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『青の姫君の森暮らし 〜化け物と恐れられた公爵令嬢は、今日も畑を耕します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第54話 青の姫君、春告げ花の場所を覚える



 翌朝。


 私は、母様へ「おやすみなさい」と言ったことを覚えたまま目を覚ました。


 夢は見なかった。


 昨日と同じだった。


 母様が現れることもなければ、屋敷の廊下へ戻されることもなかった。


 ただ、深い眠りの底からゆっくり浮かび上がると、胸の中に小さな青い花があった。


 森の道で見つけた、春告げ花。


 五枚の淡い花弁。


 白い中心。


 寒さの中でも、雪解けを待ちきれないように咲く、小さな花。


 母様が私的な手紙へ使っていた副印と、よく似ていた。


 私は布団の中で、しばらく目を閉じたまま、その姿を思い浮かべていた。


 摘まなかった。


 昨日、私は花を見つけたけれど、持ち帰らなかった。


 その場に残した。


 今すぐ自分のものにしなくても、場所を覚えていれば、また見に行ける。


 そのことが、不思議と安心につながっていた。


 封書も同じなのかもしれない。


 今すぐ開けなくても、なくなるわけではない。


 村長さんが預かってくれている。


 母様の字も。


 青い花の印も。


 中の言葉も。


 そこにある。


 私が見に行くまで。


 私が開けると決めるまで。


 待っている。


 私は目を開けた。


 見慣れた天井。


 森の家。


 窓の外から、朝の光が細く差し込んでいる。


 暖炉の火はほとんど消えていたが、灰の下にはまだわずかな熱が残っていた。


 私は胸の上へ手を置いた。


「おはようございます」


 小さく言う。


「今日も、森の家にいます」


 それから、少し迷って。


「おはようございます、母様」


 言葉にした。


 胸がわずかに痛む。


 でも、昨日ほど強くはない。


 返事はない。


 当然だ。


 母様はここにいない。


 手紙も、村にある。


 それでも、言えた。


 私は布団をめくり、寝台から下りた。


 床の冷たさ。


 朝の空気。


 小川の音。


 森の匂い。


 一つずつ、今ここにあるものを確かめる。


 寝具を整える。


 顔を洗う。


 髪を梳く。


 空色の髪が、鏡の中で淡く揺れた。


 昨日は、母様の手を思い出して櫛が止まった。


 今日は止まらなかった。


 思い出さなかったわけではない。


 母様の声も。


 髪を梳いてくれた指先も。


 胸の奥へ浮かんだ。


 でも、櫛を動かし続けられた。


 一度。


 二度。


 三度。


「思い出しながら、続けます」


 鏡の中の自分へ言った。


 髪をまとめ、花守り布を手に取る。


 布には、三つの芽が並んでいる。


 アオジロウ。


 ムラマル。


 モリタン。


 その少し外側には、まだ何も縫われていない場所がある。


 昨日、私はそこへ指先で春告げ花の形を描いた。


 まだ縫わない。


 母様の印を布へ入れるかは、決めていない。


 でも、場所を考えた。


 置けるかもしれない場所を。


 私は空白へ触れた。


「今日は、本物の花をもう一度見たいです」


 声に出してから、少し驚いた。


 見たい。


 はっきりそう思った。


 昨日は、偶然見つけた。


 今日は、自分から見に行きたい。


 母様の印に似ているから。


 でも、それだけではない。


 寒さに耐え、季節の境目で咲く花。


 今の私に、少し似ている気がしたから。


 私は花守り布をかぶった。


「まずは、畑です」


 外へ出る。


 朝の森は静かだった。


 風は弱い。


 昨日より霧が薄く、木々の間が少し遠くまで見える。


 鳥の声。


 一度。


 二度。


 三度。


 同じ方向から、一定の間隔。


 胸が少し跳ねる。


 私は足を止め、耳を澄ませた。


 もう一度。


 高い声が一度だけ。


 本物の鳥。


 鳥笛ではない。


 私は息を吐いた。


「確認しました」


 誰にともなく言う。


 結界に異常はない。


 家の周囲にも、新しい足跡はない。


 北東側の草倒れは、朝露を受けて少し形を変えている。


 けれど、新しく踏まれた跡は見えない。


 原因不明。


 要観察継続。


 私は青豆一号へ向かった。


 葉は朝露で濡れている。


 新しい葉の縁に、透明な雫が並んでいた。


 葉の裏。


 茎。


 根元。


 異常なし。


「おはようございます」


 声をかける。


 第二の畝へ移る。


 アオジロウは、風よけのそばで葉を少し広げていた。


 昨日より茎がしっかりしている。


 ムラマルは、葉の開きが進んでいる。


 控えめだった二枚の葉が、今朝は左右へ少し離れていた。


 モリタンは。


 私はしゃがみ込んだ。


 小さな二枚の葉が、昨日よりさらに開いていた。


 まだ丸みがある。


 柔らかい。


 けれど、もう握りしめた手には見えない。


 掌を上へ向けているようだった。


「おはようございます、モリタン」


 私は静かに微笑んだ。


「今日は、手を開きましたね」


 エマへ見せたい。


 リーナに色を伝えたい。


 サムへ記録を送りたい。


 ニコとルルとトトにも。


 胸の中へ、村のみんなの顔が浮かぶ。


 私は記録板を開いた。


 青豆一号、古い葉離脱後十二日目。


 新葉良好。虫害なし。


 アオジロウ、茎の安定増す。風よけ継続。


 ムラマル、初葉の展開進む。


 モリタン、初葉二枚、明確に開く。掌状に見える。


 三芽、状態良好。


 観察者、母を思い出しながら髪を梳き続けられた。


 観察者、春告げ花をもう一度見たいと思う。


 書き終えた後、私は記録板を見つめた。


 春告げ花。


 畑の記録へ、また母様に関わるものが入っている。


 以前なら、畑と公爵家を混ぜたくなかった。


 森は、捨てられた後に作った私の世界。


 公爵家は、私を遠ざけた過去。


 混ぜれば、森まで汚されるような気がしていた。


 けれど、今は少し違う。


 母様の印に似た花は、森に咲いていた。


 誰かが持ち込んだわけではない。


 昔から、この森のどこかに咲いていたのだろう。


 私が知らなかっただけ。


 過去と今は、完全に切り離されてはいない。


 けれど、過去が今を全部奪うわけでもない。


 春告げ花は、母様の印に似ている。


 でも、母様だけの花ではない。


 森の花でもある。


 私は畝の土を確かめた。


 水分は十分。


 水やりは不要。


 風よけの位置を少しだけ調整する。


 アオジロウが、もう少し自然の風を受けられるように、木片を少し外側へずらした。


 リオがいれば、きっと聞くだろう。


 もう守らなくていいのか、と。


 違う。


 守り方を変える。


 少し強くなったから、風を増やす。


 全部を同じままにしない。


 母様との距離も、そうなのかもしれない。


 以前は、思い出さないことで守っていた。


 今は、字を見る。


 花を見る。


 名前を呼ぶ。


 少しずつ、守り方を変えている。


 私は立ち上がった。


 朝食を作るため、家へ戻る。


 今日は、芋を使うことにした。


 リオのためではない。


 彼はまだ来ていない。


 ただ、昨日のパンと卵だけでは少し足りなかったため、朝から温かいものが食べたかった。


 芋を薄く切る。


 玉葱。


 少量の油。


 鉄の平鍋で焼く。


 じゅう、と音がする。


 香ばしい匂いが広がる。


 塩を少し。


 昨日より慎重に。


 考え事をしていても、味を見られるように。


 焼けた芋を皿へ移す。


 パン。


 薬草茶。


 簡単な朝食。


 机へ座る。


 今日は、母様の文字が窓辺にも、椅子にもいない気がした。


 代わりに、森の道に咲く春告げ花が思い浮かぶ。


 私は芋を一口食べた。


 外側は少し香ばしく、中は柔らかい。


 塩気もちょうどいい。


「今日は、上手にできました」


 小さく言う。


 誰も褒めてくれない一人の朝食。


 でも、自分で確認する。


 食べられる。


 味が分かる。


 母様を思い出しても。


 封書がまだ閉じていても。


 私は朝食を食べられる。


 芋をもう一つ口へ運んだ時、リオの顔が浮かんだ。


 きっと羨ましがる。


 私は少し笑った。


「残しておきましょう」


 三人が来るかもしれない。


 いつもの時間なら、もう少し後だ。


 私は芋を少し別の皿へ取り分けた。


 食事を終え、片づけをする。


 結界に気配が触れたのは、予想した通りの時間だった。


 リオ。


 ミナ。


 ガルドさん。


 いつもの三人。


 私は手を拭き、戸へ向かった。


「おはようございます」


 扉を開ける。


 リオは私の顔より先に、家の中の匂いへ反応した。


「芋?」


「はい」


「まだある?」


「少し残しています」


 リオの顔が明るくなる。


 ミナが呆れたように笑う。


「本当に芋には敏感ですね」


「森の中でも分かる」


「それは少し怖いです」


 私は笑った。


 ガルドさんはいつも通り周囲を確認している。


「夜間、異常はありませんでしたか」


「ありません。鳥の声を一度笛と疑いましたが、確認できました。草倒れも変化なしです」


「分かりました」


 ミナが私を見る。


「今朝は、どうでしたか」


「母様のことを思い出しました」


「はい」


「でも、髪を梳き続けられました。朝食も食べられました」


 リオが言う。


「芋を?」


「はい」


「それなら大丈夫だな」


 ミナが兄を見る。


「芋を食べればすべて大丈夫というわけではありません」


「でも食べられたのはいいだろ」


「それはそうです」


 私は二人のやり取りを聞きながら、胸が温かくなる。


「それと、春告げ花をもう一度見たいと思いました」


 ミナの表情が少し柔らかくなる。


「昨日の花ですね」


「はい」


「母様の印に似ていた花です」


 リオは少し心配そうに聞く。


「見て、大丈夫か?」


 私は考えた。


「分かりません」


「……そっか」


「でも、見たいです」


 リオは頷いた。


「じゃあ、一緒に見る」


「ありがとうございます」


 すぐ摘むと言わない。


 持ち帰るとも言わない。


 一緒に見る。


 それだけ。


 ミナも頷いた。


「村へ行く途中に寄れます。昨日と同じ道が安全なら」


 ガルドさんが答える。


「道を確認してからです。今日は村へ行く前に、外縁の動きについて報告があります」


 空気が少し変わる。


 リオの表情が引き締まる。


 私は花守り布の端を握った。


「レナードたちですか」


「はい。街道沿いの宿を出たという報告があります」


 胸が強く鳴る。


「村へ?」


「まだ方向は分かりません。宿からは南へ向かったようですが、途中で別れる道があります」


 決めつけない。


 でも、警戒する。


「今日は村へ行けますか」


「現時点では可能です。ただし、滞在は短く。入口周辺に動きがあれば、すぐ戻ります」


「はい」


 母様の手紙。


 レナード。


 春告げ花。


 畑。


 一日の中へ、またいくつものものが混ざっていく。


 私は呼吸を整えた。


「まず、畑を見ていただけますか」


「もちろん」


 三人を第二の畝へ案内する。


 リオはアオジロウの風よけが外側へ動いていることに気づいた。


「位置変えた?」


「はい。茎が少し安定してきたので、風を増やしました」


「もう守らなくていい?」


「いいえ。守り方を変えました」


 リオは納得したように頷く。


「強くなったから、少し風」


「はい」


 ミナはムラマルを見る。


「ムラマルも、かなり開きましたね」


「はい」


 そしてモリタン。


 リオが息を呑む。


「手、開いたな」


「はい」


「エマ、喜ぶぞ」


「はい」


 ミナが微笑む。


「花守り布のモリタンも、葉を広げる必要がありますね」


「リーナへ伝えたいです」


 ガルドさんが少し離れた位置から言う。


「道が安全なら、今日伝えられます」


 朝食の残りを三人へ出した。


 リオは芋を食べるなり、満足そうに頷いた。


「うまい」


「今日は塩も大丈夫ですか」


「ちょうどいい」


 ミナも一口食べる。


「本当にちょうどいいですね」


「ありがとうございます」


 ガルドさんも静かに食べる。


 四人で机を囲む。


 レナードたちが宿を出た。


 その報告がある。


 でも、今は焼いた芋を食べている。


 リオが最後の一枚を見つめる。


 ミナが先に取る。


「あ」


「リオ兄さんは二枚多く食べました」


「数えてたのか」


「当然です」


 私は笑った。


 怖さがある。


 でも、芋の取り合いもある。


 それでいい。


 朝食後、村へ向かう準備をした。


 ガルドさんが先に道を確認する。


 少し遅れて、私たちが出る。


 今日は春告げ花の場所を通る東寄りの道。


 ただし、外縁に異常がなければ。


 薬草籠へ、村へ持っていくものを入れる。


 モリタンの葉の記録。


 アオジロウの風よけ変更。


 ムラマルの展開。


 それから、昨日サムから受け取った記録の写し。


 私は家を出る前に、三つの芽へ声をかけた。


「村へ行ってきます」


 風が葉を揺らす。


「春告げ花も、もう一度見ます」


 少し間を置いて。


「レナードたちが動いたそうです。でも、まだどこへ行ったかは分かりません」


 芽に報告しても意味はない。


 でも、口にすると、自分の中で整理できる。


「戻ります」


 私は立ち上がった。


 東寄りの道。


 足元は昨日より乾いている。


 風が木々を揺らしている。


 ガルドさんの合図。


 丸。


 異常なし。


 私たちは進む。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 リオの足音。


 ミナの衣擦れ。


 鳥の声。


 母様の文字。


 春告げ花。


 五歩。


 村。


 六歩。


 戻る。


 道の途中。


 昨日、花を見つけた場所へ近づく。


 私の歩みが少し遅くなった。


 リオもミナも何も言わない。


 ガルドさんが周囲を確認する。


 異常なし。


 そして。


 木の根元。


 薄い朝日が差す場所に、春告げ花は咲いていた。


 昨日と同じ。


 淡い青。


 五枚の花弁。


 白い中心。


 風に揺れている。


 私は花の前にしゃがんだ。


「ありました」


「はい」


 ミナも少し離れてしゃがむ。


 リオは周囲を見ながら立っている。


 ガルドさんは警戒を続けている。


 花は一輪だけではなかった。


 昨日は一輪しか見ていなかった。


 よく見ると、その少し奥に二輪。


 さらに小さな蕾が一つ。


 落ち葉の間から顔を出している。


「三つ」


 私は数えた。


「咲いているものが三つ。蕾が一つ」


 アオジロウ。


 ムラマル。


 モリタン。


 三つの芽と同じ数。


 ただの偶然。


 でも、胸が少し温かくなる。


 ミナが言う。


「群れて咲く花ではありませんが、近くに種が落ちると、少し離れて咲くことがあります」


「近すぎず」


「はい」


「離れすぎず」


「同じ場所を選んだ花ですね」


 私は三つの花を見つめた。


 母様の印。


 けれど、母様だけのものではない。


 森の花。


 私の知らなかった花。


 今、私が見つけた場所。


「この場所を、記録したいです」


 私は言った。


 リオが聞く。


「摘まない?」


「はい。今日は摘みません」


「場所だけ?」


「はい」


 私は記録板を取り出した。


 森の家より東。


 古い炭焼き道へ向かう途中。


 三つ岩の手前。


 曲がった白樹の根元。


 春告げ花、開花三。


 蕾一。


 花色、淡青。


 中心、白。


 母の私的な副印と類似。


 採取せず。


 場所を記録。


 最後に書いた。


 観察者、母を思い出す場所としてではなく、春告げ花の場所として覚える。


 書き終えた時、胸が少し震えた。


 母様を思い出す場所ではない。


 思い出してはいけない、という意味ではない。


 ただ、母様だけの場所にしない。


 春告げ花が咲く場所。


 その花を見れば、母様を思い出すかもしれない。


 でも、森の風も。


 三つの花も。


 蕾も。


 リオとミナとガルドさんも。


 今日ここへ来たことも。


 全部がある場所。


 母様だけに占めさせない。


 今の私の記憶も、一緒に置く。


「いい名前、つける?」


 リオが聞いた。


「場所にですか」


「うん。覚えやすいだろ」


 私は少し考えた。


 母様の花の場所。


 それでは、母様だけのものになる。


 青花の場所。


 少し単純。


 春告げの根元。


「春待ちの根元」


 自然と、その言葉が出た。


 ミナが微笑む。


「素敵です」


「春待ち?」


 リオが首を傾げる。


「春を告げる花なのに、待つのか」


「咲いている花もありますが、蕾もあります」


 私は小さな蕾を見る。


「咲いたものと、まだ待っているものが同じ場所にあります」


「モリタンみたいだな」


「はい」


 ガルドさんが周囲を見ながら、短く言った。


「地図上では目立たない呼び名です。合図としても使えます」


 現実的な言葉。


 でも、大切だった。


 美しい名前だけでなく、守りにもなる。


「では、春待ちの根元にします」


 私は記録板へ書き加えた。


 呼称、春待ちの根元。


 花を摘まず、私たちは立ち上がった。


 私は一度だけ振り返る。


 三つの花。


 一つの蕾。


 風に揺れている。


 また見に来られる。


 場所を覚えた。


 村へ向かう。


 見張りの若者が東側で待っていた。


 丸の合図。


 異常なし。


 ただし、小声で報告する。


「街道側に騎馬が二騎。村へ向かってはいない。南へ抜けた」


 ガルドさんが頷く。


「レナード隊の可能性は?」


「紋章は見えなかった」


 決めつけない。


 でも記録。


 今日は村へ来ていない。


 今のところ。


 私たちは村へ入った。


 子供たちは共同畑の前で待っていた。


 エマが私を見るなり、小声で叫ぶ。


「モリタンの手、開いた!?」


「はい。開きました」


「やった!」


 小さな歓声。


 リーナは糸箱を開く。


 サムは記録板。


 ニコはムラマルの歌を小さく口ずさむ。


 ルルは私の顔を見た。


「お母さんのこと、まだ考えてる?」


「はい」


「村にも来られた?」


「はい」


「じゃあ、両方」


「はい。両方です」


 トトが聞く。


「花も見た?」


「見ました」


 子供たちが首を傾げる。


 私は春告げ花のことを話した。


 母様の印に似ていること。


 森の道に三つ咲いていたこと。


 蕾が一つあったこと。


 摘まず、場所を記録したこと。


 春待ちの根元と名づけたこと。


 エマが目を輝かせる。


「見たい!」


「今は、皆で行くには少し危険があります」


 エマの顔が曇る。


「でも、いつか安全になったら見に行きましょう」


「ほんと?」


「はい」


 サムが記録する。


 春待ちの根元。


 開花三。


 蕾一。


 安全になったら皆で見る予定。


 リーナが言う。


「花守り布に、春告げ花を縫う?」


 私はすぐに答えなかった。


 布の空白。


 昨日、指で形を描いた場所。


 母様の印。


 森の花。


 今の記憶。


「まだ、少し考えたいです」


 リーナは頷いた。


「場所は空けておく?」


「はい」


「じゃあ、空ける」


 急がない。


 それが嬉しかった。


 今日の授業は、共同畑の間引き後の確認になった。


 昨日移した芽。


 残した芽。


 土へ返した芽。


 新しい場所へ移されたものの中に、一つだけ葉を少し伏せている芽があった。


 エマが心配そうに聞く。


「元気ない?」


「移したばかりなので、根が驚いているかもしれません」


「助ける?」


「まず見ます」


「水?」


「土は十分湿っています。今すぐ増やすと多すぎるかもしれません」


 ルルが言う。


「待つ?」


「はい。少し日陰を作り、午後まで見ます」


 低い布を使い、直射の光を弱める。


 完全には囲わない。


 アオジロウの風よけと同じ。


 刺激を少し弱める。


 でも、全部は遮らない。


 サムが書く。


 移植後、葉伏せ一。


 水分十分。


 日差しを弱める。


 午後まで観察。


 ニコが小さく言う。


「手紙も、刺激を弱める?」


 私は布の支えを整えながら頷いた。


「はい。私は、外側から少しずつ見ています」


「次は?」


「まだ決めていません」


「裏?」


「裏側には何もないと教えてもらいました」


「じゃあ次は、中?」


 胸が少し強張る。


 子供の問いは真っ直ぐだ。


「中を見る前に、もう一度外側を見ると思います」


「同じの見るの?」


「はい」


 トトが首を傾げる。


「一回見たのに?」


「一度目は、驚いてよく見られなかったところもあります」


 サムが頷く。


「同じ記録を、もう一回見ることもある」


「はい」


 畑も同じ。


 一度見た葉を、次の日また見る。


 変化がなくても見る。


 同じように見えても、今の自分が違うことがある。


 リーナが言う。


「糸も、一回選んで、次の日変えることある」


「はい」


「じゃあ、手紙も同じ」


「そうかもしれません」


 昼前、移した芽をもう一度見る。


 葉はまだ少し伏せている。


 でも、朝より悪くはなっていない。


 茎も折れていない。


 午後まで待つ。


 焦らない。


 昼食の後、村長さんと短く話した。


 レナードたちは、今のところ村へ戻っていない。


 街道南側で二騎が見られたが、彼らかは不明。


「封書は、変わらず預かっている」


 村長さんが言う。


「ありがとうございます」


「今日は見るかい」


 私は少し考えた。


 今朝、春告げ花を見た。


 母様のことを思い出した。


 村へ来た。


 畑を見た。


 胸は揺れている。


 でも、昨日ほど強くはない。


「今日は、見ません」


 私は答えた。


「分かった」


「次に見る時は、母様の字を、昨日より少し長く見たいです」


「うん」


「それだけで終わるかもしれません」


「それでいい」


 私は頷いた。


 見られるからといって、毎回見なくていい。


 村へ来たからといって、封書へ会わなくていい。


 母様の手紙だけが、村へ来る理由ではない。


 今日は、モリタンの葉を伝えに来た。


 共同畑を見るため。


 子供たちへ会うため。


 それでいい。


 午後、移植した芽は少しだけ葉を上げた。


 エマが喜ぶ。


「戻ってきた!」


「完全ではありません。少し回復したように見えます」


「要観察?」


「はい」


 サムが書く。


 葉伏せ、午後やや回復。


 要観察継続。


 布の日陰は夕方前に少し外す。


 刺激を弱める時間を終える。


 ずっと守り続けない。


 戻す。


 加減。


 私はその作業をしながら、母様の手紙について考えた。


 外側を見る。


 休む。


 また見る。


 いつか封を開けるかもしれない。


 でも、開けた後も、途中で止めていい。


 全部を一度に読まなくていい。


 言葉を一つずつ。


 間引くように。


 残すものを選ぶように。


 夕方前、村を出る。


 今日はレナードたちの所在が完全には分からないため、東の道は使わず、別の小川沿いを戻る。


 春待ちの根元には寄らない。


 少し残念。


 でも、場所は消えない。


 また見られる。


 私は足元を見ながら歩いた。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 春告げ花。


 四歩。


 母様の字。


 五歩。


 村。


 六歩。


 森の家。


 七歩。


 戻る。


 途中で、リオが少し後ろから聞いた。


「今日は手紙、見なくてよかったのか」


「はい」


「見に来たんじゃなかった?」


「今日は、村へ来たかったのです」


 リオは少し黙った。


「そっか」


「手紙がなくても、村へ来たいです」


「うん」


 短い返事。


 でも、その声は嬉しそうだった。


 ミナが静かに言う。


「封書が村にあっても、村が封書の場所になるわけではありません」


「はい」


 村は、封書を預かる場所。


 でも、それだけではない。


 畑。


 子供たち。


 パン。


 芋。


 笑い。


 記録。


 帰れる場所。


 封書だけに、村を占めさせない。


 森の家へ戻る。


 結界。


 家。


 青豆一号。


 三芽。


 土。


 虫。


 確認。


 異常なし。


「ただいま」


 私は畝の前にしゃがんだ。


「今日は、春告げ花をもう一度見ました」


 アオジロウの葉が揺れる。


「三つ咲いていました。蕾が一つありました」


 ムラマルも小さく揺れる。


「春待ちの根元と名づけました」


 モリタンの開いた葉が、風を受ける。


「母様の花の場所ではなく、春告げ花の場所として覚えます」


 自分へ言う。


「でも、母様を思い出してもいい場所です」


 胸が少し痛む。


 でも、耐えられる。


 夜。


 日記帳を開く。


 今日、母様へおはようと言った。


 母様を思い出しながら髪を梳いた。


 止まらずに梳けた。


 モリタンの葉が、しっかり開いた。


 アオジロウの風よけを少し外へ動かした。


 守り方を変えた。


 森で春告げ花を見た。


 三つ咲いていて、蕾が一つあった。


 春待ちの根元と名づけた。


 花は摘まなかった。


 村へ行った。


 封書は見なかった。


 手紙を見なくても、村へ行きたいと思った。


 共同畑の移植した芽が少し伏せた。


 日差しを弱め、待った。


 午後には少し戻った。


 私はペンを止めた。


 今日、一番大切だったことは何だろう。


 母様へおはようと言えたこと。


 春告げ花の場所を作ったこと。


 手紙を見ずに村で過ごせたこと。


 モリタンの葉が開いたこと。


 全部。


 どれか一つだけではない。


 私は最後に書いた。


 母様を思い出す場所が、森の中にできた。


 でも、そこは母様だけの場所ではない。


 春告げ花が咲き。


 蕾が待ち。


 リオとミナとガルドさんが一緒にいた場所。


 今の私の記憶も、そこにある。


 過去の記憶に、今の記憶を重ねてもいい。


 消すのではなく。


 新しい色を加えるように。


 日記帳を閉じる。


 花守り布を膝に置く。


 三つの芽。


 まだ空いている場所。


 私は、その空白へ指先で小さな花を描いた。


 五枚の花弁。


 白い中心。


 でも、まだ縫わない。


「場所はあります」


 モリタンの時と同じ言葉。


 いつ縫うかは決めていない。


 母様の印として縫うのか。


 春待ちの根元の記録として縫うのか。


 それも、まだ決めない。


 空けておく。


 待つ場所。


 私は暖炉の前で子守歌を歌った。


 森の葉っぱが眠るころ


 小さな灯りも目を閉じる


 風よ静かに通りゃんせ


 夢の小道を通りゃんせ


 歌い終え、少し間を置く。


「おやすみなさい、母様」


 今日も言えた。


 昨日より、少し自然に。


 それから、窓の外へ向かって。


「また明日」


 青豆一号へ。


 アオジロウへ。


 ムラマルへ。


 掌を開いたモリタンへ。


 村のみんなへ。


 春待ちの根元に咲く、三つの花と一つの蕾へ。


 母様の、まだ開かない手紙へ。


 そして、母様を思い出す場所へ、今の自分の記憶も置けた私へ。


「また明日」


 明日も、見ます。

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