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『青の姫君の森暮らし 〜化け物と恐れられた公爵令嬢は、今日も畑を耕します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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66/101

第66話 青の姫君、守る順番を選ぶ



 翌朝。


 私は、鳥笛の音で目を覚ました。


 短く、一度。


 少し間を置いて。


 もう一度。


 森鳥の鳴き声ではない。


 葉擦れでも。


 枝が窓枠へ触れた音でもない。


 人が吹く音。


 村と森の間で決めた合図。


 私は布団を跳ね上げた。


 眠気は、一瞬で消えた。


 胸が強く鳴る。


 一度目。


 注意。


 二度目。


 待機。


 侵入ではない。


 緊急避難でもない。


 けれど。


 何かが起きている。


 私は寝台から足を下ろした。


 床の冷たさ。


 朝の暗さ。


 窓の向こうは、まだ白み始めたばかり。


 結界は。


 反応していない。


 誰かが森の家へ近づいているわけではない。


 鳥笛は、少し離れた外縁から聞こえた。


 見張り。


 ガルドさんか。


 別の人か。


 私は窓へ近づいた。


 開けない。


 まず。


 耳を澄ませる。


 三度目はない。


 短く二度。


 注意。


 待機。


 外へ出ない。


 結界を開かない。


 合図が変わるまで、家の中で確認。


 手順。


 何度も村で決めたもの。


 私は窓枠へ手を置いた。


 一つ。


 息を吸う。


 二つ。


 吐く。


 三つ。


 森の家。


 四つ。


 結界は正常。


 五つ。


 外へ出ない。


 六つ。


 合図を待つ。


 七つ。


 私は一人ではない。


 見張りがいる。


 自分へ言葉を与える。


「鳥笛、二回」


 声は少し震えた。


「注意。待機」


 昨日。


 母様の手紙の四つ目の一文を読んだ。


 母様は。


 父様に逆らえば。


 二度と私へ近づけなくなるのだと恐れていた。


 その結果。


 私を引き止めなかった。


 私は。


 母様も。


 父様も。


 家も。


 全部から離れた。


 昨夜。


 その一文を胸に持ったまま眠った。


 そして今。


 父様の側から来たレナード隊が。


 旧街道へ動いている。


 母様の手紙。


 父様の影。


 森の外の動き。


 全部が。


 一つにつながろうとする。


 私は胸へ手を当てた。


「まだ、何が起きたか分かりません」


 決めつけない。


「レナード隊とは限りません」


 可能性はある。


 でも。


 事実ではない。


「結界は反応していません」


 今の事実。


「外へ出ません」


 自分の選択。


 私は寝間着のままではなく。


 すぐ動ける服へ着替えた。


 厚手の上着。


 足首まで覆う靴。


 髪を簡単にまとめる。


 花守り布は。


 すぐ取れるよう机の上へ。


 薬草籠。


 水。


 保存食。


 鳥笛。


 非常用の小さな袋。


 準備。


 逃げると決めたわけではない。


 でも。


 必要なら持てるようにする。


 母様の手紙は、村長さんの家。


 森の家にはない。


 少し安心した。


 もし。


 今、何か起きても。


 封書を守ることまで考えなくていい。


 それは村にある。


 灰色の布と一緒に。


 私の手元には。


 日記帳。


 花守り布。


 花守り箱。


 畑。


 森の家。


 守りたいものは多い。


 でも。


 全部を同時に持てない。


 逃げる必要があるなら。


 何を持つ。


 何を置く。


 考えるだけで。


 胸が苦しくなる。


 私は首を横に振った。


「まだ、逃げる合図ではありません」


 注意。


 待機。


 今は。


 情報を待つ。


 暖炉へ火を入れる。


 非常時でも。


 水を温める。


 朝は冷たい。


 体を冷やさない。


 何かを食べる。


 考えるため。


 動くため。


 私は小鍋へ水を入れ。


 簡単な粥を作り始めた。


 穀物。


 乾燥した葉野菜。


 塩。


 芋。


 手が少し震える。


 芋を切る刃が。


 板へ強く当たる。


 とん。


 いつもより大きな音。


 私は一度、刃を置いた。


「急がない」


 自分へ言う。


「手を切れば、動けなくなります」


 呼吸。


 一つ。


 二つ。


 もう一度、刃を持つ。


 ゆっくり。


 芋を切る。


 小鍋へ。


 火。


 湯気。


 外では。


 鳥笛の続きはない。


 私は時々、窓の方へ目を向ける。


 結界。


 異常なし。


 それでも。


 森全体が。


 静かすぎるように感じる。


 鳥も。


 まだ少ない。


 朝が早いだけかもしれない。


 私は粥をかき混ぜた。


 母様の手紙の次。


 今日は読むつもりだっただろうか。


 昨日。


 理由の一つを知った。


 母様は父様を恐れていた。


 次の一文には。


 その後。


 何が続く。


 謝罪か。


 言い訳か。


 後悔か。


 でも。


 今。


 そんなことを考えている場合ではない。


 外の安全。


 森の家。


 村。


 見張り。


 優先するもの。


 私は匙を持ったまま。


 ふと気づいた。


 母様の手紙を読み始めてから。


 私は毎朝。


 読むか。


 読まないか。


 それを大きく考えてきた。


 でも。


 今日は。


 それより先に。


 村の安全がある。


 暮らしがある。


 畑がある。


 母様の言葉は大切。


 でも。


 私の今日全部ではない。


「今日は、手紙を読みません」


 まだ誰にも聞かれていない。


 でも。


 私は言った。


「少なくとも、安全が確認できるまでは」


 いや。


 そこまで言い。


 私は止まった。


 安全が確認されたら。


 読むのか。


 それは。


 外の状況に。


 自分の読書を決めさせることになる。


 危険が去った。


 だから読まなければ。


 そんな必要はない。


「今日は、読みません」


 今度は。


 はっきり言った。


「安全が確認されても」


 今日は。


 母様の手紙ではなく。


 今の暮らしを守る日。


 それでいい。


 私は粥を椀へよそった。


 机へ座る。


 一口。


 熱い。


 二口。


 芋。


 三口。


 塩気。


 食べられる。


 胸は緊張している。


 でも。


 食べられる。


 外の音へ耳を向けながら。


 ゆっくり。


 最後まで。


 食べ終えた頃。


 結界の外側に。


 気配が一つ触れた。


 人。


 知っている気配。


 ガルドさん。


 でも。


 結界は開けない。


 合図を待つ。


 短い鳥笛。


 一度。


 少し間。


 三度。


 身元確認済み。


 接触可。


 私は胸を撫で下ろした。


 戸へ向かう。


 でも。


 すぐには開けない。


 覗き窓。


 ガルドさん。


 一人。


 武装。


 周囲を見る。


 異常なしの丸。


 私は結界を一部開く。


 戸を開けた。


「おはようございます」


「おはようございます」


 ガルドさんの声は低い。


 普段より硬い。


「何がありましたか」


 私はすぐ聞いた。


 彼は家へ入らず。


 玄関の外で答えた。


「北の旧街道へ出ていたレナード隊の二名が、森外縁の見張り線近くまで来ました」


 胸が強く鳴る。


「村へ向かって?」


「いいえ。現在地から見ると、森の北側を調べていたようです」


「何を」


「不明です」


「こちらに気づきましたか」


「見張りの存在は気づかれた可能性があります。ただし、こちらから姿は見せていません」


「今は」


「旧街道へ戻っています」


 私は息を吐いた。


 完全に安心ではない。


「鳥笛の二回は」


「森へ入る可能性を考えたためです」


「三回目がなかったのは」


「侵入しなかったからです」


 手順。


 機能した。


 私は花守り布をかぶった。


「村は」


「通常警戒です。混乱はありません」


「リオとミナは」


「村で待機しています。私だけ先に報告へ来ました」


「ありがとうございます」


 ガルドさんは私の顔を見る。


「今日は、森の家に残りますか」


 選択。


 村へ行くか。


 家に残るか。


 外縁に近づいた二名。


 今は戻った。


 村の方が。


 人が多い。


 安全かもしれない。


 でも。


 森の家。


 畑。


 結界。


 ここを空ける。


 不安。


 私は胸へ手を置いた。


「畑を確認してから決めます」


「分かりました」


 ガルドさんは玄関の外で待つ。


 私も。


 一人ではない。


 畑へ向かう。


 結界内。


 青豆一号。


 新しい足跡なし。


 葉。


 茎。


 異常なし。


 アオジロウ。


 風よけなし。


 無事。


 ムラマル。


 擦れ跡。


 変化なし。


 モリタン。


 本葉。


 完全に開いている。


 朝露を受け。


 小さな雫が葉脈の中央へ乗っている。


 私は畝の前へしゃがんだ。


「おはようございます」


 声が少し震える。


「今日は、鳥笛が鳴りました」


 畑へ報告。


「でも、誰も森へ入っていません」


 葉が。


 朝の弱い風で揺れる。


「皆、無事です」


 言葉にすると。


 自分も少し落ち着く。


 私は記録板を開いた。


 青豆一号、古い葉離脱後二十四日目。


 早朝、外縁警戒発生。


 植物状態、異常なし。


 新葉一枚の葉柄角度変化継続。虫害なし。


 アオジロウ、茎・葉安定。


 ムラマル、葉端擦過跡変化なし。


 モリタン、本葉完全展開後一日目。朝露あり。折損・変色なし。


 三芽、状態良好。


 観察者、鳥笛二回により屋内待機。


 観察者、レナード隊二名が北側森外縁付近まで接近したとの報告を受ける。


 侵入なし。


 観察者、本日は母の手紙を読まないと決定。


 理由、現在の暮らしと安全を先に守るため。


 私は書き終えた。


 最後の一文。


 本日は母の手紙を読まない。


 安全が確認されても。


 読む日ではない。


 今の生活を先に見る。


 私は木板を閉じた。


「今日は、村へ行きます」


 決めた。


 家へ一人で残り。


 外の音を気にし続けるより。


 村へ。


 情報。


 人。


 共同畑。


 キズナ。


 今の暮らしの中へ。


 ガルドさんへ伝える。


「村へ行きます」


「分かりました」


「森の家は」


「外縁見張りを一名増やします」


「結界は閉じます」


「はい」


「必要なら戻れますか」


「安全な道を確保します」


 私は家へ戻った。


 非常用の袋。


 持っていくか。


 薬草籠。


 記録板。


 花守り布。


 花守り箱は置く。


 日記帳も。


 すべて持たない。


 必要なものだけ。


 森の家を出る前。


 机の引き出しへ目を向ける。


 中は空。


 母様の手紙は村。


 今日は。


 見ない。


 でも。


 村長さんの家にある。


 それでも。


 開けない。


 私は閉じた引き出しへ言った。


「今日は、母様の手紙を読みません」


 母様へではなく。


 自分へ。


「村へ行きます」


 戸を閉める。


 結界を確認する。


 畑へ。


「行ってきます」


 アオジロウ。


 ムラマル。


 モリタン。


「今日は、安全を見ます」


 胸へ手を置く。


「戻ります」


 村への道。


 今日は西の高道。


 北から離れる。


 ガルドさんが先。


 見張り一人が後ろ。


 私は中央。


 いつもは。


 リオとミナがいる。


 今日は、いない。


 少し寂しい。


 でも。


 ガルドさんがいる。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 鳥笛。


 四歩。


 侵入なし。


 五歩。


 村。


 六歩。


 手紙は読まない。


 七歩。


 戻る。


 森は。


 普段と変わらないように見える。


 鳥。


 小川。


 葉。


 でも。


 北側。


 誰かがいた。


 その事実だけで。


 木々の隙間が。


 いつもより深く見える。


 知らない足音が。


 いつ聞こえるか。


 耳が探してしまう。


 私は足元へ意識を戻す。


 石。


 根。


 落ち葉。


 今。


 ガルドさんが一度止まった。


 手を上げる。


 全員が止まる。


 遠く。


 枝が折れる音。


 ぱき。


 私は息を止める。


 ガルドさんが耳を澄ます。


 もう一度。


 葉擦れ。


 低い獣の声。


 鹿に似た森獣が。


 斜面の向こうを通る。


 人ではない。


 丸の合図。


 進む。


 確認。


 怖さを。


 現実の大きさへ戻す。


 村の西側。


 見張り。


 丸。


 異常なし。


 柵を越える。


 村。


 パンの匂い。


 井戸。


 薪。


 人の声。


 普段通り。


 でも。


 少しだけ。


 大人たちの動きが違う。


 見張り役が増えている。


 武器を持つ者が。


 広場の端にいる。


 声は低い。


 子供たちを怖がらせないよう。


 いつもの作業を続けながら。


 警戒。


 群衆の空気。


 見えない糸が張っている。


 私が入ると。


 何人かが顔を上げる。


 ほっとした表情。


 パン屋の女性。


「無事だったかい」


「はい」


「鳥笛、聞こえた?」


「はい」


「怖かったろ」


 私は少し考え。


「はい。でも、手順通りに待てました」


「そうかい」


 彼女は頷く。


 それ以上。


 慰めすぎない。


 リオとミナが。


 共同畑の前から走りそうになり。


 途中で速度を落とす。


 私を怖がらせないため。


「フローラ!」


 リオ。


「無事です」


「鳥笛、聞いた?」


「はい」


「家、大丈夫?」


「はい。畑も」


 ミナが私の顔を見る。


「手は」


「少し震えました」


「朝食は?」


「食べました」


 ミナの表情が少し緩む。


「よかったです」


 リオが言う。


「俺、行こうとした」


「森へ?」


「うん。でも止められた」


 ガルドさんを見る。


「当然です」


 ガルドさんは静かに答える。


「見張り線が不明な状態で人数を増やすのは危険です」


 リオは悔しそう。


「分かってる」


 私は彼を見る。


「待ってくれて、ありがとうございます」


 リオが顔を上げる。


「行かなくてよかった?」


「はい」


「でも、フローラ一人だった」


「見張りがいました」


「うん」


「私も手順を知っています」


「うん」


「リオが来れば、安心したかもしれません」


 正直に言う。


「でも、危険が増えたかもしれません」


 リオは拳を握り。


 開く。


「待つ守り」


 自分で言う。


「はい」


「分かった」


 以前。


 手紙を読む時にも。


 待つことが守りだった。


 今日。


 外の危険でも。


 同じ。


 ミナが聞く。


「手紙は、今日は」


「読みません」


 私はすぐ答えた。


 迷いはない。


「今日は、安全を先に見ます」


 リオが頷く。


「うん」


「母様の言葉は逃げません」


「うん」


「村長さんのところにあります」


 ミナが微笑む。


「はい」


 子供たちは。


 少し離れて。


 私たちのやり取りを見ていた。


 エマが近づく。


「鳥笛、聞いた?」


「はい」


「怖かった?」


「はい」


「逃げた?」


「いいえ。家で待ちました」


「畑は?」


「無事です」


 子供たちが。


 ほっとする。


 ニコ。


「モリタンは?」


「本葉、完全に開いています」


 小さな歓声。


 ルル。


「キズナも見る?」


「はい」


 共同畑へ。


 キズナ。


 昨日。


 二枚の初葉。


 片方に皺。


 茎は少し曲がっていた。


 今朝。


 初葉は。


 さらに開いていた。


 皺のある方も。


 光を受ける面が増えている。


 茎。


 昨日より。


 少しだけまっすぐ。


 完全ではない。


 根元に近い部分は。


 まだ曲がっている。


 でも。


 自分で。


 光の方へ向いている。


 私はしゃがんだ。


「おはようございます、キズナ」


 胸が温かくなる。


「今日は、少し立ちましたね」


 エマが言う。


「トトの予想当たった!」


 トトが胸を張る。


「だから言っただろ」


 サムが記録板を開く。


「予測的中。だが一部」


「一部って何だ」


「完全直立ではない」


「細かい!」


 周囲に笑い。


 緊張のある村。


 でも。


 笑いがある。


 私はキズナを観察する。


 初葉。


 色。


 皺。


 茎。


 土。


 水分。


 問題なし。


 記録板を開く。


 赤筋葉、観察鉢。


 正式名キズナ。


 発芽四日目。


 初葉展開進行。


 圧迫側片葉、皺残存。受光面積増加。


 反対葉、展開良好。


 茎、湾曲軽減。完全直立未達。


 緑化良好。


 萎れ・変色なし。


 追加処置不要。


 外部警戒中も状態良好。


 私は最後の一行を書いた。


 警戒があっても、植物の時間は進む。


 木板を見る。


 鳥笛。


 レナード隊。


 村の緊張。


 その間にも。


 キズナは。


 少し立った。


 モリタンも。


 本葉を開いた。


 生活は。


 危険だけではない。


 エマが聞く。


「今日は手紙読む?」


「いいえ」


「どうして?」


「今日は、村と森の安全を先に見たいからです」


「手紙、怒る?」


「手紙は怒りません」


「お母さんは?」


 真っ直ぐ。


 私は少し考える。


「分かりません」


「待てる?」


「待ってもらいます」


 言えた。


 母様に。


 私の時間を。


 待ってもらう。


 病気かもしれない。


 急いでいるかもしれない。


 それでも。


 私の安全。


 私の生活。


 先。


 サムが記録する。


 本日、手紙読書なし。


 理由、森外縁警戒。


 現生活の安全確認を優先。


 母へ待ってもらう。


 私はその文字を見た。


 母へ待ってもらう。


 昔。


 私は。


 母様を待っていた。


 来てくれるのを。


 何か言ってくれるのを。


 今。


 母様の手紙が。


 私を待つ。


 順番が変わった。


 でも。


 仕返しではない。


 私の時間。


 今日の授業は。


 警戒時の畑の守り方になった。


 人が少なくても。


 水。


 見張り。


 動物。


 火。


 何を優先するか。


 共同畑。


 全部の株を。


 同じように守れない。


 もし。


 急に村を離れなければならない時。


 持ち出す種。


 残す畑。


 水を止める場所。


 火を消す。


 子供たち。


 集合。


 エマがすぐ言う。


「キズナ持ってく!」


 私は首を横に振る。


「鉢は持てる可能性があります」


「じゃあ持つ!」


「でも、人が先です」


 子供たちが静かになる。


「人」


「はい」


「子供。高齢者。怪我人」


 サムが記録。


 トト。


「畑は?」


「後です」


「枯れるかも」


「はい」


「それでも?」


「はい」


 私は答える。


「命を先にします」


 胸が痛む。


 森の家。


 畑。


 アオジロウ。


 ムラマル。


 モリタン。


 もし。


 逃げなければならない時。


 置いていく。


 その可能性。


 考えたくない。


 でも。


 決めておく。


「植物は大切です」


 私は続ける。


「でも、人の命を危険にしてまで持ち出しません」


 ルルが聞く。


「後で戻る?」


「戻れるなら」


「戻れなかったら?」


 沈黙。


 風。


 村人たちも。


 少し静かになる。


「記録が残ります」


 私は答えた。


「種が残るものもあります」


「名前も?」


「はい」


「覚えてる?」


「はい」


 消えるもの。


 失うもの。


 戻れないもの。


 それでも。


 命を先に。


 母様は。


 父様に逆らえば。


 私へ近づけなくなると恐れた。


 自分が失うものを守ろうとした。


 その結果。


 私は一人になった。


 今日の私は。


 もし危険が来たら。


 畑を失うかもしれない。


 でも。


 人を先にする。


 守る順番。


 選ぶ。


 同じ恐れの中でも。


 選択はできる。


 バルドさんが腕を組む。


「畑を捨てろと言われると、農家は動けなくなる」


 パン屋の女性が答える。


「でも死んだら畑へ戻れないよ」


「分かってる」


「分かってても動けない時がある」


 村人の一人。


「家に火が回るまで荷物を運ぶ奴もいる」


 別の人。


「何を置くか、先に決めとくしかないな」


 会話が広がる。


 群衆。


 それぞれの大切なもの。


 家。


 畑。


 道具。


 動物。


 写真に似た絵。


 衣服。


 記録。


 全部。


 捨てたくない。


 でも。


 持てない。


 村長さんが。


 広場の端から聞いていた。


 やがて。


 低い声で言う。


「今日の警戒が終わった後、持ち出し順の確認をする」


 村人たちが頷く。


「子供たちも参加させる」


「怖がらせませんか」


 私が聞く。


「隠す方が、いざという時に怖い」


「はい」


「ただし、今日すぐ逃げる話ではないと最初に伝える」


「はい」


 具体的。


 手順。


 怖さを。


 現実の大きさへ。


 昼前。


 北側の見張りから。


 新しい報告が入る。


 レナード隊の二名は。


 旧街道を南へ戻った。


 森外縁への再接近なし。


 村へ向かう動きもない。


 警戒は。


 一段階下げる。


 鳥笛。


 一度。


 短く。


 解除。


 村全体に。


 わずかな安堵が広がる。


 張っていた肩。


 息。


 大人たちの声が。


 少し戻る。


 子供たち。


 エマが。


「終わった?」


「警戒は下がりました」


 私は答える。


「もう大丈夫?」


「今のところは」


「今のところ」


「はい」


 サムが記録。


 北側警戒、昼前解除。


 完全安全断定なし。


 通常見張り継続。


 トトが。


「何でも未確定だな」


 サム。


「記録だから」


 笑い。


 緊張が。


 少し解ける。


 村長さんが私へ近づく。


「手紙は」


「今日は読みません」


 私はすぐ答えた。


「警戒は下がった」


「はい」


「それでも」


「はい。今日は読まないと決めました」


 村長さんの目が。


 少し柔らかくなる。


「分かった」


「安全が戻ったから読む、とはしません」


「うん」


「今日は、今の暮らしを見ます」


「それでいい」


 私は息を吐いた。


 自分の決定が。


 外の状況で揺れなかった。


 危険が去った。


 だから。


 母様の手紙へ戻る。


 そうしなかった。


 今日は。


 読む日ではない。


 昼食。


 パン。


 野菜のスープ。


 芋。


 警戒解除後。


 村人たちが。


 少し大きな声で話し始める。


「旧街道で何してたんだ」


「測ってたんじゃないか」


「森へ入る道を?」


「決めつけるな」


「でも、外縁まで来たんだろ」


「使者の一員だ。地形確認くらいする」


「だから嫌なんだよ」


 不安。


 怒り。


 疑い。


 群衆の反応。


 村長さんが。


 静かに手を上げる。


「推測と事実を分ける」


 声が広場へ通る。


「事実は、二名が旧街道から森外縁付近へ来たこと」


 皆が静かになる。


「見張り線を越えていない」


「村へ向かわなかった」


「現在は南へ戻った」


「目的は不明」


「以上だ」


 短い。


 具体的。


「不安は記録する。だが、目的を決めつけて動くな」


 村人たちが。


 少しずつ頷く。


 私は。


 母様の手紙と同じだと思った。


 一文。


 事実。


 解釈。


 分ける。


 母様は父様を恐れた。


 だから逆らわなかった。


 事実。


 母様が自分を守るためだけに私を捨てた。


 それは。


 今の私の解釈。


 そう感じる。


 でも。


 まだ手紙は途中。


 だからといって。


 私の痛みが間違いではない。


 事実。


 感情。


 推測。


 分ける。


 私はスープを飲んだ。


 味がする。


 リオは。


 今日も芋の数を数えない。


 周囲を気にしている。


「リオ」


「何」


「食べてください」


「食べてる」


「三口しか」


「見てたのか」


「見えました」


 ミナが。


「フローラに言われていますよ」


 リオは。


 少し気まずそうに。


 芋を一つ食べる。


「うまい」


「はい」


 日常。


 食べる。


 午後。


 村では。


 持ち出し順の確認が始まった。


 実際に逃げる訓練ではない。


 紙へ。


 場所。


 人。


 道。


 役割。


 子供たちは。


 集合場所。


 春待ちの根元ではない。


 村の南門近く。


 広い場所。


 障害物が少ない。


 見張り線から遠い。


 高齢者。


 歩けない人。


 荷車。


 薬。


 水。


 火の始末。


 家畜。


 種。


 最後。


 順番。


 エマが不満そう。


「キズナ最後?」


「持てる人がいれば」


 私は答える。


「人を乗せた荷車へ余裕があれば」


「じゃあ私が持つ」


「子供は、自分で歩くことを優先します」


「片手で」


「転んだら」


 エマは口を閉じる。


 悔しい。


 でも。


 考える。


 ルルが言う。


「キズナ、村の人に頼む」


「はい」


「大人、余裕ある人」


「はい」


 自分で全部守らない。


 誰かに頼む。


 リオが。


「俺が持つ」


 エマがすぐ。


「本当に?」


「人の誘導終わって、余裕あったら」


 条件。


 以前なら。


 絶対持つ。


 そう言っただろう。


 今は。


 人が先。


 余裕があれば。


 私は微笑んだ。


「お願いします」


 サムが記録。


 キズナ鉢。


 持ち出し優先、低。


 担当候補、リオ。


 条件、人員誘導完了・経路安全・手空き。


 トトが。


「記録細かすぎる」


「必要」


 笑い。


 花守り箱。


 私は。


 持ち出すか。


 考える。


 一枚の花弁。


 記録。


 軽い。


 でも。


 家へ戻る時間がなければ。


 置く。


 花守り布。


 頭にかぶっているなら。


 一緒に。


 日記帳。


 重い。


 置く。


 手紙。


 村長さんの家。


 持ち出すか。


 村長さんへ聞く。


「封書は」


「村の重要記録と同じ箱へ入れる」


「私の手紙を」


「君がそれを望むなら」


 私は少し考えた。


 母様の手紙。


 まだ途中。


 失いたくない。


「お願いします」


「分かった」


「でも、人が先です」


「当然だ」


 手紙は。


 重要。


 でも。


 命の後。


 言えた。


 母様の言葉を。


 失いたくない。


 それでも。


 人を危険にしてまで取りに戻らない。


 守る順番。


 私は記録へ加える。


 母の封書。


 重要記録箱へ。


 持ち出し優先、人命・薬・水の後。


 サムが。


 少し驚いて私を見る。


「手紙、後?」


「はい」


「大事なのに」


「はい」


「でも人が先」


「はい」


 彼は頷く。


 書く。


 大事と先は同じではない。


 胸へ落ちる。


 大切なものが。


 いつも最優先とは限らない。


 今。


 守るべきもの。


 違う。


 母様の手紙は大切。


 でも。


 今日の安全。


 食事。


 畑。


 村。


 先。


 夕方前。


 北の見張りから。


 追加情報。


 レナード隊の二名は宿へ戻った。


 隊全体も。


 今夜は移動しない様子。


 村の警戒は。


 通常へ。


 完全に安心ではない。


 でも。


 今日を終えられる。


 私はキズナを午後観察する。


 初葉。


 朝より少し開く。


 皺のある方も。


 光を受けている。


 茎。


 少し立つ。


 記録。


 発芽四日目、午後。


 初葉展開進行。


 圧迫側片葉、皺残存。


 受光良好。


 茎湾曲、軽減。


 萎れなし。


 警戒時も追加処置なし。


 状態安定。


 私は最後に書く。


 守る順番を考えた日にも、成長は続く。


 エマが。


「今日、歌う?」


 ニコが少し考える。


「警戒の歌?」


 トト。


「怖いだろ」


 ルル。


「帰る歌」


 皆が見る。


 ルルは。


 小さく言う。


「置いても、戻る歌」


 ニコが。


 ゆっくり音をつける。


 大事なものが


 たくさんあって


 両手だけでは


 足りない日


 人の手を引き


 道を選んで


 置いたものには


 また帰る


 戻れない日も


 忘れない


 名前と場所を


 覚えてる


 歌は。


 静か。


 でも。


 暗すぎない。


 村人たちが。


 作業をしながら聞く。


 一人。


 二人。


 最後の部分へ。


 声を重ねる。


 戻れない日も


 忘れない


 名前と場所を


 覚えてる


 群衆の声。


 低い。


 温かい。


 私は胸が熱くなる。


 森の家。


 畑。


 花守り箱。


 日記帳。


 母様の手紙。


 もし。


 置いていく日が来ても。


 忘れない。


 でも。


 今日は。


 戻れる。


「ありがとうございます」


 私は言った。


 村を出る前。


 村長さんへ。


「今日は、手紙を見ませんでした」


「うん」


「読まないと決めてよかったです」


「うん」


「母様の言葉より先に守るものがあると、分かりました」


 村長さんは。


 少し間を置いて答える。


「手紙は、君の暮らしの中にある」


「はい」


「暮らしが、手紙の中にあるんじゃない」


 胸へ。


 深く落ちる。


「はい」


 手紙が中心ではない。


 私の生活があり。


 その中に。


 手紙がある。


 母様の言葉が。


 今日全部を支配しない。


「覚えておきます」


 子供たちへ。


「行ってきます」


 エマ。


「また明日!」


 ニコ。


「戻る歌、覚えてて」


「はい」


 ルル。


「キズナ、今日は置いてく」


「はい」


 サム。


「警戒解除、記録済み」


「はい」


 トト。


「明日はもっと立つ」


 サム。


「予測、未確定」


「知ってる!」


 笑い。


 リーナは。


 花守り布のキズナへ。


 茎を少しだけ上向きに縫い足した。


「今日の形」


「はい」


 私は布へ触れる。


 昨日より。


 少し立ったキズナ。


 でも。


 皺は残る。


「ありがとうございます」


 村を出る。


 帰り道。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 鳥笛。


 四歩。


 侵入なし。


 五歩。


 手紙は読まない。


 六歩。


 暮らしが先。


 七歩。


 森へ戻る。


 春待ちの根元へ寄る。


 見張り。


 安全確認。


 四つの花だった場所。


 第一花。


 さらに土へ沈む。


 花弁。


 一枚。


 土と重なる。


 第二花。


 かなり俯く。


 第三花。


 閉じ始め。


 第四花。


 まだ。


 開いている。


 私はしゃがむ。


「今日は、鳥笛が鳴りました」


 花へ。


「でも、村も森も無事でした」


 第一花。


「あなたを全部持ち帰らなくても」


 土。


「忘れていません」


 胸が温かく。


 少し寂しい。


「また明日」


 森の家。


 結界。


 外周。


 異常なし。


 見張りが。


 少し離れた場所で丸の合図。


 私は結界を開く。


「ただいま」


 家。


 変わらない。


 机。


 引き出し。


 花守り箱。


 日記帳。


 全部。


 ある。


 私は深く息を吐いた。


「戻れました」


 畑へ。


 青豆一号。


 無事。


 アオジロウ。


 無事。


 ムラマル。


 擦れ跡変化なし。


 モリタン。


 本葉。


 夕方の光を受けている。


 私は畝の前へしゃがむ。


「ただいま」


 三つの芽へ。


「今日は、母様の手紙を読みませんでした」


 葉が揺れる。


「北の旧街道から、人が森の近くまで来ました」


 胸が少し強張る。


「でも、森には入りませんでした」


 アオジロウ。


 ムラマル。


 モリタン。


「今日は、私の暮らしを先に守りました」


 声が少し震える。


「母様の手紙は、大切です」


 でも。


「一番最初ではありません」


 言えた。


「私の命」


 畑。


「村のみんな」


 森の家。


「今日の食事」


 生活。


「それから、手紙です」


 順番。


 母様を。


 後へ置く。


 昔なら。


 できなかった。


 母様の機嫌。


 父様の命令。


 家の名誉。


 それらを。


 自分より先へ置いていた。


 今。


 私は。


 自分の暮らしを先にする。


 罪悪感は。


 少しある。


 でも。


 間違いだとは思わない。


「今日は、ここまでです」


 リオたちが。


 森の家まで一緒に戻っていた。


 警戒があったため。


 今夜も。


 外縁見張りが増える。


 ミナが聞く。


「今夜、母様の手紙を読まなかったことを責めたくなったら?」


 私は少し考える。


「村長さんの言葉を思い出します」


「何と」


「手紙は、私の暮らしの中にある」


「はい」


「私の暮らしが、手紙の中にあるのではない」


 ミナが微笑む。


「はい」


 リオが言う。


「明日も読まなくていい」


「はい」


「読みたくなったら読む」


「はい」


「でも、一番はフローラ」


 胸が熱くなる。


「はい」


 ガルドさん。


「今夜、異常があれば鳥笛を使います。二回は待機。三回は避難準備」


「はい」


「一回長くは解除」


「はい」


 手順。


 もう一度。


 三人を見送る。


 結界を閉じる。


 夜。


 夕食。


 少し多めに作る。


 もし。


 夜中に避難準備となれば。


 食べておく。


 芋。


 豆。


 葉野菜。


 パン。


 最後まで食べる。


 暖炉の火は。


 いつもより小さく。


 すぐ消せるように。


 非常用の袋は。


 玄関近く。


 でも。


 ずっと見えない位置。


 視界へ入り続ければ。


 眠れない。


 私は布をかけた。


 準備はある。


 でも。


 生活全部を占めさせない。


 日記帳を開く。


 今日。


 鳥笛二回で目を覚ました。


 注意。


 待機。


 外へ出なかった。


 朝食を食べた。


 ガルドさんから。


 レナード隊の二名が、北の森外縁付近まで来たと聞いた。


 侵入はなかった。


 村へ行った。


 手紙は読まないと決めた。


 安全が確認された後も、読まなかった。


 今日は。


 今の暮らしを守る日だった。


 共同畑。


 キズナは少し立った。


 皺のある葉も。


 光を受けていた。


 村で。


 避難時の持ち出し順を確認した。


 人。


 薬。


 水。


 火。


 家畜。


 種。


 記録。


 母様の手紙は。


 重要記録箱へ。


 でも。


 人の命の後。


 私はペンを止めた。


 母様の手紙を。


 後へ置いた。


 胸が痛む。


 病気かもしれない母様。


 いつまで待てるか分からない。


 それでも。


 今日。


 読まなかった。


 冷たいのか。


 少し。


 昔の私が聞く。


 母様を待たせるの。


 母様が苦しんでいるのに。


 今すぐ読んで。


 今すぐ許して。


 安心させなければ。


 でも。


 私は。


 今の私の言葉で答える。


 私も。


 長く待った。


 来てほしかった。


 言葉がほしかった。


 それでも。


 誰も来なかった。


 だから仕返しに待たせるのではない。


 私は。


 自分の暮らしを守るため。


 時間を使う。


 私は最後に書いた。


 大切なものと。


 先に守るものは。


 同じではない。


 母様の手紙は大切。


 でも。


 今日、先に守るのは。


 私の命。


 村の人たち。


 森の家の安全。


 食事。


 畑。


 今の暮らし。


 手紙は、その中にある。


 手紙のために暮らしているのではない。


 私は、自分の暮らしの中で。


 母様の言葉を読む。


 今日は読まなかった。


 それでよかった。


 日記帳を閉じる。


 机の引き出しへ手を置く。


 空。


 手紙は村。


 でも。


 今日は。


 空白が寂しくない。


 必要な距離。


「おやすみなさい、母様」


 静かに言う。


「今日は、手紙を読みませんでした」


 胸が少し痛む。


「森の近くまで、人が来ました」


 返事はない。


「私は、自分の暮らしを先に守りました」


 言えた。


「母様の言葉は、大切です」


 でも。


「私の暮らしより先ではありません」


 長い沈黙。


 暖炉。


 森。


 見張り。


 私は息を吐いた。


「待っていてください」


 初めて。


 母様へ。


 はっきり。


「私の時間を」


 暖炉の前へ座る。


 花守り布を膝へ。


 三つの芽。


 途中の花。


 開いた花。


 閉じ始めた花。


 少し立ったキズナ。


 皺のある葉。


 私は指先で。


 キズナの茎をなぞる。


「全部を持てない日があります」


 春告げ花へ。


「全部を持ち帰らない日も」


 モリタンへ。


「開いても、すぐ次へ行かない日も」


 子守歌を歌う。


 森の葉っぱが眠るころ


 小さな灯りも目を閉じる


 風よ静かに通りゃんせ


 夢の小道を通りゃんせ


 歌い終える。


 窓の外。


 夜の森。


 外縁の見張り。


 村。


 北の旧街道。


 母様の手紙。


「また明日」


 青豆一号へ。


 風よけなしで朝を越えたアオジロウへ。


 傷を残したまま安定するムラマルへ。


 完全に開いた本葉で光を受けるモリタンへ。


 土へ返りながら、忘れられていない春告げ花へ。


 皺のある葉を開き、少しだけ立ったキズナへ。


 村長さんの仕事部屋で。


 私の暮らしが整うのを待っている母様の手紙へ。


 そして。


 母様の言葉より先に。


 今の自分の命と暮らしを守る順番を。


 初めて、自分で選べた私へ。


「また明日」


 明日も、見ます。

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