番前の男の子が、慌てて実を落としかける。


 私は両手で包み込むように受け取った。


「大丈夫です。触っただけなら、たぶん」


「たぶん!?」


「きちんと手を洗えば平気です」


「今すぐ洗う!」


 男の子は踵を返し、畑の脇に置かれた水桶へ駆けていく。


 女の子二人も、そのあとを追った。


「わたしも触った!」


「わたしは触ってないけど洗う!」


「お前、触ってないならいいだろ!」


「仲間外れは嫌!」


 水桶の周りで、また声が重なる。


 ばしゃばしゃと水が跳ねる。


 袖まで濡らしながら手を擦り合わせる三人を見て、私は少しだけ笑った。


 笑ったあとで。


 自分が自然に笑っていたことに気づく。


 以前なら。


 子どもが近づいてくることなどなかった。


 屋敷へ招かれた貴族の子どもたちは、私の青い髪を見ると、親の後ろへ隠れた。


 勇気のある子は、遠くから指を差した。


 勇気の意味を間違えている子は。


 石を投げようとして、従者に止められた。


 化け物。


 呪われた姫。


 夜になると瞳が光る。


 触れられれば青い痣ができる。


 私が泣くと雨が降る。


 私が怒ると森が枯れる。


 誰が考えたのか分からない話が。


 私の知らないところで、いくつも作られていた。


 どれも事実ではない。


 私は夜になっても光らないし。


 人へ痣を作ることもできない。


 雨を降らせることも。


 森を枯らすこともできない。


 けれど。


 できないと説明する相手すら、私にはいなかった。


 いま。


 水桶の前で喧嘩をしている子どもたちは。


 私の髪など見ていない。


 見慣れたのだろうか。


 それとも。


 最初から、それほど気にしていなかったのだろうか。


 分からない。


 分からないけれど。


「おねえちゃん」


 背中へ手を隠していた女の子が、いつの間にか私のそばへ戻っていた。


「はい」


「あのね」


「はい」


「これ」


 女の子は、背中へ隠していた手を前へ出した。


 そこには。


 少し潰れた、小さな白い花があった。


 道端に咲いている。


 名前も知らない花。


 花びらの一枚には土がつき、茎は途中で折れている。


「落ちてたの」


 その言葉に。


 昨日、拾った花を思い出した。


 地面へ落ちていた花。


 もう枝へ戻すことのできない花。


 落ちたからといって、価値がなくなるわけではない。


 そう。


 言われた言葉。


 胸の奥。


 まだ柔らかくなりきっていない場所へ触れられた気がして。


 私はすぐに手を伸ばせなかった。


 女の子が不安そうに眉を下げる。


「いらない?」


「いいえ」


 慌てて首を横へ振った。


「違います。とても……嬉しいです」


「ほんと?」


「はい」


 私は両手で花を受け取った。


 折れた茎が、指の上で揺れる。


「ありがとう」


 女の子は、目を細めて笑った。


 それだけだった。


 大げさに喜ぶでもなく。


 褒めてほしいと胸を張るでもなく。


 渡したかったから渡した。


 受け取ってもらえたから嬉しい。


 それだけの笑顔だった。


「おねえちゃん、また拾っておくね」


「落ちていたら、ですか?」


「うん」


「咲いている花は、摘まないでくださいね」


「分かってる。落ちたのだけ」


「はい」


「落ちたの、かわいそうだから」


 女の子はそう言って。


 また水桶の方へ走っていった。


 残された私は。


 手のひらの花を見つめる。


 かわいそうだから拾う。


 落ちていたら拾う。


 それは。


 たぶん、優しさなのだろう。


 けれど私は。


 落ちた花を拾うことと。


 落ちた人を拾うことを。


 同じように考えてしまいそうになる。


 もしも。


 私が公爵家から落ちた人間なのだとしたら。


 森の人たちは。


 かわいそうだから、私を拾ってくれたのだろうか。


 胸の奥に浮かんだ考えを。


 私はすぐに打ち消せなかった。


 嬉しいことがあったあとほど。


 不安は静かに近づいてくる。


 本当に喜んでよいのか。


 勘違いではないのか。


 いつか取り上げられるのではないか。


 受け取ったものが大切であればあるほど。


 失う場面ばかり想像してしまう。


「おねえちゃん!」


 水桶の前から声が飛んできた。


「この実どうするの!」


 私は、もう片方の手に持っていた赤い実を見る。


「畑の隅へ埋めてみましょう」


「食べられないのに?」


「芽が出るかもしれません」


「毒の木になる?」


「それは困りますね」


「燃やしたほうがいい?」


「まだ毒と決まったわけではありません」


「さっき食べられないって言った!」


「食べられないものが、すべて毒というわけではありません」


「じゃあ何?」


 問われて。


 私は少し考えた。


「……食べないほうがよいものです」


「同じじゃん」


「同じに聞こえますね」


 子どもたちが笑う。


 私も。


 少し遅れて笑った。


 朝の畑に。


 いくつもの声が重なった。


 その声は、森の中へ吸い込まれていくのではなく。


 木々へぶつかり。


 葉を揺らし。


 またこちらへ返ってくるようだった。


     ◇


 子どもたちが村へ戻ったあと。


 私は白い花を、小屋の窓辺に置いた。


 小さな器へ水を張り。


 折れた茎の先を沈める。


 長くは持たないだろう。


 茎は折れ。


 花びらも傷んでいる。


 それでも。


 いま、この瞬間だけは。


 窓から差し込む朝の光を受けて、静かに咲いている。


「……落ちたからといって」


 言葉にしかけて。


 やめた。


 誰もいない部屋で自分へ言い聞かせるのは。


 少しだけ寂しかった。


 外へ出る。


 畑へ戻ろうとしたところで。


 村へ続く道から、人の声が聞こえた。


 一人ではない。


 何人もいる。


 話し声。


 足音。


 何か重い物を引きずるような音。


 私は立ち止まり、道の先を見る。


 最初に見えたのは、村長だった。


 その後ろに。


 男たちが六人。


 女たちが四人。


 さらに、さきほどの子どもたちまでついてきている。


 男たちは、木材を肩へ担いでいた。


 長い柱。


 板。


 縄。


 大きな木槌。


 女たちは籠や布包みを持ち。


 一人は湯気の立つ鍋まで抱えている。


 どう見ても。


 畑仕事を手伝う人数ではない。


 私は柵の前で、彼らが近づいてくるのを待った。


「おはようございます」


「おはようございます、フローラ様」


 村長が足を止める。


 後ろの者たちも。


 ばらばらに頭を下げた。


「おはようございます」


「今日は冷えるねえ」


「朝だけだ。昼には暑くなるぞ」


「その鍋、傾けるなよ」


「分かってるよ。あんたこそ板を人にぶつけるんじゃないよ」


「ぶつけてない」


「さっき私の肩を掠めた」


「掠めただけだろ」


「ぶつけたのと同じだよ」


 賑やかなやり取りの中。


 私は木材と道具を見比べた。


「あの」


「はい」


「これは……何でしょうか」


 私が尋ねると。


 なぜか全員が黙った。


 さきほどまで言い合っていた夫婦らしい二人まで口を閉じる。


 視線だけが。


 村長へ集まった。


 村長は一度咳払いをした。


「その、ですな」


「はい」


「昨日、皆で話し合いまして」


「はい」


「畑の柵を、もう少し広げようかと」


 私は柵を見る。


 いまの畑は。


 小屋へ来たばかりの頃に、私が一人で作ったものだ。


 形は歪んでいる。


 柱の間隔も揃っていない。


 深く打ち込んだつもりでも、雨が降ると傾いてしまう箇所もある。


 けれど。


「まだ、使えます」


「使えるのは使えます」


 村長は困ったように頬を掻いた。


「ただ、狭いでしょう」


「狭くありません」


「狭いですよ」


 今度は、後ろにいた女性が口を挟んだ。


 腰へ手を当て。


 私の畑を見渡す。


「今年植える分だけなら足りるかもしれないけど、苗を増やすんだろう?」


「……増やす予定です」


「薬草も育てたいって言ってたね」


「はい」


「村へ分けてくれる豆も、今年は多めに植えるんだろう?」


「それは」


 私は言葉に詰まった。


 分けると決めたわけではない。


 ただ。


 昨年、予想より多く収穫できた豆を、村へ持っていった。


 すると。


 子どもたちが喜んだ。


 煮込みにした家。


 潰して焼いた家。


 少ない肉と一緒に煮て、冬の食卓を支えた家。


 そうした話を聞いて。


 今年は少し多く植えようと思っていただけだ。


 誰かへ話した覚えは。


「子どもたちから聞きましたか?」


「子どもだけじゃないよ」


 別の女性が笑う。


「この間、種を数えてたでしょう。村の店で」


「見られていたのですね」


「隠してなかったでしょう」


「隠す必要はありませんでしたから」


「だから、皆知ってるんだよ」


 皆。


 その言葉に。


 胸が少しだけざわつく。


 公爵家にいた頃も。


 皆が知っている、と言われることはあった。


 皆があなたを見ている。


 皆があなたを恐れている。


 皆があなたの振る舞いを噂している。


 皆が、公爵家の一人娘に相応しい姿を望んでいる。


 その皆には。


 誰もいなかった。


 顔のない人々。


 私の知らない場所から、私を裁く人々。


 けれど。


 ここで言う皆には。


 顔がある。


 板を担いでいる猟師。


 木槌を持った粉屋の息子。


 鍋を抱えた女性。


 私へ花を渡してくれた女の子。


 赤い実を拾った男の子。


 私と目が合うと、何となく視線を逸らした若者。


 一人ずつ。


 知っている。


 名前を覚えきれていない人もいるけれど。


 声を聞いたことがある。


 笑い方を見たことがある。


 そういう人たちが。


 皆。


「ですが」


 私は、柵の木へ手を置いた。


「柵を広げるには、木材が必要です」


「持ってきました」


「分かっています」


 分かっているからこそ、困っていた。


「木材は、村で使うものでしょう」


「これ、古い納屋を解体した板ですよ」


 男の一人が肩の板を少し持ち上げた。


「腐ってるところを切り落として、使える部分だけ持ってきたんです。新しい材木じゃありません」


「それでも、薪にはできます」


「柵にしたほうが長く使える」


「村の補修に使うことも」


「村の補修をした残りです」


 答えが返ってくる。


 私が一つ理由を挙げるたび。


 彼らはすでに用意していたように、その理由を受け止める。


「ですが、皆さんにはお仕事が」


「今日は畑へ出ない日です」


「狩りは」


「昨日、獲った肉の処理が終わってないんで、どうせ森の奥には入れません」


「粉挽きは」


「水車の軸が止まってます。修理は明日です」


「家のことは」


「昼までには戻るよ」


 女性が鍋を持ち直した。


「そのために、皆で来たんじゃないか。人数がいれば早いからね」


 私は。


 次の言葉を探した。


 けれど見つからない。


 村長が、私の顔を覗き込む。


「迷惑でしたか」


「違います」


 それだけは。


 すぐに否定できた。


「迷惑ではありません。ただ……」


「ただ?」


「どうして、そこまでしてくださるのか」


 口にしたあと。


 空気が止まったように感じた。


 森の音が遠くなる。


 誰かが担いでいた板を、わずかに下ろす。


 縄が擦れ。


 乾いた音を立てた。


 誰も。


 すぐには答えなかった。


 また聞いてはいけないことを聞いてしまったのかもしれない。


 好意には。


 理由を求めてはいけないのかもしれない。


 けれど。


 理由のない好意が。


 私には怖かった。


 理由が分からなければ。


 いつ終わるのかも分からない。


 何を返せばいいのかも分からない。


 受け取ってよいものなのか。


 判断できない。


「フローラ様」


 村長が。


 ゆっくりと口を開いた。


「昨年の冬を、覚えておられますか」


「はい」


 忘れるはずがない。


 森へ来てから、初めて迎えた冬だった。


 雪は深く。


 畑は白く埋まり。


 何日も外へ出られなかった。


 保存していた食べ物が、少しずつ減っていく。


 薪も。


 油も。


 灯りも。


 減るものばかりを数えて過ごした。


「雪が早く降りました」


「はい」


「村の備蓄も、十分ではなかった」


「……はい」


「子どもが二人、高い熱を出しました」


 覚えている。


 薬師のところへ運ばれた兄妹。


 薬草が足りなかった。


 森の奥へ採りに行こうとした大人たちを。


 吹雪が阻んだ。


「フローラ様が、持っていた薬草を全部出してくださった」


「全部ではありません」


「ほとんど全部です」


「私一人なら、少なくても」


「それだけではありません」


 村長の声は。


 強くはなかった。


 けれど。


 私の言葉を静かに止めた。


「豆も。芋も。乾燥させた葉物も。村へ持ってきてくださった」


「余っていたものです」


「余ってはいませんでした」


「春までなら、足りました」


「ぎりぎりだったでしょう」


 私は答えられない。


 実際。


 雪が解ける頃。


 小屋に残っていた食べ物は、ほとんどなかった。


 最後の数日は。


 薄い粥で過ごした。


 けれど。


 それで困ったとは思わなかった。


 村の子どもが死ぬかもしれない恐怖に比べれば。


 空腹など。


 耐えられるものだった。


「皆、それを知っています」


「誰が」


「皆です」


 また。


 皆。


 今度の言葉は。


 先ほどより重かった。


「私が話したのではありません」


「冬が終われば、分かりますよ」


 鍋を抱えていた女性が言った。


「春先のあんた、痩せてたもの」


「そうでしょうか」


「頬がこけてたよ」


「元からです」


「元からじゃない」


 すぐに否定された。


「それにね。森へ入れるようになった最初の日、あんた、何をしたと思う?」


 何をしただろう。


 私は記憶を辿る。


 雪が少しずつ解け。


 道が見え始めた朝。


 外へ出た。


 水を汲み。


 畑の様子を確かめ。


「薬草を探しました」


「自分の食べる物より先にね」


「薬草は必要でした」


「村の子にだろう?」


 女性は。


 笑っていなかった。


 責めてもいなかった。


 ただ。


 真っ直ぐに私を見ていた。


「あんたは、そういうことをする」


 そういうこと。


 その意味が分からず。


 私は黙った。


「あんたは、自分がしたことを小さく言う」


 別の男が、担いでいた柱を地面へ立てた。


「余ったからだとか。ついでだとか。自分には必要なかったとか」


「実際に」


「必要だった」


 短い言葉だった。


「全部、あんたにも必要だった」


 私は。


 何も言えなくなった。


「それでも分けた」


 男は続ける。


「だから、今度は俺たちが手を貸す。それだけだ」


「ですが」


「借りを返すって話じゃありませんよ」


 若い男が、少し気まずそうに鼻の頭を擦った。


「借りとか恩とか言うと、またフローラ様は全部数え始めるでしょう」


 思わず彼を見る。


「数えません」


「数える顔してます」


「どのような顔ですか」


「今の顔です」


 周りから。


 小さな笑い声が起きた。


 私は自分の頬へ触れる。


 どのような顔をしているのか、自分では分からない。


「畑が広くなれば、収穫が増える」


 村長が言った。


「収穫が増えれば、フローラ様も助かる。村も助かる」


「私は、村へ渡すと決めたわけでは」


「渡してくれとは言っておりません」


「ですが、いま」


「フローラ様が全部自分で食べてもいいのです」


「そんなに食べられません」


「なら、売ればいい」


「売るほど育つか分かりません」


「育たなければ、また考えればいい」


 村長は。


 そこで少し笑った。


「先のことを心配するのは、芽が出てからでも遅くありません」


 私は畑を見る。


 まだ何も植えていない畝。


 土だけが並んでいる。


 ここへ種を蒔く。


 芽が出る。


 育つ。


 花が咲く。


 実がつく。


 何事もなければ。


 けれど。


 虫に食われるかもしれない。


 病気になるかもしれない。


 雨が降らないかもしれない。


 風で倒れるかもしれない。


 森の獣が柵を越えてくるかもしれない。


 考え始めれば。


 失敗する理由はいくらでもある。


 公爵家では。


 失敗しないために、先回りして考えろと教えられた。


 間違う前に。


 恥をかく前に。


 誰かへ迷惑をかける前に。


 起こり得ることを、すべて想像しろと。


 だから私は。


 芽が出る前から。


 枯れる日のことを考える。


「フローラ様」


 名前を呼ばれ。


 顔を上げた。


「広げても、よろしいですか」


 村長は。


 勝手に始めなかった。


 木材も。


 道具も。


 人も。


 すべて揃えてきたのに。


 最後の一つだけ。


 私の許しを待っている。


 私は柵へ置いていた手を離す。


 掌に。


 ざらついた木の感触が残った。


「……お願いします」


 口にすると。


 胸の中が。


 少しだけ痛んだ。


 拒んだわけではない。


 受け入れたのに。


 なぜか泣きそうになる。


「お願いします」


 もう一度。


 今度は、先ほどよりはっきり言った。


「畑を、広げるのを手伝ってください」


 その瞬間。


「よし!」


「聞いたね!」


「西側から外すぞ!」


「先に新しい柱の位置を決めろ!」


「子どもは近づくんじゃないよ!」


「おれもやる!」


「木槌は駄目!」


「縄なら持てる!」


「引っかかって転ぶから駄目!」


「じゃあ何ならいいんだよ!」


 一斉に声が動き出した。


 止まっていた時間が。


 急に流れ始める。


 男たちは木材を下ろし。


 女たちは布包みや籠を木陰へ置く。


 子どもたちは追い払われながら。


 それでも何か手伝おうと、地面へ落ちた小枝を拾い始めた。


 村長が。


 古い柵の端へ手をかける。


「まずは、こちらを外します」


「待ってください」


 私は慌てて駆け寄った。


「私もやります」


「もちろんです」


 当然のように言われる。


 止められると思っていた私は。


 少し拍子抜けした。


「ですが、その前に」


 村長は私の服を見る。


「着替えたほうがよろしいかと」


 私は自分の姿を見下ろした。


 畑仕事用の服だ。


 膝も。


 袖も。


 すでに土で汚れている。


「このままで平気です」


「袖が長いでしょう」


「折ります」


「髪も」


 青い髪が、肩から胸へ流れている。


 いつもは後ろで簡単に束ねるだけだ。


「邪魔になりますか」


「柱に挟んだら危ないよ」


 鍋を置き終えた女性が、こちらへ歩いてきた。


「結び直してあげる。しゃがんで」


「自分でできます」


「いいから、しゃがむ」


「ですが」


「早く」


 断る隙がなかった。


 私は言われた通り、その場へしゃがむ。


 女性は私の後ろへ回り。


 髪を一つに集めた。


 指が。


 髪の間を通る。


 私は肩へ力を入れた。


 誰かに髪を触られることには。


 まだ慣れていない。


 屋敷では毎朝。


 侍女が髪を整えた。


 けれど。


 その手はいつも慎重すぎるほど慎重で。


 直接触れる時間を、できるだけ短くしようとしていた。


 青い髪に。


 何か恐ろしいものが潜んでいるように。


「痛いかい?」


「いいえ」


「引っ張ったら言いな」


「はい」


 女性の指は。


 ためらわなかった。


 髪をまとめ。


 三つに分け。


 ゆっくり編んでいく。


 近くにいた女の子たちが寄ってくる。


「きれい」


「青い糸みたい」


「触っていい?」


「駄目だよ。いま編んでるから」


「終わったら?」


「フローラ様に聞きな」


 私は。


 すぐに答えられなかった。


 触られることが嫌なのではない。


 ただ。


 いいと答えたあと。


 本当に触れられたとき。


 自分がどんな顔をすればよいのか分からない。


「……終わったら」


 私は前を向いたまま言った。


「少しだけなら」


「ほんと?」


「はい」


「やった」


「順番ね」


 何の順番だろう。


 そんなことを考えているうちに。


 髪の先が布紐で結ばれた。


「できたよ」


「ありがとうございます」


 立ち上がろうとしたとき。


「待って」


 女の子の一人が。


 先ほど私へ渡した白い花とは別の、小さな黄色い花を持っていた。


「これは摘んだの?」


 女性が聞く。


「落ちてた」


「本当に?」


「ほんと」


「なら、いいけど」


 女の子は、私の編まれた髪の途中へ。


 黄色い花を差し込んだ。


「これでできた」


 満足そうに頷く。


 周りの子どもたちも。


「きれい」


「もう一個つける?」


「つけすぎると鳥の巣みたいになるぞ」


「鳥の巣、きれいじゃん」


「卵も入れる?」


「入れません」


 思わず口を挟むと。


 皆が笑った。


 髪に。


 落ちた花が一つ。


 私はそれを。


 自分では見ることができない。


 けれど。


 頭の後ろに、わずかな重みを感じる。


 それは重さと呼ぶには小さすぎて。


 それでも。


 確かに、そこにあった。


     ◇


 柵を広げる作業は。


 私が想像していたより、ずっと騒がしかった。


「そこ、もう少し右!」


「右ってどっちだ!」


「お前の右だよ!」


「俺の右はこっちだ!」


「だからそっち!」


「最初からこっちって言え!」


「言ってるだろう!」


 柱の位置を決めるだけで、男たちは何度も声を上げた。


 縄を張り。


 間隔を測り。


 土へ印をつける。


 真っ直ぐに並べるための作業らしいが。


「曲がっていませんか」


 私が尋ねると。


 全員が黙った。


 少し離れ。


 目を細めて見る。


「……曲がってるな」


「曲がってるね」


「誰が印をつけた?」


「村長だ」


「私は、言われた場所につけただけです」


「誰に言われた?」


「お前です」


「俺か」


 やり直しになった。


 子どもたちは。


 その様子を見て、腹を抱えて笑っている。


「笑うな!」


「だって曲がってる!」


「お前たちが縄を踏んだからだ!」


「踏んでない!」


「踏んだ!」


「証拠あるの?」


「言うようになったな!」


 私も。


 笑ってよいのか迷った。


 けれど。


 隣にいた女性が、声を抑えず笑っている。


 村長まで。


 困った顔をしながら笑っている。


 失敗したのに。


 誰も怒らない。


 時間を無駄にしたと責めない。


 曲がっているなら。


 直せばよい。


 ただ、それだけ。


 公爵家では。


 一度引かれた線は。


 曲がっていても、簡単には直せなかった。


 誰が間違えたのか。


 誰が責任を取るのか。


 なぜ確認しなかったのか。


 直すことより先に。


 間違えた人間を探した。


 だから。


 誰も間違いを認めなかった。


 認めれば。


 その人だけの責任にされるから。


「フローラ様」


 呼ばれて。


 私は縄の端を持つ。


「こちらへ引いてください」


「はい」


「もう少し強く」


「はい」


 縄を引く。


 反対側で。


 男が位置を調整する。


「そこです」


「ここですか」


「少し左」


「私の左ですか?」


 先ほどのやり取りを思い出し、確認する。


 周りから笑いが起きた。


「はい、フローラ様の左です」


「分かりました」


「少しだけ」


「このくらいですか」


「もう少し」


「これは」


「行き過ぎです」


 戻す。


「ここ」


「ここですね」


「はい」


 土へ印がつけられた。


 今度は。


 真っ直ぐだった。


「できました」


「まだ印だけですよ」


「ですが、真っ直ぐです」


 私が言うと。


 男たちは顔を見合わせた。


「確かに」


「最初よりいい」


「最初がひどすぎたんだ」


「誰のせいだ」


「お前だろ」


「村長だ」


「私ではありません」


 また始まる。


 その声を聞きながら。


 私は縄を離した。


 掌に。


 細い跡がついている。


 少し痛い。


 けれど。


 嫌な痛みではなかった。


 作業は。


 ゆっくり進んだ。


 古い柵を外す者。


 新しい柱を立てる穴を掘る者。


 土を運ぶ者。


 板の腐った部分を削る者。


 私は。


 最初、すべてを手伝おうとした。


 けれど。


「一度に一つ!」


 女性に叱られた。


「でも、あちらも」


「あっちは人がいる」


「こちらの板も」


「それも削ってる人がいる」


「では私は」


「いま、柱を押さえてるでしょう」


「はい」


「なら、それを離さない」


「はい」


「全部やろうとしない」


 その言葉は。


 作業の話であるはずなのに。


 胸の奥へ深く入った。


 全部やろうとしない。


 一人で。


 全部。


 やろうとしない。


 私は柱を両手で押さえたまま。


「……はい」


 もう一度、小さく答えた。


 木槌が振り下ろされる。


 ごん。


 柱が、少し土へ沈む。


 ごん。


 振動が腕へ伝わる。


 ごん。


 土が締まり。


 柱が立つ。


「手、離していいですよ」


 恐る恐る。


 私は手を離した。


 柱は倒れない。


 誰の手も借りずに。


 という意味ではない。


 私が押さえ。


 男が打ち。


 別の者が土を入れ。


 皆で立てた柱が。


 そこに残っている。


「立ちました」


「立ちましたね」


「……倒れません」


「倒れたら困ります」


「そうですね」


 男は笑った。


 私は柱を見上げる。


 古い柵より。


 少し高い。


 森の獣が入りにくいように。


 丈夫な板を使っている。


「次、行きますよ」


「はい」


 次の柱へ移る。


 一つ。


 また一つ。


 畑の境界が、少しずつ外へ広がっていく。


 私は。


 その光景を見ながら。


 自分の居場所まで広がっているように感じた。


 けれど。


 同時に。


 怖くもあった。


 広がれば。


 失うものも増える。


 畑が広くなれば。


 守らなければならない場所が増える。


 人との関わりが増えれば。


 傷つけるかもしれない相手も増える。


 大切なものを持たなければ。


 奪われることもない。


 それなのに私は。


 もう。


 いくつも持ってしまっている。


 小屋。


 畑。


 村へ続く道。


 子どもたちの声。


 笑いながら作業をする人々。


 髪に挿された花。


 誰かに名前を呼ばれること。


 その一つ一つが。


 失ったとき。


 きっと痛い。


「フローラ様?」


 目の前で手を振られた。


「どうしました?」


「いいえ」


「疲れましたか」


「疲れていません」


「顔色が」


「大丈夫です」


 反射的に答える。


 すると。


 男は少し困ったような顔をした。


「休みましょう」


「大丈夫です」


「大丈夫でも休みます」


「ですが、まだ」


「皆も休みます」


 見れば。


 誰かが木陰へ布を広げていた。


 鍋の蓋が開けられる。


 湯気と一緒に。


 香草と肉の匂いが広がった。


 子どもたちが歓声を上げる。


「お昼!?」


「まだ昼じゃないよ」


「じゃあ何?」


「休憩」


「食べる?」


「食べるよ」


「じゃあ昼じゃん!」


「昼前だよ」


「食べたら昼!」


 独自の理屈らしい。


 私は柱から手を離した。


 気づけば。


 腕が少し震えている。


 疲れていないと思っていた。


 けれど。


 力を入れ続けていたらしい。


「座ってください」


 木陰へ連れていかれる。


 布の上には。


 硬いパン。


 薄く切った燻製肉。


 塩漬けの野菜。


 そして。


 大きな鍋に入った温かなスープが並べられた。


「これは」


「皆の分です」


「私もいただいてよいのですか」


 その場にいた人たちが。


 一斉にこちらを見た。


「そのために持ってきたんだよ」


「でも、皆さんの」


「皆の中に、あんたも入ってる」


 女性は。


 木の器へスープを注いだ。


 湯気が立つ。


 豆と。


 細かく刻まれた野菜。


 肉は少ない。


 けれど。


 香草の匂いが食欲を誘う。


 器を渡される。


 両手で受け取ると。


 温かさが掌へ広がった。


「熱いから気をつけて」


「はい」


 皆の中に。


 私も入っている。


 先ほどの言葉を。


 すぐには飲み込めなかった。


 皆。


 私の知らない、顔のない人々ではない。


 私を含む。


 ここにいる人たち。


「いただきます」


 私が言うと。


 少し遅れて。


 周りからも声が重なった。


 パンを割る音。


 スープを啜る音。


 子どもが熱さに舌を出し。


 大人に笑われる。


「熱いって言っただろ」


「ふーってした!」


「一回だけじゃ冷めないよ」


「百回する!」


「数えられるのか?」


「数えられる!」


「じゃあやってみろ」


「いーち、にーい、さーん、いっぱい!」


「終わったな」


「いっぱいは百より多い!」


「便利な数え方だねえ」


 笑い声が起きる。


 私はスープへ息を吹きかけた。


 一口。


 口に含む。


 少し薄い。


 けれど。


 野菜の甘みが出ている。


 豆は柔らかい。


 身体の中へ。


 温かさが落ちていく。


「おいしいです」


 私が言うと。


 鍋を持ってきた女性は、少しだけ眉を上げた。


「本当かい?」


「はい」


「味が薄くない?」


「少し」


「正直だね」


「ですが、おいしいです」


「塩を節約したんだよ」


「そうだったのですか」


「嘘。入れ忘れた」


 周りから。


 どっと笑いが起きた。


 女性は不満そうに唇を尖らせる。


「仕方ないだろう。朝から人数が増えたんだから」


「塩の量は人数と関係ないだろ」


「鍋が大きくなれば分からなくなるよ」


「味見しろよ」


「したよ」


「薄いと思わなかったのか」


「朝は舌が寝てた」


「まだ寝てるんじゃないか?」


「あんたの舌を抜いて入れてやろうか」


「やめろ、塩よりまずくなる」


 私は。


 器を持ったまま笑った。


 今度は。


 遅れずに。


 皆と同じところで笑った。


 そのことが。


 何となく嬉しかった。


 何が面白いのか分からず。


 周りが笑ったから笑うのではなく。


 言い合いが可笑しくて。


 自然に笑えた。


 少しずつ。


 本当に少しずつ。


 私は。


 この人たちと同じ時間の中へ入れているのかもしれない。


     ◇


 休憩が終わる頃。


 村の方から。


 馬の蹄の音が聞こえた。


 最初。


 誰も気にしなかった。


 村では。


 荷車を引く馬が行き来することもある。


 けれど。


 音は一頭ではなかった。


 二頭。


 あるいは三頭。


 一定の間隔で。


 道を踏みしめている。


 軽い荷車の音もする。


 村の馬とは違う。


 蹄へ。


 きちんと鉄が打たれている。


 土を蹴るたび。


 硬い音が混じる。


 私は。


 持っていた器を、ゆっくりと下ろした。


 胸の奥が。


 理由もなく冷える。


 いや。


 理由は分かっていた。


 この森の村へ。


 何頭もの馬で来る者は少ない。


 商人なら。


 もっと荷車が重い。


 猟師なら。


 騎乗では来ない。


 役人。


 貴族。


 騎士。


 森の外から来る者。


 そのどれか。


「誰だろうね」


 女性が立ち上がり。


 道の方へ目を凝らす。


 男たちも。


 作業の手を止めた。


 先ほどまで騒いでいた子どもたちが。


 大人の背中へ隠れる。


 森の向こう。


 道が曲がる場所に。


 最初の馬が姿を現した。


 黒い馬。


 乗っているのは。


 灰色の外套をまとった男。


 腰に剣。


 胸元に。


 銀色の印。


 続いて。


 もう一頭。


 その後ろに。


 小さな二輪の馬車。


 豪華ではない。


 けれど。


 村で使われている荷車とは、明らかに作りが違う。


 車輪に金具がつけられ。


 御者台には、同じ灰色の外套を着た者が座っている。


 村長が。


 ゆっくり立ち上がった。


「王都の使者ですな」


 その言葉で。


 空気が変わった。


 先ほどまで。


 食事の温かさと笑い声で満ちていた場所へ。


 冷たい風が吹き込んだようだった。


「王都?」


「どうして、こんなところに」


「道を間違えたんじゃないか」


「間違えて畑まで来るか?」


 小さな囁きが重なる。


 使者の馬は。


 まっすぐこちらへ近づいてくる。


 間違えてはいない。


 目的地は。


 この畑。


 あるいは。


 私。


 私は立ち上がろうとした。


 けれど。


 膝へ力が入らなかった。


 一度。


 手を地面へつく。


 土の冷たさが、掌へ触れる。


「フローラ様」


 村長が。


 私へ手を差し出した。


「大丈夫ですか」


「はい」


 大丈夫。


 また。


 反射的に答えた。


 差し出された手を見つめる。


 借りるべきか。


 自分で立つべきか。


 迷っているあいだに。


 馬の音が近づく。


 私は。


 村長の手を取った。


 強く引かれるのではなく。


 立ち上がるための支えだけが与えられる。


 自分の足で立つ。


 それでも。


 一人ではない。


 使者たちは。


 柵から少し離れた場所で馬を止めた。


 先頭の男が降りる。


 手綱を後ろの者へ渡し。


 こちらへ歩いてくる。


 灰色の外套。


 磨かれた革靴。


 腰の剣。


 胸元の銀の印は。


 王家の使者であることを示すものだった。


 私は。


 土で汚れた自分の服を見下ろす。


 袖。


 膝。


 靴。


 すべて泥だらけ。


 髪は。


 村の女性に編まれ。


 子どもが拾った花まで挿されている。


 王都にいた頃なら。


 使者の前へ出られる姿ではない。


 けれど。


 着替える時間はない。


 逃げる場所も。


 ない。


 使者は。


 私の前まで来ると。


 足を止めた。


 私の姿を見て。


 ほんの一瞬だけ。


 目を見開いた。


 驚いたのだろう。


 公爵令嬢が。


 森の中で。


 泥だらけになっている。


 想像していた姿とは違ったはずだ。


 けれど。


 使者はすぐに表情を戻した。


 右手を胸へ当て。


 深く頭を下げる。


「フローラ・フォン・スプリング公爵令嬢様でいらっしゃいますか」


 名前。


 家名。


 公爵令嬢。


 森へ来てから。


 ほとんど呼ばれなくなった言葉。


 その三つが。


 鎖のように聞こえた。


「……はい」


 声が。


 少し掠れた。


「私が、フローラ・フォン・スプリングです」


 周囲の村人たちが。


 息を潜めている。


 子どもたちは。


 意味が分からないまま。


 大人たちの顔を見上げている。


 使者は顔を上げた。


「王都より、書状をお預かりしております」


 後ろに控えていた者が。


 細長い革の箱を持ってくる。


 箱の表面には。


 王家の紋章。


 そして。


 もう一つ。


 見慣れた紋章が刻まれていた。


 春の花。


 剣を囲む蔦。


 スプリング公爵家の紋章。


 私の家。


 私が。


 出てきた場所。


 指先が。


 冷たくなる。


「誰からですか」


 聞かなくても。


 予想はできた。


 それでも。


 聞かずにはいられなかった。


 使者は。


 革の箱から一通の封書を取り出した。


 白い厚紙。


 青い封蝋。


 押されている紋章は。


 やはり。


 スプリング公爵家のもの。


「スプリング公爵閣下より」


 父。


 その一文字が。


 胸の中へ浮かんだ。


 声にはならなかった。


「ならびに」


 使者は。


 もう一通。


 今度は。


 金の縁取りがされた封書を取り出した。


 赤い封蝋。


 王冠と翼。


 王家の紋章。


「国王陛下より、正式な召喚状をお預かりしております」


 誰かが。


 小さく息を呑んだ。


 私なのか。


 村人なのか。


 分からない。


 森の音が。


 消えていた。


 鳥も鳴かない。


 風も止まったように感じる。


 召喚。


 その言葉は。


 招待ではない。


 お願いでもない。


 戻りたいかと。


 尋ねるものでもない。


 来い。


 そう命じる言葉。


「内容を」


 声が出ない。


 喉が。


 固く閉じている。


 私は一度、息を吸った。


「内容を、こちらで伺うことはできますか」


「申し訳ございません」


 使者は。


 丁寧に頭を下げた。


「封書は、フローラ様ご本人がお開きになるよう命じられております」


「そうですか」


「はい」


 差し出される。


 二通の封書。


 父からの手紙。


 国王からの召喚状。


 手を伸ばせば。


 届く距離。


 けれど。


 私は動けなかった。


 受け取れば。


 森での暮らしが終わる。


 そんな気がした。


 まだ。


 中身さえ読んでいない。


 戻れと書かれているかも分からない。


 それでも。


 王都の紋章が。


 公爵家の封蝋が。


 ここまで追ってきた。


 畑を広げたばかりなのに。


 新しい柱が。


 まだ土の中で安定していないのに。


 種も。


 まだ蒔いていないのに。


 私は。


 また。


 何も育たないうちに。


 ここを離れなければならないのだろうか。


「フローラ様」


 村長の声が。


 隣から聞こえた。


 私は。


 振り向けなかった。


「受け取らなくては」


 自分へ言い聞かせるように呟く。


 国王からの書状を。


 拒むことはできない。


 公爵家の娘として。


 貴族として。


 受け取らないという選択はない。


 それなのに。


 指が動かない。


 使者は。


 急かさなかった。


 差し出した姿勢のまま。


 黙って待っている。


 村人たちも。


 誰も声を出さない。


 長い沈黙。


 その中で。


 小さな足音がした。


 先ほど。


 私へ花を渡してくれた女の子が。


 大人の間を抜け。


 私のそばへ来る。


 そして。


 私の服の裾を。


 小さな手で掴んだ。


「おねえちゃん」


 呼ばれる。


 公爵令嬢ではなく。


 フローラ様でもなく。


 おねえちゃん。


 その一言に。


 胸の奥が大きく揺れた。


「どこか行くの?」


 分からない。


 まだ。


 何も分からない。


 だから。


 大丈夫だと。


 言ってあげたかった。


 どこにも行かない。


 明日も畑にいる。


 また落ちた花を拾おう。


 そう。


 答えたかった。


 けれど。


 言葉にできなかった。


 嘘になるかもしれないから。


 女の子の手が。


 裾を少し強く握る。


 私は。


 ようやく右手を持ち上げた。


 使者から。


 二通の封書を受け取る。


 紙は。


 驚くほど軽かった。


 けれど。


 両腕で抱えなければならないほど。


 重く感じた。


「確かに」


 私は言った。


「受け取りました」


 使者は深く頭を下げた。


「明日の正午まで、村に滞在いたします」


「明日の」


「はい。ご返答をお預かりするよう命じられております」


 返答。


 つまり。


 読むだけでは終わらない。


 何かを。


 選ばなければならない。


「分かりました」


 私は答えた。


 使者は、もう一度礼をする。


 馬へ戻る。


 蹄の音が。


 村の方角へ遠ざかっていく。


 誰も。


 すぐには動かなかった。


 目の前には。


 広げかけの畑。


 立てたばかりの柱。


 地面へ置かれた木槌。


 食べかけのパン。


 まだ湯気の残る鍋。


 少し前まで。


 笑い声が満ちていた場所。


 すべてが。


 同じ形のまま残っているのに。


 景色だけが。


 別のものになってしまったように感じた。


「フローラ様」


 村長が。


 静かに呼ぶ。


「中で、お読みになりますか」


 私は。


 封書を見る。


 父の紋章。


 国王の紋章。


 二つの封蝋が。


 私を見ている。


「……はい」


 そう答えたものの。


 一歩も動けない。


「おねえちゃん」


 女の子は。


 まだ裾を掴んでいた。


「行っちゃうの?」


「まだ、分かりません」


 それが。


 精一杯だった。


「分からないの?」


「はい」


「手紙読んだら分かる?」


「たぶん」


「じゃあ、読んで」


 子どもの言葉は。


 真っ直ぐだった。


 読まなければ。


 何も分からない。


 その通りだ。


 けれど。


「……少しだけ」


 私は。


 封書を抱きしめた。


「少しだけ、待ってください」


 誰に言ったのか。


 分からなかった。


 女の子に。


 村人たちに。


 手紙に。


 それとも。


 自分自身に。


 私は小屋へ向かって歩く。


 一歩。


 もう一歩。


 背中に。


 村人たちの視線を感じる。


 誰も。


 ついてこなかった。


 誰も。


 何かを言わなかった。


 扉の前まで来る。


 手を伸ばす。


 けれど。


 取っ手を掴む前に。


 髪へ挿された黄色い花が。


 風に揺れた。


 私は。


 指先で花へ触れる。


 落ちた花。


 拾われた花。


 枝へ戻れなくても。


 ここで咲いている花。


 その感触を確かめてから。


 扉を開けた。


 小屋の中は。


 朝と変わらなかった。


 窓辺には。


 水へ挿した白い花。


 机の上には。


 種の入った袋。


 椅子の背には。


 昨日使った上着。


 私の暮らし。


 私が選んだもの。


 私が。


 ようやく作り始めた場所。


 机の前へ座る。


 二通の封書を置く。


 右に。


 父からの手紙。


 左に。


 国王からの召喚状。


 封蝋を割るための小刀を。


 引き出しから出す。


 刃先を。


 青い封蝋へ近づける。


 手が震えた。


 小刀の先が。


 封蝋の表面へ触れる。


 あと少し力を入れれば。


 開く。


 何が書かれているのか。


 分かる。


 森へ残れるのか。


 王都へ戻らなければならないのか。


 ここで得たものを。


 守れるのか。


 すべて。


 分かってしまう。


 私は。


 小刀を置いた。


 机の上で。


 小さく金属音が鳴る。


「……開けられません」


 誰もいない部屋で。


 声にした。


 窓の外には。


 村人たちがいる。


 待ってくれている。


 畑を広げる途中で。


 作業を止めて。


 私を待っている。


 それなのに。


 私は。


 一通の手紙すら。


 開けることができなかった。


「怖いです」


 その言葉を。


 口にした瞬間。


 張りつめていたものが。


 少しだけ崩れた。


「戻りたくありません」


 まだ。


 戻れとは書かれていない。


「ここにいたいです」


 残ってよいとも。


 書かれていない。


「畑を」


 声が震える。


「畑を、広げたばかりなのです」


 そんなことが。


 国王の命令へ逆らう理由になるはずがない。


 貴族の責務を捨てる理由にも。


 公爵家へ戻らない理由にも。


 ならない。


 けれど。


 私にとっては。


 大切だった。


 今日。


 皆で立てた柱。


 まだ完成していない柵。


 これから蒔く種。


 夏に育つ野菜。


 秋に収穫する豆。


 冬に。


 また村へ分けられるかもしれない食べ物。


 来年。


 もっと広げようと笑えるかもしれない畑。


 その全部が。


 まだ。


 何一つ始まっていない。


「……離れたくありません」


 涙が。


 封書の上へ落ちた。


 青い封蝋の近く。


 紙へ。


 小さな染みが広がる。


 慌てて袖で拭おうとして。


 止めた。


 公爵家の書状を。


 泥のついた袖で拭くことなどできない。


 そう考えた自分が。


 まだ。


 公爵家の娘なのだと思い知らされる。


 森にいても。


 畑を耕しても。


 泥だらけになっても。


 髪へ花を挿しても。


 私の中には。


 あの屋敷で教え込まれたものが残っている。


 逃げられていない。


 何も。


 終わっていない。


 扉の外で。


 小さな音がした。


 叩こうとして。


 やめたような音。


 私は涙を拭う。


「どなたですか」


 返事はない。


「入ってください」


 少し間があって。


 扉が。


 ゆっくりと開いた。


 立っていたのは。


 村長でも。


 大人たちでもなかった。


 先ほどの女の子だった。


 両手を後ろへ隠し。


 不安そうに。


 私を見ている。


「どうしましたか」


「おねえちゃん」


「はい」


「まだ、読めない?」


 机の上の封書を見たのだろう。


「……はい」


 私は。


 子どもへ取り繕うこともできなかった。


「怖いから?」


「はい」


「手紙なのに?」


「手紙だからです」


 女の子は。


 よく分からないという顔をした。


 それでも。


 笑わなかった。


「お母さんね」


「はい」


「怖いときは、一人でやらなくていいって言ってた」


 私は。


 返事ができなかった。


「夜、お外の便所に行くとき」


「……はい」


「一人だと怖いから、お母さん起こすの」


「はい」


「お母さん、眠いって言うけど来てくれる」


「優しいお母様ですね」


「怒るよ」


「怒るのですか」


「もっと早く行きなさいって」


「それは」


 少しだけ。


 笑いそうになった。


「それでも、来てくれるのですね」


「うん」


 女の子は。


 後ろへ隠していた手を出した。


 握っていたのは。


 私が朝、食べられないと言った。


 あの赤い木の実だった。


「これは」


「埋めようと思ったけど」


 女の子は。


 木の実を机の端へ置く。


「おねえちゃんが戻ってこなかったから」


「手は洗いましたか」


「洗った」


「触ったあとも」


「洗う」


「そうしてください」


「うん」


 木の実。


 父からの手紙。


 国王からの召喚状。


 机の上へ。


 場違いなほど赤い色が加わる。


「これ、一緒に埋めるんでしょ」


「はい」


「だから」


 女の子は。


 私の隣に立った。


「手紙読んだら、埋めよう」


 あまりにも。


 簡単な言葉だった。


 手紙を読む。


 それから。


 木の実を埋める。


 その先に。


 何が書かれているかは関係ないように。


 明日も。


 その次の日も。


 畑で続きをすることが決まっているように。


「私は」


 声が詰まる。


「私は、ここを離れるかもしれません」


「なんで?」


「手紙に、そう書いてあるかもしれないからです」


「まだ読んでないのに?」


「はい」


「じゃあ、書いてないかもしれない?」


「……はい」


「なら、読もう」


 女の子は言った。


 迷いなく。


「一緒にいるから」


 私は。


 女の子を見る。


 小さな身体。


 土のついた靴。


 少し乱れた髪。


 きっと。


 国王の召喚状が何なのかも分かっていない。


 公爵家の命令も。


 貴族の責務も。


 何一つ知らない。


 それでも。


 怖がっている私を。


 一人にしないために。


 ここへ来た。


「……ありがとうございます」


 私は。


 机の上の小刀を取った。


 まだ。


 手は震えている。


 怖さも。


 消えていない。


 けれど。


 隣に。


 小さな気配がある。


 窓の外には。


 待っている人々がいる。


 私は。


 青い封蝋へ。


 もう一度、刃先を当てた。


 公爵家の紋章へ。


 少しずつ。


 力を加える。


 ぱきり。


 乾いた音がした。


 封蝋へ。


 一本の亀裂が入る。


 その音を聞いた瞬間。


 私は目を閉じた。


 もう。


 戻れない。


 けれど。


 開かなければ。


 進むこともできない。


 ゆっくり。


 目を開く。


 割れた封蝋の隙間へ。


 小刀を差し込んだ。


 そして。


 父から届いた手紙を。


 私は。


 ようやく開いた。

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