第61話 青の姫君、次に読む一行を自分で決める
翌朝。
私は、母様の声で目を覚ました。
――愛しいフローラ。
はっきりと耳元で聞こえた気がした。
柔らかく。
幼い頃のように。
私を寝台から起こす時。
熱を出した夜に額へ手を置いた時。
新しい髪飾りを選びながら、鏡越しに笑った時。
母様は、確かにその言葉を口にした。
そう思った。
けれど。
目を開けても、誰もいなかった。
森の家。
見慣れた天井。
薄い朝の光。
灰の残る暖炉。
閉じた窓。
空になった机の引き出し。
母様は、ここにはいない。
手紙も、村長さんの家へ預けてある。
聞こえたのは声ではない。
昨日読んだ文字が、眠りの底から浮かび上がっただけだった。
愛しいフローラへ。
母様の筆跡。
少し震えた線。
便箋の最初。
たった一行。
私は布団の中で、胸の上へ両手を重ねた。
心臓は速くない。
息もできている。
涙も出ていない。
けれど、胸の中心に何かが残っている。
昨日より、少し形を持って。
愛しい。
嬉しい。
怒っている。
悲しい。
なぜ。
いくつもの気持ちが、畑の苗のように一つの場所から伸びている。
同じ言葉から。
違う方向へ。
私は天井を見つめた。
「おはようございます」
声を出す。
少し掠れていた。
「今日も、森の家にいます」
次の言葉は、すぐには出なかった。
母様へ、おはようございます。
昨日までは言えていた。
でも今日は。
愛しい、と書かれていたことを知ってしまった後では、母様を呼ぶことが少し違って感じられる。
近くなったような。
遠くなったような。
昔の母様と、今の母様。
手紙を書いた母様。
私を遠ざけた母様。
それらが一度に浮かぶ。
私は目を閉じた。
「……おはようございます、母様」
やっと言えた。
声が震えた。
「昨日、一行だけ読みました」
返事はない。
「嬉しかったです」
胸が痛む。
「でも、怒っています」
昨日も言った言葉。
今日も必要だった。
「今朝は、続きを読みません」
言い切ってから。
私は少し考えた。
本当に。
今朝は、読めない。
手紙は村にある。
物理的にも、今すぐ読むことはできない。
でも。
もし目の前にあっても。
今は、まだ読まない。
昨日の一行が、胸の中へ落ち着くまで。
もう少し。
「今日は、一行を持ったまま暮らします」
私は静かに言った。
読み進めるのではなく。
読んだものを持ってみる。
その言葉が、朝食や畑や村の時間の中で、どんな形に変わるのか。
見る。
要観察。
私は布団をめくり、寝台から足を下ろした。
床板の冷たさ。
小川の音。
鳥の声。
一度。
少し間を置いて、二度。
鳥笛ではない。
窓へ近づく。
開ける。
朝の空気が入る。
昨日より乾いている。
雨の匂いはもう薄い。
代わりに、日に温められ始めた土と木の匂いがする。
森も、雨の後から次へ進んでいる。
私は顔を洗い、鏡の前へ座った。
髪を梳く。
空色の髪。
母様と同じ色。
一度。
二度。
三度。
櫛は止まらなかった。
けれど、途中で涙が一滴落ちた。
鏡の中の頬を伝う。
私は櫛を持ったまま、その涙を見た。
泣きたいほど悲しいのか。
違う。
泣きたいほど嬉しいのか。
それも違う。
愛しい。
その言葉が、今まで閉じていた場所へ触れている。
私は長い間。
母様は、もう私を愛していないのだと思っていた。
あるいは。
愛していたとしても。
恐れが、その上をすべて覆ってしまったのだと。
だから、私を遠ざけることを受け入れた。
父様を止めなかった。
会いに来なかった。
手紙も送らなかった。
私を捨てた。
そう思うことで。
私は森で生きられた。
母様も私を捨てた。
なら、私も公爵家を捨てていい。
そう思えた。
でも。
愛しいフローラへ。
その一行が。
私の中で作っていた、固い形にひびを入れた。
母様は私を愛していなかった。
だから捨てた。
それだけではないのかもしれない。
愛していても。
恐れたのかもしれない。
愛していても。
動けなかったのかもしれない。
愛していても。
間違えたのかもしれない。
その可能性は。
私を救うのか。
もっと傷つけるのか。
まだ分からない。
私は涙を指先で拭った。
「今は、髪を梳きます」
鏡へ言う。
櫛を動かす。
最後まで。
髪をまとめる。
花守り布を手に取る。
三つの芽。
途中の春告げ花。
開いた春告げ花。
私は二つの花を順番になぞった。
「途中のままでも、残ります」
昨日。
一行で止めた。
それは途中。
でも、途中の形も記録される。
今日、読まないことも。
後退ではない。
読んだ一行を持つ時間。
私は花守り布をかぶった。
「まずは、畑です」
外へ出る。
朝の森は、静かに明るくなっていた。
結界。
異常なし。
家の周囲。
人の足跡なし。
北東側。
新しい痕跡なし。
青豆一号へ向かう。
新葉は良好。
茎もしっかりしている。
虫害なし。
「おはようございます」
第二の畝。
アオジロウ。
葉裏の泥斑点は、ほとんど見えなくなっていた。
ほんの薄い土色が残るだけ。
風よけなし。
茎安定。
ムラマル。
葉は左右へ整っている。
茎の太さも、昨日測った値から大きな変化はない。
安定。
そして。
モリタン。
私は息を呑んだ。
本葉が。
昨日より、さらに開いていた。
まだ完全ではない。
根元に近い部分は折り畳まれたまま。
けれど、先端から中央へ向かって。
細い葉が二つの面を見せ始めている。
初葉よりも形が細い。
少し尖っている。
柔らかい淡緑。
私は畝の前へしゃがんだ。
「おはようございます、モリタン」
胸が温かくなる。
「今日は、もう少し開きましたね」
昨日。
私が母様の手紙を一行読んだ日。
モリタンの本葉も、ほんの少し開いた。
今日。
私は続きを読まない。
でも、モリタンは続きを開いている。
それでいい。
時間は同じでなくていい。
私は記録板を開いた。
青豆一号、古い葉離脱後十九日目。
新葉良好。虫害なし。
アオジロウ、葉裏泥斑点ほぼ消失。風よけ不要継続。
ムラマル、初葉・茎とも安定。大きな変化なし。
モリタン、本葉の開き進行。先端から中央部まで展開。根元付近未展開。
三芽、状態良好。
観察者、母の手紙の第一行を思い出して目覚める。
観察者、愛しいという言葉を嬉しいと感じる。
観察者、同時に怒りと悲しみを感じる。
観察者、本日は続きを読まず、第一行を持ったまま暮らすと決める。
書き終えた後。
私は木板を見つめた。
一行を持ったまま暮らす。
言葉は、物ではない。
でも、胸の中で重さを持つ。
昨日、封書を両手で持った時とは違う重さ。
今は紙ではなく。
母様の言葉を持っている。
愛しい。
それだけ。
私はモリタンを見る。
葉は、開きかけ。
全部ではない。
でも、昨日より多く見える。
「次に読む時も、一行でよいでしょうか」
自然に口から出た。
手紙の続きを。
全部ではなく。
次の一行。
あるいは、次の一文。
そこまで。
昨日。
最初の一行だけで、こんなにたくさんの気持ちが出た。
なら。
次も、少しでいい。
母様の手紙が三枚あったとしても。
一日で全部読む必要はない。
一行ずつ。
畑を観察するように。
変化を見て。
記録して。
休む。
次に読む範囲を、先に決める。
それなら。
少し怖さが減るかもしれない。
私は記録板へ、もう一行加えた。
観察者、次回は次の一行、または一文だけ読む方法を検討。
書き終えた時。
胸の奥に、小さな道ができた。
次に読む。
でも、全部ではない。
一行。
範囲を決める。
終わりを先に決める。
昨日は、止める合図を決めた。
今度は、最初から止まる場所を決める。
どこまで書かれているか分からない。
一行が長いかもしれない。
なら。
一文。
句点まで。
母様の手紙の書き方には、王都の正式な文章のような句読点は少ないかもしれない。
でも、意味の区切り。
最初の一文。
愛しいフローラへ。
これは呼びかけ。
次に。
何が続く。
私は想像しかけて、止めた。
「まだ、想像で読みません」
声に出す。
母様が書いた実際の言葉ではなく。
私の不安が作った続きを読んでしまう。
謝罪。
命令。
帰還。
病。
何でも想像できる。
でも、まだ分からない。
私は立ち上がった。
畝の土。
水分。
今日は少し表面が乾いている。
下は湿っている。
水やりは夕方。
朝は不要。
何かをしたくても、今はしない。
家へ戻る。
朝食。
今日はパンと野菜の炒め物。
芋も入れる。
手を動かしながら。
愛しい。
その言葉が何度も浮かぶ。
でも、昨日ほど鋭くない。
少し丸く。
それでも重い。
玉葱を切る。
芋。
葉野菜。
油。
塩。
平鍋へ。
じゅう、と音。
香ばしい匂い。
私は味を見る。
少し塩が足りない。
加える。
もう一度。
よい。
机へ座る。
引き出しは空いている。
手紙は村。
昨日、ここに何もないことが寂しく感じるかもしれないと思った。
今は。
空いていてよかった。
手紙があれば。
続きを読みたくなったかもしれない。
灰色の布を広げ。
便箋を取り出し。
一人で。
それは、決めたことと違う。
預けてよかった。
私はパンを一口食べた。
味がする。
炒めた芋。
玉葱。
葉野菜。
「愛しいと言われても、朝食は食べられます」
小さく言う。
少し可笑しい。
でも、確認したい。
「怒っていても、食べられます」
二口目。
「嬉しくても、食べられます」
三口目。
「悲しくても」
四口目。
「食べられます」
感情があっても。
体は生きる。
食べる。
畑を見る。
眠る。
私は朝食を最後まで食べた。
片づける。
結界に気配が触れた。
リオ。
ミナ。
ガルドさん。
私は戸を開ける前に、空の引き出しへ一度目を向けた。
手紙は村。
今日は読まない。
でも、次に読む範囲を相談したい。
扉を開けた。
「おはようございます」
「おはよう」
リオは私の顔を見る。
今日は、すぐには手紙のことを聞かなかった。
「眠れた?」
「はい」
「夢は?」
「見ていません。でも、目を覚ました時、母様の言葉を思い出しました」
リオの表情が少し動く。
「愛しい、って?」
「はい」
「苦しかった?」
「少し」
「嬉しかった?」
「はい」
「怒った?」
「はい」
リオは頷いた。
「全部あるな」
「はい」
ミナが優しく聞く。
「今日は、読みたいですか」
「いいえ」
私は答えた。
昨日の朝とは違う。
今日は、はっきり。
「今日は続きを読みません」
「分かりました」
「でも、次に読む範囲を決めたいです」
三人が静かになる。
ガルドさんは周囲を確認してから、近づいた。
「どの程度を考えていますか」
「次の一行か、一文です」
「一文」
「はい。意味の区切りまで」
ミナが頷く。
「最初から終わりを決めるんですね」
「はい。昨日は一行で止めました。でも、次は読む前に決めたいです」
リオが聞く。
「一文が長かったら?」
「途中で止めます」
「灰色の布?」
「はい」
「次の一行読んで、もっと読みたくなったら?」
私は少し考えた。
もっと読みたい。
その時。
予定を変えて読むか。
最初に決めた範囲を守るか。
「一度止めます」
私は答えた。
「必ず?」
「はい。次の一行か一文を読んだら、灰色の布をかけます」
「もっと読みたくても?」
「はい」
ミナが私を見る。
「なぜですか」
「もっと読みたい気持ちが、本当に私の意思か確認するためです」
言葉が自然に出た。
「母様の言葉に引かれて、止まれなくなるかもしれません」
「はい」
「一度閉じて。呼吸して。食事をして。畑を見て。それでも読みたいなら、また別の日に読みます」
ガルドさんが頷く。
「よい方法だと思います」
リオも。
「畑式だな」
「畑式?」
「一気に水やらない。様子見る」
私は少し笑った。
「そうですね」
ミナも微笑む。
「手紙の少量観察ですね」
「薬のようです」
「強い言葉なら、薬より効くかもしれません」
リオが言う。
「毒かもしれない」
言った直後、彼は顔を強張らせた。
「悪い」
私は首を横に振った。
「毒かもしれません」
正直に言う。
「でも、薬かもしれません」
「うん」
「どちらでもないかもしれません」
ガルドさんが言う。
「読む前に決めつけない」
「はい」
また、いつもの言葉。
三人を畑へ案内する。
リオはモリタンの本葉を見る。
「また開いた」
「はい」
「今日は読む?」
モリタンに聞くように。
私は少し笑った。
「モリタンは、今日も自分で開いています」
「フローラは?」
「今日は読みません」
「うん」
ミナがアオジロウを見る。
「泥、完全に落ちましたか」
「ほぼ」
「手を加えなくても」
「はい」
ガルドさんが結界外を確認する。
「レナード隊は、今朝も宿に留まっています。村への接触なし」
「そうですか」
私は少し安心する。
母様の手紙。
レナード。
公爵家。
今は動いていない。
時間がある。
急がなくていい。
朝食の残りを三人へ出す。
リオは芋を数える。
「三つ」
ミナが自分の皿を見る。
「私は三つです」
リオが少し驚く。
「同じ」
「今日は公平ですね」
「俺、何もしてないぞ」
「いつも何かしているように聞こえますね」
「してない」
私は笑った。
昨日。
母様の手紙を開けた日。
今日。
芋の数で笑う朝。
昨日は昨日。
今日は今日。
リオの言葉がまた胸へ戻る。
食後。
村へ向かう準備。
今日は手紙を読まない。
だから、白い袋は持たない。
薬草籠。
記録板。
モリタンの本葉の絵。
ムラマルの測定。
アオジロウの泥消失。
いつものもの。
私は空の引き出しへ手を触れた。
「村へ行ってきます」
手紙はそこにない。
でも、場所へ言う。
「今日は、次に読む範囲を相談します」
畑へも。
「行ってきます」
アオジロウ。
ムラマル。
モリタン。
「今日は、読みません」
言い切る。
「戻ります」
東寄りの道。
春待ちの根元を通れる。
私は少し嬉しかった。
足元。
一歩。
二歩。
三歩。
愛しい。
四歩。
嬉しい。
五歩。
怒り。
六歩。
今日は読まない。
七歩。
春待ちの根元。
白樹の曲がった根。
三つ岩。
四つの花。
私は足を止めた。
ガルドさんが周囲を確認する。
異常なし。
春告げ花は、今日も咲いていた。
けれど。
最初に咲いていた三つのうち、一つ。
花弁の端が少し下を向き始めている。
開花の盛りを越えつつあるのだろう。
四つ目は、まだ綺麗に開いている。
同じ場所。
同じ花。
でも、咲いた日が違う。
今の形も違う。
私はしゃがみ込んだ。
「一つ、閉じ始めています」
ミナが見る。
「花の終わりへ向かっていますね」
「枯れますか」
「いずれは」
胸が少し寂しくなる。
開いた。
咲いた。
そして、閉じる。
終わる。
でも、種を残すかもしれない。
土へ帰るかもしれない。
花が開いていることだけが、正しい形ではない。
途中。
開花。
終わり。
全部、記録。
私は記録板へ書いた。
春待ちの根元。
開花四。
初期開花三のうち一花、花弁端やや下向き。
第四花、完全展開維持。
損傷なし。
自然な開花後変化と推測。
採取せず。
観察継続。
観察者、母の第一行を胸に持ったまま観察。
観察者、開くことだけでなく、閉じることも自然と確認。
書き終えた後。
私はその一文を見つめた。
閉じることも自然。
昨日。
私は手紙を開き。
一行読み。
閉じた。
閉じることは。
逃げではない。
終わりでもない。
自然な動き。
「灰色の布をかけたことも、自然だったのでしょうか」
私は呟いた。
ミナが答える。
「必要だったと思います」
「はい」
「花も、ずっと開いてはいません」
「はい」
「人の心も、ずっと開いたままでは疲れます」
胸へ落ちる。
ずっと開いたまま。
無防備。
疲れる。
閉じる。
休む。
また開くかもしれない。
「ありがとうございます」
私は立ち上がった。
花を摘まない。
今日も。
村へ向かう。
東側の見張り。
丸。
異常なし。
村へ入る。
子供たちは、共同畑の前にいた。
エマが私を見る。
今日は白い袋を持っていないことへ、すぐ気づく。
「今日は読まない?」
「はい」
私は答えた。
エマはほっとしたような、少し残念そうな、複雑な顔をした。
それに気づき。
「読みたくないわけではありません」
私は続ける。
「今日は、昨日の一行を持っている日です」
エマが首を傾げる。
「持ってる?」
「胸の中に」
自分の胸へ手を置く。
「愛しいフローラへ、という言葉を」
子供たちが静かになる。
ニコが聞く。
「重い?」
「昨日より、少し軽いです」
「嬉しい?」
「はい」
「怒ってる?」
「はい」
ルルが頷く。
「まだ両方」
「はい」
サムが記録する。
開封翌日。
続きは読まない。
第一行を持つ日。
重さ、昨日より少し軽い。
嬉しい。
怒り。
両方継続。
私は少し笑った。
「感情まで継続と書くのですね」
サムは真面目に答える。
「変わるかもしれないから」
「はい」
記録。
昨日と今日。
変化を見る。
リーナが花守り布を見せてくれる。
途中の春告げ花。
開いた春告げ花。
今日は、花弁を下げ始めた花も追加するか相談した。
「終わる花も?」
リーナが聞く。
「はい」
「綺麗じゃないかも」
「それでも、記録です」
リーナは少し考え、頷く。
「薄い青にする」
「はい」
「下向き」
「はい」
「なくならない?」
「布の中では残ります」
胸が少し痛む。
母様との記憶も。
優しいもの。
痛いもの。
終わったもの。
全部。
残すかどうか、自分で選べる。
今日の共同畑。
赤筋葉。
通常畝。
まだ発芽なし。
観察鉢。
傷ありの種。
淡色二粒。
変化なし。
エマが土を見る。
「まだ」
「はい」
「歌う?」
ニコが聞く。
トトがすぐ言う。
「短いやつなら」
「昨日、文句言わなかったくせに」
「昨日は昨日。今日は今日」
リオの言葉が、村の中へ広がっている。
私は思わず笑った。
「その言葉、皆さん使いますね」
エマが言う。
「便利だから!」
ニコが短い歌を歌う。
昨日の言葉は
今日もいる
でも今日には
今日の風
続きはまだ
土の中
読まない日も
育つ日
短い歌。
最後の音が消える。
胸が温かい。
「ありがとうございます」
私は言った。
昼前。
村長さんの仕事部屋へ行く。
今日は、手紙を見るためではない。
次に読む範囲を相談するため。
部屋には。
村長さん。
リオ。
ミナ。
私。
ガルドさんは外。
いつもの形。
引き出しの中には、母様の手紙。
灰色の布。
見えない。
私は机の前へ座った。
「今日は読みません」
最初に伝える。
「分かった」
村長さんが頷く。
「次に読む時」
「うん」
「次の一行か、一文だけにしたいです」
「よいと思う」
「先に、区切りを決めたいです」
「手紙を開かずに、次の一文の長さを確認することはできない」
「はい」
「なら、読み始めて、意味が一つ終わったところで止める」
「はい」
ミナが言う。
「私が隣で、区切りを見てもいいですか」
私は少し考えた。
母様の字。
私的な手紙。
ミナに見られる。
でも、苦しくなった時。
どこで止めるか判断してもらえる。
「はい」
私は頷いた。
「ただ、先に読まないでください」
「もちろんです」
「私と同じ速さで」
「はい」
リオが聞く。
「俺は文字見ない方がいい?」
私は彼を見る。
昨日。
リオは少し後ろ。
便箋の内容は見えなかったはず。
それでよかった。
「はい。少し後ろにいてください」
「分かった」
「私が声に出した部分だけ、聞いてください」
「うん」
「次は、声に出すのですか」
ミナが聞く。
私は迷った。
昨日は、目で読んだ。
愛しいフローラへ。
その後、皆へ伝えた。
次の一文。
声に出す。
母様の言葉が部屋へ広がる。
怖い。
でも、一人で抱えなくて済む。
途中で、声が出なくなるかもしれない。
「最初は、自分の中で読みます」
私は答えた。
「読めた後、声に出せそうなら読みます」
「分かりました」
「声に出せなければ?」
村長さんが聞く。
「内容を伝えなくてもいいです」
「うん」
「ただ、読めたか。止めたいか。それだけ答えます」
「それでいい」
私は息を吐いた。
「次に読む日は、まだ決めません」
「分かった」
「でも、次に読みたいと思った時は、一文だけ」
「うん」
「その後は、必ず灰色の布をかけます」
「うん」
ミナが言う。
「もっと読みたくても、一度閉じる」
「はい」
「その後、別の日に」
「はい」
リオが少し首を傾げる。
「一日に二回読みたくなったら?」
私は考えた。
朝、一文。
昼、また。
それでは、一日で少しずつ全部読んでしまうかもしれない。
悪いことではない。
でも、今の私は。
読むたびに日常へ戻る時間が必要。
「一日に一度だけにします」
私は答えた。
「今は」
「今は?」
「はい。いつか変えるかもしれません」
村長さんが頷く。
「よい決め方だ」
今は。
永遠の決まりではない。
一日に一度。
一文。
必ず閉じる。
次は別の日。
手紙の少量観察。
私は少し笑った。
「薬草の服用量のようですね」
村長さんも笑う。
「強い薬は、量を誤ると毒になる」
「母様の言葉が、強い薬かは分かりません」
「だから、少量からだ」
胸が少し軽くなる。
仕事部屋を出る。
子供たちが待っている。
エマが聞く。
「次、どれくらい?」
「一文です」
「一文って?」
「意味が一つ終わるところまで」
サムが記録する。
次回読書範囲、一文。
一日一回。
読後、必ず灰色布。
追加読書は別日。
内容共有は本人選択。
日付未定。
ニコが言う。
「少しずつ」
「はい」
ルル。
「薬みたい」
「はい」
トト。
「苦かったら水飲む?」
私は少し笑った。
「水と、鎮静茶を用意してもらいます」
ミナが頷く。
「準備します」
エマが言う。
「芋も!」
周囲に笑いが起こる。
リオが真剣に頷く。
「それは必要」
「リオ兄さんのためではありません」
ミナが即座に言う。
私は笑った。
母様の手紙。
一文。
止める合図。
その話の中に。
芋が入る。
それでいい。
午後。
共同畑。
赤筋葉に変化はない。
でも。
観察鉢の土の表面。
傷ありの種を植えた場所だけ。
ほんの少し。
土が盛り上がっているように見えた。
エマが最初に気づいた。
「ここ、山になってる」
私は近づく。
小さな盛り上がり。
乾燥によるひびか。
種の動きか。
まだ分からない。
「触らないでください」
子供たちが手を引く。
見る。
角度を変える。
光。
記録。
発芽兆候の可能性。
しかし、未確認。
サムが書く。
傷あり種観察鉢。
土表面に小隆起。
発芽兆候の可能性。
未確定。
触れず。
明日確認。
子供たちがざわめく。
「傷あったのに?」
エマ。
「まだ芽とは決まっていません」
「でも可能性!」
「はい」
ニコが嬉しそうに言う。
「まだ価値、決めなかった」
「はい」
傷がある。
でも。
最初に動くかもしれない。
結果はまだ。
決めつけない。
私は胸が温かくなる。
母様の手紙も。
最初の一行だけで。
全部を決めない。
愛しいと書いてある。
だから、優しい手紙。
そう決めない。
愛しいと書いたのに、ひどい言葉が続く。
そう決めない。
次の一文。
実際の言葉。
少しずつ。
夕方前。
村を出る。
手紙は村長さんのところ。
今日も、持ち帰らない。
まだ、一行の言葉が胸にある。
それでいい。
帰り道。
一歩。
二歩。
三歩。
今日は読まない。
四歩。
次は一文。
五歩。
一日一回。
六歩。
必ず閉じる。
七歩。
森へ戻る。
春待ちの根元は通らない道。
少し残念。
でも、今日見た。
花の閉じ始め。
閉じることも自然。
森の家。
結界。
家。
異常なし。
戸を開ける。
「ただいま」
机。
引き出し。
空。
私は近づき。
開ける。
何もない。
場所だけ。
「手紙は、村にあります」
確認。
閉じる。
畑へ向かう。
青豆一号。
無事。
アオジロウ。
無事。
ムラマル。
無事。
モリタン。
本葉は、朝より少しだけさらに開いていた。
完全ではない。
でも、中央の折り目が見える。
私は畝の前へしゃがんだ。
「ただいま」
三つの芽へ。
「今日は、続きを読みませんでした」
風が葉を揺らす。
「次に読む時は、一文だけです」
アオジロウ。
ムラマル。
モリタン。
「一日に一度」
胸へ手を置く。
「必ず閉じます」
声に出すと。
安心する。
「母様の言葉を、少しずつ見ます」
夕方の光。
モリタンの本葉。
少しずつ開く。
私は微笑んだ。
「私も、少しずつです」
リオたちが村へ戻る前。
ミナが確認する。
「今夜、第一行が何度も浮かんだら?」
「日記へ書きます」
「続きを想像したら?」
「まだ読んでいないと声に出します」
「次を読みたくなったら?」
「明日の朝まで待ちます」
「一人では?」
「読みません」
リオが言う。
「明日、読みたいと思ったら?」
「村へ行って、また決めます」
「一文」
「はい」
「一回」
「はい」
「布」
「はい」
彼も手順を覚えている。
「ありがとうございます」
三人を見送る。
結界を閉じる。
夕食。
芋と豆の煮物。
パン。
今日は、よく食べられた。
夜。
日記帳を開く。
今日、母様の言葉を思い出して目を覚ました。
愛しいフローラへ。
昨日より少し軽く感じた。
でも、嬉しい。
怒り。
悲しい。
全部残っている。
今日は、続きを読まなかった。
次に読む範囲を決めた。
次の一文。
一日に一度。
読んだら、もっと読みたくても灰色の布をかける。
次に読むのは別の日。
内容を声に出すかは、その時に決める。
ミナは同じ速さで文字を見る。
リオは少し後ろ。
村長さんは止める役。
鎮静茶と水を用意する。
芋は、たぶんリオが用意したがる。
私は少し笑いながら書いた。
それから。
春待ちの根元。
一つの花が閉じ始めた。
閉じることも自然だと知った。
共同畑。
傷ありの赤筋葉の種。
土が少し盛り上がった。
発芽かもしれない。
まだ決めない。
私はペンを止めた。
母様の手紙も。
傷のある種のようだ。
傷がある。
私にも。
母様にも。
関係にも。
でも。
傷があるからといって。
何も育たないとは限らない。
同時に。
芽が出ると決めることもできない。
見る。
少しずつ。
私は最後に書いた。
一行を読んだ次の日。
私は続きを読まなかった。
何も進まなかったのではない。
次に読む量を、自分で決めた。
読むことだけが前進ではない。
読まない日にも、私は考え。
食べ。
畑を見て。
笑った。
母様の言葉を、私の日常の中へ置く練習をした。
日記帳を閉じる。
空の引き出しへ手を置く。
中に手紙はない。
でも。
愛しいフローラへ。
その言葉は、胸にある。
「おやすみなさい、母様」
私は静かに言った。
「今日は、続きを読みませんでした」
少し間を置く。
「愛しいと書いてくれたことは、まだ嬉しいです」
胸が痛む。
「でも、まだ怒っています」
言えた。
「次は、一文だけ読みます」
いつかは、まだ決めない。
暖炉の前へ座る。
花守り布を膝へ置く。
三つの芽。
途中の花。
開いた花。
閉じ始めた花のために、リーナが空けてくれた小さな場所。
私はそこへ触れた。
「開くことも」
途中の花。
「咲くことも」
開いた花。
「閉じることも」
空白。
「全部、残します」
子守歌を歌う。
森の葉っぱが眠るころ
小さな灯りも目を閉じる
風よ静かに通りゃんせ
夢の小道を通りゃんせ
歌い終える。
窓の外。
夜の森。
小川。
村。
母様の手紙。
「また明日」
青豆一号へ。
泥の跡をほとんど消したアオジロウへ。
ゆっくり強くなったムラマルへ。
本葉を少しずつ開いているモリタンへ。
春待ちの根元で、閉じ始めた花と、まだ咲いている花へ。
傷があっても土を押し上げているかもしれない赤筋葉の種へ。
村長さんの仕事部屋で、灰色の布に包まれている母様の手紙へ。
そして。
一行を読んだ翌日に。
急いで続きを求めず。
次に読む一文を、自分で決められた私へ。
「また明日」
明日も、見ます。




