第53話 青の姫君、母の文字を胸に畑へ立つ
翌朝。
私は、母様の夢を見なかった。
それが少しだけ、意外だった。
眠りにつく前。
私は暖炉の前で、確かに言った。
おやすみなさい、母様。
長い間、胸の奥へ押し込めていた呼び名を、声に出した。
だからきっと、夢の中に母様が現れるのだと思っていた。
幼い頃のように笑っている母様。
空色の髪を背中へ流し、細い指で私の髪を梳いてくれる母様。
あるいは。
痩せた頬を枕へ沈め、こちらを見ようとしない母様。
寝台の薄布の向こうで、声を殺して泣いている母様。
どちらかが、夢に出てくるのだと思っていた。
けれど、何も見なかった。
夢のない、深い眠りだった。
目を開けると、そこには見慣れた森の家の天井があった。
梁の黒ずみ。
自分で埋めた壁のひび。
窓の端から伸びる細い朝の光。
暖炉の中で、灰に隠れた火が小さく赤みを残している。
すべて、いつも通りだった。
私は布団の中で、しばらく瞬きを繰り返した。
胸は痛くない。
呼吸も苦しくない。
涙も出ていない。
けれど、母様の文字だけは、はっきりと覚えていた。
フローラへ。
少し右へ上がる、細い筆跡。
昔より、わずかに震えていた線。
封筒の端へ触れた指先の冷たさまで、まだ残っている気がする。
私は右手を布団の上へ出し、指先を見た。
何もついていない。
青い封蝋の粉も。
紙の匂いも。
母様の温度も。
残ってはいない。
それでも、触れたという記憶は消えなかった。
「……おはようございます」
私は天井へ向かって言った。
誰に言ったのか、自分でも分からない。
森の家へ。
朝へ。
自分へ。
もしかすると、母様へ。
言った後で、少しだけ胸が詰まった。
けれど、昨日ほどではない。
私はゆっくり起き上がった。
床へ足を下ろす。
木の冷たさが足裏へ伝わる。
一つ。
息を吸う。
二つ。
吐く。
三つ。
立ち上がる。
朝の支度を始める。
寝具を整える。
水差しから水を取り、顔を洗う。
冷たい水が目元へ触れた時、昨日泣いたせいか、少しだけ皮膚が張るように感じた。
鏡の前へ座り、髪を梳く。
空色の髪。
母様と同じ色。
櫛を一度通す。
するりと髪が解ける。
もう一度。
幼い頃、母様が後ろから梳いてくれた記憶が浮かぶ。
『フローラの髪は、朝の空の色ね』
そう言っていた。
『私よりも、ずっと綺麗』
私はそのたびに、鏡越しの母様へ笑った。
『母様と同じだから綺麗なのです』
幼い私は、きっとそう答えていた。
記憶の中の母様が笑う。
でも、その後に続く記憶は曖昧だった。
いつから、母様は私の髪に触れなくなったのだろう。
いつから、髪を整える役目が使用人だけになったのだろう。
いつから、母様の部屋へ入る前に、何度も許可を求めるようになったのだろう。
私は櫛を持つ手を止めた。
胸の奥へ、冷たいものが入り込む。
昨日、封書を開けなかった。
母様の字だけを見た。
それで十分だと思った。
けれど、字を見たことで、閉じていた記憶まで少し開いてしまったらしい。
母様の優しい手。
遠ざかった手。
どちらも同じ人のものだった。
「今は、髪を梳きます」
私は鏡の中の自分へ言った。
過去を考えることを止めるのではない。
ただ、今していることへ戻る。
櫛を動かす。
一度。
二度。
三度。
髪をまとめる。
花守り布を手に取る。
青い花。
白い花。
三つの芽。
アオジロウ。
ムラマル。
モリタン。
私はモリタンの刺繍へ触れた。
昨日、本物のモリタンは小さな二枚の葉を開き始めていた。
握っていた手を、ゆっくり開くように。
エマはそう言った。
私も、少しずつ手を開いているのだろうか。
母様の手紙へ。
過去へ。
それとも、また傷つけられる場所へ近づいているだけなのだろうか。
まだ分からない。
「今日は、畑です」
私は花守り布をかぶった。
「手紙ではなく、畑を見ます」
そう決める。
母様のことを考えない、とは言わない。
考えないようにすれば、逆にそれだけで一日が埋まる。
考えてもいい。
ただ、畑も見る。
朝食も食べる。
水も汲む。
暮らしを続ける。
外へ出ると、森には薄い霧が残っていた。
夜の冷えが地面近くへ溜まり、木々の根元を白く包んでいる。
高い枝には朝日が当たっているのに、足元はまだ夜の名残を抱えている。
私は玄関前で立ち止まり、耳を澄ませた。
鳥の声。
一度。
二度。
少し間を置いて、一度。
鳥笛ではない。
葉擦れ。
小川。
遠くで何かが土を掻く音。
小動物だろう。
結界に異常はない。
北東側の草倒れも変化なし。
私は足元を選びながら、畑へ向かった。
青豆一号は、霧の水分を葉へまとっていた。
新しい葉の縁に、小さな雫が並んでいる。
葉の裏を確認する。
虫はいない。
茎も安定。
古い葉を落とした痕は、もう乾いていた。
「おはようございます」
声をかける。
次に、第二の畝。
アオジロウは風よけの陰で、少し葉を伏せていた。
霧の重みだろう。
折れてはいない。
ムラマルは、昨日より葉を開いている。
控えめだった芽が、少しずつ豆らしい姿になってきた。
そしてモリタン。
小さな二枚の葉が、昨日よりはっきり分かれていた。
まだ完全には水平へ開いていない。
けれど、中央に細い隙間ができている。
私はしゃがみ込んだ。
「おはようございます、モリタン」
胸の奥が温かくなる。
「手を、もう少し開きましたね」
指先で触れたい。
どのくらい柔らかいのか。
葉の裏がどうなっているのか。
でも、触らない。
見る。
記録する。
必要なら支える。
今は、見ているだけでいい。
私は記録板を開いた。
青豆一号、古い葉離脱後十一日目。
新葉良好。霧による水滴あり。虫害なし。
アオジロウ、葉に霧の重みあり。折れなし。風よけ継続。
ムラマル、葉展開進む。状態良好。
モリタン、初葉二枚の分離進む。中央に隙間確認。
三芽、異常なし。
観察者、母の文字を思い出しながら畑へ来る。
観察者、畑の変化を見られた。
書き終えた後、私は少しだけ迷った。
それから、もう一行加えた。
観察者、母を思い出すことと、暮らしを続けることを分けない。
木板の文字を見つめる。
分けない。
昨日まで私は、母様のことを考える時間と、森で暮らす時間を別にしようとしていた。
母様を思い出したら畑が見えなくなる。
畑を見ている間は母様を忘れなければならない。
どこかで、そう思っていた。
でも、完全には分けられない。
母様と同じ髪を梳き。
母様からの封書を思い。
そのまま畑へ出て。
モリタンの葉を喜ぶ。
それでいいのかもしれない。
母様を思い出したからといって、森の暮らしが偽物になるわけではない。
畑を大切にしたからといって、母様への気持ちが薄いわけでもない。
両方ある。
私は立ち上がった。
朝食を作るため、家へ戻る。
今日は焼いたパンと卵。
それから、薬草茶。
簡単なものにした。
鍋を使うと、考え事をしながら塩を間違えるかもしれない。
そう思ったから。
でも、それは逃げではない。
自分の状態に合わせて、簡単なものを選ぶ。
それも加減だ。
パンを薄く切る。
火の上で軽く炙る。
香ばしい匂いが部屋へ広がる。
卵を割る。
殻が少し入った。
私は指先で取り除く。
以前の私なら、失敗したと感じただろう。
卵一つ、綺麗に割れない。
天才だったはずの私が。
けれど今は、殻を取ればいい。
それだけだ。
「母様の手紙も、そうでしょうか」
私は卵を焼きながら呟いた。
何か痛い言葉が入っていたら。
それだけを取り除くことはできないかもしれない。
手紙は料理ではない。
でも、全部を一度に飲み込まなくてもいい。
言葉を一つずつ見る。
休む。
また見る。
誰かと一緒に読む。
途中で止める。
選択肢はある。
私は焼けた卵を皿へ移した。
少し端が焦げた。
でも、食べられる。
机へ座る。
今日は、封書が向かいの席にも、隣の席にもいる感じはしなかった。
代わりに、母様の文字が、窓辺に薄く残っているような感覚があった。
フローラへ。
ただそれだけ。
私はパンを一口食べた。
香ばしい。
卵は少し焦げている。
薬草茶は温かい。
母様のことを考える。
でも、味が分かる。
私はゆっくり食べた。
食べ終え、皿を片づける。
結界に気配が触れたのは、その少し後だった。
リオ。
ミナ。
ガルドさん。
私は昨日ほど緊張しなかった。
村長さんから新しい知らせがあるのかもしれない。
公爵家の使いが戻ったのかもしれない。
封書の裏側について、何か分かったのかもしれない。
そう考えた。
けれど、すぐに答えを決めつけない。
手を拭く。
戸へ向かう。
「おはようございます」
扉を開ける。
リオは少し眠そうだった。
「おはよう」
ミナは私の顔を見て、微笑んだ。
「昨日より、少し落ち着いていますか?」
「はい。母様の字は思い出しました。でも、朝食は食べられました」
「今日は何を?」
「パンと卵です」
リオがすぐに聞く。
「芋は?」
「ありません」
「そっか」
心底残念そうだ。
私は思わず笑った。
「毎日芋でなくてもいいでしょう」
「毎日でもいい」
ミナが呆れたように言う。
「リオ兄さんは芋の精霊にでもなるつもりですか」
「精霊はもっといいもの食べるだろ」
「そこですか」
いつもの会話。
朝の森へ、小さな笑いが落ちる。
ガルドさんは周囲を確認し、静かに報告した。
「夜間、村にも森の外縁にも大きな動きはありません」
「レナードたちは?」
「街道沿いの宿に留まっているようです。村へは来ていません」
胸が少し緩む。
でも、また来る可能性はある。
それだけ。
「封書についても、村長から伝言があります」
私は花守り布の端を握った。
「はい」
「裏側には、宛名や追記はありません。封蝋は一度も割られていない状態です」
私は静かに息を吐いた。
母様から。
私的な封印。
フローラへ。
裏側には何もない。
まだ閉じている。
「ありがとうございます」
「それと、封書を次に見る時期について、村長は急がなくてよいとのことです」
「はい」
私は頷いた。
今日は、それ以上の知らせはない。
封書はそのまま。
レナードも来ていない。
日常を続けられる。
「今日は村へ行きますか」
ミナが聞く。
私は少し考えた。
行きたい。
モリタンの葉のことを伝えたい。
リーナが刺繍をどうしたか見たい。
サムの記録も。
エマの歌も。
でも、母様の字を見た翌日。
村へ行って、人の中にいた方がいいのか。
森の家で静かに過ごした方がいいのか。
どちらが自分に必要か。
私は胸へ聞いた。
静かにいたい気持ち。
でも、一人きりにはなりたくない気持ち。
村の子供たちに会いたい気持ち。
「行きたいです」
私は答えた。
「短い時間でも、村へ行きたいです」
リオが少し嬉しそうに笑う。
「じゃあ行こう」
ガルドさんは慎重に頷いた。
「道を確認してからです。今日は東寄りを使います」
「はい」
三人で畑を見た。
リオはモリタンの葉を見つけ、声を抑えながら喜んだ。
「開いてる」
「はい」
「昨日より、ちゃんと葉だな」
「はい」
ミナはムラマルも見る。
「ムラマルも、開いてきています」
「はい。三人とも、それぞれ進んでいます」
リオが言う。
「母親の手紙見た次の日でも、育つんだな」
言ってから、彼は少し顔を強張らせた。
「悪い。変な言い方した」
「いいえ」
私は畝を見る。
「その通りです」
「そうか?」
「はい。私が母様のことを考えていても、芽は育ちます」
少し寂しく。
少し救われる。
「私の気持ちとは別に、時間は進みます」
ミナが静かに言う。
「でも、別々ではありません」
「はい」
「フローラが昨日水を見て、風よけを整えたから、今日の芽があります」
私は目を瞬いた。
気持ちとは別に育つ。
でも、私の世話とはつながっている。
完全に別ではない。
その言葉が胸に残った。
村へ向かう準備をする。
薬草籠。
モリタンの記録。
新しい札の写し。
古い札は家に残す。
今日は東寄りの道。
以前より少し開けた場所があるため、見られないよう慎重に進む。
ガルドさんが先。
ミナが横。
リオは少し後ろ。
私は足元と音を数えた。
一歩。
二歩。
三歩。
鳥。
風。
リオの足音。
母様の字。
四歩。
畑。
五歩。
村。
六歩。
戻る場所。
森の東側には、小さな白い花が咲いていた。
見覚えのある花。
母様の副印に使われていた春花によく似ている。
私は足を止めそうになった。
ガルドさんが手を上げる。
危険の合図ではない。
足元に注意。
低い根が出ている。
私はまた歩く。
花を摘まなかった。
母様の花だからではない。
今、摘む必要がないから。
見るだけ。
それでいい。
村の東側の小道へ着く。
見張りの若者が丸の合図。
異常なし。
村へ入る。
パンの匂い。
水桶の音。
子供たちの声。
昨日と同じようで、少し違う一日。
共同畑の前では、エマたちが待っていた。
私を見ると、エマが手を上げる。
「フローラ先生!」
声が少し大きい。
母親が「声」と言う前に、エマ自身が口を押さえた。
「……フローラ先生」
小声で言い直す。
私は微笑んだ。
「おはようございます」
「モリタンは?」
「葉が、もう少し開きました」
エマの目が輝く。
「手、開いた!?」
「はい。昨日より開きました」
子供たちが小さな歓声を上げる。
リーナはすぐに糸箱を開いた。
「葉、二枚?」
「はい」
「色は?」
「深い緑ではありません。まだ柔らかい緑です」
リーナは糸を何本か並べる。
濃い緑。
淡い緑。
白を少し含んだ緑。
「これ?」
彼女が選んだのは、淡い緑に少し白を混ぜた糸だった。
「はい。近いです」
リーナは嬉しそうに頷いた。
サムは記録する。
モリタン、初葉二枚。
握っていた手、さらに開く。
フローラ先生、母の手紙を見た翌日も村へ来る。
私はその文字に気づいた。
「サム」
「はい」
「その記録は……」
言葉が止まる。
書かないでほしいのか。
書いてもいいのか。
自分でも分からない。
サムは筆を止めた。
「嫌なら消す」
真剣な声。
私は少し考えた。
母の手紙を見た翌日も村へ来る。
それは、私の弱さではない。
母様を軽く扱っているわけでもない。
日常を続けた記録。
「消さなくて大丈夫です」
私は答えた。
「ただ、『無理に元気なふりはしていない』と加えてください」
サムは頷き、書き足した。
無理に元気なふりはしていない。
それを見て、胸が少し軽くなる。
私は元気ではないのかもしれない。
でも、動ける。
村へ来られる。
笑える。
泣くこともある。
全部を元気か元気ではないかの二つに分けなくていい。
ルルが私の花守り布を見た。
「昨日、お母さんにおやすみって言った?」
私は驚いた。
「どうして知っているのですか」
「顔」
また、子供の鋭さ。
私は少し頬が熱くなった。
「はい。言いました」
「返事あった?」
「いいえ」
「でも言えた?」
「はい」
ルルは頷いた。
「じゃあ、よかった」
何がよかったのか。
返事がなかったのに。
でも、言えたことがよかった。
子供の言葉は、時々とても真っ直ぐだ。
ニコが聞く。
「手紙、読むの?」
広場が少し静かになる。
大人たちも耳を澄ませている。
私は正直に答えた。
「まだ決めていません」
「読みたい?」
「はい」
「怖い?」
「はい」
ニコは少し考えた。
「両方?」
「はい。両方です」
「じゃあ、両方記録」
サムがすぐ書く。
読みたい。
怖い。
両方。
トトが腕を組む。
「読む時、みんなで読む?」
その問いに、大人たちの表情が少し動く。
私は考えた。
みんなで。
子供たちまで一緒に読むわけにはいかないかもしれない。
母様の私的な言葉。
何が書かれているか分からない。
でも、一人で読む必要もない。
「読む時は、大人に一緒にいてもらうと思います」
トトは頷いた。
「じゃあ大丈夫」
簡単に言う。
でも、その「大丈夫」に根拠はない。
それでも、信じてくれる言葉が嬉しい。
今日の授業は、苗の間引きについてだった。
森試験豆とは別に、共同畑の葉野菜が少し混み合ってきている。
芽がたくさん出たことは嬉しい。
けれど、そのままでは互いの成長を邪魔する。
残す芽。
移す芽。
土へ返す芽。
選ばなければならない。
子供たちは少し不安そうだった。
「全部育てちゃだめ?」
エマが聞く。
「全部を今の場所で育てるのは難しいです」
「抜くの?」
「一部は、別の場所へ移します」
「全部移せば?」
「場所には限りがあります」
空気が少し重くなる。
命を選ぶように感じるのだろう。
私も、間引きは好きではない。
でも、必要な作業だ。
「残すことは、選ばれなかったものを嫌うことではありません」
私は言った。
「今の場所で、全員が育てないからです」
ルルが小さく聞く。
「離れるのと、捨てるの違う?」
「はい」
以前の話につながる。
「別の畝へ移すものもあります。土へ返すものもあります。それぞれの役目があります」
ニコが聞く。
「手紙の言葉も、全部残さなくていい?」
私は動きを止めた。
母様の手紙。
まだ読んでいない。
でも、もし読むなら。
書かれた言葉を全部、自分の中へ植えなければならないのだろうか。
責める言葉があったら。
命令があったら。
悲しみがあったら。
全部を受け入れなければ、母様の手紙を読んだことにならないのか。
「……全部を残さなくてもいいのかもしれません」
私はゆっくり答えた。
「読んだ言葉の中から、自分の中へ置くものを選んでもいいと思います」
サムが記録する。
読んだ言葉を、全部心に植えなくていい。
私はその文字を見て、胸が震えた。
手紙を読む。
それは、書かれたすべてに従うことではない。
すべてを信じることでもない。
すべてを許すことでもない。
ただ、知ること。
その後、何を残すかは自分で選んでいい。
間引きの授業が、また私へ返ってきた。
午後。
子供たちと一緒に、混み合った芽を慎重に移した。
エマは一つ抜くたびに「ごめんね」と言った。
「謝らなくていいですよ」
「でも、びっくりするかも」
「なら、『移動します』と伝えましょう」
エマは真剣に芽へ言った。
「移動します。新しい場所あるよ」
ニコとルルが新しい畝の穴を整える。
トトは土をかけすぎて、バルドさんに止められる。
「守りすぎると埋まるぞ」
「またそれ!」
「お前は毎回だ」
周囲に笑いが起こる。
リーナは移した芽の位置を布へ簡単に描く。
サムは数を記録する。
移動三。
残す五。
土へ返す二。
誰も「捨てる」とは書かなかった。
それが嬉しかった。
帰る前、村長さんと短く話した。
「封書の裏側は、何もなかったそうですね」
「そうだ」
「封蝋も」
「無傷だ」
「はい」
私は少し迷った。
村長さんは待つ。
「次に封書を見る時」
「うん」
「開ける前に、母様の字をもう一度見たいです」
「分かった」
「それから……」
言葉が詰まる。
「村長さんに、隣にいていただきたいです」
村長さんは静かに頷いた。
「もちろんだ」
「まだ、開けるとは決めていません」
「分かっている」
「リオとミナも」
「一緒にいた方がいいか」
「はい」
口にした瞬間、少し安心した。
一人ではない。
封書を開けるかもしれない場所に、誰がいるかを先に決める。
それも準備。
言葉の護衛。
村長さんは言った。
「ガルドも呼べる。バルドも」
私は少し考えた。
「最初は、村長さんと、リオと、ミナで」
「分かった」
「人数が多いと、母様の手紙を人前に出しすぎる気がします」
「それでいい」
自分で決められた。
まだ読む日ではない。
でも、読む場所と人の輪郭ができた。
胸の奥に、また一つ小さな畝ができる。
帰り道。
私は森の花を見た。
朝に見た、母様の副印に似た小さな青い花。
今度は、立ち止まった。
ガルドさんが周囲を確認する。
異常なし。
私は花の前にしゃがんだ。
摘まない。
ただ見る。
五枚の花弁。
中心は白。
淡い青。
母様の印とよく似ている。
「この花、何という名前でしょう」
ミナが隣でしゃがむ。
「春告げ花だと思います」
「春告げ花」
「雪解けの後、早く咲く花です。小さいですが、寒さに強い」
私は花を見つめた。
母様は、なぜこの花を自分の印にしたのだろう。
綺麗だから。
スプリング家に合うから。
それとも、何か意味があったのか。
聞いたことはなかった。
「摘みますか」
ミナが聞く。
私は首を横に振った。
「今日は、見ておきます」
「はい」
リオが少し後ろで言う。
「場所覚えとけば、また見られる」
「はい」
また見られる。
今すぐ持ち帰らなくても。
場所が分かれば。
私は立ち上がった。
森の家へ戻る。
結界。
家。
畑。
順番に確認する。
異常なし。
第二の畝へしゃがむ。
「ただいま」
三つの芽へ言う。
「今日は、読んだ言葉を全部心へ植えなくていいと知りました」
風が葉を揺らす。
「まだ、読んでいませんけれど」
少し笑う。
「読む時に一緒にいてもらう人を決めました」
アオジロウ。
ムラマル。
モリタン。
新しい札が並ぶ。
「一人では、読みません」
声に出す。
それは、自分への約束だった。
夜。
日記帳を開く。
今日、母様の字を思い出しながら髪を梳いた。
母様のことを考えながら、畑を見た。
モリタンの葉がさらに開いた。
村へ行った。
共同畑で間引きをした。
読んだ言葉を全部心へ植えなくてもいいと、ニコの言葉で気づいた。
封書を読む時は、村長さん、リオ、ミナに一緒にいてもらうと決めた。
まだ、読む日は決めていない。
森で、母様の副印に似た春告げ花を見つけた。
摘まなかった。
場所を覚えた。
私はペンを止めた。
今日の私は、母様を思い出しながら暮らした。
忘れようとしなかった。
思い出すことだけに閉じ込められもしなかった。
髪を梳いた。
朝食を食べた。
畑を見た。
村へ行った。
芽を移した。
笑った。
怖かった。
母様の花を見た。
全部、同じ一日の中にあった。
私は最後に書いた。
母様の文字は、まだ胸にある。
でも、その文字だけで一日が埋まったわけではない。
畑もあった。
村もあった。
笑いもあった。
私は母様を思いながら、今の暮らしを続けられる。
それは、母様を忘れることではない。
今の私を失わないことだ。
日記帳を閉じる。
暖炉の火が小さく揺れる。
私は花守り布を膝へ置いた。
三つの芽を撫でる。
それから、指先で何も縫われていない場所に、小さな春告げ花の形を描くようになぞった。
まだ縫わない。
母様の印を、すぐに布へ入れるかは決めていない。
でも、場所だけを考える。
空けておく。
それでいい。
私は子守歌を歌った。
森の葉っぱが眠るころ
小さな灯りも目を閉じる
風よ静かに通りゃんせ
夢の小道を通りゃんせ
歌い終え、少しだけ間を置く。
「おやすみなさい、母様」
昨日より、声は震えなかった。
返事はない。
でも、言えた。
「また明日」
青豆一号へ。
アオジロウへ。
ムラマルへ。
小さな手をさらに開いたモリタンへ。
村のみんなへ。
森で見つけた春告げ花へ。
母様の、まだ開かない手紙へ。
そして、母様の文字を胸に置いたまま、畑へ立てた私へ。
「また明日」
明日も、見ます。




