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『青の姫君の森暮らし 〜化け物と恐れられた公爵令嬢は、今日も畑を耕します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第63話 青の姫君、傷のある芽に名前をつける


 翌朝。


 私は、母様の言葉ではなく、雨戸を擦る枝の音で目を覚ました。


 ざり。


 少し間を置いて。


 ざり、ざり。


 乾いた枝先が、朝の風に押されて木板へ触れている。


 人の指ではない。


 窓を叩く音でもない。


 結界にも反応はなかった。


 私は寝台の中で耳を澄ませた。


 風が吹く。


 枝が揺れる。


 ざり。


 音がする。


 風が止む。


 音も止まる。


 原因と結果が、きちんとつながっている。


「枝ですね」


 まだ少し眠りの残る声で呟いた。


 それから目を開ける。


 見慣れた天井。


 森の家。


 朝。


 机の引き出しは閉じていた。


 中には何もない。


 母様の手紙は、村長さんの仕事部屋へ預けてある。


 それでも。


 胸の中には、昨日読んだ二つ目の一文があった。


 ――あなたにこのような言葉を送る資格が、今の私にはないと分かっています。


 目を覚ました瞬間には浮かばなかった。


 枝の音を確認し。


 朝だと分かり。


 森の家にいると確かめた後で。


 静かに思い出した。


 昨日より少し遠い。


 でも、消えてはいない。


 母様は、自分に資格がないと思っている。


 愛しいと呼ぶ資格が。


 それを私は、少し嬉しいと感じた。


 何も分かっていないわけではないと知ったから。


 同時に。


 怒った。


 分かっていたなら。


 なぜ。


 何もしてくれなかったのか。


 なぜ今になって。


 その問いは、昨日から答えのないまま胸にある。


 私は布団の上へ両手を出した。


 指を握る。


 開く。


 今朝は。


 続きを読む気持ちは、まだ分からない。


 昨日の朝は、はっきり読みたいと思った。


 今日は。


 読みたい気もする。


 読みたくない気もする。


 どちらも少しずつ。


 まだ片方が前へ出ていない。


 私は天井を見ながら、ゆっくり呼吸を数えた。


 一つ。


 吸う。


 二つ。


 吐く。


 三つ。


 手紙は村にある。


 四つ。


 今日はまだ始まったばかり。


 五つ。


 決めなくていい。


「おはようございます」


 声に出す。


「今日も、森の家にいます」


 少し間を置く。


「おはようございます、母様」


 胸が少し痛む。


「資格がないと、母様が思っていることは分かりました」


 昨日の日記にも書いた。


 でも、朝の自分へもう一度伝える。


「私は、まだ何も決めません」


 許すか。


 責めるか。


 返事をするか。


 会うか。


 帰るか。


 どれも。


「今日は、畑を見てから考えます」


 いつもの順番。


 私は寝台から下りた。


 床板の冷たさ。


 窓を開ける。


 風が入る。


 昨夜は雨が降っていない。


 空気は乾いている。


 木の葉が擦れる音。


 小川。


 遠くの鳥。


 一度。


 二度。


 少し離れて三度。


 鳥笛ではない。


 雨戸へ触れていた細い枝が、また風で揺れた。


 私は窓の外から手を伸ばし、その枝の位置を少しだけ変えた。


 切らない。


 折らない。


 ただ、雨戸へ当たりにくい方向へ戻す。


「これで、少し静かになります」


 風が吹く。


 枝は揺れる。


 けれど、雨戸には触れない。


 完全に風を止めたわけではない。


 音の原因を、少し離しただけ。


 母様の言葉も。


 胸へ当たり続けるなら。


 少し位置を変えてもいい。


 忘れるのではなく。


 捨てるのでもなく。


 生活へ響きすぎない場所へ。


 私は顔を洗った。


 髪を梳く。


 空色の髪。


 一度。


 二度。


 三度。


 今日は、母様の手を思い出さなかった。


 代わりに、昨日の仕事部屋を思い出した。


 灰色の布。


 便箋。


 母様の震える文字。


 自分で布をかけた手。


 昨日の私は。


 一文だけ読んだ後。


 きちんと止められた。


 その記憶がある。


 だから今日は。


 少し安心して母様の言葉を思い出せる。


 私は髪をまとめた。


 花守り布を手に取る。


 三つの芽。


 途中の春告げ花。


 開いた花。


 そして。


 花弁を下げ始めた花のために残された、小さな空白。


 私はそこへ触れた。


「今日は、リーナが縫うでしょうか」


 村へ行けば。


 昨日頼んだ、閉じ始めた花の形。


 薄い青。


 少し下向き。


 終わりへ向かう花。


 それも記録へ加わる。


 花守り布は。


 咲くものだけを残す布ではない。


 待つもの。


 開くもの。


 閉じるもの。


 全部。


「私の気持ちも、全部残してよいのでしょうか」


 嬉しい。


 怒り。


 悲しみ。


 怖さ。


 知りたい。


 知りたくない。


 全部。


 私は花守り布をかぶった。


「まずは、畑です」


 外へ出る。


 朝の森には、少し強い風があった。


 高い枝が揺れ。


 葉が裏返る。


 地面では、落ち葉が細く流れていく。


 結界。


 異常なし。


 家の周囲。


 人の足跡なし。


 昨夜の森猫らしい足跡は、風で落ちた葉に一部隠れている。


 新しい跡はない。


 北東側。


 変化なし。


 青豆一号へ向かう。


 新葉は風を受け、少し大きく揺れている。


 茎は安定。


 虫害なし。


 葉の縁に、乾燥による軽い巻きはない。


 水分も問題なし。


「おはようございます」


 第二の畝。


 アオジロウ。


 風よけなし。


 葉が大きく揺れている。


 茎は倒れない。


 以前より明らかに強くなっている。


 ムラマル。


 アオジロウほど激しくは揺れない。


 葉の角度が少し低いからだろう。


 茎も安定。


 モリタン。


 本葉が。


 さらに開いていた。


 昨日まで折り畳まれていた根元近く。


 そこも少し広がり。


 細い葉の全体像が、ほぼ分かる。


 まだ柔らかい。


 初葉より淡い色。


 風を受けるたび。


 頼りなく揺れる。


 私は畝の前にしゃがんだ。


「おはようございます、モリタン」


 本葉。


 出た。


 開いた。


 でも、まだ弱い。


 開くことと。


 強くなることは、同じではない。


 母様の言葉も。


 読めば、すぐ受け止められるわけではない。


 開いた後にも。


 揺れる時間がある。


 私は記録板を開いた。


 青豆一号、古い葉離脱後二十一日目。


 風やや強い。


 新葉、揺れ大。茎安定。虫害なし。


 アオジロウ、風よけなしで強風を受ける。茎安定。葉損傷なし。


 ムラマル、風による揺れ中。茎安定。葉位置変化なし。


 モリタン、本葉ほぼ全体展開。根元付近わずかに未展開。風による揺れ大。折れなし。


 三芽、状態良好。


 観察者、母の第二文を思い出す。


 観察者、本朝は続きへの気持ちが定まらない。


 観察者、決定を保留。


 書き終えた後。


 私は少し考え。


 さらに一行加えた。


 開いた直後は、風に揺れる時間が必要。


 木板の文字を見る。


 モリタンのための記録。


 でも。


 今の私にも。


 昨日。


 二つ目の言葉を開いた。


 今日は、その風を受けている。


 答えを出さなくていい。


 許すか。


 拒むか。


 今すぐ決めなくていい。


 揺れる時間。


 必要。


 私はアオジロウの葉を見た。


 風は強い。


 でも。


 風よけを戻すほどではない。


 茎は耐えている。


 完全に守る必要はない。


 ただ。


 今日の風がさらに強くなるなら。


 低い木片を戻す。


 要観察。


 ムラマル。


 モリタン。


 すべて同じ守り方ではない。


 私は畝の横へ置いてある風よけ用の木片を確認した。


 すぐ使える。


 準備はある。


 でも、今は使わない。


「手紙も、灰色の布があります」


 小さく言う。


 読む。


 閉じる。


 必要なら預ける。


 守りはある。


 だから。


 今すぐすべてを避けなくてもいい。


 私は立ち上がった。


 朝食を作るため、家へ戻る。


 今日は。


 芋と玉葱の平焼き。


 卵。


 パン。


 手を動かしながら。


 母様の言葉を考える。


 資格がない。


 そのような言葉。


 愛しい。


 母様は。


 自分が何をしたのか。


 どこまで分かっているのだろう。


 私を森へ追いやったこと。


 止めなかったこと。


 連絡をしなかったこと。


 病床にいたこと。


 父様との関係。


 次の一文に。


 理由が続くのかもしれない。


 私は芋を返す。


 少し焦げている。


「まだ決めつけません」


 声に出す。


 次が。


 謝罪とは限らない。


 理由とは限らない。


 言い訳かもしれない。


 別の呼びかけかもしれない。


 体調の説明かもしれない。


 私の想像は。


 実際の字より先へ行こうとする。


 私は卵を割った。


 殻は入らなかった。


 平鍋へ流す。


 火を弱める。


 朝食を机へ運ぶ。


 引き出しは空。


 私は椅子へ座った。


 一口。


 芋。


 香ばしい。


 二口。


 卵。


 三口。


 玉葱。


 四口。


 次の一文。


 食べられる。


 私は自分へ聞いた。


「今日は、読みたいですか」


 すぐには答えが出ない。


 パンを一口。


 薬草茶。


 息を吐く。


「……まだ、分かりません」


 正直に言う。


 昨日は。


 朝食の後には、はっきり読みたいと思えた。


 今日は違う。


 なら。


 今日は読まない日かもしれない。


 でも。


 村へ着いた後、変わるかもしれない。


 それもいい。


 決めるのを急がない。


 私は朝食を最後まで食べた。


 片づける。


 結界に気配が触れた。


 リオ。


 ミナ。


 ガルドさん。


 私は手を拭いた。


 扉へ向かう。


 開ける。


「おはようございます」


「おはよう」


 リオは私の顔を見る。


 白い袋がないこと。


 机の上にもないことを、ちらりと確認した。


「今日は?」


 昨日と同じ短い問い。


 私は少し考え。


「まだ、分かりません」


 答える。


 リオは頷いた。


「そっか」


 それだけ。


 読めとも。


 読むなとも言わない。


 ミナが静かに聞く。


「目を覚ました時は、どうでしたか」


「母様の言葉は、すぐには浮かびませんでした」


「はい」


「枝の音を確認した後に、思い出しました」


「少し遠くなりましたか」


「はい。でも、消えてはいません」


「続きへの気持ちは?」


「読みたい気持ちも。読みたくない気持ちも。どちらも同じくらいです」


 ミナは頷く。


「なら、今日は決めなくてもよいですね」


「はい」


 ガルドさんが周囲を確認しながら報告した。


「夜間、外縁に異常なし。レナード隊も宿から動いていません」


「ありがとうございます」


 外も。


 今は静か。


「共同畑の傷あり種が気になります」


 私が言うと。


 リオの顔が少し明るくなる。


「昨日、出そうだったやつ」


「はい」


「今日、出てるかも」


「まだ分かりません」


「楽しみ?」


「はい」


 即答できた。


 私は少し驚く。


 母様の手紙を読むかは分からない。


 でも。


 赤筋葉の傷あり種を見るのは楽しみ。


 今日には。


 はっきり楽しみなことがある。


 それが嬉しかった。


 三人を畑へ案内する。


 リオはモリタンの本葉を見る。


「もう葉だな」


「はい」


「完全?」


「根元だけ、まだ少し」


「あとちょっと」


「はい」


 ミナはアオジロウを見る。


「風、強いですね」


「今のところ耐えています」


「風よけは?」


「すぐ戻せます。でも、まだ使いません」


 リオが言う。


「守る準備はある。でも、今は見てる」


「はい」


 ガルドさんが結界の外側から戻ってくる。


「昼頃、風がさらに強まる可能性があります」


「では、村へ行く前に木片を少し近くへ置きます」


「立てるのではなく?」


「はい。戻ってきた時、すぐ使えるように」


 準備。


 でも、処置はまだ。


 手紙と同じ。


 朝食の残りを三人へ出す。


 リオは平焼きを食べる。


「端、焦げてる」


「食べられませんか」


「うまい」


 ミナが少し笑う。


「毎回、最初に欠点を言うのはなぜですか」


「見えたから」


「味を先に言ってください」


「うまい。あと焦げてる」


「順番を変えただけですね」


 私は笑った。


 朝の笑い。


 母様の言葉を持ったまま。


 風の強い朝。


 それでも。


 芋の焦げ目で笑える。


 食後。


 村へ向かう準備。


 今日は。


 手紙を読むか決めていない。


 白い袋は不要。


 薬草籠。


 記録板。


 風よけ用の木片を、畝の近くへ移動する。


 立てない。


 地面へ横に置く。


 必要なら使う。


 私はアオジロウへ声をかけた。


「風が強くなったら、戻します」


 リオが言う。


「返事しないぞ」


「分かっています」


「でも言うんだな」


「はい」


 自分へ確認するため。


 畑へ。


「村へ行ってきます」


 アオジロウ。


 ムラマル。


 モリタン。


「今日は、手紙を読むかまだ決めていません」


 風が葉を揺らす。


「共同畑の芽を見てきます」


 胸が少し弾む。


「戻ります」


 村への道。


 今日は、東寄り。


 春待ちの根元を通れる。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 資格がない。


 四歩。


 まだ決めない。


 五歩。


 傷あり種。


 六歩。


 春待ちの根元。


 七歩。


 村。


 風は森の高い場所で強い。


 地面近くは、木々に遮られて少し穏やか。


 落ち葉が流れる。


 ガルドさんが先。


 ミナが横。


 リオは後ろ。


 知らない音はない。


 春待ちの根元。


 白樹。


 三つ岩。


 四つの春告げ花。


 私は足を止めた。


 ガルドさんが周囲を確認する。


 丸。


 異常なし。


 花は。


 昨日より変わっていた。


 最初に咲いた三つのうち。


 花弁を下げ始めていた一つ。


 今日は、さらに俯いている。


 青は薄くなり。


 花弁の縁に、小さな皺。


 別の一つも。


 少しだけ下を向き始めている。


 四つ目は、まだ開いている。


 私はしゃがんだ。


「二つ目も、閉じ始めています」


 ミナが隣で見る。


「順番ですね」


「はい」


 咲いた順。


 閉じる順。


 全部、一度にではない。


 私は記録板を開いた。


 春待ちの根元。


 開花四。


 初期開花第一花、俯き増加。花色やや淡化。花弁縁に皺。


 初期開花第二花、花弁角度低下開始。


 第三花、大きな変化なし。


 第四花、展開維持。


 自然な開花後変化。


 採取せず。


 観察継続。


 観察者、母の手紙を読むか未決定。


 観察者、花が順番に閉じることを確認。


 書き終える。


 私は花を見た。


「閉じ始めても、同じ場所にいます」


 花は消えていない。


 咲いている時だけが、その花ではない。


 俯いた。


 色が薄くなった。


 それも。


 同じ花。


 母様との関係も。


 優しかった時。


 遠ざかった時。


 手紙を書いた今。


 どれか一つだけが母様ではない。


 でも。


 全部を受け入れなければならないわけでもない。


 記録する。


 見る。


 距離を取る。


「今日は、摘みますか」


 リオが聞いた。


 これまで。


 何度も摘まなかった。


 場所で咲くところを見たいから。


 でも。


 閉じ始めた花。


 記録として持ち帰るか。


 花守り布へ縫うため、色を近くで見たい。


 私は少し考えた。


「第一花だけ、落ちる前に採取する方法もあります」


 ミナが言う。


「標本にしますか」


「はい」


 胸が少し揺れる。


 摘む。


 ずっと、しなかったこと。


 花を場所から離す。


 でも。


 終わりが近い。


 採取し。


 乾燥させ。


 記録として残す。


 それは、奪うことなのか。


 残すことなのか。


「今日は、まだ摘みません」


 私は答えた。


「落ちるまで、ここで見たいです」


 リオが頷く。


「分かった」


「落ちた後に、拾える状態なら持ち帰ります」


「自然に離れたら?」


「はい」


 自分で閉じ。


 自分で落ちる。


 それを待つ。


 私は立ち上がった。


 村へ向かう。


 東側の見張り。


 丸。


 異常なし。


 村へ入る。


 パンの匂い。


 薪。


 井戸。


 人の声。


 今日。


 村の大人たちの視線は、昨日より自然だった。


 私が白い袋を持っていない。


 続きを読む日か分からない。


 だから。


 皆も、決めつけない。


 パン屋の女性が。


「風、強いから帰り気をつけな」


 それだけ言う。


「はい」


 共同畑。


 子供たちが集まっている。


 いつものように私を待っているのではない。


 観察鉢の周囲に。


 少し距離を空けて。


 輪になっている。


 エマが私に気づき。


 両手を大きく振った。


 声を抑えようとして。


 結局、少し高くなる。


「フローラ先生! 出た!」


 胸が跳ねた。


「触っていませんか」


「触ってない!」


 皆が一斉に答える。


 私は足を速めかけ。


 でも、走らない。


 観察鉢へ近づく。


 子供たちが道を空ける。


 中央。


 傷ありの赤筋葉の種を植えた場所。


 昨日まで。


 土の亀裂。


 白い先端。


 今日は。


 小さな芽が。


 土の上へ出ていた。


 まだ。


 完全に立っていない。


 茎は白に近い淡緑。


 曲がっている。


 先端に、茶色い種皮をかぶったまま。


 土を押し上げ。


 地上へ出た。


 私はしゃがんだ。


 息を忘れそうになる。


「……出ています」


 声が震えた。


 エマが隣で。


「芽?」


「はい」


「本当に?」


「はい」


 子供たちの間に。


 小さな歓声が広がる。


 大人たちも。


 少し離れたところから笑う。


 パン屋の女性。


 バルドさん。


 畑を手伝っている人たち。


「傷があったやつだろ」


「一番先か」


「まだ種皮ついてるな」


「触るなよ」


「分かってる!」


 群衆の反応が。


 村の広場へ広がる。


 大声ではない。


 でも。


 皆が。


 傷ありの種の発芽を喜んでいる。


 私は芽へ顔を近づけた。


 曲がっている。


 白っぽい。


 種皮をかぶったまま。


 決して。


 綺麗な姿ではない。


 でも。


 出た。


 土の上へ。


 私は記録板を開いた。


 手が少し震える。


 赤筋葉、観察鉢。


 傷あり種。


 発芽確認。


 地上部、高さ約指爪半分。


 茎、淡緑から白色。


 湾曲あり。


 先端に種皮残存。


 初葉未確認。


 自立未達。


 接触せず。


 直射弱化の必要なし。


 乾燥注意。


 午後再確認。


 私は書き終え。


 少し間を置いた。


 そして。


 最後に書く。


 傷あり種、三群中最初に発芽。


 決めつけてはいけない。


 傷があったから強い。


 そうではない。


 他の種が弱い。


 それも違う。


 ただ。


 この種が、最初に出た。


 今の事実。


 サムが私の横で、自分の記録へ書く。


 傷あり。


 最初に発芽。


 でも価値決定なし。


 要観察。


 エマが言う。


「名前!」


 私は顔を上げる。


「名前ですか」


「最初に出た!」


「森試験豆とは違います」


「でも、観察するんでしょ?」


「はい」


「傷あったやつ。頑張って出たやつ」


 トトが言う。


「傷豆」


 エマが怒る。


「嫌!」


「分かりやすいだろ」


「嫌だ!」


 ニコが考える。


「赤い筋で、傷があって、曲がってる」


「全部そのまま言わなくていいです」


 ルルが静かに芽を見る。


「キズナ」


 全員が彼女を見る。


 ルルは少し驚いたように目を瞬いた。


「傷の、きず」


「嫌な名前じゃないか」


 トトが言う。


 ルルは首を横に振る。


「傷がある。でも、みんなが見てた。待ってた。つながったから、きずな」


 胸が熱くなる。


 傷。


 絆。


 同じ音。


 違う意味。


 傷が消えたわけではない。


 でも。


 その傷を見守る中で。


 村の皆がつながった。


 私は芽を見る。


 まだ種皮をかぶり。


 曲がっている。


 弱そう。


 でも。


 出た。


「キズナ」


 声に出す。


 胸へ落ちる。


「よい名前だと思います」


 エマが喜ぶ。


「キズナ!」


 ニコ。


「キズナ」


 サムが記録する。


 傷あり赤筋葉。


 仮称、キズナ。


 命名、ルル。


 理由、傷と見守りのつながり。


 私は少し考え。


「仮称です」


 皆が私を見る。


「まだ、育つか分かりません」


 空気が少し静かになる。


「名前をつけても、状態を決めつけません」


 エマが頷く。


「要観察」


「はい」


 バルドさんが少し離れて言う。


「名前があっても、弱い時は弱い。枯れる時は枯れる」


 厳しい言葉。


 でも。


 真実。


「はい」


 私は答える。


「だから見ます」


 パン屋の女性が言う。


「出た日に、枯れる話までしなくてもいいじゃないか」


 バルドさんが腕を組む。


「浮かれすぎるなってことだ」


「喜ぶ時は喜びな」


「喜んでる」


「顔が怖いんだよ」


 周囲に笑いが起こる。


 空気が少し和らぐ。


 私はキズナを見る。


 母様との関係にも。


 傷がある。


 でも。


 傷があるから。


 必ず終わるわけではない。


 傷があるから。


 必ず強い絆になるわけでもない。


 見る。


 要観察。


 それだけ。


 エマが聞く。


「歌、いい?」


 ニコがすでに少し考えている。


 私は笑った。


「はい。今日は、出た歌ですね」


 ニコが小さく歌い始める。


 傷のある種


 土の下


 まだ駄目なんて


 決めないで


 白い背中で


 土を押し


 曲がったままで


 顔を出す


 きずがあっても


 きずなになるか


 それはこれから


 見ていこう


 エマが続く。


 キズナ


 キズナ


 まだ小さい


 種の帽子を


 かぶったまま


 ルルも。


 サムは記録しながら。


 リーナは針を動かしながら。


 トトは最初、腕を組んでいた。


 でも。


 最後の繰り返しだけ。


 小さく。


「キズナ」


 と口を動かした。


 エマが気づく。


「歌った!」


「歌ってない」


「歌った!」


「言っただけ!」


 村に笑いが広がる。


 私は。


 その笑いを聞きながら。


 涙が目の奥へ浮かぶのを感じた。


 傷。


 絆。


 母様。


 私。


 まだ。


 どちらになるか分からない。


 でも。


 見ることはできる。


 昼前。


 村長さんが広場へ来た。


 キズナの芽を見て。


 少し目を細める。


「出たか」


「はい」


「傷のあった種が」


「はい」


 村長さんはしゃがまず。


 少し離れた場所から見る。


「今日は、手紙を読むかい」


 突然ではない。


 でも。


 直接の問い。


 私は自分の胸へ聞いた。


 朝。


 分からなかった。


 畑。


 分からなかった。


 朝食。


 分からなかった。


 森の道。


 まだ。


 村へ来て。


 キズナが出た。


 今。


 母様の次の一文を。


 読みたいか。


 傷があっても。


 芽が出るかもしれない。


 そんな気持ちで読んではいけない。


 希望を先に置けば。


 母様の言葉を、自分に都合よく読むかもしれない。


 キズナの発芽を。


 手紙の意味へ重ねすぎてはいけない。


 私は深く息を吸った。


「今日は、読みません」


 答えた。


 自分でも。


 少し驚くほど、はっきりしていた。


 村長さんは頷く。


「分かった」


「キズナが出たことと、母様の手紙は別です」


「うん」


「今、続きを読むと、よい意味を探してしまいそうです」


 ミナが静かに頷く。


「希望を先に置いてしまう」


「はい」


「だから、今日は読まない」


「はい」


 リオは。


 少しだけ安心したように息を吐いた。


「読まない日」


「はい」


「でも、後退じゃない」


 彼が言う。


 私は微笑んだ。


「はい」


 サムが記録する。


 第三読書、見送り。


 理由、傷あり種の発芽と母の手紙を重ねすぎる可能性。


 希望を先に置かない。


 本日は第二文を持つ日。


 私はその文字を見て。


 胸が温かくなる。


 読まない理由も。


 記録される。


 読めなかったのではない。


 読まないと選んだ。


 今日の授業は。


 キズナの周囲を守るための小さな柵作りになった。


 踏まないため。


 触らないため。


 大きな柵ではない。


 細い枝を四本。


 紐。


 観察札。


 エマが言う。


「守る!」


「囲いすぎないでください」


 私はすぐに止める。


「光と風が必要です」


「低く?」


「はい」


 トトが枝を深く刺そうとする。


 バルドさんが止める。


「根を傷つけるぞ」


「まだ根、下だろ」


「だから深く刺すな」


「どこまで?」


「これくらいです」


 私は指二本分ほどの深さを示す。


「種を植えた場所から離して」


 サムが記録。


 保護柵、四方。


 低位置。


 根域推定範囲外。


 接触防止目的。


 光・風遮断なし。


 リーナは小さな札へ。


 赤い糸で一本の筋。


 その横に。


 灰色の細い線。


 傷。


 そして。


 青い糸で。


 小さな結び目。


「キズナ」


 彼女が言う。


 私は札を見る。


「とても分かりやすいです」


 エマが札を立てる。


「キズナ、ここ!」


 群衆の中から。


「踏まないようにしないとな」


「子供より大人が危ないぞ」


「お前の足が一番でかい」


「誰のことだ」


 笑い。


 村全体が。


 一つの小さな芽を。


 見守る側へ入っている。


 私はその光景を見ながら。


 胸の中の傷へ。


 少しだけ空気が入るのを感じた。


 母様との傷。


 私一人で見なくていいのかもしれない。


 手紙を読む時。


 村長さん。


 ミナ。


 リオ。


 村のみんな。


 全部の内容を知るわけではない。


 でも。


 私がどう揺れたかを。


 見てくれる。


 傷を隠さず。


 でも。


 囲いすぎず。


 光と風を通しながら。


 昼食。


 パン。


 豆のスープ。


 芋。


 キズナの発芽を祝うような豪華な食事ではない。


 いつものもの。


 それがよかった。


 パン屋の女性が。


 私の椀へ少し大きな芋を入れる。


「今日は先生の分」


「なぜですか」


「名前つけたから」


「命名はルルです」


「じゃあルルにも」


 ルルの椀へも、大きな芋。


 エマが手を上げる。


「私も見つけた!」


「はいはい」


 エマにも。


 トト。


「俺、歌った」


「歌ってないって言っただろ」


「言っただけでも参加」


「なら全員だね」


 結局。


 子供たち全員の椀へ。


 少し大きな芋。


 リオが、自分の椀を見る。


「俺は?」


 パン屋の女性が言う。


「大人は自分で働きな」


 周囲に笑い。


 リオは不満そうに。


 でも、普通の芋を食べる。


 私は笑いながらスープを飲んだ。


 味がする。


 手紙を読まないと決めた後。


 少し体が軽い。


 逃げたのではない。


 今日の自分に必要な距離を選んだ。


 午後。


 キズナをもう一度見る。


 午前より。


 茎が少しだけ上を向いている。


 種皮はまだついたまま。


 色も白っぽい。


 でも。


 土から出た部分が。


 わずかに長くなった。


 子供たちは。


 交代で見る。


 触らない。


 影を作りすぎない。


 近づきすぎない。


 サムが記録。


 午後。


 地上部伸長わずか。


 湾曲継続。


 種皮残存。


 萎れなし。


 乾燥なし。


 変色なし。


 要観察。


 エマが聞く。


「種の帽子、取っていい?」


「いいえ」


「苦しくない?」


「自然に外れる可能性があります」


「外れなかったら?」


「その時に考えます」


「いつ?」


「初葉が開けない状態が続いたら」


 ルルが言う。


「今は待つ」


「はい」


 ニコ。


「帽子も傷も、全部すぐ取らない」


「はい」


 母様の後悔も。


 すぐ私が取り除く必要はない。


 資格がないと思う気持ち。


 母様自身が持つもの。


 私が。


 大丈夫です、と言って軽くしてあげる必要はない。


 まだ。


 母様の罪悪感を。


 私が慰める段階ではない。


 そのことに。


 今、初めて気づく。


 母様が自分に資格がないと書いた。


 だから。


 私は。


 そんなことはありません。


 母様は母様です。


 愛しいと呼んでください。


 そう返さなければならないような気が、どこかにあった。


 でも。


 違う。


 母様の後悔は。


 母様が持つもの。


 私は。


 自分の傷を見る。


 自分の気持ちを守る。


 母様を救うために。


 急いで許さなくていい。


 私はキズナの種皮を見る。


 まだついている。


 今は、外さない。


「取る側が安心したいだけの時もありますね」


 私は呟いた。


 ミナが近くで聞いていた。


「何をですか」


「キズナの種皮です」


「はい」


「見ていると、取りたくなります。苦しそうに見えるので」


「はい」


「でも、今取れば傷つけるかもしれません」


「はい」


「母様の後悔も」


 言葉が止まる。


 ミナは待つ。


「私が、急いで大丈夫だと言えば。母様は少し楽になるかもしれません」


「はい」


「でも、それは私が本当に許したからではないかもしれません」


「母様を安心させるため」


「はい」


「フローラが昔からしてきたことですね」


 胸が痛む。


「母様を心配させないように」


「はい」


「父様を怒らせないように」


「はい」


「使用人を怖がらせないように」


「はい」


 完璧に。


 静かに。


 問題を起こさず。


 強すぎる力を小さく見せ。


 皆を安心させる。


 その結果。


 私は。


 自分の気持ちを置く場所を持たなかった。


「今は、母様を安心させなくてもいいのでしょうか」


 私は聞いた。


 ミナは、すぐには答えなかった。


 少し考えて。


「少なくとも、フローラが傷ついたまま、急いで安心させる必要はないと思います」


「はい」


「母様が後悔しているなら、その重さをすぐに取り上げることだけが優しさではありません」


「はい」


「フローラが自分の言葉を見つけるまで、待ってもらうことも必要です」


 胸へ落ちる。


 待ってもらう。


 母様に。


 私の時間を。


「ありがとうございます」


 私はキズナを見る。


 種皮は、まだある。


 でも。


 芽は生きている。


 夕方前。


 今日は手紙を見ない。


 村長さんの仕事部屋へも行かなかった。


 村長さんへ、広場で伝える。


「今日は、手紙を見ません」


「分かった」


「昨日の一文を、もう一日持ちます」


「うん」


「母様の後悔を、私が急いで軽くしなくてもいいと考えています」


 村長さんは、少し目を細めた。


「よい考えだ」


「冷たいでしょうか」


 自分でも。


 その問いが出る。


 母様が苦しんでいる。


 資格がないと思っている。


 それを知って。


 何もしない。


 冷たい娘。


 そんな声が。


 昔の教育の中から聞こえる。


 村長さんは首を横に振った。


「自分の傷を無視して他人を慰めることだけが、優しさじゃない」


「はい」


「母親の後悔は、母親が向き合うものだ」


「はい」


「君は、君の痛みに向き合えばいい」


 私は頭を下げた。


「ありがとうございます」


 村を出る前。


 子供たちがキズナへ「また明日」と言う。


 エマ。


「帽子、自分で取れるといいね」


 ニコ。


「急がなくていい」


 ルル。


「曲がったままでも、出た」


 トト。


「明日には立つだろ」


 サム。


「予測。未確定」


「いちいち書くな!」


 笑い。


 リーナは、花守り布へ新しい春告げ花を縫い終えていた。


 薄い青。


 花弁を少し下へ向け。


 中心の白も、以前より小さく。


 閉じ始めた花。


 私は布を受け取る。


 三つの芽。


 途中の花。


 開いた花。


 閉じ始めた花。


 変化。


 全部。


「ありがとうございます」


 リーナが聞く。


「悲しい花?」


 私は少し考えた。


「少し寂しいです」


「でも、嫌?」


「いいえ」


「じゃあ残す」


「はい」


 村を出る。


「行ってきます」


 エマたち。


「また明日!」


 今日は。


 手紙を読まなかった。


 でも。


 たくさん考えた。


 帰り道。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 母様の後悔。


 四歩。


 私の傷。


 五歩。


 急いで慰めない。


 六歩。


 今日は読まない。


 七歩。


 森へ戻る。


 春待ちの根元。


 帰りも通れる。


 私は少し迷い。


 寄ることにした。


 ガルドさんが確認。


 異常なし。


 四つの花。


 第一花は。


 さらに俯き。


 花弁の一枚が、もう落ちそうになっている。


 でも。


 まだつながっている。


 第二花も。


 少し下向き。


 第三と第四は。


 まだ咲いている。


 同じ場所。


 違う段階。


 私は記録板へ、午後の変化を加える。


 第一花、花弁一枚の付け根に緩み。


 落花近い可能性。


 採取せず。


 自然落下待ち。


 私は花を見る。


 落ちそう。


 でも。


 取らない。


 落ちるまで。


 待つ。


 母様の後悔も。


 私が引き剥がさない。


 自分で向き合ってもらう。


 少し冷たい風が吹く。


 花弁が揺れる。


 でも。


 落ちなかった。


「また明日」


 私は花へ言った。


 森の家へ戻る。


 結界。


 家。


 異常なし。


「ただいま」


 机。


 引き出し。


 空。


 今日は開けない。


 手紙がないことを確認する必要もない。


 畑へ向かう。


 風は、朝より少し強くなっていた。


 アオジロウ。


 葉の揺れが大きい。


 茎は耐えている。


 でも。


 夕方から夜。


 さらに風が強まるかもしれない。


 私は畝の横に置いた木片を立てた。


 以前より遠い位置。


 低く。


 風を全部止めない。


 強い流れだけを弱める。


「戻します」


 アオジロウへ言う。


「でも、前と同じ位置ではありません」


 強くなった。


 だから。


 守り方も変える。


 ムラマル。


 問題なし。


 モリタン。


 本葉。


 風に揺れる。


 まだ柔らかい。


 モリタンの側には。


 さらに低い、小さな木片を置く。


 直接の風だけ少し弱める。


「開いたばかりなので」


 小さく言う。


 守る。


 でも。


 閉じ込めない。


 私は畝の前へしゃがんだ。


「ただいま」


 三つの芽へ。


「今日は、母様の手紙を読みませんでした」


 アオジロウの葉。


 ムラマル。


 モリタン。


「共同畑で、傷のあった種が発芽しました」


 胸が温かくなる。


「キズナという名前になりました」


 風が葉を揺らす。


「でも、傷があるから必ず強いとは決めません」


 声を整える。


「母様との傷も、必ず絆になるとは決めません」


 胸が少し痛い。


「それでも、見ます」


 今日。


 それが私の答え。


「今日は、ここまでです」


 リオたちが村へ戻る前。


 ミナが確認する。


「今夜、母様の後悔を考えすぎたら?」


「日記へ書きます」


「母様を安心させたくなったら?」


「今の私が本当に言いたいことか、考えます」


「すぐ返事をしない?」


「はい」


 リオが言う。


「返事、まだ書かなくていい」


「はい」


「手紙、全部読んでもないし」


「はい」


「読んだ後も、すぐ書かなくていい」


「はい」


 ガルドさんが言う。


「レナード隊へも、封書を読んだかどうかは伝えていません」


「ありがとうございます」


「向こうも尋ねないと伝えています」


「はい」


 時間はある。


 誰も急かしていない。


 私自身も。


 急かさなくていい。


 三人を見送る。


 結界を閉じる。


 夕食。


 芋。


 葉野菜。


 パン。


 食べられる。


 夜。


 風が少し強くなった。


 屋根。


 木々。


 でも。


 朝に位置を変えた枝は、雨戸へ当たらない。


 ざり、という音はしなかった。


 原因を少し離したから。


 私は日記帳を開いた。


 今日、枝が雨戸を擦る音で目を覚ました。


 枝の位置を少し変えた。


 切らず。


 折らず。


 音だけを弱めた。


 母様の第二文は、昨日より少し遠く感じた。


 でも、消えていない。


 今日は、続きを読むか決められなかった。


 畑を見た。


 モリタンの本葉が、ほぼ開いた。


 開いた直後は、風に揺れる時間が必要だと書いた。


 村へ行った。


 共同畑の傷あり赤筋葉が発芽した。


 土から出た。


 曲がっていた。


 白っぽかった。


 種皮をかぶったまま。


 名前は、キズナ。


 傷と絆。


 ただし。


 傷があるから強いとは決めない。


 絆になるとも決めない。


 要観察。


 私はペンを止めた。


 今日。


 手紙を読まなかった。


 でも。


 母様の後悔について考えた。


 母様が、自分に資格がないと思っている。


 それを知った時。


 私は少し安心した。


 同時に。


 母様を安心させなければならないような気がした。


 そんなことはありません。


 愛しいと呼んでください。


 母様は悪くありません。


 そう言えば。


 母様は少し楽になるかもしれない。


 でも。


 私はまだ。


 そう思っていない。


 母様が悪くないとは思えない。


 傷ついた。


 遠ざけられた。


 一人だった。


 そのことを。


 母様の後悔を軽くするために。


 小さくしてはいけない。


 私は最後に書いた。


 母様の後悔は、母様が持つもの。


 私の傷は、私が見るもの。


 私は母様を安心させるために、急いで許さなくていい。


 返事をしなくてもいい。


 母様の罪悪感を取り除くことが、娘の役目ではない。


 今日は手紙を読まなかった。


 代わりに。


 読んだ一文と、自分の古い癖を見つけた。


 それで十分。


 日記帳を閉じる。


 空の引き出しへ手を置く。


 手紙は村。


 私は目を閉じた。


「おやすみなさい、母様」


 静かに言う。


「母様が後悔していることは、分かりました」


 胸が痛む。


「でも、私はまだ、大丈夫だとは言えません」


 言葉が震える。


 でも。


 言えた。


「今は、母様を安心させるより、自分の傷を見ます」


 返事はない。


 それでいい。


 暖炉の前へ座る。


 花守り布を膝へ置く。


 三つの芽。


 途中の花。


 開いた花。


 閉じ始めた花。


 私は、薄い青の花へ触れた。


「閉じる花も、残ります」


 子守歌を歌う。


 森の葉っぱが眠るころ


 小さな灯りも目を閉じる


 風よ静かに通りゃんせ


 夢の小道を通りゃんせ


 歌い終える。


 窓の外。


 風。


 森。


 村。


 キズナ。


 母様の手紙。


「また明日」


 青豆一号へ。


 風よけを少し戻したアオジロウへ。


 安定したムラマルへ。


 開いたばかりの本葉を揺らすモリタンへ。


 春待ちの根元で、落ちる時を待っている花へ。


 傷を持ったまま土の上へ出たキズナへ。


 村長さんの仕事部屋で、灰色の布に包まれている母様の手紙へ。


 そして。


 母様の後悔を知っても。


 急いで慰めず。


 自分の傷を小さくせず。


 今日は読まないと、自分で選べた私へ。


「また明日」


 明日も、見ます。

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