↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『青の姫君の森暮らし 〜化け物と恐れられた公爵令嬢は、今日も畑を耕します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
60/101

第60話 青の姫君、封を切る朝を選ぶ


 翌朝。


 私は、鳥の声より先に目を覚ました。


 まだ森は完全には明るくなっていなかった。


 窓の向こうは薄い青灰色で、木々の輪郭も夜の名残をまとっている。


 暖炉の火は消えている。


 灰の下に、わずかな熱が残っているだけ。


 小川の音が遠く聞こえる。


 風はない。


 葉も、ほとんど揺れていない。


 とても静かな朝だった。


 私は寝台の上で目を開けたまま、しばらく動かなかった。


 何かに起こされたわけではない。


 悪い夢を見たわけでもない。


 喉が渇いたわけでも。


 寒かったわけでもない。


 ただ。


 目が覚めた。


 そして、胸の中に一つの言葉があった。


 ――読みたい。


 私は瞬きをした。


 それが、本当に自分の気持ちなのか分からなかった。


 昨日まで、私は手紙を読む準備をしていた。


 場所。


 時間。


 一緒にいる人。


 止める合図。


 返事ができなくなった時の対応。


 読んだ後に村へ泊まるか、森へ戻るか。


 一つずつ。


 畝を作るように。


 道を整えるように。


 でも、読む日は決めていなかった。


 自分から読みたいと思った朝に、皆へ伝える。


 そう決めた。


 そして今。


 目を覚ましたばかりの胸の中に。


 読みたい。


 その言葉があった。


 私は布団の上で、両手を握った。


 少し冷たい。


 指先に力が入る。


 胸が強く鳴っている。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 速い。


 怖い。


 それでも。


 読みたい。


「……本当に?」


 私は小さく声に出した。


 部屋は静かだった。


 引き出しは閉じている。


 手紙は中にある。


 母様の字。


 フローラへ。


 淡青色の封筒。


 深い青の封蝋。


 春告げ花の副印。


 私はまだ内容を知らない。


 知らないままでも、暮らしていける。


 畑は育つ。


 村へ行ける。


 笑える。


 朝食も食べられる。


 それは、ここ数日で分かった。


 なら。


 なぜ、読みたいのだろう。


 知りたいから。


 母様が何を思っているのか。


 今、どうしているのか。


 私を探したのか。


 父様とは違うのか。


 謝りたいのか。


 帰ってきてほしいのか。


 それとも。


 ただ、最後に一度言葉を届けたかったのか。


 怖い。


 でも、知りたい。


 その二つが、今日は今までより近くに並んでいた。


 以前は。


 怖い気持ちの方が、ずっと大きかった。


 読みたい気持ちは、その陰に小さく隠れていた。


 今日は違う。


 怖い。


 とても。


 でも。


 読みたい。


 同じくらい。


 あるいは。


 ほんの少しだけ、読みたい方が前へ出ている。


 私は寝台の上で、ゆっくり息を吸った。


 一つ。


 吐く。


 二つ。


 引き出しを見る。


 三つ。


 今すぐ開けない。


 四つ。


 村へ行く。


 五つ。


 皆へ伝える。


 六つ。


 場所と時間と合図を確認する。


 七つ。


 それから決める。


 読みたいと思った朝。


 でも、今日読むと決めるのは、まだ早い。


 目覚めたばかりの気持ち。


 朝食を食べた後も同じか。


 畑を見た後も。


 リオたちへ話した後も。


 村へ着いた後も。


 そのたびに選び直す。


 私は布団をめくり、寝台から下りた。


 床板の冷たさ。


 まだ夜に近い空気。


 私は窓へ向かった。


 開ける。


 冷たい朝の空気が、部屋へ入り込む。


 土。


 苔。


 小川。


 雨上がりの匂いは、かなり薄くなっている。


 森が、次の朝へ移っている。


 鳥はまだ鳴かない。


 その静けさの中で。


「おはようございます」


 私は森へ言った。


「今日も、森の家にいます」


 少し間を置く。


 胸の奥が震える。


「おはようございます、母様」


 今日も言えた。


 そして。


「今朝は、手紙を読みたいと思いました」


 言葉にした瞬間。


 涙が一滴、頬を伝った。


 悲しいからではない。


 嬉しいからでもない。


 ただ。


 怖さと、知りたい気持ちが。


 言葉になって外へ出たから。


「でも、まだ決めません」


 私は続けた。


「畑を見ます。朝食を食べます。皆さんへ話します」


 手順。


 自分を守るための順番。


「その後で、もう一度決めます」


 返事はない。


 でも、胸が少し軽くなった。


 私は顔を洗った。


 冷たい水が、涙の跡へ触れる。


 髪を梳く。


 空色の髪。


 母様と同じ色。


 一度。


 二度。


 三度。


 今日も櫛は止まらない。


 母様の手を思い出す。


 昔。


 今。


 封書。


 でも。


 私は髪を最後まで梳いた。


 まとめる。


 花守り布を手に取る。


 三つの芽。


 アオジロウ。


 ムラマル。


 モリタン。


 その横には、二つの春告げ花が縫われている。


 一つは途中。


 一つは開いた形。


 過程を残した刺繍。


 私は指先で順番になぞった。


 途中。


 開く。


 どちらも残る。


 手紙も。


 封を切るところで止まるかもしれない。


 一行だけ読むかもしれない。


 全部読むかもしれない。


 途中で閉じるかもしれない。


 どの形も。


 後で記録できる。


 途中で止まっても。


 それが、今日の私の形。


「まずは畑です」


 花守り布をかぶる。


 外へ出る。


 森は、ちょうど朝を迎え始めていた。


 東の空が少し明るくなり。


 木々の隙間へ、薄い金色が差し込んでいる。


 鳥が一度鳴いた。


 少し間を置いて、二度。


 鳥笛ではない。


 私は確認する。


 結界。


 異常なし。


 家の周囲。


 人の足跡なし。


 北東側。


 新しい痕跡なし。


 青豆一号。


 葉はしっかり上を向いている。


 新葉。


 虫。


 茎。


 異常なし。


「おはようございます」


 声をかける。


 第二の畝。


 アオジロウ。


 葉裏の泥斑点は、ほとんど消えていた。


 ごく薄い跡が残るだけ。


 触らない。


 処置不要。


 ムラマル。


 左右の葉が、同じ高さで朝の光を受けている。


 茎も少し太くなったように見える。


 モリタン。


 私は息を止めた。


 本葉。


 昨日まで閉じていた細い葉が。


 今朝。


 先端を、ほんの少しだけ開いていた。


 完全ではない。


 まだ中央の多くは折り畳まれている。


 けれど。


 先端だけ。


 二つに分かれ。


 小さな隙間から、淡い緑が見えている。


 私は畝の前にしゃがみ込んだ。


「おはようございます、モリタン」


 胸が温かくなる。


「開き始めましたね」


 昨日。


 読む場所を決めた。


 止める合図を決めた。


 今朝。


 私は読みたいと思った。


 そして。


 モリタンの本葉も、少し開き始めている。


 また重なって見える。


 でも。


 花の時と同じ。


 モリタンが開いたから、私も開けるわけではない。


 私は私。


 モリタンはモリタン。


「あなたは、あなたの時間です」


 私は小さく言う。


「私は、私の時間で決めます」


 記録板を開く。


 青豆一号、古い葉離脱後十八日目。


 新葉良好。虫害なし。


 アオジロウ、葉裏泥斑点ほぼ消失。処置不要。


 ムラマル、初葉左右差なし。茎の太さ増加の可能性。要測定。


 モリタン、本葉先端の開き確認。全体は未展開。淡緑。


 三芽、状態良好。


 観察者、目覚めた時に母の手紙を読みたいと思う。


 観察者、畑を見た後も、その気持ちは残っている。


 観察者、まだ決定はしない。


 書き終える。


 私は木板を見つめた。


 畑を見た後も。


 読みたい。


 消えなかった。


 むしろ。


 少し落ち着いた形で、そこにある。


 怖さもある。


 でも、読みたい。


 私はムラマルの茎を測った。


 前日の記録と比べる。


 わずかに太い。


 目の錯覚ではない。


 記録へ加える。


 ムラマル、茎径わずかに増加。


 数値。


 具体的なもの。


 手紙のことだけでなく。


 今の畑も記録する。


 私は立ち上がった。


 朝食を作るため、家へ戻る。


 戸を開ける。


 机。


 引き出し。


 胸が鳴る。


 読みたい。


 でも、今すぐではない。


 私は暖炉へ火を入れた。


 鍋を出す。


 今日は、温かい芋と卵の粥。


 手順が多すぎないもの。


 朝食を作っている間に、気持ちが変わるかもしれない。


 玉葱を切る。


 芋。


 穀物。


 水。


 火。


 塩。


 卵。


 鍋の中で、白い卵が細く広がる。


 私はかき混ぜながら、自分へ聞いた。


「読みたいですか」


 答えは。


「はい」


 自然に出た。


 胸が強く鳴る。


「怖いですか」


「はい」


 どちらも。


 今も。


 粥を椀へよそう。


 机へ座る。


 引き出し。


 手を伸ばせば届く。


 でも、触れない。


 一口。


 温かい。


 二口。


 芋。


 三口。


 卵。


 四口。


 母様の手紙。


 五口。


 読みたい。


 食べられる。


 最後まで。


 私は椀を空にした。


「朝食を食べた後も、読みたいです」


 声に出す。


 少し震えた。


 でも、はっきりしていた。


 私は食器を片づけた。


 手を洗う。


 乾かす。


 引き出しの前へ立つ。


 取っ手へ触れる。


 開けるか。


 まだ開けない。


 でも。


 村へ持っていく必要がある。


 今日読む可能性があるなら。


 手紙を村へ戻す。


 昨日は、引き出しへ置いた。


 今日は、また両手で運ぶ。


 私は取っ手を引いた。


 引き出しが開く。


 淡い灰色の包み。


 青い縁。


 その中に、母様の手紙。


 胸が苦しい。


 でも、逃げたくはない。


 私は包みへ触れた。


 柔らかい。


 封書の形を、布越しに感じる。


 厚い紙。


 封蝋の少し硬い部分。


 私は手を離さなかった。


「今日は、村へ持っていきます」


 声に出す。


「読むかどうかは、村で決めます」


 包みを両手で持ち上げる。


 引き出しから出す。


 白い袋へ入れる。


 紐を結ぶ。


 昨日と同じ。


 でも、今日は違う目的。


 受け取るためではなく。


 読むための場所へ運ぶ。


 胸が強く鳴る。


 私は白い袋を机の上へ置いた。


 結界に気配が触れた。


 リオ。


 ミナ。


 ガルドさん。


 いつもの時間。


 私は手を拭き、戸へ向かう。


 扉を開ける。


「おはようございます」


「おはよう」


 リオは私の顔を見る。


 そして、机の上にある白い袋へ視線を向けた。


 表情が変わる。


「今日……?」


 言葉を止める。


 急かさないために。


 私は頷いた。


「今朝、読みたいと思いました」


 三人が静かになる。


 森の鳥の声。


 葉擦れ。


 小川。


 私の心臓。


「畑を見ました」


 私は続ける。


「朝食も食べました」


 ミナが聞く。


「今も、読みたいですか」


「はい」


「怖いですか」


「はい」


「どちらもありますか」


「はい」


 リオは拳を握り、ゆっくり開いた。


「今日、読む?」


「村へ行って、もう一度決めます」


「分かった」


「村長さんへ、準備をお願いできますか」


 ガルドさんが頷く。


「すぐに伝えます」


「昼前に」


「はい」


「仕事部屋で」


「はい」


「村長さんと、リオと、ミナ」


「はい」


 手順を確認する。


 ミナが静かに言う。


「止める合図は、灰色の布」


「はい」


「呼吸が変われば、私が聞きます」


「はい」


「返事ができなければ、名前を二度」


「はい」


「それでも反応がなければ、村長さんが閉じる」


「はい」


 リオが言う。


「俺は、口を挟まない」


「はい」


「怒ったら、外へ出る」


「はい」


「でも、外で待つ」


「はい」


 言葉を交わすたび。


 胸の中に道ができる。


 ガルドさんが村へ先行するため、結界を出た。


 リオとミナは残る。


 私は二人を畑へ案内した。


 今日も。


 手紙より先に。


 畑。


 リオはモリタンの本葉を見つける。


「開いた」


「少しだけ」


「でも、開いた」


「はい」


 ミナが微笑む。


「今日ですね」


 私は少し胸が強張る。


 ミナはすぐに続けた。


「モリタンが開いた日、という意味です」


「はい」


「フローラが手紙を開く日になるかは、まだ決まっていません」


「はい」


 言葉を分けてくれる。


 ありがたい。


 リオはアオジロウの葉を見た。


「泥、ほとんどない」


「はい。触らなくても落ちました」


「待てた」


「はい」


 彼は頷く。


「今日も、途中で待っていい」


 手紙のこと。


「はい」


 私は答えた。


 朝食の残りを二人へ出す。


 リオは粥を食べながら、今日は芋の数を数えなかった。


 何度か私の顔を見る。


 私は少し笑った。


「食べてください」


「食べてる」


「味は?」


「うまい」


「芋は?」


「ある」


 ミナが言う。


「確認が少ないですね」


「今日は別に気になることあるから」


 リオは正直だった。


「俺が緊張してどうすんだって思うけど」


 私は彼を見る。


「リオも、怖いですか」


「怖い」


 即答。


「何が書いてあるか分からないから」


「はい」


「フローラが傷つくかもしれない」


「はい」


「でも、読まないでほしいって言わない」


 胸が熱くなる。


「決めるのはフローラだから」


「ありがとうございます」


 ミナも言う。


「私も、少し怖いです」


「ミナも?」


「はい。フローラが苦しくなった時、きちんと気づけるか」


「はい」


「止めるべき時に、迷わないか」


 私は手を伸ばし、ミナの手へ触れた。


「分からなくても、聞いてください」


「はい」


「止めますか、と」


「はい」


「私も、できるだけ答えます」


 ミナは私の手を握った。


「一緒に読みましょう」


「はい」


 食後。


 準備。


 薬草籠は持つ。


 手紙だけのために村へ行くのではない。


 畑の記録も。


 モリタンの本葉。


 アオジロウの泥斑点消失。


 ムラマルの茎。


 いつものものを持つ。


 白い袋。


 母様の手紙。


 私は両手で持つ。


 今日は、薬草籠をリオが持つことになった。


「いいのですか」


「今日は手、空けとけ」


「でも」


「俺が持ちたい」


 リオの言葉。


 押しつけではない。


 私は少し考え、頷いた。


「お願いします」


「うん」


 ミナが私の横。


 ガルドさんは先行している。


 見張り二人。


 村へ向かう。


 家を出る前。


 畑へ声をかける。


「村へ行ってきます」


 アオジロウ。


 ムラマル。


 モリタン。


「今朝、手紙を読みたいと思いました」


 声が震える。


「村へ行って、もう一度決めます」


 白い袋を両手で持つ。


「戻ります」


 森の道。


 今日は、春待ちの根元を通らない西の高道。


 足元。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 白い袋。


 四歩。


 手紙は閉じている。


 五歩。


 読む場所。


 六歩。


 止める合図。


 七歩。


 まだ変更できる。


 森の音。


 鳥。


 小川。


 リオの足音。


 ミナの衣擦れ。


 知らない音はない。


 私は白い袋を持つ手へ、少し力を入れすぎていた。


 指が痛い。


 ミナが気づく。


「少し緩めても大丈夫です」


「落としそうで」


「紐があります」


「はい」


「両手で持っています」


「はい」


「落としません」


 私は少し力を緩めた。


 白い袋は、手の中にある。


 なくならない。


 村の西側。


 見張りが丸の合図。


 異常なし。


 村へ入る。


 パンの匂い。


 井戸。


 薪。


 人の声。


 今日も、村は手紙だけの場所ではない。


 けれど。


 今日は、村全体が少し静かに見えた。


 すでにガルドさんが伝えているのだろう。


 大人たちは普段通りに動いている。


 けれど、私を見る目には少し緊張がある。


 パン屋の女性は、声をかけず。


 ただ、目で頷いた。


 バルドさんも、腕を組んだまま何も言わない。


 共同畑の前。


 子供たちが待っていた。


 エマが白い袋を見る。


 口を開き。


 でも、すぐには聞かなかった。


 サムも記録板を構えていない。


 リーナは針を膝へ置いている。


 ニコ。


 ルル。


 トト。


 皆、私を見る。


「おはようございます」


 私が言うと。


 子供たちも小さく返した。


「おはようございます」


 沈黙。


 長くはない。


 でも、いつもより少し重い。


 エマが、ようやく聞いた。


「今日、読む?」


 私は白い袋を見る。


「まだ決めていません」


「でも持ってきた?」


「はい」


「読みたい?」


「はい」


「怖い?」


「はい」


 エマは頷いた。


「両方」


「はい」


 サムが、ようやく記録板を開いた。


 今朝、読みたいと思う。


 畑後、継続。


 朝食後、継続。


 村到着時、未決定。


 怖い。


 読みたい。


 両方。


 私はその記録を見て、胸が熱くなった。


 気持ちの変化を。


 村が一緒に記録してくれている。


 リーナが聞く。


「灰色の布、ある?」


「はい」


「止める時、使う?」


「はい」


「途中でも?」


「はい」


 ニコが言う。


「読まなくてもいい」


「はい」


 ルル。


「開けなくても」


「はい」


 トト。


「でも、読みたくなったなら、読んでもいい」


 私は彼を見る。


 トトは少し照れたように顔を逸らした。


「皆、止める方ばっか言うから」


 胸が熱くなる。


 止めてもいい。


 読んでもいい。


 どちらも。


「ありがとうございます」


 私は頭を下げた。


 今日は、授業を短くする予定だった。


 けれど。


 私はいつものように、共同畑へ向かった。


 赤筋葉。


 通常畝。


 観察鉢。


 まだ芽はない。


 表面の土が少し乾いている。


 水分を確認する。


 少量の水。


 強くかけない。


 子供たちが見守る。


 エマが聞く。


「今日も出ない?」


「まだです」


「でも、水」


「はい」


「読む前でも畑見る?」


「はい」


「どうして?」


 私は少し考えた。


「今日が、手紙だけの日にならないようにです」


 自分で言って、胸へ残った。


 手紙を読むかもしれない日。


 でも。


 朝、畑を見た。


 粥を食べた。


 森を歩いた。


 村へ来た。


 共同畑へ水を与えた。


 今日全部が、手紙ではない。


 サムが記録する。


 手紙を読む可能性のある日も、共同畑へ水。


 エマが言う。


「あとで歌う?」


 私は少し笑った。


「気持ちがあれば」


「なかったら?」


「歌わなくてもいいです」


 ニコが頷く。


「歌も途中で止めていい」


「はい」


 皆が覚えている。


 途中で止めてもいい。


 それは、手紙だけではなく。


 歌も。


 作業も。


 今日も。


 昼前が近づく。


 村長さんが広場へ来た。


 私を見る。


 白い袋を見る。


 静かに聞く。


「今、どうだい」


 胸が強く鳴る。


 私は呼吸を数えた。


 一つ。


 吸う。


 二つ。


 吐く。


 三つ。


 朝。


 四つ。


 畑。


 五つ。


 朝食。


 六つ。


 村。


 七つ。


 今。


「読みたいです」


 私は答えた。


 声は震えた。


 でも、はっきりしていた。


「今日、読みます」


 広場が静かになった。


 誰も歓声を上げない。


 誰も驚きの声を出さない。


 大人たちも。


 子供たちも。


 ただ、私の言葉を受け取る。


 村長さんが頷いた。


「分かった」


 ミナが聞く。


「今から、仕事部屋へ行きますか」


「はい」


 リオは拳を握り。


 開く。


「俺も行く」


「はい」


 サムが記録する。


 昼前。


 本人、自分から読むと決定。


 変更可。


 途中停止可。


 エマが私へ近づこうとして。


 途中で止まる。


「近づいていい?」


 私は頷いた。


「はい」


 エマは近づき。


 でも、抱きつかなかった。


 私の腕へ、小さく触れるだけ。


「終わったら、戻ってきて」


 その言葉に、胸が詰まる。


「はい」


「途中でも」


「はい」


「泣いても」


「はい」


「怒っても」


「はい」


「戻ってきて」


 私は涙をこらえきれなかった。


 一滴。


 頬を伝う。


「戻ります」


 ルルが言う。


「広場、ある」


 ニコ。


「畑も」


 トト。


「歌は……まあ、ある」


 エマが怒る。


「ちゃんとあるって言って!」


 小さな笑いが起こる。


 私も、涙を拭いながら笑った。


「行ってきます」


 子供たちが答える。


「行ってらっしゃい」


 村長宅。


 仕事部屋。


 木の机。


 地図。


 記録簿。


 内庭へ向いた窓。


 以前と同じ。


 でも。


 今日は、母様の手紙を開くために来た。


 部屋には。


 村長さん。


 リオ。


 ミナ。


 私。


 四人。


 ガルドさんは外。


 決めた通り。


 私は白い袋を机の上へ置いた。


 手が震える。


 紐を解く。


 灰色の包み。


 取り出す。


 机へ広げる。


 封書。


 まだ見えない。


 私は包みを開く前に、三人を見る。


「もう一度、確認してもいいですか」


「もちろんだ」


 村長さんが答える。


「途中で止めたら」


「止める」


「一行でも」


「止める」


「封を開けただけでも」


「止める」


「私が返事をしなくなったら」


 ミナが答える。


「フローラ。フローラ、と二度呼びます」


「それでも返事がなければ」


 村長さん。


「私が灰色の布をかけ、手紙を閉じる」


「リオは」


「口を挟まない」


 彼は言う。


「怒ったら外へ出る。外で待つ」


「はい」


 私は息を吐いた。


「ありがとうございます」


 灰色の布を開く。


 淡青色の封筒。


 深い青の封蝋。


 大樹の紋章。


 春告げ花の副印。


 フローラへ。


 母様の字。


 胸が痛む。


 でも、目を逸らさない。


 私は封書へ手を伸ばす。


 両手で持つ。


 軽い。


 温度は、部屋の空気と同じ。


 昨日まで引き出しにあった。


 森の家の温度を少しだけ持っているような気もする。


「封を切ります」


 声が震える。


 村長さんが小さな封書用の刃を机へ置く。


 先が丸く。


 紙だけを切れる細い刃。


「自分で使うかい」


 私は刃を見る。


 手が震えている。


 封蝋を壊す。


 春告げ花の印を。


 母様が押したものを。


 指で割る方法もある。


 でも、力を入れすぎるかもしれない。


「村長さんに、切っていただけますか」


 自分で開けると決めた。


 でも、作業を助けてもらっていい。


 村長さんは頷く。


「分かった」


「封蝋は、できるだけ壊さず」


「やってみよう」


 私は封書を灰色の布へ戻した。


 村長さんが刃を持つ。


 封筒の上部。


 封蝋を避け。


 紙の端へ刃を入れる。


 かすかな音。


 さり。


 紙が切れる音。


 胸が強く鳴る。


 私は息を止めた。


 刃がゆっくり進む。


 封筒の上辺。


 一端から。


 反対へ。


 封蝋は残る。


 副印も。


 紙だけが開く。


 村長さんは刃を置いた。


「切れた」


 封書。


 開いた。


 まだ中の便箋は見えない。


 入口ができただけ。


 私は震える手で封筒を持った。


 上辺。


 細い隙間。


 中に、白に近い便箋が見える。


 胸が苦しい。


 呼吸が浅くなる。


 ミナの声。


「止めますか」


 私は目を閉じた。


 止めてもいい。


 封を切っただけで。


 今日は終えてもいい。


 それでも。


 読みたい。


「……いいえ」


 私は答えた。


「続けます」


 封筒の中へ指を入れる。


 便箋へ触れる。


 柔らかい。


 薄い。


 一枚ではない。


 二枚。


 あるいは三枚。


 思ったより多い。


 胸がさらに苦しくなる。


 長い手紙。


 何が書いてあるの。


 私は便箋の端を少し引き出した。


 母様の字。


 最初の一行。


 まだ全部は見えない。


 でも。


 先頭の文字が見えた。


 愛しいフローラへ。


 私は動けなくなった。


 時間が止まった。


 愛しい。


 その言葉。


 母様の字。


 愛しいフローラへ。


 息ができない。


 目の奥が熱い。


 昔。


 母様が私を抱いた時。


 言っていたかもしれない。


 愛しい子。


 私の青の姫君。


 でも。


 長い間、聞いていなかった。


 もう、母様の中にないと思っていた。


 愛しい。


 今の私へ。


 手紙の最初に。


 胸の中で何かが崩れる。


 悲しみか。


 怒りか。


 安心か。


 分からない。


 涙が、便箋へ落ちそうになる。


 私は顔を逸らした。


 ミナが言う。


「止めますか」


 声が遠い。


 私は灰色の布へ手を伸ばした。


 布を取る。


 手紙の上へ。


 かける。


 淡い灰色が、母様の字を隠した。


「止めます」


 声が掠れた。


 村長さんがすぐに封筒と便箋を整える。


 読めたのは。


 最初の一行だけ。


 愛しいフローラへ。


 それだけ。


 私は椅子へ座り込んだ。


 両手を胸へ当てる。


 息が苦しい。


 一つ。


 吸えない。


 ミナが私の名前を呼ぶ。


「フローラ」


 私は答えられない。


「フローラ」


 二度目。


 私は目を開けた。


「……はい」


 答えられた。


 ミナが聞く。


「手を握ってもいいですか」


 私は頷いた。


 手を伸ばす。


 ミナの手。


 温かい。


 リオは少し後ろにいる。


 拳を握っている。


 でも、何も言わない。


 怒っているのか。


 泣きそうなのか。


 分からない。


 村長さんは手紙を灰色の布で包み直している。


 中身を読まないように。


 丁寧に。


 私は涙を流した。


「愛しい、と」


 声が震える。


「最初に」


 ミナが頷く。


「はい」


「母様が」


「はい」


「私を……」


 言葉が続かない。


 愛しているのか。


 愛しかったのか。


 今も。


 昔だけ。


 たった一行では分からない。


 でも。


 愛しいフローラへ。


 その字が。


 胸へ刺さっている。


 嬉しい。


 怖い。


 怒りたい。


 どうして。


 なら、なぜ。


 なぜ私を遠ざけたの。


 なぜ会いに来なかったの。


 愛しいなら。


 なぜ。


 怒りが、遅れて上がってくる。


 私はミナの手を強く握った。


「……ずるいです」


 声が震える。


 リオが一歩動きかけ。


 止まる。


 私は続けた。


「愛しい、と書けば」


 涙が落ちる。


「私は、嬉しくなってしまいます」


 胸が痛い。


「母様を、責めきれなくなります」


 村長さんが静かに言う。


「責めていい」


 私は顔を上げた。


「愛しいと書かれていても」


「はい」


「嬉しくても」


「はい」


「怒っていい」


「……はい」


「両方あっていい」


 何度も教わった言葉。


 また返ってくる。


 嬉しい。


 怒り。


 両方。


「今日は、ここまでにします」


 私は言った。


「うん」


 村長さんが頷く。


「読んだのは、一行だけ」


「それでいい」


「封を切りました」


「うん」


「戻れません」


 知らなかった自分には。


 母様の最初の言葉を知らなかった自分には。


 村長さんが言う。


「戻らなくていい」


 静かな声。


「戻れないことは、失敗ではない」


 モリタン。


 葉を開く。


 青豆一号。


 古い葉を落とす。


 春告げ花。


 蕾から花へ。


 戻らない。


 でも、消えない。


 私は涙を拭った。


「手紙は、どうしますか」


 村長さんが聞く。


 森の家へ戻すか。


 村へ預けるか。


 胸へ聞く。


 今夜、引き出しにあったら。


 愛しいフローラへ。


 その一行が、家中へ響くかもしれない。


 怖い。


 でも。


 自分の手紙。


 持ち帰りたい気持ちもある。


 私は少し考えた。


「今日は、村長さんに預かっていただきたいです」


「分かった」


「森の家へ持ち帰ると、今夜、続きを読みたくなるかもしれません」


「うん」


「一人では読まないと決めています」


「それを守る?」


「はい」


 手紙を村へ置く。


 一度持ち帰ったものを。


 また預ける。


 後退ではない。


 選び直す。


「包み布も、一緒に」


「預かる」


 村長さんが手紙を引き出しへしまう。


 かたり。


 見えなくなる。


 胸は痛い。


 でも、少し息ができる。


 リオが、ようやく口を開いた。


「俺、外出た方がいい?」


 私は彼を見る。


 拳。


 目。


 怒りと涙。


「今は、いてください」


「うん」


「何か言いたいですか」


 リオは口を開き。


 閉じる。


「いっぱいある」


「はい」


「でも、今は言わない」


「はい」


「フローラが、何を感じてるか聞きたい」


 胸が熱くなる。


「嬉しいです」


 私は答えた。


「はい」


「怒っています」


「はい」


「悲しいです」


「はい」


「もっと読みたいです」


「はい」


「もう読みたくないです」


「はい」


 全部。


 矛盾している。


 でも、全部本当。


 ミナが手を握ったまま言う。


「今日は、一行読みました」


「はい」


「十分です」


「はい」


 沈黙。


 長い。


 でも、怖い沈黙ではない。


 私の気持ちが、少しずつ落ち着くのを待つ時間。


 窓の外では、村の生活音がする。


 誰かが水を運ぶ。


 遠くで子供が笑う。


 パン屋の窯。


 薪を割る音。


 手紙の外に、日常がある。


 私は深く息を吸った。


「広場へ戻りたいです」


 村長さんが頷く。


「行こう」


 仕事部屋を出る。


 廊下。


 玄関。


 外の光。


 子供たちは、広場で待っていた。


 私を見る。


 手に白い袋がないことに気づく。


 エマが小さく聞く。


「読んだ?」


 私は頷いた。


「一行だけ」


「止めた?」


「はい」


「布かけた?」


「はい」


 リーナの顔が少し緩む。


 包み布が、役目を果たした。


 ニコが聞く。


「何て書いてあった?」


 大人たちが少し緊張する。


 私は、すぐには答えなかった。


 母様の私的な言葉。


 村のみんなへ伝えるか。


 選べる。


「最初に」


 私はゆっくり言う。


「愛しいフローラへ、と書いてありました」


 子供たちが静かになる。


 エマの目が大きくなる。


「愛しい?」


「はい」


「嬉しい?」


「はい」


「怒った?」


「はい」


「どうして?」


 真っ直ぐな問い。


 私は涙を拭った。


「愛しいなら、なぜ私を遠ざけたのかと思ったからです」


 エマは少し考える。


「両方」


「はい」


 サムが記録板を持つ。


「書いていい?」


 私は頷いた。


「はい」


 サムが書く。


 母からの手紙。


 本日、開封。


 第一行。


 愛しいフローラへ。


 本人、嬉しい。


 怒り。


 悲しい。


 続きを読みたい。


 読みたくない。


 両方。


 灰色布で停止。


 手紙、村長預かりへ戻す。


 私は記録を見た。


 自分の感情が。


 村の記録へ。


 どれか一つにまとめられず。


 全部、並んでいる。


 ルルが言う。


「戻ってきた」


「はい」


 広場へ。


 子供たちのところへ。


「途中でも」


「はい」


 トトが少し気まずそうに言う。


「歌、いる?」


 私は少し笑った。


「今日は、静かな歌がいいです」


 ニコが頷く。


「分かった」


 すぐには歌わない。


 少し待つ。


 昼食を先に取る。


 パン。


 スープ。


 芋。


 私は食べられるか不安だった。


 最初の一口。


 味がしない。


 二口目。


 少し塩気。


 三口目。


 芋。


 食べられる。


 パン屋の女性が、少し離れて見ている。


 何も言わない。


 リオは、自分の芋の数を数えない。


 ミナは時々、私の呼吸を見る。


 私は最後まで食べた。


「食べられました」


 小さく言う。


 リオが頷く。


「うん」


 午後。


 私は共同畑へ行った。


 赤筋葉の種。


 まだ芽はない。


 通常畝。


 観察鉢。


 変化なし。


 そのことがありがたかった。


 今日は、何も出ていない。


 何も進んでいない。


 待つだけ。


 私は土を見た。


 手紙も。


 次を読むまで。


 待つ。


 今日、開けたから。


 明日も読まなければならないわけではない。


 一行で止まった。


 次は、いつ。


 まだ決めない。


 ニコが、小さな歌を歌い始めた。


 開いた花も


 閉じた葉も


 途中のままで


 眠っていい


 読んだ言葉も


 残った言葉も


 今日はここまで


 また今度


 エマが加わる。


 ルル。


 リーナは針を動かさず、聞いている。


 トトは、今日は文句を言わなかった。


 歌は短かった。


 本当に。


 途中で終わるような歌。


 最後の音が、村の広場へ静かに消える。


 私は涙を流した。


 でも。


 先ほどとは少し違う涙だった。


「ありがとうございます」


 子供たちへ言う。


 エマが頷く。


「今日はここまで」


「はい」


 夕方前。


 森へ戻るか。


 村へ泊まるか。


 決める時間。


 私は自分の胸へ聞いた。


 森の家。


 手紙は村。


 引き出しは空いている。


 今夜。


 手紙のない家へ戻る。


 それなら、眠れるかもしれない。


 畑も見たい。


 モリタンの本葉。


 朝、少し開いていた。


 戻りたい。


「森へ帰ります」


 私は答えた。


 ミナが聞く。


「大丈夫ですか」


「はい」


「途中で苦しくなったら?」


「戻ります」


 村長さんが頷く。


「見張りを増やす」


「ありがとうございます」


 子供たちへ。


「行ってきます」


 エマが言う。


「また明日」


「はい」


 サム。


「一行で停止、記録済み」


「はい」


 リーナ。


「布、預ける?」


「はい。今日は手紙と一緒に」


「分かった」


 包み布も村にある。


 森の家の引き出しは空く。


 それでいい。


 帰り道。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 愛しいフローラへ。


 四歩。


 嬉しい。


 五歩。


 怒り。


 六歩。


 今日はここまで。


 七歩。


 森へ戻る。


 何度も、最初の一行が頭へ浮かぶ。


 愛しい。


 愛しい。


 愛しい。


 私は足を止めた。


 ミナが横で止まる。


 リオも後ろで。


 ガルドさんが振り返る。


「大丈夫ですか」


「言葉が、何度も」


 私は胸へ手を当てる。


「愛しい、と」


 呼吸。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 ミナが言う。


「今は、森の道です」


「はい」


「手紙は村長さんのところ」


「はい」


「今日はここまで」


「はい」


 言葉を分ける。


 私はまた歩く。


 森の家。


 結界。


 家。


 戸。


 異常なし。


「ただいま」


 家へ入る。


 机。


 引き出し。


 近づく。


 開ける。


 空白。


 灰色の布もない。


 手紙もない。


 でも。


 場所はある。


「今日は、村に預けました」


 自分へ言う。


 引き出しを閉める。


 畑へ向かう。


 青豆一号。


 無事。


 アオジロウ。


 無事。


 ムラマル。


 無事。


 モリタン。


 本葉の先端。


 朝より、少しだけ開きが広がっている。


 私は畝の前へしゃがみ込んだ。


「ただいま」


 声が震える。


「今日は、母様の手紙を開けました」


 風が葉を揺らす。


「一行だけ読みました」


 胸が痛い。


「愛しいフローラへ、と」


 涙が落ちる。


「嬉しかったです」


 アオジロウ。


 ムラマル。


 モリタン。


「怒りました」


 声が震える。


「でも、止められました」


 灰色の布をかけた。


 戻った。


 広場へ。


 畑へ。


 森へ。


「今日は、ここまでです」


 夕方の森へ言う。


 リオたちが村へ戻る前。


 確認する。


「今夜、一人で大丈夫ですか」


 ミナが聞く。


「はい」


「言葉が何度も浮かんだら?」


「日記へ書きます」


「苦しくなったら?」


「見張りへ声をかけます」


 リオが言う。


「明日、読む?」


「分かりません」


「うん」


「明日の私が決めます」


「うん」


「今日は、もう読みません」


「分かった」


 三人を見送る。


 森の道へ。


 私は結界を閉じる。


 夜。


 夕食。


 少ししか食べられないかと思った。


 でも、食べられた。


 芋。


 パン。


 野菜。


 味がする。


 机の引き出しは空。


 手紙は村。


 それで落ち着く。


 私は日記帳を開いた。


 今日、目を覚ました時、手紙を読みたいと思った。


 畑を見た後も。


 朝食を食べた後も。


 村へ着いた後も。


 読みたい気持ちは残っていた。


 昼前。


 村長さんの仕事部屋で、読むと決めた。


 灰色の布を広げた。


 村長さんに、封蝋を壊さないよう封筒の上辺を切ってもらった。


 便箋を少し出した。


 最初の一行を見た。


 愛しいフローラへ。


 私は、そこで止めた。


 灰色の布をかけた。


 ミナが私の名前を二度呼んだ。


 二度目で答えられた。


 嬉しかった。


 怒った。


 悲しかった。


 続きを読みたかった。


 読みたくなかった。


 全部あった。


 手紙は、村長さんへ預け直した。


 森の家へ戻った。


 私はペンを止めた。


 愛しい。


 その言葉。


 まだ胸の中で響く。


 嬉しい。


 母様の中に。


 私を愛しいと思う場所が、まだあるのかもしれない。


 でも。


 それなら、なぜ。


 怒り。


 悲しみ。


 問い。


 たった一行で。


 こんなにたくさん出てきた。


 続きを読めば。


 もっと。


 きっと。


 でも。


 今日はここまで。


 私は最後に書いた。


 私は今日、封を切った。


 一行だけ読んだ。


 そして、自分で止めた。


 最後まで読めなかったのではない。


 今日は、一行まで読むと途中で選び直した。


 止まったのではなく。


 止めた。


 それは、失敗ではない。


 日記帳を閉じる。


 机の引き出しへ手を置く。


 空。


 でも、場所は残っている。


「おやすみなさい、母様」


 閉じた引き出しへ言う。


「今日は、一行読みました」


 胸が痛い。


「愛しい、と書いてくれて、嬉しかったです」


 涙が落ちる。


「でも、怒っています」


 言えた。


「今日は、ここまでです」


 暖炉の前へ座る。


 花守り布を膝へ置く。


 三つの芽。


 途中の春告げ花。


 開いた春告げ花。


 私は指先で、途中の花へ触れた。


「途中も、残ります」


 子守歌を歌う。


 森の葉っぱが眠るころ


 小さな灯りも目を閉じる


 風よ静かに通りゃんせ


 夢の小道を通りゃんせ


 歌い終える。


 窓の外。


 森。


 小川。


 春待ちの根元。


「また明日」


 青豆一号へ。


 泥の跡をほとんど落としたアオジロウへ。


 茎を太くしたムラマルへ。


 本葉を少しだけ開いたモリタンへ。


 村のみんなへ。


 途中で終わる歌を作ってくれたニコたちへ。


 村長さんの仕事部屋で、灰色の布に包まれている母様の手紙へ。


 そして。


 一行だけ読み。


 自分で「今日はここまで」と言えた私へ。


「また明日」


 明日も、見ます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。