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『青の姫君の森暮らし 〜化け物と恐れられた公爵令嬢は、今日も畑を耕します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第67話 青の姫君、待たせることを覚える



 翌朝。


 私は、鳥笛が鳴らなかったことに気づいて目を覚ました。


 音がしたからではない。


 音がしなかったから。


 夜の間。


 どこかでずっと。


 耳の一部が待っていたのだと思う。


 一度。


 二度。


 三度。


 短い警戒の音。


 避難を知らせる音。


 見張りが近づく合図。


 そのどれかが。


 眠りの向こうから聞こえてくるのではないかと。


 でも。


 夜は、そのまま朝になった。


 窓の向こうでは。


 森鳥が。


 まだ眠たそうに。


 一度。


 間を置いて。


 もう一度鳴いている。


 人の吹く鳥笛ではない。


 高く。


 少し掠れ。


 木々の上へ抜けていく。


 私は寝台の上で目を開けたまま。


 しばらく天井を見ていた。


 胸の上へ手を置く。


 心臓。


 少し速い。


 でも。


 昨日の朝ほどではない。


 森の家。


 朝。


 結界。


 今のところ異常なし。


 母様の手紙は、村長さんの家。


 灰色の布に包まれている。


 四つ目の一文まで。


 読んだ状態で。


 私を待っている。


 愛しいフローラへ。


 資格がない。


 引き止められなかった。


 父様に逆らえば。


 二度と私へ近づけなくなるのが怖かった。


 母様の恐れ。


 私の痛み。


 その両方を。


 昨日の私は。


 自分の暮らしより先へ置かなかった。


 レナード隊の二人が。


 北の旧街道から森の外縁へ近づいた。


 鳥笛が鳴った。


 村の警戒が上がった。


 だから。


 私は母様の手紙を読まなかった。


 安全が確認された後も。


 読まなかった。


 今日は暮らしを守る日だと。


 自分で決めた。


 そのことを思い出す。


 胸の奥へ。


 少し不思議な感覚が残っていた。


 罪悪感。


 ほんの少し。


 でも。


 それ以上に。


 静かな確かさ。


 母様を待たせた。


 手紙を待たせた。


 それでも。


 森は壊れなかった。


 村も。


 私も。


 手紙も。


 そこにあった。


 待たせても。


 なくならなかった。


「おはようございます」


 私は天井へ向かって言った。


「今日も、森の家にいます」


 少し間を置く。


「おはようございます、母様」


 胸が少し痛む。


「昨日は、手紙を読みませんでした」


 返事はない。


「母様の言葉より、私の暮らしを先にしました」


 昨日も言った。


 でも。


 今朝の自分にも。


 もう一度伝える。


「待っていてください、と言いました」


 言葉にすると。


 少しだけ怖い。


 母様を待たせる。


 病があるかもしれない母様を。


 長い間。


 何もしてくれなかった母様を。


 それでも。


 母様。


 私の中で。


 完全に切り捨てた人ではない。


 だから。


 待たせることに。


 罪悪感がある。


 でも。


「今日も、すぐには読みません」


 私は続ける。


「畑を見ます」


 そして。


「キズナを見ます」


 昨日。


 少し立った芽。


 皺のある初葉。


 警戒の中でも。


 少しずつ光を受けていた。


「それから、村の様子を聞きます」


 旧街道。


 レナード隊。


 森の外縁。


 今朝。


 どうなっている。


 先に。


 今のこと。


「その後で、手紙を読むか決めます」


 決める順番。


 戻ってきた。


 私は布団をめくり。


 寝台から下りた。


 床板の冷たさ。


 昨夜。


 暖炉の火を小さくして眠った。


 灰の下に。


 まだ少し熱が残っている。


 玄関近く。


 布をかけた非常用の袋。


 置いたまま。


 見えすぎない。


 でも。


 すぐ取れる。


 私はその布へ一度目を向けた。


 必要なかった。


 昨夜は。


 鳥笛も鳴らなかった。


 でも。


 準備していたことは。


 無駄ではない。


 準備があったから。


 少し眠れた。


 私は窓へ近づいた。


 開ける前に。


 耳を澄ませる。


 鳥。


 小川。


 風。


 遠くの木が軋む音。


 結界。


 異常なし。


 窓を開ける。


 冷たい朝の空気が。


 部屋へ入る。


 昨日より。


 少し湿りがある。


 夜露。


 土。


 葉。


 森の匂い。


 私は深く息を吸った。


 一つ。


 吐く。


 二つ。


 今は朝。


 三つ。


 安全を確認する。


 四つ。


 畑を見る。


 五つ。


 食べる。


 六つ。


 村へ行く。


 七つ。


 手紙は、その後。


 私は顔を洗った。


 髪を梳く。


 空色の髪。


 一度。


 二度。


 三度。


 母様と同じ色。


 今日は。


 そのことが。


 少し遠く感じる。


 昨日。


 母様より先に。


 自分の暮らしを置いたからだろうか。


 空色の髪は。


 母様から受け継いだ色。


 でも。


 今。


 この髪を梳いているのは。


 私。


 森の家で。


 自分の手で。


 櫛を通す。


 母様の記憶がなくても。


 髪は整う。


 昔。


 母様に梳いてもらった時間が。


 消えるわけでもない。


 どちらも。


 ある。


 私は髪をまとめる。


 花守り布を手に取る。


 三つの芽。


 途中の花。


 開いた花。


 閉じ始めた花。


 少し立ったキズナ。


 皺のある葉。


 昨日。


 リーナが茎を少し上向きに縫い足した。


 でも。


 完全には立たせていない。


 曲がりを残したまま。


 今日の形。


 私は指先で。


 その刺繍をなぞる。


「今日は、どこまで立つでしょうか」


 少し楽しみ。


 母様の手紙を思い出しても。


 楽しみは残る。


 私は花守り布をかぶった。


「まずは、畑です」


 外へ出る。


 森の朝は。


 昨日より穏やかだった。


 雲の切れ間から。


 淡い光が落ちる。


 木々の高いところ。


 葉先。


 苔。


 夜露。


 小さな光が。


 あちこちで揺れている。


 結界。


 異常なし。


 家の周囲。


 人の足跡なし。


 北東側。


 草倒れなし。


 外縁の見張り。


 遠く。


 木の幹の隙間から。


 丸の合図。


 異常なし。


 私は胸を撫で下ろした。


 青豆一号。


 新葉。


 昨日と同じ角度。


 折れなし。


 虫害なし。


 夜露。


 葉面へ小さな水滴。


「おはようございます」


 第二の畝。


 アオジロウ。


 風よけなし。


 茎。


 安定。


 葉。


 異常なし。


 ムラマル。


 擦れ跡。


 残っている。


 白い。


 でも。


 広がっていない。


 葉全体の色も良好。


 モリタン。


 本葉。


 完全展開後二日目。


 昨日より。


 わずかに色が濃くなったように見える。


 淡緑。


 柔らかい。


 でも。


 葉脈が少しはっきり。


 私は畝の前へしゃがむ。


「おはようございます、モリタン」


 葉が風で揺れる。


 昨日。


 完全に開いた。


 今日。


 開いた状態で。


 一日を過ごした後。


 少し厚く。


 少し濃く。


 なっていく。


 開くことが終わりではない。


 開いた後。


 育つ。


 私は記録板を開いた。


 青豆一号、古い葉離脱後二十五日目。


 新葉一枚、葉柄角度変化継続。


 夜露あり。


 折損・虫害なし。


 アオジロウ、風よけ撤去継続。


 茎・葉とも安定。


 ムラマル、葉端擦過跡変化なし。


 拡大・変色なし。


 モリタン、本葉完全展開後二日目。


 葉色、前日比わずかに濃化の可能性。


 葉脈明瞭化。


 損傷なし。


 三芽、状態良好。


 観察者、夜間鳥笛なし。


 森外縁、朝時点で異常なし。


 観察者、母の手紙を待たせても、手紙も暮らしも失われなかったと確認。


 観察者、本日の読書は未決定。


 書き終えた後。


 私は最後の一行を見つめた。


 待たせても。


 失われなかった。


 母様も。


 そうなのだろうか。


 病が。


 どれほど進んでいる。


 まだ知らない。


 手紙に書かれているかもしれない。


 時間がないのかもしれない。


 その可能性。


 胸へ。


 また焦りを作る。


 でも。


 私は。


 手紙を一文ずつ読むと決めた。


 一日に一回。


 読んだ後は閉じる。


 読まない日もある。


 その手順を。


 今になって。


 病の可能性だけで壊してはいけない。


「まだ、分かりません」


 声に出す。


「母様の状態も。時間も」


 レナード隊が来た。


 母様の手紙。


 急いで読むべきだ。


 その考え。


 でも。


 使者の存在と。


 手紙の内容。


 分ける。


 ガルドさんたちは。


 母様が重篤だとは言っていない。


 私は。


 手紙を受け取った。


 でも。


 今すぐ返事をせよとも。


 書かれていない。


「今日、聞けることを聞きます」


 村へ行って。


 レナード隊の動き。


 母様の容体について。


 使者が何か伝えているか。


 でも。


 手紙の中身を。


 先に教えてもらうのではない。


 外から確認できる事実。


 それだけ。


 私は記録板へ一行加えた。


 観察者、母の容体に関する外部情報の有無を確認後、読書判断予定。


 記録。


 先に。


 手順。


 私は立ち上がった。


 畝の土。


 夜露。


 表面は湿っている。


 水やり不要。


 触れない。


 今日は。


 朝の処置なし。


 私は家へ戻った。


 朝食。


 昨日。


 警戒のため。


 少し多く作った芋と豆の煮物が残っている。


 それへ。


 水。


 葉野菜。


 少し塩。


 温める。


 平鍋でパンを軽く焼く。


 手を動かしながら。


 非常用の袋をどうするか考える。


 今日は。


 玄関近くに置いたまま。


 片づけるか。


 警戒は通常へ戻った。


 でも。


 レナード隊の動きは。


 完全に終わったわけではない。


 今すぐしまえば。


 何もなかったことにするよう。


 置いたままなら。


 ずっと危険を見続ける。


 私は鍋をかき混ぜる。


「帰ってから、中身を確認します」


 今日は。


 そのまま。


 見えすぎないよう布をかけた状態。


 急いで片づけない。


 ずっと出し続けるとも決めない。


 食卓へ。


 煮物。


 パン。


 薬草茶。


 一口。


 芋。


 二口。


 豆。


 三口。


 葉野菜。


 食べられる。


 昨日の緊張。


 まだ体に残っている。


 でも。


 味がする。


「今日は、手紙を読みたいですか」


 自分へ聞く。


 すぐには答えない。


 パンを一口。


 薬草茶。


 息を吐く。


 母様の次の一文。


 昨日は読まなかった。


 今日は。


 少し知りたい。


 でも。


 読まなかった日の後だから。


 遅れを取り戻すように読みたいだけではないか。


 昨日の分。


 今日読む。


 そんな順番ではない。


 手紙は。


 毎日一文進める課題ではない。


「今は、少し読みたいです」


 私は答えた。


「でも、昨日の分を取り戻すためではありません」


 大切な違い。


 遅れはない。


 止まった日は。


 欠けた日ではない。


 朝食を最後まで食べる。


 片づける。


 結界に。


 気配。


 三つ。


 リオ。


 ミナ。


 ガルドさん。


 昨日と同じ。


 今日は。


 鳥笛なし。


 通常の接近。


 私は手を拭き。


 戸を開けた。


「おはようございます」


「おはよう」


 リオの声。


 昨日より。


 少し大きい。


 安心しているのだろう。


 でも。


 目は。


 まず私。


 次に。


 家。


 結界。


 森。


 確認している。


「夜、大丈夫だった?」


「はい。鳥笛は鳴りませんでした」


「眠れた?」


「途中で何度か目が覚めた気がします」


「気がする?」


「はっきり覚えていません」


 ミナが言う。


「体は緊張を残しているかもしれません」


「はい」


「朝食は」


「食べました」


「よかったです」


 ガルドさん。


「夜間、北側に動きなし。レナード隊の二名も宿から出ていません」


 私は頷く。


「母様の容体について。何か新しい情報はありますか」


 三人が少し静かになる。


 ガルドさんが答える。


「ありません」


「使者は、何か伝えていませんか」


「手紙の内容以外に、緊急性を示す言葉はありません」


「母様が危篤だと」


「そのような報告はありません」


 胸が。


 少しだけ緩む。


 でも。


 完全ではない。


「では、今すぐ返事をしなければならない状況ではない?」


「少なくとも、使者側からその要求はありません」


 事実。


 今すぐではない。


 私は息を吐いた。


「ありがとうございます」


 リオが聞く。


「読む?」


「まだ、村へ行ってから決めます」


「うん」


「今は、少し読みたいです」


「昨日読まなかったから?」


 リオの問い。


 私は彼を見る。


 真っ直ぐ。


 以前のリオなら。


 そこまで考えず。


 今日は読めばいい、と言ったかもしれない。


 でも。


 今は。


 私の気持ちの理由まで。


 確認してくれる。


「いいえ」


 私は答える。


「昨日の分を進めたいわけではありません」


「じゃあ」


「母様の次の言葉を、少し知りたいです」


「うん」


「ただ、村へ着いても同じなら」


「一文」


「はい」


 ミナが。


 私の表情を見ながら言う。


「待たせることへの罪悪感はありますか」


「少し」


「はい」


「でも、待ってもらってよいとも思っています」


「はい」


「昨日、何も失われなかったので」


 手紙。


 暮らし。


 母様との関係。


 少なくとも。


 昨日一日で。


 何も決定的には変わらなかった。


 ミナが微笑む。


「それは大きな確認ですね」


「はい」


 三人を畑へ案内する。


 リオはモリタンを見る。


「色、濃くなった?」


「その可能性があります」


「まだ可能性」


「光の差かもしれません」


「記録、厳しい」


 ムラマル。


「白い跡、残ってる」


「はい」


「消えない?」


「分かりません」


「でも悪くない」


「はい」


 アオジロウ。


「何もない」


「安定です」


「何もないのも記録」


「はい」


 リオが。


 少し得意そうに言う。


 覚えた。


 ミナが笑う。


「今日は記録係らしいですね」


「分かりやすさ担当兼任」


「勝手に役目を増やさないでください」


 森へ。


 小さな笑い。


 朝食の残り。


 三人へ。


 リオはパンを手に取り。


 すぐ食べる。


 昨日。


 警戒で。


 食事が遅れたことを。


 少し反省したのかもしれない。


「今日は食べていますね」


 私が言う。


「昨日言われたから」


「覚えていたのですね」


「俺も記録する」


「何を」


「食べた回数」


 ミナが。


「三日で忘れそうですね」


「忘れない」


 ガルドさんが。


 珍しく少し笑う。


 食後。


 村へ向かう準備。


 薬草籠。


 記録板。


 花守り布。


 非常用の小袋は。


 今日は持たない。


 村まで。


 通常警戒。


 ただ。


 小さな水筒と。


 乾燥したパン一枚。


 薬草籠へ。


 普段より。


 少し備える。


 全部を持ち歩かない。


 でも。


 何も持たないわけでもない。


 私は家を出る前。


 引き出しへ目を向けた。


 空。


 母様の手紙は村。


「村へ行ってきます」


 閉じた引き出しへ言う。


「今日は、読むかもしれません」


 畑へ。


「行ってきます」


 アオジロウ。


 ムラマル。


 モリタン。


「昨日は、暮らしを先にしました」


 風が葉を揺らす。


「今日は、母様の言葉を少し知りたいです」


 でも。


「一文だけです」


 胸へ手を置く。


「戻ります」


 村への道。


 今日は。


 北側から少し離れた西の高道。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 夜は無事。


 四歩。


 母様は危篤ではない。


 五歩。


 手紙は待てる。


 六歩。


 読むかは村で。


 七歩。


 戻る。


 森の音。


 鳥。


 小川。


 足音。


 今日は。


 昨日ほど。


 北側ばかり気にならない。


 でも。


 完全に忘れてはいない。


 ガルドさんも。


 何度か立ち止まり。


 周囲を確認。


 見張り。


 丸。


 異常なし。


 途中。


 落ちた枝の下から。


 小さな白い茸が出ていた。


 昨日の朝には。


 気づかなかった。


 雨。


 湿り。


 倒れた木。


 その陰。


 変化。


 私は足を止めかける。


 でも。


 今日は記録しない。


 位置だけ覚える。


 すべてを拾わない。


 すべてを記録しない。


 今。


 優先するもの。


 村。


 キズナ。


 手紙。


 春待ちの根元は。


 帰りに。


 状況がよければ寄る。


 村の西側。


 見張り。


 丸。


 異常なし。


 村へ入る。


 昨日より。


 大人たちの肩が少し下がっている。


 武器を持つ者はいる。


 でも。


 広場の端。


 通常の位置。


 声も。


 少し大きい。


 パンの匂い。


 井戸。


 薪。


 子供たちの声。


 生活が。


 戻っている。


 でも。


 昨日の確認は。


 消えていない。


 南門近くには。


 避難時の集合場所を示す。


 新しい低い杭が立っている。


 赤い布。


 子供でも見える高さ。


 荷車の位置も。


 少し変わっている。


 昨日の警戒を。


 なかったことにせず。


 暮らしの中へ取り込んだ形。


 パン屋の女性が。


 私を見る。


「眠れたかい」


「はい。少し浅かったかもしれません」


「そうかい」


 彼女は。


 手にしていた小さなパンを。


 私へ差し出す。


「朝食は食べました」


「これは昼の前」


「まだ早いです」


「持っときな」


 私は少し迷い。


 受け取る。


「ありがとうございます」


「食べなくてもいい。持っとけばいい」


 準備。


 でも。


 必ず使わなくてもいい。


 昨日の非常用の袋と同じ。


 私は薬草籠へ入れる。


 共同畑。


 子供たち。


 キズナの周り。


 今日は。


 昨日より。


 少し離れている。


 見守り方を覚えた。


 エマが私に気づき。


 声を上げる。


「フローラ先生!」


「おはようございます」


「見て!」


 私は鉢へ近づく。


 キズナ。


 発芽五日目。


 茎。


 昨日より。


 さらに立っている。


 でも。


 完全ではない。


 根元。


 曲がり。


 残る。


 二枚の初葉。


 皺のある方。


 昨日より。


 少し面が広がっている。


 皺は消えていない。


 でも。


 葉の中央へ。


 細い葉脈が見える。


 反対側。


 ほぼ平ら。


 色。


 どちらも緑。


 私はしゃがんだ。


「おはようございます、キズナ」


 エマ。


「立った?」


「昨日より」


 トトが。


「ほら、予想当たった」


 サム。


「完全直立ではない」


「毎回言うな!」


 ニコが笑う。


 ルルは。


 皺のある葉を見つめる。


「こっちも、緑」


「はい」


「皺あっても」


「はい」


「昨日より広い」


「はい」


 私は記録板を開いた。


 赤筋葉、観察鉢。


 キズナ。


 発芽五日目。


 茎湾曲、前日比軽減。


 完全直立未達。


 初葉二枚、展開継続。


 圧迫側片葉、皺残存。


 受光面積増加。


 葉脈確認。


 反対葉、展開良好。


 葉色、両葉とも緑。


 萎れ・変色なし。


 追加処置不要。


 最後に。


 昨日の警戒後も成長継続。


 私は書き終える。


 エマが聞く。


「今日は手紙読む?」


 もう。


 子供たちも。


 毎朝聞くことを。


 急かすために使わない。


 ただ。


 今の私の気持ちを知るため。


「今は、少し読みたいです」


「昨日の分?」


 サムが聞く。


 リオと同じ。


 村の記録が。


 皆の考え方を変えている。


「いいえ」


 私は答える。


「昨日の分はありません」


「読まなかった日」


「はい」


「遅れてない?」


「はい」


 サムはすぐ記録する。


 読書中断日。


 遅れとして扱わない。


 エマが言う。


「じゃあ今日読みたくなったから?」


「はい」


 ルル。


「待たせても大丈夫だった」


「はい」


 ニコ。


「今日も待たせてもいい」


「はい」


「でも、読みたいなら読んでもいい」


「はい」


 私は微笑む。


 子供たちが。


 私の選択を。


 どちらかへ押さない。


 読む。


 読まない。


 両方。


 可能。


 今日の授業は。


 避難用の赤い杭から始まった。


 昨日。


 村長さんが立てたもの。


 子供たちへ。


 集合場所を確認する。


 赤い布。


 南門。


 井戸から離れ。


 荷車の通り道を空ける。


 エマが。


「昨日もやった」


「今日は、実際に歩きます」


 怖がらせない。


 でも。


 体で覚える。


 共同畑から。


 集合場所まで。


 走らない。


 押さない。


 手をつなぐか。


 誰と。


 小さい子。


 高齢者。


 ルルは。


 歩幅が小さい。


 トトが。


 最初。


 先へ行こうとして。


 戻る。


「俺、後ろ」


「なぜですか」


「遅い奴見る」


 言葉は少し乱暴。


 でも。


 役目。


 サムは。


 人数を数える。


 リーナは。


 赤い布と同じ色の糸を。


 小さな札へ縫う。


 ニコは。


 声を張る役。


「ここ!」


 エマは。


 小さい子の手を取る役。


 それぞれ。


 役割。


 私も。


 列の横を歩く。


 村人たちが見守る。


「走るなよ」


「荷車の前、空けろ」


「老人役、誰だ」


 井戸番の老人が。


「わしが本物でやる」


 周囲が笑う。


「演技いらないな」


「失礼な」


 緊張を。


 笑いで。


 軽くしすぎず。


 重くしすぎず。


 村全体が。


 昨日の怖さを。


 手順へ変えている。


 一度目。


 途中で。


 エマが振り返りすぎ。


 列が詰まる。


 やり直し。


 二度目。


 トトが先に行きすぎ。


 戻る。


 三度目。


 サムの人数確認に時間がかかる。


 数え方を変える。


 二列。


 組。


 一人ずつ。


 失敗。


 でも。


 怒らない。


 記録。


 改善。


「本番じゃなくてよかった」


 エマが言う。


「はい」


「失敗しても」


「今ならやり直せます」


「本番で失敗したら?」


 私は少し考える。


「止まらず、できる人が助けます」


「完璧じゃなくていい?」


「はい」


 完璧にできなければ。


 失敗。


 そうではない。


 命を守る。


 戻る。


 助ける。


 それが目的。


 母様も。


 完璧に父様へ逆らう必要はなかった。


 私は。


 またその考えへ触れる。


 廊下の途中まで。


 扉の前まで。


 声だけでも。


 母様には。


 完璧な救出など求めていなかった。


 ただ。


 来ようとしてほしかった。


 私は一瞬。


 足を止める。


 ミナが気づく。


「どうしましたか」


「母様のことを、思い出しました」


「はい」


「完璧に助けてほしかったのではないと」


 ミナは黙って待つ。


「失敗しても。父様に止められても。来ようとしてほしかった」


「はい」


「今日の訓練と重ねすぎていますか」


 私は自分へ聞く。


 ミナも。


 すぐ答えない。


「似ている部分を見つけたことと」


「はい」


「同じだと決めることは違います」


 胸へ落ちる。


「はい」


「今日の訓練から、自分の気持ちが見えた」


「はい」


「でも、母様が何をできたかは、まだ手紙の途中」


「はい」


 分ける。


 私は記録板へ。


 小さく書く。


 観察者、完璧な救出ではなく、失敗しても来ようとする行動を求めていたと再確認。


 母の可能行動範囲は未確定。


 自分の気持ち。


 母様の事実。


 分ける。


 訓練が終わる。


 子供たち。


 少し疲れた。


 でも。


 できたことが増える。


 村人たち。


 配置を調整。


 荷車。


 水。


 薬。


 母様の手紙が入る予定の重要記録箱も。


 村長宅から。


 南門へ運びやすい位置へ。


 実際にはまだ移さない。


 道だけ確認。


 私は箱を見る。


 手紙。


 重要。


 でも。


 人の後。


 その順番。


 今日も変わらない。


 昼前。


 村長さんが広場へ来る。


 訓練の様子を見て。


 いくつか指示。


 その後。


 私へ。


「今は、どうだい」


 昨日と同じ問い。


 私は胸へ手を置く。


 朝。


 少し読みたい。


 畑。


 キズナ。


 村。


 訓練。


 母様を待たせること。


 完璧な救出ではなく。


 来ようとしてほしかった気持ち。


 今。


 次の一文。


 知りたい。


 昨日読まなかったからではない。


 罪悪感を消すためでもない。


 母様の言葉を。


 少し。


 もう一つ。


 知りたい。


「読みます」


 私は答えた。


「今日の一文として」


 村長さんが頷く。


「昨日の続きではなく?」


「続きではあります」


 私は少し笑う。


「でも、昨日の分を取り戻すためではありません」


「うん」


「今日、読みたいから読みます」


「分かった」


 広場が静かになる。


 エマが。


 私へ近づく。


 今日は。


 袖を握らない。


 代わりに。


 少し離れたまま。


「待たせても大丈夫だった?」


「はい」


「今日も、途中で待たせる?」


「はい。一文の後は」


 ニコ。


「また閉じる」


「はい」


 ルル。


「次は、また別の日」


「はい」


 サム。


「第五読書。一文。一回。前日未読を遅れ扱いしない」


「はい」


 トト。


「芋」


 パン屋の女性が。


 遠くから。


「もう焼いてあるよ!」


 周囲に笑い。


 緊張が。


 少しほどける。


 リーナ。


「布がある」


「はい」


「今日も、自分で無理なら村長」


「はい」


「行ってきます」


「行ってらっしゃい」


 村長宅。


 仕事部屋。


 木の机。


 地図。


 記録簿。


 内庭の窓。


 今日は。


 窓から。


 南門の赤い布が。


 少しだけ見える。


 昨日。


 暮らしを守るために決めた集合場所。


 母様の手紙を読む部屋から。


 今の暮らしの印が見える。


 それが。


 安心だった。


 部屋には。


 村長さん。


 ミナ。


 私。


 リオは少し後ろ。


 ガルドさんは外。


 机の上。


 水。


 鎮静茶。


 焼いた芋。


 灰色の布。


 手巾。


 いつもの準備。


 でも。


 昨日。


 ここへ来なかった。


 そのことが。


 部屋へ入る足を。


 少し軽くしていた。


 毎日来なければならない場所ではない。


 私は。


 選んで来た。


 今日は。


 自分から。


 私は椅子へ座った。


 手を膝へ置く。


 指。


 少し冷たい。


 でも。


 震えは小さい。


 ミナが聞く。


「今も、読みたいですか」


「はい」


「昨日待たせたことを埋めるためではなく」


「はい」


「今日の一文として」


「はい」


 リオが言う。


「一文」


「はい」


「一回」


「はい」


「布」


「はい」


 村長さん。


「始めようか」


「お願いします」


 引き出し。


 かたり。


 灰色の包み。


 机へ。


 私は自分で布を開く。


 淡青色の封筒。


 深い青の封蝋。


 春告げ花。


 フローラへ。


 母様の字。


 胸が痛む。


 でも。


 昨日。


 この封筒を見なかった一日がある。


 それで。


 少しだけ。


 距離ができた。


 封筒は。


 私を急かさない。


 ただ。


 そこにある。


 私は便箋を取り出す。


 一枚目。


 これまでの言葉。


 愛しいフローラへ。


 資格がない。


 引き止められなかった。


 父様に逆らえば。


 二度と近づけなくなるのが怖かった。


 四つ目の一文。


 読んだ日の怒り。


 私の痛み。


 今もある。


 でも。


 今日は。


 その上に。


 暮らしを守った一日がある。


 赤い杭。


 鳥笛。


 キズナ。


 食事。


 森の家。


 私は視線を下げる。


「次へ行きます」


「はい」


 ミナ。


 五つ目の一文。


 母様の文字。


 前の一文より。


 筆圧がさらに弱い。


 途中。


 墨が少し掠れている。


 私は。


 ゆっくり。


 読む。


 ――けれど、あなたを引き止めなかったことで、本当にあなたを失ったのだと気づいた時には、すでに遅すぎました。


 私は。


 息を止めた。


 母様は。


 失ったと。


 書いた。


 気づいた時には。


 遅すぎた。


 いつ。


 いつ気づいたの。


 私が門を出た後。


 森へ入った後。


 何日。


 何月。


 母様は。


 私を失ったと。


 思った。


 胸の中へ。


 複数の感情が。


 一度に上がる。


 怒り。


 遅い。


 悲しみ。


 気づいてほしかった。


 安堵。


 母様も。


 失ったと思った。


 私だけではなかった。


 でも。


 それを嬉しいと思う自分が。


 ひどいように感じる。


 母様も苦しんだ。


 そう知って。


 少し安心する。


 それは。


 母様の痛みを望んでいるようで。


 怖い。


 私は灰色の布へ手を伸ばした。


 掴む。


 便箋へかける。


「今日は、ここまでです」


 声は。


 小さい。


 でも。


 はっきり。


 村長さんが。


 便箋を封筒へ戻す。


 灰色の布で包む。


 私は両手を膝へ。


 呼吸。


 一つ。


 吸う。


 二つ。


 吐く。


 胸が痛い。


 でも。


 息はできる。


 ミナが。


「止められました」


「はい」


「手を握りますか」


 私は少し考える。


「今日は、お願いします」


 手を伸ばす。


 ミナの手。


 温かい。


 前回。


 怒りを自分の中へ置きたくて。


 握らなかった。


 今日は。


 一人で持たなくてもいい。


 気持ちは。


 毎回同じではない。


 リオは。


 少し後ろ。


 黙っている。


 拳。


 握っていない。


 ただ。


 膝の上。


 両手を置いている。


 村長さんが聞く。


「どう感じた」


 私はすぐには答えない。


 母様。


 失った。


 遅すぎた。


 その言葉。


「……少し、安心しました」


 声が震える。


 ミナの手を握る。


「うん」


 村長さん。


「母様も、私を失ったと思っていたことに」


「うん」


「私だけが」


 胸が詰まる。


「私だけが、母様を失ったと思っていたのではなかった」


 涙が落ちる。


「はい」


 ミナ。


「でも」


 怒り。


「遅いです」


「うん」


「気づくのが」


「うん」


「私が門を出る前に、気づいてほしかった」


 涙。


「失ってからではなく」


 胸が痛い。


「失う前に」


 言葉にする。


 あの日。


 振り返った。


 母様は来なかった。


 その後。


 母様は。


 私を失ったと気づいた。


 遅すぎた。


 母様自身も。


 そう書いている。


「母様も、遅すぎたと分かっている」


 私は言う。


「はい」


「それは、少し安心します」


「はい」


「でも、許せるわけではありません」


「はい」


「悲しいです」


「はい」


「母様が苦しんだことを知って、少し嬉しいような気持ちもあります」


 言ってしまう。


 怖い。


 醜い。


 でも。


 隠さない。


 部屋は静か。


 誰も。


 すぐ否定しない。


 村長さんが聞く。


「なぜ、嬉しい」


 私は涙を拭う。


「私が、母様にとって何でもない存在ではなかったと分かるからです」


 胸が痛む。


「私を失っても、何も感じなかったのではない」


「うん」


「母様も、失ったと思った」


「うん」


「それが、少し嬉しいです」


 リオが。


 低い声で言う。


「苦しんでほしいんじゃない」


 私は彼を見る。


「うん」


「フローラが大事だったって証拠がほしい」


 胸へ。


 深く刺さる。


 涙が増える。


「はい」


「たぶん」


 リオは続ける。


「母親が苦しんだことが嬉しいんじゃなくて」


「はい」


「フローラを失ったことが、母親にとって痛かったって分かるのが嬉しい」


 私は頷く。


「そうです」


 言葉を。


 分けてくれる。


「ありがとうございます」


 ミナの手。


 温かい。


 村長さんが言う。


「安心していい」


 私は顔を上げる。


「君が大事だったと分かって、安心していい」


「はい」


「同時に、遅すぎたことへ怒っていい」


「はい」


「母親が苦しんだことを喜ぶ人間だと、自分を責めなくていい」


 胸が。


 少し緩む。


「はい」


「君が欲しかったのは、痛みではなく」


 村長さんの声。


「自分が大事だったという確かさだ」


 私は。


 泣きながら。


 何度も頷いた。


「はい」


 しばらく。


 誰も話さない。


 窓の外。


 南門の赤い布。


 風で揺れる。


 今の暮らし。


 守る場所。


 母様の手紙。


 過去の痛み。


 同じ部屋の中に。


 でも。


 混ざりすぎない。


 私は呼吸を整えた。


「今日は、ここまでです」


 自分でもう一度言う。


「うん」


 村長さん。


「手紙は、また預かってください」


「預かる」


「次は」


 続きを読む。


 母様が。


 何をした。


 探したのか。


 手紙を書こうとしたのか。


 父様に止められたのか。


 次の一文。


 知りたい。


 でも。


 今日は。


 この一文だけ。


「まだ決めません」


「分かった」


 灰色の包み。


 引き出しへ。


 かたり。


 見えなくなる。


 私は鎮静茶を飲む。


 苦い。


 温かい。


 焼いた芋。


 一口。


 甘い。


 今日は。


 最初から味がする。


 リオが。


 芋へ目を向ける。


 でも。


 すぐ取らない。


 私を見る。


「食べる?」


「はい」


 私は一つ。


 半分に割る。


 大きい方。


 リオへ差し出す。


 彼は驚く。


「そっち大きい」


「今日は、どうぞ」


「いいのか」


「はい」


 リオは受け取る。


 小さい方。


 私。


 いつもと反対。


 でも。


 それでいい。


「うまい」


「はい」


 怒り。


 安心。


 涙。


 芋。


 今日も。


 全部がある。


 広場へ戻る。


 子供たちは。


 南門から。


 共同畑へ戻ったところ。


 私を見る。


 エマが。


 顔を見て。


 すぐ聞く。


「泣いた?」


「はい」


「怒った?」


「少し」


「嬉しかった?」


 私は驚く。


 顔だけで。


 そこまで分かるのか。


「はい」


「両方?」


「はい」


 エマは頷く。


「何て?」


 伝えるか。


 少し考える。


 今日も。


 伝えたい。


「母様は」


 ゆっくり言う。


「私を引き止めなかったことで、本当に私を失ったと気づいた時には、もう遅すぎたと書いていました」


 子供たちが静かになる。


 ルルが聞く。


「お母さんも、失った?」


「はい」


「フローラ先生だけじゃない?」


「はい」


 胸が痛む。


 でも。


 少し温かい。


 ニコ。


「遅かった」


「はい」


 トト。


「でも気づいた」


「はい」


 サム。


「フローラ先生、嬉しい?」


「少し」


「どうして?」


「私が、母様にとって大切だったと分かるからです」


 エマが。


 すぐ言う。


「大切だったなら、来ればよかったのに」


 真っ直ぐ。


 私は頷く。


「はい。私も、そう思います」


「じゃあ怒る」


「はい」


「でも、大切だったのは嬉しい」


「はい」


 ルル。


「両方」


「はい」


 サムが記録する。


 母からの手紙。


 第五文。


 けれど、あなたを引き止めなかったことで、本当にあなたを失ったのだと気づいた時には、すでに遅すぎました。


 本人、安心。


 怒り。


 悲しみ。


 母も喪失を感じたと知り、本人が母にとって大切だったと確認。


 母の苦痛そのものを望むのではなく、大切だった確かさを求めていた。


 遅すぎたことへの怒り継続。


 本日一文で停止。


 灰色布、本人使用。


 前日未読は遅れではない。


 私は。


 最後の一行を見る。


 前日未読は遅れではない。


 今日の読書。


 昨日の穴埋めではない。


 今日の一文。


 それでよかった。


 リーナは。


 花守り布を開く。


 キズナ。


 少し立った茎。


 皺のある葉。


 その横。


 小さな空白へ。


 何かを縫おうとしている。


「何ですか」


 私が聞く。


「赤い布」


「避難場所の?」


「うん」


「花守り布へ?」


 リーナは頷く。


「今日も暮らし」


 胸へ落ちる。


 花。


 芽。


 キズナ。


 それだけではなく。


 村の赤い杭。


 今の生活を守る印。


「お願いします」


 彼女は。


 赤い短い線を。


 布の端へ縫う。


 大きくない。


 でも。


 見える。


 母様の手紙を読む日にも。


 今の暮らしがある。


 その印。


 午後。


 キズナを見る。


 茎。


 朝より。


 少しだけ。


 さらに上。


 初葉。


 皺のある方も。


 光へ向く。


 私は記録する。


 発芽五日目、午後。


 茎湾曲軽減継続。


 完全直立未達。


 初葉二枚、受光良好。


 圧迫側片葉、皺残存。


 葉脈確認。


 萎れ・変色なし。


 追加処置不要。


 その下。


 観察者、母の第五文読了。


 母も喪失を感じたと知る。


 安心と怒り、両方。


 読まなかった日の後でも、遅れを埋めず、今日の一文として読む。


 書き終える。


 エマが聞く。


「キズナ、明日完全に立つ?」


 トトが。


「立つ」


 サム。


「予測、未確定」


 皆が笑う。


 私も笑う。


 完全に立つ。


 立たない。


 どちらでも。


 明日。


 見る。


 母様の手紙も。


 次を読むか。


 読まないか。


 明日の私が決める。


 夕方前。


 村長さんへ。


「今日も、預かってください」


「預かる」


「母様を待たせることへの罪悪感が、少し減りました」


「うん」


「でも、なくなってはいません」


「なくさなくてもいい」


「はい」


「罪悪感があるから読むのではなく」


「はい」


「読みたい時に読む」


「はい」


 村長さんが。


 少し笑う。


「今日、それができた」


「はい」


 私は頭を下げた。


 子供たちへ。


「行ってきます」


 エマ。


「また明日!」


 ニコ。


「遅れ、なし」


「はい」


 ルル。


「今日の一文」


「はい」


 サム。


「第五文まで記録済み」


「はい」


 トト。


「キズナ、明日は立つ」


 サム。


「予測――」


「もう言うな!」


 笑い。


 リーナ。


「赤い布、追加した」


「ありがとうございます」


 私は花守り布へ触れる。


 今の暮らし。


 持ち帰る。


 村を出る。


 帰り道。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 母様も失った。


 四歩。


 遅すぎた。


 五歩。


 私は大切だった。


 六歩。


 昨日は遅れではない。


 七歩。


 今日はここまで。


 春待ちの根元へ。


 今日は寄る。


 見張り。


 安全確認。


 第一花。


 土へ。


 さらに沈む。


 形が。


 少し崩れている。


 第二花。


 花弁が一枚。


 落ちかけ。


 第三花。


 俯き。


 第四花。


 まだ。


 開いている。


 同じ場所。


 違う時間。


 私はしゃがむ。


「昨日は、来ませんでした」


 花へ言う。


 警戒。


 帰路。


 暮らし。


 それで。


 寄らなかった。


「でも、忘れていません」


 第一花。


 土。


 第二花。


 風。


「今日、来ました」


 毎日来なければ。


 大切ではないわけではない。


 母様の手紙も。


 同じ。


「待たせても、戻れます」


 言葉にする。


 胸が少し温かくなる。


 記録。


 第一花、分解進行。


 第二花、花弁一枚付け根緩み。


 第三花、俯き増加。


 第四花、展開維持。


 昨日未観察。


 観察間隔一日。


 変化あり。


 私は最後に書く。


 毎日見なくても、戻って観察できる。


 木板を閉じる。


「また明日」


 森の家。


 結界。


 外周。


 異常なし。


 見張り。


 丸。


 私は戸を開ける。


「ただいま」


 家。


 机。


 引き出し。


 花守り箱。


 非常用の袋。


 すべて。


 ある。


 私は。


 まず。


 非常用の袋へ近づいた。


 布を外す。


 中身。


 水。


 乾燥パン。


 薬草。


 火打ち。


 小さな布。


 確認。


 期限。


 水は。


 今日入れ替える。


 乾燥パン。


 問題なし。


 薬草。


 湿りなし。


 私は袋を。


 玄関の見えすぎない場所へ。


 低い棚。


 すぐ取れる。


 でも。


 床へ出しっぱなしではない。


 置き直す。


 警戒を忘れない。


 暮らしを占領させない。


 その後。


 畑へ。


 青豆一号。


 無事。


 アオジロウ。


 無事。


 ムラマル。


 擦れ跡。


 変化なし。


 モリタン。


 本葉。


 朝より。


 光を多く受け。


 少し濃い緑に見える。


 私は畝の前へしゃがむ。


「ただいま」


 三つの芽へ。


「今日は、母様の手紙の五つ目の一文を読みました」


 風が葉を揺らす。


「母様は、私を引き止めなかったことで、本当に私を失ったと気づいたそうです」


 胸が痛い。


「遅すぎた、と」


 アオジロウ。


 ムラマル。


 モリタン。


「私は、少し安心しました」


 声が震える。


「私を失っても、何も感じなかったのではないと分かったからです」


 涙が一滴。


 土へ落ちる。


「でも、怒っています」


 母様。


 遅い。


 気づくのが。


「失う前に、気づいてほしかったです」


 言えた。


「昨日、手紙を読まなかったことは、遅れではありませんでした」


 葉。


 風。


「今日は、今日の一文を読みました」


 胸へ手を置く。


「待たせても、戻れました」


 手紙へも。


 春待ちの根元へも。


 村へも。


「今日は、ここまでです」


 リオたちが。


 森の家まで同行している。


 ミナが確認する。


「今夜、母様が苦しんだことを喜んだ自分は悪いと思ったら?」


 私は少し考える。


「母様の苦しみを望んだのではないと、言います」


「はい」


「私は、自分が大切だった証がほしかった」


「はい」


「それを知って、安心した」


「はい」


 リオが言う。


「安心していい」


「はい」


「遅いって怒ってもいい」


「はい」


「両方」


「はい」


 ガルドさん。


「今夜も通常見張りです。旧街道の二名に動きなし」


「ありがとうございます」


 三人を見送る。


 結界を閉じる。


 夜。


 夕食。


 今日。


 パン屋の女性にもらった小さなパン。


 昼には食べなかった。


 持って帰った。


 夕食へ。


 温める。


 芋。


 豆。


 葉野菜。


 一緒に。


 食べる。


 準備したものが。


 必要な時へ。


 場所を変える。


 朝の予備。


 夜の食事。


 無駄ではない。


 全部。


 予定通りでなくても。


 使える。


 私は最後まで食べた。


 日記帳を開く。


 今日。


 夜の間、鳥笛は鳴らなかった。


 母様の容体について。


 緊急性を示す新しい情報はないと確認した。


 手紙は、私を待てる。


 昨日。


 読まなかった。


 でも。


 昨日は遅れではない。


 今日。


 今日の一文として。


 第五文を読んだ。


 けれど、あなたを引き止めなかったことで、本当にあなたを失ったのだと気づいた時には、すでに遅すぎました。


 母様も。


 私を失ったと思った。


 私は少し安心した。


 母様が苦しんだことそのものを望んだのではない。


 私が。


 母様にとって。


 失えば痛い存在だったと分かることが。


 嬉しかった。


 私はペンを止めた。


 失えば痛い存在。


 大切。


 愛しい。


 最初の一文へ。


 少し戻る。


 愛しいフローラへ。


 母様は。


 愛しいと書いた。


 資格がないと書いた。


 引き止められなかった。


 恐れた。


 失った。


 遅すぎた。


 少しずつ。


 母様の言葉が。


 つながり始めている。


 でも。


 私は。


 まだ全部を読まない。


 一文ずつ。


 その日に。


 受け取れる分。


 私は最後に書いた。


 母様を待たせても。


 手紙はなくならなかった。


 私の暮らしも壊れなかった。


 昨日は、遅れではない。


 読まなかった一日も。


 母様の手紙を読む時間の一部。


 私は、罪悪感を埋めるために読まない。


 読みたい日に。


 今日の言葉として読む。


 母様も私を失ったと思っていた。


 それを知って。


 安心していい。


 同時に。


 遅すぎたことへ怒っていい。


 私は、大切だったという確かさを求めていた。


 それは。


 母様の苦しみを望むこととは違う。


 日記帳を閉じる。


 机の引き出しへ手を置く。


 空。


 でも。


 手紙の場所。


 棚の上。


 花守り箱。


 玄関近く。


 非常用の袋。


 窓の外。


 畑。


 全部。


 それぞれの場所。


 私は目を閉じる。


「おやすみなさい、母様」


 静かに言う。


「昨日は、待っていてくれてありがとうございます」


 返事はない。


 でも。


 言いたかった。


「今日は、読みました」


 胸が痛む。


「母様も、私を失ったと思っていたことを知りました」


 涙が頬を伝う。


「少し安心しました」


 長い沈黙が。


 部屋の中へ、静かに降りてきた。


 暖炉の火が。


 ぱちり、と。


 小さく薪を弾く。


 その音だけが。


 夜の静けさを、少しだけ揺らした。


 私は。


 目を閉じたまま。


 胸へ手を重ねる。


 今日。


 泣いた。


 怒った。


 安心した。


 笑った。


 芋を食べた。


 キズナを見た。


 子供たちと歩いた。


 避難訓練をした。


 母様の一文を読んだ。


 全部。


 一日。


 全部。


 今日。


 そのどれもが。


 昨日を取り戻すためではなかった。


 今日だから。


 起きたこと。


「……おやすみなさい」


 もう一度だけ。


 小さく呟く。


 返事はない。


 それでも。


 今日は。


 返事を待たなかった。


 私は。


 寝台へ横になった。


 窓の外では。


 森鳥が。


 一度だけ鳴く。


 昨日。


 警戒の音を待っていた耳は。


 今日は。


 鳥の声を、鳥の声として聞いていた。


 それだけで。


 少しだけ。


 胸が軽かった。


 夜は。


 静かに更けていく。


 私は。


 眠りへ落ちる前。


 最後に一つだけ考えた。


 母様は。


 私を失ったと思った。


 私は。


 母様を失ったと思っていた。


 同じ「失う」でも。


 そこへ至る道は。


 違っていた。


 私は。


 門の前で振り返った。


 母様は来なかった。


 母様は。


 私がいなくなった後で。


 失ったことへ気づいた。


 その時間は。


 戻らない。


 埋まらない。


 許せない。


 でも。


 知らないままより。


 知った今のほうが。


 少しだけ。


 前へ進める気がした。


 暖炉の火が。


 ゆっくりと小さくなる。


 夜風が。


 窓辺の花守り布を揺らす。


 途中の花。


 開いた花。


 閉じ始めた花。


 少し立ったキズナ。


 皺の残る葉。


 布の端には。


 今日。


 リーナが縫ってくれた赤い糸。


 暮らしを守る印。


 母様の手紙を読む日も。


 森の暮らしは続いている。


 そのことを。


 忘れないための印。


 私は。


 安心して目を閉じた。


 今日という日は。


 今日のまま終わる。


 昨日を取り戻さず。


 明日を急がず。


 ただ。


 一日として。


 静かに終わっていった。

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