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『青の姫君の森暮らし 〜化け物と恐れられた公爵令嬢は、今日も畑を耕します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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65/101

第65話 青の姫君、落ちた花を拾う



 翌朝。


 私は、泣いた後のような重さを瞼に感じながら目を覚ました。


 昨夜。


 眠る前に、母様へ言った。


 私は、来てほしかったです。


 あの日。


 屋敷を出る私を。


 引き止めてほしかった。


 森へ行くな、と言われたかったのかは分からない。


 公爵家へ残りたかったのかも。


 あの場所で、もう一度やり直せたと思っているわけでもない。


 ただ。


 何も言われず。


 誰にも追われず。


 一人で門を出たことが。


 ずっと。


 悲しかった。


 私は、ようやくそれを認めた。


 認めたからといって。


 胸が軽くなったわけではない。


 むしろ。


 今まで固く閉じていた場所へ、夜の冷たい空気が入ったように。


 朝になっても。


 痛みは、はっきり残っていた。


 私は寝台の上で、ゆっくりと目を開いた。


 窓の向こう。


 森はまだ薄暗い。


 木々の隙間に白い朝の光が溜まり始めている。


 風は弱い。


 屋根の上を転がる木の実の音も。


 雨戸へ枝が触れる音もない。


 静かな朝だった。


 机。


 閉じた引き出し。


 中は空。


 母様の手紙は、村長さんの家。


 灰色の布に包まれ。


 三つの一文まで読まれた状態で。


 私を待っている。


 愛しいフローラへ。


 あなたにこのような言葉を送る資格が、今の私にはないと分かっています。


 あなたが屋敷を去ったあの日、私はあなたを引き止めることができませんでした。


 私は布団の中で、胸の上へ手を置いた。


 最初の一文は。


 嬉しかった。


 二つ目は。


 少し安心した。


 三つ目は。


 怒った。


 そして。


 来てほしかった自分を思い出した。


 次の一文に。


 理由が書いてあるかもしれない。


 なぜ。


 母様が来なかったのか。


 なぜ、引き止められなかったのか。


 その理由。


 私は知りたい。


 でも。


 知るのが怖い。


 理由が。


 私の力を恐れたからだったら。


 父様を選んだからだったら。


 自分を守るためだったら。


 私は。


 もう一度、捨てられたように感じるかもしれない。


 反対に。


 病のせいで起き上がれなかった。


 父様に閉じ込められていた。


 誰かに止められた。


 そんな事情が書かれていたら。


 私は。


 母様を責める自分を、悪い娘だと思ってしまうかもしれない。


 どちらでも。


 怖い。


 私は目を閉じた。


 一つ。


 息を吸う。


 二つ。


 吐く。


 三つ。


 今日はまだ始まったばかり。


 四つ。


 手紙は村にある。


 五つ。


 今すぐ決めなくていい。


「おはようございます」


 静かな森の家へ言う。


「今日も、ここにいます」


 少し間を置く。


「おはようございます、母様」


 胸が痛む。


「昨日、私は、来てほしかったと言いました」


 返事はない。


「今日も、そう思っています」


 言葉にする。


 昨日だけの感情ではない。


 今朝の私も。


 母様に来てほしかった。


「今日は、理由を知りたい気持ちがあります」


 声が少し震える。


「でも、まだ読みません」


 今、この場では。


「畑を見ます」


 そして。


「キズナの初葉も見ます」


 昨日。


 キズナは、自分で種皮を外した。


 霧で少し助けた。


 でも。


 最後に殻を落としたのは。


 キズナ自身。


 初葉は、まだ閉じ気味だった。


 今日。


 開いたかもしれない。


 茎は立ったか。


 曲がったままか。


 私はそれを見たい。


 母様の理由を知りたい気持ちとは別に。


 はっきりと。


 今日、見たいものがある。


 私は寝台から下りた。


 床板の冷たさ。


 朝の空気。


 窓を開ける。


 森の匂いが入ってくる。


 土。


 木の皮。


 まだ湿りを残した苔。


 鳥の声。


 一度。


 少し間を置いて。


 二度。


 さらに遠くから三度。


 鳥笛ではない。


 私は確認し。


 顔を洗った。


 髪を梳く。


 空色の髪。


 一度。


 二度。


 三度。


 櫛は止まらない。


 でも。


 母様のことを考える。


 引き止められなかった。


 母様は。


 あの日。


 どこにいたのだろう。


 寝室。


 廊下。


 父様の執務室。


 誰かに止められていたのか。


 私が出ていくことを。


 いつ知ったのか。


 事前に。


 それとも。


 門を出た後。


 私は想像し始める。


 すぐ。


 櫛を止めた。


「まだ、読んでいません」


 鏡の中の自分へ言う。


「理由は、まだ書かれていません」


 次の一文にあるかもしれない。


 その次かもしれない。


 書かれていないかもしれない。


 想像で埋めない。


 母様の代わりに。


 理由を作らない。


 私は櫛を再び動かす。


 髪をまとめる。


 花守り布を手に取る。


 三つの芽。


 途中の春告げ花。


 開いた春告げ花。


 閉じ始めた春告げ花。


 そして。


 少し離れた場所に仮縫いされた。


 曲がった小さな芽。


 キズナ。


 赤い筋。


 灰色の傷。


 青い結び目。


 淡い緑の芽。


 私は指先で触れた。


「今日は、初葉が開いているでしょうか」


 自然と口元が緩む。


 母様の手紙を考えながらでも。


 キズナのことを楽しみにできる。


 それが。


 今朝の私には大切だった。


「まずは、畑です」


 花守り布をかぶる。


 外へ出る。


 森の朝は。


 昨日より穏やかだった。


 夜の風で落ちた枝や葉は残っている。


 でも。


 今は動かない。


 地面の上で。


 風の時間が終わったことを示している。


 結界。


 異常なし。


 家の周囲。


 人の足跡なし。


 小さな獣の跡。


 新しいものはない。


 北東側。


 草倒れなし。


 私は青豆一号へ向かった。


 新葉。


 昨日角度が変わっていた一枚。


 今朝も少し斜め。


 でも。


 葉柄に折れはない。


 葉面は光を受けている。


 この角度が。


 今の形になったのかもしれない。


 元へ戻す必要はない。


「おはようございます」


 第二の畝。


 アオジロウ。


 昨日外した風よけは。


 畝の横へ置かれたまま。


 葉。


 茎。


 異常なし。


 ムラマル。


 葉端の白い擦れ跡。


 昨日とほとんど変わらない。


 広がっていない。


 病気ではない。


 その傷を持ったまま。


 葉は朝日を受けている。


 モリタン。


 私はしゃがみ込んだ。


 本葉。


 完全に開いていた。


 昨日まで根元に残っていた折り目も。


 今朝は、ほとんど見えない。


 淡い緑。


 初葉より細く。


 先が少し尖っている。


 まだ柔らかい。


 けれど。


 はっきりと一枚の葉。


 風を受け。


 小さく揺れている。


「おはようございます、モリタン」


 声が柔らかくなる。


「本葉が開きましたね」


 完全。


 そう記録してよい。


 私は何度か角度を変えて見た。


 根元。


 葉脈。


 先端。


 折損なし。


 変色なし。


 虫害なし。


 完全展開。


 やっと。


 そう書ける。


 私は記録板を開いた。


 青豆一号、古い葉離脱後二十三日目。


 新葉一枚、葉柄角度変化継続。折損なし。葉面受光良好。処置不要。


 アオジロウ、風よけ撤去後。茎・葉とも安定。


 ムラマル、葉端擦過跡、前日比変化なし。拡大・変色なし。


 モリタン、本葉完全展開確認。葉色淡緑。折損・変色・虫害なし。


 三芽、状態良好。


 観察者、母の第三文に続く理由を知りたい気持ちあり。


 観察者、同時に理由によって自分の痛みを否定することを警戒。


 観察者、朝時点では読書未決定。


 書き終えた後。


 私はモリタンを見る。


「完全に開きました」


 今度は。


 迷わず言えた。


 昨日。


 ほぼ。


 一昨日。


 途中。


 その前。


 兆し。


 記録があるから。


 今日の完全が。


 突然ではないと分かる。


 母様の手紙も。


 一行ずつ。


 読んだ時。


 感じたこと。


 止めたこと。


 すべて記録している。


 いつか最後まで読んだとしても。


 そこへ突然飛んだのではない。


 途中。


 止まった日。


 読まなかった日。


 怒った夜。


 来てほしかったと認めた日。


 全部がある。


 私は記録板へ、もう一行加えた。


 完全に開いた形だけでなく、開くまでの記録も維持。


 花守り布にも。


 途中の春告げ花。


 開いた花。


 閉じ始めた花。


 全部が残っている。


 結果だけではない。


 私は立ち上がった。


 畝の土を確認する。


 表面は少し乾いている。


 下には湿りがある。


 朝の水やりは少量。


 青豆一号。


 三芽。


 根元へ直接強くかけない。


 細い流れ。


 土へ吸われる。


 必要な分だけ。


「今日は、夕方にもう一度見ます」


 家へ戻る。


 朝食。


 今日は。


 芋を薄く切り。


 玉葱と一緒に焼く。


 卵。


 パン。


 簡単。


 平鍋へ油。


 芋。


 じゅう。


 音。


 香り。


 私は昨日の手紙を思い出す。


 来てほしかった。


 その気持ちを認めた後。


 今日。


 次の理由を知りたい。


 でも。


 まだ。


 読むと決めていない。


 私は芋を返す。


 一枚。


 少し崩れる。


 でも。


 食べられる。


 玉葱。


 塩。


 卵。


 机へ座る。


 一口。


 芋。


 二口。


 卵。


 三口。


 パン。


「今日は、読みたいですか」


 自分へ聞く。


 胸。


 少し怖い。


 でも。


 昨日より。


 知りたい気持ちが前へ出ている。


「はい」


 小さく答える。


 すぐに続ける。


「でも、村へ着いてから、もう一度決めます」


 朝食を最後まで食べる。


 味が分かる。


 片づける。


 結界に気配が触れた。


 リオ。


 ミナ。


 ガルドさん。


 私は手を拭き。


 戸を開けた。


「おはようございます」


「おはよう」


 リオは私の顔を見る。


 今日は。


 最初に畑のことを聞いた。


「モリタン、開いた?」


「はい。完全展開です」


 リオの顔が明るくなる。


「やっと完全」


「はい」


「ほぼじゃない?」


「完全です」


「よし」


 彼が。


 自分のことのように喜ぶ。


 ミナが笑う。


「長い『ほぼ』でしたね」


「記録ですから」


「今日は記念日だな」


 リオが言う。


「何の?」


「モリタン本葉完全の日」


「名称が長いです」


 私は笑った。


 朝の笑い。


 それから。


 ミナが少し静かな声で聞く。


「手紙は、どうですか」


 私は胸へ手を置いた。


「今日は、続きを読みたいです」


 リオの表情が引き締まる。


「理由」


「はい」


「知りたい?」


「はい」


「怖い?」


「はい」


 リオは頷く。


「一文」


「はい」


「一回」


「はい」


「布」


「はい」


 いつもの確認。


 ガルドさんが周囲を確認しながら言う。


「レナード隊に動きがあります」


 空気が変わる。


 私は顔を上げた。


「村へ?」


「いいえ。宿から二名が北の旧街道へ出ました」


「目的は」


「不明です。村へ直接向かう道ではありません。ただし、森の外周へ近づく可能性があります」


 胸が少し強張る。


「今日、村へ行けますか」


「行けます。ただし、帰路は状況に応じて変えます」


「分かりました」


 母様の手紙。


 レナード隊。


 外の動き。


 一日に。


 また複数のものが入ってくる。


 でも。


 私は全部を一つにしない。


「先に畑を見てください」


 三人を第二の畝へ案内する。


 リオはモリタンを見て。


 本当に大きく笑った。


「開いた!」


「はい」


「完全!」


「はい」


 両手を広げる。


 トトの真似のような大きさ。


 私は思わず笑う。


「本葉は、その大きさではありません」


「気持ち」


 ミナがムラマルを見る。


「擦れ跡は変わりませんね」


「はい。傷は残っていますが、悪化なしです」


 ガルドさんは結界の流れを確認。


「問題ありません」


 アオジロウ。


 風よけなし。


 安定。


 リオが言う。


「守り、完全に卒業?」


 私は畝の横の木片を見る。


「今のところは」


「まだ置いとく?」


「はい。急な強風に備えます」


「卒業しても、道具は捨てない」


「はい」


 母様の手紙を読む手順も。


 いつか。


 慣れても。


 灰色の布は残す。


 止める方法を。


 不要になったと決めつけない。


 朝食の残りを三人へ出す。


 リオは焼いた芋を食べ。


「今日は焦げてない」


 私は彼を見る。


「まず褒めましたね」


「成長」


 ミナが言う。


「自分で言わなければよかったのに」


 ガルドさんが小さく笑う。


 食事の後。


 村へ向かう準備。


 薬草籠。


 記録板。


 花守り布。


 白い袋は持たない。


 手紙は村。


 私は畑へ声をかける。


「村へ行ってきます」


 アオジロウ。


 ムラマル。


 モリタン。


「今日は、母様の手紙の続きを読むかもしれません」


 風が本葉を揺らす。


「理由を知りたいです」


 胸が痛む。


「でも、一文だけです」


 私は呼吸を整える。


「戻ります」


 村への道。


 今日は東寄り。


 ただし。


 ガルドさんは途中で何度も足を止める。


 北側の音を聞く。


 見張りの合図を確認する。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 旧街道。


 四歩。


 レナード隊。


 五歩。


 母様の理由。


 六歩。


 春待ちの根元。


 七歩。


 村。


 春待ちの根元へ近づく。


 白樹。


 三つ岩。


 淡い青。


 私は足を止めた。


 いつもと。


 少し違う。


 四つあった花。


 第一花。


 見えない。


 私はしゃがみ込んだ。


 根元。


 落ち葉。


 土。


 そして。


 白樹の根のくぼみ。


 淡い青の花が。


 落ちていた。


 花弁は四枚しかついていない。


 一枚は。


 少し離れた土の上。


 色は薄い。


 中心の白も。


 少し乾いている。


 昨日まで。


 茎につながっていた花。


 今朝。


 落ちた。


 私は息を呑んだ。


「落ちました」


 声が小さくなる。


 ミナが隣へしゃがむ。


「はい」


 リオは少し後ろ。


 ガルドさんは周囲を確認。


 異常なし。


 私は花へ手を伸ばしかける。


 止まる。


 拾うか。


 土へ残すか。


 以前。


 落ちた後。


 状態がよければ持ち帰ると考えた。


 記録。


 標本。


 花守り布の色見本。


 でも。


 今。


 実際に落ちた花を見ると。


 触れることがためらわれた。


 ここで咲き。


 ここで閉じ。


 ここへ落ちた。


 土へ返る。


 その流れ。


 私が拾えば。


 森の家へ持ち帰り。


 紙に挟み。


 形を残せる。


 失われない。


 でも。


 花が選んだ場所ではない。


 花が選ぶわけではない。


 自然に落ちただけ。


 それでも。


 私は迷う。


 母様との記憶も。


 残したい。


 でも。


 すべて持ち帰れば。


 私の家が過去で埋まるかもしれない。


 残すもの。


 その場へ返すもの。


 選ぶ。


「拾いたいですか」


 ミナが聞く。


 私は花を見る。


「少し」


「なぜ」


「なくなるのが、寂しいです」


 正直に答える。


「はい」


「でも」


 土。


 落ち葉。


 花。


「ここへ返したい気持ちもあります」


 リオが言う。


「一枚だけ?」


 私は彼を見る。


「花弁」


「落ちた一枚だけ持って帰る。残りは土」


 全部か。


 何もか。


 その間。


 一枚。


 記録として。


 残りは、その場所へ。


 私は少し考える。


 落ちた花弁。


 すでに本体から離れている。


 それを拾う。


 花全体は。


 土へ。


「よい方法かもしれません」


 ミナが言う。


「全部を持たず、何も残さないわけでもなく」


「はい」


 私は落ちた一枚へ手を伸ばした。


 直接つままず。


 小さな紙片を薬草籠から出す。


 その上へ。


 そっと移す。


 薄い。


 柔らかい。


 少し湿っている。


 淡い青。


「一枚だけ、持ち帰ります」


 声に出す。


 残った花へ。


「あなたは、ここへ返します」


 誰に説明しているのか。


 自分へ。


 私は記録板を開いた。


 春待ちの根元。


 開花四のうち。


 第一花、自然落花確認。


 花弁一枚離脱。


 残存花弁四。


 花色淡化。


 第一花本体は採取せず、根元へ残す。


 離脱花弁一枚のみ、色・形状記録のため採取。


 第二花、俯き進行。


 第三花、花弁角度やや低下。


 第四花、展開維持。


 観察継続。


 最後に。


 観察者、失われるものをすべて持ち帰る必要はないと考える。


 私は木板を見る。


 母様の手紙。


 全部を。


 持ち帰らなくていい。


 全部の言葉を。


 今すぐ胸へ入れなくていい。


 必要な一文だけ。


 一枚の花弁のように。


 今日は一つ。


 残りは。


 まだ、村長さんの引き出しへ。


 リオが落ちた花を見る。


「土かける?」


「いいえ」


 私は首を横に振る。


「自然に土へ混ざるのを待ちます」


「踏まれない?」


「この場所へ来る人は少ないです」


 ガルドさんが言う。


「目印を少し置きますか」


「大きなものは不要です」


 三つ岩の一つ。


 小さな石を。


 花の手前へ置く。


 直接覆わず。


 踏み込み防止。


 低い守り。


 私は立ち上がった。


「また来ます」


 落ちた花へ。


 咲いている三つへ。


「また明日」


 村へ向かう。


 東側の見張り。


 丸。


 異常なし。


 村へ入る。


 共同畑の周囲に。


 今日も子供たちが集まっている。


 でも。


 昨日より静か。


 何かを待っている空気。


 エマが私を見つけ。


 手招きする。


「フローラ先生、見て!」


 私は観察鉢へ近づいた。


 キズナ。


 昨日。


 種皮を外し。


 二枚の初葉は、まだ閉じ気味だった。


 今朝。


 二枚の初葉が。


 少しずつ左右へ開いていた。


 完全ではない。


 片方。


 種皮に押されていた方。


 先端に軽い皺。


 形も少し曲がっている。


 もう片方は。


 比較的まっすぐ。


 茎。


 昨日より緑。


 湾曲は残っている。


 でも。


 地面から少し体を起こしている。


 私はしゃがむ。


「開き始めています」


 子供たちの顔が明るくなる。


「キズナの手!」


 エマ。


「葉です」


 サム。


「分かってる!」


 いつものやり取り。


 私は笑った。


「種皮に押されていた方には、少し皺があります」


 子供たちが静かになる。


「治る?」


 ルルが聞く。


「分かりません」


「ずっと曲がる?」


「その可能性もあります」


 エマが少し悲しそうな顔をする。


「でも、開く?」


「はい。今のところ、自分で開こうとしています」


 トトが言う。


「皺あっても葉だろ」


「はい」


「じゃあいい」


 簡単な言葉。


 でも。


 胸へ届く。


 皺があっても。


 曲がっていても。


 葉。


 完全な形でなくても。


 光を受けられる。


 私は記録板を開いた。


 赤筋葉、観察鉢。


 仮称キズナ。


 発芽三日目。


 種皮脱落後。


 初葉二枚、展開開始。


 種皮圧迫側と推測される片葉、先端に皺・軽度湾曲。


 反対葉、形状比較的良好。


 茎緑化進行。


 湾曲残存するが、起立傾向。


 萎れなし。


 追加処置なし。


 午前・午後観察。


 最後に。


 傷や圧迫の跡が残っても、葉として機能する可能性あり。


 書き終える。


 サムも記録。


 キズナ。


 初葉、開き始め。


 片方、皺。


 でも葉。


 要観察。


 エマが言う。


「名前、キズナのまま?」


「はい」


「仮じゃなくて?」


 私は少し考えた。


 仮称。


 これまで。


 育つか分からないから。


 でも。


 名前は。


 生き続ける保証ではない。


 枯れるかもしれない。


 それでも。


 今の芽へ名前をつけていい。


 アオジロウ。


 ムラマル。


 モリタン。


 どの芽にも。


 保証はなかった。


「正式に、キズナと呼びましょう」


 私が言うと。


 子供たちの間に歓声が起こった。


「正式!」


「キズナ!」


「記録変更!」


 サムが真剣に書き直す。


 仮称の文字へ線を一本。


 正式名、キズナ。


 命名日。


 発芽三日目。


 リーナは札の青い結び目を。


 もう一度。


 少し太い糸で縫い直す。


「ほどけないように?」


 私が聞くと。


「ううん」


 彼女は首を横に振る。


「見えやすいように」


 絆を。


 強く固定するためではなく。


 見失わないため。


 私は胸が温かくなる。


「ありがとうございます」


 群衆の中から。


 パン屋の女性。


「正式なら、祝いかい」


 バルドさん。


「昨日も芋増やしただろ」


「祝いは何度あってもいいよ」


「甘やかすな」


「芽をどう甘やかすんだい」


 周囲が笑う。


 井戸番の老人が。


「名前つけたくらいで畑が増えるなら、全部名前つけろ」


 別の村人。


「世話が増えるだけだぞ」


「でも覚えやすい」


「お前は名札なくても自分の畑覚えろ」


 笑いが広がる。


 キズナ一つの変化が。


 村の朝へ。


 たくさんの声を呼ぶ。


 私はその空気を感じながら。


 母様の手紙を思う。


 手紙も。


 一文ずつ。


 村へ声を広げている。


 でも。


 キズナのように。


 必ず祝われるものではない。


 痛い言葉もある。


 それでも。


 私は一人で読まない。


 村の人たちは。


 内容をすべて知らなくても。


 私の変化を見守る。


 今日の授業は。


 落ちた春告げ花の花弁から始まった。


 私は紙に乗せた一枚を。


 子供たちへ見せた。


 淡い青。


 少し皺。


 縁が乾き始めている。


「落ちたの?」


 エマが聞く。


「はい。最初に咲いた花です」


「花、死んだ?」


 真っ直ぐな問い。


 私は少し考えた。


「花として咲く時間は終わりました」


「死んだ?」


「植物全体は生きています。根も、葉も。ですが、この花はもう元へ戻りません」


 子供たちは静かになる。


 ニコが聞く。


「全部持ってきた?」


「いいえ。一枚だけです」


「どうして?」


「残りは、その場所へ返しました」


 ルルが言う。


「一枚、記録」


「はい」


「全部、持たない」


「はい」


 サムが記録する。


 春告げ花、第一花自然落花。


 花弁一枚採取。


 残り、現地。


 理由、色と形の記録。


 全部は持たない。


 エマが少し首を傾げる。


「一枚だけで、花のこと分かる?」


「全部は分かりません」


「じゃあ、どうする?」


「場所の記録があります。絵も。花守り布にも途中と開花と閉じ始めが残っています」


 私は布を見せる。


 春告げ花。


 段階。


「一つの方法だけで、全部を残す必要はありません」


 絵。


 文字。


 刺繍。


 記憶。


 一枚の花弁。


 場所。


 それぞれ。


 少しずつ。


 母様の手紙も。


 紙の言葉。


 私の記録。


 村の記録。


 気持ち。


 全部。


 違う形で残る。


 私は花弁を。


 薄い紙の間へ挟む方法を説明する。


 強く押さえすぎない。


 水分を吸う紙。


 毎日交換。


 色は変わる可能性。


 青が薄くなるか。


 茶色くなるか。


 分からない。


「同じ色のままじゃない?」


 リーナが聞く。


「はい」


「糸は同じ?」


「刺繍は、咲いていた時の色です」


「花弁は、これからの色」


「はい」


 記録の時間が違う。


 咲いていた色。


 落ちた時の色。


 乾いた後の色。


 全部。


「乾いたら、布の横へ入れる?」


 リーナが聞く。


「直接縫いません」


 私は答える。


「小さな紙袋を作って、花守り箱へ入れます」


「布じゃなくて箱?」


「はい」


 花守り布へ全部をつければ。


 重くなる。


 傷む。


 持ち歩けない。


 だから。


 布へ残すもの。


 箱へ残すもの。


 場所へ返すもの。


 分ける。


 子供たちと一緒に。


 薄い紙を折る。


 花弁を挟む。


 上へ小さな板。


 重すぎない石。


 名札。


 春待ちの根元。


 第一花。


 自然落花。


 花弁一枚。


 記録開始日。


 サムが書く。


 リーナが青い糸で、小さな印をつける。


 エマが石を置きたがる。


「重すぎませんか」


「これ?」


「半分でいいです」


「石、割れない」


「別の小さい石を」


 トトが拾ってくる。


 大きい。


「それはもっと大きいです」


「見た目は薄い」


「重さです」


 周囲に笑い。


 結局。


 ルルが持ってきた平たい小石を使う。


 軽い。


 ちょうどいい。


「助けるけど、潰さない」


 ニコが言う。


「はい」


 昨日のキズナと同じ。


 守る。


 でも。


 力をかけすぎない。


 昼前。


 村長さんが広場へ来た。


 今日。


 私が読むかもしれないと。


 ガルドさんから聞いている。


 でも。


 すぐ手紙の話はしなかった。


 まず。


 キズナを見る。


「正式名になったか」


「はい」


「皺があるな」


「はい。でも、初葉は開き始めています」


 村長さんは頷く。


「春告げ花は」


「一枚だけ記録へ残しました」


「残りは」


「現地です」


「うん」


 少し間。


 村長さんは私を見る。


「今は、どうだい」


 問い。


 私は胸へ手を置いた。


 朝。


 読みたい。


 畑。


 モリタンの完全展開。


 春待ちの根元。


 落ちた花。


 一枚だけ持つ。


 村。


 キズナ。


 今。


 母様の理由。


 知りたい。


 怖い。


 でも。


 今日は。


 読める気がする。


「読みます」


 私は答えた。


「次の一文だけ」


 村長さんが頷く。


「分かった」


 広場の空気が静かになる。


 子供たちは。


 もう手順を知っている。


 でも。


 毎回。


 同じではない。


 エマが近づき。


 今日は。


 私の袖を一度だけ握る。


「戻ってくる?」


「はい」


「理由、つらくても?」


 胸が痛む。


「はい」


 ニコ。


「全部、持って帰らなくていい」


 今朝の花弁の話。


「はい」


「一文だけ」


「はい」


 ルル。


「残り、そこに置く」


「はい」


 サム。


「第四読書。一文。一回。灰色布」


「はい」


 トト。


「芋」


「はい」


 私は少し笑った。


 リーナ。


「布がある」


「はい」


「自分で無理なら、村長」


「はい」


 守りの手順。


 皆が持っている。


 私は頭を下げた。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい」


 村長宅。


 仕事部屋。


 木の机。


 地図。


 記録簿。


 内庭の窓。


 今日も同じ。


 でも。


 私の中では。


 毎回、違う部屋に見える。


 最初。


 封書を見る部屋。


 次。


 受け取る部屋。


 封を切る部屋。


 一行読む部屋。


 来てほしかったと泣いた部屋。


 今日。


 理由を知るかもしれない部屋。


 部屋には。


 村長さん。


 ミナ。


 私。


 リオは少し後ろ。


 ガルドさんは外。


 机の上。


 水。


 鎮静茶。


 灰色の布。


 焼いた芋。


 そして。


 今日は。


 薄い布の手巾が多めに置かれている。


 私は少し笑った。


「増えましたね」


 ミナが言う。


「前回、足りなくなるかと思いました」


「ありがとうございます」


 リオが。


「芋も増やした」


「そちらもですか」


「必要」


 少し笑える。


 胸の緊張が。


 少しだけ下がる。


 私は椅子へ座った。


 手を膝へ。


 呼吸。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 村長さんが聞く。


「今も読むかい」


「はい」


「一文」


「はい」


「読んだ後は」


「必ず閉じます」


「自分でできなければ」


「お願いします」


 ミナ。


「呼吸が浅くなったら、私が聞きます」


「はい」


 リオ。


「俺は待つ」


「はい」


 準備。


 村長さんが引き出しを開ける。


 灰色の包み。


 机へ。


 淡い灰色。


 青い縁。


 私が布を開く。


 淡青色の封筒。


 深い青の封蝋。


 春告げ花。


 フローラへ。


 母様の字。


 私は封筒へ手を伸ばす。


 便箋を取り出す。


 一枚目。


 愛しいフローラへ。


 資格がない。


 引き止めることができなかった。


 これまでの一文。


 目で追う。


 胸は痛む。


 でも。


 昨日より。


 少し読める。


「次へ行きます」


 私は言った。


「はい」


 ミナ。


 私は視線を下げる。


 四つ目の一文。


 母様の文字。


 少し震え。


 途中で。


 筆圧が弱くなる。


 ゆっくり。


 読む。


 ――あの日の私は、あなたの父に逆らえば、二度とあなたへ近づくことすら許されなくなるのだと、恐れていました。


 私は。


 動けなかった。


 父様に逆らえば。


 二度と私へ近づけない。


 それを恐れた。


 母様は。


 私に会えなくなることを恐れ。


 その結果。


 私が出ていく時に。


 来なかった。


 胸の中で。


 怒りが。


 一気に大きくなる。


 矛盾。


 会えなくなるのが怖いから。


 会いに来なかった。


 近づけなくなるのが怖いから。


 私が一人で出ていくのを見送った。


 何それ。


 そんな。


 私は灰色の布へ手を伸ばした。


 今日は。


 掴めた。


 手紙の上へかける。


「今日は、ここまでです」


 声が硬い。


 震えている。


 村長さんが便箋を封筒へ戻す。


 包む。


 私は両手を膝へ置く。


 拳を握る。


 爪が掌へ食い込む。


 ミナが私を見る。


「止められました」


「はい」


「呼吸」


 私は息を吸う。


 一つ。


 浅い。


 もう一度。


 二つ。


 吐く。


「できます」


「手を握りますか」


「……いいえ」


 今は。


 誰かの手を握りたいより。


 怒りを。


 自分の中に置きたい。


「分かりました」


 ミナは引く。


 でも。


 横にいる。


 リオは。


 後ろで。


 顔を伏せている。


 肩が硬い。


 村長さんが静かに聞く。


「どう感じた」


 私はすぐに答えられなかった。


 口を開く。


 閉じる。


 母様の言葉。


 二度と近づけなくなるのが怖かった。


 だから逆らえなかった。


 だから、私を引き止められなかった。


「……怒っています」


 やっと言う。


「うん」


「とても」


「うん」


「母様は」


 声が震える。


「自分が私に会えなくなることを恐れました」


「うん」


「でも」


 涙が目に浮かぶ。


「私は、あの日から母様に会えませんでした」


 部屋が静かになる。


「母様が恐れたことを」


 胸が痛い。


「私が、実際に受けました」


 涙が落ちる。


「母様は、会えなくなるのが怖いから父様に逆らわなかった」


 声が強くなる。


「その結果、私は、母様に会えなくなりました」


 矛盾。


 理不尽。


 怒り。


「私の方が」


 言葉が詰まる。


「私の方が、ずっと一人でした」


 ミナの目が潤む。


 村長さんは頷く。


「そうだな」


「母様は、屋敷にいました」


「うん」


「父様も」


「うん」


「使用人も」


「うん」


「私は、森へ一人で」


 涙が止まらない。


「母様が失うことを恐れたものを守るために」


 言葉が崩れる。


「私が全部失ったように思います」


 村長さんが。


 少し間を置いて言う。


「そう感じて当然だ」


 否定しない。


 母様にも事情があった。


 そう言わない。


 仕方なかった。


 言わない。


 まず。


 私の痛み。


「怖かったのは、母様だけではありません」


 私は言う。


「はい」


 ミナが静かに答える。


「私も怖かったです」


「はい」


「でも、私は選べませんでした」


「はい」


「母様は、父様に逆らわない方を選びました」


 言葉にすると。


 さらに怒りが強くなる。


 リオが。


 後ろで息を吐く。


 私は彼を見る。


「言いたいことがありますか」


 リオは。


 すぐには答えなかった。


 拳を開く。


 閉じる。


「ある」


「はい」


「でも、怒ってるから」


「はい」


「少しだけ言う」


 私は頷いた。


「母親は」


 リオの声。


 低い。


 でも、抑えている。


「フローラを失うのが怖いって言いながら」


「はい」


「自分が追い出されるのを避けた」


 胸に刺さる。


「うん」


「それで、フローラが追い出された」


 私は目を閉じた。


「はい」


「俺は、ずるいと思う」


 強い言葉。


 でも。


 私も。


 そう思う。


「はい」


「ただ」


 リオは続ける。


「父親がどれくらい怖かったか、俺は知らない」


 私は目を開ける。


「うん」


「だから、母親が簡単に逆らえたとも言えない」


「はい」


「でも」


 彼は私を見る。


「フローラが傷ついたことは、別」


 村長さんの言葉と重なる。


「はい」


「怖かった理由があっても」


「はい」


「フローラを一人にしたことはなくならない」


 私は頷いた。


 涙。


 でも。


 呼吸はできる。


「ありがとうございます」


 ミナが聞く。


「母様を許したくなりましたか」


 私は驚く。


 今日の一文。


 事情。


 父様への恐れ。


 以前なら。


 仕方がなかった。


 そう考えたかもしれない。


 でも。


 今は。


「いいえ」


 はっきり答えた。


「今は、むしろ怒っています」


「はい」


「母様が怖かったことは分かりました」


「はい」


「でも、それで私の痛みを小さくしません」


 言えた。


 昨日。


 警戒していたこと。


 理由を知れば。


 自分を黙らせるかもしれない。


 でも。


 今の私は。


 理由を読んでも。


 怒っている。


 母様の恐れを認めても。


 自分の傷を消さない。


 村長さんが言う。


「それでいい」


「はい」


「理由を知ることと」


「許すことは違う」


 私は、自分から続けた。


 村長さんの目が少し柔らかくなる。


「その通りだ」


「今日は、ここまでです」


「うん」


「手紙は預かってください」


「預かる」


「次は」


 続きを読む。


 母様の恐れ。


 その次。


 何が書かれている。


 謝罪か。


 さらに理由か。


 私は。


 今日は考えない。


「まだ決めません」


「分かった」


 灰色の包みが。


 引き出しへ戻る。


 かたり。


 見えなくなる。


 私は鎮静茶を飲んだ。


 苦い。


 温かい。


 焼いた芋。


 一口。


 甘い。


 でも。


 今日は。


 怒りで味が少し遠い。


 もう一口。


 少しずつ。


 味が戻る。


「食べられます」


 私は言った。


 ミナが頷く。


「はい」


 リオは。


 芋へ手を伸ばさない。


 私が食べ終えるまで待つ。


 その姿を見て。


 私は。


 少しだけ笑った。


「一つどうぞ」


「今日はいい」


 珍しい。


「なぜですか」


「フローラの分」


「全部は食べられません」


「じゃあ半分」


 彼は一つ取り。


 半分に割る。


 小さい方を自分へ。


 大きい方を皿へ戻す。


 いつもの。


 半分。


 怒りのある部屋で。


 小さな日常。


 私は大きい方を食べた。


 広場へ戻る。


 子供たちは。


 キズナの周囲。


 でも。


 私が来ると。


 静かに道を空ける。


 エマが聞く。


「読んだ?」


「はい」


「一文?」


「はい」


「怒った?」


 私の顔を見て。


 すぐ分かったらしい。


「はい」


 私は答える。


「とても」


 エマは少し身を引く。


 怖がったのではない。


 怒りの場所を空けるように。


 ルルが聞く。


「何て?」


 私は伝えるか。


 少し考える。


 伝えたい。


 村の記録へ残したい。


「母様は」


 ゆっくり言う。


「父様に逆らえば、二度と私へ近づくことを許されなくなると思い、怖かったと書いていました」


 子供たちは静かになる。


 エマが眉を寄せる。


「会えなくなるの、怖かった?」


「はい」


「でも、来なかった?」


「はい」


「そしたら、会えなくなった?」


「はい」


 エマの顔が。


 怒ったように歪む。


「変」


 子供の言葉。


 短い。


「はい」


 私は答えた。


「私も、そう思いました」


 ニコが聞く。


「お母さん、怖かった」


「はい」


「フローラ先生も、怖かった」


「はい」


「でも、フローラ先生だけ一人」


 胸が痛む。


「はい」


 ルルが言う。


「怖いの、両方」


「はい」


「失ったの、フローラ先生」


 私は頷く。


「そのように感じています」


 サムが記録する。


 母からの手紙。


 第四文。


 あの日の私は、あなたの父に逆らえば、二度とあなたへ近づくことすら許されなくなるのだと、恐れていました。


 本人、強い怒り。


 母の恐れは理解。


 ただし、本人の痛みを小さくしない。


 母は失うことを恐れた。


 本人は実際に家族との距離を失った。


 理由を知ることと許すことは別。


 本日一文で停止。


 灰色布、本人使用。


 私は記録を見た。


 母様の恐れ。


 私の痛み。


 同じ板へ。


 並んでいる。


 どちらかを消さない。


 リーナが花守り布を見て。


 キズナの刺繍の横へ。


 少し曲がった葉を追加しようとしている。


「片方、皺」


 彼女が言う。


「はい」


「同じ形にしない」


「はい」


 二枚の葉。


 片方は少しまっすぐ。


 片方は皺。


 違う。


 でも。


 同じキズナの初葉。


 エマが言う。


「お母さんの怖いのと、フローラ先生の怖いのも、同じじゃない?」


 私は彼女を見る。


「はい」


「どっちも怖い。でも形違う」


 胸へ落ちる。


 母様の恐れ。


 父様に逆らう恐れ。


 私は。


 捨てられる恐れ。


 一人になる恐れ。


 同じ怖い。


 でも。


 同じではない。


「その通りです」


 私は答えた。


「同じ言葉でも、形が違います」


 今日の授業は。


 自然と。


 二枚の葉の違いを記録する時間になった。


 キズナ。


 初葉。


 片方。


 圧痕。


 皺。


 曲がり。


 もう片方。


 比較的平ら。


 でも。


 大きさにはわずかな差。


 色にも。


 少し。


 子供たちが。


 それぞれ見えるものを言う。


「こっち、濃い」


「こっち、短い」


「皺ある方が小さい」


「茎、昨日より立ってる」


「影で違って見える」


 私は一つずつ。


 確認する。


 光の向きを変える。


 影を避ける。


 触れない。


 測る。


 記録。


 群衆の大人たちも。


 少し離れて。


 話へ加わる。


 パン屋の女性。


「兄弟でも同じようには育たないからね」


 バルドさん。


「同じ親でもな」


 井戸番の老人。


「怖がり方も違う」


 別の女性。


「助けてほしい時に、黙る奴もいる」


「言わなきゃ分からん」


「言えない時もある」


 村人たちの声。


 重なる。


 人の恐れ。


 助け。


 沈黙。


 それぞれ。


 私は聞きながら。


 あの日の母様を考える。


 言えなかった。


 動けなかった。


 でも。


 私は。


 来てほしかった。


 両方。


 村人の一人が。


 私へ直接ではなく。


 畑を見ながら言った。


「怖くて動けなかった者を責めるのは、難しいな」


 別の人が答える。


「でも、動かなかったせいで傷ついた者がいるなら、その傷も本物だ」


「どっちが正しい」


「正しいだけで決められないんじゃないか」


 沈黙。


 誰も。


 簡単な答えを出さない。


 私は。


 それがありがたかった。


 母様が悪い。


 私が正しい。


 それだけで終わらせない。


 でも。


 母様にも事情があったから仕方ない。


 そうして私を黙らせもしない。


 分からないまま。


 両方を見る。


 午後。


 キズナの初葉。


 少しだけ開きが進んでいる。


 皺のある方も。


 光を受ける面積が増えた。


 皺は残る。


 でも。


 機能しているように見える。


 私は記録する。


 発芽三日目、午後。


 初葉展開進行。


 圧迫側片葉、皺残存。展開面積増加。


 反対葉、展開良好。


 茎起立進行。


 萎れ・変色なし。


 追加処置なし。


 要観察。


 エマが聞く。


「皺、消えない?」


「分かりません」


「消えなくても育つ?」


「可能性はあります」


 トトが言う。


「葉っぱ一枚、皺あっても次の葉出るだろ」


「まだ先です」


「でも出るかも」


「はい」


 傷が残っても。


 次へ進めるかもしれない。


 でも。


 傷を消えたことにしない。


 私はキズナを見る。


「皺は、記録します」


 ルルが頷く。


「消えなくても」


「はい」


「育っても」


「はい」


 母様との傷も。


 もし。


 いつか関係が変わっても。


 消えたことにしない。


 許したとしても。


 痛くなかったことにはしない。


 夕方前。


 村長さんの家へは戻らない。


 手紙は預けたまま。


「今日もお願いします」


 広場で村長さんへ言う。


「預かっておく」


「次は、まだ決めません」


「うん」


「母様の恐れについて、少し考えます」


「考えすぎたら」


「日記へ書きます」


「自分の痛みを小さくしそうになったら」


「今日の記録を読みます」


 母様は恐れた。


 私は失った。


 両方。


 村長さんが頷く。


「よい」


 子供たちへ。


「行ってきます」


 エマ。


「また明日!」


 ニコ。


「花弁、一枚」


「はい」


 ルル。


「残り、森」


「はい」


 サム。


「第四文まで記録済み」


「はい」


 トト。


「キズナ、明日はもっと立つ」


 サム。


「予測、未確定」


「もう分かってるって!」


 笑い。


 リーナは花守り布へ。


 キズナの二枚の初葉を仮縫いした。


 片方。


 少し皺。


 私は布を受け取る。


 春告げ花。


 キズナ。


 モリタン。


 変化。


 傷。


 全部。


「ありがとうございます」


 村を出る。


 帰り道。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 母様の恐れ。


 四歩。


 私の恐れ。


 五歩。


 母様は逆らわなかった。


 六歩。


 私は一人になった。


 七歩。


 今日はここまで。


 春待ちの根元へ。


 帰りも寄る。


 ガルドさんが確認。


 異常なし。


 落ちた第一花。


 朝と同じ場所。


 少し。


 土へ沈んでいる。


 花弁の端に。


 小さな土粒。


 第二花。


 さらに俯く。


 第三花。


 少し閉じ始め。


 第四花。


 まだ開いている。


 私は一枚持ち帰った花弁の紙を。


 薬草籠の中で確認する。


 無事。


 残りは。


 ここ。


 私は落ちた花の前へしゃがんだ。


「一枚だけ、持ち帰ります」


 もう一度。


 確認する。


「全部は、持ちません」


 母様の恐れも。


 全部。


 私が背負わない。


 母様の後悔も。


 父様との関係も。


 全部。


 私のものではない。


 私は。


 今日読んだ一文だけ。


 持って帰る。


 残りは。


 手紙の中。


 村長さんの引き出し。


「また明日」


 花へ言う。


 森の家。


 結界。


 家。


 異常なし。


「ただいま」


 机。


 空の引き出し。


 今日は。


 一度開ける。


 何もない。


 場所。


 私は採取した花弁の紙包みを。


 引き出しの端へ置こうとして。


 止まった。


 ここは。


 母様の手紙の場所として空けた。


 今。


 手紙は村にある。


 花弁を置けば。


 戻ってきた時。


 同じ場所になる。


 それが嫌ではない。


 でも。


 別にしたい。


 母様の手紙。


 春待ちの根元の花。


 意味が重なることはある。


 でも。


 同じものではない。


 私は棚から。


 小さな木箱を取り出した。


 空。


 薬草の種を入れるために作った箱。


 まだ使っていない。


 その中へ。


 紙包みを置く。


「花守り箱です」


 名前をつける。


 引き出しは。


 手紙の場所。


 木箱は。


 花の記録。


 分ける。


 家全部へ広げない。


 私は箱を棚の上へ置いた。


 それから畑へ。


 青豆一号。


 無事。


 アオジロウ。


 無事。


 ムラマル。


 擦れ跡変化なし。


 モリタン。


 本葉。


 完全に開いたまま。


 夕方の光を受けている。


 私は畝の前へしゃがんだ。


「ただいま」


 三つの芽へ。


「今日は、母様の手紙の四つ目の一文を読みました」


 風が葉を揺らす。


「母様は、父様に逆らえば、二度と私へ近づけなくなると思い、怖かったそうです」


 胸が痛い。


「私は、怒りました」


 アオジロウ。


「母様は、私を失うことを恐れました」


 ムラマル。


「でも、私は、母様も父様も家も失いました」


 モリタン。


「そのことを、小さくしません」


 声が震える。


「母様が怖かったことは分かります」


 胸へ手を置く。


「でも、私も怖かったです」


 涙が一滴。


 土へ落ちる。


「今日は、それを両方記録しました」


 モリタンの本葉。


 完全に開いた。


 でも。


 開くまでの時間は消えない。


「理由を知っても、傷は消えません」


 言えた。


「今日は、ここまでです」


 リオたちが村へ戻る前。


 ミナが確認する。


「今夜、母様を責めすぎていると思ったら?」


 私は少し考える。


「責める気持ちがあることを、まず認めます」


「はい」


「それから、母様の恐れも記録します」


「はい」


「どちらかを消しません」


 ミナが頷く。


「よいと思います」


 リオが言う。


「フローラが怖かったこと、忘れない」


「はい」


「母親が怖かったことも、忘れない」


「はい」


「でも同じじゃない」


「はい」


 ガルドさんが言う。


「今夜、北側の見張りを一名増やします。レナード隊の二名は旧街道沿いで止まっているようです」


「森へ入りますか」


「現時点では、その兆候はありません」


「分かりました」


 外の警戒。


 内の気持ち。


 両方。


 三人を見送る。


 結界を閉じる。


 夕食。


 食べられた。


 少し時間はかかった。


 でも。


 芋。


 豆。


 パン。


 味がする。


 夜。


 日記帳を開く。


 今日。


 モリタンの本葉が完全に開いた。


 途中の記録があるから、今日を完全と書けた。


 春待ちの根元。


 最初に咲いた花が落ちた。


 全部は持ち帰らなかった。


 離れた花弁一枚だけ。


 残りは、根元へ。


 花弁は、花守り箱へ入れた。


 母様の手紙の引き出しとは、分けた。


 共同畑。


 キズナの初葉が開き始めた。


 片方には、種皮に押されていた皺がある。


 皺があっても葉。


 正式に、キズナという名前になった。


 昼前。


 母様の手紙の四つ目の一文を読んだ。


 あの日の私は、あなたの父に逆らえば、二度とあなたへ近づくことすら許されなくなるのだと、恐れていました。


 私は怒った。


 母様は、私へ会えなくなることを恐れた。


 その恐れから、父様へ逆らわなかった。


 その結果。


 私は、母様と会えなくなった。


 私は、父様も。


 家も。


 使用人たちも。


 全部から離れた。


 母様が失うことを恐れたものを守るために。


 私が失ったように感じた。


 私はペンを止めた。


 母様の恐れは、本物だったのかもしれない。


 父様は。


 逆らえば、本当に母様を私から遠ざけたかもしれない。


 母様の部屋を閉ざし。


 手紙も許さず。


 会うことを禁じたかもしれない。


 でも。


 実際に。


 私は遠ざけられた。


 母様の選択で。


 私の痛みが生まれた。


 どちらも。


 本当かもしれない。


 私は最後に書いた。


 母様が怖かったことを、否定しない。


 私が傷ついたことも、否定しない。


 理由を知ることと、許すことは違う。


 母様の恐れは、母様のもの。


 私の傷は、私のもの。


 私は、母様の恐れを全部持ち帰らない。


 今日読んだ一文だけを持つ。


 残りは、まだ手紙の中へ置いておく。


 落ちた花を一枚だけ拾ったように。


 全部を抱えない。


 日記帳を閉じる。


 机の引き出しへ手を置く。


 中は空。


 でも。


 母様の手紙が戻る場所。


 棚の上。


 花守り箱。


 一枚の淡い青い花弁。


 分けた場所。


 私は目を閉じた。


「おやすみなさい、母様」


 静かに言う。


「母様が、怖かったことは分かりました」


 胸が痛む。


「でも、私も怖かったです」


 言えた。


「母様が失うことを恐れた時、私は失う側にいました」


 涙が頬を伝う。


「そのことは、なくなりません」


 少し間を置く。


「今日は、一文だけ持ち帰ります」


 返事はない。


 それでいい。


 暖炉の前へ座る。


 花守り布を膝へ置く。


 三つの芽。


 途中の花。


 開いた花。


 閉じ始めた花。


 曲がったキズナ。


 二枚の初葉。


 片方には、小さな皺。


 私は指先で。


 皺のある葉へ触れた。


「傷の跡があっても、葉は葉です」


 そして。


 春告げ花の刺繍へ。


「落ちても、咲いていたことは消えません」


 子守歌を歌う。


 森の葉っぱが眠るころ


 小さな灯りも目を閉じる


 風よ静かに通りゃんせ


 夢の小道を通りゃんせ


 歌い終える。


 窓の外。


 夜の森。


 村。


 旧街道。


 春待ちの根元。


 母様の手紙。


「また明日」


 青豆一号へ。


 風よけなしで立つアオジロウへ。


 傷の跡を残したまま光を受けるムラマルへ。


 本葉を完全に開いたモリタンへ。


 春待ちの根元で、土へ返ろうとしている最初の花へ。


 一枚だけ、花守り箱へ来た淡い青の花弁へ。


 片方の葉に皺を残しながら、初葉を開き始めたキズナへ。


 四つ目の一文まで読んだ母様の手紙へ。


 そして。


 母様の恐れを知っても。


 自分の痛みを小さくせず。


 全部を背負わず。


 今日の一文だけを持ち帰ることができた私へ。


「また明日」


 明日も、見ます。

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