第52話 青の姫君、差出人の名だけを知る
翌朝。
私は、目を覚ました直後には手紙のことを考えなかった。
最初に聞こえたのは、屋根の上を走る小さな足音だった。
軽い。
速い。
何かが屋根の端まで駆け、そこで一度止まり、また反対側へ走っていく。
森栗鼠だろうか。
あるいは、まだ若い枝尾鼠かもしれない。
私は寝台の中で耳を澄ませた。
ととと、と小さな足音。
少し間を空けて、かさり、と屋根から葉が落ちる音。
鳥笛ではない。
知らない人間の足音でもない。
森の朝の音。
そう確認した後で、ようやく胸の隅に置かれていた封書のことを思い出した。
今日、村から返事が届く。
封を開けずに、差出人が分かるかどうか。
外側に名が書かれているのか。
誰の手から出されたものなのか。
それだけを、村長さんが確認してくれている。
中身は読まない。
封蝋も割らない。
私は、そう頼んだ。
それなのに、差出人の名を知るだけで、胸の奥が落ち着かない。
父様だろうか。
母様だろうか。
公爵家の家令だろうか。
あるいは、名前すら書かれていないのだろうか。
私は目を閉じた。
想像が、いくつも浮かぶ。
父様の名なら。
私は怒るのだろうか。
怖くなるのだろうか。
それとも、少しだけ安心するのだろうか。
母様の名なら。
読みたくなるのだろうか。
読みたくないと思うのだろうか。
病床に伏していた母様の姿が浮かび、胸が締めつけられるのだろうか。
家令の名なら。
少しだけ気持ちは軽くなるだろうか。
それとも、家の言葉を代わりに運んできただけだと感じるのだろうか。
分からない。
まだ何も分かっていないのに、心だけが先にいくつもの道を歩いている。
私は布団の中で、ゆっくり呼吸を数えた。
一つ。
吸う。
二つ。
吐く。
三つ。
ここは森の家。
四つ。
封書は村長さんのところ。
五つ。
今日は、差出人を知るだけ。
それ以上は決めなくていい。
私は目を開けた。
見慣れた天井。
昨日と同じ。
今日も、森の家で朝を迎えている。
「おはようございます」
小さく言う。
「今日は、差出人を知るかもしれません」
声に出すと、それが少し現実の大きさへ戻った。
かもしれない。
まだ分かるとは限らない。
外側に名前がなければ、今日も分からないままだ。
それでも、朝は始まる。
私は寝台を整え、顔を洗い、髪を梳いた。
空色の髪が、鏡の中で揺れる。
母様譲りの色。
そう思った瞬間、手が止まった。
昔、母様は私の髪をよく撫でた。
柔らかい布のようだと笑って。
青い宝石より綺麗だと言って。
髪を梳く使用人の手元を見ながら、今日はどんな飾りをつけましょうかと楽しそうに選んでくれた。
あの頃の母様。
まだ私を怖がっていなかった頃の母様。
あるいは、怖がっていても、それを私へ見せなかった頃の母様。
記憶は、どこから変わったのだろう。
騎士団長を倒した時か。
魔法師団長の防壁を一瞬で破った時か。
屋敷の訓練場を、上級魔法の余波で半壊させた時か。
父様と母様の口論が増えた頃か。
母様が寝台から起きられなくなった頃か。
私は鏡の中の自分を見た。
青い髪。
青い目。
青の姫君。
化け物。
フローラ先生。
森で薬草を学ぶ娘。
どれも私。
でも、どれか一つに閉じ込められたくはない。
私は花守り布を手に取り、三つの芽を撫でた。
アオジロウ。
ムラマル。
モリタン。
今日も畑を見る。
封書の差出人を知る日でも、芽は育つ。
私は布をかぶった。
「今日も、先に畑です」
鏡へ言う。
外へ出る。
森の朝は、少し風が強かった。
昨日作ったアオジロウの風よけが、低く畝の前に立っている。
完全に風を遮らず、強い流れだけを弱める木片。
アオジロウの葉は、その陰で小さく揺れていた。
倒れてはいない。
茎にも問題はない。
私はまず青豆一号を見る。
新葉は良好。
葉の裏にも虫はいない。
次に、アオジロウ。
風を受けながら、しっかり立っている。
ムラマル。
昨日より、ほんの少しだけ葉が開いている。
そしてモリタン。
昨日まで分かれかけていた葉が、今朝は明らかに二つへ開き始めていた。
まだ重なっている。
完全には広がっていない。
けれど、もうただの芽先ではない。
「……葉ですね」
私はしゃがみ込んだ。
モリタンの小さな葉。
最後に出た芽。
長く土の中にいた芽。
その芽が、今は風を受け、葉を開こうとしている。
「おはようございます、モリタン」
胸が温かくなる。
「葉になりましたね」
アオジロウやムラマルほど大きくはない。
でも、比べる必要はない。
モリタンの時間。
モリタンの形。
私は記録板を開いた。
青豆一号、古い葉離脱後十日目。
新葉良好。虫害なし。
アオジロウ、風よけ有効。茎安定。
ムラマル、葉の展開始まる。
モリタン、初葉の開き確認。二葉、未完全だが分岐明確。
三芽、状態良好。
観察者、本日、封書の差出人を知る可能性あり。
観察者、先に畑を見られた。
最後の一文を書いて、私は少し笑った。
先に畑を見られた。
昨日は、目を覚ますより先に手紙を考えた。
今日も手紙は胸にある。
でも、畑を見られた。
モリタンの葉を見つけた。
記録できた。
手紙だけの朝ではない。
それが嬉しかった。
私は畝の土の湿りを確認した。
水やりは不要。
風があるため、表面は乾いて見えるが、少し下には十分な湿りがある。
指を入れすぎない。
表面だけで決めつけない。
「外側だけでは、全部は分からないですね」
呟いてから、少し胸が痛んだ。
封書も同じ。
外側から差出人は分かるかもしれない。
でも、中身までは分からない。
名を知っただけで、書かれた言葉を決めつけてはいけない。
父様の名だから命令だとは限らない。
母様の名だから優しい言葉だとも限らない。
外側だけでは、全部は分からない。
けれど、外側を確認することには意味がある。
土の表面を見るように。
風の向きを見るように。
今の自分に耐えられる範囲で。
私は立ち上がった。
朝食を作る。
昨日は、封書を向かいの席に座らせたような気持ちで食べた。
今日はどうなるだろう。
鍋へ水を入れる。
今日は粥にする。
細かく切った芋と穀物。
少量の乾燥肉。
薬草をほんの少し。
刺激が強くならないように。
差出人を知った後、食べられなくなるかもしれない。
そんな考えが浮かぶ。
私は手を止めた。
知る前から、食べられない未来を決めつけている。
「まだ分かりません」
声に出す。
「知っても、食べられるかもしれません」
鍋をかき混ぜる。
湯気が立つ。
穀物が柔らかくなる。
芋が崩れ始める。
味を見る。
今日は薄め。
昨日のスープは少し塩が強かった。
その記録を生かす。
手紙のことを考えても、前日の味は覚えている。
私は椀へ粥をよそった。
机へ置く。
湯気。
木の匙。
窓から入る朝の光。
今日は、向かいの椅子に封書が座っている感じはしなかった。
代わりに、まだ顔の見えない差出人が、扉の外に立っているような気がした。
父様か。
母様か。
誰なのか。
私は匙を持った。
「まだ入ってこなくていいです」
小さく言った。
「名前だけ、あとで聞きます」
粥を一口食べる。
柔らかい。
塩気は弱い。
芋の甘さが分かる。
二口。
三口。
食べられる。
差出人を知る前の朝食。
私は最後まで食べた。
椀を空にする。
「食べられました」
確認するように言う。
昨日と同じ。
でも今日は、少し違う。
手紙と一緒に食べたのではない。
差出人を待ちながら食べた。
それでも、食べられた。
片づけを始めた頃、結界に気配が触れた。
リオ。
ミナ。
ガルドさん。
胸が強く鳴る。
今日の返事。
村長さんからの返事。
私は椀を洗う手を止めた。
すぐ玄関へ走りたくなる。
でも、走らない。
水を切る。
椀を置く。
布で手を拭く。
呼吸を数える。
一つ。
吸う。
二つ。
吐く。
三つ。
扉へ向かう。
戸を開ける。
「おはようございます」
リオが手を上げた。
「おはよう」
ミナが私の顔を見つめる。
ガルドさんは、いつも通り周囲を一度確認した。
三人とも、すぐには手紙の話をしなかった。
それがありがたくもあり、怖くもあった。
もしかしたら、差出人が分からなかったのかもしれない。
あるいは。
分かったから、言いにくいのかもしれない。
リオが口を開く。
「朝飯は?」
「食べました」
「芋?」
「今日は粥です。芋も入れました」
「いいな」
いつもの会話。
でも、リオの目が少しだけ落ち着かない。
ミナは静かに聞く。
「眠れましたか?」
「はい」
「畑は?」
「三人とも無事です。モリタンの葉が開き始めました」
リオの顔が明るくなる。
「本当か」
「はい」
「見たい」
「どうぞ」
私は三人を畑へ案内した。
今すぐ差出人を聞かない。
逃げているのか。
違う。
先に畑を見る。
いつもの順番を守る。
リオはモリタンの葉を見つけ、しゃがみ込んだ。
「本当だ。二つになってる」
「完全には開いていませんが」
「でも葉だな」
「はい」
ミナも微笑む。
「モリタン、おめでとう」
その言葉に、胸が温かくなる。
ガルドさんは少し離れたところから畝を見た。
「順調ですね」
「はい」
私は花守り布のモリタンの刺繍に触れた。
村へ伝えたい。
リーナに、葉の形が変わったことを。
サムに、記録を。
エマに、歌の続きを。
ニコとルルとトトに。
その想像で、胸の緊張が少し和らいだ。
でも、なくなりはしない。
私は畝の前に立ったまま、ガルドさんを見た。
「村長さんからの返事は、ありますか」
自分から聞けた。
声は少し震えた。
でも、聞けた。
ガルドさんは頷いた。
「あります」
リオとミナが静かになる。
森の風が、葉を揺らす。
アオジロウ。
ムラマル。
モリタン。
三つの葉の音。
私は胸に手を当てた。
「差出人は、分かりましたか」
「はい」
短い答え。
胸が強く鳴る。
私は呼吸を数えた。
一つ。
吸う。
二つ。
吐く。
「教えてください」
ガルドさんは、すぐには言わなかった。
私の顔を見た。
今、本当に聞くか。
言葉にはしないが、目で確認している。
私は頷いた。
「お願いします」
ガルドさんは静かに言った。
「封書の表には、スプリング公爵夫人より、と記されています」
音が消えた。
森の風も。
鳥の声も。
葉擦れも。
一瞬、すべてが遠くなった。
母様。
胸の中で、その呼び名だけが響いた。
スプリング公爵夫人。
母様。
私の髪と同じ空色の髪を持つ人。
幼い私を抱き、青の姫君と笑った人。
私の才能を誇らしげに語った人。
やがて寝台から起きられなくなった人。
私を恐れていたのか。
案じていたのか。
憎んでいたのか。
今も愛しているのか。
何も分からない人。
私の母様。
膝から力が抜けそうになった。
でも、私は倒れなかった。
リオが一歩近づきかけ、止まる。
ミナが手を伸ばしかけ、私の前で止める。
触れていいか。
目で聞いている。
私は自分から、ミナの手を握った。
温かい。
現実の手。
「母様……」
声が掠れた。
ガルドさんは頷く。
「はい」
「外側には、それだけですか」
「公爵夫人の私的な封印であることを示す、小さな副印もあるそうです」
「私的な」
「公爵家の公文書ではありません。少なくとも、表の形式上は」
胸が大きく揺れる。
帰還命令ではないのかもしれない。
公爵家としての命令ではない。
母様個人からの手紙。
そう思うと、読みたい気持ちが一瞬だけ強く湧いた。
母様は何を書いたの。
今、どこにいるの。
まだ寝台の上なの。
元気なの。
私を覚えているの。
私を怖がっているの。
謝りたいの。
帰ってきてほしいの。
それとも。
私を責めるの。
あの日、父様と喧嘩したことを。
家が壊れたことを。
母様が病んだことを。
全部、私のせいだと。
読みたい。
読みたくない。
二つの気持ちが、同時に胸の中で立ち上がった。
息が浅くなる。
私はミナの手を握りながら、数える。
一つ。
母様から。
二つ。
私的な手紙。
三つ。
まだ中身は分からない。
四つ。
今、読むと決めなくていい。
五つ。
畑には三つの芽がある。
私はゆっくり息を吐いた。
「……母様から」
「はい」
ガルドさんが答える。
リオは苦しそうな顔をしていた。
何か言いたい。
でも、言わない。
私の言葉を待っている。
ミナも待っている。
沈黙。
風が戻ってくる。
葉が揺れる。
モリタンの小さな葉も、かすかに震える。
「読みたいです」
自分の口から出た言葉に、私自身が驚いた。
リオの目が大きくなる。
ミナの手が少し強くなる。
私は続けた。
「でも、怖いです」
声が震える。
「今すぐ全部を読むのは、怖いです」
ガルドさんは静かに頷いた。
「はい」
「母様からだと分かったら……知りたいです。何を書いたのか。でも、知ったら戻れない気もします」
「戻れない?」
ミナが優しく聞く。
私は花守り布を握った。
「今の私の中では、母様は、昔の笑っている母様と、寝台で窶れていた母様と、私を見なくなった母様のままです」
言葉が途切れる。
「手紙を読んだら、その母様が変わります」
「はい」
「優しい言葉なら、会いたくなるかもしれません」
胸が痛む。
「責める言葉なら、もう二度と母様を思い出せなくなるかもしれません」
涙が目の奥にたまる。
「だから、怖いです」
ミナが言った。
「変わることが」
「はい」
「今の記憶のままではいられなくなることが」
「はい」
リオが低く言った。
「読まなくても、母親から来たって分かった時点で、もう少し変わったんじゃないか」
私は彼を見る。
リオは慎重に言葉を選んでいた。
「悪い意味じゃない。もう、ただの公爵家の手紙じゃないって分かった」
「はい」
「だから、今すぐ決めなくても、前と同じには戻らないと思う」
鋭い言葉だった。
でも、痛いだけではない。
真実に近い。
差出人を知った。
母様からだと分かった。
もう、昨日までの「誰からか分からない封書」ではない。
開かなくても、少し変わってしまった。
私は目を閉じた。
「そうですね」
涙が一滴、頬を伝う。
「もう、少し変わりました」
リオは申し訳なさそうに目を伏せた。
「ごめん」
「いいえ」
私は首を横に振った。
「言ってくれて、ありがとうございます」
ガルドさんが静かに言う。
「村長から、もう一つ提案があります」
「提案」
「封書を開かず、外側だけをフローラ殿自身が見ることもできます」
私は目を瞬いた。
「外側だけ」
「はい。差出人の文字。封蝋。副印。それだけを確認し、開かずにまた預ける」
胸の中に、また新しい道ができる。
昨日書いた選択肢。
一、自分で読む。
二、まだ読まない。
三、誰かに先に読んでもらう。
四、差出人だけ知る。
五、急ぎかどうかだけ知る。
そこにもう一つ。
六、封書の外側だけ、自分の目で見る。
読むわけではない。
でも、母様の手から出た印を自分で見る。
怖い。
でも、できるかもしれない。
「村へ行けば、見られますか」
「はい」
「今日でも?」
リオとミナが私を見る。
ガルドさんは慎重に答えた。
「行くことは可能です。ただし、公爵家側が村を見ている可能性は残ります。安全を確認した上で、短い滞在になります」
私は畑を見る。
三つの芽。
今日は、モリタンの葉が開き始めた。
村へ伝えたい。
母様の封書の外側も見たい。
怖い。
でも、昨日より一歩だけ近づきたい。
「行きたいです」
自分の声が、思ったよりはっきりしていた。
「封書を開けるかは決めません。でも、外側を見たいです」
ミナが頷く。
「分かりました」
リオも。
「一緒に行く」
ガルドさんは周囲を見た後、静かに頷いた。
「では、村へ連絡します。今日は通常より遅い時間に入りましょう」
「はい」
私はミナの手を離した。
手のひらに温かさが残っている。
差出人を知った。
母様。
胸はまだ苦しい。
でも、立っていられる。
畑の前に立っている。
日常の中で聞けた。
それが大事だった。
村へ行くまで、少し時間があった。
私は三人に朝食を出した。
残っていた粥を温める。
リオが椀を覗く。
「芋ある」
いつもの言葉。
私は少し笑った。
「あります」
ミナは私の顔を見ながら言う。
「食べられそうですか?」
「私は先ほど食べました」
「今、少し何か口にできますか」
差出人を知った後。
食べられるか。
私は自分の体へ聞いた。
胃は固くなっている。
でも、完全に拒んではいない。
「少しなら」
私は小さな椀へ、粥を少量よそった。
四人で机を囲む。
母様からの封書。
その事実も、机の中にある。
でも、今日は向かいの席に座っているのではない。
私の隣へ、少し離れて座っているような感覚だった。
私は匙を持った。
一口。
味がする。
薄い塩気。
芋。
穀物。
二口。
胸が少し痛い。
三口。
飲み込める。
リオは何も言わず、自分の粥を食べている。
ミナも急かさない。
ガルドさんも、普段通りに食べる。
誰も「食べなさい」と言わない。
私が一口ずつ進めるのを待ってくれている。
私は小さな椀を空にした。
「食べられました」
呟く。
ミナが微笑んだ。
「はい」
リオも頷く。
「食べられた」
それだけ。
でも、胸が少し温かくなった。
母様からの手紙だと知っても、食べられた。
日常は壊れなかった。
痛い。
怖い。
でも、粥を食べられた。
村へ向かう準備をする。
今日は、森の西側から大きく回り込む。
公爵家の使いが以前確認した北と南を避ける。
花守り布を整える。
薬草籠には、本当に村へ持っていく薬草を入れる。
モリタンの葉の記録。
新しい札の写し。
リオは少し後ろ。
ミナは横。
ガルドさんが先。
外縁には村の若者が二人。
私は家を出る前に、第二の畝へ声をかけた。
「村へ行ってきます」
アオジロウ。
ムラマル。
モリタン。
「母様からの手紙の外側を、見てきます」
言葉にすると、胸が震えた。
「開けるかは、まだ決めません」
風が葉を揺らす。
「戻ってきます」
私は立ち上がった。
村への道。
足元を見る。
一歩。
二歩。
三歩。
母様。
四歩。
封書。
五歩。
外側だけ。
六歩。
村長さん。
七歩。
戻る。
数えながら歩く。
森の音。
鳥。
風。
リオの足音。
ミナの衣擦れ。
ガルドさんの合図。
知らない足音はない。
村の西側へ近づくと、薪割りの音が聞こえた。
一定の間隔。
村の人の仕事。
パンの匂いも、風に乗ってくる。
村の日常。
入口ではなく、裏手の小道から入る。
村長さんが待っていた。
私を見ると、何も聞かず、ただ頷いた。
「来たね」
「はい」
「封書を見るかい」
私は花守り布を握った。
「はい。外側だけ」
「分かった」
村長宅へ入る。
子供たちは、今日は少し離れた広場で大人と一緒に待っている。
私が封書を見ることは、詳しくは伝えていないらしい。
それでよかった。
今は、静かな場所が必要だ。
村長宅の奥。
以前一晩過ごした小さな部屋ではなく、村長さんの仕事部屋。
木の机。
村の地図。
記録簿。
棚。
窓は内側の庭へ向いている。
リオ、ミナ、ガルドさん、村長さん。
私。
五人。
村長さんが机の引き出しを開けた。
布に包まれたものを取り出す。
胸が強く鳴る。
布を解く。
深い青の封蝋。
白に近い淡青色の封筒。
スプリング公爵家の紋章。
そして、その下。
細く、少し右上がりの文字。
フローラへ。
その字を見た瞬間。
私は息を止めた。
母様の字だった。
幼い頃、誕生日の贈り物へ添えられていたカード。
学習を終えた私を褒める短い言葉。
花の名前を教えてくれた時の手帳。
何度も見た字。
少し細く。
美しく。
でも、昔より震えている。
フローラへ。
公爵令嬢へ、ではない。
娘へ、とも書かれていない。
ただ。
フローラへ。
私は机の前で動けなくなった。
目の奥が熱い。
指先が冷たい。
村長さんは封書を私へ押しつけない。
机の上へ置いたまま。
少し離れた位置で待っている。
リオも、ミナも、ガルドさんも何も言わない。
沈黙。
でも、私を見張る沈黙ではない。
私の次の動きを待つ沈黙。
私は一歩、机へ近づいた。
封書へ手を伸ばす。
途中で止まる。
触れたら、開けたくなるかもしれない。
触れたら、母様の手に触れたように感じるかもしれない。
触れたら、怖さが大きくなるかもしれない。
私は手を引いた。
呼吸を数える。
一つ。
フローラへ。
二つ。
母様の字。
三つ。
封はまだ閉じている。
四つ。
私は開けなくていい。
五つ。
見るだけと決めた。
私は、もう一度手を伸ばした。
今度は、封筒の端へ指先だけ触れた。
紙は冷たい。
厚い。
上質な紙。
公爵家でよく使われていたもの。
でも、少しだけ皺がある。
誰かが強く握ったのだろうか。
母様だろうか。
それとも運んだ者か。
分からない。
副印を見る。
小さな春花の印。
母様が私的な手紙に使っていたもの。
幼い頃、私はこの花の印が好きだった。
春の最初に咲く、小さな青い花。
スプリング公爵家の正式な大樹の紋章とは違う。
母様だけの印。
記憶が戻る。
『これは、お母様だけの秘密の花よ』
母様の声。
『フローラへのお手紙には、いつもこれを押しましょうね』
胸が痛い。
息が詰まる。
でも、私は封書から目を逸らさなかった。
「本当に、母様です」
声が震えた。
「はい」
村長さんが答える。
「私的な手紙に見える」
「昔、同じ印を……」
そこまで言って、声が途切れた。
ミナが手を近づける。
私は頷き、その手を握った。
「開けますか」
村長さんは、静かに聞いた。
急かす声ではない。
選択を確認する声。
私は封書を見る。
フローラへ。
母様の字。
青い花の印。
読みたい。
とても。
知りたい。
母様が、今の私へ何を言うのか。
でも、胸が苦しい。
ここで封を割れば、もう戻れない。
中の言葉を知らなかった私には戻れない。
私は長く息を吐いた。
「今日は、開けません」
自分で言えた。
涙が頬を伝う。
「見られました。母様の字だと分かりました。それで、今日は十分です」
村長さんはすぐに頷いた。
「分かった」
リオも、何も言わず頷く。
ミナの手が温かい。
ガルドさんは静かに目を伏せた。
私は封書から指を離した。
少し寂しい。
少し安心した。
読みたい気持ちは消えていない。
むしろ、前より強くなった。
でも、今日は外側だけ。
それを守れた。
「また、預かっていただけますか」
「もちろんだ」
村長さんは封書を布へ戻す。
包む。
引き出しへ入れる。
音がする。
かたり。
封書が見えなくなる。
胸の中には残っている。
でも、今はもう机の上にない。
私は目を閉じた。
「ありがとうございます」
「礼はいらん」
村長さんは低く言った。
「君の手紙だ。君の速さで読めばいい」
君の速さ。
モリタンの時間。
私の時間。
私は頷いた。
「はい」
部屋を出ると、廊下の向こうから子供たちの声が聞こえた。
エマの声。
少し抑えているが、やはり分かりやすい。
「フローラ先生、来たの?」
胸が少し軽くなる。
母様の字を見た直後。
でも、エマの声がある。
私は広場へ向かった。
子供たちは大人の近くで待っていた。
私を見ると、エマが顔を明るくする。
「三人、元気?」
最初に聞くのは、やはり畑のこと。
私は頷いた。
「はい。三人とも元気です」
「モリタンは?」
「葉が開き始めました」
小さな歓声。
ニコが笑う。
ルルが胸に手を当てる。
トトが「最後に出たやつはやっぱりすごい」と言う。
サムが記録を始める。
リーナが深い緑の糸を取り出す。
村の日常が、私を迎える。
母様の手紙を見た。
泣いた。
でも、今はモリタンの葉を説明している。
どちらも本当。
私は木板に、葉の形を描いた。
完全には開いていない二つの葉。
エマが言う。
「モリタン、手を開いてるみたい」
「手?」
「ずっと握ってた手を、こうやって」
エマが両手を固く握り、ゆっくり開く。
小さな掌。
「おはようって」
胸が熱くなる。
「そう見えますね」
私は微笑んだ。
リーナが糸を選ぶ。
「濃い緑、使っていい?」
「はい。今日は、はっきり緑が見えました」
リーナは嬉しそうに頷いた。
「要観察、終わり?」
「緑については、確認できました」
サムが書く。
モリタン、緑確認。
要観察一部終了。
「一部?」
トトが聞く。
「成長はずっと要観察です」
「じゃあ俺もずっと要観察?」
ルルが頷く。
「うん」
村の大人たちが笑う。
私も笑った。
涙の跡が頬に残っているかもしれない。
でも、笑えた。
午後は長く滞在しない。
公爵家側の監視の可能性があるため、今日は封書を見て、畑の報告をして、すぐ戻る。
帰る前に、サムから記録の写しを受け取った。
モリタン、初葉。
フローラ先生、森から村へ。
封書の外側を確認。
内容は未確認。
本人の速さで。
私は驚いてサムを見る。
「誰から聞いたのですか」
「村長さん」
サムは真面目だった。
「書いてよかった?」
その問いに、私は少し考えた。
封書のことを村記録へ残す。
怖い。
でも、「内容は未確認」「本人の速さで」と書かれている。
私の意思も一緒に残る。
「はい」
私は頷いた。
「書いてください」
サムはほっとしたように頷いた。
自分の記録なのに、私へ聞いてくれた。
勝手に書かない。
記録にも距離がある。
守りがある。
私は胸が温かくなった。
村を出る前、村長さんへもう一度頭を下げた。
「封書を、お願いします」
「預かっておく」
「次に見る時は……」
言葉が止まる。
村長さんは待つ。
「次は、封を開けずに、裏側も見たいです」
自分でも驚いた。
また一歩。
今日は表。
次は裏。
封蝋の状態。
母様が何か外側へ書いているか。
それだけ。
「分かった」
村長さんは頷いた。
「いつでもいい」
「はい」
読むとは決めていない。
でも、手紙へ少しずつ近づいている。
怖い。
でも、私の歩幅で。
森の家へ戻る道。
今日は、行きより少し胸が重い。
母様の字が頭から離れない。
フローラへ。
右上がりの細い文字。
少し震えていた。
母様の手も震えていたのだろうか。
病気で。
年齢で。
怖さで。
泣きながら。
分からない。
決めつけない。
私は足元を見る。
一歩。
二歩。
三歩。
ミナの手は、今は握っていない。
でも横にいる。
リオは少し後ろ。
ガルドさんが先。
全員の足音。
森の音。
現実へ戻る。
結界へ着く。
異常なし。
家。
異常なし。
畑。
無事。
私は第二の畝の前にしゃがんだ。
「ただいま」
三つの芽へ言う。
「今日は、母様の手紙を見ました」
声が震える。
「開けませんでした」
モリタンの葉が風に揺れる。
「でも、母様の字でした」
涙が一滴、土へ落ちそうになり、私は顔を上げた。
「フローラへ、と書いてありました」
リオたちは少し離れて待っている。
誰も口を挟まない。
「昔と同じ花の印がありました」
胸が痛い。
でも、言える。
「怖かったです」
息を吸う。
「でも、見られました」
私は花守り布の三つの芽を握った。
「今日は、それで十分です」
夕方、リオたちが村へ戻った後。
私は一人で家の中にいた。
母様の字が、何度も浮かぶ。
フローラへ。
中身は知らない。
でも、あの二文字ではなく、四文字。
私の名前。
呼び捨てでもない。
肩書もない。
ただ、私へ。
私は机へ向かい、日記帳を開いた。
今日、封書の差出人を知った。
母様からだった。
スプリング公爵夫人より、と外側に書かれていた。
私的な青い花の印があった。
昔、母様が私への手紙に使っていた印。
村へ行き、封書の表だけを見た。
母様の字で「フローラへ」と書いてあった。
少し震えた字だった。
私は封書に触れた。
でも、開けなかった。
読みたいと思った。
怖いと思った。
どちらも本当だった。
私はペンを止めた。
涙が日記帳へ落ちないよう、少し顔を上げる。
母様。
その言葉を、長い間、日記に書かなかった。
父様。
母様。
公爵家。
書けば、森の暮らしへ入ってきそうだった。
でも、今日は書いた。
母様からの手紙。
それはもう、なかったことにはできない。
でも、今すぐ全部を受け入れる必要もない。
私は最後に書いた。
今日は、差出人の名を知った。
母様だった。
封書の表を見た。
母様の字を見た。
でも、開けなかった。
見ることと、読むことは違う。
近づくことと、全部受け入れることも違う。
私は今日、自分の歩幅で一歩だけ近づいた。
明日は、また日常を生きる。
日記帳を閉じる。
外は暗くなり始めている。
私は畑へ出た。
三つの新しい札が、夕方の影を作っている。
アオジロウ。
ムラマル。
モリタン。
モリタンの葉は、朝より少しだけ開いていた。
エマの言葉を思い出す。
握っていた手を開いて。
おはよう。
私は自分の手を見る。
まだ、少し握っている。
母様の手紙を怖がって。
過去を守ろうとして。
でも、今日、ほんの少しだけ指を開いた。
差出人を知った。
字を見た。
印を見た。
それだけ。
私は手のひらを、ゆっくり開いた。
「今日は、ここまでです」
畑へ言う。
森へ言う。
自分へ言う。
夜。
暖炉の前で、子守歌を歌った。
森の葉っぱが眠るころ
小さな灯りも目を閉じる
風よ静かに通りゃんせ
夢の小道を通りゃんせ
歌い終える。
今日は、その後にもう一つ言葉を足した。
「おやすみなさい、母様」
言った瞬間、胸が強く痛んだ。
でも、取り消さなかった。
母様はここにはいない。
手紙も村にある。
それでも、今日だけ。
名前を呼ぶ。
「また明日」
青豆一号へ。
アオジロウへ。
ムラマルへ。
小さな手を開き始めたモリタンへ。
村のみんなへ。
母様からの、まだ開かない封書へ。
そして、母様の字を見ても森の家へ帰ってこられた私へ。
「また明日」
明日も、見ます。




