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『青の姫君の森暮らし 〜化け物と恐れられた公爵令嬢は、今日も畑を耕します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第58話 青の姫君、手紙のある朝を迎える


 翌朝。


 私は、目を覚ました瞬間に、引き出しを見た。


 まだ寝台の上だった。


 上半身すら起こしていない。


 目を開き、見慣れた天井を認識するよりも早く、視線が机の方へ向いていた。


 机。


 その下にある、小さな引き出し。


 昨日までとは違う引き出し。


 外から見れば、何も変わっていない。


 木の色も。


 取っ手の形も。


 閉じた時にできる、細い隙間も。


 昨日までと同じだ。


 けれど、中には母様からの手紙がある。


 淡い灰色の布に包まれたまま。


 縁には、リーナが縫ってくれた細い青糸。


 その内側に、淡青色の封筒。


 深い青の封蝋。


 春告げ花の副印。


 母様の字で書かれた、


 フローラへ。


 まだ開かれていない言葉。


 私は布団の中で、ゆっくり息を吸った。


 一つ。


 吐く。


 二つ。


 引き出しは閉じている。


 三つ。


 封書も閉じている。


 四つ。


 今日、読まなくてもいい。


 五つ。


 森の家は、昨日と同じ場所にある。


 私はそれだけを確認してから、ようやく天井を見た。


 見慣れた木目。


 少し黒ずんだ梁。


 自分で埋めた壁の継ぎ目。


 窓から入る朝の光。


 暖炉の灰。


 何も壊れていない。


 昨夜、私は母様の手紙と同じ家で眠った。


 眠れないかもしれないと思っていた。


 引き出しの中から、母様の声が聞こえるような気がするかもしれない。


 夜中に何度も起き、封を開けたくなるかもしれない。


 あるいは、怖くなって村へ逃げるかもしれない。


 けれど、実際には二度目を覚ましただけだった。


 一度目は、風で枝が屋根を擦った音。


 二度目は、喉が渇いて水を飲んだ時。


 そのたびに引き出しを見た。


 けれど、開けなかった。


 母様の手紙がある。


 そう思った。


 それから、また眠った。


 夢は見なかった。


 朝になった。


 私は寝台の上で両手を見た。


 昨日、封書を受け取った手。


 灰色の布を折った手。


 白い袋を持ち、森の道を歩いた手。


 引き出しへ手紙を置いた手。


 今は何も持っていない。


 ただ、布団の上にある。


 私は指を一度握り。


 ゆっくり開いた。


「おはようございます」


 静かな部屋へ言う。


「今日も、森の家にいます」


 少し間を置く。


 視線は、また引き出しへ向いてしまう。


「手紙も、ここにあります」


 口にしてみる。


 胸がわずかに縮む。


 でも、声は出た。


「今日は、まだ読みません」


 昨日決めたこと。


 昨日だけではなく、今朝の私もそう思っている。


 だから、もう一度決める。


 昨日の選択に縛られているわけではない。


 朝になった今、自分で選び直す。


「今朝も、読みません」


 言い終えると、少し息が楽になった。


 手紙はある。


 でも、読まない。


 あることと、開くことは違う。


 同じ家にいることと、向き合うことも違う。


 私は寝台から下りた。


 床板の冷たさ。


 朝の湿り気。


 昨日の雨の名残。


 窓を開ける。


 森の空気が入ってくる。


 雨上がりの匂いは、まだ濃く残っていた。


 土。


 苔。


 濡れた木の皮。


 小川の水音も、普段より少し大きい。


 空は明るい。


 雲は薄くなり、木々の隙間から柔らかな光が差し込んでいる。


 鳥が一度鳴いた。


 少し遠くで、二度。


 別の鳥が、さらに一度。


 鳥笛ではない。


「確認しました」


 窓の外へ呟く。


 そして。


「おはようございます、母様」


 今日も言った。


 母様の手紙は、今、数歩先の引き出しにある。


 昨日までより、母様が近くにいるように感じる。


 けれど、母様本人がいるわけではない。


 紙。


 封蝋。


 言葉。


 それだけ。


 私は胸へ手を置いた。


「手紙がここにあっても、母様がここへ来たわけではありません」


 自分へ言い聞かせる。


「公爵家が、森の家へ入ったわけでもありません」


 森の家は、私の家。


 母様の手紙は、その中の引き出し一つ分。


 それ以上には広げない。


 顔を洗う。


 髪を梳く。


 空色の髪。


 母様と同じ色。


 櫛は、今日も止まらなかった。


 一度。


 二度。


 三度。


 思い出は浮かぶ。


 母様が髪を梳いてくれた朝。


 香油の匂い。


 鏡越しの笑顔。


 薄い指。


 でも、今日はもう一つ別の記憶もある。


 昨日。


 灰色の布の上に置かれた封書。


 伸ばした自分の手。


 冷たい紙。


 受け取ります、と言った自分の声。


 過去の記憶だけではない。


 今の私の記憶も、母様の手紙の周りにある。


 私は髪をまとめた。


 花守り布を手に取る。


 三つの芽。


 アオジロウ。


 ムラマル。


 モリタン。


 春告げ花のために空けた場所。


 私は空白へ指先を置いた。


 春待ちの根元。


 三つの花。


 一つの蕾。


 昨日は見ることができなかった。


 雨を受けた蕾は、どうなっただろう。


 開いたかもしれない。


 まだ閉じているかもしれない。


 雨で花弁が傷んだかもしれない。


 でも、場所はある。


 今日、安全なら見に行ける。


「手紙だけではありません」


 私は鏡の中の自分へ言った。


「今日は、畑と春待ちの根元も見ます」


 花守り布をかぶる。


「まずは畑です」


 外へ出る。


 雨上がりの土は、昨日より少し締まっていた。


 表面は柔らかいが、深く沈むほどではない。


 私は足跡を残しすぎないよう、石の多い場所を選んで歩いた。


 結界。


 異常なし。


 家の周囲。


 人の足跡なし。


 小さな獣の跡は、雨で少し薄くなっている。


 北東側の古い草倒れは、ほとんど判別できない。


 新しい異常なし。


 私は青豆一号へ向かった。


 葉は、昨日より上を向いていた。


 雨の重みが取れたのだろう。


 新しい葉の中央に、朝の光が当たっている。


 虫害なし。


 茎も安定。


「おはようございます」


 声をかける。


 第二の畝。


 アオジロウ。


 風よけを外したまま、一晩の雨を越えた。


 葉の裏についていた土は、乾き始めている。


 茎は倒れていない。


 葉の一枚に、小さな泥の斑点。


 病変ではなさそうだ。


 乾いた後、柔らかな布でそっと落とすか。


 自然に落ちるか、もう少し待つか。


 要観察。


 ムラマル。


 雨で下がっていた葉は、少し戻っている。


 左右差はほとんど分からなくなった。


 茎も、アオジロウほどではないが、しっかりしてきた。


 モリタン。


 私は息を呑んだ。


 二枚の初葉の中央。


 昨日、淡い突起だった本葉候補が、明らかに伸びていた。


 まだ小さい。


 けれど、先端が少しだけ折り畳まれている。


 細い葉が、閉じたまま上へ伸びているように見える。


 私は畝の前にしゃがみ込んだ。


「おはようございます、モリタン」


 声が自然に柔らかくなる。


「次の葉が、伸びていますね」


 昨日、手紙を受け取った。


 その間にも、モリタンは育っていた。


 私が村長さんの仕事部屋で泣いていた時も。


 白い袋を両手で持ち、森の道を歩いていた時も。


 引き出しへ封書を置いた時も。


 夜、手紙のある家で眠った時も。


 モリタンは、自分の時間で次の葉を伸ばしていた。


 私は記録板を開いた。


 青豆一号、古い葉離脱後十六日目。


 雨後回復。新葉、上向き。虫害なし。


 アオジロウ、風よけ撤去後。降雨後も茎安定。葉裏に泥斑点一。病変兆候なし。要観察。


 ムラマル、雨後、初葉の位置回復。左右差ほぼ消失。


 モリタン、本葉候補伸長。先端は折り畳まれた状態。淡緑。


 三芽、状態良好。


 観察者、母の手紙がある家で朝を迎える。


 観察者、今朝も読まないと選び直す。


 観察者、畑を先に見られた。


 書き終えた後、私は木板を両手で持った。


 今朝も読まないと選び直す。


 昨日、今日は読まないと決めた。


 その決定が、一日だけのものだったことに今気づいた。


 手紙を受け取ったからといって、読む日まで決めたわけではない。


 毎朝。


 あるいは、思い出すたび。


 今は読むか。


 まだ読まないか。


 自分で選べる。


 昨日の自分が、今日の私へ命令するわけではない。


 もちろん。


 今朝読まないと決めたからといって、夜まで絶対に開けてはいけないわけでもない。


 気持ちが変われば、その時また選べる。


 それが少し怖く。


 同時に、少し自由だった。


 私はアオジロウの葉の泥斑点を見た。


 取りたい。


 けれど、乾けば自然に落ちるかもしれない。


 今は湿りが残っている。


 擦れば葉を傷つける。


「午後まで待ちます」


 声に出す。


 必要な処置も、時期がある。


 正しいことを、今すぐする必要はない。


 手紙を読むことがいつか必要だとしても。


 今日の朝である必要はない。


 私は立ち上がった。


 朝食を作るため、家へ戻る。


 戸を開ける。


 机が目に入る。


 引き出し。


 胸が小さく跳ねる。


 畑にいる間は、少し忘れていた。


 家へ入ると、また存在が近くなる。


 私は机へ近づかなかった。


 暖炉へ火を入れる。


 鍋を出す。


 今日は、卵と芋のスープ。


 玉葱。


 葉野菜。


 少しの乾燥肉。


 卵を溶き、最後に流す。


 白と黄色の細い筋が、湯の中へ広がる。


 火を弱める。


 塩。


 少し。


 味を見る。


 ちょうどいい。


 パンを切る。


 机へ運ぶ。


 椅子に座る。


 引き出しは、腕を伸ばせば届く場所にある。


 昨日までは、そこに何もなかった。


 今日は、母様の手紙がある。


 私はスプーンを持った。


 一口。


 温かい。


 二口。


 卵が柔らかい。


 三口。


 芋。


 四口。


 引き出しを見る。


 食べられる。


 私は小さく息を吐いた。


「手紙があっても、朝食は食べられます」


 確認する。


 封書は、朝食を奪わない。


 少なくとも、今朝は。


 私は食べながら、母様のことを考えた。


 母様は、朝食を食べられているだろうか。


 体調は。


 封書を書けるほどには、起き上がれたのか。


 誰かに代筆させず、自分の字で書いた。


 少し震えた字。


 その震えは、病のせいか。


 感情のせいか。


 分からない。


 手紙を読めば、分かるのだろうか。


 書かれていれば。


 でも、すべてが書かれているとは限らない。


 一通の手紙で、一人の人間を全部知ることはできない。


 母様の手紙を読んでも、母様のすべては分からない。


 私はスプーンを止めた。


 昨日までは、手紙の中に答えが全部あるように思っていた。


 なぜ私を遠ざけたのか。


 愛していたのか。


 恐れていたのか。


 帰ってほしいのか。


 謝りたいのか。


 母様自身のこと。


 すべて。


 でも、手紙は紙一通。


 母様も、一人の人。


 書けないこと。


 書かなかったこと。


 自分でも分からないこと。


 きっとある。


「全部の答えを求めなくていいです」


 私は呟いた。


 読む時。


 一つでも、本当の言葉があれば。


 あるいは、何も答えがなくても。


 その後また考えればいい。


 私は朝食を最後まで食べた。


 食器を洗う。


 引き出しは開けない。


 でも、避けて大きく回ることもしなかった。


 机の前を普通に通った。


 日記帳の横に置いてある筆を取る。


 引き出しの上へ、一瞬手が触れた。


 木の感触。


 中の封書までは感じない。


 それでいい。


 結界に気配が触れた。


 リオ。


 ミナ。


 ガルドさん。


 いつもの三人。


 私は扉を開ける前に、引き出しを一度見た。


「誰かが来ても、手紙はそのままです」


 自分へ言う。


 扉を開けた。


「おはようございます」


「おはよう」


 リオの視線が、まず私の顔へ向いた。


 今日は匂いより先だった。


「眠れたか?」


「はい」


「本当に?」


「二度起きました。でも、また眠れました」


「手紙、開けた?」


 聞いた直後、リオは顔を強張らせた。


「悪い。急かすつもりじゃなくて」


「大丈夫です」


 私は答えた。


「開けていません」


「そっか」


「今朝も、読まないと決めました」


 リオは頷いた。


「うん」


 ミナが静かに聞く。


「手紙のある家で目を覚まして、どうでしたか」


「最初に引き出しを見ました」


「はい」


「怖かったです。でも、家は昨日と同じでした」


「朝食は?」


「食べられました」


「畑は?」


「三人とも無事です。モリタンの本葉候補が伸びました」


 リオの顔が明るくなる。


「本当か」


「はい」


 ガルドさんは周囲を確認する。


「夜間、外縁に異常はありません。レナード隊も、宿から動いていないようです」


「そうですか」


 少し安心する。


 でも、彼らがいることは変わらない。


 私は三人を畑へ案内した。


 リオはアオジロウの泥斑点を見つける。


「病気?」


「今のところ、泥だと思います」


「取る?」


「午後まで待ちます。乾けば自然に落ちるかもしれません」


「すぐ取らない」


「はい」


 ムラマル。


「左右、同じになったな」


「ほぼ」


 モリタン。


 リオは、本葉候補を見るなり目を丸くした。


「次の葉だ」


「まだ候補です」


「でも葉っぽい」


「はい」


 ミナが微笑む。


「封書を迎えた夜にも、育っていたんですね」


「はい」


 その言葉に胸が温かくなる。


 ガルドさんが畝の外側を見ながら言う。


「植物は、こちらの事情を待ちません」


 少し冷たく聞こえる言葉。


 でも、続きは穏やかだった。


「だからこそ、日常を戻してくれることがあります」


 私はモリタンを見る。


「はい」


 本当にそうだ。


 母様の手紙。


 レナード。


 公爵家。


 私の心がどれほど揺れても。


 畑には、今日見るものがある。


 水。


 泥。


 葉。


 虫。


 成長。


 具体的なものが、私を今へ戻してくれる。


 四人で朝食の残りを食べた。


 リオはスープへ芋が入っていることを確認し、満足そうに頷いた。


 今日は芋の数を数えた。


「三つ」


 ミナが自分の椀を見る。


「私は二つです」


「偶然だろ」


「昨日の反省はどこへ」


「昨日は昨日。今日は今日」


 その言葉に、私は少し笑った。


「昨日は昨日。今日は今日」


 口にすると、胸へ残った。


 昨日、手紙を受け取った。


 今日は、手紙のある朝を迎えた。


 同じではない。


 昨日の気持ちを、そのまま今日へ持ってこなくていい。


 リオは、自分が何か重要なことを言ったと気づいていない。


 芋を食べている。


 私はその様子を見て笑った。


「何だよ」


「いいえ。よい言葉だと思いました」


「芋三つ?」


「昨日は昨日。今日は今日、です」


 リオは少し照れた。


「まあな」


 ミナが言う。


「リオ兄さんも、たまに良いことを言います」


「たまにって何だ」


 朝の笑い。


 手紙のある家でも、笑える。


 食事の後、今日の予定を話した。


「村へ行きますか」


 ガルドさんが聞く。


 私は少し考えた。


 手紙を受け取った翌日。


 村の子供たちは、きっと気にしている。


 無事に森へ持ち帰れたか。


 引き出しへ置けたか。


 読んだか。


 村へ知らせたい。


 でも、それだけではない。


 春待ちの根元の蕾を見たい。


 共同畑の赤筋葉。


 観察鉢。


 リーナの刺繍。


「行きたいです」


 私は答えた。


「春待ちの根元を通れますか」


 ガルドさんは少し考える。


「東側の道を確認します。安全なら」


「お願いします」


 ミナが聞く。


「手紙は、置いていきますか」


 胸が小さく跳ねる。


 母様の封書を森の家へ置いたまま、村へ行く。


 初めて離れる。


 持ち歩く必要はない。


 でも、一人にしていくような妙な不安がある。


 手紙は物。


 寂しがらない。


 誰かに奪われる可能性。


 結界がある。


 家に異常はない。


 引き出しも閉じている。


「置いていきます」


 私は答えた。


「持ち歩きません」


 リオが頷く。


「その方がいい。落としたら大変だ」


「はい」


 ミナは私の顔を見る。


「不安ですか」


「少し」


「戻れば、あります」


「はい」


 畑と同じ。


 離れても。


 戻ればいる。


 私は家へ入り、引き出しの前に立った。


 開けない。


 閉じた取っ手へ指先を触れる。


「村へ行ってきます」


 手紙へ言う。


 自分でも少し可笑しい。


 でも、言いたかった。


「今日は、ここに置いていきます」


 手紙は返事をしない。


「戻ります」


 私は指を離した。


 家の戸を閉める。


 結界を確認する。


 畑へも声をかける。


「行ってきます」


 三つの芽。


「春待ちの根元を見てきます」


 少し間を置いて。


「手紙は、家に置いていきます」


 報告することで、自分の中が整う。


 東側の道。


 昨日の雨で少し滑りやすい。


 ガルドさんが先。


 ミナが横。


 リオは少し後ろ。


 私は足元を数える。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 手紙は家。


 四歩。


 引き出しは閉じている。


 五歩。


 春待ちの根元。


 六歩。


 村。


 七歩。


 戻る。


 森の音。


 小川。


 濡れた葉。


 知らない足音はない。


 春待ちの根元へ近づく。


 白樹の曲がった根。


 三つ岩。


 淡い青。


 私は足を止めた。


 ガルドさんが周囲を確認する。


 丸。


 異常なし。


 春告げ花は、雨を越えていた。


 三つの花。


 花弁の先に雫。


 少し伏せているものもある。


 けれど、傷んではいない。


 そして。


 昨日まで蕾だった四つ目。


 開いていた。


 まだ完全ではない。


 外側の花弁が二枚。


 内側の花弁が三枚。


 少し重なりながら。


 淡い青を見せている。


 私は息を呑んだ。


「咲きました」


 声が小さく震えた。


 ミナもしゃがむ。


「はい」


 リオが少し後ろから覗く。


「四つ目」


「はい」


 昨日。


 私は母様の手紙を受け取った。


 昨日まで蕾だった花が。


 今日、開いた。


 ただの偶然。


 分かっている。


 手紙と花に、不思議なつながりがあるわけではない。


 けれど、胸の中では重なって見えた。


 私は手紙を受け取った。


 でも、封は開いていない。


 春告げ花は開いた。


 私も開かなければならないのか。


 そんな考えが浮かぶ。


 すぐに息が苦しくなる。


 私は首を横に振った。


「花が開いたからといって、手紙を開ける必要はありません」


 声に出す。


 ミナが頷く。


「はい」


「これは花の時間です」


「はい」


「私の時間とは違います」


 リオが言う。


「モリタンも、花も、自分で開いた」


「はい」


「フローラも、自分で決めればいい」


 胸が温かくなる。


「ありがとうございます」


 私は記録板を開いた。


 春待ちの根元。


 開花四。


 昨日までの蕾一、開花確認。


 雨後。花弁に水滴あり。


 既存三花、損傷なし。やや下向き。


 新花、花弁五枚。完全展開前。


 採取せず。


 観察継続。


 観察者、母の手紙を受け取った翌日に開花を確認。


 観察者、花が開いても、自分が手紙を開く必要はないと確認。


 書き終える。


 私は四つの花を見た。


 母様の副印に似ている。


 でも、母様の命令ではない。


 森の花。


 自分の時間で咲いたもの。


 私は指先で触れなかった。


 摘まない。


 今日も。


「今度、子供たちに見せたいですね」


 ミナが言う。


「はい」


「安全になったら」


「はい」


 リオが言う。


「絵、描けば?」


 私は少し驚いた。


「私が?」


「うん。今日の形。リーナの布に縫えるだろ」


 春告げ花を、花守り布へ。


 母様の印としてではなく。


 春待ちの根元の記録として。


 四つの花。


 雨を越えて。


 蕾が開いた日。


 手紙を受け取った翌日。


 今の私の記憶。


「描いてみます」


 私は木板の端へ、小さな絵を描いた。


 曲がった白樹の根。


 三つの花。


 少し開きかけた一つ。


 完全な絵ではない。


 でも、形は残る。


 村へ向かう。


 東側の見張りが丸を出す。


 異常なし。


 村へ入る。


 パンの匂い。


 雨上がりの土。


 薪。


 井戸。


 子供たちの声。


 エマが私を見るなり、小声で聞いた。


「手紙、森にある?」


「はい」


 私は答えた。


「引き出しへ置きました」


「読んだ?」


「いいえ」


「眠れた?」


「はい」


 エマの顔が明るくなる。


「よかった!」


 ニコが聞く。


「家、変わった?」


 その問いに、胸が熱くなった。


「変わりませんでした」


「畑も?」


「無事です」


 ルルが頷く。


「手紙、小さい」


「はい」


 以前、リオが言った言葉。


 手紙は家より小さい。


 子供たちにも伝わっている。


「家全部にはならなかった?」


「はい。引き出し一つ分です」


 サムが記録する。


 母からの封書。


 森の家の引き出しへ。


 未開封。


 フローラ先生、同じ家で眠る。


 朝食可。


 畑観察可。


 家、変化なし。


「朝食可、って」


 私は少し笑った。


 サムは真面目だ。


「大事」


「はい。大事です」


 トトが聞く。


「今日、手紙置いてきた?」


「はい」


「一人?」


「手紙は寂しがりません」


 私が答えると、大人たちの間から小さな笑いが起こった。


 トトは少し考える。


「でも、盗まれない?」


「結界があります」


「じゃあ大丈夫」


 簡単な結論。


 でも、私も同じ確認をした。


 リーナは私の花守り布を見る。


「春告げ花、見た?」


「はい」


「蕾は?」


「咲きました」


 子供たちが小さく歓声を上げる。


「四つ!」


 エマが両手の指を四本立てる。


「はい。四つです」


 私は記録板の絵を見せた。


 リーナは真剣に見る。


「縫う?」


 胸が少し揺れる。


 以前は、まだ決められなかった。


 母様の印と似ている。


 布へ縫えば、母様のものが入り込むようで怖かった。


 でも今。


 春待ちの根元には、今の記憶がある。


 リオ。


 ミナ。


 ガルドさん。


 雨を越えた花。


 開いた蕾。


 手紙を受け取った翌日に見た景色。


「お願いします」


 私は答えた。


 リーナの顔が明るくなる。


「どこ?」


 花守り布の空白を指す。


「ここに」


「母様の花?」


 ルルが聞いた。


 私は少し考えた。


「母様の印に似ています」


「でも?」


「春待ちの根元の花として、縫ってください」


 サムが記録する。


 春告げ花。


 母の副印と類似。


 花守り布へは、春待ちの根元の記録として追加。


 私はその文字を見て、胸が温かくなった。


 過去を消さない。


 でも、過去だけにしない。


 今の意味を、自分で加える。


 リーナは淡い青の糸を選ぶ。


 中心には白。


 花弁のうち一つだけ、少し閉じた形。


 完全に開ききる前の四つ目を残すため。


「全部同じ花じゃない」


 リーナが言う。


「はい」


「三つは開いてる。ひとつは途中」


「その通りです」


「途中も記録」


「はい」


 今日の授業は、赤筋葉の発芽試験の続きになった。


 通常畝へ植えた二十四粒。


 観察鉢へ分けた、傷一粒と淡色二粒。


 まだ芽は出ていない。


 当然だ。


 植えたばかり。


 でも、子供たちは何度も土を見る。


 エマが聞く。


「今日、出る?」


「可能性は低いです」


「明日?」


「分かりません」


「いつ?」


「種の時間です」


 以前なら、子供たちは残念そうにしただろう。


 今は、ルルが頷いた。


「場所ある」


「はい」


 サムが言う。


「記録ある」


「はい」


 ニコが続ける。


「待つ歌、作る?」


 トトが嫌そうな顔をする。


「また歌うのか」


「嫌なら歌わなくていい」


 エマが言う。


「でも、聞くのは強制」


「それ強制じゃねえか!」


 広場に笑いが起こる。


 私はその笑いを聞きながら、心が少し軽くなるのを感じた。


 手紙は森の家にある。


 でも、ここでは種の発芽を待っている。


 歌の話をしている。


 花守り布へ新しい花が増える。


 母様の手紙だけで一日が埋まらない。


 昼前。


 リーナは花守り布へ春告げ花を一輪だけ仮縫いした。


 残り三輪は、配置を考えてから。


 淡い青。


 白い中心。


 少し閉じた花弁。


 私は布を見た。


 三つの芽の横。


 少し離れた場所。


 春告げ花。


 母様の印に似ている。


 けれど、見た時に思い出すのは、母様だけではなかった。


 雨上がりの森。


 白樹の根。


 リオの声。


 ミナの静かな頷き。


 ガルドさんの警戒する背中。


 四つ目が開いていた朝。


 今日。


「大丈夫?」


 リーナが聞く。


 私は布へ触れた。


 胸は少し痛む。


 でも、逃げたいほどではない。


「はい」


 私は答えた。


「大丈夫です」


 昼食の後、村長さんと短く話した。


 手紙を森の家へ置いたこと。


 夜、開けなかったこと。


 朝、読まないと選び直したこと。


 村長さんは、黙って聞いていた。


「手紙があるだけで、家が変わると思っていました」


 私は言った。


「うん」


「でも、変わりませんでした」


「家は、物一つで全部変わるほど小さくない」


「はい」


「君も同じだ」


 私は顔を上げた。


「私も」


「手紙一通で、君の全部が変わるわけじゃない」


 胸に落ちる。


 家より小さい。


 畑より小さい。


 私の人生より小さい。


 でも、大切かもしれない。


 その両方。


「読む時が来ても」


 村長さんが続ける。


「中の言葉が君のすべてになるわけではない」


「はい」


「母親が何を書いたとしても、君が森で生きた日々は消えん」


 目の奥が熱くなる。


「村の記録も」


「消えん」


「畑も」


「消えん」


「私が、ここで選んだことも」


「消えんよ」


 私は頭を下げた。


「ありがとうございます」


 村長さんは少し間を置いて聞いた。


「今日は、読む気はあるかい」


 私は自分の胸を見る。


 朝、読まないと決めた。


 村へ来た。


 春告げ花が開いた。


 子供たちへ報告した。


 今。


「今日は、読みません」


 答える。


 迷いはある。


 でも、はっきり言えた。


「分かった」


「でも」


「うん」


「明日も読まないとは、まだ決めません」


 村長さんの目が少し柔らかくなる。


「それでいい」


 今日の選択。


 明日の選択。


 分ける。


 午後。


 共同畑では、通常畝と観察鉢の名札を作った。


 通常。


 傷あり。


 淡色。


 子供たちは、傷のある種を「駄目な種」と呼ばなかった。


 観察する種。


 違いを見る種。


 それが自然になっている。


 サムが記録する。


 種は、受け取った時の状態で場所を分ける。


 結果が出る前に価値を決めない。


 私はその文字を見た。


 母様の手紙も。


 読む前に、優しい手紙。


 怖い手紙。


 謝罪。


 命令。


 決めない。


 中身を見るまで。


 そして、読んだ後も。


 一つの言葉だけで、全体の価値を決めない。


 できるだろうか。


 分からない。


 でも、そうありたい。


 帰る時間。


 今日は春待ちの根元を通らない北寄りの道。


 手紙は森の家にある。


 帰る場所に。


 私は少し早く戻りたい気持ちがあった。


 手紙が無事か確認したい。


 でも、走らない。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 引き出し。


 四歩。


 手紙は閉じている。


 五歩。


 家は変わらない。


 六歩。


 畑。


 七歩。


 戻る。


 結界へ着く。


 異常なし。


 家。


 戸は閉じている。


 窓も。


 私は少し急ぎそうになる。


 でも、決めた順番。


 結界。


 外周。


 異常なし。


 戸を開ける。


「ただいま」


 部屋へ入る。


 机を見る。


 引き出しは閉じている。


 近づく。


 取っ手へ触れる。


 開けるか。


 手紙があることを、目で確認したい。


 でも、包みを見れば、母様の字までは見えない。


 引き出しを開けることは、封書を開けることではない。


 私は引き出しを開いた。


 灰色の包み。


 昨日と同じ位置。


 青い縁。


 乱れていない。


 封書は中。


「ありました」


 小さく言う。


 手を伸ばさない。


 包みへ触れない。


 見るだけ。


 引き出しを閉じる。


 かたり。


「確認しました」


 それから畑へ向かう。


 青豆一号。


 無事。


 アオジロウ。


 葉の泥斑点は、乾いて少し薄くなっていた。


 柔らかな風で、端が一部落ちている。


 擦らなくてよかった。


 ムラマル。


 無事。


 モリタン。


 本葉候補が、朝より少しだけ開こうとしている。


「ただいま」


 私は畝の前へしゃがんだ。


「手紙は、引き出しにありました」


 アオジロウの葉が揺れる。


「私は、村へ行って戻りました」


 ムラマル。


「春待ちの根元の花は、四つになりました」


 モリタン。


「今日は、手紙を読みません」


 声に出す。


「でも、明日のことは明日決めます」


 その言葉が、夕方の森へ溶けていく。


 リオたちが村へ戻る前。


 ミナが聞いた。


「今夜、一人で大丈夫ですか」


「はい」


「引き出しを開けたくなったら?」


「開けてもいいと思います」


 自分で言って、少し驚く。


「封書を開けるのではなく、引き出しを」


「はい」


「包みを見るだけなら」


「はい」


「それで落ち着くかもしれません」


 ミナは微笑んだ。


「禁止しすぎない方がよいかもしれませんね」


「はい」


 リオが言う。


「でも、封蝋割りたくなったら?」


「一度、日記へ書きます」


「それから?」


「それでも読みたければ、村へ行くか、朝まで待ちます」


「一人で読まない?」


「はい。一人では読みません」


 リオは大きく頷いた。


「よし」


 ガルドさんも言う。


「夜間、外縁に見張りを置きます。異常がなくても、朝には来ます」


「ありがとうございます」


 三人を見送る。


 今日も、森の道へ姿が消える。


 私は結界を閉じた。


 夕食を作る。


 簡単な芋と葉野菜の炒め物。


 パン。


 薬草茶。


 食べられた。


 引き出しを一度見た。


 開けなかった。


 夜。


 暖炉の火。


 森の静けさ。


 時々、葉から落ちる雫。


 私は日記帳を開いた。


 今日、母様の手紙がある家で初めて朝を迎えた。


 目を覚まして最初に引き出しを見た。


 手紙は閉じたまま。


 今朝も読まないと決めた。


 畑を見た。


 モリタンの本葉候補が伸びた。


 アオジロウの泥は、触らず待ったら一部自然に落ちた。


 春待ちの根元へ行った。


 蕾だった四つ目の花が咲いた。


 花が開いたからといって、私も手紙を開く必要はないと確認した。


 春告げ花を、花守り布へ縫ってもらうと決めた。


 母様の印としてではなく、春待ちの根元の記録として。


 村へいる間、手紙は森の家へ置いていった。


 戻ったら、引き出しの中にあった。


 家は変わっていない。


 私はペンを止めた。


 今日。


 私は手紙と離れた。


 昨日、ようやく受け取ったのに。


 すぐ村へ置き直すのではなく。


 持ち歩くのでもなく。


 森の家に置いて、村へ行った。


 そして、戻った。


 手紙はそこにあった。


 離れても、なくならなかった。


 捨てたわけでもない。


 母様の手紙と、少し距離を取れた。


 それは、手紙を自分のものとして扱い始めたということなのかもしれない。


 誰かから受け取ったから、ずっと抱えていなければならないのではなく。


 自分の家の、自分で決めた場所へ置く。


 必要な時に見る。


 離れる時は離れる。


 私は最後に書いた。


 手紙があることと、手紙を見続けることは違う。


 大切なものでも、ずっと手に持たなくていい。


 置いて。


 離れて。


 戻って。


 まだあると確認する。


 それも、持つということなのかもしれない。


 今日は読まない。


 明日は、明日の私が決める。


 日記帳を閉じる。


 机の引き出しへ目を向ける。


 中には母様の手紙。


 私は立ち上がり、引き出しの前へ行った。


 取っ手へ手を置く。


 少し考える。


 開けない。


 今日は、もう確認した。


「おやすみなさい、母様」


 閉じた引き出しへ言う。


「今日は、読みません」


 責められているような気はしなかった。


 手紙は、ただそこにある。


 私は暖炉の前へ座る。


 花守り布を膝へ置く。


 三つの芽。


 その横に仮縫いされた、淡い青の春告げ花。


 まだ一輪。


 少し閉じた花弁。


 今日見た四つ目の花。


 私は指先で、そっとなぞった。


「開く時間は、それぞれです」


 子守歌を歌う。


 森の葉っぱが眠るころ


 小さな灯りも目を閉じる


 風よ静かに通りゃんせ


 夢の小道を通りゃんせ


 歌い終える。


 窓の外。


 雨上がりの森。


 春待ちの根元。


 四つの花。


「また明日」


 青豆一号へ。


 泥を自分で落とし始めたアオジロウへ。


 左右の葉を揃えたムラマルへ。


 次の葉を伸ばしているモリタンへ。


 村のみんなへ。


 雨を越えて開いた、四つ目の春告げ花へ。


 森の家の引き出しで、静かに閉じている母様の手紙へ。


 そして。


 手紙のある日常を、一日きちんと暮らせた私へ。


「また明日」


 明日も、見ます。

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