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『青の姫君の森暮らし 〜化け物と恐れられた公爵令嬢は、今日も畑を耕します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第64話 青の姫君、外れない殻を見守る



 翌朝。


 森は、夜の風をまだ覚えていた。


 目を覚ました時、最初に聞こえたのは鳥の声ではなかった。


 屋根の上を、何か軽いものが転がっていく音。


 ころ。


 少し止まり。


 ころころ。


 最後に、軒先から落ちる。


 かさり。


 私は布団の中で目を開けた。


 枝ではない。


 雨でもない。


 足音でもない。


 昨夜の風で折れた木の実か、小さな枝だろう。


 結界に反応はない。


 家の外から、人の気配も感じない。


 それでも私は、すぐに起き上がらなかった。


 音が一度消えた後。


 もう一度。


 ころ。


 屋根の傾斜に沿って、ゆっくり動く。


 今度は軒先で止まったらしい。


 落ちる音はしなかった。


 私は天井を見つめたまま、息を数えた。


 一つ。


 吸う。


 二つ。


 吐く。


 三つ。


 森の家。


 四つ。


 朝。


 五つ。


 母様の手紙は村。


 胸の中にあるのは、二つの一文。


 愛しいフローラへ。


 あなたにこのような言葉を送る資格が、今の私にはないと分かっています。


 昨日。


 私は続きを読まなかった。


 読めなかったのではない。


 読まないと決めた。


 共同畑で、傷のある赤筋葉が芽を出した。


 キズナ。


 曲がった白い茎。


 頭には、まだ種皮をかぶっていた。


 母様の後悔を知って。


 私は、母様を安心させなければならないような気がしていた。


 でも。


 それは、私の昔からの癖だった。


 誰かを心配させない。


 誰かを怒らせない。


 誰かの苦しみを先に軽くする。


 自分の傷は、その後。


 いつも。


 後。


 私は布団の上へ手を出した。


 指を握る。


 開く。


「おはようございます」


 静かな部屋へ言う。


「今日も、森の家にいます」


 引き出しは閉じている。


 中は空。


 母様の手紙も、灰色の布も、村長さんの家にある。


「おはようございます、母様」


 今日も言えた。


 胸は痛んだ。


 でも、声は震えなかった。


「昨日は、続きを読みませんでした」


 返事はない。


「今日は……」


 そこまで言い。


 私は止まった。


 読むか。


 読まないか。


 今はまだ分からない。


 昨日より、少し読みたい。


 理由を知りたい。


 母様が、なぜ自分に資格がないと思っているのか。


 何をしたと。


 何ができなかったと。


 どこまで分かっているのか。


 知りたい気持ちがある。


 でも。


 怖い。


 三つ目の一文で。


 母様の事情が書かれるかもしれない。


 病気だったから。


 父様に逆らえなかったから。


 私の力が恐ろしかったから。


 仕方がなかったから。


 どんな理由であっても。


 私は、また自分の傷を小さくしそうになる。


 母様にも事情があったのだから。


 私より苦しかったのだから。


 だから仕方がない。


 そう考え。


 自分を黙らせてしまうかもしれない。


「今日は、畑を見ます」


 私は続けた。


「キズナも見ます」


 共同畑の小さな芽。


 種皮は外れたか。


 茎は立ったか。


 色は緑になったか。


「その後で決めます」


 いつもの順番。


 私は寝台から下りた。


 窓を開ける。


 風は、昨夜より弱い。


 空には薄い雲。


 朝日はまだ木々の高いところにしか届いていない。


 地面には、夜の冷たさが残っている。


 屋根を転がっていたものを確認するため。


 窓から少し身を乗り出す。


 軒先。


 小さな茶色い木の実が一つ、溝に引っかかっていた。


 丸い。


 表面に細かな筋。


 森栗より小さい。


 鳥が運んだものかもしれない。


「木の実でした」


 原因を確認する。


 怖さが、現実の大きさへ戻る。


 私は顔を洗った。


 髪を梳く。


 空色の髪。


 一度。


 二度。


 三度。


 今日は、母様の手より。


 キズナの頭に残った種皮を思い出した。


 小さな殻。


 芽は地上へ出た。


 でも。


 頭はまだ覆われている。


 自分で外せるのか。


 外せなければ。


 初葉が開けない。


 光を受けられない。


 でも。


 早く外そうとして触れれば。


 柔らかい芽を傷つける。


 助けるべきか。


 待つべきか。


 その境目。


 私は櫛を動かしながら、自分の胸へ聞いた。


 母様の手紙も。


 私は、母様の殻を外そうとしているのだろうか。


 後悔。


 病。


 恐れ。


 沈黙。


 その内側に、母様の本当の気持ちがあるのだと。


 勝手に思い。


 外そうとしているのかもしれない。


 でも。


 殻の中が、優しいとは限らない。


 外せば。


 傷ついた言葉が現れるかもしれない。


「今は、髪を梳きます」


 鏡の中の自分へ言う。


 櫛を最後まで通す。


 髪をまとめる。


 花守り布を手に取る。


 三つの芽。


 途中の春告げ花。


 開いた花。


 閉じ始めた花。


 私は薄い青の、俯いた花へ触れた。


「落ちる前に、無理に取らない」


 春待ちの根元で。


 私は花が自然に落ちるのを待っている。


 キズナの種皮も。


 今は、待つ。


 それでも。


 今日の状態を見なければ、待っていいかは分からない。


「まずは、畑です」


 花守り布をかぶる。


 外へ出る。


 森の空気は冷たかった。


 風の後。


 地面には、新しい枝や葉が多く落ちている。


 結界。


 異常なし。


 家の周囲。


 人の足跡なし。


 軒下には。


 先ほどの木の実と同じものが二つ落ちていた。


 一つは割れている。


 中は空。


 小動物が食べた後かもしれない。


 記録する必要はない。


 でも、踏まないよう端へ寄せる。


 北東側。


 新しい痕跡なし。


 私は青豆一号へ向かった。


 葉は、昨夜の風を越えていた。


 新葉の一枚が少し傾いている。


 茎ではない。


 葉柄の角度が変わっただけ。


 折れなし。


 裂けなし。


 虫害なし。


「おはようございます」


 第二の畝。


 アオジロウ。


 昨日立てた低い風よけ。


 大きくは動いていない。


 土も崩れていない。


 葉は無事。


 茎も安定。


 ムラマル。


 葉の端に、小さな擦れ跡。


 風で別の葉と触れたのだろう。


 表面が少し白くなっている。


 破れはない。


 要観察。


 モリタン。


 本葉は。


 ほとんど開いていた。


 根元に残っていた折り目も、朝の光の中ではわずかに見える程度。


 葉全体は、まだ淡い緑。


 柔らかい。


 でも、昨日より少し厚みが出たように見える。


 私は畝の前へしゃがんだ。


「おはようございます、モリタン」


 風よけの小さな木片。


 昨夜。


 開いたばかりの葉を守った。


 今朝。


 葉は折れていない。


 守りすぎず。


 でも、強い風だけを弱めた。


 その加減が正しかったのか。


 今のところは、そう見える。


 私は記録板を開いた。


 青豆一号、古い葉離脱後二十二日目。


 夜間強風。


 新葉一枚、葉柄角度やや変化。折損・裂傷なし。虫害なし。


 アオジロウ、低位置風よけ使用後。茎・葉とも異常なし。


 ムラマル、葉端に擦過様白色部一。破れなし。強風による接触と推測。要観察。


 モリタン、本葉ほぼ完全展開。夜間風よけ後、折損なし。葉色淡緑。厚み増加の可能性。


 三芽、状態良好。


 観察者、母の手紙の第三文を読みたい気持ち、わずかにあり。


 観察者、理由を知ることで自分の傷を小さくする可能性を警戒。


 観察者、共同畑のキズナの種皮状態を確認後に判断予定。


 書き終えた後。


 私はムラマルの擦れ跡を見る。


 傷。


 小さい。


 すぐ治療する必要はない。


 葉の表面。


 乾いている。


 病気ではない。


 白い跡。


 残るかもしれない。


 消えるかもしれない。


 傷があっても。


 葉は光を受けている。


 キズナも。


 種に傷があった。


 今、芽が出ている。


 でも。


 傷を美しいものへ変えなくていい。


 傷は傷。


 痛みは痛み。


 それでも育つことがある。


 私は風よけの位置を確認した。


 今日は風が弱い。


 アオジロウの木片は、一度外してもよい。


 モリタンの木片も。


 でも。


 朝はまだ少し冷たい。


 日が高くなってから外すことにする。


「戻ってから、見ます」


 私は立ち上がった。


 朝食を作るため、家へ戻る。


 今日は。


 温かいスープ。


 芋。


 玉葱。


 豆。


 昨日の夜の残りを少し。


 新しく水と葉野菜を足す。


 鍋を火へかける。


 湯気が上がる。


 その中で。


 キズナの種皮を思い出す。


 湿らせれば。


 柔らかくなり。


 自然に外れることがある。


 でも、水をかけすぎれば。


 茎が倒れる。


 腐る。


 霧のような水を少量。


 直接ではなく。


 周囲の湿度を保つ。


 それが必要かもしれない。


「村で見てからです」


 私は鍋をかき混ぜる。


 先に処置を決めない。


 状態を見る。


 母様の手紙も。


 読む前に、答えを決めない。


 でも。


 読むかどうかは。


 私の状態を見て決める。


 味を確認する。


 少し薄い。


 塩を足す。


 芋を一つ潰す。


 とろみが出る。


 机へ座る。


 引き出しは空。


 一口。


 温かい。


 二口。


 豆。


 三口。


 芋。


 私は自分へ聞いた。


「今日は、読みたいですか」


 胸へ意識を向ける。


 母様の次の一文。


 知りたい。


 でも。


 今は。


「少しだけ」


 昨日より。


 読みたくない気持ちより、ほんの少しだけ前。


 でも。


 十分ではない。


「村へ行ってから、決めます」


 スープを飲む。


 最後まで食べる。


 朝食後。


 気持ちは変わらない。


 少し読みたい。


 怖い。


 両方。


 私は食器を片づけた。


 結界に気配が触れる。


 リオ。


 ミナ。


 ガルドさん。


 私は手を拭き。


 扉へ向かった。


「おはようございます」


「おはよう」


 リオは私の顔を見る。


 今日はすぐに手紙の話をしなかった。


 代わりに。


「風、大丈夫だった?」


 聞く。


「はい。三人とも無事です。ムラマルの葉に、小さな擦れ跡があります」


「ひどい?」


「破れてはいません」


「モリタンは?」


「本葉がほぼ開きました」


 リオの顔が明るくなる。


「完全?」


「ほぼ」


「まだ、ほぼか」


「根元の折り目が少し」


 ミナが微笑む。


「最後まで慎重ですね」


「はい」


 ガルドさんは周囲を確認しながら報告する。


「外縁に異常なし。レナード隊は、昨日の夕方に宿から補給隊を一名出しましたが、南の街へ向かっただけです」


「村へは?」


「来ていません」


「ありがとうございます」


 外の動き。


 今は少ない。


 リオが少し間を置いて聞く。


「今日は読む?」


 私は正直に答えた。


「少し、読みたいです」


「少し」


「はい」


「昨日より?」


「読みたい気持ちが少し前に出ています」


 ミナが聞く。


「怖さは?」


「あります」


「理由を読んだら、自分の痛みを小さくしそうですか」


「はい」


「そのことに、気づけています」


「はい」


「なら、読んでも必ずそうなるとは限りません」


 胸へ落ちる。


 気づいている。


 昔の癖。


 母様を安心させるため。


 自分を黙らせる癖。


 気づけていれば。


 止められるかもしれない。


 でも。


 必ずではない。


「共同畑のキズナを見てから決めます」


 私は言った。


 リオが頷く。


「帽子」


「種皮です」


「帽子でいいだろ」


「記録では種皮です」


 ミナが笑う。


「リオ兄さんは、記録係には向きませんね」


「分かりやすさ担当」


「その役目は、誰が決めたのですか」


「俺」


 朝の森へ笑いが落ちる。


 私は少し肩の力を抜いた。


 三人を畑へ案内する。


 リオはムラマルの擦れ跡を見る。


「白い」


「はい」


「病気じゃない?」


「今のところ、擦れです」


「薬いる?」


「不要です」


「触らない?」


「はい」


 アオジロウの風よけ。


 リオが聞く。


「外す?」


「日が高くなってから。今日は風が弱いので、村へ行く前に少し外へずらします」


「全部取らない?」


「まだ朝です」


 モリタン。


 リオは本葉を見つめる。


「もう開いたって言っていいだろ」


「ほぼです」


「厳しいな」


「記録ですから」


 ミナが言う。


「リオ兄さんは、途中をすぐ終わりにしたがりますね」


「だって開いてる」


「根元がまだです」


「ほんの少し」


「そのほんの少しも記録です」


 私は二人のやり取りを聞きながら笑った。


 途中を途中として見る。


 完全に終わったことにしない。


 母様の手紙も。


 二つの一文。


 まだ途中。


 朝食の残りを三人へ出す。


 リオはスープを一口飲む。


「芋、潰れてる」


「とろみを出しました」


「形ない」


「味は?」


「うまい」


「ならよいです」


 ミナが言う。


「今日は欠点より、変化ですね」


「形がないのは変化だろ」


「成長したようで、していませんね」


 私は笑った。


 食後。


 村へ向かう準備。


 薬草籠。


 記録板。


 白い袋は持たない。


 手紙は村にある。


 今日、読む可能性がある。


 でも。


 持ち運ぶ必要はない。


 アオジロウの風よけを、さらに少し外へ。


 モリタンの木片は、そのまま低く置く。


 帰った時。


 風が弱ければ外す。


 私は畑へ声をかけた。


「村へ行ってきます」


 アオジロウ。


 ムラマル。


 モリタン。


「キズナの種皮を見てきます」


 風が葉を揺らす。


「手紙を読むかも、その後で決めます」


 胸へ手を置く。


「戻ります」


 村への道。


 今日は西の高道。


 春待ちの根元は通らない。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 傷。


 四歩。


 種皮。


 五歩。


 助けるか。


 六歩。


 待つか。


 七歩。


 村。


 森の道には、昨夜の風で落ちた枝が多い。


 ガルドさんが先にどかす。


 太いものは避ける。


 細いものは踏まないよう、足を上げる。


 途中。


 折れた枝の先に。


 まだ青い葉がついていた。


 木から離れても。


 すぐには色を失わない。


 でも。


 根から切れた。


 いずれ乾く。


 私は視線を少し落とした。


 助けることができないものもある。


 すべてを。


 元へ戻せるわけではない。


 村の西側。


 見張り。


 丸。


 異常なし。


 村へ入る。


 今日は。


 広場へ入る前から。


 子供たちの声が聞こえた。


「触ってない!」


「近づきすぎ!」


「影になる!」


「トト、下がって!」


「俺だけじゃないだろ!」


 キズナの周りで。


 何かが起きている。


 私は歩みを少し速めた。


 走らない。


 でも、急ぐ。


 共同畑。


 観察鉢の周囲。


 子供たち。


 大人たちも数人。


 パン屋の女性。


 バルドさん。


 井戸から戻る途中の村人。


 皆。


 少し距離を空け。


 小さな芽を見ている。


 エマが私に気づく。


「フローラ先生!」


「どうしましたか」


「帽子が!」


 私は鉢へ近づく。


 キズナ。


 昨日。


 曲がった淡い茎。


 頭に種皮。


 今日は。


 茎が少し伸びていた。


 色は、昨日より緑。


 湾曲も少し減っている。


 けれど。


 種皮は、まだ頭に残っている。


 しかも。


 初葉らしい部分が内側から押しているのか。


 種皮の隙間が少し広がっている。


 片側だけ。


 もう片側は、しっかりついたまま。


 キズナは。


 種皮を斜めにかぶり。


 頭を傾けているように見えた。


「外れかけています」


 私が言うと。


 周囲から小さな息が漏れる。


「取る?」


 エマ。


「まだです」


「でも、引っかかってる」


「はい」


「苦しそう」


 ルルが言う。


「初葉、出たい」


「はい」


 私はしゃがみ込み。


 角度を変えて見る。


 種皮。


 乾いている。


 茎。


 折れなし。


 初葉は。


 完全には見えない。


 でも、内側から緑が押している。


 種皮の一部が、葉へ貼りついている可能性。


 無理に取れば。


 初葉の表皮を傷つけるかもしれない。


 でも。


 このまま乾燥すれば。


 種皮が硬くなり。


 初葉が開けないかもしれない。


 私は土の湿りを確認する。


 十分。


 空気は、少し乾いている。


「霧を使います」


 私は答えた。


 子供たちがざわめく。


「水かける?」


「直接強くはかけません」


「帽子に?」


「種皮と、その周囲へごく少量」


 サムが記録板を構える。


 私は続ける。


「目的は、種皮を柔らかくすることです。外すためではありません」


「自分で外す?」


 ニコが聞く。


「できるように、少し助けます」


 トトが言う。


「結局助けるんだろ」


「はい。でも、私が取るのではありません」


「違う?」


「違います」


 私は霧吹き用の小さな器を用意してもらった。


 穴の細い葉筒。


 中へ水を入れる。


 直接一滴を落とすのではなく。


 指先で口を押さえ。


 ごく細かな水を作る。


 一度。


 キズナの周囲。


 もう一度。


 種皮。


 水滴が一つ。


 茶色い殻の表面へつく。


 それ以上はしない。


「終わりですか」


 エマが聞く。


「はい」


「少ない」


「十分です」


 パン屋の女性が腕を組む。


「もっと濡らした方が取れそうだけどねえ」


 バルドさんが言う。


「やりすぎりゃ倒れる」


「分かってるよ」


「なら口出すな」


「見てるとやりたくなるんだよ」


「それが危ねえって話だ」


 周囲から小さな笑い。


 でも。


 誰もキズナへ触れない。


 私は記録板を開いた。


 赤筋葉、観察鉢。


 仮称キズナ。


 発芽二日目。


 地上部伸長あり。


 茎色、淡緑から緑へ移行。


 湾曲軽減。


 種皮残存。


 種皮片側に隙間増加。


 初葉による内側からの圧迫と推測。


 種皮乾燥傾向。


 微細霧二回。


 目的、種皮軟化補助。


 物理的除去は実施せず。


 午前中、経過観察。


 私は書き終え。


 最後に加えた。


 助けるが、代わりに外さない。


 木板の文字。


 胸へ残る。


 助ける。


 でも。


 代わりにしない。


 母様の後悔を。


 私が代わりに解決しない。


 父様との関係も。


 母様の恐れも。


 母様自身が向き合うもの。


 私は。


 手紙を読む。


 自分の傷を見る。


 必要なら。


 いつか言葉を返す。


 でも。


 母様を救う役にはならない。


 エマがキズナへ顔を近づけそうになる。


 ルルが服の裾を引く。


「影」


「あ」


 エマが下がる。


「ごめん」


「謝らなくても。下がればいい」


 私は言う。


 エマは頷く。


 失敗しかけた。


 でも、戻る。


 それでいい。


 リーナはキズナの札へ。


 新しく小さな茶色の布片を縫い足した。


「帽子」


「種皮です」


 サムが訂正する。


「札は帽子でいい」


 リーナは静かに言う。


 サムが少し迷う。


「記録は種皮」


「はい」


 リーナの札。


 赤い筋。


 灰色の傷。


 青い結び目。


 茶色い小さな帽子。


 分かりやすい。


 でも、記録とは違う表現。


 どちらも必要。


 私は微笑んだ。


「よいと思います」


 今日の授業は。


 助け方の違いになった。


 キズナだけではない。


 共同畑の別の葉野菜。


 一株。


 大きな葉の下に、小さな葉が隠れている。


 光が届きにくい。


 大きな葉を切るか。


 少し向きを変えるか。


 支えを置くか。


 子供たちへ聞く。


「どうしますか」


 エマ。


「大きい葉、切る」


 トト。


「紐で上げる」


 ニコ。


「小さい方を移す」


 ルル。


「まず見る」


 サム。


「光量測定」


 リーナは。


 葉の形を見ている。


 私は一つずつ検討した。


 切る。


 早い。


 でも、大きな葉も光合成に必要。


 紐で上げる。


 可能。


 ただ、強く縛れば葉柄を傷める。


 小さい方を移す。


 根がつながっている同じ株なので不可。


 まず見る。


 正しい。


 光量測定。


 できる範囲で。


 最終的に。


 細い枝を一本立て。


 大きな葉を、ほんの少し持ち上げる。


 紐は結ばない。


 枝へ軽く預けるだけ。


 小さな葉へ光が入る。


 大きな葉も切らない。


「助けるけれど、形を決めすぎない」


 私は説明した。


「葉が自分で向きを変えたら、支えを外します」


 エマがキズナを見る。


「同じ」


「似ています」


 サムが記録する。


 補助。


 代替ではない。


 周囲の大人たちも。


 いつの間にか授業を聞いている。


 パン屋の女性が言う。


「人の世話も、やりすぎると本人が何もしなくなるってやつかね」


 バルドさんが答える。


「何もしなくなるってより、する隙がなくなるんだろ」


 別の村人。


「年寄りの荷物、全部持ってやると怒られるもんな」


「持てない分だけにしろってな」


「でも転ばれたら怖いだろ」


「だから見てるんだよ」


 人々の会話が広がる。


 介助。


 手助け。


 見守り。


 村の暮らし。


 皆。


 自分の経験へ重ねている。


 私はその声を聞きながら。


 胸の中に、昔の母様を思い出した。


 母様は。


 私のためにたくさんのものを選んだ。


 服。


 教師。


 髪飾り。


 食事。


 予定。


 友人になるべき令嬢。


 婚約候補。


 私が困らないように。


 間違えないように。


 傷つかないように。


 きっと。


 善意もあった。


 でも。


 私が選ぶ隙は少なかった。


 助けることと。


 代わりに決めること。


 その境目。


 母様も、分からなくなっていたのかもしれない。


 そう考え。


 私はすぐに自分を止めた。


「まだ、分かりません」


 小さく言う。


 ミナが隣で聞いた。


「何がですか」


「母様が、何を考えていたのか」


「はい」


「善意だったと、先に決めそうになりました」


「気づけましたね」


「はい」


「次の一文に、書いてあるかもしれません」


「はい」


「書いていないかもしれません」


「はい」


 私はキズナを見る。


 種皮。


 霧の水を受け。


 表面が少し濃い茶色になっている。


 柔らかくなっているか。


 まだ見ただけでは分からない。


「今日は、読むかもしれません」


 私は言った。


「今は?」


 ミナが聞く。


「朝より、少し読みたいです」


「キズナを見たから?」


 大事な問い。


 私は胸へ聞く。


 助ける。


 代わりにしない。


 母様の理由。


 知りたい。


 でも。


 キズナが殻を外そうとしているから。


 私も手紙の殻を外さなければ。


 そう思ってはいないか。


「キズナとは、分けます」


 私は答えた。


「はい」


「ただ、助けることと代わりにすることを考えたら、母様の言葉をもう少し知りたくなりました」


「それは、フローラの気持ちですか」


 私は少し時間をかけた。


 周囲の声。


 風。


 子供たち。


 キズナ。


 胸。


「はい」


 答える。


「今は、そう思います」


 昼前。


 キズナをもう一度見る。


 微細な霧を与えてから。


 種皮の隙間が。


 少しだけ広がっていた。


 初葉の先端が。


 片方だけ。


 茶色い殻の外へ見えている。


 緑。


 細い。


 まだ、もう片方は殻の中。


 キズナ自身が。


 少しずつ押している。


 子供たちの間に、抑えた歓声。


「出た!」


「片方!」


「触らない!」


「分かってる!」


 私は観察する。


 初葉。


 損傷なし。


 種皮。


 片側開放。


 水滴はほぼ乾いている。


 追加の霧。


 必要か。


 今は。


 自分で動いている。


 追加しない。


 記録する。


 発芽二日目、午前後半。


 種皮隙間拡大。


 初葉片側先端露出。


 露出部、緑色。


 損傷なし。


 追加処置なし。


 自力展開継続を待つ。


 私は木板を閉じた。


「自分で進んでいます」


 エマが嬉しそうに言う。


「霧、役に立った?」


「おそらく」


「フローラ先生が取ったんじゃない」


「はい」


「でも助けた」


「はい」


 ルルが言う。


「キズナの力、残った」


 胸へ落ちる。


 力を残す助け。


 母様にも。


 私にも。


 必要なのかもしれない。


 私が母様を救わない。


 でも。


 手紙を読むことで。


 母様が自分の言葉を伝える機会は受け取る。


 その後。


 どうするかは。


 それぞれ。


 村長さんが広場へ来た。


 キズナを見る。


「外れそうだな」


「はい」


「今日は触らんのか」


「はい。自力で動いています」


 村長さんは頷く。


 それから。


 私を見る。


「手紙は」


 私は胸へ手を置く。


 朝。


 少し。


 村。


 キズナ。


 授業。


 今。


「読みます」


 私は答えた。


「三つ目の一文だけ」


 声は震える。


 でも。


 はっきり。


「分かった」


 広場の空気が静かになる。


 子供たちは。


 以前より少し慣れた。


 でも。


 心配は消えていない。


 エマが言う。


「一文」


「はい」


「一回」


「はい」


「布」


「はい」


 トトが続ける。


「芋」


 周囲に小さな笑い。


 私は笑った。


「はい」


 リオが真剣に頷く。


「用意してある」


「いつの間に」


「朝、パン屋に言った」


 ミナがため息をつく。


「読むと決まっていない時から」


「準備」


 リオは胸を張る。


 私も。


 今日は素直に笑えた。


「ありがとうございます」


 子供たちへ。


「行ってきます」


 エマ。


「戻ってきて」


「はい」


 ルル。


「途中でも」


「はい」


 ニコ。


「言葉、重かったら置いてきて」


「はい」


 サム。


「第三読書。一文。変更可」


「はい」


 リーナ。


「布がある」


「はい」


 村長宅。


 仕事部屋。


 木の机。


 地図。


 記録簿。


 窓。


 今日も。


 同じ場所。


 でも。


 少しずつ。


 私の中で、怖さの形が変わっている。


 部屋には。


 村長さん。


 ミナ。


 私。


 リオは少し後ろ。


 ガルドさんは外。


 机の上。


 水。


 鎮静茶。


 焼いた芋。


 灰色の布。


 私は椅子へ座った。


 手を膝へ置く。


 指が少し震えている。


 ミナが聞く。


「今も読みたいですか」


「はい」


「一文」


「はい」


「読後、必ず閉じる」


「はい」


 村長さんが引き出しを開ける。


 灰色の包み。


 机へ置く。


 青い糸。


 淡い灰色。


「始めていいかい」


「はい」


 布を開く。


 淡青色の封筒。


 深い青の封蝋。


 春告げ花。


 フローラへ。


 母様の字。


 私は呼吸を数える。


 一つ。


 吸う。


 二つ。


 吐く。


 三つ。


 ここは村長さんの仕事部屋。


 四つ。


 リオとミナがいる。


 五つ。


 途中で止められる。


 私は封筒へ手を伸ばした。


 便箋を取り出す。


 一枚目。


 母様の字。


 愛しいフローラへ。


 最初の一行。


 昨日より。


 少し柔らかく見える。


 次。


 あなたにこのような言葉を送る資格が、今の私にはないと分かっています。


 胸が痛む。


 でも。


 視線を止めない。


「三つ目へ行きます」


 私は言った。


 ミナが頷く。


「はい」


 私は視線を下げた。


 母様の文字。


 少し震えた線。


 一文。


 ゆっくり。


 意味を追う。


 ――あなたが屋敷を去ったあの日、私はあなたを引き止めることができませんでした。


 私は。


 その文を。


 一度では理解できなかった。


 もう一度。


 目でなぞる。


 あなたが屋敷を去ったあの日。


 私は。


 あなたを引き止めることができませんでした。


 できませんでした。


 しませんでした、ではない。


 できなかった。


 母様は。


 そう書いた。


 胸の奥から。


 強い怒りが上がった。


 言い訳。


 そう思った。


 できなかった。


 なぜ。


 何が。


 誰が。


 私は。


 母様が来るのを待っていた。


 荷物をまとめ。


 屋敷を出る前。


 一度。


 廊下を振り返った。


 母様の部屋の方を。


 誰も来なかった。


 使用人たちは、目を伏せた。


 父様は、私を見なかった。


 母様も。


 来なかった。


 引き止めることができなかった。


 その言葉で。


 あの時の孤独が。


 一気に戻る。


 私は灰色の布へ手を伸ばした。


 でも。


 指が震え。


 うまく掴めない。


 ミナが私を見る。


「止めますか」


 私は頷いた。


 声が出ない。


 村長さんがすぐに灰色の布を持ち。


 便箋へかける。


 母様の字が隠れる。


 封筒へ戻す。


 包む。


 私は両手を胸へ当てた。


 呼吸。


 浅い。


「フローラ」


 ミナ。


 私は答えられない。


「フローラ」


 二度目。


「……はい」


 声が出た。


「手を握りますか」


 私は頷く。


 ミナの手。


 温かい。


 リオは。


 後ろで。


 拳を握っている。


 呼吸が強い。


 でも、口を挟まない。


 私は目を閉じた。


 できなかった。


 できなかった。


 何度も響く。


 怒り。


 悲しみ。


「違います」


 私は言った。


 誰へ。


 母様へ。


 自分へ。


 分からない。


「何が違う」


 村長さんが静かに聞く。


「母様は」


 声が震える。


「できなかった、と書きました」


「うん」


「でも、私は」


 息が詰まる。


「私は、来てほしかったです」


「うん」


「できるかどうかではなく」


 涙が落ちる。


「来ようとしてほしかったです」


 言葉にした瞬間。


 胸の奥で。


 何かが大きく崩れた。


「扉の前まででも」


 涙。


「廊下の途中まででも」


 声。


「呼び止めるだけでも」


 ミナの手を強く握る。


「できなかった、ではなく」


 息を吸う。


「してほしかったです」


 部屋が静かになる。


 リオが。


 後ろで顔を伏せている。


 村長さんは。


 何も急いで答えない。


 私は泣いた。


 長い時間。


 あの日。


 私は。


 母様が来なかったことを。


 母様は病気だったから。


 寝台から起きられなかったから。


 父様に逆らえなかったから。


 仕方がない。


 そう説明していた。


 自分へ。


 何度も。


 でも。


 本当は。


 来てほしかった。


 できなくても。


 しようとしてほしかった。


 失敗しても。


 声だけでも。


 何か。


 私は。


 何もなかったことが。


 一番悲しかった。


「怒っています」


 私は言った。


「はい」


 ミナ。


「母様ができなかったことに」


「はい」


「言い訳のように書いたことに」


 村長さんが頷く。


「そう感じたんだな」


「はい」


「他には」


「……知りたいです」


 自分でも驚く。


「何を」


「なぜ、できなかったのか」


「うん」


「でも」


 胸が痛む。


「理由を知っても、あの日は変わりません」


「変わらない」


「私は、一人で屋敷を出ました」


「うん」


「それは消えません」


「消えない」


 村長さんの言葉。


 短い。


 でも。


 私の事実を。


 否定しない。


「理由を聞いてもいい」


 村長さんが続ける。


「でも、理由が事実を消すわけじゃない」


「はい」


「できなかった事情があっても」


「はい」


「君が来てほしかったことは、なくならない」


 私は泣きながら頷いた。


 リオが。


 ようやく口を開いた。


「俺」


 声が低い。


「外、出た方がいい?」


 怒り。


 強い。


 でも。


 自分で聞く。


 私は彼を見る。


「今は、いてください」


「うん」


「何を思いましたか」


 リオは歯を食いしばり。


 少し間を置いた。


「できなかったって」


 拳が震える。


「便利な言葉だと思った」


 胸に刺さる。


「うん」


 ミナが兄を見た。


 でも、止めない。


「やらなかったことを、できなかったって言えば」


 リオは続ける。


「自分も苦しかったみたいに聞こえる」


 私は涙を拭った。


「はい」


「でも」


 リオは息を吐く。


「本当に、できなかったのかもしれない」


 私は彼を見る。


「分からない」


「はい」


「だから、今は怒るだけにする」


 以前のリオなら。


 母様を責め。


 決めつけ。


 声を大きくしていただろう。


 でも。


 今は。


 怒りを認め。


 それ以上を決めない。


「ありがとうございます」


 私は言った。


 村長さんが聞く。


「今日は、手紙をどうする」


「預かってください」


「うん」


「次も」


 言葉が止まる。


 続きを読むか。


 理由。


 おそらく。


 次の文に続く。


 でも。


 今日は。


 もう十分。


「次の日は、決めません」


「分かった」


「一文だけです」


「守れた」


「はい」


 灰色の包みが引き出しへ戻る。


 かたり。


 見えなくなる。


 私は鎮静茶を飲んだ。


 苦い。


 温かい。


 焼いた芋。


 一口。


 甘い。


 涙で。


 少し塩気もある。


「味がします」


 私は言った。


 ミナが微笑む。


「はい」


「食べられます」


「はい」


 リオも芋を一つ取ろうとして。


 ミナに手を叩かれた。


「それはフローラのです」


「まだあるだろ」


「後です」


 私は泣きながら。


 少し笑った。


「一つ、どうぞ」


「いいのか」


「はい」


 リオは芋を半分に割った。


 大きい方を私へ。


 小さい方を自分へ。


「半分」


「ありがとうございます」


 仕事部屋に。


 短い笑い。


 怒り。


 涙。


 芋。


 全部がある。


 私はゆっくり呼吸を戻した。


 広場へ戻る。


 子供たちは。


 キズナの周りで待っていた。


 私を見る。


 顔。


 涙の跡。


 手に白い袋はない。


 エマが近づく。


「読んだ?」


「はい」


「一文?」


「はい」


「布?」


「自分では持てませんでした」


 リーナの表情が少し曇る。


「使えなかった?」


「いいえ。村長さんが、かけてくれました」


 リーナは少し安心する。


「役目した?」


「はい」


「よかった」


 自分でできなくても。


 布は役目を果たした。


 私は子供たちの前へしゃがんだ。


「母様は」


 言葉を伝えるか。


 選ぶ。


 今日は。


 伝えたい。


「私が屋敷を出た日、私を引き止めることができなかったと書いていました」


 エマが眉を寄せる。


「できなかった?」


「はい」


「どうして?」


「まだ分かりません」


 ニコが聞く。


「フローラ先生、引き止めてほしかった?」


 胸が痛む。


 でも。


「はい」


 答える。


「とても」


 子供たちは静かになる。


 ルルが小さく言う。


「来てほしかった」


「はい」


「来なかった」


「はい」


「悲しい」


「はい」


 サムが記録板を持つ。


「書いていい?」


「はい」


 彼は記録する。


 母からの手紙。


 第三文。


 あなたが屋敷を去ったあの日、私はあなたを引き止めることができませんでした。


 本人、怒り。


 悲しみ。


 来てほしかった。


 理由を知りたい。


 理由があっても事実は消えない。


 灰色布、本人使用困難。


 村長が閉鎖。


 本日一文で停止。


 私は記録を見る。


 来てほしかった。


 初めて。


 はっきり書かれた。


 自分の気持ち。


 あの日から。


 ずっと。


 エマが言う。


「できなかったのと、しなかったの、違う?」


 難しい問い。


「違うかもしれません」


「分からない?」


「はい」


「次に書いてある?」


「あるかもしれません」


「読む?」


「いつか」


 トトが言う。


「今じゃない」


「はい」


 ニコ。


「今日はここまで」


「はい」


 子供たちが。


 もう。


 私より先に。


 止まる言葉を言ってくれる。


 私は微笑んだ。


「今日は、ここまでです」


 そして。


 キズナを見る。


 種皮。


 午前より。


 さらに外れていた。


 片方の初葉は。


 完全に外へ出ている。


 もう片方も。


 先端が見えている。


 種皮は。


 斜めに引っかかり。


 今にも落ちそう。


 でも。


 まだつながっている。


 私はしゃがんだ。


 涙の跡が残る顔で。


 小さな芽を見る。


「自分で、ここまで」


 エマが言う。


「霧、もう一回?」


 私は状態を見る。


 種皮は。


 十分柔らかそう。


 初葉も。


 少し動いている。


 追加不要。


「待ちます」


 私は答えた。


「まだ?」


「はい」


「もう取れそう」


「取れそうだからこそ、待ちます」


 ルルが頷く。


「最後、自分で」


「はい」


 母様。


 できなかった。


 私を引き止められなかった。


 その理由。


 私は。


 すぐに助けるように解釈しない。


 病気だったから。


 仕方なかったから。


 代わりに答えを作らない。


 母様の言葉で。


 続きを読む。


 でも。


 今日は待つ。


 昼食。


 私は食べられた。


 最初の一口から。


 味がした。


 豆のスープ。


 パン。


 芋。


 パン屋の女性が、私の顔を見て。


 何も聞かなかった。


 ただ。


「熱いうちに食べな」


 と言った。


「はい」


 バルドさんも。


 手紙のことへ触れず。


 キズナの柵を少し直す。


 大人たちの沈黙。


 それも。


 守り。


 群衆は。


 何も知らなくても。


 私が何かを読んで泣いたことを分かっている。


 でも。


 踏み込まない。


 パンを渡す。


 椅子を空ける。


 声を少し落とす。


 子供たちが普段通り笑えるよう。


 空気を重くしすぎない。


 村全体が。


 私の周りへ。


 低い風よけを置くようだった。


 全部を遮らない。


 でも。


 強い風だけを弱める。


 午後。


 キズナを確認する。


 種皮は。


 落ちていた。


 観察鉢の土の上。


 小さな茶色い殻。


 芽の頭から離れ。


 すぐ横へ。


 キズナは。


 二枚の初葉を。


 まだ閉じ気味ながら。


 自分で外へ出していた。


 茎は少し曲がっている。


 でも。


 頭は軽い。


 子供たちが声を上げる。


「取れた!」


「自分で!」


「帽子落ちた!」


「種皮!」


 サムの訂正。


 村人たちも。


 仕事の手を少し止め。


 笑う。


「外れたな」


「霧だけでか」


「芽の力だろ」


「両方じゃないか」


 両方。


 助け。


 自分の力。


 どちらか一つではない。


 私は記録板を開いた。


 赤筋葉、観察鉢。


 仮称キズナ。


 発芽二日目、午後。


 種皮自然脱落確認。


 脱落種皮、株元付近。


 初葉二枚、未完全展開。


 片葉に軽度圧痕の可能性。


 茎湾曲残存。


 色、緑。


 萎れなし。


 追加処置なし。


 種皮は保存せず、鉢内へ残す。


 自然乾燥後、土へ返す予定。


 私は最後に書いた。


 微細霧による補助あり。


 物理的除去なし。


 自力展開を維持。


 助けと自力、両方。


 サムも記録する。


 キズナ、帽子……。


 彼は一度止まり。


 エマを見る。


 それから書く。


 種皮、自力で外れる。


 補助、霧。


 力、キズナ。


 両方。


 エマが覗く。


「帽子って書いてない」


「正式記録だから」


「別に書いて」


 サムは少し迷い。


 端へ小さく書いた。


 帽子、卒業。


 子供たちが笑う。


 私も。


 涙の跡が残る顔で。


 笑った。


 夕方前。


 今日は。


 手紙を持ち帰らない。


 村長さんへ預ける。


 灰色の布も。


「今日もお願いします」


「預かる」


 村長さんが頷く。


「次を急がなくていい」


「はい」


「理由を知りたいか」


「はい」


「怖いか」


「はい」


「なら、両方持って帰りなさい」


 手紙ではなく。


 気持ち。


 私は頷いた。


「はい」


 子供たちへ。


「行ってきます」


 エマ。


「また明日!」


 ルル。


「来てほしかった、忘れない」


 胸が熱くなる。


「はい」


 サム。


「第三文まで記録済み」


 ニコ。


「キズナ、帽子卒業」


 トト。


「明日は立つ」


 サムがすぐ。


「予測。未確定」


「分かってる!」


 笑い。


 リーナは。


 花守り布へ。


 キズナの小さな印を縫うか聞いた。


「まだ早いでしょうか」


 私が言うと。


 リーナは首を横に振る。


「芽、出た」


「はい」


「帽子、取れた」


「はい」


「今の形、残す」


 彼女は。


 三つの森試験豆とは少し離れた場所に。


 赤い細い筋。


 灰色の小さな点。


 その上に。


 曲がった淡緑の芽。


 小さな形を仮縫いした。


「キズナ」


 私は布へ触れた。


 母様との傷が。


 絆になるかは分からない。


 でも。


 キズナという芽は。


 今、ここにある。


「ありがとうございます」


 村を出る。


 帰り道。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 できなかった。


 四歩。


 来てほしかった。


 五歩。


 理由はまだ。


 六歩。


 今日はここまで。


 七歩。


 森へ戻る。


 途中。


 胸が苦しくなる。


 あの日の廊下。


 振り返った私。


 来なかった母様。


 私は足を止めた。


 ミナも。


 リオも。


 ガルドさんも。


 待つ。


「思い出しました」


 私は言う。


「振り返ったことを」


 ミナが静かに聞く。


「誰かを待っていましたか」


「はい」


「母様を」


「はい」


 リオが。


 何か言おうとし。


 止める。


 私は続けた。


「来ないと分かっていたつもりでした」


 胸が痛い。


「でも、待っていました」


「うん」


 リオの短い返事。


「それを、今日初めて認めました」


 風。


 森。


 道。


 誰も急かさない。


「戻れますか」


 ガルドさんが聞く。


「はい」


 私は歩き出す。


 悲しい。


 でも。


 足は動く。


 森の家。


 結界。


 家。


 異常なし。


「ただいま」


 机。


 空の引き出し。


 今日は。


 見ない。


 畑へ向かう。


 青豆一号。


 無事。


 アオジロウ。


 風よけ。


 今日は風が弱い。


 私は木片を外す。


 畝の横へ置く。


 ムラマル。


 擦れ跡。


 朝と変わらない。


 悪化なし。


 モリタン。


 本葉は。


 ほぼ完全に開いている。


 根元の折り目も。


 もう少し。


 私は畝の前へしゃがんだ。


「ただいま」


 三つの芽へ。


「今日は、母様の手紙の三つ目の一文を読みました」


 風が葉を揺らす。


「私が屋敷を出た日、母様は私を引き止めることができなかったと書いていました」


 胸が痛い。


「私は、来てほしかったです」


 言えた。


「できなくても、来ようとしてほしかったです」


 涙が一滴。


 土へ落ちる。


「今日は、それを認めました」


 アオジロウ。


 ムラマル。


 モリタン。


「キズナの種皮は、自分で外れました」


 少し笑う。


「霧で、少しだけ助けました」


 胸へ手を置く。


「母様の理由は、私が代わりに作りません」


 声が震える。


「次に読む時、母様の言葉で知ります」


 でも。


「今日は、ここまでです」


 リオたちが村へ戻る前。


 ミナが確認する。


「今夜、あの日を思い出したら?」


「日記へ書きます」


「母様が来なかった理由を想像したら?」


「まだ読んでいないと言います」


「自分を責めたら?」


 胸が止まりそうになる。


 自分が。


 もっと待てば。


 母様の部屋へ行けば。


 声をかければ。


 違ったかもしれない。


「私は、出ていく側でした」


 私は答えた。


「はい」


「引き止めるのは、母様の選択でした」


「はい」


「私の責任にしません」


 ミナが頷く。


「それでいいです」


 リオが言う。


「フローラは悪くない」


 強い言葉。


 私は少し考え。


「悪い、悪くないを今すべて決めません」


「……うん」


「でも、母様が来なかったことを、私のせいにはしません」


「うん」


 ガルドさんも頷く。


 三人を見送る。


 結界を閉じる。


 夜。


 夕食。


 食べられた。


 でも。


 いつもより少しゆっくり。


 芋。


 パン。


 豆。


 一口ずつ。


 机の引き出しは空。


 手紙は村。


 それが安心だった。


 私は日記帳を開いた。


 今日。


 キズナの種皮が外れかけていた。


 直接取らなかった。


 微細な霧を二回。


 柔らかくする助けだけ。


 午後。


 キズナは自分で種皮を外した。


 助けと自力。


 両方。


 昼前。


 母様の手紙の三つ目の一文を読んだ。


 あなたが屋敷を去ったあの日、私はあなたを引き止めることができませんでした。


 私は怒った。


 できなかった、という言葉が言い訳のように感じた。


 悲しかった。


 私は、来てほしかった。


 扉の前まででも。


 廊下の途中まででも。


 声だけでも。


 来ようとしてほしかった。


 私は屋敷を出る時。


 母様の部屋の方を振り返った。


 誰も来なかった。


 そのことを、今日思い出した。


 私はペンを止めた。


 指が震える。


 あの日。


 私は。


 振り返った。


誰にも言わなかった。


 日記にも書かなかった。


 森へ来てから。


 何度も思い出したかもしれない。


 でも。


 はっきり認めなかった。


 期待していた。


 母様なら。


 最後には来てくれる。


 そんな期待。


 来なかった時。


 私は。


 母様も私を捨てたのだと思った。


 それが。


 森へ進む力にもなった。


 でも。


 本当は。


 捨てられたと決めることで。


 来てほしかった自分を隠した。


 私は最後に書いた。


 私は、母様に来てほしかった。


 引き止めてほしかった。


 森へ行くなと言われたかったのかは、まだ分からない。


 公爵家へ残りたかったのかも、分からない。


 でも。


 何も言わず見送られることだけは、嫌だった。


 母様が「できなかった」と書いた理由は、まだ知らない。


 次に読む時、母様の言葉で読む。


 私が代わりに理由を作らない。


 理由があっても。


 私が一人で屋敷を出た事実は消えない。


 来てほしかった気持ちも、消さない。


 日記帳を閉じる。


 空の引き出しへ手を置く。


 母様の手紙は村。


 でも。


 三つの言葉が、胸にある。


 愛しいフローラへ。


 資格がない。


 引き止めることができなかった。


 私は目を閉じた。


「おやすみなさい、母様」


 静かに言う。


「私は、来てほしかったです」


 涙が頬を伝う。


「今日、やっと言えました」


 胸が痛い。


 でも。


 息ができる。


「なぜできなかったのかは、まだ知りません」


 少し間を置く。


「私が、母様の代わりに理由を作るのはやめます」


 返事はない。


 それでいい。


 暖炉の前へ座る。


 花守り布を膝へ置く。


 三つの芽。


 途中の花。


 開いた花。


 閉じ始めた花。


 そして。


 仮縫いされた、曲がった小さなキズナ。


 私はその芽へ指先で触れた。


「助けるけれど、代わりにはしない」


 今日の言葉。


 子守歌を歌う。


 森の葉っぱが眠るころ


 小さな灯りも目を閉じる


 風よ静かに通りゃんせ


 夢の小道を通りゃんせ


 歌い終える。


 窓の外。


 夜の森。


 村。


 キズナ。


 母様の手紙。


「また明日」


 青豆一号へ。


 低い風よけを外したアオジロウへ。


 小さな擦れ跡を持つムラマルへ。


 本葉をほぼ開き終えたモリタンへ。


 春待ちの根元で、自然に落ちる時を待つ花へ。


 少しの霧を受け、自分で種皮を外したキズナへ。


 三つ目の一文まで読んだ母様の手紙へ。


 そして。


 母様の理由を勝手に作らず。


 来てほしかった自分の声を。


 初めて、きちんと聞けた私へ。


「また明日」


 明日も、見ます。

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