第55話 青の姫君、手紙を置く場所を考える
翌朝。
私は、窓を叩く小さな音で目を覚ました。
こつ。
少し間を置いて。
こつ、こつ。
硬いものが、硝子へ軽く触れているような音だった。
目を開ける。
まだ部屋は薄暗い。
夜明けの光が、窓の向こうで森の輪郭をようやく浮かび上がらせ始めている。
私は寝台の中で息を潜めた。
こつ。
もう一度。
鳥だろうか。
枝だろうか。
それとも。
胸が一瞬だけ強く鳴った。
誰かが窓を叩いている。
そんな考えが、眠りの名残を押しのけて頭へ入り込む。
公爵家の使い。
レナード。
母様の手紙。
名前を呼ばれる声。
私は布団の下で両手を握った。
けれど、すぐには起き上がらなかった。
聞く。
数える。
見る。
決めつけない。
何度も村で繰り返した言葉を、心の中でなぞる。
こつ。
一回。
こつ、こつ。
二回。
音は窓の上側からしている。
人の指なら、もう少し低い位置だろう。
足音はない。
結界にも反応はない。
私はゆっくり寝台から起き上がった。
床へ足を下ろす。
一つ、息を吸う。
二つ、吐く。
三つ、窓を見る。
薄暗い硝子の向こう。
何か、小さな影が動いた。
胸がまた跳ねた。
けれど次の瞬間。
白い腹。
細い脚。
丸い目。
小さな森鳥が、窓の外枠へ止まっているのが見えた。
嘴で硝子をつついている。
こつ。
鳥は首を傾げた。
硝子に映る自分を、別の鳥だと思っているのだろうか。
私はしばらく呆然とした後、肩から力を抜いた。
「鳥でした」
誰もいない部屋で言う。
森鳥は、私の声が聞こえたのか、さらに首を傾げた。
「おはようございます」
小さく挨拶する。
鳥は答えず、また硝子を一度つついた。
そして、羽を広げる。
白い腹が朝の空気に浮かび、木々の間へ消えていった。
私は窓の前へ立ったまま、しばらくその姿を追った。
怖かった。
けれど、確認できた。
知らない人ではなかった。
鳥だった。
胸に残った緊張は、すぐには消えない。
それでも、私は窓を開けた。
冷たい朝の空気が部屋へ入り込む。
森の湿った匂い。
土。
木の葉。
遠くの小川。
いつもの朝。
「今日も、ここにいます」
私は窓の外へ言った。
そして、少し迷った後。
「おはようございます、母様」
今日も、その言葉を口にした。
昨日より自然に。
けれど、胸の奥が何も感じないわけではない。
母様の字。
フローラへ。
青い春告げ花の印。
冷たい封筒の感触。
まだ閉じられたままの中身。
それらは、今日も胸にある。
私は窓を開けたまま、しばらく森を見た。
母様の手紙は、村長さんの家にある。
私から離れた場所に。
それが安心だった。
見たくなければ、見なくて済む。
夜、急に怖くなっても、手の届く場所にはない。
勢いで封を割ることもない。
けれど。
昨日、春待ちの根元を見た後から、少しだけ別の気持ちが生まれていた。
母様の手紙を、いつまでも村長さんへ預けたままでいいのだろうか。
私宛ての手紙。
母様が私へ書いたもの。
怖い。
読みたくない。
でも、自分の手元へ置きたい気持ちもある。
封を開けなくても。
机の引き出しへしまうだけでも。
自分の家へ持ち帰る。
それは、手紙を受け入れることになるのだろうか。
母様を許したことになるのだろうか。
帰ると決めたことになるのだろうか。
違う。
そう思いたい。
でも、胸の中では、まだ全部がつながってしまっている。
手紙を持つ。
読む。
返事をする。
会う。
帰る。
許す。
一つを選べば、全部が続いてくるような怖さ。
私は窓枠へ手を置いた。
朝露で少し冷たい。
「まだ、一つずつでいいです」
声に出す。
手紙を持つことと、読むことは違う。
読むことと、返事をすることも違う。
返事をすることと、帰ることは違う。
帰ることと、許すことも違う。
全部、別の選択。
そう考えれば、少し息ができる。
私は寝台を整え、顔を洗い、鏡の前へ座った。
髪を梳く。
一度。
二度。
三度。
今日も、母様の手を思い出した。
けれど、櫛は止まらなかった。
空色の髪をまとめる。
花守り布を手に取る。
三つの芽。
その外側に残された空白。
春告げ花を縫うかもしれない場所。
私はそこへ指先を置いた。
「手紙を置く場所も、必要でしょうか」
鏡の中の自分へ聞く。
森の家の中なら。
机の引き出し。
日記帳のそば。
それとも、目に入らない箱の中。
置く場所を考える。
まだ持ち帰ると決めたわけではない。
でも、もし持ち帰るなら。
どこなら怖すぎないか。
どこなら、急に開けたくなっても一度立ち止まれるか。
どこなら、母様の手紙に家全体を占められずに済むか。
私は花守り布をかぶった。
「まずは、畑です」
いつもの言葉。
外へ出る。
朝の森は、薄い金色に染まり始めていた。
木々の高い枝へ光が当たり、地面には長い影が伸びている。
鳥の声。
一度。
二度。
遠くで三度。
別の鳥。
鳥笛ではない。
私は確認した。
結界。
異常なし。
家の周囲。
足跡なし。
北東側の草倒れ。
変化なし。
窓をつついた鳥が残した、小さな爪跡だけが外枠にあった。
私は指で触れた。
本当に鳥だった。
怖さの後に、確認できる跡がある。
それだけで少し安心する。
青豆一号へ向かう。
新葉は良好。
朝露が葉の縁に並んでいる。
虫害なし。
茎もしっかりしている。
「おはようございます」
声をかける。
第二の畝。
アオジロウ。
昨日、風よけを少し外側へ動かした。
葉は自然の風を受けながらも、倒れていない。
茎が以前より太くなっている。
ムラマル。
葉がさらに開いた。
まだアオジロウより小さい。
でも、左右へきちんと広がっている。
モリタン。
二枚の葉が、朝の光を受けていた。
小さい。
柔らかい。
けれど、完全に開いている。
昨日、掌を開いたようだと思った。
今日は、その掌へ朝日を受け止めているように見えた。
私はしゃがみ込んだ。
「おはようございます」
三人へ声をかける。
「今日も、全員いますね」
胸の奥が温かくなる。
私は記録板を開いた。
青豆一号、古い葉離脱後十三日目。
新葉良好。虫害なし。
アオジロウ、風量増加後も茎安定。風よけ位置維持。
ムラマル、初葉展開進む。左右差わずか。
モリタン、初葉二枚、完全に開く。朝日を受ける。
三芽、状態良好。
観察者、窓の音を人と疑う。確認すると森鳥。
観察者、母の手紙を自分の家へ置く場所を考え始める。
書き終えた後、私はしばらく最後の一文を見つめた。
自分の家へ置く場所。
まだ、持ち帰るとは書かなかった。
考え始める。
それだけ。
でも昨日まで、手紙は村長さんが預かるものだった。
私の外側に置いておくもの。
今日、初めて。
自分の家へ置く可能性を考えた。
小さな変化。
モリタンの葉が、昨日より少し開いたように。
私は畝の土を確認した。
水分は十分。
今日は水やり不要。
アオジロウの風よけも動かさない。
ムラマルもモリタンも、支えは必要ない。
何かをしたくなる。
手を加えたくなる。
でも、今は必要ない。
見るだけ。
記録するだけ。
手紙も、今日は考えるだけでいい。
私は立ち上がり、家へ戻った。
朝食は、昨日残した芋とパン。
それから卵。
今日は少し厚めの卵焼きにする。
卵を二つ割る。
一つ目は綺麗に割れた。
二つ目は少し殻が入った。
指で取る。
塩。
乾燥薬草を少し。
よく混ぜる。
平鍋へ流す。
じゅう、と音。
表面が固まる前に、ゆっくり折る。
以前、使用人が作ってくれたものより形は悪い。
でも、食べられる。
自分で作った朝食。
机へ座る。
母様の手紙を置くなら、どこだろう。
食べながら、部屋を見回す。
机の引き出し。
一番自然。
でも、日記帳を開くたび、手紙の存在を感じることになる。
棚の奥。
見えにくい。
けれど、何かを取るたびに思い出す。
寝台の下の箱。
目には入らない。
でも、眠る場所のすぐ近く。
暖炉のそば。
紙だから危険。
薬草箱の中。
匂いが移る。
私は卵焼きを一口食べた。
味は悪くない。
でも、頭の中では家の中へ手紙を置いて回っている。
「まだ、決めなくていいです」
自分へ言う。
手紙は、まだ村にある。
今日持ち帰る必要はない。
場所を想像するだけ。
パンをちぎる。
卵焼き。
芋。
食べる。
味が分かる。
私は朝食を最後まで食べた。
片づける。
机の引き出しを一度開けてみる。
中には、日記帳とは別の紙。
予備の筆。
細い紐。
白い石。
少し整理すれば、封書一通を置ける場所はある。
私は引き出しを閉めた。
今は、それだけ。
結界に気配が触れた。
リオ。
ミナ。
ガルドさん。
私は手を拭き、戸へ向かった。
「おはようございます」
扉を開ける。
リオは、すぐに鼻を動かした。
「卵?」
「はい」
「芋も?」
「あります」
「残ってる?」
「少し」
リオの顔が明るくなる。
ミナが兄を見て、ため息をついた。
「毎朝、食べ物の確認からですね」
「大事だから」
「フローラの体調も聞いてください」
「あ」
リオが私を見る。
「眠れた?」
「はい」
「怖くなった?」
「朝、窓を叩く音がしました」
リオの表情が急に硬くなる。
「誰かいたのか」
「鳥でした」
「鳥」
「はい。確認できました」
リオは大きく息を吐いた。
「よかった」
ミナが静かに聞く。
「すぐ鳥だと分かりましたか」
「いいえ。最初は、人かもしれないと思いました」
「それでも、確認できた」
「はい」
ガルドさんが窓の外枠を見に行き、小さな爪跡を確認した。
「森鳥ですね。問題ありません」
「はい」
私は頷いた。
鳥。
確定。
怖さが現実の大きさへ戻る。
三人を畑へ案内する。
リオはアオジロウの茎を見て言った。
「太くなった」
「はい」
「風増やしても大丈夫だったな」
「はい」
ムラマルを見る。
「こっちも開いた」
「はい」
モリタン。
リオが笑う。
「完全に手、開いたな」
「はい」
ミナも微笑む。
「日を受け止めていますね」
私は頷いた。
「そのように見えます」
三つの芽を見ている時間。
母様の手紙のことは消えない。
でも、前へ出すぎない。
畑の後ろに、静かにある。
ガルドさんが周囲を確認した後、報告した。
「レナード隊は、街道南側の検問所へ向かったようです」
「検問所?」
リオが眉を寄せる。
「何をしに」
「公爵領内の通行記録を調べている可能性があります。フローラ殿が森を出た形跡を探しているのでしょう」
胸が少し強張る。
「村へ来る予定は」
「今のところ確認されていません」
「そうですか」
安堵。
しかし、彼らは捜索を続けている。
無理に村へ入らない。
でも、諦めてもいない。
レナード。
まだ分からない人。
「村長さんから、何かありますか」
「封書については、変わらず預かるとのことです。それから、レナード隊から村長宛てに短い伝言が届きました」
胸が強く鳴る。
「伝言」
「はい」
リオの表情が険しくなる。
ミナが静かに私の横へ立つ。
「内容は」
私が聞くと、ガルドさんは慎重に答えた。
「急いで返答を求めるつもりはない。本人が望まない限り、村へ立ち入らない。封書を読んだかどうかも尋ねない、と」
沈黙。
風が木々を揺らす。
モリタンの葉がかすかに動く。
「尋ねない」
私は繰り返した。
「はい」
「でも、捜索は続けるのですね」
「おそらく」
リオが低く言う。
「綺麗なこと言ってても、探してるじゃないか」
ガルドさんは否定しなかった。
「その通りです」
リオは拳を握った。
けれど、以前のようにすぐ怒りを大きくしない。
「信用できない」
「信用する必要はありません」
ガルドさんが言う。
「ただ、相手が何を言ったかは記録できます」
私は頷いた。
危害を加える意図はない。
無理に会わない。
返答を急がせない。
封書を読んだか尋ねない。
言葉だけなら、穏やか。
でも、捜索は続く。
両方がある。
「決めつけません」
私は言った。
「でも、安心もしません」
「それでよいと思います」
ガルドさんが頷く。
ミナが聞いた。
「今日は村へ行きますか」
私は少し考えた。
昨日、封書は見なかった。
今日は、手紙を置く場所を考え始めた。
村へ行けば、封書が近くにある。
持ち帰るかもしれない。
その選択が目の前に来る。
怖い。
でも、村へは行きたい。
子供たちへ、モリタンが完全に葉を開いたことを伝えたい。
春待ちの根元にも寄りたい。
ただし、安全なら。
「行きたいです」
私は答えた。
「でも、今日は封書を見るとは決めていません」
「分かりました」
ミナが頷く。
リオも。
「村は手紙だけの場所じゃない」
以前、ミナが言ったことを、リオが口にした。
私は少し驚き、そして微笑んだ。
「はい」
朝食の残りを三人へ出した。
リオは卵焼きを食べて、少し首を傾げた。
「形、変だな」
「食べられないですか」
「いや、うまい」
ミナが言う。
「形の感想は不要です」
「見たまま言っただけ」
「フローラ、気にしなくていいです」
私は笑った。
「確かに、形は少し歪んでいます」
「でも味はいい」
リオがもう一切れ食べる。
「なら、いいです」
形が歪んでいても。
少し焦げていても。
食べられる。
封書との向き合い方も、綺麗でなくていいのかもしれない。
泣く。
逃げる。
近づく。
離れる。
また見る。
迷う。
形は整っていない。
でも、自分の速さで進んでいる。
村へ向かう準備をする。
今日は、春待ちの根元を通る東寄りの道が安全だと確認された。
ただし、長く立ち止まらない。
薬草籠。
記録板。
モリタンの葉の絵。
アオジロウの茎。
ムラマルの左右差。
それぞれの記録。
私は森の家を出る前に、一度机の引き出しを見た。
閉じたまま。
もし手紙を持ち帰るなら。
ここへ置くかもしれない。
でも、今日はまだ決めない。
「行ってきます」
家へ言う。
畑へ。
三つの芽へ。
「戻ります」
東寄りの道。
朝より日が高い。
森の中には、細い光が何本も差し込んでいる。
足元。
一歩。
二歩。
三歩。
鳥の声。
風。
母様の手紙。
机の引き出し。
四歩。
春待ちの根元。
五歩。
村。
六歩。
戻る。
春待ちの根元へ近づく。
昨日記録した白樹の曲がった根。
三つ岩。
淡い青の花。
私は足を止めた。
ガルドさんが周囲を確認する。
丸。
異常なし。
春告げ花は、今日もそこにあった。
三つの花。
一つの蕾。
けれど。
昨日まで閉じていた蕾が、わずかに開き始めている。
先端に淡い青が見える。
私はしゃがみ込んだ。
「開き始めています」
ミナも少し離れて見る。
「昨日より膨らんでいますね」
リオが言う。
「四つ目」
「まだ、花ではありません」
「でも出そう」
「はい」
待っていた蕾。
まだ咲いていない。
でも、開き始めている。
モリタンの発芽を待っていた時のことを思い出す。
場所を空けた。
急がせなかった。
掘らなかった。
そして、出た。
手紙も。
封を開ける時を、急がせなくていい。
でも、私の中の蕾は、少しずつ動いているのかもしれない。
私は記録板へ書いた。
春待ちの根元。
開花三。
蕾一、先端に淡青色確認。
開花準備と推測。
採取せず。
観察継続。
観察者、母の手紙を自宅へ置く場所を考えている。
書き終え、花を見つめる。
開くか。
まだ閉じるか。
蕾は、自分の時間で決める。
「今日も摘みませんか」
ミナが聞いた。
「はい」
「場所を覚えているから?」
「はい」
私は頷いた。
「ここで咲くところを見たいです」
持ち帰れば、いつでも見られる。
でも、根から離せば、この蕾がどう咲くかは分からない。
今は、場所へ来る。
また見る。
それがいい。
村へ向かう。
東側の見張りが丸の合図を出す。
異常なし。
村の中へ入る。
パンの匂い。
薪を割る音。
井戸の滑車。
子供たちの声。
今日も、村は封書だけの場所ではない。
共同畑の前で、エマたちが待っていた。
「モリタンの手!」
私を見るなり、エマが小声で言った。
「完全に開きました」
「やった!」
両手を大きく開く。
ニコも真似する。
ルルは静かに掌を上へ向ける。
トトはなぜか両腕を広げる。
「それは手ではなく、体全体です」
サムが真面目に指摘する。
「広く開いた方がいいだろ」
「記録が違う」
周囲に笑いが起こる。
リーナは花守り布を見た。
「モリタンの葉、広げていい?」
「はい」
「どのくらい?」
私は本物の葉の形を、木板に描いた。
左右へ開いた、小さな二枚。
リーナは糸で少しずつ形を直す。
これまで芽先だけだった刺繍。
そこへ、二枚の葉が増える。
布の中のモリタンも、育っていく。
サムが記録する。
モリタン、初葉完全展開。
花守り布、刺繍更新。
エマ、全身で表現。
「全身はトト!」
エマが抗議する。
「エマも両手を大きく開いた」
「手だから!」
また笑い。
私はその声を聞きながら、胸が温かくなる。
母様の手紙が村長宅にある。
レナードが捜索を続けている。
それでも、村ではモリタンの葉が大きな出来事になる。
日常を奪わせない。
今日の授業は、「置く場所」についてになった。
始まりは、リーナの糸箱だった。
新しい色が増え、箱の中が少し混み合っている。
同じ緑でも、淡いもの。
濃いもの。
白に近いもの。
黄色を含むもの。
糸が絡み始めていた。
「整理する?」
エマが聞く。
リーナは頷いた。
「色ごとに置きたい」
子供たちと一緒に、小さな仕切りを作る。
木片。
厚紙。
布。
淡い色。
濃い色。
花用。
葉用。
土用。
名前札用。
「置く場所があると、探しやすい」
サムが言う。
「はい」
私は答えた。
「なくさないためにも、置く場所を決めます」
ニコが聞く。
「大事なものほど、見えるところ?」
私は少し考えた。
「場合によります」
「隠す?」
「大切だから、目に入らない場所へ置くこともあります」
ルルが言う。
「怖いものも?」
胸が少し強張る。
子供たちは私の心を知らない。
でも、今の私に必要な問いを自然に投げてくる。
「はい」
私は正直に答えた。
「怖いけれど、大切なものを、すぐには見えない場所へ置くこともあります」
サムが記録板を構える。
「捨てない?」
「はい。捨てません」
「でも見えない?」
「はい。必要な時に、自分で取り出せる場所へ置きます」
エマが首を傾げる。
「手紙?」
空気が少し静かになる。
私は頷いた。
「はい。母様の手紙を、いつか森の家へ持ち帰るなら、どこへ置くか考えています」
ニコが聞く。
「持って帰るの?」
「まだ決めていません」
「でも場所、考える?」
「はい」
ルルが小さく笑った。
「モリタンの場所と同じ」
胸が熱くなる。
出る前から、場所を作った。
まだ来ていないもののために。
「そうですね」
私は頷いた。
「持ち帰ると決める前に、場所を考えています」
トトが腕を組む。
「机の上」
エマがすぐ反対する。
「ずっと見えちゃう」
「箱の中」
ニコが言う。
「忘れちゃうかも」
リーナが小さく言う。
「布で包む」
皆が彼女を見る。
「怖いなら、直接見えないように。大事なら、傷まないように」
その言葉に、私は息を呑んだ。
布で包む。
村長さんも、封書を布へ包んで保管している。
自分の家へ持ち帰る時も。
花守り布とは別の、静かな布。
春告げ花の色。
淡い青。
あるいは白。
包む。
目に入らない。
でも、手で触れればそこにあると分かる。
「よいと思います」
私は静かに言った。
リーナは糸箱を見た。
「布、作る?」
胸が大きく鳴った。
封書を持ち帰ると決めていない。
でも、包む布を作る。
それは、場所を用意すること。
受け入れる約束ではない。
ただ、もし来た時に傷めないように。
「まだ、手紙を持ち帰るとは決めていません」
私は慎重に言った。
「うん」
「でも、布だけ作ってもらってもいいでしょうか」
リーナの顔が明るくなる。
「いいよ」
「無理のない範囲で」
「白い布にする?」
私は考えた。
母様の春告げ花。
でも、あまり母様の色で包むと、手紙の存在が強くなりすぎるかもしれない。
森の家になじむ色。
土。
葉。
空。
「淡い灰色がいいです」
「灰色?」
「はい。森の朝の霧のような色」
リーナは糸箱から、薄い灰色の布片を取り出した。
「これ?」
「はい」
柔らかい。
目立たない。
静かな色。
「縁だけ、青い糸?」
リーナが聞く。
母様の色。
私の色。
森の空。
私は少し迷い、頷いた。
「細く、一本だけ」
「分かった」
サムが記録する。
手紙包み布。
淡灰色。
縁、青糸一本。
持ち帰るか未定。
場所の準備。
私はその記録を見て、胸が震えた。
持ち帰るか未定。
それも一緒に書かれている。
準備したからといって、決定ではない。
村のみんなは、それを分かってくれている。
昼前、糸箱の整理が終わった。
色ごとに場所ができた。
淡い緑。
濃い緑。
青。
白。
土色。
灰色。
リーナは手紙包み布に使う灰色の布を、別の場所へ置いた。
まだ縫わない。
私が本当に頼むまで。
「場所だけ」
リーナが言う。
「はい」
「布の場所、空けた」
「ありがとうございます」
待つ場所。
また一つ増えた。
午後、村長さんと話した。
封書は、今日も見ない。
そのことを自分で伝える。
「今日は、封書を見ません」
「分かった」
「でも、持ち帰る場合の包み布を、リーナにお願いしようと思います」
村長さんは少し目を細めた。
「持ち帰ると決めたのかい」
「いいえ」
「なら、布は準備だけだな」
「はい」
理解してくれる。
胸が少し軽くなる。
「もし、持ち帰ると決めたら」
私はゆっくり言う。
「村長さんの前で封書を受け取り、開けずに布へ包みたいです」
「分かった」
「森の家では、机の引き出しへ置くと思います」
「うん」
「でも、まだ決めていません」
「何度言ってもいい」
村長さんは静かに言った。
「決めていないことは、決めていないままでいい」
私は頷いた。
「はい」
それから、レナードの伝言についても話す。
「返答を急がせないと言ったそうですね」
「そうだ」
「村へ立ち入らないとも」
「本人が望まない限りはな」
「でも、探している」
「そうだ」
村長さんは誤魔化さない。
そのことがありがたい。
「信じてもいいのでしょうか」
私が聞くと、村長さんは少し考えた。
「言葉を信じるかどうかを、今決める必要はない」
「はい」
「ただ、今までの行動を見ることはできる。奴らは村へ無理に入らなかった。君を出せと脅さなかった。今のところ、約束した通り、再び村へ来ていない」
「はい」
「それと同時に、捜索は続けている」
「はい」
「どちらも記録しなさい」
畑と同じ。
よい変化だけを見ない。
怖い変化だけにも寄らない。
「分かりました」
私は頷いた。
午後の共同畑では、移植した芽の確認をした。
昨日少し伏せていた葉は、今日はかなり持ち直している。
日陰の布は外した。
新しい場所へ根を伸ばし始めたのだろう。
エマが喜ぶ。
「元気になった!」
「はい。今のところは」
「要観察?」
「はい」
皆が笑う。
要観察。
もう、村の日常の言葉になっている。
帰る前、リーナが灰色の布を私へ見せた。
まだ縫っていない。
ただの四角い布。
端も切りっぱなし。
「これくらい?」
封書の大きさを、村長さんから聞いて合わせたらしい。
私は布へ触れた。
柔らかい。
淡い灰色。
朝霧のような色。
手紙はない。
でも、その布の上に青い封書が置かれる姿を想像した。
胸が痛い。
同時に、少しだけ安心する。
「はい。大きさは、よいと思います」
「縫っていい?」
私は息を吸った。
まだ、持ち帰るとは決めていない。
でも。
「お願いします」
言えた。
リーナは頷いた。
「ゆっくり縫う」
「はい」
「急がない」
「はい」
布を頼んだ。
それだけ。
封書を受け取る決定ではない。
でも、また半歩進んだ。
村を出る。
今日は春待ちの根元へ寄らない道。
レナード隊の動きが完全には分からないためだ。
私は少し残念に思った。
けれど、場所はある。
蕾は、私が見ていない間も開く。
畑と同じ。
信じて離れる。
小川沿いを歩く。
一歩。
二歩。
三歩。
灰色の布。
四歩。
青い糸。
五歩。
封書。
六歩。
机の引き出し。
七歩。
まだ決めていない。
言葉を数える。
森の家へ戻る。
結界。
家。
青豆一号。
三芽。
土。
虫。
異常なし。
「ただいま」
私は畝の前へしゃがんだ。
「今日は、手紙を包む布をお願いしました」
アオジロウの葉が揺れる。
「まだ、手紙を持ち帰るとは決めていません」
ムラマルも。
「でも、場所を作り始めました」
モリタンの開いた葉が、夕方の光を受ける。
「怖いものを、傷めずに置くための場所です」
声が少し震える。
「私が傷つかないための布でもあります」
風が静かに畝を撫でた。
夜。
日記帳を開く。
今日、窓を叩く音で目を覚ました。
人かもしれないと思った。
森鳥だった。
確認できた。
畑は無事。
モリタンの葉が完全に開いた。
春待ちの根元の蕾が少し開き始めた。
母様の手紙を森の家へ持ち帰る場合、置く場所を考えた。
机の引き出し。
リーナに、封書を包む布をお願いした。
淡い灰色。
縁に細い青糸を一本。
まだ持ち帰るとは決めていない。
包み布を作るだけ。
私はペンを止めた。
布を頼んだ。
それは、小さなことに見える。
でも、私の中では大きい。
手紙を永遠に遠ざけるのではなく。
自分の家へ来る可能性を認めた。
まだ来ない。
来るかも分からない。
でも、場所がある。
私は最後に書いた。
怖いものにも、置く場所が必要なのかもしれない。
目の前へ出し続けなくていい。
捨てなくてもいい。
布で包み。
引き出しへしまい。
自分で選んだ時に取り出す。
母様の手紙を持つことと、読むことは違う。
読むことと、従うことも違う。
私は一つずつ選んでいい。
日記帳を閉じる。
机の引き出しへ手をかける。
開く。
白い石。
予備の筆。
細い紐。
紙。
私は中を少し整理した。
白い石を左へ。
予備の筆を奥へ。
紙を重ねる。
中央に、封書一通分の空間ができる。
まだ何も置かない。
空白。
待つ場所。
私は引き出しを閉めた。
「場所はあります」
モリタンの時と同じ言葉。
春告げ花の刺繍の時と同じ。
まだ来ていないものへ。
まだ決めていない自分へ。
場所はある。
暖炉の前へ座る。
花守り布を膝へ置く。
三つの芽。
春告げ花のために空けた場所。
そして、机の引き出しの中の空白。
今日は、空白がたくさん増えた日だった。
でも、不思議と寂しくはなかった。
空白は、何もない場所ではない。
選ぶ時間を守る場所。
私は子守歌を歌った。
森の葉っぱが眠るころ
小さな灯りも目を閉じる
風よ静かに通りゃんせ
夢の小道を通りゃんせ
歌い終えた後。
「おやすみなさい、母様」
今日も言えた。
それから、机の引き出しへ目を向ける。
「手紙は、まだ村にあります」
自分へ確認する。
「でも、ここにも場所があります」
最後に、窓の外へ向かって言った。
「また明日」
青豆一号へ。
アオジロウへ。
ムラマルへ。
朝日を受け止めたモリタンへ。
村のみんなへ。
開き始めた春告げ花の蕾へ。
リーナがこれから縫ってくれる、灰色の包み布へ。
母様の、まだ開かない手紙へ。
そして、怖いものを置く場所を、自分で作り始めた私へ。
「また明日」
明日も、見ます。




