第56話 青の姫君、手紙を受け取る手を考える
翌朝。
私は、机の引き出しが閉じていることを確認してから、寝台を離れた。
何も入っていない引き出し。
正確には、何も入っていないわけではない。
白い石。
予備の筆。
細い紐。
重ねて置いた紙。
それらは昨日までと同じように入っている。
けれど、中央だけが空いていた。
封書一通分。
母様から届いた、淡青色の封筒を置けるだけの空間。
昨夜、自分で整理して作った場所。
まだ手紙は村長さんの家にある。
だから、そこは空いたままだ。
私は寝台の端へ腰を下ろしたまま、閉じた引き出しを見つめていた。
何も見えない。
けれど、そこに空白があると知っている。
昨日までの私は、母様の手紙が森の家へ入ってくることを想像するだけで、部屋全体が狭くなるように感じていた。
机の上へ置けば、朝も夜も目に入る。
寝台の近くへ置けば、眠るたびに思い出す。
棚へ置けば、薬草を取るたびに青い封蝋が見える。
どこへ置いても、手紙に家を占められる気がした。
けれど今は。
引き出しの中に、小さな場所がある。
目には入らない。
捨ててもいない。
私が自分で開けなければ、手紙は出てこない。
それだけで、少し違った。
私は胸の上へ手を置いた。
「手紙は、まだ村にあります」
朝の確認。
「引き出しには、場所だけがあります」
もう一つ。
「場所を作ったからといって、持ち帰ると決めたわけではありません」
言葉にする。
何度でも。
準備と決定は違う。
包む布を頼むことと、受け取ることも違う。
受け取ることと、開くことも違う。
開くことと、読むことも。
読むことと、信じることも。
許すことも。
帰ることも。
全部、違う。
私は一つずつ選んでいい。
そう思っても、胸の奥には小さな緊張が残る。
今日は、リーナが包み布を完成させるかもしれない。
淡い灰色。
朝霧のような色。
縁に、細い青糸を一本。
手紙を傷めないための布。
私が直接、青い封蝋を見続けなくて済むための布。
完成した布を見たら。
私は手紙を持ち帰りたくなるのだろうか。
それとも、もっと怖くなるのだろうか。
分からない。
私はゆっくり立ち上がった。
窓を開ける。
外は曇っていた。
雨が降りそうな暗さではない。
ただ、空全体に薄い雲が広がり、森へ届く光を柔らかくしている。
風は弱い。
木々の葉が、かすかに揺れていた。
窓をつつく森鳥はいない。
人の気配もない。
鳥の声。
一度。
別の方角から一度。
少し離れて二度。
鳥笛ではない。
私は耳を澄ませ、確認した。
「おはようございます」
森へ向かって言う。
そして少し間を置いて。
「おはようございます、母様」
今日も言えた。
昨日より、自然だった。
自然になっていくことが、少し怖くもある。
母様を呼ぶことへ慣れたら、会いたくなるのではないか。
会いたくなったら、公爵家へ戻りたくなるのではないか。
戻りたいと思ったら、森の暮らしを捨てることになるのではないか。
また、全部が一つにつながろうとする。
私は窓枠へ手を置いた。
「名前を呼ぶことと、会うことは違います」
言葉を分ける。
「会いたいと思うことと、帰ることも違います」
まだ、会いたいと思ったわけではない。
でも、先に分けておく。
言葉の畝。
選択の畝。
心の中に、また一つ筋を作る。
顔を洗い、髪を梳く。
空色の髪。
母様と同じ色。
今日も、櫛は止まらなかった。
母様の手を思い出す。
でも、最後まで梳ける。
髪をまとめる。
花守り布を手に取る。
三つの芽。
アオジロウ。
ムラマル。
モリタン。
春告げ花のために空けた場所。
まだ糸は入っていない。
私はそこへ指先を置いた。
「包み布は、今日できるでしょうか」
鏡の中の自分へ聞く。
答えはない。
「見てから、考えます」
花守り布をかぶる。
「まずは、畑です」
外へ出る。
曇り空の下、森の色はいつもより深く見えた。
木の幹。
濡れていない土。
落ち葉。
苔。
光が弱い分、どれも輪郭がはっきりしている。
私は結界の流れを確認した。
異常なし。
家の周囲。
新しい足跡なし。
北東側の草倒れ。
変化なし。
窓枠には、昨日の森鳥の爪跡がまだ残っている。
それを見て、少し安心した。
怖かった音。
でも、正体を確認できた音。
跡があることで、昨日の怖さを現実の大きさへ戻せる。
青豆一号へ向かう。
曇り空のせいか、葉は少し落ち着いて見えた。
朝露は少ない。
虫害なし。
茎も安定。
「おはようございます」
声をかける。
第二の畝。
アオジロウは、風よけから少し離れた状態でもしっかり立っている。
葉が以前より広くなっていた。
ムラマルも、左右の葉がほぼ同じ角度へ開きつつある。
昨日までわずかにあった左右差が、少し小さくなっていた。
そしてモリタン。
二枚の初葉が完全に開いた、その中央。
ごく小さな新しい突起が見えた。
私は息を呑んだ。
初葉の間。
細い。
まだ葉と呼べる形ではない。
けれど、次の葉になる部分。
本葉の兆し。
「モリタン……」
私は畝の前にしゃがみ込んだ。
「次の葉ですか」
触れない。
顔を近づけすぎない。
光の角度を変えて見る。
昨日はなかった。
少なくとも、見えるほどではなかった。
今朝、初葉の中央から、淡い緑の細い先が出ている。
モリタンは、また次へ進もうとしている。
胸の中が温かくなる。
同時に、少しだけ寂しい。
待っていた芽が出た。
葉が開いた。
今度は本葉。
どんどん変わっていく。
嬉しい。
でも、昨日までの小さなモリタンには戻らない。
変化は、嬉しいものでも戻れなくする。
母様の手紙を読むことが怖い理由と、少し似ている。
知れば、知らなかった自分には戻れない。
けれど、モリタンは変わることを止めない。
私は変わらないままでいることを選べるのだろうか。
選べたとして。
それは本当に私が望むことなのだろうか。
分からない。
私は記録板を開いた。
青豆一号、古い葉離脱後十四日目。
新葉良好。虫害なし。
アオジロウ、風よけ距離拡大後も茎安定。葉展開進む。
ムラマル、初葉の左右差縮小。
モリタン、初葉中央に新葉の兆候。淡緑の突起確認。本葉候補、要観察。
三芽、状態良好。
観察者、手紙を置く場所を作った翌朝。
観察者、包み布の完成を考える。
観察者、変化すると以前の状態へ戻れないことを怖がる。
書き終えた後、私は木板を見つめた。
戻れない。
けれど、すべての変化が悪いわけではない。
モリタンは、芽先だった頃へ戻れない。
でも、葉を開いた。
風を知った。
光を受けた。
本葉を出そうとしている。
青豆一号も、虫食い前の葉へは戻れない。
古い葉は土へ返った。
でも、新しい葉が育った。
戻れないことと、失うことは同じではない。
何かを残しながら、次へ進むこともできる。
私はモリタンを見つめた。
「今日は、要観察ですね」
小さく言う。
まだ本葉と決めつけない。
でも、変化を見落とさない。
手紙も同じ。
包み布ができたからといって、持ち帰ると決めつけない。
けれど、自分の気持ちの変化は見落とさない。
畝の土を確認する。
曇りのため、乾燥はゆるやか。
水やりは不要。
風よけもそのまま。
今日は、大きく手を入れる必要はない。
私は立ち上がり、家へ戻った。
朝食は、薄い野菜スープとパン。
芋は入れた。
リオが来るかもしれないからではなく、私も好きになってきたからだ。
そのことに気づいて、少しだけ笑った。
以前は、食事は生きるためのものだった。
森へ来たばかりの頃。
栄養。
保存。
効率。
魔力回復。
すべて計算していた。
味も整えた。
でも、楽しみとして考えることは少なかった。
今は。
リオが喜ぶから芋を入れる日がある。
自分が温かいものを食べたいから鍋を作る日がある。
子供たちへ話すため、少し違う薬草を使うこともある。
暮らしの中に、人の顔が増えた。
スープを煮る。
玉葱。
芋。
葉野菜。
乾燥肉を少し。
塩。
昨日よりも自然に手が動く。
封書をどこへ置くか。
持ち帰るか。
考えは浮かぶ。
でも、鍋を焦がさない。
味を見る。
少し薄い。
塩を少し足す。
机へ座る。
今日は、母様の手紙が部屋のどこかにいる感じはしなかった。
代わりに、空いた引き出しの存在がある。
見えない。
でも、場所はある。
私はスープを一口飲んだ。
温かい。
芋が柔らかい。
葉野菜の少し苦い味。
母様は、芋が好きだっただろうか。
ふと考えた。
思い出せない。
公爵家の食卓には、もっと華やかな料理が並んでいた。
肉。
魚。
果物。
菓子。
芋も使われていたはずだ。
でも、母様が何を好きだったのか、私は知らない。
母様は私の好きな色や菓子を知っていた。
私の髪飾りを選び。
教師を選び。
服を選んだ。
けれど、私は母様の好きなものをどれくらい知っていたのだろう。
胸が少し痛む。
私はスプーンを置いた。
食欲が消えたわけではない。
ただ、考えが重くなった。
呼吸を数える。
一つ。
二つ。
三つ。
今は朝食。
母様の好きなものが分からない。
それも、今の記録。
決めつけない。
私はまたスプーンを持った。
最後まで食べる。
食器を片づけた頃、結界に気配が触れた。
リオ。
ミナ。
ガルドさん。
私は戸へ向かう前に、机の引き出しを一度見た。
閉じている。
空いている。
それだけ確認する。
扉を開けた。
「おはようございます」
「おはよう」
リオは、いつものように鼻を動かした。
「スープ?」
「はい」
「芋?」
「入っています」
「残ってる?」
「あります」
満足そうな顔。
ミナがため息をつく。
「体調より先に芋ですね」
「匂いが先に来たから」
「フローラ、眠れましたか?」
「はい」
「朝は?」
「窓の音はありませんでした。結界も異常なしです」
「気持ちは?」
少し踏み込んだ問い。
でも、ミナだから答えられる。
「包み布のことを考えました」
「はい」
「それから、母様の好きなものを私はあまり知らないと気づきました」
リオの表情が少し変わる。
ミナは静かに聞く。
「寂しかったですか」
「はい」
私は正直に答えた。
「母様は私のことをたくさん知っていたはずです。でも、私は母様をよく知らないのかもしれません」
言葉にすると、胸が痛む。
リオは何か言おうとして、止まった。
そして慎重に言った。
「子供だったからじゃないか」
私は彼を見る。
「子供は、親に知ってもらう方が多いだろ。親のこと全部知らなくても、変じゃない」
ミナが頷く。
「それに、知る機会がなかったのかもしれません」
「機会」
「はい。フローラは教育で忙しかった。お母様も、公爵夫人としての役割があった。親子であっても、話さなければ分からないことはあります」
私は胸へ手を当てた。
知らなかった。
それは、愛していなかったからではないかもしれない。
知る機会がなかった。
母様も、私へ自分のことを話さなかった。
「手紙に、母様のことが書いてあるでしょうか」
自然に口から出た。
自分で驚く。
昨日までは、何を言われるかが怖かった。
今日、私は母様のことを知りたいと思っている。
ミナが優しく答える。
「書いてあるかもしれません」
「ないかもしれない」
リオが続ける。
「はい」
私は頷いた。
「まだ分かりません」
ガルドさんが周囲を確認し終え、近づいてきた。
「村から報告があります」
空気が少し変わる。
「レナード隊は?」
「南の検問所で記録を確認した後、街道沿いの宿へ戻ったようです。村へ向かう動きはありません」
「そうですか」
少し安堵する。
「封書については、変化ありません。それと、リーナから包み布が完成したとの伝言です」
胸が強く鳴った。
完成。
淡い灰色。
青い糸。
手紙のための布。
私は花守り布の端を握った。
「完成したのですね」
「はい」
「今日、見られますか」
「村へ行けば」
ガルドさんは慎重に答える。
「道の安全は確認できています。ただし、レナード隊が宿へ戻っているため、東側ではなく北西の道を使います」
「分かりました」
ミナが私を見る。
「包み布を見るだけでも大丈夫です」
「はい」
「手紙を受け取らなくても」
「はい」
何度も確認する。
準備と決定は違う。
リオも言う。
「布、見て嫌だったら、使わなくてもいい」
「はい」
「リーナは怒らない」
「分かっています」
それでも、子供が私のために縫ってくれた布を使わない可能性を考えると、少し申し訳なくなる。
でも、その申し訳なさで手紙を受け取ってはいけない。
リーナも、きっと望まない。
自分の選択。
「まず、畑を見てください」
私は三人を第二の畝へ案内した。
リオはモリタンの中央の小さな突起へ気づくまで、少し時間がかかった。
「これ?」
「はい。本葉の兆候だと思います」
「次の葉?」
「まだ要観察です」
「でも次っぽい」
「はい」
ミナは微笑む。
「モリタンは、次へ進む準備を始めたんですね」
胸に残る言葉。
次へ進む準備。
包み布も同じ。
手紙を受け取る準備。
まだ受け取っていない。
でも、準備は始まっている。
リオはアオジロウの風よけも確認した。
「もう少し外してもいい?」
「今日は風が弱いので、外して様子を見ることもできます」
「外す?」
私は少し考えた。
茎は安定している。
風も弱い。
一度、風よけを完全に外してみる。
必要なら戻す。
「今日は外してみます」
木片を抜く。
土が少し崩れる。
周囲を整える。
アオジロウが、遮るもののない風を受ける。
葉が揺れる。
茎は倒れない。
リオが見つめる。
「守り、なくなった」
「いいえ」
私は木片を畝の横へ置いた。
「必要なら、すぐ戻せる場所に置きました」
「完全に捨てたわけじゃない」
「はい。今は使わないだけです」
手紙の包み布も。
作った。
でも、使うかは決めていない。
準備を置いておく。
私は記録板へ書いた。
アオジロウ、風よけ一時撤去。
木片は畝横へ保管。
茎の反応を観察。
モリタン、本葉兆候継続。
観察者、包み布完成の報告を受ける。
観察者、手紙を受け取る手について考える。
手。
受け取る手。
昨日まで私は、置く場所ばかり考えていた。
でも、手紙は誰かから渡される。
村長さんから。
自分の手で受け取る。
その瞬間。
私は何を感じるだろう。
重いのか。
冷たいのか。
母様の手の代わりに感じるのか。
怖くて落とすのか。
受け取れないのか。
包み布を先に広げ、その上へ置いてもらう方法もある。
直接手で受け取らなくてもいい。
また、選択肢。
朝食の残りを三人へ出す。
リオはスープを飲み、満足そうに頷く。
「うまい」
「塩は?」
「ちょうどいい」
ミナも食べる。
「葉野菜の苦みが少しありますね」
「嫌ですか」
「いいえ。芋の甘さと合っています」
ガルドさんは静かに食べながら、今日の経路を説明する。
北西側。
古い薪道。
村の柵裏へ入る。
帰りは状況次第。
私は聞きながら、手紙を受け取る方法を考えていた。
直接。
布の上へ。
村長さんに包んでもらってから。
自分で包む。
受け取らず、布だけ持ち帰る。
今日は布を見るだけ。
選択肢が増える。
増えると迷う。
でも、二つしかないより息ができる。
村へ向かう準備をする。
薬草籠。
記録板。
モリタンの本葉候補の絵。
アオジロウの風よけ撤去。
ムラマルの左右差。
畑へ声をかける。
「村へ行ってきます」
アオジロウの葉が風に揺れる。
風よけはない。
でも立っている。
「包み布を見てきます」
ムラマル。
モリタン。
「手紙を持ち帰るかは、まだ決めません」
はっきり言う。
「戻ります」
北西の道。
東の春待ちの根元は通らない。
少し残念。
でも、今日は包み布。
すべてを一日に見なくていい。
足元。
一歩。
二歩。
三歩。
灰色の布。
四歩。
青い糸。
五歩。
母様の手紙。
六歩。
受け取る手。
七歩。
まだ決めていない。
古い薪道は、落ちた枝が多かった。
ガルドさんが先に足場を確認する。
ミナが横。
リオは少し後ろ。
枝を踏まないよう歩く。
ぱきり。
少し遠くで音がした。
全員が一瞬止まる。
ガルドさんが手を上げる。
耳を澄ます。
もう一度。
葉が擦れる。
小さな獣の影が走る。
狐に似た森獣。
異常なし。
私は息を吐いた。
確認。
今日も、怖さを現実の大きさへ戻せた。
村の柵裏へ着く。
見張りの女性が丸の合図を出す。
異常なし。
村へ入る。
共同畑の前。
子供たちが待っている。
エマは私を見るなり、小声で聞いた。
「モリタン、次の手出た?」
「手ではなく、葉です」
サムが真面目に訂正する。
エマは頬を膨らませる。
「分かってるよ!」
私は微笑んだ。
「次の葉らしいものが、見え始めました」
子供たちが喜ぶ。
トトが両腕を広げる。
「次はこれくらい?」
「大きすぎます」
ルルが即答した。
笑いが広がる。
リーナはいつもの位置にいた。
膝の上に、薄い布を置いている。
淡い灰色。
縁に、細い青糸。
包み布。
私は足を止めた。
遠くからでも分かった。
目立たない。
静か。
でも、縁の青が確かにある。
母様の色。
私の髪の色。
森の朝の空の色。
リーナが立ち上がらず、布を膝に置いたまま言った。
「できた」
小さな声。
「見てもいい?」
私へ聞いている。
勝手に差し出さない。
私は頷いた。
「はい」
近づく。
一歩。
二歩。
胸が強く鳴る。
布だけ。
手紙はない。
それでも、封書が包まれた姿を想像してしまう。
リーナは両手で布を持ち上げた。
四角い布。
柔らかい灰色。
縁を一周する青い糸。
刺繍はない。
花も。
名前も。
ただ、一本の青い線だけ。
「とても綺麗です」
私は言った。
声が少し震えた。
「派手じゃない?」
「はい」
「手紙、見えなくなる?」
「包めば、見えなくなると思います」
リーナが頷く。
「でも、青い糸で分かる」
「何がですか」
「大事なもの」
胸が痛む。
大事。
母様の手紙は、大事なのだろうか。
怖い。
でも、捨てたくない。
気になる。
母様の字がある。
大事だと認めるのが怖かった。
大事だと認めれば、母様をまだ愛していると認めることになる気がした。
愛しているなら、許さなければならないのか。
帰らなければならないのか。
また全部がつながろうとする。
私は呼吸を数えた。
一つ。
手紙が大事。
二つ。
だからといって許すとは限らない。
三つ。
大事なものが怖いこともある。
四つ。
大事に包んでも、開けなくていい。
私は布へ手を伸ばした。
触れる前に止める。
「触ってもいいですか」
リーナへ聞く。
「うん」
指先で、灰色の布へ触れた。
柔らかい。
少し厚い。
封蝋を傷つけないよう、二枚の薄布を重ねているらしい。
縁の青糸は、本当に細い。
近づかなければ見えないほど。
「ありがとうございます」
私は両手で布を受け取った。
軽い。
何も包まれていないから。
でも、胸には重い。
手紙を受け取ったわけではない。
布だけ。
それでも、自分の手の中に、母様の手紙のための場所がある。
涙が目の奥へ浮かぶ。
リーナが心配そうに見る。
「嫌だった?」
「いいえ」
私は首を横に振った。
「嬉しいです」
「怖い?」
「はい」
「両方?」
「はい。両方です」
ニコが小さく頷く。
「両方記録」
サムが書く。
包み布完成。
淡灰色。
青糸一本。
フローラ先生、嬉しい。
怖い。
両方。
持ち帰るか未定。
私はその記録を見た。
持ち帰るか未定。
まだ守られている。
リーナが聞く。
「布は持って帰る?」
手紙ではなく。
布。
私は少し考えた。
布だけなら。
机の引き出しへ置ける。
手紙の場所へ、先に布を置く。
それは、封書を受け取る決定ではない。
「はい」
私は答えた。
「布は、森の家へ持ち帰ります」
リーナの顔が明るくなる。
「手紙は?」
「まだ、村長さんに預かっていただきます」
「うん」
すぐに納得する。
急かさない。
私は灰色の布を丁寧に畳んだ。
薬草籠へ入れるのは違う気がした。
薬草の匂いが移る。
私は胸元へ抱えた。
ミナが小さな布袋を出してくれる。
「こちらへ入れますか」
「はい」
灰色の包み布を、さらに白い布袋へ入れる。
目立たない。
守られる。
「今日は、包み布だけが森の家へ行きます」
私は自分へ確認するように言った。
エマが頷く。
「手紙はまだ村」
「はい」
「でも場所は森」
「はい」
子供たちは、それを不思議がらなかった。
場所だけ先に行く。
モリタンの余白で、皆が覚えたことだから。
今日の授業は、自然と「受け取る前に確認すること」になった。
共同畑へ、新しい種が届いていた。
隣村から分けてもらった、赤筋葉の種。
小さな布袋に入っている。
まだ植えない。
まず、種の状態を見る。
数。
色。
傷。
湿り。
匂い。
「もらったら、すぐ植えないの?」
エマが聞く。
「状態を確認します」
「くれた人、信用しない?」
「信用していても、確認します」
私は答えた。
「贈った人が悪くなくても、運ぶ途中で湿ることがあります。袋が破れることもあります」
サムが書く。
信用と確認は別。
胸に響く。
母様を信じるか。
信じないか。
まだ分からない。
でも、手紙の外側を確認した。
差出人。
封印。
副印。
受け取る前にも、確認していい。
「受け取ったら、全部使う?」
ニコが聞く。
「いいえ。状態の悪い種は分けます」
「返す?」
「事情によります。まず記録して、贈ってくれた人へ伝えます」
「言いにくい?」
「はい。言いにくいこともあります」
ルルが聞く。
「でも言う?」
「必要なら」
私は種袋を開く前に、皆へ見せた。
封を確認。
誰から。
いつ届いたか。
何が入っていると書かれているか。
外側を見る。
母様の封書と同じ。
でも、中身は赤筋葉の種。
私は少し笑った。
「手紙みたいですね」
エマが言う。
広場が一瞬静かになる。
私は頷いた。
「そうですね」
「開ける?」
「こちらは、開ける準備ができています」
「お母さんの手紙は?」
「まだです」
「違う?」
「はい。中に何があるかと、自分の準備が違います」
サムが書く。
同じ封でも、開ける準備は違う。
私は種袋の紐を解いた。
中の種を白い布の上へ出す。
赤い筋の入った小さな種。
数える。
二十七。
一つ、表面に傷。
二つ、少し色が薄い。
湿りなし。
異臭なし。
すぐに植えるもの。
別に観察するもの。
分ける。
受け取ったものを、全部同じように扱わない。
ニコが言う。
「手紙の言葉も分ける」
私は頷いた。
「読む時には、そうするかもしれません」
「傷ある言葉?」
「あるかもしれません」
「植えない?」
「自分の心へ残さないこともできます」
エマが小さく言う。
「でも、見たら痛い?」
「はい」
正直に答える。
「見るだけで痛い言葉もあります」
「じゃあ、一人で見ない」
「はい」
もう決めている。
村長さん。
リオ。
ミナ。
一緒に。
昼前、赤筋葉の種を記録し、状態の良いものだけ別袋へ入れた。
傷のあるものは捨てない。
小さな皿へ分け、発芽するか試す。
色の薄いものも同じ。
すぐ駄目と決めつけない。
でも、同じ畝へは入れない。
要観察。
村の大人たちも、子供たちの後ろで話を聞いていた。
パン屋の女性が言う。
「受け取るってのも、なかなか手間だねえ」
バルドさんが腕を組む。
「もらったからって、そのまま飲み込む必要はねえ」
彼の言葉は、私へ向けられているようにも聞こえた。
私は小さく頭を下げた。
「はい」
昼食の後、村長さんの家へ行った。
今日は封書を見るつもりはない。
手紙を受け取るつもりもない。
でも、包み布を持ち帰ると報告したかった。
村長さんの仕事部屋。
封書は引き出しの中。
見えない。
私は白い布袋に入った包み布を、机の上へ置いた。
「リーナが、作ってくれました」
村長さんが布袋から灰色の布を出す。
縁の青糸を見る。
「よい布だ」
「はい」
「これで包んで持ち帰るかい」
胸が強く鳴る。
直接的な問い。
でも、声は急かしていない。
私は封書の入った引き出しを見る。
まだ見えない。
「今日は、包み布だけ持ち帰ります」
「分かった」
すぐ頷く。
「手紙は、もう少し預かってください」
「もちろんだ」
私は息を吐いた。
「それと」
「うん」
「手紙を受け取る時、直接手渡してもらうのが怖いかもしれません」
自分で言えた。
「なら、机へ置こう」
「はい」
「包み布を広げ、その上へ私が置く」
「はい」
「君は、触れられそうなら触れる。無理なら、その日は受け取らない」
道ができる。
具体的な動き。
包み布を広げる。
村長さんが封書を置く。
私が触れるか決める。
「それがいいです」
私は頷いた。
「受け取る前に、もう一度母様の字を見ます」
「うん」
「封蝋も」
「うん」
「それから、決めます」
「分かった」
リオとミナは少し離れて聞いていた。
リオが言う。
「俺たちは?」
「そばにいてください」
「どのくらい?」
距離を聞く。
私が選べるように。
「机の反対側ではなく、少し後ろに」
「分かった」
ミナが聞く。
「手を握った方がいいですか」
「その時に聞いてください」
「はい」
村長さんが静かに言う。
「受け取る手順が決まったな」
手順。
合図と同じ。
怖い時に迷わないためのもの。
手紙を受け取るための合図。
場所。
人。
動き。
私は胸に手を当てた。
「はい」
「受け取る日は?」
「まだ決めません」
「それでいい」
私は頭を下げた。
今日、手紙を受け取らなかった。
でも、受け取る手順を決めた。
また半歩。
午後、共同畑へ戻る。
赤筋葉の種の記録。
リーナは花守り布のモリタンへ、本葉の兆しを縫い足すか迷っていた。
「まだ小さい」
「はい。まだ要観察です」
「じゃあ、糸だけ選ぶ」
淡い緑。
少し黄みのある緑。
並べる。
縫わない。
準備だけ。
今日の村は、準備ばかりだった。
包み布。
種の確認。
糸の選択。
手紙の受け取り方。
どれも、まだ本番ではない。
でも、何もしていないわけではない。
夕方前。
村を出る。
包み布は白い布袋に入れ、私が自分で持つことにした。
薬草籠とは別。
胸元に近い、小さな手提げ。
軽い。
布一枚。
それでも、何度も存在を確認してしまう。
手紙ではない。
包み布だけ。
私は歩きながら数えた。
一歩。
二歩。
三歩。
包み布。
四歩。
手紙は村。
五歩。
受け取る手順。
六歩。
受け取る日は未定。
七歩。
森へ戻る。
途中、小さな雨粒が一つ頬へ落ちた。
空は曇っている。
すぐに雨になるほどではない。
ガルドさんが空を見る。
「夜に少し降るかもしれません」
「畑は」
「今の湿りなら問題ありません」
「はい」
森の家へ着く。
結界。
家。
青豆一号。
三芽。
土。
虫。
確認。
アオジロウは風よけなしでも立っている。
茎に異常なし。
ムラマルも。
モリタンの中央の突起も、朝と変わらない。
「ただいま」
私は畝の前へしゃがんだ。
白い布袋を膝へ置く。
「今日は、手紙を包む布だけ持ち帰りました」
袋から灰色の布を出す。
畑の前で広げる。
淡い灰色。
細い青。
「手紙は、まだ村長さんのところです」
風が布の端を揺らす。
「受け取る方法を決めました」
アオジロウ。
ムラマル。
モリタン。
「布の上へ置いてもらいます。触れるかどうかは、その時に決めます」
声が少し震える。
「受け取れない日があっても、戻します」
灰色の布を丁寧に畳む。
「それでいいと言ってもらえました」
胸が少し温かい。
夜。
雨が、本当に少しだけ降り始めた。
屋根を叩くほど強くはない。
細い雨。
葉の上へ落ちる。
森全体に、ささやくような音が広がる。
私は机の前に座った。
引き出しを開ける。
中央の空白。
白い布袋から、灰色の包み布を取り出す。
広げる。
引き出しの中へ敷く。
淡い灰色が、木の色の中へ収まる。
縁の青糸が、細い線を作る。
手紙はない。
でも、場所が少し具体的になった。
空白の上に、布がある。
私は指先で布を撫でた。
柔らかい。
ここへ、母様の手紙が来るかもしれない。
来ないかもしれない。
私が決める。
引き出しを閉じる。
日記帳を開く。
今日、窓の音はなかった。
母様へおはようと言った。
母様の好きなものを私はあまり知らないと気づいた。
寂しかった。
モリタンに、本葉らしい兆しが見えた。
アオジロウの風よけを外した。
必要なら戻せる場所へ置いた。
リーナの包み布が完成した。
淡い灰色。
青糸一本。
布だけ、森の家へ持ち帰った。
手紙はまだ村長さんのところ。
手紙を受け取る方法を決めた。
包み布を机へ広げる。
村長さんが封書を置く。
私は触れるか決める。
無理なら受け取らない。
リオとミナは少し後ろにいる。
まだ日付は決めていない。
私はペンを止めた。
受け取る手。
これまで私は、差し出されたものを受け取るのが当然だった。
公爵令嬢として。
贈り物。
花。
宝石。
釣書。
教師から渡される本。
父様の命令。
母様が選んだ服。
使用人が持ってくる食事。
受け取るかどうかを考えることは少なかった。
与えられる。
受け取る。
当然。
でも今は違う。
母様からの手紙。
私は受け取るか、自分で決めていい。
手を伸ばすか。
伸ばさないか。
触れるか。
戻すか。
全部、選べる。
私は最後に書いた。
受け取るとは、相手の望みを全部引き受けることではない。
手紙を持つことと、言葉に従うことは違う。
私は、封書一通だけを受け取ることができる。
母様の後悔も。
公爵家の都合も。
帰ってほしいという願いも。
そこに書かれているかもしれないすべてを、同時に背負う必要はない。
まずは、紙一通。
それさえ、まだ決めなくていい。
日記帳を閉じる。
雨音が続いている。
私は引き出しへ手を置いた。
開けない。
中には包み布だけ。
手紙はない。
「場所はできました」
小さく言う。
「手も、少しずつ考えています」
暖炉の前へ移る。
花守り布を膝へ置く。
三つの芽。
春告げ花のための空白。
私は子守歌を歌った。
森の葉っぱが眠るころ
小さな灯りも目を閉じる
風よ静かに通りゃんせ
夢の小道を通りゃんせ
歌い終えた後。
「おやすみなさい、母様」
今日も言えた。
「手紙は、まだ村にあります」
確認する。
「でも、包む布はここにあります」
雨の向こうへ。
村へ。
母様へ。
「また明日」
青豆一号へ。
風よけを外して立ったアオジロウへ。
左右の葉を整え始めたムラマルへ。
次の葉を準備しているモリタンへ。
村のみんなへ。
リーナが縫ってくれた灰色の包み布へ。
母様の、まだ受け取っていない手紙へ。
そして、差し出されたものへ伸ばす手を、自分で選ぼうとしている私へ。
「また明日」
明日も、見ます。




