第62話 青の姫君、二つ目の言葉に立ち止まる
翌朝。
私は、夢の中で土を見ていた。
広い畑ではなかった。
共同畑でも、森の家の小さな畝でもない。
白い部屋の中央に、土だけがあった。
壁も。
床も。
窓も。
何もかもが白い。
その中に、四角く切り取られた黒い土。
私は、その前に膝をついていた。
何かが植えられているらしい。
けれど、芽はない。
私は土へ指を入れようとした。
掘れば分かる。
中に何があるのか。
生きているのか。
腐っているのか。
種そのものがなかったのか。
手を伸ばす。
その時。
『まだ、掘らないで』
母様の声がした。
私は振り返った。
誰もいない。
白い壁。
白い床。
声だけ。
『まだ、決めないで』
もう一度。
今度は、母様の声なのか分からなかった。
ミナかもしれない。
村長さんかもしれない。
私自身の声かもしれない。
黒い土が、わずかに持ち上がった。
芽が出る。
そう思った。
けれど。
土の下から現れたのは、淡い青色の封筒だった。
深い青の封蝋。
春告げ花の印。
封筒は土を押し上げ、半分だけ姿を見せている。
私は息を止めた。
手を伸ばす。
触れる前に。
目が覚めた。
森の家。
見慣れた天井。
梁。
壁。
窓から差し込む、淡い朝の光。
私は布団の中で、しばらく動けなかった。
夢。
手紙。
土。
母様の声。
胸が速く鳴っている。
でも、息はできる。
私は両手を布団の上へ出した。
土はついていない。
封筒もない。
母様の手紙は、村長さんの仕事部屋にある。
灰色の布に包まれたまま。
開封はされている。
けれど、読んだのは最初の一行だけ。
愛しいフローラへ。
次に読む時は、一文だけ。
一日に一度。
読んだ後は、必ず灰色の布をかける。
昨日、自分で決めた。
私は目を閉じた。
夢の中で聞いた言葉を思い出す。
まだ、掘らないで。
まだ、決めないで。
誰の声だったのか。
分からない。
でも、胸に残っている。
「おはようございます」
私は天井へ向かって言った。
声は少し掠れていた。
「今日も、森の家にいます」
続ける。
「手紙は、村にあります」
少し間を置く。
「私は、夢を見ました」
誰に報告しているのか分からない。
森の家。
自分。
母様。
全部かもしれない。
「手紙が、土の中から出てきました」
言葉にすると、少し可笑しい。
でも、夢の中では怖かった。
「今朝は……」
続きを読むか。
私はまだ、答えられなかった。
昨日。
次に読む量を決めた。
でも、日付は決めていない。
今朝。
夢を見たから読むのか。
夢を見たからやめるのか。
どちらも、夢に決めさせることになる。
私はゆっくり起き上がった。
寝台の端へ座る。
足を床へ下ろす。
冷たい。
一つ。
息を吸う。
二つ。
吐く。
三つ。
窓を見る。
四つ。
朝は始まっている。
五つ。
今すぐ決めなくていい。
私は立ち上がった。
窓を開ける。
朝の森は、薄い霧に包まれていた。
地面に近いところだけ。
木の幹の半分ほどまで、白い霞が漂っている。
その上では、木々の葉が朝日を受け始めていた。
下は白。
上は金色。
一つの森の中に、二つの色がある。
鳥が一度鳴いた。
少し間を置いて。
別の場所から、二度。
鳥笛ではない。
小川の音。
風。
濡れた土ではなく、乾き始めた葉の匂い。
「おはようございます、母様」
今日も言った。
胸は痛む。
でも、昨日より自然だった。
「今日は、続きを読むかもしれません」
言葉にしてみる。
胸が強く鳴る。
「まだ、決めません」
すぐに付け足す。
「畑を見ます。朝食を食べます。皆さんへ話します」
昨日と同じではない。
でも、同じ手順。
自分を守る順番。
顔を洗う。
髪を梳く。
空色の髪。
母様と同じ色。
一度。
二度。
三度。
途中で、夢の中の白い部屋を思い出した。
櫛の手が少し止まる。
私は鏡の中の自分を見る。
青い目。
花守り布をかぶる前の顔。
公爵令嬢だった頃と変わらない部分。
森で暮らし始めて変わった部分。
頬。
手。
表情。
昔の私は。
夢の中で土が動けば、すぐ掘っただろう。
原因を知る。
確認する。
解決する。
それが正しいと信じていた。
今の私は。
見る。
待つ。
記録する。
触らない。
少しずつ。
私は櫛を動かした。
「今日は、夢の続きをしません」
鏡へ言う。
「現実の手紙を、現実の私が決めます」
髪をまとめる。
花守り布を手に取る。
三つの芽。
途中の春告げ花。
開いた春告げ花。
花弁を下げ始めた花のために空けられた場所。
まだ、そこは縫われていない。
リーナが次に会った時、薄い青の糸で縫う予定。
私は空白へ触れた。
「閉じる形も、残ります」
花守り布をかぶる。
「まずは、畑です」
外へ出る。
霧が、足元を薄く包んだ。
森の家の周囲。
結界。
異常なし。
足跡。
人のものはない。
小さな獣の跡。
昨夜から新しいものが一つ。
丸い足跡。
爪が出ていない。
森猫かもしれない。
結界の内側に住む小動物。
家へ近づいた形跡はない。
北東側。
新しい草倒れなし。
私は青豆一号へ向かった。
葉は霧の水分を受け、少ししっとりしている。
新葉。
良好。
虫害なし。
茎。
安定。
「おはようございます」
第二の畝。
アオジロウ。
泥の跡は、もうほとんど見えない。
葉の色。
良好。
風よけなし。
茎安定。
ムラマル。
茎の太さを再度測る。
昨日とほぼ同じ。
急な変化なし。
安定。
モリタン。
私はしゃがみ込んだ。
本葉が。
また少し開いている。
昨日は、先端から中央まで。
今日は、根元に近い部分も少しほどけ始めていた。
折り畳まれていた葉が。
ゆっくりと。
自分の形を見せている。
まだ完全ではない。
でも、もう細い突起ではない。
本葉。
はっきりと分かる。
「おはようございます、モリタン」
声が柔らかくなる。
「今日は、昨日より見えますね」
私は夢の封筒を思い出した。
土から出てきた。
でも。
モリタンは、土を押し上げた後も。
すぐ全部を見せなかった。
芽。
初葉。
本葉。
一つずつ。
「手紙も、同じように少しずつ見ます」
口にする。
胸が鳴る。
続きを読む。
その気持ちが。
畑を見た後も。
まだ残っている。
私は記録板を開いた。
青豆一号、古い葉離脱後二十日目。
新葉良好。霧による湿りあり。虫害なし。
アオジロウ、葉裏泥跡ほぼ消失。茎・葉とも安定。
ムラマル、茎径前日比ほぼ変化なし。状態安定。
モリタン、本葉の展開進行。根元付近も開き始める。本葉と確認。
三芽、状態良好。
観察者、土から封書が出る夢を見る。
観察者、夢の中で「まだ掘らないで」「まだ決めないで」と聞く。
観察者、畑観察後も母の手紙の次の一文を読みたい気持ちあり。
観察者、まだ最終決定はしない。
書き終えた後。
私は少し考えた。
そして、一行加えた。
夢は記録するが、判断の根拠にはしない。
木板の文字を見る。
夢は夢。
感情は本当。
でも。
夢が、今日読むよう命じたわけではない。
読まないよう命じたわけでもない。
決めるのは、起きている私。
私は記録板を閉じた。
畝の土を確認する。
表面は霧で湿っている。
下も十分。
水やり不要。
手を入れない。
見るだけ。
今朝は、それでいい。
家へ戻る。
朝食を作る。
今日は、パンと卵。
それから、昨日作った芋と豆の煮物の残り。
温める。
鍋の中で、芋が少し崩れている。
昨日より、とろみが出ている。
同じ料理。
でも、時間が経って変わった。
味を見る。
少し塩が強く感じる。
水を少し足す。
もう一度。
よい。
机へ座る。
引き出しは空。
母様の手紙は村。
私はパンを一口食べた。
夢のことを考える。
二口。
モリタンの本葉。
三口。
母様の次の一文。
四口。
読みたい。
食べられる。
胸は痛い。
でも、食べられる。
私はゆっくり朝食を続けた。
「朝食を食べた後も」
一人の部屋で言う。
「続きを読みたいです」
声は小さい。
でも、はっきりしていた。
私は皿を空にした。
片づける。
手を洗う。
鏡の前へは戻らない。
引き出しへ触れない。
手紙はない。
読むには、村へ行かなければならない。
その距離が。
今の私には必要だった。
結界に気配が触れた。
リオ。
ミナ。
ガルドさん。
私は少し深く息を吸った。
扉へ向かう。
開ける。
「おはようございます」
「おはよう」
リオは私の顔を見る。
それから。
少し間を置いて聞いた。
「今日は?」
短い問い。
でも、何を聞いているか分かる。
「続きを読みたいと思っています」
三人の空気が、少し変わる。
ミナはすぐには何も言わなかった。
私の表情。
呼吸。
手。
見ている。
「夢を見ました」
私は続ける。
「手紙が土の中から出てくる夢です」
リオが眉を寄せる。
「怖かった?」
「はい」
「夢のせいで読む?」
「いいえ」
私は首を横に振った。
「夢は記録します。でも、判断には使いません」
ガルドさんが静かに頷く。
「それがよいでしょう」
ミナが聞く。
「畑を見た後も?」
「読みたいです」
「朝食の後も?」
「はい」
「今も?」
私は自分の胸へ聞く。
怖い。
愛しいフローラへ。
次に何が書かれているのか。
読みたい。
「はい」
答える。
「一文だけ」
「はい」
「一度だけ」
「はい」
「読んだ後は、必ず閉じます」
「はい」
リオが拳を握り。
ゆっくり開いた。
「今日、読む?」
「村へ着いて、もう一度決めます」
「分かった」
「村長さんへ、準備をお願いできますか」
ガルドさんが頷く。
「すぐ伝えます」
「水と、鎮静茶を」
ミナが言う。
「用意します」
リオが少し考え。
「芋も」
私は思わず笑った。
緊張の中で。
小さな笑い。
「お願いします」
リオは真剣に頷いた。
「任せろ」
「リオ兄さんが作るのですか」
ミナが聞く。
リオは黙る。
料理は得意ではない。
「運ぶ」
「それなら」
私は笑ったまま頷いた。
三人を畑へ案内する。
リオはモリタンを見る。
「本葉だ」
「はい」
「もう候補じゃない?」
「はい。本葉と確認しました」
「やったな、モリタン」
リオの声。
ミナはムラマルの茎を見ている。
「変化がないことも、安定という記録ですね」
「はい」
ガルドさんは外周を確認。
「レナード隊は、今朝も宿に留まっています。大きな動きなし」
「そうですか」
母様の手紙を読む日。
外から新しい動きはない。
それがありがたい。
今日の私は。
手紙だけで十分揺れる。
朝食の残りを三人へ出す。
リオは芋と豆の煮物を食べる。
「昨日より、柔らかい」
「水を足しました」
「うまい」
ミナも一口食べる。
「味がなじんでいます」
「時間が経ったので」
「言葉も、時間が経つと味が変わるでしょうか」
ミナの問い。
私は少し考えた。
「第一行は、昨日より少し柔らかく感じます」
「愛しい、が?」
「はい」
「怒りは?」
「あります」
「悲しみは?」
「あります」
「でも」
「昨日より、言葉に触れられます」
時間。
一日。
畑。
朝食。
村。
それらの中に置いたことで。
母様の言葉が、鋭い刃のような形から。
少し丸くなった。
消えてはいない。
でも、持てる。
リオが言う。
「次の言葉も、時間かければいい」
「はい」
食事を終える。
村へ向かう準備。
薬草籠。
記録板。
花守り布。
白い袋は持たない。
手紙は村にある。
灰色の布も。
私は畑へ声をかけた。
「村へ行ってきます」
アオジロウ。
ムラマル。
モリタン。
「今日は、母様の手紙の次の一文を読むかもしれません」
風が葉を揺らす。
「一文だけです」
胸へ手を当てる。
「読んだら、閉じます」
言葉にすると、少し安心する。
「戻ります」
村への道。
今日は、北西の薪道。
春待ちの根元は通らない。
一日に、すべては見ない。
足元。
一歩。
二歩。
三歩。
夢は夢。
四歩。
次の一文。
五歩。
一回。
六歩。
必ず閉じる。
七歩。
戻る。
森の音。
枝。
鳥。
小川。
リオの足音。
ミナの衣擦れ。
ガルドさんは先行。
知らない音はない。
途中。
薪道の端に、小さな赤い実が落ちていた。
鳥が食べた跡。
種だけ残っている。
私は足を止めかけた。
でも、今日は記録しない。
全部を見る必要はない。
ガルドさんが丸の合図。
進む。
村の柵裏。
見張り。
異常なし。
村へ入る。
パンの匂い。
薪。
井戸。
人の声。
今日は、昨日より普段の音が戻っている。
大人たちは。
私を見る。
白い袋を持っていない。
手紙はすでに村にある。
私の表情から。
今日読むかもしれないと察する人もいるのだろう。
でも、誰も声をかけない。
パン屋の女性は。
店先の布を整えながら。
「昼の芋は取ってあるよ」
それだけ言った。
私は少し笑う。
「ありがとうございます」
共同畑。
子供たちが待っている。
エマは、私を見るなり近づいて。
途中で止まった。
「今日?」
「村へ来て、もう一度決めます」
「読みたい?」
「はい」
「一文?」
「はい」
サムが記録板を開く。
第二読書候補日。
起床時、読みたい。
畑後、継続。
朝食後、継続。
森出発時、継続。
村到着時、未決定。
一文。
一回。
読後閉鎖。
夢は判断根拠としない。
私は最後の一文を見て、少し驚いた。
「夢のことまで」
「大事」
サムは真面目だ。
「夢で決めたって、後で思わないように」
胸が熱くなる。
「ありがとうございます」
リーナが聞く。
「布、使う?」
「はい」
「必ず?」
「はい」
「一文読んだら?」
「必ずかけます」
ニコが言う。
「もっと読みたくても」
「はい」
ルルが頷く。
「約束」
「はい。自分との」
トトが言う。
「破ったら?」
私は少し考える。
もし。
一文を読んで。
もっと。
止めたくない。
そう思ったら。
約束を破りたくなるかもしれない。
「皆さんに、止めてもらいます」
私は答えた。
「自分で布をかけられなかったら、村長さんに」
「うん」
「約束、皆で持つ」
エマの言葉。
「はい」
一人の決意ではなく。
皆に伝えた手順。
私が弱くなった時。
守ってもらえる。
今日の共同畑。
まず、赤筋葉。
通常畝。
まだ変化なし。
観察鉢。
傷ありの種を植えた場所。
昨日、小さく盛り上がっていた土。
今日は。
ひびが入っていた。
細い線。
土の中央。
私はしゃがむ。
子供たちも少し離れて見る。
エマが息を呑む。
「出る?」
「まだ分かりません」
「でも、ひび」
「はい」
光の角度を変える。
触れない。
土の隙間。
その奥に。
ごく小さな淡い色が見えるような気がする。
白。
緑。
まだ判別できない。
「発芽兆候の可能性が高まりました」
私が言うと。
子供たちの間に、小さな歓声が広がる。
でも、大声は出さない。
サムが記録する。
傷あり種観察鉢。
土表面の小隆起に亀裂。
亀裂内、淡色部位の可能性。
発芽兆候、可能性上昇。
未確定。
接触禁止。
午前・午後観察。
トトが言う。
「傷あったのに、一番先?」
「まだ芽とは決まっていません」
「でも、先かも」
「はい」
ルルが土を見る。
「傷があるから、遅いとは限らない」
「はい」
ニコ。
「傷があるから、強いとも限らない」
「はい」
私は頷く。
「まだ、結果を決めません」
母様。
愛しい。
その一言があった。
だから。
優しい手紙とは限らない。
ひどい手紙とも限らない。
次の一文。
実際に読む。
でも。
その一文でも。
手紙全部を決めない。
私は土を見ながら。
呼吸を整えた。
午前の授業は、発芽兆候の記録になった。
子供たちは、何度も鉢を見た。
でも、触らない。
歌も、まだ歌わない。
「芽って分かってから」
ニコが言う。
トトが驚く。
「今日は歌わないのか」
「待つ歌は、待つ時に歌う。出る歌は、出てから」
「こだわりあるんだな」
周囲が笑う。
私は、その笑いを聞きながら。
胸の緊張を少しずつ下ろす。
昼前。
村長さんが広場へ来た。
昨日と同じ。
私を見る。
静かに聞く。
「今は、どうだい」
私は自分の胸へ聞いた。
夢。
畑。
朝食。
森の道。
共同畑。
傷ありの種。
今。
読みたい。
怖い。
でも。
今日、一文を読みたい。
「読みます」
私は答えた。
声は震えた。
「次の一文だけ」
村長さんが頷く。
「分かった」
広場が静かになる。
昨日より。
皆の呼吸が少し慣れている。
でも、緊張はある。
エマが聞く。
「戻ってくる?」
「はい」
「一文でも?」
「はい」
「泣いても?」
「はい」
「今日はここまで、って言って」
胸が熱くなる。
「言います」
子供たちへ。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
声が重なる。
村長宅。
仕事部屋。
木の机。
地図。
記録簿。
内庭の窓。
昨日と同じ。
でも。
今日は、二度目。
部屋に入った瞬間。
胸が昨日より強く鳴った。
初めてではない。
何が起きるか、少し知っている。
それが。
安心にも。
怖さにもなる。
部屋には。
村長さん。
ミナ。
私。
リオは、少し後ろ。
ガルドさんは外。
机の上。
水。
鎮静茶。
灰色の布。
そして。
小さな皿。
焼いた芋。
私は少し笑った。
リオが言う。
「運んだ」
「ありがとうございます」
ミナが少し呆れたように笑う。
「まだ食べる時間ではありません」
「終わった後」
日常のもの。
芋。
手紙を読む部屋に。
それがある。
少し安心する。
私は椅子へ座った。
呼吸。
一つ。
二つ。
三つ。
村長さんが引き出しを開ける。
灰色の包み。
取り出す。
机へ置く。
私を見る。
「始めていいかい」
「はい」
灰色の布を開く。
淡青色の封筒。
上辺は切られている。
封蝋は残っている。
春告げ花の副印も。
フローラへ。
母様の字。
胸が痛む。
私は両手を膝の上へ置いた。
村長さんは、封筒へ触れず待つ。
自分で便箋を取り出すか。
昨日は。
村長さんに封を切ってもらった。
便箋は、自分で少し引き出した。
今日は。
「自分で出します」
私は言った。
「分かった」
手を伸ばす。
封筒を両手で持つ。
軽い。
昨日より。
少し温かく感じる。
部屋の温度。
私の手の温度。
便箋の端へ指をかける。
引き出す。
一枚目。
昨日より多く。
便箋が姿を見せる。
母様の字。
愛しいフローラへ。
最初の一行。
胸が締めつけられる。
でも、昨日ほど動けなくはならない。
私は、その一行を見た。
呼吸。
一つ。
二つ。
三つ。
ミナが私の横で。
同じ速さで、文字を見る。
先へ行かない。
私が視線を下げるまで待つ。
「次の一文へ行きます」
私は言った。
「はい」
ミナ。
リオは後ろ。
村長さんは正面。
私は視線を下げた。
次の文字。
母様の筆跡。
細い。
少し震えている。
私は、ゆっくり読んだ。
――あなたにこのような言葉を送る資格が、今の私にはないと分かっています。
そこで。
意味が一つ終わった。
一文。
私は目を閉じた。
資格がない。
母様は。
分かっている。
愛しいと呼ぶ資格がない。
それでも呼んだ。
その意味。
胸が強く痛む。
怒り。
悲しみ。
そして。
少しだけ。
安堵。
母様は。
何も分からず、ただ愛しいと書いたわけではない。
私を遠ざけたことを。
自分が傷つけたことを。
少なくとも。
資格がないと思うほどには。
知っている。
涙が頬を伝う。
でも。
昨日のように、息が止まるほどではない。
私は灰色の布へ手を伸ばした。
約束。
一文。
必ず閉じる。
布を持つ。
便箋の上へかける。
母様の字が隠れる。
「今日は、ここまでです」
声が震える。
でも、言えた。
村長さんがすぐに便箋を封筒へ戻す。
灰色の布で包む。
ミナが聞く。
「止められましたか」
「はい」
「呼吸は?」
私は息を吸う。
一つ。
吐く。
二つ。
「できます」
「手を握りますか」
少し考える。
「はい」
手を伸ばす。
ミナの手。
温かい。
リオは、後ろで動かない。
でも。
拳を強く握っている。
私は彼を見る。
「言いたいことがありますか」
リオは口を開く。
閉じる。
少し間。
「資格ないって分かってるなら」
声が低い。
でも、怒鳴らない。
「うん」
「何で今まで何もしなかったんだって思う」
正直な言葉。
胸に刺さる。
私も同じことを思った。
「はい」
「でも」
リオは息を吐く。
「今は、それ以上言わない」
「ありがとうございます」
村長さんが静かに聞く。
「どう感じた」
私は胸へ手を当てた。
「嬉しいです」
また。
自分でも驚く。
「資格がないと、母様が分かっていたことが」
「うん」
「少し、安心しました」
「うん」
「でも、怒っています」
「うん」
「分かっていたなら、なぜ」
声が震える。
「なぜ、何もしてくれなかったのか」
涙が落ちる。
「なぜ、今なのか」
ミナの手を強く握る。
「悲しいです」
村長さんが頷く。
「他には」
私は少し考えた。
「……怖いです」
「何が」
「次の一文で、理由が書かれているかもしれません」
「うん」
「知りたいです」
「うん」
「でも、理由を読んだら、もっと傷つくかもしれません」
「うん」
「母様の事情を知って、許したくなってしまうかもしれません」
言葉にすると。
胸が大きく揺れる。
「許したくない?」
村長さんの問い。
私はすぐ答えられなかった。
許す。
許さない。
まだ。
そこまで進んでいない。
「今は、決めたくありません」
やっと言う。
「それでいい」
村長さんが答える。
「理由を知ることと、許すことは違う」
また。
言葉を分けてくれる。
「はい」
「事情があったとしても、君が傷ついた事実は消えない」
「はい」
「事情がなくても、君が愛された記憶まで消えるわけじゃない」
胸が熱くなる。
「両方」
「両方だ」
愛しい。
資格がない。
その二つ。
母様の中にも。
矛盾がある。
私だけではない。
私は涙を拭った。
「今日は、二つ目の言葉までです」
村長さんが頷く。
「うん」
「手紙は、また預かってください」
「もちろんだ」
「次を読む日は」
「まだ決めなくていい」
「はい」
灰色の包みが。
引き出しへ戻される。
かたり。
見えなくなる。
私は息を吐いた。
部屋には。
水。
鎮静茶。
芋。
私は鎮静茶を一口飲んだ。
少し苦い。
温かい。
次に。
焼いた芋を一口。
甘い。
リオが聞く。
「うまい?」
「はい」
「よかった」
手紙。
母様。
資格。
怒り。
その中に。
焼いた芋の甘さがある。
それが。
私を今へ戻す。
私はもう一口食べた。
「食べられます」
ミナが微笑む。
「はい」
仕事部屋を出る。
廊下。
玄関。
外の光。
広場。
子供たちが待っている。
今日は。
誰も立ち上がらない。
私が戻るまで。
その場で待っていたらしい。
エマが、小さく聞く。
「読んだ?」
「はい」
「一文?」
「はい」
「布かけた?」
「はい」
リーナがほっとしたように息を吐く。
「何て?」
ニコが聞く。
私は、今日も選ぶ。
内容を伝えるか。
母様の私的な言葉。
でも。
村の記録へ残したい気持ちがある。
私が。
どこまで読んだか。
何を感じたか。
「母様は」
私はゆっくり言う。
「私に、そのような言葉を送る資格が、今の自分にはないと分かっている、と書いていました」
子供たちは静かになる。
エマが眉を寄せる。
「資格?」
「愛しい、と呼ぶ資格です」
「ないの?」
真っ直ぐな問い。
私は少し考えた。
「母様は、ないと思っています」
「フローラ先生は?」
答えられない。
「まだ、分かりません」
「じゃあ、まだ決めない」
エマが言う。
「はい」
サムが記録する。
母からの手紙。
第二文。
あなたにこのような言葉を送る資格が、今の私にはないと分かっています。
本人、安心。
怒り。
悲しみ。
怖い。
理由を知りたい。
許すかは未決定。
本日一文で停止。
灰色布使用。
手紙、村長預かり。
私は記録を見る。
感情が。
昨日より増えている。
でも。
並べられる。
名前をつけられる。
リーナが小さく聞く。
「布、役目した?」
「はい」
「自分でかけた?」
「はい」
「よかった」
自分で止められたことを。
皆が喜んでくれる。
最後まで読めたかではなく。
決めた範囲を守れたか。
それが嬉しい。
昼食。
パン。
スープ。
芋。
今日は。
最初の一口から味がした。
塩。
玉葱。
芋。
食べられる。
リオも。
今日は芋の数を数えなかった。
でも。
一つ食べて。
「これ、仕事部屋のと同じ?」
パン屋の女性が答える。
「同じ畑の芋だよ」
「味、違う気がする」
「焼いたのと煮たのじゃ違うだろうよ」
「そっか」
周囲に小さな笑い。
私も笑った。
言葉の味も。
場所で変わるのかもしれない。
便箋の上で読む。
声に出す。
村で記録する。
夜、日記へ書く。
同じ一文でも。
少しずつ形が変わる。
午後。
共同畑へ戻る。
赤筋葉の観察鉢。
土のひび。
朝より。
少し広がっていた。
そして。
ひびの中央。
白に近い。
細い。
何かが見えている。
芽。
まだ、地上へ出てはいない。
でも。
種の殻か。
茎の先か。
土の中から、確かに何かが押している。
子供たちの間にざわめきが広がる。
「出る!」
エマ。
「まだです」
私は言う。
でも、声が少し弾む。
「ただ、発芽兆候はかなり高いです」
サムが記録する。
傷あり種。
土亀裂拡大。
亀裂内、白色部位確認。
発芽直前の可能性。
接触禁止。
夕方まで観察。
トトが言う。
「傷あるやつ、一番先だ」
「まだ地上へ出ていません」
「でも、先っぽ」
「はい」
ルルが小さく言う。
「傷があっても、出る準備してた」
胸が熱くなる。
母様も。
傷がある。
私も。
それでも。
言葉を出そうとしている。
ただし。
傷があるから美しい。
傷があるから正しい。
そうではない。
痛かった。
今も痛い。
でも。
傷があっても。
何かが動くことはある。
私は観察鉢を見つめた。
「今日は、触らず待ちます」
子供たちが頷く。
ニコは歌わない。
「出てから?」
私が聞くと。
「出たら」
彼は答える。
待つ。
歌も。
午後の終わり。
芽はまだ出なかった。
白い先端が、ほんの少し見えるだけ。
それでいい。
今日はここまで。
帰る時間。
手紙は村へ置く。
灰色の布も。
私は村長さんへ頭を下げた。
「今日も、お願いします」
「預かっておく」
「次を読みたいと思った時」
「また来なさい」
「はい」
村を出る。
子供たちへ。
「行ってきます」
エマ。
「また明日」
サム。
「第二文まで、記録済み」
リーナ。
「布、また使える」
ニコ。
「芽、明日かも」
ルル。
「決めない」
トト。
「でも楽しみ」
全部。
胸へ持つ。
帰り道。
一歩。
二歩。
三歩。
資格がない。
四歩。
分かっている。
五歩。
安心。
六歩。
怒り。
七歩。
今日はここまで。
言葉が何度も浮かぶ。
でも。
昨日の「愛しい」ほど。
胸を刺さない。
重い。
でも。
形がある。
母様は。
自分に資格がないと思っている。
その事実。
私はまだ、どう受け取るか決めない。
森の家。
結界。
家。
異常なし。
「ただいま」
机。
引き出し。
空。
今日は。
開けない。
手紙はないと分かっている。
そのまま畑へ向かう。
青豆一号。
無事。
アオジロウ。
無事。
ムラマル。
無事。
モリタン。
本葉は。
朝より、少しだけさらに開いている。
でも。
まだ完全ではない。
私は畝の前へしゃがんだ。
「ただいま」
三つの芽へ。
「今日は、次の一文を読みました」
風。
葉。
夕方の光。
「母様は、私に愛しいと言う資格がないと分かっている、と書いていました」
声が震える。
「少し安心しました」
アオジロウ。
「怒りました」
ムラマル。
「悲しかったです」
モリタン。
「でも、止められました」
胸へ手を当てる。
「今日も、一文だけです」
風が、本葉を揺らす。
まだ全部は開いていない。
「私も、全部は読みません」
夕方。
リオたちが村へ戻る前。
ミナが聞く。
「今夜、第二文が何度も浮かんだら?」
「日記へ書きます」
「理由を想像したら?」
「まだ書かれていない、と言います」
「次を読みたくなったら?」
「明日の朝まで待ちます」
リオが言う。
「一人で読まない」
「はい」
「一文」
「はい」
「一回」
「はい」
「布」
「はい」
いつもの確認。
でも、今日は少し笑える。
「覚えました」
「俺も」
三人を見送る。
結界を閉じる。
夕食。
食べられる。
芋。
豆。
パン。
夜。
日記帳を開く。
今日、土から手紙が出る夢を見た。
夢の中で、まだ掘らないで、まだ決めないで、と聞いた。
夢は記録した。
でも、判断には使わなかった。
畑を見た。
モリタンの本葉が、根元近くまで開き始めた。
朝食を食べた。
村へ行った。
共同畑の傷あり赤筋葉の種は、土を割り始めた。
昼前。
母様の手紙の次の一文を読んだ。
あなたにこのような言葉を送る資格が、今の私にはないと分かっています。
私は、一文で止めた。
灰色の布を自分でかけた。
安心した。
母様が、自分のしたことを何も分からないわけではないと思った。
怒った。
分かっていたなら、なぜ今まで何もしなかったのかと思った。
悲しかった。
怖かった。
次に理由が書かれているかもしれない。
理由を知りたい。
でも、理由を知っても、許すとは決めない。
私はペンを止めた。
資格。
母様は。
愛しいと呼ぶ資格がないと思っている。
では。
私が、母様を母様と呼ぶ資格は。
そんなものを考える必要はないのかもしれない。
母様は母様。
私が怒っていても。
離れていても。
許していなくても。
母様。
呼ぶことと。
許すことは違う。
私は最後に書いた。
母様は、自分に資格がないと書いた。
私は、母様に資格があるかを今日決めない。
愛しいという言葉を受け取るかも。
許すかも。
帰るかも。
何も決めない。
今日は、母様が自分に資格がないと思っていると知っただけ。
それだけで十分。
日記帳を閉じる。
空の引き出しへ手を置く。
手紙は村。
でも。
二つの言葉は、胸にある。
愛しいフローラへ。
あなたにこのような言葉を送る資格が、今の私にはないと分かっています。
私は目を閉じた。
「おやすみなさい、母様」
静かに言う。
「資格がないと思っていることは、分かりました」
胸が痛い。
「でも、私はまだ、何も決めません」
暖炉の前へ座る。
花守り布を膝へ置く。
三つの芽。
途中の花。
開いた花。
閉じ始めた花のための空白。
私は指先で、空白へ触れた。
「閉じる日も」
途中の花。
「開く日も」
開いた花。
「どちらも、私の時間です」
子守歌を歌う。
森の葉っぱが眠るころ
小さな灯りも目を閉じる
風よ静かに通りゃんせ
夢の小道を通りゃんせ
歌い終える。
窓の外。
夜の森。
村。
灰色の布。
母様の手紙。
「また明日」
青豆一号へ。
風よけなしで立つアオジロウへ。
安定したムラマルへ。
本葉を自分の速さで開いているモリタンへ。
春待ちの根元で、花弁を下げ始めた花へ。
傷がありながら、土を割ろうとしている赤筋葉の種へ。
二つの言葉まで読んだ母様の手紙へ。
そして。
母様の後悔を知っても。
急いで許さず。
急いで拒まず。
今日は今日の一文だけを受け取った私へ。
「また明日」
明日も、見ます。




