第57話 青の姫君、まだ手紙のない布を抱く
翌朝。
雨は、夜のうちに上がっていた。
けれど、森はまだ雨の中にいるようだった。
屋根から落ちる雫。
枝先から滴る水。
葉と葉の間に残った透明な粒。
湿り気を含んだ土の匂いが、閉じた窓の隙間からも家の中へ入り込んでいる。
私は目を覚ました後、しばらく寝台の上でその音を聞いていた。
ぽつり。
少し間を置いて。
ぽつり。
雨音ではない。
夜の雨が残していった音。
降る時間が終わっても、雨はすぐには消えない。
葉の上に残り。
土へ染み込み。
屋根の端から、少しずつ落ちていく。
人の気持ちも、似ているのかもしれない。
何かが起きた時間は終わっている。
公爵家の使いが村へ来た日は、もう過ぎた。
母様の封書を初めて見た日も。
差出人を知った日も。
灰色の包み布を持ち帰った日も。
どれも昨日ではない。
けれど、胸の中にはまだ雫が残っている。
思い出した時に、一滴ずつ落ちる。
私は目を開けた。
見慣れた天井。
森の家。
自分の寝台。
そして。
机の引き出し。
閉じたままの引き出し。
中には、リーナが縫ってくれた灰色の布が敷かれている。
縁に、細い青糸が一本。
母様の封書を包むための布。
けれど、まだ封書はない。
場所だけ。
準備だけ。
私は布団の上で、自分の両手を見た。
昨日、私は包み布を受け取った。
手紙ではない。
けれど、母様の手紙を迎えるために作られたものを、自分の手で持ち帰った。
軽かった。
布一枚だから当然だ。
でも、胸には重かった。
今日は。
もし村へ行けば。
もし封書を見れば。
もし母様の字をもう一度見たら。
私は、手を伸ばすのだろうか。
昨日決めた手順がある。
机の上へ包み布を広げる。
村長さんが、その上へ封書を置く。
私が触れられるか決める。
無理なら、受け取らない。
リオとミナは少し後ろ。
必要なら、ミナに手を握ってもらう。
受け取る日付は決めていない。
今日でなくていい。
明日でなくても。
それなのに。
目覚めた時から、胸の中に一つの問いがあった。
――今日、受け取りますか。
誰も聞いていない。
村長さんも急かしていない。
リオもミナも、決めるのは私だと分かっている。
レナードも、封書を読んだか尋ねないと言った。
それなのに、自分で自分へ問いかけている。
私はゆっくり寝台から起き上がった。
床へ足を下ろす。
冷たさが足裏へ伝わる。
一つ。
息を吸う。
二つ。
吐く。
三つ。
机を見る。
四つ。
引き出しは閉じている。
五つ。
手紙はまだ村にある。
私は立ち上がった。
「おはようございます」
森の家へ言う。
窓へ近づき、外を見る。
雨上がりの森は、淡い灰色に包まれていた。
空は明るくなり始めている。
雲の切れ間から、薄い青が少しだけ見える。
木々の葉は濡れ、いつもより濃い緑をしている。
鳥の声は少ない。
雨の後だから、まだ羽を乾かしているのかもしれない。
一度。
遠くで、低い声。
もう一度。
同じ鳥。
鳥笛ではない。
私は窓を開けた。
冷たい湿気が部屋へ入り込む。
土と苔の匂い。
雨に濡れた木の皮。
小川の水音は、いつもより少し大きい。
「おはようございます、母様」
今日も言う。
胸が少し痛む。
でも、声は震えなかった。
私は続けた。
「手紙は、まだ受け取っていません」
返事はない。
「今日、受け取るかも決めていません」
自分へ確認する。
「でも、考えています」
窓の外から雫が一つ、窓枠へ落ちた。
小さな音。
それを聞きながら、私は顔を洗い、髪を梳いた。
空色の髪。
母様と同じ色。
今日も櫛は止まらない。
一度。
二度。
三度。
思い出しながら、続ける。
母様が好きだったものを、私は知らない。
昨日、そう気づいた。
どんな花が好きだったのか。
どんな菓子を好んだのか。
寒い季節と暖かい季節、どちらを好んだのか。
芋を食べたのか。
朝は紅茶だったのか。
夜、眠れない時に何を考えていたのか。
公爵夫人ではない母様。
私の教育を決める人でもない母様。
一人の女性としての母様。
私は、ほとんど知らない。
手紙に、書いてあるだろうか。
母様自身のことが。
それとも、私への言葉だけだろうか。
謝罪。
願い。
命令。
後悔。
愛情。
何が入っているのか分からない。
私は髪をまとめ、花守り布を手に取った。
三つの芽。
春告げ花のために空けた場所。
私は空白へ触れた。
「春待ちの根元は、雨でどうなっているでしょう」
蕾。
昨日、淡い青が見え始めていた。
雨を受けた。
開いたのか。
閉じたままなのか。
雨で傷んでいないか。
見に行きたい。
母様の手紙を受け取るかどうかとは別に。
春告げ花の場所へ行きたい。
「まずは畑です」
花守り布をかぶる。
外へ出る。
雨上がりの庭。
土は柔らかい。
踏めば、足跡が深く残る。
私はいつもより慎重に歩いた。
結界。
異常なし。
家の周囲。
人の足跡なし。
小さな動物の跡が、井戸の近くにある。
細い爪。
四本。
森鼠か、小さな狐。
結界を越えた形跡ではない。
内側に住む小動物だろう。
私は記録するほどではないと判断したが、場所だけ覚えた。
北東側の草倒れは、雨で形が崩れていた。
以前の痕跡はほとんど分からない。
新しい踏み跡もない。
要観察は続ける。
青豆一号。
葉へ雫がたくさん残っていた。
新葉は水の重みで少し下を向いている。
折れてはいない。
虫害なし。
茎の根元も安定。
「おはようございます」
私は葉を揺らさないよう、少し離れて見る。
第二の畝。
アオジロウ。
風よけは昨日外したまま。
雨を直接受けた。
葉は濡れ、少し重そうだ。
けれど、茎は倒れていない。
土跳ねが葉の裏に少しついている。
後で、乾いてから状態を確認する。
今すぐ水で流せば、さらに湿らせてしまう。
ムラマル。
葉は左右へ開いたまま。
雨の重みで少し低くなっている。
茎に異常なし。
モリタン。
二枚の初葉の中央。
昨日見つけた、本葉らしい淡い突起。
雨の雫が一粒、そこに乗っていた。
とても小さい。
今にも重みで曲がりそうに見える。
胸が強く鳴る。
私は手を伸ばしかけた。
雫を取ってあげたい。
指先でそっと払えば。
でも、指が触れれば、本葉候補を傷つけるかもしれない。
風が吹けば、雫は落ちる。
朝日が出れば、乾く。
今すぐ私が取る必要はあるのか。
私は手を止めた。
膝の上へ戻す。
「守りたいです」
小さく言う。
「でも、触りません」
雫は透明で、淡い緑を大きく見せていた。
モリタン自身の一部ではない。
外から乗った水。
でも、今は一緒に見える。
手紙の言葉も。
読んだ時、私自身の気持ちと混ざるだろう。
母様が書いた言葉。
私が思い込んだ意味。
過去の記憶。
今の怖さ。
全部が一つに見えるかもしれない。
だから、誰かと一緒に読む。
言葉そのものと、自分の受け取り方を分けるために。
私は記録板を開いた。
青豆一号、古い葉離脱後十五日目。
雨後。新葉に水滴多数。葉やや下向き。折れなし。虫害なし。
アオジロウ、風よけ撤去後初の降雨。茎安定。葉裏に土跳ね少量。
ムラマル、雨による葉の低下あり。茎異常なし。
モリタン、本葉候補に水滴一。茎・初葉異常なし。触れず経過観察。
三芽、雨後観察継続。
観察者、手紙を受け取る日について自分から考えている。
観察者、守りたいが、今は触れないと決める。
書き終えた後、私はモリタンを見る。
雫はまだある。
でも、少し風が動き始めた。
葉がかすかに揺れる。
雫も震える。
落ちそうで、落ちない。
私は待った。
一呼吸。
二呼吸。
三呼吸。
風がもう一度吹く。
雫が、本葉候補から初葉へ移り。
葉の縁を滑って。
土へ落ちた。
小さな音は聞こえない。
でも、確かに落ちた。
私は息を吐いた。
「自分で落とせましたね」
モリタンが落としたわけではない。
風が。
重力が。
時間が。
でも、私が触らなくても、問題は過ぎた。
何でも自分の手で取り除かなくていい。
私は立ち上がった。
雨後の畑に、大きく手を入れる必要はない。
土が柔らかいため、今日は周囲を踏みすぎない。
風よけを戻す必要もない。
アオジロウは立っている。
私は家へ戻り、朝食の準備を始めた。
今日は、雨上がりの冷たさが残っているため、温かい粥にした。
穀物。
芋。
細かく切った葉野菜。
乾燥肉を少し。
薬草は入れない。
母様は、どんな朝食を食べているのだろう。
今も公爵邸にいるのか。
寝台で食べているのか。
もう起き上がれるのか。
それとも。
考えが暗い方へ向かいそうになる。
私は鍋をかき混ぜた。
「手紙の中に、体調が書かれているかもしれません」
声に出す。
「書かれていないかもしれません」
まだ分からない。
「読むまで、決めつけません」
粥を椀へよそう。
机へ座る。
引き出しは閉じている。
包み布が中にある。
今日は、手紙の場所というより。
私の決定を待つ場所に感じられた。
私は粥を食べた。
一口。
温かい。
二口。
芋が柔らかい。
三口。
母様のことを考える。
四口。
食べられる。
朝食の途中。
私はふと、自分の両手を見た。
匙を持つ右手。
椀を支える左手。
この手で、封書を持てるだろうか。
重さはほとんどないはず。
紙。
封蝋。
それだけ。
でも、落とすかもしれない。
震えるかもしれない。
両手で持つ。
片手ではなく。
包み布ごと、両手で。
胸の近くへ抱えすぎない。
体から少し離して。
森の家まで運ぶ。
薬草籠へ入れない。
別の袋。
灰色の布で包む。
さらに白い袋へ。
道では開けない。
村を出る前に、封が閉じていることを確認。
森へ着いたら、結界、家、畑を先に確認するか。
それとも、手紙を先に引き出しへ置くか。
手紙を持ったまま畑を見るのは落ち着かないかもしれない。
家へ入り、引き出しへ置く。
その後、畑へ。
手順。
頭の中に、手紙を持ち帰る日の動きができていく。
私は匙を置いた。
「今日、受け取るつもりなのでしょうか」
自分へ聞く。
答えはすぐには出ない。
でも。
昨日までの私は、受け取る方法を考えていた。
今朝の私は、持ち帰る道順まで考えている。
気持ちは動いている。
無視しない。
しかし、今日だと決めつけない。
私は粥を最後まで食べた。
片づける。
結界に気配が触れた。
リオ。
ミナ。
ガルドさん。
いつもの三人。
私は手を拭き、戸へ向かった。
扉を開ける。
「おはようございます」
「おはよう」
リオは雨上がりの庭へ足を取られないよう、少し大股で歩いていた。
花守り布の端が湿らないよう、私は玄関の中へ少し下がる。
ミナが私の顔を見る。
「よく眠れましたか」
「はい」
「雨は怖くありませんでした?」
「大丈夫でした。朝、畑に水滴が残っていました」
リオが聞く。
「三人は?」
「無事です」
「よし」
ガルドさんは周囲を確認する。
「結界外にも新しい人の痕跡はありません」
「はい」
私は少し迷い、それから言った。
「今朝、手紙を持ち帰る時の手順を考えました」
三人が静かになる。
リオはすぐ何か言いかけたが、口を閉じた。
ミナが優しく聞く。
「どのように?」
「灰色の布で包み、白い袋へ入れます。両手で持ちます。村を出る前に封が閉じていることを確認します。森へ戻ったら、先に家へ入り、引き出しへ置きます。それから畑を見ます」
言い終えると、胸が強く鳴った。
具体的すぎる。
まるで今日受け取ると決めたように聞こえる。
私はすぐ続けた。
「でも、今日受け取るとは、まだ決めていません」
「分かっています」
ミナは即座に答えた。
リオも頷く。
「手順考えただけ」
「はい」
ガルドさんが言う。
「具体的な手順があれば、決める時の負担は減ります」
「はい」
「村へ行きますか」
私は外を見る。
雨上がり。
春待ちの根元。
包み布。
母様の封書。
「行きたいです」
答える。
「今日は、封書をもう一度見たいです」
自分の声に、リオが少し目を見開いた。
私は続ける。
「見てから、受け取るか決めます」
ミナが頷く。
「はい」
「その場で、受け取らないと決めても」
「もちろんです」
「布の上へ置いてもらいます」
「はい」
「触れる前に、少し時間がほしいです」
「待ちます」
リオが言う。
「ずっと待つ」
少し力が入りすぎた言い方。
でも、ありがたかった。
「ありがとうございます」
「俺は、少し後ろにいる」
「はい」
「怒らない。急かさない。手も出さない」
「はい」
彼も、手順を確認している。
ガルドさんが静かに言う。
「では、村長へ先に伝えます。封書を見る準備を」
胸が跳ねる。
準備。
今日、見る。
受け取るかもしれない。
私は一度、花守り布の端を握った。
「お願いします」
三人を畑へ案内する。
雨上がりの状態を一緒に確認する。
リオはアオジロウの葉を見て、少し心配そうにした。
「下向いてる」
「水の重みです。茎は大丈夫です」
「風よけ戻す?」
「今は不要です。風が弱いので」
ムラマル。
「こっちも濡れてる」
「はい。でも折れていません」
モリタン。
リオが本葉候補を見つける。
「これ、昨日より出てる?」
「少しだけ」
「水滴は?」
「先ほどありましたが、風で落ちました」
「触らなかった?」
「はい」
リオは頷いた。
「待てたな」
その言葉に、胸が少し温かくなる。
私は手紙の水滴も、誰かに取ってもらおうとしているのかもしれない。
母様の言葉へ触れた時。
重すぎる一滴があったら。
村長さん。
リオ。
ミナ。
誰かと待てば、少し流れるかもしれない。
朝食の残りを三人へ出す。
リオは粥を見て言った。
「芋」
「はい」
「最近増えたな」
「私も好きになってきました」
リオが嬉しそうに笑う。
「仲間」
ミナが言う。
「芋だけで仲間意識を持たないでください」
私は笑った。
朝食の間、封書の話はしなかった。
リオが芋の大きさを数え。
ミナが彼の椀だけ多いと指摘し。
ガルドさんが今日の道を説明する。
北西の薪道は、雨で滑りやすい。
今日は、少し遠回りでも石場を多く通る西の高道を使う。
春待ちの根元は通らない。
また見られない。
少し残念。
でも、今日は封書を見る。
一日にすべてはできない。
準備をする。
薬草籠。
記録板。
白い布袋。
中には何も入っていない。
灰色の包み布は、森の家の引き出しにある。
今日、封書を受け取る可能性があるなら。
包み布を持っていかなければならない。
私は引き出しを開けた。
灰色の布。
青い糸。
手を伸ばす。
布を取り出す。
昨日、引き出しへ敷いたばかり。
今日は、村へ戻す。
持ち帰るために。
胸が強く鳴る。
私は布を丁寧に畳み、白い袋へ入れた。
ミナが少し離れて見ている。
「大丈夫ですか」
「はい」
「手が震えています」
私は自分の指を見る。
確かに、少し震えている。
「怖いです」
「はい」
「でも、持っていきます」
リオが何も言わず、ただ頷く。
私は白い袋を自分の小さな手提げへ入れた。
薬草籠とは別。
胸元へ抱えすぎない。
手で持つ。
家を出る前に、畑へ向かった。
「村へ行ってきます」
アオジロウ。
ムラマル。
モリタン。
「今日は、母様の手紙をもう一度見ます」
声が震える。
「受け取るかもしれません」
言ってしまった。
受け取ると決めたわけではない。
でも、可能性を口にした。
「受け取らないかもしれません」
付け加える。
「どちらでも、戻ります」
これが大事。
受け取っても。
受け取らなくても。
森の家へ戻る。
私の生活は続く。
西の高道は、石が多かった。
雨で濡れ、滑りやすい。
ガルドさんが先に進む。
ミナは私の横。
リオは少し後ろ。
私は足元を見た。
一歩。
二歩。
三歩。
灰色の布。
四歩。
封書。
五歩。
母様の字。
六歩。
受け取るか未定。
七歩。
森へ戻る。
途中、石の表面で足が滑りかけた。
ミナが手を伸ばす。
触れる前に止める。
私は頷く。
肘を支えてもらう。
石を越える。
手を離す。
必要な時だけ。
それでいい。
村の西側へ着く。
見張りの若者が丸の合図。
異常なし。
村へ入る。
パンの匂い。
雨で湿った薪の匂い。
水桶の音。
子供たちの声。
今日も村は、封書だけの場所ではない。
共同畑の前で、エマが私を見つけた。
「モリタンの次の葉!」
小声にしようとして、少し声が裏返る。
私は微笑んだ。
「まだ、本葉の兆しです」
「次の手?」
「葉です」
サムが即座に訂正する。
トトが両腕を広げる。
「これくらい?」
「大きすぎます」
ルルが言う。
いつもの笑い。
私は胸の緊張を少しだけ下ろせた。
リーナが私の手提げを見る。
「布、持ってきた?」
「はい」
「手紙、包む?」
子供の直球。
私は正直に答えた。
「まだ分かりません。今日は、もう一度手紙を見ます」
リーナは頷いた。
「見てから」
「はい」
ニコが聞く。
「怖い?」
「はい」
「受け取りたい?」
言葉が詰まる。
私は自分の胸へ聞く。
「少し、受け取りたいです」
初めて、はっきり言った。
子供たちは静かになる。
大人たちも。
「でも、とても怖いです」
続ける。
「だから、見てから決めます」
サムが記録する。
受け取りたい、少し。
怖い、とても。
見てから決める。
エマが小さく言う。
「両方」
「はい」
「両方でいい」
誰に教わったのか。
私たちが何度も繰り返したからか。
その言葉が、今度は子供から返ってくる。
「ありがとうございます」
私は頭を下げた。
今日の授業は短くした。
封書を見る時間がある。
けれど、授業をなくしたくはなかった。
共同畑の赤筋葉の種。
昨日、状態を確認したもの。
今日は、傷のない種を植える畝を作る。
傷のある一つ。
色の薄い二つ。
それらは別の小鉢で発芽試験をする。
「同じ日に植える?」
エマが聞く。
「はい。ただし、場所を分けます」
「悪い種だから?」
「悪いと決めたわけではありません」
「要観察?」
「はい」
サムが書く。
通常畝、二十四。
観察鉢、傷一、淡色二。
同日開始。
比較。
私は種を一つずつ手へ取った。
小さい。
軽い。
手紙より、ずっと軽い。
でも、命が入っている。
土へ置く。
深すぎず。
浅すぎず。
土をかける。
守りすぎると埋まる。
エマが声を出す前に、トトが自分で言った。
「分かってる。土、少し」
バルドさんが腕を組む。
「本当に分かってるなら、手を止めろ」
トトの手には、少し多めの土。
周囲が笑う。
彼は慌てて減らした。
「ぎりぎりだった」
「毎回ぎりぎりだな」
村の日常。
私は種を植えながら、手の感触を確かめた。
この手で。
封書を受け取る。
でも、封書は種ではない。
土へ埋めない。
引き出しへ置く。
育てるのではなく、待たせる。
午前の終わり。
村長さんが広場へ来た。
私を見る。
何も言わない。
ただ、準備ができていると目で伝える。
胸が強く鳴る。
私は手についた土を洗った。
念入りに。
指の間。
爪の中。
封筒を汚さないため。
手を拭く。
白い布袋を確認する。
灰色の包み布。
リオとミナが近くへ来る。
ガルドさんは、村長宅の外で警戒に残る。
私は子供たちを見る。
エマが両手を胸の前で握っている。
ニコ。
ルル。
トト。
サム。
リーナ。
皆、声を出さない。
「行ってきます」
私が言うと。
エマが小声で答えた。
「行ってらっしゃい」
村長宅の仕事部屋。
昨日と同じ机。
地図。
記録簿。
内庭へ向いた窓。
部屋には、私。
村長さん。
リオ。
ミナ。
四人。
決めた通り。
私は白い袋から、灰色の布を取り出した。
手が震える。
机の上へ広げる。
淡い灰色。
青い縁。
角を整える。
しわを伸ばす。
母様の手紙を置く場所。
私は机の前に立った。
リオとミナは、少し後ろ。
近すぎない。
でも、声が届く距離。
村長さんが聞く。
「始めていいかい」
胸が鳴る。
一つ。
吸う。
二つ。
吐く。
「はい」
村長さんが引き出しを開ける。
布に包まれた封書を取り出す。
外側の布を解く。
淡青色の封筒。
深い青の封蝋。
大樹の紋章。
小さな春告げ花の副印。
そして。
フローラへ。
母様の字。
昨日より、落ち着いて見られた。
それでも胸は痛い。
字が少し震えている。
紙の端に、わずかな皺。
村長さんは封書を持ったまま、私を見る。
「置くよ」
「はい」
灰色の布の中央へ。
封書が置かれた。
かすかな紙の音。
それだけ。
でも、部屋の空気が変わった。
母様の手紙が。
私のために用意された布の上にある。
私は動けなかった。
指先が冷たい。
呼吸が浅い。
ミナの声。
「数えましょうか」
私は頷いた。
「一」
ミナが言う。
私は息を吸う。
「二」
吐く。
「三」
机を見る。
「四」
封書は閉じている。
「五」
私は森の家へ戻る。
「六」
受け取らなくてもいい。
「七」
触れるか、自分で決める。
少し息が通る。
私は封書を見つめた。
母様。
どんな気持ちで書いたの。
何を書いたの。
なぜ今。
なぜ、もっと早く来なかったの。
なぜ、あの時、私を止めなかったの。
なぜ、父様の命令を受け入れたの。
私を恐れていたの。
愛していたの。
たくさんの問いが、一気に胸へ押し寄せる。
私は両手を握った。
「触ってみます」
自分から言った。
リオが息を呑む気配。
でも、動かない。
ミナも。
村長さんも待つ。
私は右手を伸ばした。
途中で止まる。
あと少し。
紙の端。
灰色の布。
深い青の封蝋。
指先が震える。
私は右手を戻した。
「一度、戻します」
「いいよ」
村長さんがすぐ答える。
失敗ではない。
触れられなかった。
でも、手を伸ばした。
私は呼吸を整える。
一つ。
二つ。
三つ。
今度は、両手を机の上へ置いた。
灰色の布へ触れる。
まず布。
リーナが縫ってくれたもの。
柔らかい。
知っている感触。
布の上を、少しずつ指先で進む。
封書へ直接ではなく。
布を通って。
青い縁を越え。
淡い灰色の中央へ。
そして。
右手の人差し指が、封筒の端へ触れた。
冷たい。
昨日と同じ。
厚い紙。
母様の手紙。
私は息を止めた。
でも、手を引かなかった。
触れている。
封書に。
母様の字がある紙に。
涙が目の奥へたまる。
「触れました」
声が震える。
「はい」
ミナが答える。
「触れた」
リオも。
村長さんは何も言わない。
私は指を少し動かした。
紙の端。
皺。
封蝋には触れない。
今は、そこまで。
指を離す。
胸が苦しい。
でも、倒れない。
「受け取りますか」
村長さんが聞いた。
決める時。
今日。
今。
私は封書を見る。
灰色の布。
青い糸。
母様の字。
自分の手。
触れられた。
森の家の引き出し。
空けた場所。
持ち帰る手順。
畑。
アオジロウ。
ムラマル。
モリタン。
村のみんな。
全部が胸にある。
読みたい。
怖い。
受け取りたい。
逃げたい。
両方。
私は目を閉じた。
受け取ることと、読むことは違う。
受け取ることと、許すことも。
帰ることも。
母様の願いを引き受けることも違う。
まずは、封書一通。
ただ持つ。
引き出しへ置く。
今日は開けない。
そう決められる。
私は目を開けた。
「受け取ります」
自分の声が聞こえた。
静かだった。
震えていた。
でも、はっきりしていた。
リオが息を吐く。
ミナの目が少し潤む。
村長さんは頷いた。
「分かった」
私は続ける。
「今日は、開けません」
「うん」
「森の家へ持ち帰り、引き出しへ置きます」
「うん」
「もし、途中で怖くなったら」
声が詰まる。
村長さんが言う。
「戻してもいい」
「はい」
「明日、また預けてもいい」
「はい」
「受け取ったから、持ち続けなければならないわけではない」
胸が熱くなる。
「ありがとうございます」
私は灰色の布の左右を持った。
封書へ直接触れすぎないように。
布を折る。
右。
左。
下。
上。
青い糸の縁が、封書を包む。
母様の字が見えなくなる。
深い青の封蝋も。
淡い灰色の四角。
私の手の中にある。
軽い。
本当に軽い。
でも、腕が震える。
白い布袋を開く。
包んだ封書を入れる。
紐を結ぶ。
一度。
固くしすぎない。
解けない程度。
私は白い袋を両手で持った。
「受け取りました」
言った瞬間。
涙が頬を伝った。
悲しいのか。
嬉しいのか。
怖いのか。
分からない。
全部かもしれない。
ミナが聞く。
「手を握ってもいいですか」
私は首を横に振った。
「今は、両手で持ちたいです」
「はい」
自分で持つ。
でも、一人ではない。
リオとミナが後ろにいる。
村長さんが前にいる。
私は封書を受け取った。
それだけ。
まだ、開いていない。
仕事部屋を出る。
廊下。
玄関。
外の空気。
白い袋を両手で持つ。
子供たちが広場で待っていた。
私を見る。
手元の袋を見る。
誰もすぐには声を出さない。
エマが、小さく聞いた。
「受け取った?」
私は頷いた。
「はい」
「読んだ?」
「いいえ」
「これから?」
「今日は読みません」
サムが記録板を持ち上げる。
「書いていい?」
私は少し考え、頷いた。
「はい」
サムが書く。
母からの封書。
フローラ先生、自分で受け取る。
灰色の布。
青糸一本。
白い袋。
未開封。
本日は読まない。
森の家へ持ち帰る。
リーナが袋を見る。
「布、役に立った?」
涙の残る顔で、私は微笑んだ。
「はい。とても」
「手紙、見えなかった?」
「包んだ後は、見えませんでした」
「よかった」
リーナは小さく頷いた。
エマが両手を胸の前に置く。
「重い?」
私は袋を見る。
「紙は軽いです」
「でも?」
「心には、少し重いです」
ニコが言う。
「一緒に持つ?」
その優しさに、胸が熱くなる。
「ありがとうございます。でも、今日は自分で持ちます」
ルルが頷く。
「でも、みんな近く」
「はい」
トトが言う。
「落としそうなら言え」
「はい」
子供たちの言葉。
大人たちの視線。
村全体が、私の両手を見守っているようだった。
群衆は騒がなかった。
祝いでもない。
悲劇でもない。
ただ、一人の娘が母からの手紙を受け取った。
それだけの出来事を、皆が静かに見ていた。
パン屋の女性が、少し離れたところから言った。
「帰る前に、何か食べておきな」
「でも」
「手紙を持ってると、腹が減らないような気がするだろうけどね。体は別だよ」
私は少し笑った。
「はい」
白い袋は、村長さんの家で一時的に机の上へ置いた。
自分の目の届く位置。
リオとミナもいる。
私は昼食を取る。
パン。
根菜のスープ。
芋。
リオは、今日ばかりは芋の数を数えなかった。
何度も私の手元を見る。
「リオ」
「何」
「袋は、逃げません」
「分かってる」
「食べてください」
「うん」
ミナが小さく笑う。
「今日はフローラが確認係ですね」
私はスープを一口飲んだ。
味がする。
温かい。
封書を受け取った後でも。
食べられる。
「食べられました」
小さく言う。
リオが頷く。
「うん」
ミナも。
「はい」
昼食を終える。
帰る準備。
白い袋を両手で持つ。
途中で持ち方を変えられるよう、短い手提げ紐をつけてもらう。
でも、肩には掛けない。
今日は両手で。
村長さんが確認する。
「封は閉じたまま」
「はい」
「布もずれていない」
「はい」
「森へ戻ったら」
「先に家へ入ります。引き出しへ置きます。それから畑を見ます」
「よし」
ガルドさんが経路を確認する。
西の高道。
雨後だが、昼には少し乾いている。
見張り二人。
リオは少し後ろ。
ミナは横。
私は村を出る前、子供たちへ言った。
「行ってきます」
エマが答える。
「行ってらっしゃい」
ニコ。
「落とさないで」
ルル。
「急がないで」
トト。
「両手」
サム。
「未開封で帰宅」
リーナ。
「布、だいじょうぶ」
全部が、私を支える。
村を出る。
白い袋。
両手。
一歩。
二歩。
三歩。
手紙は閉じている。
四歩。
森の家。
五歩。
引き出し。
六歩。
今日は読まない。
七歩。
戻る。
道は滑りやすかった。
私はいつもよりゆっくり歩く。
ミナが横で足元を見る。
リオは後ろから、近づきすぎない距離で見ている。
ガルドさんが先。
知らない足音はない。
白い袋が、歩くたびに少し動く。
中の封書は見えない。
でも、ある。
母様からの手紙。
私の手の中。
途中、一度立ち止まった。
胸が苦しくなったわけではない。
ただ、本当に持っていることを確認したくなった。
白い袋。
紐。
灰色の布。
封書。
「大丈夫ですか」
ミナが聞く。
「はい」
「戻しますか」
選択肢を示してくれる。
私は袋を見つめる。
「いいえ。持ち帰ります」
自分で答えた。
また歩く。
森の家の結界が見える。
胸が強く鳴る。
帰ってきた。
手紙と一緒に。
結界を開く。
ガルドさん。
ミナ。
私。
リオ。
家が見える。
畑も。
でも、決めた通り。
先に家。
玄関を開ける。
「ただいま」
森の家へ言う。
白い袋を持ったまま、机へ向かう。
引き出し。
開く。
灰色の布がない分、中央は木が見えている。
私は白い袋を机へ置いた。
紐を解く。
灰色の包み。
封書は見えない。
包んだまま、両手で持ち上げる。
引き出しの中央へ置く。
ぴたりと収まる。
まるで、最初からそこへ置くために作られた場所のように。
私は手を離した。
封書は、引き出しの中にある。
母様の手紙が。
森の家に。
私の家に。
胸が痛い。
怖い。
でも、家が壊れたようには感じない。
壁も。
暖炉も。
机も。
何も変わらない。
封書一通が来ても、森の家は森の家のままだ。
私は引き出しを閉じた。
かたり。
小さな音。
「置けました」
声が震えた。
ミナが後ろで答える。
「はい」
リオも。
「置けた」
ガルドさんは静かに頷いた。
私は机へ両手を置いた。
涙が一滴落ちた。
木の上へ。
拭う。
「畑を見ます」
決めた通り。
家を出る。
青豆一号。
無事。
アオジロウ。
雨の雫は減っている。
葉は上を向き始めている。
ムラマル。
無事。
モリタン。
本葉候補。
朝より、ほんの少しだけ先が伸びたように見える。
私は畝の前へしゃがんだ。
「ただいま」
三つの芽へ。
「母様の手紙を、受け取りました」
声が震える。
「森の家へ持ち帰りました」
風が葉を揺らす。
「今日は、読みません」
アオジロウ。
ムラマル。
モリタン。
「引き出しへ置きました」
胸へ手を当てる。
「家は、変わりませんでした」
その言葉を口にした瞬間。
涙が次々と出た。
怖かったのだ。
母様の手紙を家へ入れたら。
公爵家まで入ってくる気がした。
父様の怒鳴り声。
母様の泣く声。
怯える使用人。
化け物という目。
全部が森の家へ入り込み、今の暮らしを壊すような気がしていた。
でも、壊れなかった。
畑はある。
芽は育っている。
リオとミナがいる。
ガルドさんがいる。
森の匂い。
小川の音。
暖炉。
全部、そのまま。
母様の手紙は、引き出し一つ分の場所に収まった。
家全部を占めなかった。
私は涙を拭った。
「場所を作っておいて、よかったです」
ミナが静かに言う。
「はい」
リオも。
「手紙、家より小さいな」
少し不器用な言葉。
でも、胸へ届いた。
「はい」
私は笑いながら泣いた。
「とても小さいです」
紙一通。
家より小さい。
畑より小さい。
村より小さい。
私の人生全部より、小さい。
大切かもしれない。
怖いかもしれない。
でも、全部ではない。
その日の夕方。
リオたちが村へ戻る前に、何度も確認した。
「今夜、読まない?」
「はい」
「引き出し、開けない?」
「今は開けません」
「怖くなったら?」
「鳥笛ではなくても、村へ行っていいですか」
ガルドさんが頷く。
「もちろんです。結界外の見張りに声をかけてください」
ミナが言う。
「明日の朝、来ます」
「はい」
リオも。
「絶対来る」
「はい」
「手紙を読んでても、読んでなくても」
胸が温かくなる。
「ありがとうございます」
三人を見送る。
姿が森の道へ消える。
少し寂しい。
でも、今夜は一人ではないような気もする。
母様の手紙があるからではない。
村とのつながりがあるから。
戻れる場所があるから。
夜。
森の家は静かだった。
雨後の葉から、まだ時々雫が落ちる。
私は夕食を作った。
簡単なスープ。
パン。
食べられた。
引き出しは開けなかった。
何度も見た。
でも、開けなかった。
日記帳を取り出す。
封書の入った引き出しとは別の場所で開く。
今日、母様の手紙を受け取った。
灰色の布を机へ広げた。
村長さんが、その上へ封書を置いた。
最初は触れられなかった。
もう一度手を伸ばした。
布を通って、封筒の端へ触れた。
受け取ると決めた。
今日は開けないと決めた。
灰色の布で包んだ。
白い袋へ入れた。
両手で森の家まで持ち帰った。
途中で戻すか聞かれた。
持ち帰ると答えた。
森の家の引き出しへ置いた。
家は変わらなかった。
畑も無事だった。
私はペンを止めた。
家は変わらなかった。
それが、今日一番大きなことだった。
母様の手紙を入れても。
公爵家の過去に触れても。
今の暮らしは消えなかった。
森の家は、母様の手紙より大きい。
村とのつながりも。
畑の時間も。
私がここで生きた日々も。
私は最後に書いた。
母様の手紙を受け取った。
でも、母様の願いを受け入れたわけではない。
公爵家へ帰ると決めたわけでもない。
許したわけでもない。
ただ、一通の封書を受け取った。
今日は、それだけ。
それだけで十分。
日記帳を閉じる。
机の引き出しへ手を置く。
中にある。
母様の手紙。
私は開けない。
でも、逃げもしない。
「おやすみなさい、母様」
引き出しへ言う。
返事はない。
当然だ。
手紙は閉じている。
それでいい。
暖炉の前へ座る。
花守り布を膝へ置く。
三つの芽。
春告げ花のための空白。
私は子守歌を歌った。
森の葉っぱが眠るころ
小さな灯りも目を閉じる
風よ静かに通りゃんせ
夢の小道を通りゃんせ
歌い終える。
窓の外。
雨上がりの森。
雫。
闇。
小川。
「また明日」
青豆一号へ。
雨の重みに耐えたアオジロウへ。
濡れた葉を上げ始めたムラマルへ。
次の葉を伸ばそうとしているモリタンへ。
村のみんなへ。
灰色の布を縫ってくれたリーナへ。
母様の、まだ開かない手紙へ。
そして。
怖いものを自分の家へ迎えても、今の暮らしを失わなかった私へ。
「また明日」
明日も、見ます。




