第59話 青の姫君、手紙を読む場所を決める
翌朝。
私は、目を覚ましてすぐには引き出しを見なかった。
それに気づいたのは、寝台から上半身を起こした後だった。
最初に聞いたのは、小川の音だった。
雨の名残を抱えた水が、いつもより少し勢いよく石の間を抜けていく。
次に、鳥の声。
一度。
少し離れて、二度。
鳥笛ではない。
それから、窓の向こうにある薄い朝の光。
雲はほとんど消え、森は雨上がりの澄んだ色に包まれていた。
私は寝台の上で一度息を吸い、ゆっくり吐いた。
そこでようやく、机の引き出しを見た。
閉じている。
昨日と同じ。
中には、母様からの手紙がある。
淡い灰色の布に包まれ。
青い糸の縁に守られ。
封は切られていない。
私はしばらく、その引き出しを見つめた。
目を覚ました瞬間に見なかった。
それは、母様の手紙を忘れたということではない。
どうでもよくなったわけでもない。
ただ、朝の中で最初に受け取ったものが、手紙ではなく小川の音だった。
鳥の声だった。
森の光だった。
そのことが、少し嬉しかった。
「おはようございます」
私は部屋へ向かって言った。
「今日も、森の家にいます」
少し間を置く。
「手紙も、ここにあります」
胸は少し痛んだ。
けれど、昨日までのように強くは縮まらない。
「今朝も、まだ読みません」
そう言ってから、私は少し考えた。
昨日と同じ言葉。
けれど、今日は少し違う気持ちがあった。
昨日は、読まないと決めることで落ち着いた。
今日は。
読まないと決めた後にも、胸の中に小さな続きを感じる。
いつ読むのか。
どこで読むのか。
誰と読むのか。
何を準備すればいいのか。
封を開けるかどうかではなく。
開ける時のことを、具体的に考え始めている。
私は机の引き出しを見た。
「読む場所を、決めた方がよいのでしょうか」
誰にともなく聞く。
封書は答えない。
当然だ。
でも、問いを口にしたことで、胸の中に形が生まれた。
読む場所。
村長さんの仕事部屋。
母様の手紙を受け取った場所。
あそこなら、村長さんがいる。
リオとミナもいる。
封書を開ける前に、机へ灰色の布を広げられる。
途中で止めても、誰も急かさない。
森の家。
私の家。
最も安心できる場所。
けれど、一人で読まないと決めている。
リオとミナ、村長さんに来てもらうことはできるだろうか。
でも。
母様の手紙を読むために、村長さんを森の家へ招く。
それは少し違う気もする。
森の家は私の日常。
畑。
暖炉。
寝台。
日記帳。
そこへ母様の言葉を開くことが、怖い。
もし、手紙の中に強い言葉があったら。
その言葉が部屋の中へ残るような気がする。
もちろん、言葉が壁へ染みつくわけではない。
分かっている。
それでも。
私は今、この家を守りたい。
母様の手紙を置くことはできた。
でも、開いて言葉を広げる場所として、まだ森の家を選べる気はしなかった。
村長さんの仕事部屋。
それが今の私には、一番よいように思えた。
けれど。
読んだ後、私は森の家へ戻る。
その道を、歩けるだろうか。
泣いて。
苦しくなって。
歩けなくなったら。
村へ泊まることもできる。
森の家へ無理に戻らなくていい。
読む場所だけではなく。
読んだ後の場所も、考えておく必要がある。
私は胸の上へ手を置いた。
「まだ、読む日ではありません」
今朝はそう決めた。
「でも、読む場所は考えます」
一歩。
また小さな一歩。
私は寝台から下りた。
床板の冷たさ。
顔を洗う水。
櫛が髪を通る感触。
空色の髪。
母様と同じ色。
今日も、櫛は止まらなかった。
一度。
二度。
三度。
母様は、手紙をどこで書いたのだろう。
公爵邸の寝室。
窓辺。
机。
寝台の上。
震える手で。
何度も書き直しながら。
あるいは、迷いなく。
分からない。
けれど、手紙には書いた場所の空気が少し残っているのかもしれない。
紙の匂い。
筆の線。
皺。
封蝋。
私が読む場所も、記憶に残るだろう。
だから、選びたい。
誰かに決められるのではなく。
私は髪をまとめ、花守り布を手に取った。
三つの芽。
アオジロウ。
ムラマル。
モリタン。
その隣には、昨日仮縫いされた淡い青の春告げ花。
まだ一輪。
少し閉じた花弁。
四つ目が開き始めた瞬間の形。
私は指先で、その花をなぞった。
「読む場所にも、名前をつけた方がいいでしょうか」
思わず呟く。
春待ちの根元。
合流場所。
地下倉庫。
村長さんの仕事部屋。
名前があると、怖さの輪郭が出る。
でも。
手紙を読む部屋。
そう呼べば、村長さんの仕事部屋全体が母様の手紙の場所になってしまう。
それは嫌だった。
村長さんの仕事部屋は、村の記録を守る場所。
地図。
畑。
見張り。
暮らし。
封書だけの部屋ではない。
母様の手紙に、場所全部を占めさせない。
森の家と同じ。
「名前は、まだつけません」
私は花守り布をかぶった。
「まずは、畑です」
外へ出る。
森の朝は、雨上がりの光に満ちていた。
木々の葉はまだ濡れている。
雫が朝日に反射し、小さな光を散らしている。
土は昨日より締まり、足元は歩きやすくなっていた。
結界。
異常なし。
家の周囲。
人の足跡なし。
北東側の古い痕跡は、もうほとんど分からない。
新しい草倒れもない。
青豆一号。
新葉はさらに上を向いている。
茎。
葉。
虫。
異常なし。
「おはようございます」
声をかける。
第二の畝。
アオジロウ。
葉の裏についていた泥の斑点は、昨日よりさらに薄くなっていた。
乾いた部分が風で落ちたのだろう。
葉そのものは傷んでいない。
風よけは、畝の横に置かれたまま。
戻す必要はない。
ムラマル。
左右の葉は、ほぼ同じ高さに揃っている。
ゆっくりだった。
けれど、今では安定して見える。
モリタン。
本葉候補は、昨日より明らかに長くなっていた。
閉じた細い葉。
初葉の中央から上へ伸びている。
先端に、ごく小さな折り目。
開く準備。
私は畝の前にしゃがみ込んだ。
「おはようございます、モリタン」
胸が温かくなる。
「まだ開きませんね」
でも、急がせない。
本葉はそこにある。
閉じている。
育っている。
私は記録板を開いた。
青豆一号、古い葉離脱後十七日目。
新葉良好。虫害なし。
アオジロウ、葉裏泥斑点さらに減少。処置不要と判断。茎安定。
ムラマル、初葉左右差ほぼなし。状態良好。
モリタン、本葉候補伸長。先端閉鎖。開葉準備段階と推測。
三芽、状態良好。
観察者、母の手紙を読む場所を考え始める。
観察者、森の家ではまだ開きたくない。
観察者、村長の仕事部屋を候補とする。
書き終えた後。
私は少し考え、もう一行加えた。
観察者、読む途中で止める方法も必要。
途中で止める。
以前、子供たちへ話した。
全部を一度に読まなくていい。
でも、どこで止めるのか。
怖くなった時。
涙で見えなくなった時。
息が苦しくなった時。
怒りが強くなった時。
母様の言葉を正しく読めなくなった時。
止める。
けれど、止めたいと言葉にできるだろうか。
読んでいる途中。
目の前に母様の字。
頭の中がいっぱいになり。
声が出なくなるかもしれない。
言葉ではなく、合図を決めておく。
手を上げる。
机を二度叩く。
灰色の布を封書の上へ戻す。
どれがいいだろう。
手を上げる。
分かりやすい。
でも、手紙を持っていたらできないかもしれない。
机を二度叩く。
音が強すぎて、自分が驚くかもしれない。
灰色の布をかける。
手紙の上へ戻す。
読んでいる言葉を閉じる動作。
それが一番よい気がした。
でも、手が動かないこともある。
なら。
ミナに、呼吸が変わったら聞いてもらう。
「止めますか」と。
私が頷くだけで止められるように。
村長さんには、私が頷いたら封書を閉じてもらう。
リオには。
怒らない。
母様の言葉に反応しても、すぐ口を挟まない。
後で話す。
彼自身も、その準備が必要だろう。
私はモリタンを見つめた。
「読むのは、私だけではないのですね」
手紙の言葉を直接読むのは私。
でも、同じ部屋にいる人たちも聞く。
私が声に出して読むのか。
自分の中だけで読むのか。
それも決めなければならない。
声に出せば。
皆に内容が伝わる。
私は一人ではなくなる。
でも、母様の私的な言葉を、私以外の人へ広げることになる。
黙って読めば。
自分だけで受け取れる。
でも、苦しくなった時に、何があったか皆には分からない。
村長さんに先に読んでもらう方法もあった。
でも今は、自分で最初に読みたい気持ちが少しある。
母様が私へ書いたものだから。
読み方。
声に出すか。
黙って読むか。
また選択が増える。
私は少し笑った。
「畝が増えすぎました」
誰も答えない。
でも、モリタンの閉じた本葉候補が、風でわずかに揺れた。
今は、全部を決めなくていい。
今日は、読む場所と止める合図を考える。
それだけ。
私は立ち上がり、家へ戻った。
朝食は、焼いたパンと芋のスープ。
昨日の残りを少し使う。
新しく玉葱を足す。
火を入れる。
鍋の中で、昨日の味と今日の味が混ざる。
少し薄くなった。
塩を足す。
味を見る。
ちょうどいい。
私はその変化を見ながら、少し考えた。
昨日のスープに、今日の具材を加える。
昨日と同じではない。
でも、全部を捨ててもいない。
母様の手紙を読むことも。
過去へ戻ることではない。
今の私が。
村の人たちと。
森の暮らしを持ったまま。
過去の言葉へ触れる。
それは、昔の私に戻ることではなく。
今の私が、過去を読むこと。
私は椀へスープをよそい、机へ座った。
引き出しが近い。
昨日より、気にならない。
完全に忘れられるわけではない。
でも、朝食へ集中できる。
一口。
温かい。
二口。
芋。
三口。
玉葱。
四口。
引き出し。
ある。
でも、朝食もある。
「今日は、読む場所を考えます」
封書へ伝えるように言う。
「読みません」
念のため、もう一度。
食べ終える。
片づける。
結界に気配が触れた。
リオ。
ミナ。
ガルドさん。
私は扉を開ける前に、一度引き出しへ触れた。
開けない。
ただ、取っ手へ触れるだけ。
「村へ行ってきます」
今日は、まだ出発する前だ。
でも、先に言う。
それから戸を開けた。
「おはようございます」
「おはよう」
リオは私の顔を見た後、すぐに聞いた。
「眠れた?」
「はい」
「手紙は?」
「閉じています」
「読んでない?」
「はい」
「よし」
リオが言ってから、少し気まずそうな顔をした。
「いや、読んでないのが良いって意味じゃなくて」
「分かっています」
私は微笑んだ。
「今朝は、読まないと決めました」
「うん」
ミナが静かに聞く。
「今日は、何を考えましたか」
「読む場所です」
三人が少し黙る。
ガルドさんは周囲を確認してから、こちらへ戻った。
「候補はありますか」
「村長さんの仕事部屋です」
私は答える。
「森の家では、まだ開きたくありません」
リオが頷く。
「分かる」
「母様の言葉を家へ広げるように感じます」
ミナは否定しなかった。
「それなら、無理に森の家で読む必要はありません」
「はい」
「読んだ後は?」
その問いに、私は少し考えた。
「村に泊まるかもしれません」
「はい」
「帰れそうなら森へ戻ります」
「その時に決める?」
「はい」
ガルドさんが言う。
「道の確保はできます。読む日だけ、夕方より前の時間にしましょう」
「なぜですか」
「読んだ後、森へ戻るか村に残るか判断する時間が必要です。暗くなってからでは選択肢が減ります」
胸が少し軽くなる。
具体的な準備。
「分かりました」
私は続ける。
「途中で止める合図も考えました」
リオが聞く。
「どんな?」
「灰色の布を、手紙の上へ戻します」
「自分で?」
「できれば」
「できなかったら?」
「ミナに、呼吸が変わったら聞いてほしいです。止めますか、と」
ミナはすぐ頷いた。
「分かりました」
「私が頷いたら、村長さんに封書を閉じてもらいます」
「はい」
リオが少し不安そうに聞く。
「俺は?」
私は彼を見る。
リオも一緒にいる。
母様の言葉を聞く。
もし、私を責める言葉があったら。
もし、公爵家へ帰れと命じる言葉があったら。
リオは怒るだろう。
守ろうとして。
でも、その怒りで私の気持ちが見えなくなるかもしれない。
「すぐに怒らないでください」
私は正直に言った。
リオの顔が少し強張る。
「うん」
「母様の言葉に、反論したくなるかもしれません」
「うん」
「でも、読む間は、待ってください」
「分かった」
「読み終えた後、私が話せる状態なら、一緒に話してください」
「分かった」
リオは拳を握り、ゆっくり開いた。
「怒らない。途中で口を挟まない。待つ」
「はい」
「でも、フローラが苦しそうなら」
「ミナに聞いてもらいます」
「俺は?」
「そばにいてください」
リオは少し息を吐いた。
「分かった」
何かをすることだけが守りではない。
待つ。
口を挟まない。
それも守り。
リオはもう何度も学んでいる。
私は胸が温かくなった。
「ありがとうございます」
三人を畑へ案内する。
リオはモリタンの本葉候補を見て、目を細めた。
「昨日より長い」
「はい」
「まだ開かない」
「はい」
「でも、そこにある」
「はい」
ミナが微笑む。
「フローラの手紙も、似ていますね」
「はい」
「開いていない。でも、そこにある」
「はい」
アオジロウの泥斑点も確認する。
さらに減っている。
リオが言う。
「待ったら落ちた」
「はい」
「何でもすぐ触らなくていいんだな」
「はい」
私は少し笑った。
「リオが言うと、成長を感じます」
「何だよ、それ」
「要観察だったので」
ミナが笑う。
ガルドさんも、わずかに口元を緩めた。
朝の森に、笑いが落ちる。
手紙を読む準備の話をした直後でも。
笑える。
朝食の残りを三人へ出す。
リオはスープを飲む。
「芋、四つ」
ミナが自分の椀を見る。
「私は二つです」
「偶然」
「昨日も聞きました」
「今日は今日」
私は笑った。
「昨日は昨日。今日は今日、ですね」
リオは少し得意そうに頷く。
「そう」
今日の予定を決める。
村へ行く。
春待ちの根元を通れるか確認。
村長さんへ、読む場所と止める合図について相談する。
手紙は、森の家へ置いていく。
今日も持ち歩かない。
私は引き出しの前へ立った。
取っ手へ触れる。
「村へ行ってきます」
昨日と同じ。
「今日は、読む場所を相談します」
少し間を置く。
「でも、今日は読みません」
手紙へ説明する必要はない。
でも、自分へ必要だった。
引き出しから手を離す。
畑へも声をかける。
「行ってきます」
アオジロウ。
ムラマル。
モリタン。
「戻ります」
東寄りの道。
ガルドさんが安全を確認した。
春待ちの根元を通れる。
森の中。
一歩。
二歩。
三歩。
手紙は家。
四歩。
読む場所。
五歩。
止める合図。
六歩。
村。
七歩。
戻る。
春待ちの根元へ近づく。
白樹の曲がった根。
三つ岩。
淡い青。
四つの花。
昨日、開き始めていた四つ目は。
今日は、ほぼ完全に開いていた。
他の三つより少し小さい。
花弁の一枚が、わずかに内側へ曲がっている。
けれど、五枚すべてが見える。
私はしゃがみ込んだ。
「開きました」
胸が温かくなる。
「今日は、完全に」
ミナが隣で見る。
「はい」
リオが少し離れて言う。
「昨日より花だな」
「昨日も花でした」
「分かってる。もっと花」
言い方が少し可笑しい。
私は笑った。
ガルドさんは周囲を確認している。
異常なし。
私は記録板を開いた。
春待ちの根元。
開花四。
第四花、ほぼ完全展開。
花弁一枚、内側への曲がりあり。
雨後の損傷なし。
採取せず。
観察継続。
観察者、母の手紙を読む場所と止める合図を考える。
観察者、花の開花と自分の開封時期を分けている。
書き終える。
私は四つの花を見る。
昨日は、花が開いたからといって自分も開けなくていいと確認した。
今日は、花が完全に開いている。
それでも、私は読まない。
不思議と焦りはなかった。
花は花。
私は私。
それぞれの時間。
「花守り布の四つ目も、開いた形に直しますか」
ミナが聞く。
「はい。リーナに伝えたいです」
「昨日の仮縫いは、途中の形でしたね」
「途中も残したいです」
「では、横に今日の形を?」
花守り布へ、春告げ花が二つ。
一つは途中。
一つは開いた形。
記録。
変化。
「はい」
私は頷いた。
「途中だったことも、開いたことも、両方残したいです」
村へ向かう。
東側の見張りが丸を出す。
異常なし。
村へ入る。
パンの匂い。
井戸の音。
子供たちの声。
エマが私を見るなり聞いた。
「手紙、まだ家?」
「はい」
「一人?」
「引き出しにいます」
トトが言う。
「だから寂しがらないって」
「知ってるよ!」
エマが怒る。
周囲に笑いが起こる。
ニコが聞く。
「読んだ?」
「いいえ」
「今日は?」
「今日は読みません」
サムが記録する。
本日も未開封。
フローラ先生、読む場所を相談予定。
私は少し驚いた。
「どうして分かったのですか」
サムは真面目に答える。
「顔」
ルルが頷く。
「相談する顔」
「そのような顔があるのですか」
エマが言う。
「ある!」
子供たちは妙に自信がある。
私は少し笑った。
リーナへ、春告げ花の変化を伝える。
途中の花の隣へ。
完全に開いた四つ目の花。
同じ淡い青。
でも、花弁を少し広く。
中心の白も、少し見えるように。
リーナは糸を選ぶ。
「途中の花、残す?」
「はい」
「消さない?」
「はい」
「じゃあ、横に増やす」
サムが記録する。
春告げ花。
途中一。
開花一。
過程を残す。
胸に響く。
手紙を読む時も。
読む前の私。
途中で止まった私。
読み終えた私。
どれかだけを残さなくていい。
過程。
全部。
今日の授業は、赤筋葉の観察鉢の確認。
まだ発芽なし。
通常畝も。
傷ありも。
淡色も。
変化なし。
エマが土を見て言う。
「何もない」
「見える変化はありません」
私は答える。
「でも、土の中は?」
「分かりません」
「見たい」
「掘りません」
トトが先に言う。
「場所あるから待つ」
皆が彼を見る。
「何だよ。俺だって覚えてる」
バルドさんが笑う。
「やっとな」
「やっとじゃない!」
また笑い。
私はそのやり取りを聞きながら、封書のことを考えた。
中を見たい。
でも、今は掘らない。
準備する。
待つ。
変化が見えない時間にも、私の気持ちは動いている。
昼前。
村長さんの仕事部屋へ行く。
今日は封書はない。
森の家にある。
それが少し不思議だった。
昨日までは、母様の手紙を見るためにこの部屋へ来た。
今日は、手紙を家へ置いたまま。
読む場所の相談に来た。
村長さん。
リオ。
ミナ。
私。
四人。
ガルドさんは外で警戒。
「ここで読みたいと思っています」
私は仕事部屋を見回しながら言った。
「森の家ではなく」
村長さんは頷く。
「分かった」
「母様の言葉を、森の家へ広げるのがまだ怖いです」
「それでいい」
「読んだ後は、村に泊まるかもしれません」
「部屋は用意できる」
「帰れそうなら、森へ戻ります」
「その時に決めればいい」
私は息を吐いた。
「読む時間は、昼前がいいです」
「理由は?」
「読んだ後に、考える時間がほしいです」
「うん」
「暗くなる前に、戻るか泊まるか決めたいです」
「よいと思う」
ガルドさんが言ったことと同じ。
選択肢がある時間。
私は続ける。
「止める合図は、灰色の布を手紙の上へ戻すことです」
「自分でできなければ?」
「ミナに、止めますかと聞いてもらいます」
ミナが頷く。
「呼吸が浅くなる。手が止まる。視線が文字から外れなくなる。そのような時に聞きます」
「はい」
「返事ができなければ?」
私は少し考えた。
「私の名前を二度呼んでください」
「フローラ。フローラ、と」
「はい」
「それでも返事がなければ?」
「手紙を閉じてください」
言えた。
村長さんが確認する。
「私が、灰色の布をかける」
「はい」
「君が嫌だと言わなくても」
「はい。返事ができない時は、お願いします」
自分の意思。
でも、言えなくなる時のために、先に意思を残す。
事前の合図。
リオが低く聞く。
「俺は、口を挟まない」
「はい」
「でも、母親がひどいこと書いてたら」
彼の拳が握られる。
「すぐには言わない」
「はい」
「あとで、フローラが聞きたいなら言う」
「はい」
「怒っても、部屋から出る」
私は少し驚いた。
「出るのですか」
「怒ったままいたら、フローラが母親の言葉より俺の怒りを見るかもしれない」
胸が熱くなる。
リオは、そこまで考えてくれた。
「ありがとうございます」
「でも、出る前に言う。外で待ってるって」
「はい」
ミナが微笑む。
「リオ兄さん、本当に成長しましたね」
「要観察終わった?」
私は少し考えたふりをする。
「一部終了です」
リオが顔をしかめる。
村長さんが笑った。
仕事部屋へ、短い笑いが広がる。
母様の手紙を読む準備。
その中にも、笑いがある。
私は少し安心した。
「読み方は、まだ決めていません」
私は続ける。
「声に出すか、黙って読むか」
村長さんが言う。
「最初は黙って読んでもいい」
「はい」
「途中で、聞いてほしい部分だけ声に出してもいい」
また新しい選択肢。
「全部を同じ方法で読まなくていいのですね」
「もちろんだ」
ミナが言う。
「最初の一行だけ、村長さんに読んでもらうこともできます」
「はい」
リオが言う。
「封を開けて、何も読まず閉じてもいい」
私は彼を見る。
「はい」
そうだ。
封を開ける。
それだけで終わる日があってもいい。
開けたら読まなければならないと思っていた。
でも。
封を切る。
中の紙を見る。
それ以上は読まない。
また包む。
それもできる。
「選択肢が増えました」
私は小さく言った。
「増えすぎたかい」
村長さんが聞く。
「少し」
「なら、読む日に決めればいい」
「はい」
今日、全部決めなくていい。
場所。
時間。
止める合図。
人。
それだけで十分。
「読む日は」
村長さんが聞く。
胸が強く鳴る。
私はすぐには答えなかった。
今日ではない。
分かっている。
明日。
明後日。
いつ。
今、決める必要はない。
でも、決めたい気持ちも少しある。
日付がないと、毎朝同じ問いを繰り返す。
それが疲れる。
逆に、日付を決めれば、その日まで心を休められるかもしれない。
でも、日付が近づくたび怖くなるかもしれない。
私は胸へ手を当てた。
「まだ、日付は決めません」
答える。
「分かった」
「でも、読む準備は整ってきたと思います」
「うん」
「次に、自分から読みたいと思った朝が来たら」
言葉を選ぶ。
「その日の村へ来る前に、皆さんへ伝えます」
村長さんは頷いた。
「それでいい」
私は続ける。
「その朝に怖くなっても、変更していいですか」
「もちろんだ」
「村へ来てから、やめても」
「いい」
「封を切った後でも」
「いい」
「途中でも」
「いい」
何度も、いいと言ってくれる。
胸の奥が少し緩む。
「ありがとうございます」
仕事部屋を出る。
広場へ戻ると、子供たちが待っていた。
エマが聞く。
「読む日決めた?」
「まだです」
「場所は?」
「村長さんの仕事部屋です」
「みんな一緒?」
「村長さんと、リオと、ミナです」
ニコが聞く。
「途中で怖くなったら?」
「灰色の布をかけます」
ルルが頷く。
「閉じる合図」
「はい」
サムが記録する。
読む場所、村長仕事部屋。
時間、昼前。
同席、村長、リオ、ミナ。
止める合図、灰色布。
返事不能時、名前二回。
それでも反応なし、閉じる。
日付未定。
変更可。
私は記録を見て、胸が熱くなる。
村記録に。
私の止め方まで残る。
私が苦しくなった時。
誰かが忘れないように。
守りの記録。
リーナが言う。
「灰色の布、手紙包むだけじゃない」
「はい」
「止める布にもなる」
「はい」
「じゃあ、役目増えた」
布も、役目が変わる。
包む。
隠す。
守る。
止める。
同じものでも、使い方が増える。
午後。
赤筋葉の観察鉢に、まだ変化はなかった。
子供たちは土を見る。
でも、掘らない。
歌は作られた。
ニコが小さく歌い始める。
赤い筋の種
土の中
傷があっても
色が薄くても
まだ決めない
まだ掘らない
場所はあるよ
待ってるよ
エマが加わる。
リーナは針を動かしながら聞く。
トトは嫌そうな顔をしているが、歌が終わるまで黙っていた。
終わった後に言う。
「長い」
エマが怒る。
「待つ歌だから長いの!」
「理屈になってるようでなってない」
笑い。
私はその歌を聞きながら、母様の手紙を思った。
傷があるかもしれない。
薄い言葉かもしれない。
まだ決めない。
まだ開けない。
場所はある。
待っている。
夕方前。
村を出る。
今日は春待ちの根元を通らない道。
手紙は森の家。
読む場所は決まった。
止める合図も。
日付はまだ。
私は歩きながら数えた。
一歩。
二歩。
三歩。
場所。
四歩。
時間。
五歩。
合図。
六歩。
人。
七歩。
日付未定。
森の家へ戻る。
結界。
異常なし。
家。
戸。
窓。
異常なし。
私は戸を開けた。
「ただいま」
机。
引き出し。
近づく。
開ける。
灰色の包み。
昨日と同じ。
手を伸ばさない。
「ありました」
確認する。
引き出しを閉じる。
畑へ向かう。
青豆一号。
無事。
アオジロウ。
泥斑点は、ほとんど落ちていた。
処置不要。
ムラマル。
無事。
モリタン。
本葉候補の先端が、朝よりわずかに開こうとしている。
私は畝の前へしゃがみ込んだ。
「ただいま」
声をかける。
「今日は、手紙を読む場所を決めました」
風が葉を揺らす。
「村長さんの仕事部屋です」
アオジロウ。
ムラマル。
モリタン。
「途中で止める方法も決めました」
胸へ手を置く。
「灰色の布をかけます」
声が少し震える。
「止めてもいいと、何度も言ってもらいました」
安心。
でも、怖い。
「読む日は、まだ決めていません」
それでいい。
リオたちが村へ戻る前。
ミナが聞いた。
「今夜、手紙を開けたくなったら?」
「一人では読みません」
「封だけ開けたくなったら?」
私は少し考える。
「日記へ書きます」
「それでも開けたいなら?」
「明日の朝まで待ちます」
「待てないほどなら?」
「見張りへ声をかけて、村へ行きます」
ガルドさんが頷く。
「対応します」
リオが言う。
「俺たち、明日も来る」
「はい」
「読む日じゃなくても」
「はい」
三人を見送る。
森の道へ姿が消える。
私は結界を閉じる。
夕食。
芋と野菜。
パン。
食べられる。
引き出しを見た。
開けなかった。
夜。
日記帳を開く。
今日、目を覚ましてすぐには引き出しを見なかった。
小川と鳥と朝の光を先に見た。
母様の手紙を読む場所を決めた。
村長さんの仕事部屋。
時間は昼前。
村長さん、リオ、ミナが一緒にいる。
途中で止めたくなったら、灰色の布を手紙へかける。
自分でできなければ、ミナが聞く。
返事ができなければ、私の名前を二度呼ぶ。
それでも返事がなければ、村長さんが手紙を閉じる。
リオは、読む間は怒らず、口を挟まず、待つ。
怒りが強くなったら、外で待つ。
読む日付は、まだ決めていない。
自分から読みたいと思った朝に、皆へ伝える。
その日でも変更していい。
封を開けた後でも。
途中でも。
止めていい。
私はペンを止めた。
止めていい。
何度書いても、胸へ完全には入らない。
私は昔。
一度始めたことを途中で止めるのが苦手だった。
教育。
訓練。
魔法。
領地経営の課題。
教師に出されたもの。
父様に命じられたもの。
最後まで。
完璧に。
止まらない。
それが正しいと思っていた。
途中で止めることは、失敗。
弱さ。
不完全。
でも今は。
手紙を途中で閉じていい。
一行で止めても。
封だけ開けて終わっても。
何日かに分けても。
最後まで読まなくても。
私が決められる。
私は最後に書いた。
読むことより、止められることを先に決めた。
それで少し安心した。
畑でも、手を入れることだけが世話ではない。
触らないこと。
待つこと。
戻すこと。
止めること。
それも守り。
母様の手紙を読む時、私は最後まで進むことより、自分を失わないことを大切にしたい。
日記帳を閉じる。
机の引き出しへ目を向ける。
中には、まだ開かない手紙。
私は立ち上がり、取っ手へ手を置いた。
開けない。
今日は、もう確認しなくてもいい。
「おやすみなさい、母様」
閉じた引き出しへ言う。
「読む場所を決めました」
返事はない。
「でも、読む日はまだです」
それでいい。
暖炉の前へ座る。
花守り布を膝へ置く。
三つの芽。
途中の春告げ花。
開いた春告げ花。
変化の過程。
私は指先で、二つの花を順番になぞった。
「途中で止まった形も、残っています」
子守歌を歌う。
森の葉っぱが眠るころ
小さな灯りも目を閉じる
風よ静かに通りゃんせ
夢の小道を通りゃんせ
歌い終える。
窓の外。
森。
小川。
春待ちの根元。
「また明日」
青豆一号へ。
泥を自分で落とし終えたアオジロウへ。
左右の葉を揃えたムラマルへ。
まだ閉じた本葉を伸ばしているモリタンへ。
村のみんなへ。
途中の花も、開いた花も残してくれたリーナへ。
森の家の引き出しで、静かに待っている母様の手紙へ。
そして。
最後まで進むことより、途中で止まれることを選べた私へ。
「また明日」
明日も、見ます。




